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活 動 報 告report

『大東亜会議』            平成24年10月28日 作成 五月女


昭和18年11月5日・6日、戦時下の東京に、タイ、ビルマ、インド、フィリピン、中華民国(南京政府)、満州国の6首脳が集まり開催された、史上初めてのアジア諸国の代表者会議。

T.大東亜会議の意義
  昭和15年に成立した第二次近衛内閣は、従来唱えられてきた「東亜新秩序の建設」を「大東亜新秩序の建設」と言い換えた。「東亜」とは「日満支」を根幹とする発想だが、「大東亜」はこの「日満支」に「南方」を加えたものとされた。しかし「南方」を加えた「大東亜新秩序の建設」と言われたところで、それが具体的に何を意味するのか、国民には一向に判然としなかった。これを「大東亜共栄圏の確立」という、耳に心地よい戦時スローガンに置き換えたのが、松岡洋右だった。松岡は「皇道の世界宣布が帝国の使命で、各国民、各民族にそれぞれその処を得させる大東亜共栄圏の確立を図る。これは従来の東亜新秩序と同じで、蘭印、仏印など南方諸地域を含め、日満支もその一環である」と、初めて「大東亜共栄圏」という言葉を使った。また「各国民・各民族がその処を得る」は、まさに植民地からの解放と独立を意味するものに他ならなかった。このように「大東亜共栄圏」は「西欧の植民地勢力をアジアから駆逐してアジアを解放し、共に栄えてゆこう」というもので、はなはだ判りやすく、国民の間に広く浸透していった。
 こうして昭和16年の対米英戦争も大東亜戦争と正式呼称されたが、日本帝国政府の指導者層にとっては、戦時スローガンの「大東亜共栄圏の確立」は意外にも戦争目的とは、直接結びついていなかった。戦争目的は宣戦の詔書に「今ヤマコトニ巳ムヲ得サルモノナリ」とある通り、あくまで「自存自衛のため」の域に止まっており、積極的理念を欠いていた。しかし「自存自衛」は戦争の「動機」では有り得ても、「目的」足り得ない、それでこの戦争に欠けている戦争目的を明確にし、「公明正大」な理念を置こうとしたのが、在中華民国大使 重光葵であった。
 (もっとも、帝国政府声明(昭和16年12月8日)には「…今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの巳むを得ざるに至る。何らその住民に対し、敵意を有するものにあらず。ただ米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たんと祈念するに外ならず、帝国はこれら住民が、わが真意を了解し、帝国と共に東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」とある。)
 重光は「大東亜戦争を戦う日本には、戦う目的について堂々たる主張がなければならない。自存自衛のために戦うと言うのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して、各国平等の地位に立つ事が世界平和の基礎であり、その実現がすなわち戦争目的であり、この目的を達成する事を以て日本は完全に満足する」(重光葵著作集・1昭和の動乱より)と述べた。
 重光は、昭和17年初頭、南京に中華民国大使として赴任するや、まず日中関係を改善すべく「対支新政策」(=汪兆名との和解)を提唱、積極的に汪兆銘政府と話し合う一方、陸軍及び政府に働きかけた。重光の「新政策」の骨子は、日本の権益保護ばかりを謳って汪兆銘を絶望的な立場に追い込んだ「日華基本条約」(昭和15)を廃し、日・中間に完全な平等関係を樹立、日本は内政干渉を行わず、中国の自主的立て直しを援助する、という点にある。重光の努力の結果、租界における中国の治外法権の撤廃や、全面和平の後、日本軍隊の撤退を約束する日華新協定、日華同盟条約が次々と結ばれるに至り、ようやく汪兆銘の面子も立つ事になる。
 一方、すでに日本軍は膨大な南方資源を手中におさめ、中国における各種権益に固執する必要はなくなっていた。それにもかかわらず、中国戦線は泥沼的状況になり、決定的勝利の見通しが立たないでいた。従って60万にのぼる膨大な支那派遣軍を南方に転用出来ないと言う、陸軍の焦りが募っていた。陸軍としても、汪兆銘政権の強化によって、重慶(=蒋介石政権)との和平の可能性が開ければ、それに越したことはなかったのである。重光は一応の成功を見た「対支新政策」を、大東亜地域に拡大し、米英の大西洋憲章に対抗して、日本の戦争目的を世界に向けて宣明すると言う遠大な構想を抱いた。そして昭和18年4月、東条に意見書を提出し、東条も重光構想(=「大西洋憲章」に対抗。特にチャーチルの言う「民族自決の原則」を謳いながら「英・仏の植民地には適用されない」という盲点を突こうとした)を支持した。こうしてこれまで「自存自衛」と認識されてきた戦争目的に「アジア解放」という理念を導入した。大東亜会議は遅まきながら、日本の戦争目的を内外に声明する最初の機会だったのである。
 重光の本音は、日本の敗戦を予想し、日本が戦後のアジアに生きるためには、アジアの解放と独立と言う投資を行っておかねばならないと言う点にあった。アジア諸国において、解放と独立が達成されるならば、たとえ日本が敗戦の憂き目に会おうとも、アジア諸国は暗黙のうちに日本の戦争の歴史的意味と、アジアにおける日本の存在理由を認めてくれるであろう、と考えた。
 東条もアジア諸国の独立と交換に、アジア諸国から物的人的協力を取り付けようとした。軍人の本分として、究極の目的は対米英戦の勝利にあり、そのため「アジア総力戦」という形に持って行きたかった。重光は「東条の、新政策に対する理解は、軍の首脳部及び軍人政治家として現れた人々の、誰と比較しても最も深いものであって、少なくとも戦争目的を公明正大な立派なところに置こうと努力した事は、大東亜会議その他の場合における彼の言動から見て明らかである」と述べている。同時に東条内閣の本質は、満州国を作った軍人的発想を以てアジアを統治しようとした「満州内閣」であるとも認識していた。(昭和12年、関東軍参謀長に就任した東条は、「内面指導」という、軍部が植民地統治に積極的に介入して、人事・実務を掌握する方法論で成功したと、自負していた。満州国建国当時は石莞爾が好例であるように、「満州建国」をアメリカ建国になぞらえ、「満人のための、満人による、満人の」国家建設の理想を抱き「満州で働く者は全て日本国籍を捨てるべし」と唱える者も実在したが、理想主義者は次々と排除され、次第に家父長日本の属領的位置に堕していった。祝日の際の式典が全て、まず「天皇陛下万歳」に始まった事など、極めて象徴的であろう。)
 一つ言える事は、この大東亜会議の開催、大東亜共同宣言の発表が、これより一年前の、日本が戦勝の勢いに乗っている時に行われていたならば、はるかに大きなインパクトを与えていたかもしれない、という事である。しかし戦局が日本に有利であったなら、重光構想が陽の目を見たかどうか疑問のあるところでもある。戦局が不利となり、是が非でもアジア諸国の協力を得なければならないと言う認識が、陸軍中央部に行き渡ったために、重光構想が急浮上したのであった。すなわち大東亜戦後半に至って、日本が国家及び民族存亡の瀬戸際に直面しているという不安が底流し始め、どうやって戦後世界に生き残るのか、世界に向けて日本の戦争目的を普遍的な言葉で語っておく必要がありはしないか、そういう疑問が中枢の人間たちの胸に宿って初めて重光構想が真面目に検討された。
 「東亜解放のための戦争」という理念は、特にチャンドラ・ボースのインド、バー・モウのビルマ、スカルノのインドネシアにとっては、日露戦争の日本の勝利とも相通ずる、一つの強烈な衝撃だった。

ア.インドについて
 大東亜会議における発言の華は、チャンドラ・ボースの演説であった。早くからガンジーやネルーの国民会議派の「平和主義の無能」と決別し、闘争によってインドの独立を勝ち取る事を生涯の規範としてきた彼の演説は、いわば血の叫びとなった。「インドにとってはイギリス帝国主義に対し、妥協のない闘争をする以外に道はありません。たとえ他の国民にとって、イギリスと妥協する事を考える事が出来たとしても、少なくともインド国民にとっては、それは問題外であります。イギリスとの妥協は奴隷制度との妥協を意味し、私たちは今後絶対に奴隷制度とは妥協しないと決意したのです。」「私は、わが国民軍の兵士たち(インド国民軍=INAは、マレーで降伏した英印軍5万を基礎に、日本軍の全面的援助の下に編成された)が、この戦争にどれだけ生き残るか、私は知りません。一番重要な事は、インドが自由になる、ただその事であります。」と、彼は熱っぽく語った。この会議に集まったアジア代表の母国は、何が何でも最後まで日本と共に戦争を継続していかねばならない理由を、確実に持ち合わせていた訳ではない。しかし、ボースはこれからのインドの解放のために、最後まで欧米と戦う事が必要と信じていたし、事実、それ以外に独立への道はなかった。

イ.ビルマについて
 一方、ビルマのバー・モウも「私の胸に浮かんでまいりますのは、過去において政治情勢のしからしむる所により、西洋において出席を余儀なくせられたる諸会議の想出であります。しかしながら、私は常によそ者が、よそ者の中にある感じを免れる事が出来ず、あたかも古代ローマにおけるギリシャ人奴隷のごとき感を抱くのが常であったのであります。本日この会議における空気は、全く別個のものであります。この会議から生まれ出る感情は、これをいかように言い表しても、誇張し過ぎる事はあり得ないのであります。多年ビルマにおいて、私はアジアの夢を見続けてまいりました。私のアジア人としての血は、常に他のアジア人に呼びかけてきたのであります。昼となく夜となく、私は自分の夢の中で、アジアが、その子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが、今日この席において私は、初めて夢に非ざるアジアの呼び声を現実に聞いた次第であります。我々アジア人は、この呼び声、我々の母の声に応えて、ここに相集うて来たのであります。これを私は、我らのアジアの血の呼び声と称するのであります。今や我々は心を以て考えうる時期でなく、まさに血を以て考えるべきであり、私がはるばるビルマより日本へ参りましたのも、この血を以て考える考えの致すところなのであります。」と語った。

ウ.インドネシアについて
 昭和18年初頭、東条英機は「近くビルマとフィリピンに独立を与える」と、声明を出したが、インドネシアは除外されていた。スカルノは「インドネシア民族の頭上に打ち下ろされた鉄槌である」と語り、ハッタは「インドネシアに最も不愉快な侮辱と刺激を与える」と批判した。なぜインドネシアが独立国として認知されなかったか、と言えば、インドネシアはマレーと共に「帝国領土」と規定されていたかれである。インドネシア独立に強行に反対し、直轄領として確保すべき事を主張したのは、帝国陸海軍統帥部である。軍部としては、軍需物資として不可欠の石油、天然ゴムを中心とする資源をみすみす手放したくなかった。独立を認めれば、資源の入手、補給も全て独立政府との交渉を通さねばならず、作戦上の要求に直ちに対応出来なくなると言うのである。「独立」と引き換えに人的物的資源を動員するというのが東条の方針だったから、東条としては、インドネシアの独立を望んでいた。しかし、その東条も統帥部の意向を変更させることは出来なかった。そして独立国でないがゆえに、インドネシア代表は大東亜会議には招待されなかったのである。

エ.フィリピンについて
 一方、「東亜解放のための戦争」という理念は、すでに米国によって独立を約束されていたフィリピンでは新鮮味に欠け空疎に響いた。東条の唱えるアジア全域の「満州国化」と日本の「家父長的指導」の行使に対し、強く反発したのだフィリピンのラウレル大統領である。彼はアジア諸国の自主独立尊重の論陣を張る。日本の軍部、特にフィリピンの現地軍には、大東亜会議の理念、例えば「相互に自主独立を尊重し」云々のごとき理念はまるで浸透しなかった。日本によるフィリピンの占領地行政は、支離滅裂でほとんど正視に耐えない、と言ってよかった。フィリピンの民心は日本軍を離れ、軍事同盟条約など結べるような状態ではなかった。ラウレルは「率直に言って、日本はフィリピン人の心理をつかむに失敗せり。フィリピン民衆はこの3年間、初めて多数の日本人と接触して残忍なる民族なりとの観念を抱くに至れり。その掲げる理想は我らの共鳴措く能わざるものなるも、その行なうところは民衆の生活を顧みず、かえってこれを不安ならしめ、軍に対する不満不平の声は漸を追って(=徐々に)全国に瀰漫す(=広がりはびこる)。殊に憲兵の苛烈横暴に対する反感は、政府要路の者に至るまで浸潤し、到底救うべからざるに至れり」と指摘した。「日本はなぜ、かつての台湾総督 児玉源太郎が台湾を統治した方法に則り、力を持って強圧するのではなく、人情を持ってフィリピン民衆に臨まなかったのであるか。これが日本の失敗と言わずして何であろうか。」(同)「日本の占領はスペイン時代を再現したようだ。しかもスペイン時代は名目だけでも裁判制度があったのに、日本の憲兵は、裁判も何もなく、相手が何人だろうと意に介しない。これは日本の比島政治史上の大失敗である(ベニグノ・アキノ国会議長)。」日本占領軍に対する幻滅と落胆の奈落に沈みつつ、それでもラウレルは「独立」を目指す。すでに米国によって1946年にフィリピンの独立を約束されていたが、戦時中の状況下で、フィリピンが敢えて独立に踏み切る必要があったのは。「米国だって1946年になれば、どう態度を変えるか分かったものではない。植民地の人間は宗主国に対し、深い不信感を持っているんです。だからどんな機会でも捉えて、独立の夢を叶えなくちゃいけない。たとえ東条首相の勧めだろうと、戦局の前途が思わしくなかろうと、チャンスはチャンスなんです」(ラウレル大統領二男ホセ・S・ラウレル3世談)という事であった。

U.大東亜共同宣言
  抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは、世界平和確立の根本要議なり、然るに米英は自国の繁栄の為には、他国家他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望を逞うし、遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す。
  大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す
1、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す
1、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
1、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昴揚す
1、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
1、大東亜各国は万邦との交誼を篶うし、人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を解放し、以て世界の進運に貢献す

V.敗戦後の東南アジア
1.インドネシアについて
  1945年8月17日インドネシア独立宣言(昭和20年7月17日に日本は独立を容認した。イスラム教徒のスカルノはキリスト教徒による西暦を取るのを嫌った結果、日本の年号を取ることになったのだろう―深田)。この後、インドネシアは英軍及びオランダ軍と戦争に入る。独立維持の戦争の中心はPETA(郷土防衛義勇軍)であった。そして敗戦後日本への望郷の思いを捨て、インドネシアに残り、「アジア開放」の理念を信じ、オランダに対する独立戦争に参加した約1000名の日本兵がいた。彼らは国立墓地に手厚く葬られている。1949年12月27日インドネシア独立を勝ち取る。
  "Unknown soldiers who devoted their life to the war of independence… Indonesia will remember you forever"(ジャカルタ・カリバタ基地)
  「独立戦争に命を捧げた名もなき兵士たち、祖国はあなたたちを永遠に忘れない」
2.ビルマについて
  国防大臣アウンサンに率いられた15000名のビルマ国軍は1945年3月17日、ラングーンで日本への協力のため出陣式を行うが、27日にはビルマ国軍を人民独立軍と改名して日本に宣戦を布告、日本軍に対し前面攻撃に出る。バー・モウはアウンサンとこの日本軍に対する宣戦布告を打ち合わせ済みであった。日本の敗戦後、ビルマが独立を維持するためにはアウンサンに日本軍を攻撃させ、「反日」の証を残しておかねばならぬ、そうバー・モウは考えた。彼の判断では、国防大臣アウンサンが日本国軍攻撃という「反日の証」を作ることによって戦後を生き抜き、うまくいけばビルマの独立も維持できアウンサン自身も延命できるだろうが、首相の自分は英米に宣戦布告した「職務権限」から連合国側の格好の標的になるので、日本に亡命する以外にないと判断した。新潟県の六日町に隠れ住んだが、結局昭和21年1月18日英軍に自首し8月に釈放。
3.インドについて
  また戦後、戦勝国のイギリスがインド国民軍(INA)の幹部たちを反逆罪の名においてニューデリーで裁判に付したことによって、インドは独立の機会をつかんだ。イギリス側の心づもりとしては、この裁判をみせしめとし、INAの将兵に厳罰を与え、インド人の絶対服従を要求しようとしたものだが、インド人はもはや昨日のインド人ではなかったのである。INAはインド開放という大儀のために戦った英雄たちであった。全インドの民衆たちは抗議のデモに立ち上がり、ストライキを繰り広げた。イギリス官憲は伝統的な容赦ない武器による弾圧で押さえ込もうとしたが、今度はインド人は屈しなかった。インド議会の国民会議派の領袖たちは裁判の不当、武力弾圧の不当を糾弾するのみならず、日本に対する「戦犯裁判」に対しても声高に抗議し、連日の新聞の紙面を埋めた。曰く、広島・長崎に原爆を投下したトルーマン大統領こそ新の戦犯である。曰く、赤十字の標識をつけた日本の病院船阿波丸を撃沈した米海軍こそ裁かれるべきである。このとき日本とともに戦ったチャンドラ=ボースこそ彼らの先達であった。インド民衆は久しく彼らの耳元になり続けていたガンジーの非暴力の訴えを捨てた。この裁判に弁護側証人としてニューデリーに呼ばれていた藤原岩市少佐に対して、インド側首相弁護人だったデザイ博士は日本の敗戦に深い同情と励ましの言葉を述べた後、「インドはまもなく独立を獲得する。その契機を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドのみならずビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族共通のことだ。インド4億の民はこれを深く肝に銘じている。インド国民は日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりである。他の東南アジア諸民族も同様と信ずる」と語っている。(インドは他国に先駆けて単独で日本と講和条約を結んだ)

W.日本の功績
  大東亜戦争が結果としてアジアの解放をもたらしたことは事実であるが、それに対する日本の功績は次の2つに尽きる。その第1は、有色人種が白人に勝てることを示したこと。それは20世紀に入って2度目である。もう1つは日本人が東南アジアの人に戦争の仕方を教えたことである。宗主国側は、分割統治の目的で故意に優遇した少数民族以外は、現地人にはつとめて武器の使用を学ばせないようにした。しかし日本は、民族語の普及を通じて民族意識を再興させ、エリートの要請、自治組織、現地人軍隊の編成訓練を通じて、結果としてはそれまで欠けていた独立国運営の基盤を作った。戦争の技術だけでなく、日本が教えたのは敢闘精神だった。講和条約後に早々にケンブリッジに留学した私(=岡崎久彦)が、東南アジアの留学生から異口同音に聞いたところでは、彼らが真に学んだのは、日本人の突撃精神だったという。日露戦争における白人に対する有色人種の勝利、国際連盟創設時における人種差別反対、そして大東亜戦争による白人支配の覆減、いずれも日本は利他的な目的で行ったわけではなかったが、それが与えたインパクトが歴史の流れを促進し、やがてそれが第2次大戦後の世界において結実したのである。
  大東亜戦争後、50年余りを経た今日、東京裁判による歴史観を直視すべき時期が到来しているのを痛感せざるを得ない。この裁判においては、「民主主義対ファシズム」という対立図式を硬直的、教条主義的に適用し、戦時における日本の行動全てをファシズムによる罪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、誠に不幸であった。大東亜会議は「アジアの傀儡を集めた茶番劇」では決してなかったのである。自らは敗北したが、戦後アジア・アフリカの独立という新しい波をもたらしたものは、疑いなく「大東亜戦争」であり、それは300年にわたるヨーロッパ文明による世界支配を揺るがした。

X.各国代表の証言
ア.「1943年の末、アジアの独立した諸国代表が、史上初めて一同に会する機会を持った。それは1943年11月5,6日の両日、東京で開かれた大東亜会議である。事実、これは歴史を創造した」(「ビルマの夜明け」バー・モウ)
イ.「われわれは、隔てられた人間としてではなく、全ての国民を包含した単一の歴史的家族として寄り集まっていた。こんなことはかつてなかったことだ」(同上)
ウ.「大東亜会議は、これまでの幾多の国際会議とは全然本質を異にする」(インド チャンドラ=ボース)



参考文献 「大東亜会議の真実」         深田祐介
     「再検証『大東亜戦争』とは何か」   村上兵衛
     「アジアの独立と『大東亜戦争』」   西岡香織
     「百年の遺産 日本近代外交史73話」 岡崎久彦









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