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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

『東京裁判』              平成24年6月17日 作成 五月女


T.東京裁判とは

 


  正式の名を極東国際軍事裁判と言い、大東亜戦争(「太平洋戦争」は連合国側による呼称)終結後、連合国総司令部(GHQ)最高責任者マッカーサーの命令により、1946(昭和21)年4月から1948(昭和23)年12月まで行われた裁判。裁判は、東京の市ヶ谷旧陸軍士官学校大講堂において行われ、A級戦犯として政界・官界・軍部要人28名を起訴し、免訴となった3人(裁判中2人死亡、1人精神異常)を除き、25名全員を有罪とした。この裁判の根拠は、戦争犯罪人の処罰を規定したポツダム宣言第10条「…吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ…」(付属資料「3.ポツダム宣言口語訳」参照)に求められる。GHQはこれに基づき、ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にならって、昭和21年11月19日「極東国際軍事裁判所条例」を制定した。裁判を構成する判事と検事は連合国11カ国から、それぞれ1名づつ派遣された。弁護については、日本人弁護人と英米法に精通している弁護人が必要であるとの理由から、アメリカ人弁護人が当たることになった。
 裁判は、昭和21年4月29日(昭和天皇誕生日)から約2年半にわたって開かれ、昭和23年11月に判決が出され、12月23日(当時の皇太子誕生日)に絞首刑が執行された。起訴状は3つの類と55項目にわたる訴因から成る。実際の判決において有罪とされた訴因は、そのうちの10訴因で、他の45訴因は10訴因の中に含まれるとされた。

※GHQは戦争犯罪をA級・B級・C級の3つに分類した。罪の重さをランク付けしたものではなく、A級は戦争を遂行した国家指導者、B級は戦場で命令する立場にいた指揮官、C級はその命令を実行した兵隊である。B級とC級との区別は明確でなく、BC級と一括して呼ばれた。

第1類 平和に対する罪(訴因第1〜第36)
  侵略戦争あるいは国際条約・協定・誓約に違反する戦争の計画、準備、開始あるいは遂行、または、これらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画、あるいは共同謀議への関与。つまり被告たちが共同謀議して侵略戦争を計画し、開始し、そして実行したという内容であるが、この「平和に対する罪」というのは、ニュルンベルグ裁判で新しく設けられた罪名で、当時の国際法上の罪名ではなく、事後法(=事が起きた後に作られる法で、近代法では禁じられている)ではないかとして、検事側と弁護側との間に激しい法的論争が展開された。
訴因1   昭和3年1月1日〜昭和20年9月2日の間における大東亜全域に対する全般的な戦争に関する共同謀議
訴因27  昭和6年9月18日〜昭和20年9月2日の間における中華民国に対する満州事変以後の戦争の遂行
訴因29  昭和16年12月7日〜昭和20年9月2日の間における米国に対する大東亜戦争の遂行
訴因31  全英連邦に対する大東亜戦争の遂行
訴因32  和蘭王国に対する大東亜戦争の遂行
訴因33  昭和15年9月22日以後北部仏印進駐による仏に 対する戦争の遂行
訴因35  昭和13年夏、張鼓峰事件によるソ連邦に対する戦争の遂行
訴因36  昭和14年夏、ノモンハン事件による蒙古人民共和国及びソ連邦に対する戦争の遂行

第2類 殺人の罪(訴因第37〜第52)
    宣戦を布告しないでなされた敵対行為は戦争ではない。したがってその戦闘で行われた殺傷は殺人罪に問われるというもの。

第3類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因第53〜第55)
 ●通例の戦争犯罪
     戦争の法規または慣例の違反。この違反は、占領地所属あるいは占領地内の一般人民の
     殺害、虐待、奴隷労働、その他の目的のための移送、捕虜または海上における人民の殺
     害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊、または軍
     事的必要により正    当化されない荒廃化を含む。
 ●人道に対する罪
    戦争前あるいは戦争中にすべての一般人民に対して行われた殺害、殲滅、奴隷化、移送お
    よびその他の非人道的行為、または犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、裁判所
    の管轄に属する犯罪の遂行として、あるいはこれに関連して行われた政治的、人種的また
    は宗教的理由に基づく迫害行為。

  「人道に対する罪」も、同じくニュルンベルグ裁判で新しく設けられた罪名だが、当時やはり
  国際法上の罪名ではないとする意見が出された。そのためニュルンベルグ裁判所条例は、「平
  和に対する罪」または「通例の戦争犯罪」または、これらと関連した行為がなされた場合に限
  り、人道に反する行為を「人道に対する罪」として適用すると規定した。しかし前述したよう
  に「平和に対する罪」は国際法上の罪名ではない。また「通例の戦争犯罪」の中における人道
  に対する罪に該当する行為は「通例の戦争犯罪」そのものとして十分に確立されているので、
  あえて別個に「人道に対する罪」を設ける理由はなくなる。

訴因54  昭和16年12月7日〜昭和20年9月2日の間、米、英、仏、蘭、比、中、ポルト
      ガル及びソ連邦の軍隊ならびに捕虜及び一般人に対する違反行為の命令・授権・許可
      による戦争法規違反。中華民国については昭和6年9月18日以降。
訴因55  昭和16年12月7日〜昭和20年9月2日の間、米、英、仏、蘭、比、中、ポルト
      ガル及びソ連邦の軍隊ならびに捕虜及び一般人に対する条約・保証遵守の責任無視に
      よる戦争法規違反。中華民国については昭和6年9月18日以降。

●判事  米代表  J・ヒギンズ 後にクレーマー
     英代表  ロード・パトリック
     ソ代表  I・M・ザリヤノフ
     豪代表  ウィリアム・F・ウェッブ
     加代表  E・スチュワート・マクレーガル
     中代表  梅汝コウ
     仏代表  アンリ・ベルナール
     蘭代表  バーナード・W・レーリンク
     ニ代表  エリマ・H・ノースクロフト
     比代表  ハラニーヨ
     印代表  ラダ・ビノード・パール

●原告側 首席検察官   ジョセフ・B・キーナン(米)
     アメリカ代表  フランク・タベナー
     中華民国代表  向哲ジュン
     イギリス代表  A・S・コミンズ・カー
     ソビエト代表  S・A・ゴルンスキー
     豪代表     A・J・マンスフィールド
     加代表     H・G・ノーラン
     仏代表     ロベル・レ・オネト
     蘭代表     W・G・F・マルデル
     ニ代表     R・H・ウィリアム
     印代表     ゴビンダ・メノン
     同代理     A・S・コミンズ・カー
     比代表     ペドロ・ロペス

●被告側 荒木 貞夫   陸軍大将
     板垣 征四朗  陸軍大将
     梅津 美治郎  陸軍大将
     大川 周明   学者(裁判中、精神異常のため除外)
     大島 浩    駐独大使
     岡  敬純   海軍省軍務局長
     賀屋 興宣   近衛・東條内閣蔵相
     木戸 幸一   内大臣
     木村 兵太郎  ビルマ方面軍司令官
     永野 修身   軍令部総長(裁判中死亡)
     橋本 欣五郎  満州軍特務機関長
     畑  俊六   支那派遣軍総司令官
     平沼 騏一郎  首相
     廣田 弘毅   近衛内閣外相
     星野 直樹   内閣書記官長
     松井 石根   中支那方面軍司令官
     松岡 洋右   第2次近衛内閣外相(裁判中死亡)
     南  治郎   朝鮮総督
     武藤 章    第14方面軍参謀長
     小磯 国昭   首相
     佐藤 賢了   陸軍省軍務局長
     重光 葵    外相
     嶋田 繁太郎  海相
     白鳥 敏夫   駐伊大使
     鈴木 貞一   企画院総裁
     東郷 茂徳   外相  
     東條 英機   首相
     土肥原 賢二  奉天特務機関長

U.東京裁判の実態と影響
  裁判は著しく公平・公正に欠けたものであった。その主な理由は
  @原告は当然連合国だが、判事も全員連合国だった。
  A当時なかった法律を新しく作り、それを無理に適用して裁いた。
  B連合国の戦争犯罪は裁かれなかった。
  裁判の欺瞞性については当初から問題となり、日本側弁護団も法廷で反論したが、裁判は有無を言わさず強引に成立させられてしまった。判事団の中のインド代表ラダ・ビノード・パールは、判事団の中で唯一国際法専門家であり、裁判が終わった後、自ら意見書をまとめた。東京裁判批判は占領中の禁止事項であったため同書は始め出版されなかったが、1952(昭和27)年、日本が独立を回復した直後に翻訳・出版され、ベストセラーとなった。その意見書の中で彼は「この裁判は国際法に違反するのみか罪刑法定主義をも踏みにじっている、連合国こそアジア植民地支配や原爆による大量殺人の罪を負っているのに日本一人だけに戦争犯罪の汚名を着せようとしている、勝者が敗者を裁いた復讐の儀式に過ぎない、だから全員無罪だ」と主張した。東京裁判が終結して数年後、マッカーサーも「東京裁判は誤りであった」「日本が第二次大戦におもむいた目的はそのほとんどがsecurity(=安全保障)のためであった」と言って、東京裁判や日本の侵略戦争説を否定している。
 しかし、この裁判の結果が戦後日本に与えた影響は極めて大きかった。パール判事も裁判終結後来日した折に講演の中で「日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されていくのを私は平然と見過ごす訳にはいかない」と述べた。日本はこの裁判によって戦争犯罪国家の烙印を押され、いわゆる「東京裁判史観」が戦後世代に受け継がれ今でも根強く残っている。

V.弁護側からの反論
  裁判中に弁護側から出された反論の内、特に重要だと思われる「管轄権問題」すなわち「その法廷が被告を裁く法的権限・資格があるか否かを問う問題」を、当時の言葉を出来るだけ引用しながら再現してみる。

清瀬弁護人
  「当裁判所においては『平和に対する罪』『人道に対する罪』について裁く権限はない。言うまでもなく、当裁判所は連合国が昭和20年7月26日ポツダムにおいて発した降伏勧告の宣言の中の、第10条に述べられている『…吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処分を加えらるべし…』という条項が根源である。一方、第5条には『吾ら連合国の条件は、左の如し…吾らは右条件より離脱することなかるべし、右に変わる条件存立せず』と明記してあり、第6条から第13条までその条件が列記されている。それゆえにポツダム宣言の条項は我が国を拘束するのみならず、ある意味においては連合国も、またその拘束を受けるものであって、この裁判所はポツダム宣言第10条において戦争犯罪人と称する者に対する起訴を受けることは出来るが、同条項で戦争犯罪人と称していない者の裁判をなす権限はない。
 本法廷の裁判所条例においては『平和に対する罪』『人道に対する罪』という文言があるが、その当時まで世界各国において知られていた戦争犯罪の意味は、戦争の法規、慣例を犯した罪という意味である。その実例として
1.交戦者の戦争法規違反
2.非交戦者の戦争行為
3.略奪
4.間諜(=スパイ行為)および戦時反逆
 この四つが戦争犯罪の典型的なものだ。しかし戦争自体を計画する事、準備する事、始める事、および戦争それ自体を罪とするという事は、昭和20年7月当時の文明国共通の観念にはなっていない。」
 つまり清瀬は、「ポツダム宣言では、『戦争犯罪人』を裁くと言い、われわれもそれを承諾した。しかるに戦争が終わって裁判所が設けられると、国際法が定めた『戦争犯罪人』ではなくて、戦争法規にも慣例にもない、いまだかつて聞いた事もない『平和に対する罪』『人道に対する罪』などと言う、全く新しい法概念を持ち出して、それに当てはめて被告を裁こうとしている。これは違法ではないか。ポツダム宣言は条約である。連合国といえども、これを遵守する義務がある。敗戦の弱みに付け入って、戦争犯罪人でもない者を新しい法規まで作って裁くとは何事か、それは法の原則である事後法の禁止を犯す事になりはしないか。これは本裁判所の管轄権外である。連合国から委任されたマッカーサー司令官がこのような裁判所条例を制定して、これで裁けというのは越権行為ではないか」という事を述べた。
 これに対して、当然のことながら検事側から激しい反発があった。しかしそれは、感情論や戦勝者の敗戦者に対する威圧的言論に過ぎなかった。キーナン検事は「本法廷に代表を送った11カ国を含む多くの国家は、枢軸国の侵略戦争により多くの人的物的資源を損失したにもかかわらず、この侵略国家の残虐行為に対し、これを処罰し得ない理屈があるだろうか。11カ国は武力によりこの侵略戦争を終結させたのに、この侵略戦争の責任者をなんら処罰することなく、不問に付する事が出来るだろうか』といった調子で復讐裁判の本質を露呈したが、それは清瀬氏の法理論に対する反駁ではなかった。さらに彼は「法律的観念にばかりこだわっている者にとっては、非常に耳障りになるかもしれないが…」と検事にあるまじき言葉を吐いた。これは法理論の上では私の負けだという事を不覚にも告白したものであった。さらに清瀬は発言を続けた。

清瀬弁護人
  「ドイツと我が国とは降伏の仕方が違う。ドイツは最後まで抵抗して、ヒトラーも戦死し、ゲーリングも戦列を離れ、遂に崩壊してしまって、全く文字通りの『無条件降伏』をした。それゆえに、ドイツの戦争犯罪人に対しては、もし極端に言う事を許されるならば、連合国は裁判なしで処罰する事も出来たかも知れない。しかし我が国においては、まだ連合国軍が日本本土に上陸しないうちにポツダム宣言が発せられた。その第5条には連合国もまたこの条約を守るであろうと明記されていて、いくつか条件を示している。我が国の政府はこの条件を受け入れてポツダム宣言を受諾したのであって、決して無条件降伏ではない。ニュルンベルク裁判で「平和に対する罪」「人道に対する罪」で起訴しているからといって、それを直ちに東京裁判に当てはめるという事は絶対に間違いである。連合国は今回の裁判の目的の一つが国際法の尊重であると言っている。されば、国際法の上から見て、戦争判事の範囲を超越するというような事は、まさかなかろうと、我々は固く信じていた。しかるに日本がポツダム宣言を受諾した後、勝手にその字義の解釈を変更するとは理解に苦しむ。ポツダム宣言は昭和20年7月26日現在、日本と連合国との間にあった戦争を終結させるための国際上の宣言である。ゆえに戦争犯罪の範囲も、我々の言う大東亜戦争、あなた方の言う太平洋戦争中の犯罪のみに限定すべきものであって、それ以前において既に終了した戦争の犯罪人まで起訴出来るものとは断じて考えられない。しかるに
 1.満州事変を取り上げている。満州事変は宣戦布告なき戦争とみなしたと考えられるが、満州
   国は事変の結果成立し、多くの国家により承認されている。またソ連が東支鉄道を満州国に
   売却したという事実は、ソ連が満州国を承  認した証拠である。満州事変は大東亜戦争の
   中に含まれるべきものではない。
 2.張鼓峰事件、ノモンハン事件も日ソ間で既に調停成立し、後日、日ソ間で中立条約が成立し、
   昭和20年7月26日現在、日ソ間には戦争状態はなかった。
 3.ポツダム宣言発表当時、日本とタイとの間には戦争はなかっただけでなく、両国は同盟関係
   にあり戦争犯罪など夢想だにしなかった。仮にタイに対する戦争犯罪があったとしても、タ
   イは連合国ではないから本裁判の管轄外である。
 ポツダム宣言には「…戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ…」と書いてあるが、戦争を計画し準備したものを処罰するとは書いていない。国際連盟でも戦争は非難しているが、侵略戦争をやった国の個人を犯罪者にするという規定はない。ハーグ陸戦協定(1907年制定 巻末補足資料参照)でも、条約違反を犯罪とはせず、条約に違反した国の指導者個人を犯罪人であるとはしていない。パリ不戦条約(1982年制定 巻末補足資料参照)でも、ほぼそれと同様、違反国を犯罪国とはしていない。ましてその国の指導者を犯罪者とはしていない。両検事(キーナンとコミンズ・カー)とも、文明の擁護のために、この裁判を行うのだと言われるが、それは私も同感だ。しかし文明の範疇の中には、条約の尊重、裁判の公正も入っていないだろうか。もしもポツダム宣言の趣旨が私の申す通りであるなら、今までの行きがかりにとらわれず、断然この起訴を放棄する事が文明の名に値する処置であると考える。」

 翌日、清瀬弁護人の後を受けて、ファーネス弁護人(米)とブレークニー弁護人(米)がこの裁判の持つ不法と管轄権の問題を別の角度からついた。

ファーネス弁護人
  「この裁判の判事は全て戦勝国の代表のみによって構成されている。検事もそうである。我々は、各判事、検事が公正であっても、任命の事情によっては、決して公正では有り得ないと主張する。なぜならこれらの国々が本起訴の原告でもあるからである。この裁判は今日においても、また今後の歴史においても、公正ではない、合法ではないという批判を免れないであろう。被告に対し法律に適った公正なる裁判を施行するには、中立国の代表によって構成される判事・検事でなければならない。なぜなら中立国は戦争の熱情と憎悪から脱しているからだ。こういう国の代表者によって裁かれてこそ、合法的で公正な裁判という事が出来る。」

ブレークニー弁護士
  「まず申し上げたいのは『戦争は犯罪ではない』という事である。戦争は古来『決闘の原理』に基づき、合法的な力の行使とされている。すでに戦争に関する国際法規の存在すること自体が、戦争の合法性に対する何よりの証拠である。もし戦争が本来非合法なものであるならば、戦争の開始、通告、遂行などの関する一連の法規は、全く意味をなさなくなる。実際、戦争を計画したり開始したりする事が犯罪行為として裁かれた例は、文明史上いまだかつてない。あるいは『前例のない事は、決して新例の発生を阻むものではない』かもしれないが、行為の当時に処罰する事が出来なかった行為を後になって処罰する事は、法の遡及効力を認める結果を招く事になり、文明国にとって最も避けるべき事と言わねばならない。…国際法は、いかなる観点から見ても戦争は国家の行為であり、かつ国家間の関係においてのみ存在し得る現象であると説明している。
 また、起訴状中の新たなる罪『平和に対する罪』の成立要件として指摘されている条約や協約のどれを調べてみても、一国の首相や外相や参謀総長がそのような犯罪のために刑罰を与えられるべきだと規定した条文は見当たらない。法に基づく公正な裁判を行うことを自ら声明した当法廷が、そのような新たな犯罪を創設する事は、全く管轄外の事と申さねばならない。もちろん、戦争法規や慣例に違反したために刑事責任を取られるのは珍しくないが、日本軍の真珠湾攻撃で米軍将兵の死を招いたのが殺人行為であるとするならば、広島、長崎に原子爆弾を投じた者、それを計画し、命令し、許可し、あるいは黙認の態度を取った者たちも、刑事上の責任を負わなければならないはずだ。」

 ブレークニーの法理論は整然たるものであった。しかもアメリカの最も痛い点をアメリカ人である彼が遠慮なく喝破するその勇気に、日本側弁護人は驚嘆した。さらに彼は次のような重大発言を行った。

ブレークニー弁護人
  「ここにいる28被告が命令し、授権し、許可した残虐行為を裁くというなら、広島、長崎に投下した原子爆弾によって生じた残虐は一体誰が裁くのであろうか。この問題を不問に付して日本軍の犯した行為のみが裁かれるとしたら、それは公正かつ公平なる民主主義的裁判と言えるだろうか。私は原子爆弾を投じよと命じた参謀長の名前を知っている。これを許可した大統領の名前も知っている―――」

 法廷は一瞬異様な緊張下に置かれた。占領下のこの時期、連合国の代表を前にして原爆投下を命令し、許可した者を裁けと言うような発言は、禁句でありタブーとされていた。このブレークニーの痛烈なる弁論に対して、さすがのキーナン検事も沈黙したままで、検察側の反論はなかった(ブレークニーのこの最後の一節は、日本文速記録には「以下通訳なし」として記録から外されている)。
 管轄権問題は、公平に見て明らかに清瀬、ファーネス、ブレークニーの3弁護人の法理論に軍配が上がる。しかし、これを認めれば、東京裁判は根本から成り立たない事になり、28被告は全員釈放され、裁判は幕を閉じる結果となる。もちろんそこまでは行くまいが、裁判所がこれをどう理由づけするか、この大論争の結論は注目の的であった。しかし、ウェッブ裁判長は「裁判所の管轄権に対する申し立ては却下する。その理由は将来宣言する。次の開廷の時期は追って申し渡す。弁護人側異議ありませんね。それでは本日はこれを持って閉廷する。」と有無を言わさず却下を宣して閉廷した。
 ここで忘れてならない事は、東京裁判が、その一番大切な根本問題である管轄権問題、つまりこの裁判が合法的に成り立つか否かの問題を未解決のまま、ズルズル引き延ばして結審まで持ち込んだという事実である。すなわち被告側は理由のない裁判を強いられたという事である。判決の時になってからの理由発表では全て後の祭りで、弁護側の抗弁も異議申し立ても全てが封ぜられた後の事である。パール判事が「この裁判は復讐の欲望を満たすために単に法律的な手続きを踏んだに過ぎない、裁判に非ざる裁判である」と決めつけたのも当然であろう。しかし動議却下の理由の説明は、現実には2年6か月後の昭和23年11月4日判決言い渡しの時に次のようになされた。

ウェッブ裁判長
  「昭和21年5月に本裁判所は弁護人の申し立てを却下し、裁判所条例の効力とそれに基づく裁判所の管轄権とを確認し、この決定の理由は後に言い渡すであろうと述べたが、その後ニュルンベルグ裁判所は昭和21年10月1日にその判決を下した。同裁判所は次の意見を発表した。『国際軍事裁判所条例は戦勝国の側で権力を、し意的に行使したものではなく、その制定の当時に存在していた国際法を反映したものである』『問題はパリ不戦条約の法的効果は何であったかという事でもある』(かくてパリ不戦条約に反する行為は犯罪を構成するというニュルンベルグ裁判の主張を引用し)、当裁判所はニュルンベルグ裁判所の意見とその意見に達するまでの推論に完全に同意する。」

 後日清瀬氏は「これは、はなはだ不十分な説明である。ニュルンベルグ裁判と東京裁判とは条件が違う。ドイツは本当の意味での無条件降伏をした、日本では昭和20年7月26日のポツダム宣言中の諸条項を条件として降伏した、ここに大きな相違がある。ニュルンベルグ裁判においては、国際軍事裁判所条例制定当時に存在していた国際法を持って裁判したという。しかし東京裁判においては、昭和20年7月26日に出されたポツダム宣言に基づく降伏を勧告した当時の国際法上の『戦争犯罪』を基準とせよと、我々は主張したのである。よってウェッブ裁判長の説明は、弁護人側の提出した動議を却下する理由とはなり得ない」と言った。

W.東京裁判の問題点
 1.裁判及び裁判手続きについて
  ア.戦争そのものを犯罪とした
     どの国際条約も戦争を非難しているが、戦争を犯罪だとは言っていない。ましてその戦
     争を起こした国の個人を罰する法規や条約もない。今、連合国が新たに侵略戦争は犯罪
     であるとするのは、新しい国際法を作って歪めんとするものである。被告に有罪の判決
     を下した国際法上のただ一つの法的根拠は、昭和3年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリ
     アン協定)であった。パリ不戦条約によれば、確かに国策としての戦争を放棄している
     事にはなっていた。しかしアメリカは留保をつけ自衛戦争は主権国家の固有の権限であ
     り、自衛戦争が否かの判断は主権国家しか判断出来ないとし、イギリスは自衛の範囲に
     植民地も含むとした。日本も、もちろんその例外ではない。したがって昭和20年の時
     点で、主権国家たる日本が、満州事変から大東亜戦争に至るまで宣戦を布告して、また
     は布告しないで行った戦争全てにおいて、自衛を戦争目的においたと主張すれば、日本
     の戦争は「侵攻(侵略)戦争」にならないのである。
  イ.判事は全て戦勝国の代表だった
     国際裁判の構成は、戦勝国たると敗戦国たるとを問わず、平等・不偏でなければならな
     い。にもかかわらず判事と検事を構成する国は全て戦勝国側だった。
  ウ.被告は全て日本人であった
     戦勝国でも戦争犯罪は犯し得るし、また明らかに犯していたが、連合国の戦争犯罪は何
     一つ裁かれなかった。アメリカの犯罪(広島・長崎を含む都市の無差別爆撃)、ソ連の
     犯罪(当時まだ有効であった日ソ中立条約を一方的に破棄して満州国に攻め込み、民間
     邦人を多数虐殺・暴行した。さらに戦後も日本兵捕虜をシベリアに引き連れて釈放せず
     、劣悪な状況の中で過酷な労働を強いた)、イギリスの犯罪(同じく戦後も、日本兵捕
     虜を釈放せず、差別的待遇を行った)、中国の犯罪(便衣隊による戦闘行為)など、連
     合国の戦争犯罪は棚に上げて、一人日本の戦争犯罪だけが、弁護の機会も十分与えられ
     ず、ほぼ一方的に、しかも新しく作られた法律を過去に適用されて裁かれた。敗れたが
     故に罪悪なのではなく、また勝ったが故に正義なのでもなく、法は一つである。この一
     つの法に照らして、添うものは正義であり、背くものは不正である。すなわち、正・不
     正は全て国際法理論の中にだけ存在しているはずである。
 2.適用された国際法について
  ア.「極東国際軍事裁判所条例」が、事後法として制定された
     「戦争犯罪人」という言葉は国際法上、既にはっきりとした概念で、その中に「平和に
     対する罪」や「人道に対する罪」という新しい概念を含める事は出来ない。
  イ.戦争責任を個人に求めた
     国家行為である戦争について、個人の責任を問うた事は、やはりこれまでの歴史の中に
     は存在しなかった。
 3.偽証罪がなかった事について
    菅原裕弁護人は言う。「最初日本人弁護人は検察側証人があまりにも厚顔無恥で白々しい
    嘘を平気で証言する
    ので、憤慨のあまり『証人は検事から何度調べられたか、その調べ方はどのようであった
    か』と追及した。ところが、そうした弁護人の発言に対して、ウェッブ裁判長は決まって
    『そんな事は我々裁判官の助けにならん』と拒否した。そこで弁護人は『いや、大いに助
    けになる。証人があらかじめ検察側から、どのように調べられたかという事は、証言の信
    憑性に重大な関係を持つものだ』と抗弁したが、裁判長は受け入れようとはしなかった。
    満州事変、支那事変、大東亜戦争の全てが日本の侵略戦争であった、南京、マニラ、その
    他外地で日本軍による目を覆う残虐行為があった、捕虜や良民に対する虐殺、強姦、略奪
    の数々があった…このような日本の罪悪を立証しようとする、東京裁判の証人の証言が、
    菅原氏の言う「あまりにも厚顔無恥で白々しい嘘」で塗り固められたデタラメな証言であ
    っても、それらはほぼ全て証拠として取り上げられたのである(約2300点のほとんど
    全てが受理された)。一方連合国側に不利な証言や証拠は、「この裁判は日本を裁く裁判
    である」という名目の下に、提出された証拠書類2430点のうち、受理されたもの17
    60点あったが、却下されたものは670点にのぼった。日本に関する限りは、法廷でい
    くら嘘の陳述をしても偽証罪に問われる事はない、日本の罪悪を言いたいだけ言いなさい
    、推測でもデタラメでも嘘でも構わない、証拠の裏付けはいらない、伝聞でも伝伝聞でも
    憶測でも全て採用しよう―――これが東京裁判のやり方であった事を我々は記憶しておく
    必要がある。

X.パール判事の主張と村山首相談話および衆議院国会決議
  パール判事は「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略に誤魔化されてはならない。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚に陥る事は、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。日本人は連合国から与えられた『戦犯』の観念を頭から一掃すべきである」と主張した。
 一方、1995(平成7)年8月、戦後50年に当たって、当時の総理大臣 村山富市は談話という形式で、また衆議院は国会決議という形で「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」事を謝罪した。この謝罪は明らかに、一国の政府の長と国権の最高機関が、日本は国家として犯罪行為を行ったのだという事を認めてしまうものである。

Y.マッカーサー証言
  日本の軍国主義者を裁けと言って裁判所条例を自ら起草し、「平和に対する罪」「人道に対する罪」などという事後法まで設け、判事・検事の任命権まで掌握してこの裁判を指揮し、7人の絞首刑を含む重い刑罰につかせ、軽減の措置を取ろうともしなかったマッカーサーが、罷免されて帰国するや、1951(昭和26)年5月3日、アメリカ上院の軍事外交委員会の聴聞会で「日本人は、もし原材料供給が断たれたら、1000万人から1200万人が失業するのではないかと恐れていた。それゆえに、日本が第二次世界大戦におもむいた目的は、そのほとんどが安全保障(=security)のためであった」と証言した。それに先立ち、東京裁判が終わって2年後の1950(昭和25)年10月15日、トルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」とも報告している。
 これは一体どういう事か。この事実を日本国民は肝に銘じて記憶しておく必要がある。マッカーサーが今更「東京裁判は誤りであった」「太平洋戦争は日本の自衛のための戦争であった」と告白しても、処刑された7人が蘇るわけではなく、18人の失われた名誉や獄中の時間が取り戻されるわけでもない。さらに日本は恥ずべき侵略者であり暴虐者であるという烙印が拭い去られるわけでもなく、日本人の心に刻みつけられた自虐意識が今更消えるわけでもない。無責任極まるこのような言葉は、日本および日本人を愚弄するも甚だしいと言わねばならない。

Z.ニュルンベルグ裁判と東京裁判
  ドイツ降伏から約3か月後の1945(昭和20)年8月8日、ロンドンで米英仏ソ4カ国代表によって「国際軍事裁判所条例」が調印された。この時、定められた「平和に対する罪」「人道に対する罪」により、ナチスドイツの指導者がニュルンベルグ裁判(1945年11月〜1946年10月)で裁かれた。
●ニュルンベルグ裁判
 
「平和に対する罪」は適用されず、「人道に対する罪」によって裁かれた。
   以下の4つの犯罪団体が指定されたが、重要なのはドイツ国家そのものは犯罪団体には指定
   されなかったという事である。
    @ナチス党
    Aゲシュタポ(秘密警察)
    Bナチス親衛隊(SS)
    C保安隊(SD)
   戦争は事柄の性質上、国家しか行えない。ドイツ国家が犯罪団体として指定されていない以
   上、ドイツ国家の戦争自体は裁かれていない。上に挙げた4つの犯罪団体が行ったユダヤ人
   大虐殺のみが「人道に対する罪」で裁かれたのである。同裁判で起訴された24名の被告の
   うち、シャハト国立銀行総裁、パーペン首相・オーストリア大使、フリッチェ宣伝省放送局
   長の3人は、ドイツ国家の戦争に対して責任はあったが、犯罪団体の構成員ではなく、大量
   虐殺には加担していなかったという理由で無罪になっている。この事は、何よりも雄弁にド
   イツ国家は戦争責任を問われていない事を証明している。

●東京裁判
 
「人道に対する罪」は適用されず、「平和に対する罪」によって裁かれた。
   東京裁判では特に犯罪団体の指定はなかった。日本国家そのものが犯罪を行ったという論理
   構成を取っているからである。日本国家の戦争に責任があった25名の被告全員が「平和に
   対する罪」で有罪判決を受けた事は、ドイツと極めて対照的である。
●2つの裁判の比較
   ニュルンベルグ裁判では、被告22人、そのうち死刑12人、終身刑3人、有期刑4人、無
   罪3人、一方東京裁判では、被告25人、そのうち死刑7人、終身刑16人、有期刑2人で
   あった。裁判冒頭から、「平和に対する罪」のような事後法を遡って適用する事が「文明国
   」の法理として認められるのかというドイツ弁護団の激しい抗議に裁判所側が屈して、ドイ
   ツの戦争に対して「平和に対する罪」の適用を早々に諦め、「人道に対する罪」に集中して
   いった。
   反対に、東京裁判では、日本の戦争行為をどれだけ探しても、ナチスによる大量虐殺のよう
   なすさまじい「人道に対する罪」はなかった。「南京大虐殺」(その真偽の程は裁判当時か
   ら、そして今もなお問題視されている)も「平和に対する罪」でしか罰しようがなかった。
   結局、ニュルンベルグ裁判も東京裁判も、国際法的には戦争状態が続いている状況の中で、
   占領軍が占領行政の一環として「裁判所条例」を作り、裁判所らしきものを組織し、新しい
   国際法上の罪までを新たに作って被告を処刑したのである。ただナチスドイツによる大量虐
   殺に適用された「人道に対する罪」は、「平和に対する罪」同様の事後法であったが、その
   適用については法律上の問題は特段に議論されていない。それは文明国の法の一般原則が適
   用されているからである。法の一般原則とは、自然法と言ってもよく、実際に定められた法
   文が無くとも当然に適用する法理の事である。つまり文明国であれば、人種や信条を理由に
   、人間の大量殺戮が許されるはずがないという事である。ニュルンベルグ裁判は、裁判所条
   例の「人道に対する罪」で裁かれたというよりは、大量殺人は重罪という自然法によって裁
   かれたと見る方が正当なのである。

[.GHQ占領政策
 第1段階:物的武装解除
   1.旧日本軍の解体
   2.大本営廃止(昭和20年9月13日)
   3.参謀本部・軍令部廃止(昭和20年10月15日)
   4.陸・海軍省廃止(昭和20年11月30日)
   5.民間人の武装解除  日本刀・軍刀、銃剣などを没収
   6.第9条の強要
 第2段階:精神的武装解除
   1.修身、国史、地理教科書、教師用参考書回収
   2.関係する宣伝用刊行物焼却(軍国主義、超国家主義、非民主主義的図書)
   3.検閲(愛国心につながる用語の禁止)
     「大東亜戦争」→「太平洋戦争」
     「八紘一宇」→× など
   4.大東亜戦争擁護の禁止
   5.東京裁判批判の禁止
   6.ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
     (War Guilt Information Program 
      戦争有罪周知計画ー五月女訳)
     東京裁判のA級戦犯のみならず、日本国民にも「侵略戦争」に加担した罪がある事を周
     知徹底させ、東京裁判の判決を日本国民に受け入れさせる事を容易にする、思想的地な
     らしを狙った情報宣伝計画。「占領軍が東京入りした時、日本人の間に戦争贖罪意識は
     全くと言っていいほど存在しなかった。彼らは日本を戦争に導いた歩み、敗北の原因、
     兵士の犯した残虐行為を知らず、道徳的過失の感情はほとんどなかった。日本の敗北は
     単に産業と科学の劣勢と原爆の故であると言う信念が行き渡っていた」(GHQ月報)
     にもかかわらず、戦後の日本人が過剰な戦争贖罪意識を持つようになった背景には、こ
     のようなプログラムがあった。
    ア.「太平洋戦争史」(連合軍司令部提供)を新聞に連載
       (昭和20年12月8日〜12月17日)
        同名の書籍も販売され、10万部のベストセラー(高山書院)
    イ.ラジオ番組「真相は こうだ」を放送
       (昭和20年12月9日〜昭和21年2月10日。再放送を含めると週5日放送。
        ラジオ第1・第2日曜日20:00〜20:30)
        日本軍の「侵略」をドラマ仕立てで「再現」したが、元日本兵からの抗議殺到し
        て、当初の計画を変更し10週で打ち切り。打ち切り後は「真相は こうだ・質
        問箱」→「真相箱」→「質問箱」と番組名を変えて約2年間放送(〜昭和23年
        1月4日)。さらに同名の「真相は こうだ」「真相箱」「質問箱」も出版され
        、それぞれ2万部の売り上げ。
    ウ.日本の戦争犯罪を告発する宣伝映画を製作・上映
       (昭和20年12月〜昭和22年7月)
        計9本製作・上映され、3000万人の観客動員

\.東京裁判に関する中学校歴史教科書3社の記述
 
東京書籍 平成23年度検定済み「新しい社会・歴史」(P.227)
 GHQの占領政策の基本方針は、日本が再び連合国の脅威にならないよう、徹底的に非軍事化する事でした。軍隊を解散させ、戦争犯罪人(戦犯)と見なした軍や政府などの指導者を極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけ、戦争中に重要な地位にあった人々を公職から追放しました。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)
 東條元首相など28名が「平和に対する罪」を犯したA級戦犯として起訴され、病死者などを除く25名が有罪判決を受けました。またこれとは別に、戦争中に残虐行為をしたとされるBC級戦犯の裁判も行われました(1947年)

 
自由社 平成23年度検定済み「新しい歴史教科書」(市販本版)(P.244,P.247)
 …アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカの脅威にならないよう、国家の体制を作り変える事だった。…ポツダム宣言に基づき、陸海軍は解散させられた。…1946(昭和21)年からは、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれ、戦争中の指導的な軍人や政治家が「平和に対する罪」などを犯した戦争犯罪者(戦犯)であるとして、7人が死刑判決を受けるなど、それぞれに裁かれた。またGHQは、戦争中に公的地位にあった者など、各界の指導者約20万人を公職追放した。
勝者の裁き
 東京裁判は、1946年5月から3年間に渡って開かれ、被告となった戦争中の指導的な政治家や軍人だった被告全員が有罪と宣告され、東條英機以下7人が絞首刑に処せられました。東京裁判は、@勝った側が負けた側を裁いた、A裁判官も検察官も大多数が勝った側だった、B勝った側の戦争犯罪は裁かれなかった、と言う事から、「勝者の裁き」と言われています。裁判の実際の審理でも、弁護側の提出した膨大な証拠が採用されず、却下されました。
 東京裁判で、インド代表として参加したパール判事は、ただ一人国際法に精通していましたが、この裁判は国際法上の根拠を欠いているとして、被告全員の無罪を主張しました。しかし、GHQは、パール判事の意見書の公表を禁じました。
 戦争を起こした日本は悪い国家で、連合国が正義であるとする宣伝と、東京裁判の判決は、日本人から自分たちが学んできた歴史への信頼を奪い去る効果がありました。「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせる事である。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて、新しい歴史を発明させる事だ。そうすれば間もなくその国民は、国の現状についても、その過去についても、忘れ始める事になるだろう。」(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』)

 
育鵬社 平成23年度検定済み「新しい日本の歴史」(市販本版)(P.230,P247)
 他方、GHQは、日本が再び連合国の脅威にならないよう、精神的なものも含めて国の在り方を変えようとしました。過去の日本の歴史教育や政策は誤っていたという報道や教育が行われ、占領政策や報道は禁じられました。また日本軍は解散させられ、戦争の計画や実行に中心的な役割をになったとされた軍人や政治家は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられ、裁かれました。戦争中に重要な地位にあった人は、公職から追放されました。
●戦犯として裁かれた人たち●
 マッカーサーは、戦後に作られた裁判所条例に基づいて、極東国際軍事裁判(東京裁判)を開きました。罪を追及する検事や判決を下す裁判官は、すべて戦勝国とその植民地から任命され、日本人の弁護団はわずかでした。裁判は、戦争指導に携わった政治家や軍人を、侵略戦争を行った「平和に対する罪」で裁こうとするものでした。弁護団は、この罪は新しく導入された考え方であり、過去の戦争にさかのぼらせて適用する事は不当であると異議を申し立てましたが、却下されたまま裁判は始まりました。
 1948(昭和23)年11月、25人に判決が下り、翌月、東条英機元首相以下7人が死刑となりました。判決に当たって、インドやオランダなど5か国の裁判官は少数意見を提出しました。その中でインド代表のパール判事は、「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないようなやり方は、国際正義の観念とは、およそ縁遠い」として、全被告を無罪とする意見を述べています。また、捕虜虐待などの戦争犯罪に問われた軍人なども、横浜やシンガポール、マニラなど各地の裁判所で裁かれ、1000人を超える人々が、十分な弁護を受ける事もなく死刑に処せられました。
●東京裁判についての見方●
 このように東京裁判では、日本の政治家・軍人たちが戦争犯罪者として裁かれました。その一方で、米ソなどの戦勝国に対しては、当時の国際法から見て戦争犯罪とされるものでも、罪に問われる事はありませんでした。東京大空襲や原爆投下などのアメリカ軍による都市空襲では、多くの一般市民の命が奪われました。ソ連軍の満州侵攻でも、満州に住む日本人への暴行や日本人捕虜のシベリア抑留によって、多くの人々が被害を受けました。しかし、こうした戦勝国の行為を裁く裁判は、行われませんでした。
 その他に、東京裁判については、「平和に対する罪」を過去にさかのぼって適用した事の不当性を批判する意見があります。一方では、世界平和に向けて国際法の新しい発展を示した裁判として、積極的に肯定する意見もあり、その評価は現在でも定まっていません。

].付属資料
 1.ハーグ陸戦協定 1907(明治40)年締結
   各国で批准され、その中で交戦者の資格が以下のように。定められている
    @部下のために責任を負う隊長がいる事。
    A遠くからでも識別できる軍装をしている事。
    B武器は外から見えるように持っている事。
    C戦争の法規慣例を守る行動をとる事。
   この条件を満たさない者は、捕虜になる資格が無いという事も定められている(正規の捕虜
   はいろいろの権利を有している)。捕虜になる資格の無い者、すなわち正規軍の将兵でない
   のに武器を隠し持っている者は、陸上では山賊・野盗、海上なら海賊と見なされるわけで、
   見つけ次第殺して構わないという事が国際的に合意されているのである。ゲリラや便衣隊は
   これに当たるし、便衣隊とそれが紛れ込んでいる一般人民との区別がつかぬ場合は、一般人
   民も便衣隊と同一と見なされてもやむを得ないのである。中国戦線やマレー・シンガポール
   その他の戦線で、「日本軍に虐殺された市民」と言うような事が言われたり書かれたりして
   いるが、実際は「ゲリラであるかゲリラと間違われた人たち」で、決して「善良なる一般市
   民」ではない。さらに、
    D防守されない都市は、これを攻撃または砲撃してはならない。
    E攻撃軍の指揮官は砲撃を始める前に、その旨を通告しなければならない。
    F攻撃及び砲撃をする場合は、宗教、技芸、学術および慈善の用に供する建物、歴史上の
     記念建造物、病院は、軍事上の目的に使用されぬ限りは、なるべく損害を与えぬよう必
     要な手段をとる事。守る側は見やすい目印をこれらの施設に付け、その目的を事前に攻
     撃側に通告する事。
    G降伏の条件は、指揮官同士の話し合いで決定する。指揮官の命令を受けた軍使が白旗を
     掲げて条件交渉をして降伏する。
 
 2.パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)1928(昭和3)年締結
    @締結国は国際紛争解決の手段として戦争に訴える事をせず、戦争放棄を宣言した。
    A締結国は一切の紛争または紛議について、その性格または起因の如何を問わず、その解
     決は平和的手段のみによるものとする。
   ただし戦争には「自衛戦争」と「侵攻戦争」の2種類があって、本条約の対象となる戦争を
   「侵攻戦争」だけとした。これは英米仏など列強の主張によるものである。そしてこの不当
   な攻撃性を有する「侵略戦争」を、本条約では「違法な戦争」とし、侵攻国には損害賠償ま
   たは現状回復の責任を課すことが出来るというのが一応の通説となった。
   では、その戦争が、「自衛戦争」であるか、それとも「侵攻戦争」であるかの判断は誰がす
   るのだろうか。アメリカのケロッグ国務長官は「自国の行う戦争がそのいずれに属するかは
   、各国自身が認定すべきものであって、他国や国際機関(裁判所を含む)が決定出来るもの
   ではない」と主張した。これが自己解釈権といわれるものである。しかし自己解釈権を認め
   るという事は、本条約が既に無効のものと言わなければならないのである。なぜならば、あ
   らゆる戦争当事国は、明白な侵攻国家でさえ、自己の戦いを「自衛戦争」であると主張し、
   正当化しようとするからである。東京裁判で、日本の戦争指導者は「平和に対する罪」を理
   由として断罪された。「平和に対する罪」は、パリ不戦条約に照らし合わせると、「日本は
   侵攻戦争を行ったのだから、その指導者は責任を負うべきである」という理論である。しか
   し、日本の行った戦争が自衛戦争であったか侵攻戦争であったかの判定は、ケロッグの主張
   に従えば、日本以外には出来ない事になる。しかも日本は、自衛戦争であったと主張してい
   た。従って東京裁判における日本の「平和に対する罪」は、いかに根拠のないものであるか
   は明らかである。

 3.ポツダム宣言全文 (1945年7月26日)
  日本に対する最後通牒
   合衆国、英帝国、ならびに中華民国政府首脳部において発せらるる左の宣言は合衆国大統領
   、英帝国首相によりポツダムにおいて署名せられ、トルーマン台帳量より至急便を以て通達
   せられたる中華民国国民政府主席において同意せられたるものなり。
  1.我ら合衆国大統領、中華民国国民政府主席及び「グレート・ブリテン」国総理大臣は我ら
    の数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与えることに
    意見一致せり。
  2.合衆国、英帝国および中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及び空軍に
    よる数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加えるの態勢を整えたり右軍事力は日本
    国が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持
    せられかつ鼓舞せられおるものなり。
  3.決起せる世界の自由なる人民の力に対する「ドイツ」国の無益かつ無意義なる抵抗の結果
    は日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり現在日本に対し集結しつつある力
    は抵抗する「ナチス」に対し適用せられたる場合において全「ドイツ」国人民の土地、産
    業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、計り知れざる程度に強大なるも
    のなり、我らの決意に支持せらるる我らの軍事力の最高度の使用は日本国軍隊の不可避か
    つ完全なる壊滅を意味すべくまた同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。
  4.無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れし我儘なる軍国主義的助言者により日本
    国が引き続き統御せらるべきかまたは理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定す
    べき時期は到来せり。
  5.我らの条件は左のごとし
    我らは右条件より離脱することなかるべし右に代わる条件存在せず我らは遅延認むるを得
    ず。
  6.我らは無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは平和、安全及び正義の新
    秩序が生じ得ざる事を主張するものなるをもって日本国国民を欺瞞しこれをして世界征服
    の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず。
  7.右のごとき新秩序が建設せられかつ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたる事の確証ある
    に至るまでは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は我らの指示する基本的目的の達
    成を確保するため占領せらるべし。
  8.「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並
    びに我らの決定する諸小島に局限せらるべし。
  9.日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活
    を営むの機会を得しめらるべし。
  10.我らは日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を
    有する者に非ざるも、我らの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な
    る処罰を加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化
    に対する一切の障害を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は
    確立せらるべし。
  11.日本国はその経済を支持しかつ公正なる実物賠償の取り立てを可能ならしむるがごとき
    産業を維持する事を許さるべしただし日本国をして戦争のため再軍備をなすことを得しむ
    るがごとき産業はこの限りにあらず右目的のため原料の入手(その支配とはこれを区別す
    )を許可去るべし日本国は将来世界貿易関係へ参加を許さるべし。
  12.前記諸目的が達せられかつ日本国国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有しか
    つ責任ある政府が樹立せらるるに於いては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらる
    べし。
  13.我らは日本国政府がすぐに前日本国軍隊の無条件降伏を宣言しかつ右行動における同政
    府の誠意につき適当かつ十分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日
    本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。

 4.ポツダム宣言(口語訳)

 第1条  アメリカ、イギリス、支那は協力して戦争を終える機会を日本に与える事で合意した。
 第2条  アメリカ、イギリス、支那の3国は日本に最後的打撃を加える体制を整えた。
第3条  我々の軍事力は日本の本土を壊滅する事が出来るレベルになっている。
第4条  日本は決定すべき時期が来た。
第5条  我々の条件は以下の通りで、それ以外の条件はない。遅延は認めない。
第6条  軍国主義、世界征服しようとした者は永久に除去する。
第7条  日本の戦争遂行能力がなくなるめで日本の諸地点を占領する。
 第8条  「カイロ宣言」は履行され、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国、そして我々が決定する島に限定される。
第9条  日本軍は武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる。
第10条  我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の捕虜を虐待したものを含む全ての戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない。
第11条  日本は、経済、産業を維持する事を許されるが、再軍備の産業は除く。原料の入手は許可され、将来、世界貿易への参加も許される。
第12条  前記の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本より撤収する。
第13条  我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保証する事を要求する。そうでなければ日本はすぐに壊滅されるだけである。


主たる参考文献
  ア.「東京裁判とは何か」  田中正明 日本工業新聞社
  イ.「さらば東京裁判史観」  小堀桂一郎 PHP文庫
  ウ.「世界がさばく東京裁判」  佐藤和男 明成社