V.敗戦後の東南アジア
1.インドネシアについて
1945年8月17日インドネシア独立宣言(昭和20年7月17日に日本は独立を容認した。イスラム教徒のスカルノはキリスト教徒による西暦を取るのを嫌った結果、日本の年号を取ることになったのだろう―深田)。この後、インドネシアは英軍及びオランダ軍と戦争に入る。独立維持の戦争の中心はPETA(郷土防衛義勇軍)であった。そして敗戦後日本への望郷の思いを捨て、インドネシアに残り、「アジア開放」の理念を信じ、オランダに対する独立戦争に参加した約1000名の日本兵がいた。彼らは国立墓地に手厚く葬られている。1949年12月27日インドネシア独立を勝ち取る。
"Unknown soldiers who devoted their life to the war of independence… Indonesia will remember you forever"(ジャカルタ・カリバタ基地)
「独立戦争に命を捧げた名もなき兵士たち、祖国はあなたたちを永遠に忘れない」
2.ビルマについて
国防大臣アウンサンに率いられた15000名のビルマ国軍は1945年3月17日、ラングーンで日本への協力のため出陣式を行うが、27日にはビルマ国軍を人民独立軍と改名して日本に宣戦を布告、日本軍に対し前面攻撃に出る。バー・モウはアウンサンとこの日本軍に対する宣戦布告を打ち合わせ済みであった。日本の敗戦後、ビルマが独立を維持するためにはアウンサンに日本軍を攻撃させ、「反日」の証を残しておかねばならぬ、そうバー・モウは考えた。彼の判断では、国防大臣アウンサンが日本国軍攻撃という「反日の証」を作ることによって戦後を生き抜き、うまくいけばビルマの独立も維持できアウンサン自身も延命できるだろうが、首相の自分は英米に宣戦布告した「職務権限」から連合国側の格好の標的になるので、日本に亡命する以外にないと判断した。新潟県の六日町に隠れ住んだが、結局昭和21年1月18日英軍に自首し8月に釈放。
3.インドについて
また戦後、戦勝国のイギリスがインド国民軍(INA)の幹部たちを反逆罪の名においてニューデリーで裁判に付したことによって、インドは独立の機会をつかんだ。イギリス側の心づもりとしては、この裁判をみせしめとし、INAの将兵に厳罰を与え、インド人の絶対服従を要求しようとしたものだが、インド人はもはや昨日のインド人ではなかったのである。INAはインド開放という大儀のために戦った英雄たちであった。全インドの民衆たちは抗議のデモに立ち上がり、ストライキを繰り広げた。イギリス官憲は伝統的な容赦ない武器による弾圧で押さえ込もうとしたが、今度はインド人は屈しなかった。インド議会の国民会議派の領袖たちは裁判の不当、武力弾圧の不当を糾弾するのみならず、日本に対する「戦犯裁判」に対しても声高に抗議し、連日の新聞の紙面を埋めた。曰く、広島・長崎に原爆を投下したトルーマン大統領こそ新の戦犯である。曰く、赤十字の標識をつけた日本の病院船阿波丸を撃沈した米海軍こそ裁かれるべきである。このとき日本とともに戦ったチャンドラ=ボースこそ彼らの先達であった。インド民衆は久しく彼らの耳元になり続けていたガンジーの非暴力の訴えを捨てた。この裁判に弁護側証人としてニューデリーに呼ばれていた藤原岩市少佐に対して、インド側首相弁護人だったデザイ博士は日本の敗戦に深い同情と励ましの言葉を述べた後、「インドはまもなく独立を獲得する。その契機を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドのみならずビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族共通のことだ。インド4億の民はこれを深く肝に銘じている。インド国民は日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりである。他の東南アジア諸民族も同様と信ずる」と語っている。(インドは他国に先駆けて単独で日本と講和条約を結んだ)