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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 古代日本の先進性と支那・朝鮮との関係              平成25年3月24日 作成 正岡 富士夫



 
1 日本語列島の成立

 日本語は、日本周辺で話されていたアルタイ(バイカル湖南西部のロシア、モンゴル、支那にかけての広域)系の言葉が、旧石器人の日本列島への移動とともに伝来し、旧石器時代後期から縄文時代にかけての3~5万年の間に、日本列島内で独自の発展を遂げて練り上げられてきたものであり、どこかの言語をまとめて輸入したようなものではない。弥生時代以降現代までの日本語は、縄文時代に日本列島で話されていた言語に、その後、さまざまな要素が加えられ、混合・変化することによって成立したとみるべきである。

 縄文時代から弥生時代までの約1万年間に、話し言葉として一応の完成をみたであろう日本語は、他言語による大幅な侵食を許さないほどに堅牢なものだったに違いない。日本列島が弥生時代に入る紀元前1000年前後から、隣の大陸では強大な統一王朝が興り、異文化が日本列島にも押し寄せた。そして大陸あるいは朝鮮半島からも人々が渡来し帰化したが、日本語は彼らの言語をほとんど受け入れることなく、逆に日本語の世界に取り込んでしまった。仮に、彼らの外来の文明・文化が圧倒的に優勢ならば、日本語は支那語や朝鮮語によって塗り替えられてしまわないまでも相当な類似性を現代まで残していて不思議ではない。日本列島人の話す言語が、言語として未熟であったなら、外来の言葉をそのまま受け入れざるを得なかったはずだが、一部の例外を除いてそういうことは起こらなかった。

 朝鮮語は、ある程度日本語との類似性が認められるが、支那語にいたっては、話し言葉としては印欧語との違いほどの差があり、漢語の一部移入など漢字を通しての影響があったにせよ、文法も含め、話し言語としての類似性はまったくいっていいほどみられない。

 従来、戦前あるいは明治以前も含めて、日本の学者というものは、すべからく支那文化を、日本とは比較にならないほど高度に進歩したものとし崇敬してきた。特に、古代日本については、大陸や朝鮮半島に比べると、著しく立ち遅れていた未開野蛮な状態だとみている。
「3世紀以前の日本といえば、それは、弥生文化の中期から後期にかけての時代、石器をもっぱらとする段階から青銅器利用への、その移り変わりでさえも、まだはっきりとはみられない、むしろ原始の世界であったが、そのころ、大陸ではすでに独自の思索を展開した哲学を生み、美しい芸術の花を咲かせた高い文化をもつ民族がいた。」(『日本語の歴史1』亀井孝、大藪時彦、山田俊雄編集)といった認識を自然科学の公理のごとく考えていたのである。

 仮にそれが正しいとしたら、大陸との交流の中で、日本社会は完全に支那的な文物によって席巻されていたであろう。文明・文化の格差が著しく違えば、それはまさに津波のように押し寄せてきたであろうし、その流れは、気圧が大きく違う気団が接して強風が起こるように急流となったに違いないのである

 紀元前5世紀の春秋時代の支那の最も有名な思想家孔子は、
「支那では道徳が受け入れられないから、九夷へ行きたい」また「九夷の人々は天性穏やかな性質」と言ったと『論語』に記されている。「天性穏やかな民族」といえば、それは明らかに朝鮮民族ではない。「舟に乗って」と記されていることからも、孔子の言う「九夷」とは日本列島を指すとみてほぼ間違いない。孔子は、「怪異なこと、荒っぽいこと、理に合わないこと、神秘のこと」これらを話題とすることがなかったと、やはり『論語』に記されている。その孔子が日本列島のことをどのように知ったのかは不明であるが、既に日本列島の存在が当時の支那で知られており、孔子は少なくともそれを怪奇な類の空想物語としてではなく、事実として見ていたことを示すものである。孔子さえ日本列島に住むいわゆる「倭人」が決して野蛮だけの未開人ではないと認識していたことは見逃せない。

 日本人(いわゆる「倭」ないし「倭人」)が、支那の歴史書に登場するのは、後漢時代に班固の著わした『漢書地理誌』に記された『論衡』である。『論衡』は班固(AD32~92年、前漢の史実を記した歴史書『漢書』の編纂者として有名)の5歳年長の学者である王充(オウジュウ)という人によって書かれた。その中に、周王朝第2代の成王のとき(孔子の時代より500年ほど前)、いわゆる「倭人」が薬草を献じたという記事がみえており、支那で孔子の時代に既に日本列島の存在が知られていたことの一つの論拠になる。

成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯草(恢国篇第26)(成王の時、越裳(ベトナム)は雉を献じ、倭人は鬯草(チョウソウ)を献ず。)

 成王の在位年代ははっきりわからないが、周王朝の初代武王の息子であることから、紀元前10世紀以前の出来事だと推測される。このほかにもいわゆる「倭人」が周王朝に接触したという記事が数件みられる。つまり、孔子が日本列島のことを耳にしていても不思議はないのである。周代は、日本の弥生時代初期から前期に相当する。その当時、既に支那では日本列島の住人に対する認識があったとみられ、もちろん日本列島人も支那に対する知識が多少はあったと考えられる。同時に、大陸まで使者を派遣するほどの統治勢力が日本列島に芽生えていたことも示唆している。
 日本語の起源を考えるとき、縄文時代から弥生時代にかけての日本列島内における文化の成熟度は重要な意味をもつ。確かに日本列島人は明確な文字体系を持たなかった
が、縄文の火焔土器(左図)などにみられる精緻巧妙な造形美のなかに表現された高度な知性は、文字文化に匹敵するほどの何かを感じさせるものがある。

 人類は遥か昔の猿人の時代から石器、木器、骨器などの道具を作り続けて来た。約200万年前、旧石器時代に入ると、旧人(現生人類ではない)であるネアンデルタール人などが多くの道具を作った。それらの遺物の素材は石や木であるが、当然ながらそれらの道具は素材の質量を減らす工程を経て作られた。打ち欠いたり、削ったり、くりぬいたりすることによって目的の形を整えるということである。
 ところが土器の製作は、その工程が著しく異なるものであり、それは粘土を積み重ねて質量を増していきながら目的とする形を造り上げるという、人の持つ最も優れた資質である高度な創造性を伴う作業であった。1万6500年前、日本列島人は、世界に先駆けること約1万年も前に、この創造的な土器製作に着手したのである。その縄文土器には多くの非対称文様が組み込まれている。その破調が縄文土器のダイナミズムを醸し出しており、岡本太郎氏をして「四次元との対話」と言わせしめたものである。

 この非対称性について、石井匠氏(國學院大学研究開発推進機構・研究員、専門分野:考古学、比較文化論)は「縄文土器の文様構造」の中で詳しく論じ、縄文人が何らかの明確な意図をもって破調の激しい文様を描いたとしている。当時の人々にそのような感性があったことは確かだろう。対称性の美を無意識に基準形としてきた後世の人々にとって、縄文人の美の追求のやり方はまったく意表を突いたものにほかならず、それが岡本太郎氏を驚愕させたのではあるまいか。

 文様は文字ではないが、「文字の様なもの」である。そこに描かれた形が、自然や人間、動物などを形象したものであればなおさらである。象形文字の一種と言っていいかもしれない。もちろん土器の表面に描かれた文様だけではなく、火焔土器のような装飾性の著しい土器においては、土器の形状そのものにも製作者の野心的な企図が込められたであろう。

 石井匠氏がその著『縄文土器の文様構造』で記しているように、土器に関する研究は「考古学に寄与するための基礎的研究としての型式学的編年を精密に体系化することに呪縛され続け、今なおそこから抜け出せない蛸壺状態に陥っている」のである。

 同時に、国立歴史民俗博物館が放射性炭素C14を測定して、縄文から弥生への移行年代の探究を行ったところ、「弥生時代前期が紀元前800年」という数値を得て、これを平成17年5月に行われた日本考古学協会総会で報告した際、「それでは鉄器の使用が中国と同じになってしまう」などの怒号が会場を飛び交い、考古学会がパニックに襲われたように、縄文時代を生きた日本列島人が築いた、かなり高度な縄文文化について詳しく触れたくないという、華夷秩序に毒された考古学界の卑屈な上目づかいが見られるのである。

 石井匠氏は、「だが、忘れてはならないのは、大多数の土器の文様は器面全面を覆い、一定の形の中に文様帯や区画を与えられ、様々なリズムとパターンをもって描かれているという点である。これらの文様は単に器の装飾として捉えてみても、現代の価値観からすれば過剰な装飾であり、『装飾を超えた装飾』としか表現のしようがない」と述べている。

 現代を代表する画家である岡本太郎氏は、「この原始のたくましさ・豊かさは、超自然的な世界との激しい、現実的な交渉の上に成り立つ。自然と人間との、この生命のかねあいは動的であり、弁証法的である。あの怪奇で重厚な、苛烈極まる美観に秘められているのは、まさに四次元との対話なのである」と称賛した。氏の縄文論によって、縄文美術は日本美術の源流としての名誉ある地位を与えられたのである。
 岡本太郎氏が、縄文文化を「四次元との対話」と評し、考古学界に対し縄文文化に対する根源からの見直しを迫ったのは半世紀以上も前の昭和27年であったが、土器を単なる編年研究の道具としてしかみないという考古学界の風潮はその後半世紀以上も続き、現在もなお完全に脱しきれていない。

 そもそも文字をもつことが、特に古代において、多数の人口を擁する民族の文明の高低度を表す指標となり得るのだろうか。支那も朝鮮もごく最近まで、庶民が文字を生活の一部として取り入れたといえるほどの識字率に達していなかった。文字はごく一部の知識階級の独占物にしか過ぎず、その他大多数の庶民は「話し言葉」によってその文明や文化の構築と維持に参加してきたのである。現代のように人間の活動に関することが、例えば法令のように文字によって律せられるのであれば、文字のあるなしは、国家・国民の文明化に決定的な要素になる。しかし中世以前は、文字はごく一部の社会にしか通用しておらず、文字がなければ政治や社会生活が成り立たないというような状況はほとんどなかったと言っていい。

 歴史的に非常に高い識字率を維持してきた日本人は、もちろんその要因にはひらがなやカタカナの発明もあろうが、言語(話し言葉や抽象的文様も含めて)によって物事を表現したり、理解したり、伝えたりする民族的・言語的習慣を、縄文の昔から高度に育んできたのではないか。歴史学会等では、文明・文化の高低に対する見方を、過度に文字文化の有無によって計り過ぎる嫌いがある。中世から世界の最先進国の地位を確保し続けてきたイギリスでさえ、長い間、慣習法つまり「文字なき法」によって社会を律してきたことを想起すべきであろう。

 日本語がアルタイ系のトルコ語、モンゴル語、ツングース語、朝鮮語(左図)などアルタイ系言語の特徴を数多く共有していることは、誰もが認めるところである。日本語は、遥か有史以前に滅んでしまった古い言葉の特徴であった言語の統語法(文法構造)、膠着性(動詞の語尾に接尾辞がついて変化する性質)などを、現在のアルタイ諸語と同じように受継いできたが、旧石器時代以降、彼らとの近親性を証明できないほどに異なる進化の道をたどり、現在では一種のパラゴラス化した言語となった。それは日本列島人が大陸の人々とは異なった民族性を培った年月の長さを証明するものでもある。日本列島が完全に孤島化する縄文早期(12000年前)において、当時の日本列島人が話していた言葉は、アルタイ系の特徴をもった原始日本語であったと考えられ、それが現在の日本語の基層言語となったと考えられる。

 日本語列島になった絶対的年代がいつかはわからないが、紀元前において、あるいは縄文時代において、既に日本語は成立していたと見ていいだろう。当時の日本は、一つの政治勢力に統一されておらず、小国家に分裂し、多数の部族あるいは豪族が割拠して、少しずつ違う発音の言葉を話していたとしても、部族間の意思疎通可能な言語が、彼らの力関係の中で調整されることによって確保されていたとすれば、確かにそれは「『日本語列島』のあけぼの」と称しても問題はなく、部族間の言語の差異は、現在でいう方言程度のことでしかなかったであろう。

 紀元前後、まだ大和朝廷による西日本統一がされていない頃、日本列島上には少数の部族国家的な勢力が各地に存在しており、彼らは日本語の方言的なものを話していたものと思われる。大和朝廷による統一は、その方言的なものをある程度収斂させて、大和朝廷の勢力の及ぶ範囲での共通語・標準語を確立していったものと考えられる。したがって、日本語確立の絶対年代を記すならば、それは大和朝廷の成立時期とするのがもっとも適当といえるかもしれない。

 古墳の年代測定の進歩によって大和朝廷による統一がなされたのは3世紀後半とされるようになった。3世紀前半頃には、西日本(東は北陸、近江、美濃、三河くらいまで、西は九州)における地方勢力が邪馬台国を中心とした緩やかな連合国を形成していたと考えられている。その後、邪馬台国あるいは他の勢力による統一が進み、大和朝廷による一応の統一国家が形を整える。つまり日本語の完成は3世紀後半頃とみていい。

 弥生時代(紀元前1000年頃には始まる)においても、日本語形成に与えたさまざまな出来事が起きたに違いない。大陸においては、黄河流域に周王朝が興り(紀元前11世紀頃~紀元前256年)、その後中華文明の爛熟・動乱の時代に入る。紀元前770年から403年の春秋時代、その後紀元前221年に秦の始皇帝によって統一されるまでの間の戦国時代は、弥生時代の後期までに相当するが、当然ながらその激しい文明と文化の急激な発展と抗争は、周辺地域へ大きな影響を与えたはずである。半島においても、朝鮮民族の勃興があり、地域を束ねる政治勢力が割拠したと推測される。

 支那本土⇔朝鮮半島⇔日本列島は一つの文化圏とはいえないまでも、相互に影響を及ぼす時代に突入したのである。

 従来、弥生時代とは、水稲稲作や金属器が伝えられて、渡来系の人々がたくさん帰化し、大陸からの外来文明によって日本列島が急速に文明化し、国家体制へ移行する時期と考えられてきた。その古典的ともいえる歴史観を全否定するものではないが、それでは当時の東アジア情勢のダイナミックな動きが見えてこないのである。

 東アジアのさまざまな地域のヒト集団がそれぞれの地域で新しい技術を獲得しつつも、それまでは地域ごとの舞台しか存在しなかったのが、東アジア全域を舞台として、人類が本格的な文明活動を開始し、各地域間の交流が活発化し、経済的な繋がりが強まり、軍事的な繋がりなどが芽生え育っていったのが、弥生時代であったとみるのが適切だ。

 弥生時代を日本列島の中だけの出来事例えば水田稲作の開始だけと見て、日本が一方的に大陸や朝鮮半島から影響を受けて豊かな国になった時代といった狭い視野で見たのでは、この時代の歴史的意義が本当の意味で理解できない。

 当然、新しい文物の交流に伴ってそれに関連した言葉が日本語の中に取り入れられることもあった。特に、支那語が日本語形成に与えた影響は決して小さくない。顕著な例が「ラ行」の単語である。本来の日本語の特徴の一つは「r」が語頭に立たないことである。したがって、今日の日本語で「ラ行」で始まる単語はすべて外来語である。
欧米の言葉を除けば、そのほとんどは支那からの輸入単語であることからみても、その影響の大きさを理解できる。しかし、日本語と支那語は、話し言葉に関する限り、日本語と英語との違いほど異なった言語である。支那語が日本語へ与えた影響というのは近世に入ってオランダやポルトガル、近代に入ってイギリスやアメリカなどからやってきた外来語と同程度のものであったというのが実態に近いと考えられる。

2 日本語確立期の東アジア情勢
(1) 三国史記
 

 縄文時代すなわち紀元前1000年以前には既に日本列島は「日本語列島」になっており、話し言語として概ね出来上がっていた可能性が高いことは述べた。

 しかし、その言葉は地域間の差異が大きく、日本列島共通の言語としての統一性は不十分だったに違いない。日本列島内では、紀元前後頃から地域勢力の集合・収斂によって国家らしき枠組みが生まれていた。当時の大陸では、日本は「倭」とよばれていたが、そのいわゆる「倭」は当時の東アジアにおいて後進地域ではなかった。そのことを客観性のある形で具体的に明らかにしたのが、高麗王朝の正史『三国史記』である。この三国とは、いわゆる『三国志演義』の「魏、蜀、呉」ではなく、朝鮮半島における王朝の「新羅、高句麗、百済」のことである。

 『三国史記』は、1145年高麗17代王である仁宗の命を受け、功臣かつ実力者であり儒家としても著名であった金富軾(キムプシク)という学者によって編纂された高麗朝の「正史」であり、高麗国の出自に関する正規の統一見解及びいわゆる歴史認識を示したものである。つまり、由緒正しき史書であり、ここに書かれていることは神話的な部分を除き、一応一定の根拠となり得るものと見ていい。金富軾は当時の古文書、史書を調べ上げて、支那の正史の形式に倣ってまとめた。その構成は上図のとおりである。

(2) 朝鮮半島情勢
日本列島と同じく朝鮮半島においても、旧石器時代から人類が定住し始めたことは間違いない。紀元前8000年頃から新石器時代が始まり(日本列島より8000年以上遅い)、紀元前1000年頃から青銅器時代が始まったとしている(『韓国国定歴史教科書』)。

 紀元前2333年、卵から生まれた檀君による「檀君朝鮮」が建国され、その後、殷の亡命者箕子によって建国された「箕子朝鮮」が存在したとされているが、両国とも歴史的証拠がなく神話とするのが定説である(『韓国の教科書』では実在国と教えている)。

 岡田英弘氏の『日本史の誕生(筑摩書房2008)』によれば、戦国時代の朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路沿いに、支那商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられたという。戦国時代、朝鮮半島の西部に接し遼東地方を版図に入れていた「燕」は、「朝鮮」(朝鮮半島北部)、「真番」(朝鮮半島南部)を略属させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、支那商人の権益を保護していた。これらのことは支那本土⇔朝鮮半島⇔日本列島の間で一種の経済圏のようなものができていたことを示唆するものである。

 支那本土が秦によって統一されると、秦はこれを遼東郡の保護下に入れた。紀元前197年、漢の時代に入ると遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が、仲間ともに支那人・元住民の連合政権を朝鮮半島北部に樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認し、「衛氏朝鮮」が成立した。この「衛氏朝鮮」( 紀元前195年?~紀元前108年)が考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家である。「衛氏朝鮮」は紀元前108年に漢の武帝によって滅ぼされた。その故地には「楽浪郡」、「真番郡」、「臨屯郡」、「玄菟郡」の漢四郡が置かれ、支那王朝はその後400年間、朝鮮半島中・西北部を支配した。

 その頃朝鮮半島南部には衛氏朝鮮とは別民族による鉄器文化をもつ「辰国」(紀元前3~2世紀)が存在していたといわれる。

 「衛氏朝鮮」の滅亡以降、朝鮮半島は小さい勢力が割拠する時代が続いたと考えられるが、『三国史記』においては、まず「新羅」が紀元前57年に建国され、その20年後の紀元前37年に「高句麗」が建国、その19年後の紀元前18年に「百済」が建国されたとしている。しかし、史実と言われるのは「高句麗」の建国の事実だけであり、「百済」は紀元後346年(近肖古王)、「新羅」は紀元後356年(奈忽王)というのが現在の通説である。

 『韓国国定歴史教科書』では、百済については、紀元前18年、馬韓の一国である「百済国」から始まり、4世紀、近肖古王のとき中央集権国家として全盛期を迎えたとし、「新羅」については、紀元前57年辰韓諸国の中の慶州平野にあった「斯廬国(さろこく)」から始まり、4世紀後半の奈忽王のとき全盛期を迎えたとしている。

 紀元前後から3世紀にかけての朝鮮半島及び日本列島は、諸国の勃興、滅亡、集合離散、政権交代が頻繁に起こり、極めて不安定な状態にあった。朝鮮半島は4世紀以降、「高句麗、百済、新羅」のそれぞれの国家権力が確立して3国分立状態に至るまでは小勢力同士の小競り合いが続いたものと思われる。

 日本列島は朝鮮半島よりは早く国家統一が進み、遅くとも3世紀後半には大和朝廷の成立を見た。朝鮮半島の統一権力が弱体な紀元前後から4世紀後半にかけては、日本の勢力が韓国南部に進出していたことはほぼ確実である。

 後漢書東夷伝に建武中元二年(西暦57)「倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」と記されているとおり、紀元後57年には倭の国王が後漢に遣使し、後漢と正式な国交を行っている。印には「玉、金、銀、銅」があり、綬の色には「綟(レイ)(萌黄)、紫、青、黒、黄」がある。漢朝の諸国王(内臣)には「金璽綟綬」が授与され、外臣にはそれより一段低い「金印紫綬」が授与された。支那の正史によれば、この時代、朝鮮の部族長には「銅印」が授与されており、後漢王朝は、倭国を周辺諸国では最も格の高い一王国として認定していたことがわかる。ちなみに、邪馬台国女王卑弥呼は魏の皇帝から「金印紫綬」を、琉球王は明や清の皇帝から銀印を授与されていた。

(3) 朝鮮半島における日本列島人の勢力
 後漢書東夷伝にある「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」(前述)とする記述の意味について、過去さまざまな解釈がなされてきた。この記事そのものに対する信憑性も問われたが、1784年、福岡県志賀島で偶然発見された金印(右図)によってその事実が確認された。紀元後すぐという早い時期に、日本の一部族国家が後漢との国交を開くほどに発展していたことは注目すべき史実である。「倭奴国」の王が大夫と自称する使者をもって朝貢させたことはほぼ間違いない。大夫は、春秋戦国時代は貴族、小領主を指したが、その後は地方の長官を意味し、さらに漠然と身分のある者あるいは大臣級の地位にあるものを指したようだが、後漢書が編纂されたのは5世紀であることから、倭奴国の出先機関の長である可能性が高いと思われる。

 当時、支那王朝においては「金印紫綬」は一国に授与されるものであり、国の中の一地方政権には授与されないということから倭奴国=倭国とする説もあるが、予断をもたずに読めば、「倭奴国」と「倭国」とは明らかに別の国として扱われている。支那王朝から見て「倭奴国」が一国に値する力を持っていれば別に不自然なことではない。

 素直に解釈すれば、「倭奴国」は「倭国」と南の界で接する領域と解釈すべきであろう。そして、金印が玄界灘の志賀島で発見されたことを素直に受け取ると、「倭奴国」というのは九州北岸から北へかけての領域を占めた国であったと考えられる。
 『三国史記』によれば、紀元前50年「倭人が出兵し新羅の辺境に侵入しようとしたが、新羅の始祖(朴赫居世)には神のような威徳があると聞いて引き返した」という記事がみえる。紀元後11年には「倭人が兵船百余隻で海岸地方の民家を略奪した」とある。また、第4代の王、昔脱解の3年(紀元後59年)の夏、倭国と国交を結び使者を交換したとあり、紀元後73年には「倭人が木出島に侵入した。王は角干羽烏(カクカンウウ)を派遣したが敗れた」とある。その後も倭人による半島進出は続いた。九州あるいは対馬から海を渡ってしばしば侵攻することは、当時の海運力を考えればかなり困難な事業であり、侵攻するとなればそれなりの大きな目的を持ちかつ不退転の決意でもって出陣しなければならなかったはずだ。元寇において、フビライのあの大軍をもってしても九州に上陸侵攻できなかったことからも推量できよう。とすれば、結論はただ一つである。倭人の根拠地は朝鮮半島にもあったのだ(右図)。

 1980年代以降、韓国で前方後円墳の発見が相次いだ(下図)。当初、前方後円墳も朝鮮半島から日本列島へ文化伝播したと喧伝されたが、放射性炭素C14を使った精確な年代測定により、日本より2~3世紀後の5~6世紀に築造されたことがわかった。古墳文化は日本から朝鮮へ伝播したというのが真実だったのである。古墳は半島南西部に多く分布している。百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとされる全羅南道に11基、全羅北道に2基確認されている。

 前方後円墳が集まる全羅南道を流れる榮山江流域(左図)では、墳丘形態と円筒埴輪などの外部施設、甕棺による独特な埋葬法や九州北部でも発掘されている鳥足文土器の副葬品などが見つかっている。榮山江流域は、周囲とは異なる文化を持つ地域であったことが見受けられる。このことから、被葬者については、大和朝廷によって当地に派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族、あるいは倭人系百済官僚であるとする見解や、いずれも倭国と縁のある東城王・武寧王に随伴した倭人有力者とする見解などが出ている。榮山江流域には倭人が住んでいたという説も存在する。
 このような考古学的事実からも、倭人の朝鮮半島進出はかなり活発であったことが推定される。しかも前方後円墳をもって埋葬するほどの権力者が存在したことも確実だ。その権力者に対して、後漢の皇帝が「金印紫綬」を授与するのも不思議なことではない。



 当時の支那王朝は、朝鮮半島における高句麗と百済に対する見方と同様、朝鮮半島南部~対馬~九州北岸に勢力を張っていた倭奴国と、日本列島内部に勢力を張っていた倭国とは別の政治勢力として見ていた可能性が高い。

(4) 新羅建国に深く関わった日本列島人(別図第1参照)

 「三国史記」の第1巻は「新羅本紀」である。初代の朴赫居世(ボクカッキョセイ)の38年(紀元前20年)2月、新羅が瓠公(ココウ)という重臣を、辰韓と卞韓(ベンカン)を攻めた馬韓に派遣し、平和交渉にあたらせたとみられる記事がある。この瓠公はもともと倭人で、瓢を腰にさげて海を渡って新羅に来たと記述されている。

 紀元後57年、第4代の王に昔脱解(セキダッカイ)という日本列島出身の人物が就いた。昔脱解は、紀元前5年、日本列島から流れて来た賢者で、2代目の南海王によって見出され、王の長女を娶り、紀元後7年から50年間、王最高補佐職の大輔(タイホ)に任じられ、軍事と国政を司った。新羅草創期の功労者であるとともに、最高実力者だったといえよう。

 昔脱解は、倭国の東北1,000里のところにある多婆那国の国王と女国の王女の間に生まれたとされる。しかし生まれたときの姿は大きな卵であった。多婆那国の国王は不吉だとして棄てることを命じたが、王妃は捨てるに忍びず、絹に包んで宝物とともに箱の中に入れ、海(日本海)に流した。朴赫居世の治世下の紀元前19年、辰韓の海岸(朝鮮南部東岸)に流れ着き、老婆に拾われて育てられた。壮年になるにつれ身長が9尺にもなり、その風格は神のように秀でてその知識は人々に抜きん出ていたという。

 朝鮮半島では聖人や賢人はしばしば卵生によって生まれるとする説話が多い。新羅始祖の朴赫居世も卵生と記されている。朝鮮半島においては、抜きん出て優れた人物は、常人ではなく特別な形をもってこの世に現われるという考え方が根強くあったことを示す。

 昔脱解のこの説話は、新羅の建国に倭人が深く関わっていたことを示唆するものである。昔脱解が生まれながらにして豊富な知識を持っていたということは、彼の出身地である日本列島の日本海側に沿った多婆那国が文明の進んだ国であったことを暗に示すものでもある。

 昔脱解は王位に就くと、瓠公を大輔に任じ国政の舵取りをさせる。倭人すなわち日本列島に出自を持つ二人が国の№1と№2を占めたということである。『三国史記』に明確に記されているこのことは、それが史実でなかったとしても、その背景にある朝鮮半島と日本列島の関係における一定の状況を示したものではなかろうか。

 『三国史記』は、新羅の正統を引き継ぎ、禅譲(これは建前で、実際には武力で打倒)を受けて成立した高麗王朝によって書かれた正史である。その正史に日本列島出身の優れた人物とその子孫によって新羅の王統が守られたことを明確に書いていることは何を示すのであろうか。仮に、倭が遅れた国であり、劣等な人物が多い未開の民族だという認識が主流であったのなら、神話といえどもそのような設定の話を創ることは絶対と言っていいほどないはずである。日本列島出身であることは、当時の朝鮮半島の社会において胸を張って誇れることであり、少なくとも恥ずべきことではなかったということだけは断言してもいいだろう。

 新羅の王統は、朴(バク)、昔(ソク)、金(キム)の3氏によってリレーされた。紀元前57年~935年までの約1000年間、56代の王によって継承され、そのうち朴氏が7代、昔氏が8代、残りの41代が金氏である。

 昔脱解の治世の紀元後65年の項に、「春三月、王はある夜、金城西方の始林の中で、鶏の鳴き声を聞いた。夜明けになって、瓠公にそこを調べさせたところ、金色の小箱が木の枝にかかっていて、その下で白鶏が鳴いていた。瓠公は城に帰って報告した。王は役人にその箱をとってこさせ、これを開かせた。すると、小さな男の子がその中にいた。その姿や要望が優れて立派であった。王は大変喜んで、左右の近臣に、『これはきっと天が私に跡継ぎとして下されたのに違いない』と言って、この子を手元において養育した。大きくなると、聡明で、知恵もあり、機略にも富んでいた。そこで閼智(アツチ)と名付けた。彼が金の箱から出てきたことにちなんで、その姓を金氏とした。また、始林を改めて「鶏林(ケイリン)」と名付け、この閼智が後世、新羅王室の始祖になったことによって、後世、「鶏林」を国号とした」と記されている。この一節から、金氏の祖は、昔脱解によって見出され、創られたことがわかる。昔脱解は朴家に婿入りした立場であり、王妃は第2代王の南海王の長女である。王妃以外の女に子供を産ませたことを王妃に知られることは憚れたであろう。だから、自分の子でないことを示すために別姓を与え、かつ、「これはきっと天が私に跡継ぎとして下されたのに違いない」と言って、自分の跡継ぎであることを近臣の前で明言したと見るのが自然である。つまり金氏は昔氏の非嫡流の傍系であり、新羅は9代以降、倭人の子孫によって56代まで続いたことを『三国史記』は暗に主張しているのである。

 もちろん以上の話はいわば神話であってそれをそのまま受け取るということではない。とはいえその説話には高麗王朝が自らの正統性を主張するための何かが含まれていると見るべきだ。金氏によって新羅の王統が受け継がれてきたことの正統性の根拠を示すことが、ひいては新羅王から禅譲を受けた高麗の正統性を証明することになるからである。高麗が高句麗(高麗)の王家の継承者としてその正統性を主張するのではなく、新羅王家の継承者として自らの正統性を理論立てるに際し、金氏がいわゆる「倭人」(当時日本列島日本海側に所在した先進国)の末裔であることが必要だったと考えるほかはないのである。

(5) 古代日本の先進性(別表第1参照)

 『宋書倭国伝』(439年、宋の文帝の命により編纂が始まり、502年南斉の武帝によって完成)によれば、451年、宋朝の文帝は、倭王済(第19代允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の号を授けたと記述している。また、478年、当時の大和朝廷(倭王武:第21代雄略天皇)は、「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること九十五国」と上表したことが記されている。朝鮮半島へも進出しその勢力下に入れたことを明言しているのである。

 宋の皇帝は詔を以て武(雄略天皇)を「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」と叙爵したことも記されている。この叙爵は、宋の皇帝が倭王(武)の朝鮮半島支配を認めたということであり、当時の日本が東アジアにおいて大きな力を持っていたことが見て取れる。

 『三国史記・新羅本紀』において、新羅が支那王朝へ朝貢したという最初の記述は第24代真興王の564年である。北朝の斉に朝貢し、翌年真興王が「使持節、東夷・楽浪郡公、新羅王」に叙爵されたと記されている。594年、隋の煬帝が詔を下して、第26代真平王を「上開府・楽浪郡公・新羅王」とした。この叙爵は決して低くはないが、倭王武に贈られた「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍」よりは貧弱といえよう。

 「使持節」とは最高の人事権を皇帝から与えられたことを示すものである。大臣級の高官を除くほとんどの者に対する処罰権を有するとされる。この下に、「持節」と「仮節」がある。朝貢してくる国は一応独立国であるから、「使持節」が付与されるのは当然であろう。

 「都督」は「諸軍事」と合わせて使われ、最高の軍事権が付与されたことを示す。
 「上開府」または「開府」は、独自の政庁の開設を認めるという意味での称号である。
 「郡公」は、「王」、「郡王」、「国公」に次ぐ4番目の爵で、この下に「県公」、「県候」、「県伯」、「県子」、「県男」と続く。

 新羅は第30代文武王(在位661~681)のとき朝鮮半島を統一するが、このとき唐朝は「開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王」に綬爵する。「開府儀同三司」は、
皇帝の臣民としては文官に与えられる最高の官名であり、「楽浪郡公」から「楽浪郡王」へ格上げされ、位階は従一位とされた。

 7世紀半ば唐の時代に完成した、隋を扱った支那の正史『隋書』〈巻81列伝第46東夷?国〉には、「新羅・百濟は、みな?を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」とあり、「百済」、「新羅」が、いわゆる「倭」を尊敬して仰いでいたとし、使いを通わせていたというのである。

 607年、聖徳太子は、「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた小野妹子を遣隋使として派遣した。これに対し、隋の煬帝は激怒したものの、答礼使を翌年派遣した。その遣使である裴世清の一行が朝鮮半島を経由して倭を訪れた際の見聞をもとに上記のことが書かれたものである。

 またその見聞記によれば、「王国(倭国)の人々は華夏人(支那人)と同じで、蛮族と言われるのは理解出来ない」としている。遣使の裴世清は、隋朝において相当の知識人であったことは疑いなく、彼の目によって観察された当時の日本は支那と同様に開けた国家となっており、決して文明的に遅れた国でなかったことがこのことでも証明されているのである。

 『三国史記』には、倭軍がかなり頻繁に新羅を攻めたことが記録されており、その盛んな進出ぶりに驚かざるを得ない。『三国史記』の中に記された倭あるいは倭人関連の記事を別表第1に示す。

 17代の奈忽王以降は神話ではなく実在したと言われている。18代の実聖王のとき(402年)、倭国と国交を結び、先代王の王子の未斯欣(ミシキン)が人質として倭国へ送られたとしており、新羅が、倭国に屈服の姿勢をとったことを示すものである。

 これらの記事からわかることは、誤差があったとしても侵攻の頻度が極めて高く、いわゆる「倭人」は海上から船団を組んで侵攻する場合が多い。そのような行動は、いわゆる「倭国」が朝鮮半島の南部及びその周辺の島嶼群や対馬に根拠地を置いていなければとても無理だと思われる。

 731年が最後の日本の朝鮮半島侵攻記事である。日本側の記録と符合しないことが多いが、日本列島と朝鮮半島の関係における雰囲気は一致するところがある。663年に「百済」が、668年に「高句麗」が滅び「唐」が半島経営を完全に放棄した735年頃から「新羅」の対日本外交に無礼な面が多く見られるようになり、日朝関係は冷却化する。
しかし、日本と「新羅」の関係は総じて日本優位であったことは間違いない。

 698年に「高句麗」の故地に「渤海」が興り、727年以降、ほぼ毎年のように日本に入貢するようになる。「新羅」にとっては北方の国境を接する「渤海」と南の国境を接する日本との友好関係は必ずしも愉快なものではなかったろう。

 929年、衰退期を迎えた「新羅」は、日本への朝貢を申し出るが、日本はこれを斥けた。既に日本は、894年に菅原道真の進言により遣唐使を廃止していた。その理由の一つに既に大陸から学ぶものは少ないということがあった。日本はそれ以降完全に華夷秩序から脱却し、大陸や半島とは大きく異なる国家・社会への発展の道を歩むことになった。支那や朝鮮半島があくまでも中央集権的な制度を固守したのに対し、社会や技術の発展に柔軟に対応し得る分権・封建制国家へと進んだのである。それは地方の発展を促進し、地域間交流と競争によって活力を生み出し、わが国独特の地域の庶民文化と独立心を育む原動力となった。

 紀元前後の東アジアの歴史を朝鮮半島中心に見ながら、日本列島人の文化的レベルについて検討してきた。日本列島に住む人々、すなわち縄文人である倭人は決して未開で周辺地域との比較においても大きく遅れていなかったということはほぼ断定してもいい。

 昭和62(1987)年、司馬遼太郎はケンブリッジ大学の英国日本学研究会主催のシンポジウムにおいて、次のように講演したといわれる。(「日本人ルーツの謎を解く」長浜浩明 平成22年5月27日 展転社より)

 〈まさしく日本列島は、太古以来、文明という光源から見れば、紀元前300年ぐらいに、稲を持ったボートピープルがやって来るまで闇の中にいました。この闇の時代のことを「縄文時代」といいます。旧石器時代に続く時代で、この狩猟採集生活の時代が8000年も続いたということは驚くべきことです。文明は、交流によって生まれます。
他の文明から影響を受けずにいると、人類はいつまでも進歩しないということを雄弁に物語っています〉

 日本歴史に深い洞察を加え、過去に生きた先人たちの心、精神活動を驚くほどの想像力で現代に生き返らせてきた司馬遼太郎でさえも、文明は支那から朝鮮半島経由で伝えられ、それによって日本列島人はやっと文明のかけらを手に入れることができたという、一種の華夷秩序的文明観の呪縛から脱却できなかったのである。

 山本七平が『日本人とは何か』(1989年9月PHP文庫)の中で次のように書いている。

 〈「日本人」―外国人はこの名称を付された民族に、「何か理解しかねるものがある」という感じを持つことがあるらしい。その感じから出たらしい質問に接した場合、私はだいたい、次のように答える。「日本人は東アジアの最後進民族です。先進・後進を何によって決めるか、どのような尺度を採用するかは相当に難しい問題でしょうが、例えば数学ですね。中国人は偉大な民族で、西暦紀元ゼロ年ごろ、既に代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国的に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却した状態です。この水稲栽培すなわち農業に不可欠なのが正確な暦ですが、ヨーロッパ人がメトン法(19年7閏の法)を発見したのが紀元前432年、一方中国人は紀元前600年ごろにすでにこれを発見していました。中国人は超先進民族です。そのころの日本ですか?縄文後期でまだ石器時代、もちろん農業も知りません。当時の中国と日本とを比較した人がいたとしたら、その文化格差は、まさに絶望的懸隔と見えたでしょう。常にそう見られても不思議でない民族なんです。いわば、人類史を駆け抜けて来た民族なんです。ではいつごろ発生したかですか。それは・・・・」〉

 山本七平もまた国際的な感覚を交えて独特の日本人論を展開した碩学であり、その鋭い史観は他に追随を許さないほどのものがある。その山本七平にして弥生・縄文時代以前の日本観についてだけは、あたかも華夷秩序の申し子のような固定観念によって塗り固められているのである。

 本論はこのような1000年以上にも及ぶ日本人の固定観念への挑戦状のつもりである。確かに大陸からたくさんの考え方(思想)・制度や技術を受け入れたが、それらを単にそのまま受け入れるということではなく、日本列島人の寸法に合うように修正、変革し、不都合なものははじき出してきたのである。科挙制度、宦官、族外婚、易姓革命、纏足など日本以外の周辺民族が模倣しても日本だけはまったく無視した制度や習慣が多いように、古代の日本人には凛として自らの考えを押し通す気概があったと考えたい。

 紀元前108年に漢の武帝が楽浪郡を設けたとき、すでに「倭人」と「韓人」を別種族と見ていたが、その理由は外見ではなく耳にする話し言葉の著しい違いであったろう。現在の日本語と朝鮮語は文法構造や一部の単語に類似性があるが、言葉として口から発せられたときその違いは歴然としている。話し言葉にはその民族の性格も反映したところがあり、倭人である縄文人が話す言葉には、孔子が「天性穏やかな人々」と評したように現在の日本語例えば京都方言に代表される穏やかさを感じるような響きがあったのではないだろうか。

3 大和朝廷(律令国家)の福祉政策と交通インフラ整備

(1) 人民救済(福祉政策)(別表第2参照)
 第38代天智天皇以降の律令制下での出来事を『書紀』や『続日本紀』から俯瞰したとき、千年以上昔の古代社会ゆえに驚くことがある。それは、古代大和朝廷の一種の福祉政策である。現代日本よりも進んだ福祉政策であったといえば眉唾に聞こえるが、時代による社会や技術の進歩を勘案して補正すれば、21世紀の現代日本よりも優れていると思われほどである。当然ながら古代においても、日本は自然災害列島であり、特に、各地方で台風や旱魃によって人民が飢える事態が頻繁に起きている。大和朝廷はそのたびに医師の派遣や食糧支援と税の免除などを行い救済している。

 『続日本紀』に記された記事(第42代文武紀~第44代元明紀)を別表第2に抜粋・列挙した。元正紀に入ると、人民救済等の記事は見られないようになり、中央貴族、官人に対する褒賞や人民統制に関する記事が目立つようになる。霊亀元(715)年12月11日の三つ子褒賞記事を最後に元明紀での記事は見られない。聖武紀には神亀4(727)年、神亀5年及び天平5(733)年に同様の記事が10件ほど見られる。

 ちなみに、朝鮮半島においても、前述の『三国史記』に旱魃などの自然災害の記述があり、政府が貧民を救済したというような記事は見られるが、多産を褒賞したような記事はなく、飢餓のため人民がお互いに殺し合って食べたという記事も散見される。

 聖武天皇の後、第46代孝謙天皇(女帝)、第47代淳仁天皇、重祚・第48代称徳天皇(女帝)と続くが、人民救済等の記事は淳仁紀を除き、元明紀以前に比し少なく、また救済内容もやや冷ややかである。人民救済よりは朝廷内の勢力扶植、大納言以上の高位高官に対する褒賞あるいは皇太后や太上天皇の病気平癒を祈願するための財政支出が目につくようになる。孝謙(称徳)天皇の道鏡に対する過剰な執心はその最たるものであり、この女帝の治世は比較的悪政であった。

 中央集権制の最大の弊害は、いつの時代も中央ではなく地方にある。近代以前の世界では、中央から地方へ派遣された官吏の腐敗を防止することはほとんど不可能と言っていいほど難しかった。支那や朝鮮が近代まで時代的発展を成しえなかった最大の理由は、中央集権制から脱しきれなかったことにあったと考えられる。

 もちろん地方分権社会においてもよき領主・優れた統治者・名君に恵まれなければ、人民はしばしば苛斂誅求に呻吟することがあった。ただ、封建国家においては、人民を食わすことのできない領主は、周辺の勢力によって滅ばされ、淘汰される力が作用した。中央集権国家においては、地方がどんなに腐敗しても国家全体としては存続することが可能であり、それによって地方の権力構造も維持されたのである。
 日本の律令制の崩壊も官吏の腐敗によって決定的になった。もちろん根本原因は、共産主義のごとく人間の本性を無視した班田制にあったが、養老7(723)年の三世一身法、天平15(743)年の墾田永代私財法と土地所有の自由化を進めたにもかかわらず、中央集権体制の綻びは拡大していったのである。

 天平16(744)年、聖武天皇は、巡察使を畿内と七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海)に派遣、次のように勅したと『続日本紀』は記している。「この頃聞くところによれば、諸国・諸郡の官人らは法令を正しく行わず、空しく巻物の中に放置して、法律を恐れはばかることもなく、ほしいままに自己の利益を求めて、そのため公民は年々疲弊し、私人の宅は日々に栄えていくという。朕の頼みとする臣下たちが、このようであってよかろうか。・・・」
 天平勝宝5(753)年、孝謙天皇が次のような詔を出している。「諸国の国司らは、田租や出挙稲の利潤を貪り求めるので、租の輸納は正しく行われず、出挙した利稲の取り立てにも偽りが多い。このため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変むなしくなっていると聞く・・・」

 これらの『続日本紀』の記事は、律令下の地方において、中央から派遣された国司や在地の豪族であった郡司以下の役人たちが、私利を貪って私財を肥やすことに奔走したことを伺わせるものであるが、すべての国司等がそうであったわけではないにしろ、それは中央集権制が当時の社会システムに適応できないことを証明する結果になった。

(2) 律令下の交通制度(別図第2参照)

大和朝廷は、地方への統制を確保するために、運輸・通信網としての道路を整備し、駅路、駅家などを設けて、京畿から地方への通達、地方から朝廷への報告のための手段を確保した。律令国家の交通制度は、驚くほど整備されたものであり、日本が完全な地方分権国家になっていく中世まで大和朝廷の全国統治を支えたのである。

 朝廷から地方国衙への命令下達や使者などの派遣ではあらゆるケースで交通システムが使用された。
 次のような場合、地方から朝廷への報告などが義務付けられ、駅制を利用できた。
① 死亡などにより国司(守、介、掾、目)に欠員が発生
②烽火による通信で、誤情報を送信 
③犯罪者逮捕のために、武力を発動 
④謀叛などについての密告 
⑤死刑囚に対する再審の発生
⑥大陸や朝鮮から日本人が帰還
⑦支那や朝鮮から帰化
⑧祥瑞(目出度い出来事)
⑨軍事に関する事項 
⑩災害や疫病の発生 
⑪その他緊急事態

〈道(駅路)〉

 律令は、中央と地方の間の緊急的な通信・情報交換・物資輸送を、駅制と伝馬制で確保することを定めていた。大和朝廷は、下図のように東北から九州までに幹線道路
となる七道を整備した。

 古代の道は、ごく最近まで曲がりくねった幅の狭い自然発生的な道路だと思われてきた。しかし、そのイメージは著しく違っている。古代道の特徴は、きわめて真直ぐ
な直線道路であり、10数キロ以上も直線区間があるという計画道路であったということだ。つまり、大和朝廷は長い年月をかけて道路設計を行い、全国七道に直線道路で
つながった道路網を整備したのである。

 さらに古代道は、その幅が驚くほど広い。京畿では24~42m、全国的には約12m~3.6mもの幅があり、自動車でさえ十分通交できるものであった。この道路によって京畿
と全国の国府が結ばれていた。これほどの道路網を整備した目的の第一は、軍事力の動員をより円滑にするためであったと考えられている。

〈駅制〉

 駅制には道と駅家(別図第3参照)が必要不可欠である。駅は、原則30里(約16キロ)ごとに置かれることになっていたが、地形条件や通行量の多さによって長くなりあるいは短くなっていた。駅には運搬手段としての人や馬、宿泊施設、生活施設が整備されていた。大路である京畿~太宰府間の駅家には20頭、中路の東海道と東山道の駅家には10頭、小路であるそれ以外の主要道には5頭の馬が置かれた。

 駅家は当時の地域社会においては豪華な公共施設であったらしく、国司などの歓送迎会の宴会場としても使われたことがわかっている。朝廷から遣わされた勅使など高官の宿泊施設でもあったようだ。したがって遊興のための遊女などもいた。特に、山陽道の駅家は支那や朝鮮からの使者も宿泊させることがあり、念入りに整備された。
寺院や一部の官庁施設のほか瓦葺の建物が珍しかった古代において、駅家は瓦屋根の豪華な建物であった。

 駅制による情報伝達には、1人の使者が目的地まで赴く「専使」方式と文書などを駅から駅へとリレーしていく「逓送使」方式があった。8世紀の緊急通信の多くは「逓送使」によって送られることが多かったようである。駅制を使用するには朝廷が付与する駅鈴が必要であり、駅鈴に刻まれた刻みの数によって駅馬を使用できる限度が定められていた。

別表第1

「三国史記」に記された倭国、倭人、日本関連記事一覧
王代 『三国史記』の記事 備考(日本側の記録等)
59 4 倭国と国交を結び、使者を交換 〈57〉倭奴国王後漢に遣使、印綬を受ける。
73 4 倭人が木出島へ侵入。王は角干羽烏を派遣し、これを防いだが敗戦。
121 6 倭人が東部辺境に侵入
122 6 王都の人たちは、倭兵が大挙して攻めて来たという流言に、先を争って山や谷に逃げ込もうとした。
123 6 倭国と講和した。
173 8 倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた。
193 9 倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人もきた。
208 10 倭人が国境を犯したので、伊伐滄の利音に軍隊を率いて反撃させた。
232 11 倭人が突然侵入して金城を包囲した。王が自ら城を出て戦ったので賊軍は潰滅・逃走した。軽装の騎馬隊を派遣して賊軍を追撃し、千余人を殺し捕えた。
233 11 倭軍が東部の国境を犯した。伊滄の干老が倭人と沙道で戦った。風向きを測って火をつけ倭軍の舟を焼いた。賊兵は溺れてことごとく死んだ。
249 12 倭人が舒弗邯の干老を殺した。
287 14 倭人が一礼部を襲い、村々に火をつけて焼き払い、千人もの人々を捕えて立ち去った。 慶北星州郡星州面
289 14 倭兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理し、兵器を修繕した。
292 14 倭兵が沙道城を攻め落とそうとした。一吉滄の大谷に命じて、兵を率いて救援させ、この城を確保した。
294 14 倭兵が侵入して長峯城を攻めたが、勝てなかった。
295 14 王は重臣たちにこう言った。「倭人がしばしば我が国の城や村を襲うので、人々は安心して生活することができない。私は百済と共謀して、一時海上に出て、その国を攻撃しようと思うがどうであろうか」舒弗邯の弘権は答えた。「我が国の人々は水上の戦いに慣れていません。危険を冒して遠征すれば、おそらくは思いがけない危険があるでしょう。まして百済は嘘が多く、その上につねに我が国の侵略を企図しております。おそらく百済と共謀して倭を侵略することは困難でしょう」
300 15 倭国と国使の交換をした。
344 16 倭国が使者を派遣して、花嫁を求めて来たが、娘はすでに嫁に行ったとして辞退した。
345 16 倭王が国書を送ってきて、国交を断絶した。
346 16 倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。王は出て戦おうとしたが伊伐滄の康世が「賊軍は遠くからやってきて、その矛先はあたるべからざるものがあります。賊軍を緩めさせるのがよく、その軍の疲れを待ちたい」と言った。王はこれをよしとして、門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食糧がなくなり退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃させ、これを敗走させた。
364 17 倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて、対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣を着せ、兵器を持たせて、吐岩山の麓に並べ、勇士千人を斧?の東の野原伏せておいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意打ちをかけた。倭軍が大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。 〈369〉倭軍出兵、百済と通交、半島南部を勢力下に置く。
393 17 倭軍が侵入して金城を包囲し、5日も解かなかった。将軍たちは皆城を出て戦いたいと願った。王は「いまは賊軍が船を捨てて内陸深く入り込んで、いわゆる死地にいるので、その鉾先は防ぐことができない。」城門を閉ざして持久戦に持ち込むと、賊軍は得るところなく退却した。そこで王はまず勇敢な騎馬隊300人を派遣し、賊軍の退路を遮断し、歩兵隊千人を派遣して独山に追い込み、挟み撃ちをして倭軍を大敗させ、多くを殺したり捕らえたりした。 〈 391〉倭軍出兵、百済、新羅を破る。
402 18 倭国と国交を結び、奈忽王(17代王)の王子未斯欣を人質とした。 〈397〉百済太子を倭に質となす。
405 18 倭兵が侵入して明活城を攻めたが、勝つことはできずに帰ろうとした。そこで王は騎兵を率いて、倭軍を独山の南で待ち伏せし、再度戦ってこれを破り、3百余人を殺したり捕らえたりした。 慶州市普門里
〈404〉倭軍、帯方郡の故地に出兵、高句麗軍と戦う。
407 18 倭人が東部の辺境に侵入した。また南部の辺境を侵し、百人を奪い掠めた。
408 18 王は倭人が対馬に軍営を置き、兵器や資材・食糧を貯えて、わが国を襲撃しようと準備しているとの情報を得た。そこで王は、「倭軍の動き出す前に、精兵を選び敵の兵站を撃破したい」と言った。舒弗邯の未斯品は、「軍隊は凶器であり、戦争は危険なことと聞いています。大海を渡って他国を討伐し、万一勝利を失うならば、悔やんでも追いつかないのです。天嶮の地関門を設けて、来たならばこれで防ぎ、侵入して悪いことをしないようにさせましょう。有利になれば、そこで出撃して賊軍を捕らえるのです。これがいわゆる相手を意のままにし、思い通りにさせないことで、もっともよい策略です」と答え、王はこの意見に従った。
415 18 倭人と風島で戦い、これに勝った。
418 19 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ってきた。
431 19 倭兵が侵入して東部の辺境を侵した。ついで明活城を包囲したが得るところなく退却した。
440 19 倭人が南部の辺境を侵し、住民を掠め取って逃げ去った。また、倭人が東部の辺境を侵した。
444 19 倭兵が10日間も金城を包囲し、食糧が尽きたので引き上げようとした。王が出兵してこれを追撃しようとしたが、重臣たちが「兵法家の説では、窮地に立った賊軍を追撃してはならないといっています」と引きとめた。王はこの意見を聞き入れないで、数千余騎を引き手追撃し、独山の東で合戦したが、賊軍に敗北し、将兵の大半が戦死した。王は慌てふためいて馬を乗り捨て、山に登った。賊軍はその山を幾重にも囲んだ。突然、濃霧が出て一寸先もわからなくなった。賊軍は、王に神の陰助があるのだと思って、軍隊をまとめて退き帰った。
459 20 倭人が兵船百余艘を連ねて東海岸を襲撃し、さらに進撃して月城を包囲した。四方からはなたれる矢や石は雨のようであったが、王城を守り抜いた。賊軍が退却しようとしたので、兵を出してこれを撃ち破った。逃げるのを追って海岸に至った。賊軍で溺死するものがその過半であった。
462 20 倭人が襲来して、活開城を陥れ、千人を連れ去った。 不明
463 20 倭人が歃良城を攻めたが、勝てずに退却した。王は伐智と徳智とに命じて、兵を率いて退路に待ち伏せし、迎え撃って大いに賊軍を撃破した。王は倭人がしばしば侵入するので、国境地帯に2城を築かせた。 慶北梁山郡梁山面
476 20 倭人が東部の国境地帯を侵した。王は将軍徳智に命じて、これを撃ち払わせた。二百余人を殺したり捕虜にしたりした。
477 20 倭人の軍隊が、五道を通って侵入したが、得るところなく引き上げた。
482 21 倭人が辺境を侵した。
486 21 倭人が国境地帯を侵した。
497 21 倭人が辺地を侵した。
698 32 日本国の使者がやってきた。王は崇礼殿で引見した。 〈621〉新羅初めて朝貢〈663〉白村江の戦い
〈676〉新羅王子等入貢する。
〈689〉新羅使の無礼を責める。
731 33 日本国の兵船300艘が、海を越えてわが東部の辺境を襲った。王は将軍に命じて出兵し、大いに撃破した。 〈732〉新羅、鸚鵡等を献ずる。その請願により貢使を3年に一度とする。
742 35 日本国の使者が来たが、これを受け付けなかった。 〈738,742,743〉新羅使を放還
753 35 日本国の使者が来たが、彼らは傲慢でしかも無礼であったので、王は彼らに会わずに追い返した。 〈752〉新羅の王子・朝貢使来る。
〈759〉新羅征討の議起こる。
802 40 均貞に大阿滄の官位を授け、仮の王子として、倭国に人質として行かせようとした。均貞はこれを辞退した。 〈760,763、774〉新羅使を放還
803 40 日本国と国交を開き、友好関係を結んだ。 〈780〉新羅使の朝貢を受ける。
804 40 日本国が使者を派遣し、黄金300両を進上した。
806 40 日本国の使者が来たので、朝元殿で引見した。
808 40 日本国の使者が来朝した。王は正式の儀礼で彼らを鄭重に待遇した。 〈813〉新羅人、肥前に侵寇
864 48 日本国の使者が来た。 〈869〉新羅人、博多に侵寇
882 49 日本国王が使者を派遣してきて、黄金300両と明珠10箇とを進上した。 〈929〉新羅朝貢を乞うも許さず。
〈936〉高麗朝貢を乞うも許さず。

別表第2

『続日本紀』に記された人民救済の記事一覧
元号年 西暦 月日 記事の内容
(文武) 697 閏12.7 播磨、備前、備中、周防、阿波、讃岐、伊予などの飢饉。食糧を与え、負税(出挙(スイコ) で借りた稲の返済分(利子))の猶予
2 698 3.7 越後で疫病が流行。医師を派遣し、薬を送った。
4.3 近江、紀伊で疫病が流行。医師を派遣し、薬を送った。
3 699 1.26 林坊に住む新羅の女・牟久売が、一度に二男・二女を出産。朝廷は、?(アシギヌ) 5疋 、真綿5屯、麻布10端、稲500束と乳母1人を賜った。
4 700 11.28 大倭国葛上郡の鴨君粳売が一度に、二男・一女を出産。朝廷は、?(アシギヌ)4疋、真綿4屯、麻布8端、稲400束と乳母1人を賜った。
12.26 大倭国に疫病が流行。医師と薬を下賜。
大宝 701 8.14 播磨、淡路、紀伊の水田や園地が、大風と高潮のために被災。使者を派遣し、農業や養蚕の状態を巡察し、人民を慰問。
9.9 使いを諸国に遣わし産業を巡察させ、人民に物を施し救済。
3 703 3.17 信濃、上野の二国に疫病が流行、薬を支給。
.16 相模国に疫病が流行、薬を支給。
7.5 災害や異変がしきりに起こって穀物が不作のため、京畿と太宰府管内の調 を半減し、合わせて全国の庸 を免除。
慶雲 704 3.19 信濃国に疫病が流行、薬を支給。
4.19 讃岐国が飢饉のため物資を支給。
4.27 備中、備後、安芸、阿波の稲苗が損害を受けたので、物資を補給。
5.16 武蔵国が飢饉のため物資を支給。
6.11 河内国の古市郡の高屋連薬女が男の三つ子を産んだので、?2疋、真綿2屯、麻布4端を下賜。
7.19 京内の80歳上の高齢者に物資を支給。
10.5 大雨や日照りのために作柄が悪いので、今年の課役と田租を免除。
12.20 伊豆、伊賀の二国に疫病が流行、医師を派遣し、薬を支給。
2 705 8.11 日照りが10日以上も続いたため、大赦を行ったほか、老人、病人、やもめの男女、孤児、孤独の老人など自活することのできない者には、程度に応じて物を恵み与え、諸国の調半分を免除した。
12.27 20の国々で飢饉や疫病が発生、それぞれに医師や薬を送り、物資を支給。
3 706 閏1.5 京、畿内、紀伊、因幡、三河、駿河などの国々で疫病が流行、医師を派遣し、薬を支給。
2.14 山背国相楽郡の鴨首形名という女が6人の子を3回に分けて産んだ。そのうち最初の二人の男の子を大舎人 とした。
2.26 河内、摂津、出雲、安芸、紀伊、讃岐、伊予の七カ国で飢饉、物資を支給。
3.13 右京の人、日置須太売が三つ子の男の子を出産。衣服、食糧、乳母を下賜。
5.16 美濃国の村国連等志売が三つ子の女の子を出産。籾40石と乳母を下賜。
5.21 畿内で長雨のため稲苗が損なわれたので、籾を無利息で貸与。
4 707 12.4 伊予国に疫病が流行、薬を支給。 和銅(元明)
和銅 708 2.1 讃岐国に疫病が流行、薬を支給。
3.2 山背、備前の二国に疫病が流行、薬を支給。
3.27 美濃国安八郡の国造千代の妻如是女が一度に3人の男の子を出産、稲400束と乳母を下賜。

1) 世界各地の農業社会では、その初期の頃から、播種期に種子を貸与し、収穫期に利子を付けて返済させる慣行が生まれたと考えられている。日本でも古代からそうした慣習が発生していたのではないかと見られている。書紀では孝徳天皇2年(646年)3月19日の記事に「貸稲」の語が登場する。これが出挙の前身ではないかと考えられている。8世紀に施行された養老律令に「出挙」の語が現れた。律令上に出挙が明確に規定されることによって、利子付き貸借が国家により制度化されたのだと解釈されている。

2) 古代の太めの糸で織られた絹織物。疋は布の大きさの単位で、概ね2端(反)分。1端は、1着分の大きさ。屯は、古代日本の真綿の重さの単位で、150gあるいは450gといわれる。稲の束は、10把を1束とするが、どの程度の米の量になるかは不明。

3) 成人男子に対する人頭税。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣による納入(調雑物)も認められていた。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。 

4) 成人男子に対する人頭税。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。京や畿内・飛騨国(代わりに大工作業)へは賦課されなかった。

5) 宮中で雑事に携わる役人
和銅
(元明)
708 7.7 但馬、伯耆の二国に疫病が流行、薬を支給。
7.14 隠岐国に長雨と大風があったので、物資を支給。
2 709 1.21 下総国に疫病が流行、薬を支給。
3.4 隠岐国の飢饉に物資を支給。
6.9 上総、越中の二国に疫病が流行、薬を支給。
6.26 紀伊国に疫病が流行、薬を支給。
3 710 2.11 信濃国に疫病が流行、薬を支給。
4 711 4.5 大倭、佐渡の二国に飢饉、両国に物資を支給。
5.7 尾張国に疫病が流行、医師を派遣し薬を支給。
7.5 山背国相楽郡の狛部宿禰奈売が三つ子の男の子を出産。絁2疋、真綿2屯、麻布4端、稲200束と乳母1人を下賜。
5 712 2.19 京、畿内の高齢者、男女やもめ、孤児、独居老人に?、真綿、米、塩を下賜。
5.4 駿河国に疫病が流行、薬を支給。
6 713 2.23 志摩国に疫病が流行、薬を支給。
3.19 大倭国に疫病が流行、薬を支給。
4.23 讃岐国が飢饉、物資を支給。
11.1 伊賀、伊勢、尾張、三河、出羽などの国が大風で秋の収穫に被害を受けたため、これらの国の調と庸を免除。既納の者には稲を下賜。
7 714 5.27 土佐国の物部毛虫咩という女が三つ子を出産。籾4斛と乳母を下賜。
10.1 美濃、武蔵、下野、伯耆、播磨、伊予の六国に大風があり、家屋を壊した。この年の租と調を免除。
霊亀 715 5.1 丹波、丹後の二国が飢饉。税稲も無利息貸与。
12.11 常陸国久慈郡の占部御蔭女が三つ子の男の子を出産、食糧と乳母を下賜。


 参考文献一覧表
文献名 著者等 発行者等
1 日本語の歴史1 亀井孝ほか 平凡社
2 日本人ルーツの謎を解く 長浜浩明 展転社
3 日韓がタブーにする歴史 室谷克実 新潮社
4 倭国伝 全訳注:藤堂明保他 講談社
5 四書五経入門 竹内照夫 平凡社
6 縄文土器の研究 小林達雄 学生社
7 縄文土器の文様構造 石井匠 アム・プロモーション
8 縄文の思考 小林達雄 筑摩書房
9 古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎 中央公論新社
10 日本の古代道路を探す 中村太一 平凡社
11 三国史記(1、2) 金富軾 平凡社
12 論語 訳注:貝塚茂樹 中央公論新社
13 魏志倭人伝・後漢書倭伝 石原道博編訳 岩波書店
14 日本書紀(全五巻) 井上光貞ほか校注 岩波書店
15 古事記 倉野憲司校注 岩波書店
16 続日本紀(全五巻) 宇治谷孟校注 講談社
17 日本人とは何か 山本七平 PHP研究所
18 韓国の中学校歴史教科書 三橋広夫訳 明石書店
19 ウィキペディア ― ―



新羅王統系譜             別図第1


古代の主要道概図              別図第2


                    別図第3

         播磨国布勢駅家想像図

     

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