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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」(前)        平成26年5月18日 作成 五月女 菊夫



  参考文献:「戦後日本を狂わせたOSS『日本計画』」(田中英道 展転社)
   主として昭和初期から日本に大量に入ってきたソ連・コミンテルンの社会主義・共産主義思想が、大東亜戦争前・中の日本
  の政府・軍部の中枢に徐々に潜入し、終戦までの日本の外交・戦争行動計画にいかに影響を与えてきたかは、少しずつ国民に
  知らされつつある。一方アメリカ側からの社会主義・共産主義思想が戦後のGHQ占領政策に色濃く反映していたことはほと
  んど日本国民一般の共通認識にはいまだなっていない。本書はアメリカのOSSなる組織が戦後のGHQ占領政策にいかに影
  響を及ぼしたかを中心に述べたものである。

  第1章 現代史はルーズベルトの「隠れ社会主義」から始まった

    20世紀の一大惨劇が「共産主義国の勃興と崩壊」のドラマであったことは周知のこととなった。そして最大の悲劇とい
   えば、ひとしく「社会主義者」の名を冠した3人の政治家、ヒトラー、スターリン、毛沢東の独裁政治によって、数千万の
   多くの無辜の人々が殺されたことである。しかしそれらに隠れているのが、「隠れ社会主義者」であったルーズベルトの下
   での蛮行である。そのひとつは、日本を戦争にひきずりこむことによって、日本を「社会主義化」しようとしたことである。
   彼が「太平洋戦争」をしかけ、戦後の「連合軍最高司令部GHQ」に指針を与えた「戦略情報局(OSS Office of
   Strategic Service)」(後述)を創設し、「リメンバー・パール・ハーバー」の下に日本支配を図り、ドイツに原爆を落と
   さず、日本に落とした元締めであったことを忘れてはならない。しかし日本では、ルーズベルト大統領その人の功績とその
   評価は、すでにできあがっているように見える。唯一の4選された大統領としてニューディール政策で大恐慌を乗り切り、
   第2次大戦では連合国の戦争指導者として勝利に導いたというものである。終戦を目前にして急逝したため、その車椅子の
   姿が逆に聖者のように見え、戦後、好印象を与えられている。この大統領の率いるアメリカに敗北したと考える日本人には
   逆に畏怖心を植えつけた。占領政策でもアメリカ批判は一切禁じられていたこともあり、民主主義をもたらしたマッカーサー
   元帥の背後にいたすぐれたアメリカ大統領であるという「常識」のもとに、日本の戦後ができあがった。しかしルーズベルト
   の評価は決して「常識」ではあり得ない。というのも、戦後、冷戦がアメリカとソ連、自由主義国と共産主義国との対立の図
   式の中だけで見られ、冷戦以前のアメリカ自身の姿までその目で見られてしまっているからである。彼はスターリンと同罪で
   はないか、という見方が糊塗されてしまったのである。アメリカでさえ、ルーズベルトこそがアメリカ大統領としてナチスの
   ドイツ、「軍国主義」の日本と対立し、スターリンの社会主義とは異なるニューディール政策を行った、という肯定的な評価
   が成り立っている。さも「反・全体主義」の盟主のごとき立場にいたかのように思われてきた。

    しかしルーズベルトが社会主義者であったことは、「1917年のロシア革命における社会政策を100としたらニュー
   ディールがそのうちの50くらいは実現したかもしれない」と言っているように、自分で行なっていることをロシア革命と
   同じものと見ていたことからでも判断できる。また「スターリンを共産主義者と考えるのは馬鹿げている。彼はただロシア
   の愛国者であるだけだ」と公言し、英国を除く全欧州がソ連の支配下に入ることさえ認めていたのである。「ヨーロッパの
   人々は、10年先、20年先、ロシア人とうまくやっていけるようになるという希望をもって、ロシアの支配をただ甘受し
   なければならない」とも言っている。

    このような彼の発言が彼の行動そのものの原理となっていることは、その政策からも伺える。1929年の恐慌の際にも、
   彼の政策にそのことが示されている。それまでアメリカでは自由放任主義のもとで、1300万人の失業者を生み出し、全米
   のあちこちにホームレスが放置されている現実があった。それに対しルーズベルト大統領は、33年に「全国産業復興法」を
   施行し、大統領に権力を集中させ、その認可の下に各産業別に公正競争規約を制定し、資本主義の自由を奪った。さらにルー
   ズベルトは、「農業調整法」を出した。これらはいずれも同業者の自由競争を排除する目的のものであり、政府が産業統制に
   合法的に乗り出そうとしたものにほかならない。一方で、ルーズベルトの労働者政策には、労働者の団結権、団体交渉権、組
   合運動の自由の保障、最低労働条件の確保などが含まれていた。資本主義を統制しながら、それに矛盾する労働者の権利を助
   長した社会主義的なこの手法は、ルーズベルトが本質において社会主義者であったことを明らかにしている。しかしこの労働
   者重視の社会主義的手法により再建を図ろうとしたことには無理があった。1935年頃からその馬脚をあらわし、景気回復
   は幻想と化し、独占の強化、資本対立の激化、労働不安の拡大というふうに、アメリカ資本主義を根底から崩し始めた。そし
   て失業者の解消のためにも、産業の復興のためにも、戦争をすることが唯一の解決策であるという、ルーズベルトの妄想に
   なった。

    さすがにたまりかねた連邦最高裁は、1935年5月、ついに憲法違反の判決を下した。ルーズベルトもこれ以上の社会主
   義的政策を続行するのは断念せざるを得なくなった。ニューディール政策は違憲であると最高裁は判定を下したが、ルーズベ
   ルトは判事の任免権を利用して、最高裁にリベラル派と称する左派を支持させることによって、彼の失敗を糊塗していった。
   このような国家的破滅を導いたにもかかわらず、次の選挙では労働界の支持を得てまた選出された。

    ルーズベルト大統領とハル国務長官のもとには、多くの社会主義者・共産主義者が集まった。ホワイトハウスと国務省で
   は、127名のコミュニストが執務に当たっていたと言われる。ヤルタ協定を演出したアメリカの国連代表団の首席顧問アル
   ジャー・ヒスは、スターリンのスパイだった。ルーズベルトの側には妻エレノアのほか、大勢の共産主義者がいた。取り巻き
   にスパイがいたのではなく、ルーズベルト本人がスターリンの言いなりになる社会主義者のようなものであったのだ。例え
   ば、ハリー・デクスター・ホワイトとロークリン・カリーは、ルーズベルトの政策決定に大きな力を持っていた。ホワイトは
   ルーズベルトが信頼するモーゲンソー財務長官の片腕として、1941年には筆頭次官補、1945年には次官にまで昇進し
   ている。一方のカリーは、中国問題担当の大統領特別補佐官として、蒋介石とも密接な関係を持っていたと言われる。戦後
   マッカーシーの米国上院政府機能審査小委員会で、ホワイトとカリーはソ連のスパイであったことが判明するまで、アメリカ
   政府は2人に重要なポストを与え、彼らも善良で愛国的な高級官僚としてふるまっていたのである。これらのソ連スパイたち
   が、ニューディール時代の参画者であったことが、この政策の本質を示している。戦後、民主党から共和党に政権が代わり、
   マッカーシーの「非米活動」キャンペーンで、さらに多くのスパイたちが指弾され社会から追放されたが、いかにルーズベル
   ト時代がソ連寄りの共産主義的な時代であったかをよく示している。

    ここで共産主義者と社会主義者という言葉が同時に使われているのは、共産党の共産主義者とドイツのフランクフルト学派
   の流れの社会主義者を区別しているからである。ナチス政権下のホロコーストを避けてニューヨークにやってきたフランクフ
   ルト学派(そのほとんどがユダヤ人)は、アメリカで大半が受け入れられ、「亡命大学」とか「新社会調査学院」と呼ばれた
   施設で38年から45年まで活動した。その中のドイツ・オーストリアの左翼マルクス主義学者は「批判理論」によって現代
   そのものを批判し、将来の共産主義に備える2段階革命を構想していた。まさにこの時期がルーズベルト大統領の時代であっ
   た。
    ルーズベルトが将来革命が起こりソ連のようになることを望んでいたことは、ソ連を理想化し、その政策に賛成していたこ
   とからでもわかる。戦勝国で国際秩序を作り上げる国際連合にソ連の同意を得る見返りとして、ポーランドやバルト3国をソ
   連支配下に置くことを許し、ヤルタ秘密協定で満州の権益や南樺太、北方領土を与える約束をしている。スターリンはルーズ
   ベルトから数多くの利益を得ているのに、ルーズベルトはスターリンから何ひとつ与えられていない。この事実は、ルーズベ
   ルトにとって、ソ連共産主義が国同士の外交関係以上に理想として見えたからに違いない。

    ルーズベルトがソ連寄り社会主義者であることはチャーチルも知っていた。副大統領になった直後トルーマンは、チャーチ
   ルから、ルーズベルトがスターリンと交わした密約を暴露する書簡を受け取っている。そこでは、チャーチルが戦後唱えた
   「スターリンのソ連圏には鉄のカーテンが下されている」というソ連の閉鎖性への非難の言葉を、すでにトルーマンに対して
   使っている。

    アメリカは経済的政策では失業問題を解決できず、産業も軍事産業以外には活路がなかった。しかしアメリカ自ら戦争を行
   なうことは、選挙での公約上できなかった。アメリカ人が他国の戦争で死ぬなどということは思いもしなかったからである。
   アメリカは孤立主義を採っていた。第1次大戦後、ウィルソン大統領自身、自分が構想したベルサイユ条約と国際連盟にも参
   加しなかったし、1930年代の米大統領はみな他国の戦争には無関心を装った。1933年に大統領になったルーズベルト
   もその外交政策を続け、35年に「中立法」を採択し、その後も再三にわたってこれを強化しようとした。同法により、米国
   政府は欧州やアジアの国際紛争に関与すべきではない、という立場が公的にも再確認されていたのである。しかし今日、アメ
   リカの方から日本への先制攻撃の計画があったことが明らかにされている。1940(昭和15)年11月以来、ルーズベル
   トは閣僚、軍部、そして中国政府と協力して、日本を空襲することの是非を検討していた。討議の対象となったのは、日本空
   爆のために中国東部の秘密基地に配備された「空の要塞」と呼ばれた「ボーイング17」爆撃機を提供してほしい、という中
   国政府からアメリカ政府への要請だった。シェンノートが率いてそこから発進することになっていたこの計画は一時棚上げさ
   れたが、真珠湾攻撃の半年以上も前の1941年春に再び検討されることになり、1941年7月、日本本土を直接攻撃する
   計画「JB-355」にルーズベルト大統領がサインをした。B17を初めとする150機の長距離爆撃機と350機の戦闘
   機を10月1日までに蒋介石政権に供与して、中国の基地から発して東京・横浜の産業地域と神戸・京都・大阪の3角地帯に
   奇襲爆撃を加えることになった。爆撃は中国空軍が実施することになったが、実際には「フライングタイガース」と呼ばれる
   義勇兵に偽装した米軍飛行士が行なうことになった。ところが欧州戦線が窮迫し、大型爆撃機をイギリスに急いで回さなけれ
   ばならなくなり、中国への供与が遅れることになった結果実施されなかった。だが真珠湾攻撃の約5ヶ月前にルーズベルト大
   統領が米陸海軍に対して日本本土攻撃計画を承認していたという事実には変わりがない。これは国民をあざむき、日本をだま
   し討ちにするものだった。この計画がソ連スパイであったロークリン・カリーの提案であったことは、ソ連もまた日本攻撃を
   ねらっていたことになる。

    一方日本の真珠湾攻撃は、すでに1941年1月27日の段階で知られていたという事実が米外交官ジョン・エマーソンの
   記述で判明している。彼は「1941年1月27日、ペルー公使シュライバーが、日本は日米間有事の際にはパール・ハー
   バーに大奇襲攻撃をかける計画を立てているという噂を耳にしたと米国大使館に耳打ちした。グルーは真剣に受け止め、ワシ
   ントンに電報を打った(1月27日付けの電報がある)。日記にも『ハワイのわが将兵がまさか眠っていることはあるまい』
   と記している。この年10月にホノルルに立ち寄ったとき、オアフ島周辺の偵察哨戒飛行が強化されたということを聞いた」
   と記している(ジョン・エマーソン「嵐の中の外交官」昭和54年)。実を言えば、アメリカはこの真珠湾攻撃を知ってい
   た、という事実に加えて、日本にその攻撃をさせる、という構図をはるか前からルーズベルト大統領が作っていたことを、
   チャールズ・A・ビアドの「ルーズベルト大統領と1941年の戦争の到来」という書物が伝えている。彼は第2次大戦は日
   本やドイツに非があるのではなく、ルーズベルトにある、というアメリカでは例外的な見解を示している。これによると19
   40年、ルーズベルトはすでに日本との戦争の可能性に言及しており、国内的にはそれを否定していることと裏腹の発言が
   あったと記している。さらにこのときルーズベルトは「…艦隊はハワイに留め置かれる。もし日本がタイあるいはタラ地峡、
   オランダ領東インドを攻撃しても我々は戦争を始めないこと、もし日本がフィリピンを攻撃しても我々が戦争を始めるべきか
   否かはわからないこと、しかし日本はいつまでも誤りを避けることはできないであろうし、また戦争が長引き、作戦地域が広
   がれば、日本は誤りを犯しかくて我々が戦争を始めるようになるであろう」と答えたという。この発言は、日本の1941年
   7月の南部仏印進駐があってもアメリカが参戦しなかったことに符合するし、ハワイに艦隊を留め置き、そこを攻撃させる算
   段であったことを示唆していることになる。「日本は誤りを犯し」という言葉は、初めから勝ち目がない戦争にわざわざ参戦
   することを「誤り」と考えているのであろう。そのような「誤り」をどのように「犯す」ようにさせるかを、ルーズベルトと
   その側近が考えていたことになる。「もし日本人が誤りを犯して米国の世論を怒らしめたならば、我々は戦争をするだろう」
   と答えたと記している。日本の真珠湾攻撃の1年以上前に、既にこのようにルーズベルトが発言していたことは重大である。
   米外交官エマーソンが41年1月の段階でペルー大使館で聞いたことは、外交筋には既知のものであったことになる。つまり
   日本海軍に真珠湾を攻撃させることをアメリカは黙認し、知らないふりをしていたのである。敵に最初に攻撃させるという作
   戦を成功させれば、それまで不戦の雰囲気にあった米国世論に対し、我々は卑劣なやり方で攻撃されたと宣伝することができ
   る。

    確かにハルノートは最後通牒となった。すでに知られているように、ハルノートは2つ存在した。ソ連のスパイであったホ
   ワイトが書いた「一般案」という強硬案と、ハル自身の書いた「暫定案」といわれた妥協的な内容のものである。なぜルーズ
  ベルトが日本に通告したものが絶対飲めない「一般案」であったかは自ずから明らかである。真珠湾攻撃を知っていたルーズベ
  ルトにとっては、ここで日本に引かれては戦争に引き込むことができなくなってしまう。いみじくもルーズベルトがホワイト作
  成の「ハルノート」を日本に渡せといったとき、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言っていたという。ルーズ
  ベルトは真珠湾が奇襲を受けたことを「恥ずべき行為」と述べた。すぐに議会でも調査委員会が開かれ、ハワイ軍司令官2人が
  責任回避で非難された。戦後ルーズベルトは、米国民のモンロー主義の世論を転換させるべく、日本のハワイ奇襲を知りながら
  これを現地の軍司令官に知らせず、あろうことか自国の将兵の生命の被害拡大化を図ったことを逆に批判された。

   ルーズベルトが日本に最初の攻撃をさせ、アメリカ国民を戦争に導いたこと、そしてそれだけでなく、彼自身が社会主義者で
  あったことは、日本の「社会主義化」が一つの大きな課題であったことを意味する。その意図は日米戦争の勝敗の帰趨の中に埋
  没されたかに見えたが、ルーズベルト没後、GHQ占領政策の中ではっきり現れてきた。「社会主義化」政策と言える公職追
  放、神道指令、財閥解体、日本国憲法制定、東京裁判などの一連の政策でそれが実現されていったのである。周知のとおり、
  ソ連との対立が始まった後、ルーズベルトの政策は否定され、米国自身が転換した。その下にいたマッカーサーの方針変更によ
  り、ルーズベルトの意図は挫折せざるを得なかった。しかしそれは戦後2年間の「革命」同様の変革により、今日まで憲法を中
  心に留まり続けた。まだ日本は「社会主義化」の範疇の中に置かれ、薄まったとはいえ決してそれが消え去ったわけではない
  が、日本の伝統と文化は強く、日本を覆すことはなかった。ただ政府による日本国憲法の改定放置によって、その危険性は部分
  的に常に残されている。この部分は戦後、大学やメディアの知的部分に残り、そこから発する少数派の「社会主義」思想が官僚
  や会社の指導層に残存し続けたのである。このことは日本の大きな弱点となった。



  第2章 アメリカOSSの「日本計画」

    最近、新たにアメリカで多くの大東亜戦争時代の対日関係資料調査が解禁となり、日本国憲法を含めて戦後日本をアメリカ
   政府がいかに作ろうとしたか、より明確になってきた。ここではまず戦後日本の思想界やメディアを支配するフランクフルト
   学派(隠れマルクス主義)の問題を取り上げ、彼らがまさに戦中のアメリカの戦略として戦後の日本をいかに作りあげようと
   したかを述べようと思う。1917年のロシア革命によって始まった「社会主義」革命の動きは、ハンガリー革命、ドイツ革
   命に及び、いずれも失敗したが、西欧のマルクス主義者たちは、新たな「社会主義」の道を探ることになった。その理論を踏
   まえながら立ち上げられたのが、フランクフルト大学社会学研究所であった。フランクフルト学派は、1923年ドイツのフ
   ランクフルト大学で、ハンガリーのマルクス主義者ルカーチ(1885~1971)らが設立したマルクス研究所から始ま
   る。これはソ連のマルクス・エンゲルス研究所に習って作られたものである。それがドイツ社会学研究所となり、この学派か
   ら出た社会学者や歴史学者がナチス批判の流れに乗って戦後アメリカにまで及んでいることも知られている。そしてこの学派
   から出た戦後のマルクス主義が、それ以前のマルクス・レーニン主義の政治革命路線とは異なった路線として知的なインテリ
   を捉え、「20世紀のマルクス主義」と呼ばれている。

    商品が生まれる過程が資本主義なのであるが、そこでは労働力そのものも商品化される。ルカーチはこのことが労働者の意
   識に与える影響を重視した。これまでのマルクス主義は、労働者が搾取されて階級意識が生まれ階級闘争が始まる、という単
   純な図式を持っていた。しかしより高い賃金を得ようとする労働者はそのような階級闘争を忘れてしまう傾向に陥る。そこで
   何とかして階級意識を持たせるためには、政治闘争や階級闘争といった闘争を行なうだけでなく、文化活動全般を通じて階級
   意識、被差別意識を作り出す運動を起こさなければならないとするものである。ホルクハイマーも「マルクスの分析は現状と
   異なる」ことを認識し「労働者階級は革命の前衛にならない」と考えた。…彼はマルクス思想を文化用語に翻訳し始めた。古
   臭い闘争マニュアルを捨て、新しいマニュアルが執筆された。彼は「旧マルキストにとって敵は資本主義、新マルキストに
   とって敵は西洋文化。旧マルキストにとって権力掌握するのには暴力による政権転覆、新マルキストにとって権力掌握するの
   には暴力は不可能、長期に渡る忍耐強い作業が必要で、西洋人はキリスト教精神を捨て去らなければならない。まずは文化教
   育制度を支配せよ、そうすれば国家は労せず崩壊する」と唱えた。これは彼らの間では「批判理論」と呼ばれ、戦後は「構造
   改革路線」の名で広まった。マルクスの生きていた19世紀のプロレタリアであれば抑圧されて必然的に階級意識が生まれる
   という素朴な分析がここでは消え、賃金闘争しかやらない労働者のみとなると革命など遠い出来事になってしまうと考えられ
   た。そこで生み出されたのが「批判理論」である。資本主義が生み出したすべてを「批判」し、そこから体制転換の思想を
   作っていこうとする、これがOSSによって応用されたということができる。
    フランクフルト学派は1920年代からソ連のレーニン主義の硬直化を批判する勢力としてあらわれ、現実の社会主義に対
   抗する動きを示した。労働者、農民の「革命」を志すのではなく(それはロシアのような後進国でしか通用しなかった)、
   「西欧マルクス主義」として、また西欧の資本主義の先進国における「革命」を目指す動きとして、もっとブルジョア的な
   「文化」や「心理」を理解しなければならない、と考えた運動である。「暴力革命」などという言葉は誰も使わなくなった代
   わりに、新しい形の「革命」を目指すものであった。それは第2次大戦後、欧米での「五月革命」、日本での「安保闘争」
   「全共闘」などの運動に強く影響した。

    ヒトラーのナチスがドイツの政権を獲得し、反ユダヤ主義が強くなると、ほとんどがユダヤ人で構成されていたフランクフ
   ルト大学社会研究所の学者たちはドイツにいられなくなり、アメリカに根拠地を移した。そこに待ち受けていたのが、対独戦
   争に立ちあがったアメリカ政府である。ルーズベルト大統領はナチスに対抗する軍の戦略組織として、まず1941年7月情
   報調整局(OCI Office of the Coordinator of Information)を設立し、その責任者にウィリアム・J・ドノバンなる人物
   を指名した。しかし日本との戦争が始まると翌年、そこからOSSを分離し、敵国に対し謀略を行う諜報機関とした。
    ドノバンを長として42年発足したOSSは、全米中の大学や研究機関から優秀な学者や研究者を大量に駆り集めた。OS
   Sは今日のCIAの前身で、戦時情報、特殊工作機関の先駆である。しかしほかの軍事情報機関とは異なり、左翼知識人や亡
   命外国人をも積極的に採用するという方針をとったOSSは、ポール・バラン、ポール・スイジーといった米国共産党員だけ
   でなく、全米の大学や研究機関から反独、反日の知識人も積極的に活用した。そしてドイツに関する情報を担当する専門ス
   タッフの人材源として目をつけたのが、一流のドイツ人学者を数多く擁したフランクフルト大学社会研究所であった。42年
   夏、マルクーゼ、ノイマン、ホルクハイマーといった社会学者が採用された。その中でノイマンは代表的な社会学者であった
   が、戦後ソ連のスパイであったことが発覚した。日本に対しては手薄ではあったものの、アメリカの日系共産党員を集め、ま
   た東洋学者を登用した。オーウェン・ラティモアやジョン・エマーソンもその中にいる。ライシャワーとかドナルド・キーン
   など戦後の日本学者もその中で育てられた。また、その中の一人の法律学者といってよいのが、日本国憲法を作成した責任者
   チャールズ・ケーディスであった。

    いまだにアメリカの日本研究がほとんどマルクス主義という時代遅れのイデオロギーによってなされている、と聞くと日本
   人は驚くかもしれない。マルクス主義に支配されたソ連とは反対の、自由主義を謳歌したアメリカであるから歴史家も自由な
   立場にあるに違いないと思いがちである。日本でもよく読まれたW・ダワーの「敗北を抱きしめて」やH・P・ピックスの「昭
   和天皇」などがジャーナリズムに貢献したことでピューリッツァー賞を受けているが、その著者がいずれもマルクス主義信奉
   者であると聞くと意外と思えるだろう。自由な国アメリカの歴史家やジャーナリストたちが一貫して隠れマルクス主義の伝統
   の中にいることはあまり知られていない。「隠れ」といったのは、これが旧ソ連的マルクス主義とは異なる、新たな「構造改
   革主義的マルクス主義」であるからだ。若い優秀な日本人学生がアメリカの大学に魅せられて留学し、卒業して帰ってきたら
   隠れマルクス主義者になっている場合が多い。ニューヨークのコロンビア大学で学んだといえば聞こえはよいが、この大学が
   もともと隠れマルクス主義であるフランクフルト学派の牙城であることは知られていない。コロンビア大学だけではない。ア
   メリカの大学の人文学部の大半はこの傾向が強く、学者や外交官の卵がマルクス主義に洗脳されて帰国する例が多いのもその
   ためである。ところが、これが戦後のことだけでなく戦中もそうであり、それが戦後の日本を作り上げるイデオロギーとなっ
   たということは意外に知られていない。終戦当時のアメリカ政府が民主党政権であり、そのシンパが実を言えば左翼だったこ
   とが近頃よく認識されるようになった。そしてその方針下で戦後日本が作られようとしたという恐るべき事実が最近判明して
   きている。

    アメリカ政府というとそれ自体、大国意識を持つ覇権主義の国で、その政権政党がどうあろうと同じようなものだと考えが
   ちであるが、大東亜戦争が勃発したとき、その政権政党が民主党であったことは、日本に特殊な影響を与えていたのである。
   第2次大戦前後に3期12年に渡って長期政権を維持した民主党のフランクリン・ルーズベルト政権は、低所得者層や黒人など
   のマイノリティー(少数派)に支持されて政治的な成功をおさめた政権であった。経済学の分野ではケインズ主義を採り、政
   治思想の分野では「リベラリズム(平等を重視した自由主義)」の「ニューディール政策」を採ったと多くの政治家は語って
   いる。国家が経済に介入するケインズ主義も当時のソ連を意識した社会主義的な政策であったということができる。これがい
   かに彼らの政権内に社会主義的な分子を入れざるを得なかったか容易に推測できるのである。スターリン時代のソ連における
   大量粛清や人民窮乏化の事実が暴露される以前の1940年代という早い段階では、アメリカでさえも社会主義幻想が強かっ
   たのである。同じ民主党政権が1960年代に「貧困の撲滅」と「偉大な社会の建設」をスローガンとしてアメリカの福祉国
   家化を目指し、黒人の公民権運動ばかりでなく学生たちの「5月革命」を惹起したことは知られている。その運動を思想的に
   リードしたアメリカのフランクフルト学派であるマルクーゼ、フロム、ホルクハイマーなどユダヤ人マルキストたちがその頃
   多数活躍した。この流れもまたマッカーシー旋風を切り抜けた左翼が、あらたに民主党政権下で跋扈していたことを示してい
   る。ベトナム戦争の際の反戦闘争も、民主党の政権下で活発に行なわれていたことが人々の記憶にまだ残っている。

    OSSは第2次大戦に際してアメリカ政府によって作られたもので、当時アメリカに対峙する世界の戦略分析と政策提言に
   重要な役割を果たしていた。その中に多くの「隠れマルクス主義者」たち、つまりドイツから脱出したフランクフルト学派の
   学者が加入していたのである。さらにOSSの中にGHQの日本統治に重要な役割を演じる多くの人物たちがいた。OSSは
   1945(昭和20)年に解散したが、それは戦後の2つの組織に引き継がれ、アメリカの日本占領政策に大きな影響を与え
   た。実を言えば戦後のマッカーサーの対日占領の構想はほとんどこの組織によって作られていたものなのである。例えば、昭
   和天皇の戦争責任を問わず象徴として温存させる、という重要な政策もこの組織の計画によって準備されていたものである。
    このOSSについては、1991年にワシントンの国立公文書館で「秘密の戦争―第2次世界大戦におけるOSS」という
   公開シンポジウムが開かれてから一般にも知られるようになった。日本では一部の学者によって研究・紹介されているもの
   の、いかにアメリカがある一定のイデオロギーによって他国を心理的に支配しようとしたか、そしてその巧みな戦略の一端が
   いかに日本を左翼的に誘導しようとしたかというOSSの謀略的な側面が抜け落ちていて批判的観点を欠いているため、いま
   なおOSSの存在の重要性がよく認識されていない。

    1941(昭和16)年12月に大東亜戦争戦争が勃発した直後から、ルーズベルト大統領率いるアメリカ政府によってO
   SS「日本計画」は準備された。それは1942(昭和17)年の6月までに3度にわたって用意周到に草稿で練られた。そ
   れまでの日本打倒のプランである「オレンジ計画」の延長ではないか、と考える向きもあるかもしれないが、ここでは明らか
   に社会主義的な影響が色濃くなり、アメリカの覇権主義とは異なった色調を持っている。またソ連のスパイがアメリカに入り
   込み、1932(昭和7)年のソ連・コミンテルンの日本計画(『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』の
   こと。まず絶対主義的天皇制を打倒するブルジョア民主主義革命とその後のプロレタリア革命の実現)がそこに大きな影響を
   与えたのではないかとの推測もあるが、それとは異なるアメリカ人自身のある左翼的な部分が準備した、という事実があった
   と考えることができるのである。

    この計画は無論、すでに始まっていた日米戦争に対応して作られたものであるが、そこには日本の真珠湾攻撃や東南アジア
   における日本の赫々たる緒戦の戦果などは眼中にない。このことは日本の開戦そのものもこの政権によって引き起こされたも
   のであることを予測させる。アメリカはこの戦争の勝利を確信しており、緒戦でいかに勝ってもいずれ負ける日本をどのよう
   に処理するかの問題をはじめから議論している。日本の軍事作戦を弱体化してそこから敗北に導く、という戦略はまさにアメ
   リカ左派によって準備されたのである。

    OSS「日本計画」は誰によって作られたものであろうか。この組織は日本に対してだけでなくドイツを初めとする世界戦
   略の一環であったので国際的な色彩を持っている。OSS「日本計画」はその中で陸軍情報部のソルバート大佐なる人物を中
   心につくられ、1942(昭和17)年6月の米国心理戦共同委員会によって練り上げられたもので、日本の真珠湾攻撃の直
   後から、米国は(日本の敗北を見越して)日本をいかに軍事的に壊滅させ、いかに戦後社会を撹乱するかを考えていたことに
   なる。それは軍部を排除して「立憲君主制資本主義国家」を再建するといった単純なものではない。それはソ連や中国と異
   なった日本の混乱を目的化するという左翼的なものと言ってよく、多数の学者や専門家を組織動員してその方向で社会分析と
   変革構想を立案していったということができる。
    ア.日本軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷つける。
    イ.日本の戦争能力を弱め、スローダウンさせる。
    ウ.日本軍当局の信頼をおとしめ、打倒する。
    エ.日本とその同盟国及び中立国を分裂させる

    これら自体は軍事的な面で当然の作戦であるが、その上で政策目標達成のために次の7つの宣伝目的が設定されている。
    ①日本人に、政府や国内の合法的情報源による公式声明への不信を増大させること。
    ②日本と米国との間に、戦争行動の文明的基準を保持すること。
    ③日本の民衆に、現在の政府は自分たちの利益に役に立っていないと確信させ、政府の敗北が自分たち自身の敗北であると
     は見做さないようにすること。
    ④日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆からの必要な援助を得ることも受け続け
     ることもできないことを確信させること。
    ⑤日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと。
    ⑥内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティー集団による暴力事件・隠密事件への不安をかきたて、それによって日
     本人のスパイ活動対策の負担を増大させること。
    ⑦日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること。

    問題は③~⑥までの項目である。特に露骨に日本社会を崩壊に落とし込むことを明言しているのが⑤、⑥である。⑤は、明
   らかに階級闘争のみならず、差別問題や諸団体の間の対立を煽り、そこから社会の円滑な動きを妨げることを意図している。
   ⑥は中間階層化した日本国民全体を撹乱しその後に革命を期待するという、フランクフルト学派の戦術が基本にあると予測さ
   せる。

    戦後マッカーサーの占領下で、米国、ソ連、中国、朝鮮などに対する批判を禁じていたことはすでに知られている。そして
   神国日本やナショナリズムの宣伝を一切禁じ、戦争犯罪を刻印させるように仕向けたことは占領が解かれた後も大きな影響を
   残した。…日本がアジアにおけるアメリカ、イギリス、オランダの植民地支配を解放するという歴史的な事実の確認を一切禁
   じた戦後の検閲は、あたかも日本だけが「侵略」を行なったような錯覚に陥らせ、日本がアジアに進出しなければならなかっ
   たことを忘却させることになった。日本がいかに、戦後、米国の戦中からの情報戦略に乗せられたかがわかるが、それが決し
   てアメリカ本来の自由と民主主義ではなく、奇妙な社会混乱政策であったことは、戦後日本の混濁した社会を作り出したこと
   に関連しているかもしれない。これはまさにフランクフルト学派の考え方と一致している。フランクフルト学派などという
   と、日本では一部のドイツ専門の社会学者以外になじみがないし、左翼の学者でさえもあまり触れない。しかし西欧における
   このマルクス主義学派の重要性はつとに指摘されている。注目すべきはこの思想が政党政治家や労働組合のマルクス主義では
   なく、知識人のマルクス主義であるという点で一般に知られていないことである。これは労働者階級ではなく、今や人口の多
   数を占める普通の中産階級の変革を目指している思想なのである。この学派の思想が学界やジャーナリズムを軸にして現代を
   世論の上でリードしており、たとえ内部での論争はあろうとも、一致してマスメディアを占領し体制の内部に入り、その中か
   ら「体制否定」の理論を繰り返すことによって社会の内部崩壊をもたらそうという思想であり、現在この思想がテロリズムを
   肯定するインテリの思想を支えている、と言ってよい。

    日本にとってもこの学派の影響は大きい。特に1960年代から70年代に全共闘世代とか団塊の世代とか言われた学生
   は、この学派の影響下にあったと言ってよい。また今日の反戦運動、差別撤回、フェミニズム、ジェンダーなどもすべてこの
   学派から出た理論によっていて、共産党、社会党といった政党下の勢力以外の左翼の大部分もこの学派の影響下にあった。こ
   れらの政党が衰微するに反比例して、学界ではこの勢力が根を強く張っていき、まともな労働者の闘争を叫ばず、学生やイン
   テリをターゲットにした。

    フランクフルト学派の思想について、「広辞苑」には「ヘーゲル・マルクス・フロイトに依拠して、市民社会批判を展開し
   た」と出ている。日本のあるフランクフルト派学者が次のように言っている。「それは理性的なものを次々と破壊していくと
   いう思想である。あるいは現在私たちが持っている人間性を完全に破壊したところで初めて何か新しいものが始まるというラ
   ディカルな思考である。」その先にはテロリズムの肯定があることは言うまでもない。この学派のマルクス主義というのは、
   「資本主義下で作られた人間を破壊した上でないと共産主義には進めない」という考え方である。

    西欧ではロシア革命に続いて、ミュンヘン、ベルリン、ブタペストでも革命が試みられた。しかしミュンヘンでは共産政権
   はドイツ軍に瞬く間に鎮圧された。ベルリンでもローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトの蜂起は失敗に終わった。
   ハンガリー人民革命は数ヶ月で崩壊している。ソ連以外のどこにおいても革命は成功しなかったことが革命側に深刻な影響を
   与えた。期待していた労働者階級、プロレタリアートは一向に立ち上がらず、一部の蜂起もすべて成功しなかったからであ
   る。彼らにとって必然のはずであった労働者階級の革命は必然ではなかった。

    ハンガリー革命に参加したルカーチはソ連に亡命したが、彼は革命が起こらない原因について考えた。そしてそれは人民の
   伝統的な文化の存在のせいであるとした。つまり彼らにキリスト教的思考が染みついていて真の階級利益に気づいていないか
   らだと考えた。彼は「古い価値の根絶と革命による新しい価値の創造なくして、世界共通の価値転覆は起こり得ない」と考
   え、自らの思想を実践に移した。

    その一環として彼は過激な性教育制度を実施した。当時のハンガリーの子供たちは学校で自由恋愛思想やセックスの仕方、
   中産階級の家族倫理や一夫一婦婚の古臭さ、人間の快楽のすべてを奪おうとする宗教理念の浅はかさについて教わった。また
   女性に対して当時の性道徳に反抗するよう呼びかけた。こうした女性と子供の放縦路線は西洋文化の核である家族の崩壊を目
   的としていたのである。ルカーチが祖国を捨てた50年後、彼の思想は「性革命」で生き続けている。

    その後アメリカの共和党政権により、方針が「反共」に変わったとはいえ、対日戦略は日本の左翼勢力が引き継いだ。人々
   の間に対立感情を煽り、差別や格差をいたずらに誇張する世論作りもこうした政策の結果といってよいであろう。それはいま
   だに続いている。しかし一方では、戦後日本が一部ジャーナリズムと学者・知識人以外、必ずしも彼らの意図するような社会
   変動や混乱の事態に陥らなかったのは、ひとえに日本人の常識というものが存在し、このような外来の攻撃に左右されない精
   神があったからとしか言いようがない。日本の伝統と文化の潜在的な抵抗力は意外に根強かったのである。



  第3章 「日本国憲法」は共産革命の第1段階としてつくられた 

    この機会に、現憲法がOSS「日本計画」の結果であり、米ソ蜜月の中のアメリカ左翼による「2段階共産主義革命」構想
   に基づいていることを明確にしたい。戦後日本の憲法はGHQが作成したというより、それ以前のOSS「日本計画」からの
   方針の結果である。私たち日本人はGHQの責任者がマッカーサーであると考え、その言動に注目しているが、実を言えば彼
   を指名したのはルーズベルトであり、彼が組織したOSSの方が主要な力を持っていた。このOSSは戦後後任のトルーマン
   大統領によって解散したが、マッカーサーはほとんどこの組織の路線を踏襲したように思われる。第二次大戦中、ルーズベル
   ト大統領は戦後の米ソの冷戦を予想できず、本当の敵を見誤っていたことは知られている。ソ連を同盟関係者と考え、反ソ連
   のドイツや日本を敵国とした。すでに述べたように、アメリカが共産主義者を政府組織に引き入れ、こともあろうに彼らを育
   てるという結果をもたらした。このルーズベルト大統領によってつくられたOSSは、反日政策を実施するばかりでなく、社
   会主義を支持し共産中国を成立させるという役割を演じた。トルーマンがこのOSSの「連中が戦争でも何でも勝手にやって
   しまう」といって怒ったことも知られている。勝岡寛次氏は「ソ連を端から同盟国と見做して疑わない米国の楽天的性格は、
   第2次大戦後もしばらく変わらず、対日占領政策の中にもそのまま持ち込まれていた」と述べている。戦後マッカーサーの対
   日政策や日本国憲法作成に多くの影響を与えたノーマンもエマーソンもこの組織にいたことを思えばこの重要性がわかるであ
   ろう。ノーマンは後に、マッカーシーによってアメリカ共産党員であったことが暴露され、自殺に追い込まれている。

    そのOSSの動きを1人の日本人が見ていた。彼はOSSの援助の大きさを見て、中国共産党の成功を予想したと言われ
   る。それは後の日本共産党の重鎮、野坂参三であった。中国共産党軍が国民政府軍を破り北京に入城したとき、アメリカの軍
   服を着てアメリカの銃を持ちアメリカの戦車に乗っていたと言われる。アメリカがすべてを提供していたのである。このとき
   野坂は毛沢東、周恩来、劉少奇らがアメリカの援助で革命を成就させるだろうと確信したという。OSSを率いた1人エマー
   ソンは、延安で出会った野坂についてこう書いている。「コミンテルンのテーゼは共産主義者の綱領の大前提として天皇制の
   廃止を要求したが、野坂はその考えを修正して、もし日本人民が望むのならば天皇の存在を認めようとした。彼は日本人の大
   部分が天皇に対して簡単に消えない愛情と尊敬を抱いていると考えていた。そこで彼は天皇制打倒という戦前の共産党のス
   ローガンを避けて、平和回復後の皇室に関する決定については、用心深く取り組む道を選んだ。しかし同時に、天皇は戦争責
   任を負って退位すべきであるとも主張した。」このように野坂は1944(昭和19)年の段階で戦前の共産党の天皇制打倒
   ではなく、その去就に慎重な態度をとらねばならないと述べていた。エマーソンはそれを野坂の意見のように述べているが、
   それはOSSで1942(昭和17)年6月の段階ですでに決められていたことである。野坂は次のように分析していた。

   「封建的専制的独裁政治機構の主張としての天皇と、宗教的な役割を演じてきた『現人神』としての天皇に分けた。…人民の
   大多数が天皇の存在を要求するならば、これに対して我々は譲歩しなければならぬ。それゆえに天皇制存続は、戦後一般人民
   の投票によって決定されるべきことを私は一個の提案として提出するものである。」野坂は「社会主義は軍国主義の破壊を通
   してブルジョア民主革命を達した後に得られる」という2段階論を展開したのである。OSSと同じ意向を野坂が述べていた
   ことをエマーソンは高く評価し、延安からアメリカに帰るとそれを下敷きにして天皇対策論を書き、GHQに強い影響力を持
   つことになる。重要なのは、この野坂の天皇論が「日本革命の2段階論」と国務省では言われるようになり、GHQの重要な
   条件になったことである。これは天皇制廃止を主張せず逆に軍部と対立させるというもので、コミンテルンによる天皇制のよ
   うな封建的権力組織は破壊する、というものではなかったのである。エマーソンの「延安報告」は、極東委員会において若干
   修正されたうえで正式の政策となった。こうして戦後の日本政策は憲法を含めて、アメリカがこの「日本革命」の2段階論、
   つまりはじめから天皇を退位させるのではなく、それを利用した上で次の段階で「民主化する」というものとなった。

    この野坂参三の見解は、日本共産党の指導者のひとり福本和男の福本イズムと呼ばれる「2段階革命論」と軌を一にし、ブ
   ルジョア革命から社会主義革命へと転化していく理論である。これは日本共産党の主流にならなかったルカーチ、グラムシな
   どの理論に近い新しい理論であった。ドイツに留学中だった福本はフランクフルト学派の開祖であるルカーチから大きな影響
   を受け、帰国後、無産者的階級意識すなわちプロレタリア的階級意識の形成をすべきだと主張した。それまでの日本のマルク
   ス主義は経済的な分析をするのみで、民衆の意識の問題は取り上げなかったが、すでに経済的階級闘争では資本主義社会を打
   開できない、と気づいたルカーチは労働者の意識を変えることが重要であると主張したのであった。つまり社会主義は、マル
   クスやソ連共産党が初期に、資本主義の経済的矛盾によって必然的に革命が起きる、とした説ではなく、先鋭的な階級意識を
   作って社会を主体的に変えなければならない、という理論である。すなわち第1段階の、「農地改革」による寄生地主の土地
   買い上げとその結果としての小作人への土地解放、「財閥解体」による巨大資本の政府コントロール、その後に中小企業の育
   成と労働者の賃金上昇を行なう、しかし私有財産は没収せず、富の分配をさせる、社会主義革命はその次である。またエマ
   ーソンは「日本では、法と秩序を立て直すために、すべての勢力が協力することが重要である。我々は戦後出現するであろう
   占領協力者ないし穏健派にのみ依存すべきではない。共産主義者の野坂参三を戦後改革に協力させるべきである」と書いてい
   る。これはこの時代のアメリカが日本の将来の共産化を望んだと考えることができる。

    1945(昭和20)年10月4日、マッカーサーはGHQ本部で近衛に日本の新しい憲法を作ることを要請した。そのと
   きマッカーサー自身には、プロレタリア革命への第1段階であるブルジョア革命として日本の憲法をつくる明確な意図などな
   かったかもしれない。しかしエマーソンやノーマンをはじめOSS以来の側近はそのことを追及する絶好の機会と読んだに違
   いない。さまざまな憲法草案が自由党、進歩党、社会党、日本共産党から発表されたが、GHQが強い関心を示したのが、憲
   法研究会の「憲法草案要綱」である。この憲法研究会とOSSとの間には、京大在学中に治安維持法で検挙され在野の学者で
   あった鈴木安蔵とノーマンを通じた関係があった。

    鈴木安蔵の考えは、暴力革命路線をとる共産党綱領と異なっていた。その考え方はまず平和的にかつ民主主義的方法によっ
   てブルジョア民主革命を目指すことを当面の基本目標とするものである。日本における社会の発展に適応せる民主主義的人民
   共和政府を樹立し、その後平和的教育的手段によって社会主義革命にいたる「2段階革命」路線をとるという意味であり、そ
   れはOSSや野坂参三の見解を受け継ぐものであり、GHQの路線でもあった。国務省の極東委員会が「日本革命2段階論」
   を認めており、天皇を存続させ天皇の戦争責任は問わないという方向で憲法を作らせることになったのもこの路線である。こ
   れは1946(昭和21)年2月4日から26日にかけての日本共産党第5回大会で、戦争直後の第4回大会と異なり「愛さ
   れる共産党」というスローガンが掲げられたのに呼応する。(将来は共産主義革命を起こす目的を持つことに変わりはない。)
    この憲法研究会の案は「1.天皇は国政を親(みずか)らせず国政の一切の最高責任者は内閣とする。2.天皇は国民の委
   任によりもっぱら国家的儀礼をつかさどる」として、はっきりと天皇親政を否定したものであった。これは政府・自由党案の
   「天皇は統治権の総覧者なり」とか、進歩党案の「統治権を行使する」とか、社会党案の「統治権の一部を帰属せしめる」案
   に対して、OSSがすでに使っていた「象徴」という言葉は使っていないものの、その精神は同じものである。そして「国民
   は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」という生存権の条項は、現在の日本国憲法第25条の「すべて国民は、
   健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とほぼ一致する。この「儀礼的代表としての天皇」だけでなく「国民主
   権の原則」も鈴木が明治憲法成立史研究と自由民権期憲法私案研究に取り組んでいたことから生まれたといわれるが、実を言
   えばブルジョア民主革命という第1段階の革命理論から来ているものなのである。

    結局日本案に満足できなかったマッカーサーが、GHQの民政局長ホイットニーに憲法草案の作成を命じた。ケーディス、
   ハッセー、ラウレルらが集まったが、そこには憲法の専門家はいなかったし1週間という短い期間しか与えられなかった。ホ
   イットニーはルーズベルトのニューディール政策を支持する民主党左派の「隠れ社会主義者」といってよく、民生局次長ケー
   ディスもまた左翼のニューディーラーであり憲法に左翼的路線を導入させることでは一致していた。ラウレルは鈴木安蔵を
   知っていたし日本のことも研究していた。ラウレルこそ、鈴木安蔵の憲法研究会案を英訳・解読させ、GHQの憲法草案に取
   り入れた人物であった。マッカーサー3原則と言われるなかで「3.日本の封建制度は廃止される。華族の権利は皇族を除
   き、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の地位は、今後はどのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではな
   い」とあるが、これは明確にその理論の一端を示している。天皇は温存するが、封建諸制度は崩壊させるというものだ。ここ
   には「封建時代と現代との境界を画した1868(明治元)年の革命が中途半端であったために、封建日本は近代日本社会の
   中に消えない傷跡を残した」と見て、日本の軍国主義や超国家主義の背景には封建主義があることを指摘したノーマンの「日
   本政治の封建的背景」からの影響が色濃い。

    しかしこの理論には、まさにこれまでの「2段階革命論」の第1段階である封建的な残滓を崩壊させようとする社会主義思
   想がある。これは福本和夫や鈴木安蔵、野坂参三と共通するものであり、GHQの方針となったものでもある。このマッカー
   サー3原則は、日本政府による現存の華族の廃止を促し、それは「日本国憲法第14条、華族その他の貴族の制度は、これを
   認めない。栄誉、勲章、その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。栄典の授与は現にこれを有し、または将来これを
   受けるものの一代に限り、その効力を有する」の中に現れている。鈴木安蔵とノーマンの会話が憲法調査会の議事録に残って
   いる。鈴木が立憲君主制のような案を示し「これでいく他ないと思う」と言うと、ノーマンは「それで日本の民主化ができる
   だろうか」と懐疑を示したという。その理由をノーマンが「イギリスでも今日のようになるにはご承知のように、2度の革命
   を通過しているので、やはり1度でもそういう過程を通らなければ、君主政治の民主化はできないんじゃないか」と言ってい
   るのも、まさにルカーチ、福本、野坂のいう2段階革命論と同じであるのだ。

    「日本国憲法」前文において有名なくだりである「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」がいかに戦争の絶えない
   歴史を無視した幼い見解であるかということは、つとに批判されるところであるが、これが共産主義の2段階革命論の隠れた
   1説である、と見ることができる。なぜなら「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めて
   いる国際社会」が、日本をそのような状態から脱却させる第1段階の革命を目指し、明らかに「平和を愛する諸国民の正義と
   信義」をもつ国が、当時のソ連をはじめとする社会主義国家のことを指している、ととれるからである。「恒久の平和を念願
   し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」ことは、内に崇高な「共産主義」社会を理想とする憲法、と考え
   ることができよう。

    第9条には「戦争の放棄」の有名な条項がある。これは日本の軍国主義の復活を否定するもので、近隣諸国に脅威を感じさ
   せない「平和日本」の宣言であるかのように護憲論者は言ってきた。しかしこれも革命的な視野からいえば国内問題に適用さ
   れるのである。まずブルジョア国家の屋台骨である軍隊を取り去り、治安を警察だけにして革命を行いやすくするために準備
   する条文ととることができる。戦後の一時期、労働運動は激化し「革命前夜」とさえ言われたが、この条文は国家がそれを弾
   圧しないようにするための条文でもあるのだ。これは1945(昭和20)年、終戦の年にマッカーサーが出した労働3法の
   労働組合法が組合運動を助成し、団体交渉などにおける組合員の行為については暴力を振っても刑事責任も民事責任も問われ
   ない、などという法律とつながり、労働者が暴力革命を起こしてもそれを武力で抑える力を国家に持たせない意図と対応す
   る。戦後、GHQが府中刑務所から釈放した共産党の徳田球一は「人民に訴う」で次のように述べている。
    1.ファシズムおよび軍国主義からの世界解放のために、連合国軍隊の日本進駐によって日本における民主主義革命の端緒
     が開かれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する。
    2.米英および連合諸国の平和政策に対して、われわれは積極的にこれを支持する。
    3.われわれの目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民政府の樹立にある。
   この共産党の戦後の宣言こそ、日本国憲法を解く鍵であるのだ。
    第1条「天皇は…象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるが、これは「人民に訴う」第
   3項を受けて、その前の段階を作り出すと認識されるのである。

    第18条「奴隷的拘束および苦役の禁止」の1行で、「何人もいかなる奴隷的拘束を受けない。また、犯罪による処罰の場
   合を除いては、その意に反する苦役に服せられない」などと書かれている。しかしこの「奴隷」などという状態は日本にはな
   かったにもかかわらず挿入されたことで、それが戦前にあったかのごとく錯覚させられてしまった。これもアメリカ憲法の奴
   隷解放の理念を勝手に日本に押しつけただけのものである。これによって日本は、「人民に訴う」第1項の「民主主義革命」
   を起こすべき状態であることを示しているのである。

    第21条は「表現の自由」とか「検閲はこれをしてはならない」と書いているが、GHQのもとでの占領時代においてはま
   さに厳しい検閲が行われ、この憲法も検閲自体も一切の批判が不可能であったことを想起しなければならない。GHQの言論
   弾圧があったことさえ日本人に意識されず、あたかも日本人がこの憲法にも占領政策にも賛成しているかのような風潮を是と
   したことも記憶に新しい。

    第97条に「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの
   権利は、過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し、犯すことができない永久の権利として信託されたものである」
   とあるが、これを見るとまるで日本が西洋の「近代・進歩史観」の中にいるような錯覚に陥る。ここには日本の聖徳太子以来の
   歴史が全く欠けており、われわれの過去幾多の試練の記憶が消されているのである。

    このように「日本国憲法」が、共産党の「人民に訴う」の「革命」の前段階であるとする認識の上に立っていることが理解
   されるのであるが、こうした憲法解釈に符合する当時の学説がある。それは東大教授の宮沢俊義の「8月革命説」である。宮
   沢はこの憲法が天皇主権の明治憲法の改正ではなく、国民主権を突然持ち出した憲法であるから「革命」である、とした。そ
   れは外部からの「ポツダム宣言」の受諾に基づき、国民の主権の要求によってつくられたというもので、それを宮沢は「革
   命」と呼んだ。だが現実には、新憲法が明治憲法の手続きを踏んで改正されたのではなく、GHQから突然与えられた憲法で
   ありそこに国民の要求があったわけではない。しかし宮沢らの「革命」という言葉は、未来の「共産主義革命」の第1段階で
   あるという意味を持っていると考えられる。戦後共産党員が釈放され、当時「進歩」勢力と言われた共産主義者にとっては、
   宮沢らの「革命」すなわち日本国憲法の成立が、ある意味で共産主義革命の第1段階ということになる。それは徳田球一が
   「人民に訴う」の中で「連合軍の進駐によって日本における民主主義革命の端緒が開かれた」と述べたのと同じ「革命」であ
   る。この時代、宮沢をはじめ多くの法律学者がマルクス主義者になっていたことは、戦後の東大人文学科の風潮を見れば明ら
   かであり、共産党第4回党大会一般報告の中の共産党とGHQとの関係を見れば明らかである。すなわち「われわれは現在連
   合軍によって占領されているが、連合軍はわれわれの敵ではない。のみならず民主主義革命の有力なる味方であり、われわれ
   にとってまさしく解放軍そのものである。われわれが公然と合法舞台に現れ、農村に工場に活動を展開し得るに至ったのは全
   くそのおかげであることを深く明記せねばならぬ。」解放軍であるGHQによって与えられた憲法が、まさに共産党のいう
   「革命」の1歩であり、その占領によって彼らの農村や工場も活動が可能になったというこの事実そのものが、日本の新しい
   戦後憲法の出発点であることをいみじくも示している。

    このような事実がこれまで憲法学者によって指摘されなかったのも、民主主義のアメリカがそこまで共産主義的であったと
   は思われない、という前提があったからである。アメリカにも共産主義者がいるしこの時期は特に多く存在したのである。現
   在、ソ連が崩壊し、中国も共産党が支配しているとはいえ全体主義的資本主義国家となり、北朝鮮もあきらかに全体主義と
   なっている。日本人はこの憲法が、共産党や社会党によって支持されてきた理由を早く理解し、共産革命への第1段階を目指
   すものであったことを認識する必要がある。



  第4章 GHQの占領政策をお膳立てした左翼工作集団「OSS」

    日本に憲法を押し付けたときの米国は戦後の米国とは異なり、異常な状態にあったことを忘れてはならない。すでに述べた
   ように米国には占領政策を進めたGHQよりも前にOSSという諜報組織があった。日本人はGHQばかりに目が奪われがち
   だが、それ以前に組織されたOSSの方針で方向づけられた点を見失うべきではない。戦後体制の基礎となった日本国憲法は
   社会主義憲法の第1段階として位置づけられて制定されたものであることが鮮明に見えてきたからだ。OSSの組織には米国
   の左翼、特に米国共産党や「隠れマルクス主義者」、日本共産党ら共産主義者も深くかかわっていた。米国はその後、反共主
   義へ方向を転換し、日本に憲法第9条の改正や再軍備を求めた。しかし日本は憲法を温存した。左翼が「平和と民主主義」を
   お題目のように唱え続け、虚構に満ちた戦後思想やそれにもとづく戦後レジームが続いたのである。すでに述べたように、O
   SSに左翼やマルキストが集まったことから、OSSは漠然とソ連共産党の指導を仰ぎ、コミンテルン型のような全体主義に
   よる統制形態であるかのように捉えられがちだが、事実は違う。OSSは主にフランクフルト学派系の理論によって支配され
   た組織であり、徐々に対象を切り崩し骨抜きを図っていくソフトな革命理論を志向する集団である。OSSにこのような共産
   主義者を入れたことは、いかにこの時代、彼らに対するアレルギーがなかったかを物語るが、それは民主党のルーズベルト大
   統領時代、大恐慌を受けたニューディール政策など社会主義的な政策をとっていたことがその原因であっただろう。ナチス・
   ドイツよりもソ連と近い関係を持っていたことも受け入れを容易にした。その後のアメリカの反共姿勢とは全く異なっていた
   のである。

    OSSの動きに在米の日系共産党員が多数加わっていたことが今日明らかにされている。特に戦争が米国に有利となった
   43年以降、日本自体に工作を行うために日本語をよく知っている要員が必要になった。日系人を利用することをドノバンに
   進言したのはハーバート・リットル少佐なる人物であったが、最初に召集されたのがみな米国共産党の日本人部の人々であっ
   た。藤井周而(ふじいしゅうじ)は日本人部の幹部であり、戦前、ロサンゼルスで日本の軍部に反対する新聞「同胞」を発行
   していた。その実績を買われて彼はサンタアニータの日系人仮収容所から連れ出され一員に捉えられた。44年4月までに日
   系共産党員ばかり14人がこの組織に参加することになった。普通の日系人であれば米国の機密事項を漏らす危険性があった
   が、共産党員であれば反軍部・反権力であると考えられたからであろう。この計画は「マリーゴールド・プロジェクト」と呼
   ばれ、次のことが目標に掲げられた。
    1. 破壊的な諜報の印刷物やラジオ制作に有能なスタッフを訓練させること
    2. 白人スタッフに日系人の心理、態度、反応の仕方を学ばせること
    3. 海外の前線に制作した物を輸送・配布するとともに、将来的には前線の近くで諜報活動に当たらせる体制をつくること

    彼らは日本内部に分裂があればそれを助長するというOSSの方針に沿ってさまざまな諜報活動を行なった。例えば、中野
   正剛が激しく東條英機を批判して逮捕され自殺した事件を利用して偽造文書を作りあげた。OSSファイルの偽造文書に中野
   正剛の遺稿と称する「大東亜戦争覚え書き」がある。中野は昭和18年10月21日に東條英機内閣の倒閣容疑で逮捕され、
   釈放後自殺した。覚え書きには「その1」とするものがあったために、偽造された覚え書きは「その2」とされた。そこには
   ドイツの敗北を早くも想定し、米英と平和条約を結ぶべきだ、と書かれている。「日本は負ける」と述べていたとされる中野
   の言葉として恰も真実のように語られており、「彼らの要求する無条件降伏に応ずるのやむなきにいたるか。…私をして言わ
   しむれば、この場合ドイツ敗戦とともにすぐに米英と平和を締結せよというのである」ともっともらしく書いている。東條英
   機批判のために偽「写真情報」誌も発行された。これも東條政権をおとしめる目的で出された宣伝であるが、終戦の前年に出
   されたもので、日本国民と軍政府との離反を画策している。これには写真がつけてあり、特攻隊の敬礼する写真と、東條英機
   の肖像と芸者の明らかに合成写真とわかるものが掲げてある。文章は米国の攻撃がいかに激しいものであるかを強調して日本
   人を脅かし、次に東條首相がいかに国民を欺いているかを語っている。
    《米鬼の空襲は本土に来た 神州を護れあわてずに 周到に 敵の誇る空の超要塞は 何万来るか何百万トンの爆弾を落と
   すかも知れぬ 用意はいいか》
    《皇軍が、見事に真珠湾を爆撃し、沼南(昭南?)やパタアン(バターン?)を陥落したとき、我々は本当に東條首相自ら
   が言ったように、大東亜共栄圏の建設も間近にあると信じ、お上に言われるまでもなく我々国民は遊興どころか、それこそ文
   字通り食うや食わずで身を粉にして働いてきた。だが上の写真を見てくれ。何百万という我々の兄弟がお国のためだと思って
   血みどろになって戦っているときに、よくもこんなことができるもんだ。待合や芸者屋を閉めろと命令しながら、彼の言うこ
   とと実際とまるであべこべではないか。反枢軸国が形勢を挽回して、攻勢に出ている今日、またわが国では上下一致して国難
   に当たらんがため必死の決戦態勢にあるとき、首相自らがこの有様ではわが国の将来は思いやられる。我々は果たして東條首
   相に今日の多難な国事を託すことが出来るであろうか。これでは到底取り返しのつかぬことになるだろう。憂国正義団》
    まさに戦後の左翼やリベラルな言動で知られる評論家による軍部批判と同じような内容が、このOSSのブラックプロパガ
   ンダには盛り込まれていたのである。彼らは日本が一丸となって国難にあたり、必死の決戦態勢にあることを知っていた。そ
   の日本人と東條体制を離反させようと、芸者の中の東條首相という合成写真を作ったのである。東條首相がまともな肖像写真
   からとられているので、およそ芸者衆と馴染んでおらず、その猥雑な写真は逆効果だと思えるほどである。

    戦争末期にはOSSによって「新国民放送局」が編成され、日本の軍部批判、敗戦必死を訴える戦局情報が勢いを増した。
   米軍はサイパンに放送局を設け、そこからブラックプロパガンダを展開した。それが効果をあげたかどうかはさておいて、私
   が重要視しているのは、こうしたプロパガンダで流された情報が戦後の占領体制の基本情報になったということである。その
   中に軍部の横暴を示すために、「従軍慰安婦」の問題が取り上げられている。よく読むと、戦後のこの問題が、この頃つくら
   れたひとつの捏造事件であったことをいみじくも露呈しているので取り上げてみよう。

    これはOSS宣伝関係資料の番組台本に書かれていたもので、実際には57回目の放送で流されたものである。その物語
   は、ある日本人兵士がビルマ戦線に向かう船の中で、朝鮮人の若い女性と出会うところからはじまる。その女性が前線での看
   護婦の仕事はどんなものであるかを聞くと、兵士は「慰安婦が看護婦の仕事もするとでも言うのかね」と答えたので、「なん
   ですって。私が朝鮮人だと思ってばかにしているのではないですか」と怒って聞き返す。この女性は慶尚北道の生まれで、日
   本の憲兵隊支所の「特殊看護婦募集 朝鮮人のみ」という張り紙を見て、是非看護婦となって兵士を看護したいと思い自ら募
   集に応じたという。そして1943年10月25日に200円のお金を与えられ、釜山の憲兵隊本部に出頭した。そこには
   15,6人の朝鮮人女性がおり、ともに広島の宇品の輸送隊に連れて行かれ、そこからビルマ戦線に送られたと語られる。そ
   こではじめて自分が兵士の売春婦になることを悟らされたという。よく朝鮮人の若い女性が「強制連行」され「従軍慰安婦」
   にされたという説がここ20年ほどまことしやかに流れ問題となったが、戦時中流れたこのブラックプロパガンダでさえ、
   「強制連行」などではなく、「看護婦」として従軍しようとした例として出されているのである。いかに戦後誇張されて持ち
   出された問題かがわかる。この女性がその後「慰安婦」にされたかどうかもわからない。

    しかも、戦後行なわれた「慰安婦」の調査で、看護婦募集の名で慰安婦を募った例はない。もともと「看護婦」の経験がな
   い女性を船に乗せ、どうしたらいいかは採用された後に指示されるなど、看護婦の職制を考えればいかにおかしなものか。と
   もあれ、雑役婦の仕事だとか、女子挺身隊としてとか、人狩りのごとく連れ去られたという「従軍慰安婦問題」はOSSの反
   日捏造レポートでさえも、もっと穏やかな内容だった。戦後の従軍慰安婦問題がいかに荒唐無稽であるかを示すものだと思う。
    ちなみに、このOSSの戦時中の反日プロパガンダには、1970年代以降問題となった「南京大虐殺」がひとつも出てこ
   ないことにも注目しておきたい。OSSのプロパガンダには満州事変、シナ事変など、日本軍の残酷さを暴こうとしたレポー
   トがたびたび盛り込まれている。しかし30万人も死んだとされるあれほどの事件が事実であれば、持ち出されないはずがな
   い。にもかかわらず一行も触れられていないのである。

    野坂参三については、米軍が彼と組んで、終戦前に日本への潜入計画「アップル・プロジェクト」を持っていたことが知ら
   れている。中国の共産党と日本の共産党との仲介の役を演じようとする計画であるが、結局それは実現に至らなかった。野坂
   がOSSと組んで中国から日本へ工作員を潜入させようと意図していたことは、その資料から明らかにされている。戦争末期
   の1945年7月6日のことであるが、「工作員が日本に潜入すれば、共産党の地下組織との接触が図られ、彼らの保護を得
   て、諜報システムが展開されるであろう。潜入計画の初期の諜報活動は、共産党グループが潜行している特定の地域、工場、
   施設のみを対象とするであろう。権力者による日本人民への支配は強固なので、諜報活動の範囲の広がりは遅滞し困難であろ
   う。活動は空襲による混乱や人々の疎開といった支配機構の弱体化を利用して展開されなければならない。…日本本土の情報
   は不足している。一方、共産党は健在であるため、この工作は危険を冒してまで決行されるべきである…」

    あたかも共産党が戦時中活発であったかのような書き振りであるが、実際共産党の内実は脆弱だった。この情報をもたらし
   たのは岡田文吉という共産党員で、1943年夏、徳田球一の指令で延安にやってきたという。この計画はOSSが日本への
   働きかけを情報戦というレベルから一歩進め、日本潜入という大胆なプロジェクトを進めようとしていたことを示している。
   しかしこの潜入計画は結局具体化しなかった。そのかわり終戦直後の野坂の帰国に期待が集まることになった。野坂は194
   5年12月19日付けの北朝鮮ピョンヤンから米軍のソウル駐屯司令官に宛てて手紙を書き、いかに共産党が米軍と協力して
   きたかを語っている。手紙の中で「私は華北で日本人解放同盟や日本農学校を組織し、日本の侵略に反対し、民主日本を樹立
   する戦いを展開してきました。私は日本共産党中央委員会の元委員です。…昨年7月に延安で米軍軍事視察団が設立されて以
   来、日本軍国主義者の心理戦争について、その使節団とずっと関係を持ち、日本軍や日本国内の情勢についての情報や材料を
   提供してきました。…私はほかの日本人3人とともに、日本人民解放連盟の指導者ですが、米軍事使節団にお願いし、延安の
   米当局者の許可を得て、ほかの乗客と延安を発ち、モンゴル、満州経由で9月13日朝鮮のピョンヤンに着きました」とそれ
   までの経過を述べ、そして日本に帰国できるように要請をしている。そして「私たちは日本に帰国すれば、今までのように日
   本の軍国主義の絶滅、日本民主主義の樹立、太平洋の恒久平和のためにあらゆる努力をする所存です」とも述べている。日本
   共産党が野坂を中心にいかに米国と内通していたか、はじめて明らかになったのである。

    米陸軍のCIC(対敵諜報部隊)は直ちにソウルで野坂参三と会い、東京行きを許可している。驚かされることは、米軍の
   この諜報部隊がまるで彼ら自身、同じイデオロギーの同志であるかのごとく、今後の野坂の政治予定、政治目標を記している
   のである。

    「今後の予定:東京に向かい、共産党指導者の徳田球一、志賀義雄と接触する。社会党の指導者の松岡駒吉、鈴木文治とも
   会う。…今後の政治目標:1.日本の民主化、2.大企業の国営化、3.民主原理に基づく憲法改正、4.あらゆる勢力の糾
   合、5.ポツダム宣言の実行、6.生活状態の改善、7.4つの自由の達成、8.現在の日本支配体制の解体」と、ここで戦
   後の日本の占領軍の方針がすべて語られている。かえってこれらの方針が達成の困難になる障害として「1.社会主義、自由
   主義指導者による拒否、2.人民説得に要する時間の長さ、 3.現在不明の連合軍の政策、 4.軍部の若い将校、判事、
   内務省の役人などの抵抗運動、5.神風特攻隊や武勇隊のような組織による地下運動やテロ」が挙げられている。つまりこう
   した社会主義的な政策が、かえって社会主義者、自由主義者の妨害に合うのではないかと危惧しており、まだ連合軍の政策が
   固まっていないことにも不安を抱いている。また一部の軍部の抵抗、役人の反対を恐れ、右翼やテロさえ警戒しているのであ
   る。野坂の帰国によって、あたかも左右の動きから反対されるのではないか、と考えているのである。

    こうして野坂は帰国後も米国から支持され、歓迎されることを期待していた。確かに1946年に戦後憲法が成立するまで
   の米国の方針はそうだった。しかしOSSは新しく就任したトルーマン大統領の命で解散させられる事態となり、GHQが新
   たに編成されてマッカーサーが日本統治の実権を握ると、共産党の役割は小さくなっていった。ソ連との冷戦が始まり、あら
   たな諜報組織CIAが準備された。最近出された「CIA秘録」にもこのOSSについてはほとんど書かれていない。ドノバ
   ンの行為はなきに等しい扱いにされてしまっている。しかし日本にとっては、米国のGHQの政策も、東京裁判の帰趨も、天
   皇を象徴とする戦後憲法の制定も、すべて1つの共産主義路線に影響されたOSSのお膳立てによってつくられ、占領体制が
   形成されていったことを忘れてはならない。