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活 動 報 告report

 戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」(後)         平成26年6月15日 作成 五月女 菊夫


参考文献:「戦後日本を狂わせたOSS『日本計画』」(田中英道 展転社)
前回
 第1章 現代史はルーズベルトの「隠れ社会主義」から始まった                    
 第2章 アメリカOSSの「日本計画」
 第3章 「日本国憲法」は共産革命の第1段階としてつくられた 
 第4章 GHQの占領政策をお膳立てした左翼工作集団「OSS」
第5章 マッカーサーはOSSによって操られた
 まず最初に言わなければならないのは、天皇の存続はGHQのマッカーサーが決断したわけではないということである。
私たちの多くはマッカーサーがGHQを支配し、その方針によって戦後の日本が指導されたと考えてきた。しかし彼はあく
まで最高指揮官である大統領によって指名された部下の1人であり、彼の一存で日本を采配できたわけではなかったのだ。
天皇を「象徴」とするという戦後の一貫したマッカーサーの主張も、実を言えば開戦の半年後に情報工作の一環として立て
られていたことがOSSの機密文書によって明らかになっている。つまり天皇を象徴として残すという点も、すでにルーズ
ベルト大統領の1942(昭和17)年の段階でOSS「日本計画」によって方針が与えられており、それが軍諜報部や国
務省経由でマッカーサーに伝えられていたと考えられるのである。これは昭和天皇を平和の象徴として利用するという計画
で、軍部と対立させ、日本国内を対立の渦中に置こうとする計画であった。「天皇制」を打倒するよりも、その伝統の力を
利用して国内を対立させ、折からの日本の軍事力の膨張を抑える方向に作戦を立てたのである。天皇の存在により、好戦的
な日本軍の士気をくじくことを当面のプロパガンダ戦略としたのであった。そのために「日本の天皇を、慎重に、名前を挙
げずに平和のシンボルとして利用すること」を明記しているのである。このことは、「天皇制打倒」を主張し、軍部も同時
に崩壊させることを目指していた日本共産党やソ連・コミンテルンや中国共産党の方針とは異なるものである。これはマッ
カーサーによる良心的なアメリカの日本理解と取られた節があるが、実際はもともと日本社会崩壊に向けたステップとして
の行程であったことを忘れてはならない。

 普通アメリカとソ連は最初から対立していたと見られがちである。そしてすぐに冷戦がはじまり、自由主義と社会主義と
に分かれるような、異なったイデオロギーがはじめからあったと考えられている。だが事実は異なっていた。冷戦以前のア
メリカの方針は、決して冷戦開始以後のような反共産主義の路線ではなかったのである。さらにソ連のスパイによりコミン
テルンの方針に従っていたわけではないこともわかってきた。「ヴェノナ」文書におけるソ連スパイの存在よりも、アメリ
カ自身の共産主義者の暗躍がその方針を作り上げていったことが理解されるようになったのである。マッカーサーのような
反共のアメリカ人政治家たちによって決められていたわけではなかったのだ。

 驚くべきことは、戦後ある時期までトルーマンとその部下たちは、スターリンとほとんど同じように、世界の共産主義化
に同意していたことである。端的に言えば、アジアの共産主義化をあの時点でアメリカ一国でも作り上げようとしていた。
戦後の日本の占領期における検閲にいたるまでそれが貫かれていた。つまり両国は一致して、ある時期まで中国と日本の社
会主義化を意図していたのであった。

 すでに前章で日本共産党員の野坂参三とOSSとの協力関係について論じたが、アメリカは彼を通じて、日本の共産化を
図っていたことが明らかになっている(一方でアメリカは中国共産党を援助し、その中国支配を望み、それを着々と進行さ
せていた。アメリカは蒋介石の率いる国民党勢力を支持していたのではなかった)。すなわちアメリカ政府はGHQに「日
本革命の2段階論」を送っていた。GHQの政治改革はまさに、この野坂の「修正主義」、別名「構造改革路線」、すなわ
ちコミンテルンの綱領とは異なる、ルカーチなどの理論に基づく路線から成り立っていたのだ。曰く「日本は20世紀の文
明社会ということであるが、実態は、西洋諸国が400年前に捨てた封建社会に近い国だった。」それを破壊するために、
「第1に、軍事力を破壊せよ。戦争犯罪人を処罰せよ。議院内閣制を確立せよ。憲法を近代化せよ。自由選挙を行なえ。女
性に選挙権を与えよ。政治犯を釈放せよ。農民を解放せよ。自由な労働運動を確立せよ」等々を命じたが、よく見るとこれ
らはまさに野坂やOSSの見解であったのだ。それはアメリカ民主主義の日本化を意味しているように見えて、実は社会主
義への道を開く方針でもあった。

 戦後施行された農地改革による寄生地主の土地の買い上げ、その結果としての小作人への土地解放は、その社会主義路線
の一環であったのだ。また財閥解体による巨大資本の政府統制と中小企業の育成、労働者の賃金値上げ、私有財産の非没収、
富の分配による国力の増強などは、この2段階革命路線ということができる。これがマッカーサーのGHQの方針になった。
これまでこうしたGHQの戦後改革は、占領政府が軍国日本を骨抜きにしようとする民主改革である、と日本では一般に言
われてきたが、実はそうではない。繰り返して言うが、それ自身OSSの基本方針に沿った、ソ連の革命理論とは異なる社
会主義への第1段階を画する計画であったのである。

 この共産主義者野坂参三への好意的文章を書いたケーディスもまたマッカーサーの影に隠れてはいたが、最も意図的に日
本の共産主義の戦後を作り上げようとした人物と言ってよい。彼はニューディール政策の実行者だとしか普通書かれていな
いが、そのニューディール政策そのものが共産主義の隠れ蓑であったのである。この人物はアメリカでもはや実現できなく
なったニューディールの理念を日本で実現しようと考え、意図的に日本にやって来た人物であると言ってよい。彼は194
8(昭和23)年にアメリカの対日政策が反共主義に転化するときに、わざわざワシントンに出向いてその変更を元に戻す
ように説得までしている。しかしそれが聞き入れられなかったので辞任を申し入れて受理された。

 OSSと野坂参三らがしかけた「共産革命」の危機は、戦後のマッカーサーとその下のGHQの動きによって、その企図
は打ち消されたかに見える。しかしマッカーサー下のGHQ内で2派の対立があり、OSSの影響はその左派の中に温存さ
れ、右派が力をもつ以前に占領政策に大きな影響を与えた。終戦直後のトルーマン大統領によるOSS解散の後、GHQの
中で、この旧OSSの勢力と新たな勢力との対立がはじまった。それはGS(民政局)とG2(参謀第2部)間の対立とも
なった。民政局長はホイットニーで、1946(昭和21)年以降マッカーサーの右腕となって働きOSSの路線を継いで
いた。しかし47(昭和22)年になると右派が強くなる。軍事情報部長になったウィロビー陸軍少将はマッカーサーに秘
密報告をもたらし、日本共産党に対する強い警戒心を植えつける。マッカーサーが45(昭和20)年10月に釈放した徳
田球一は「ソ連、中国両共産党の覇権主義的干渉に追従した武力闘争路線の導入という重大な誤りに転化した。野坂は、そ
の体制順応主義から徳田に追従し…徳田に劣らない重大な誤りを犯すに至った。」その後、マッカーサーはウィロビーの路
線によって反共の動きに転じるのである。50(昭和25)年、日本共産党は非合法化され徳田も野坂も中国に逃亡し、つ
いで朝鮮戦争が勃発する。

 日本人の戦後の歴史に対する後ろめたさの感情は、GHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争の
罪悪感を植えつける計画)が与えたものと思われ、それはアメリカの「自由」と「民主主義」を標榜する若いリベラル派の
方針と漠然と考えられてきた。しかし実はOSSというすでに1942(昭和17)年に創設された軍事戦略局の方針に添
っていたものであり、そしてその方針そのものが、アメリカの左翼がしかけたものであることが明らかになってきた。彼ら
がOSSの解散の後、GHQに入り込み、1947(昭和22)年までその勢力を保ち、そこから発せられた戦後処理が日
本の社会主義化という方針を含んでいた、という事実が判明している。

 戦力を否定した第9条は、日本の軍隊が海外への侵略を2度と行なわないためという対外向けが底意と言われるが、それ
は明らかに、国内内部の統治という問題を警察に任すということであり、それは暴力的な共産革命を可能にする最も有効な
体制であったことは、革命の過程を少しでも歴史的に知っている者にとっては、誰にでも理解できることである。だがマッ
カーサーの名の下に行なわれたこうした共産革命準備に対して、日本側は全く予想ができなかったのであろうか。戦時中の
日本において、共産革命の動きが無視されていたわけではない。ただそれはソ連とのつながりにおいてという点であって、
アメリカのOSSの動きに気がついていたわけではなかった。ソ連の日本赤化政策ならともかく、米国自体の左翼の動きは
ほとんどその警戒の範疇に入ってはいなかったと言ってよい。

 無警戒といえば、日本にも世界の容共の動きに追従すべきだという政治家も指導部にいたのである。とくにソ連との交渉
によって戦争を終結させようとした木戸幸一が、ある側近に次のようなことを言っていたという。「共産主義と言うが、今
日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り、残るは米国くらいのも
のではないか。今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかという
気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか。」高松宮殿下でさえこう
言われていたという。「日本とソビエトとドイツとの間に共通な理想を見出すべきであり…、実際のところ、神ながらの道
も共産主義も少しも変わらんではないか。…もしそんなことで日、独、ソが結び得れば幸いだが。」

 この動きに対し強い危険性を感じていたのが、細川護貞を含む近衛―吉田グループであったという指摘がある。このグル
ープは昭和18年の段階から天皇制維持を唯一の条件として英米側に降伏するという方針をもって、東條内閣を倒し、宇垣
一成を担ぎ出す運動を進めていたという。それが「近衛上奏文」と言われるものにあらわされている。「近衛上奏文」は
「最悪なる事態は遺憾ながら最早必至」と判断し、英米の世論には一部の過激論もあり将来どうなるかは測り難いが、「今
日までのところいまだ国体の変更にまでは」進んでいない、ところがこの点で最も憂慮すべきは敗戦とともに起こる「共産
革命」である、「わが国内外の情勢は今や共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、」すなわち第一に国外におけるソ
連の異常な進出で、「ソ連は欧州においてその周辺諸国にソビエト的政権を、そのほかの諸国民には少なくとも親ソ容共政
権を樹立せんとして着々その計画を進め、現に大部分成功を見つつある現状」であると述べている。そしてユーゴのチトー
政権、ポーランドにおけるソ連の後押しを受けたポーランド愛国者連盟を中心とした政権、「米英占領下のフランス・ベル
ギー・オランダにおいては、対独戦利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争が続けられ」、ドイツに対しても「す
でに準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図」であるらしい、しかもこれはヨーロッパだけでなく
東亜に対しても行なわれており、「現に延安にはモスコーより来たれる野坂を中心に日本人民解放連盟が組織せられ、朝鮮
独立連盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊と連携、日本に呼びかけ」ている。

 ここでソ連や野坂への動向に注意を向けているが、その野坂がアメリカOSSの後押しである、ということの推察がないの
は、この時期、日本にはアメリカのこの動きに対する情報がなかったからに違いない。しかしこの戦時中において、共産化の
危機をいちはやく嗅ぎ取っているグループが上層部にいたことは、こうした動きが日本の国体にとって危険であることを察知
していたからである。細川は「アジア解放連盟なるものあり。中共中に邦人野坂、森、杉本など潜入し、戦後日本にソビエト
政府を樹立すること、民族自決の政府たること、無賠償などの方針を立て居れり」そして「延安工作のため、在ソ日本人共産
党員7名を延安に呼び寄せる交渉を、政府、特に陸軍が成し居る」と述べている。

 「近衛上奏文」は国内の危機をはらんでいることも述べている。「翻って国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具
備せられ行く観あり。すなわち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の半面たる親ソ気分、軍部内一部
の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動およびこれを背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候」とある。また英
米との戦争の中で、ソ連がそれらと対立しているかに見え、「軍部の一部にはいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしと
さえ論ずる者あり。また延安との提携を考え居る者もありとのことに御座候」とある。ソ連の参戦による一部日本の占領はア
メリカによって拒否されたものの、少なくともOSSの存続中には、アメリカそのものによる日本の共産化の危険性はある時
点までは濃厚であった。それはソ連主導のコミンテルンの力ではなく、OSSと組んだ日本共産党によるものであったのだ。

 さてこのOSSの動きは日本では成功しなかったが、中国では成功した。1951(昭和26)年に出版されたジョゼフ・
マッカーシーの「共産中国はアメリカが作った」という本が、55年も経ってようやく日本で翻訳出版された。このことは、
いかに日本の出版界が左翼に支配されていたかを示すものであった。ソ連が崩壊し、少なくとも社会主義国が消滅したにもか
かわらずすぐに翻訳されなかったことも、マッカーシズムの名が長く否定的に見られていたことの現われでもあった。ソ連の
全体主義がナチス以上であったことや、毛沢東の圧政が皇帝時代のそれよりもはるかに残酷であったことなどが明らかになっ
てきたが、アメリカ内部の左翼自体が意外に強く、ソ連や中共への加担が目に余るものであったこともこの本で詳らかにされ
ている。日本ではアメリカ共産党などというと、ほとんど脆弱な政党であり、何の力もなかったと思われがちである。確かに
1954(昭和29)年、アメリカ上院は共産党を非合法とする法案を通し、それ以後は非合法化されている。それも民主党
の進歩派と言われたハンフリー上院議員によって提案されたため、アメリカ全体が反共であるという雰囲気を生じさせたと言
ってよい。その頃はまさに米ソの冷戦が生じたときだったからである。しかし同じ年、上院はマッカーシーへの譴責決議を下
したことも忘れてはならない。これにより、マッカーシーがアメリカ民主党政権内にいたアメリカ共産党分子を数多く摘発し
ていたにもかかわらず、それまでのアメリカ共産党の強力な動きの告発を忘却に付したのであった。

 OSSの対中国・日本工作について深くかかわっていたのが、ドノバンの下で働いたオーウェン・ラティモアという中国学
者であった。ラティモアは太平洋問題調査会(IPR)の機関紙「パシフィック・アフェアーズ」の編集長として長年アジア
問題に携わっていた。ちなみにこのIPRは、日本が国際連盟を脱退した後、唯一、日米関係の接触点とでも言うべき国際機
関であった。ところがこの組織そのものが日本と中国を共産化する原点となっていた。OSSが戦争開始時に作られた組織で
あったのに対し、それ以前からの左翼化を推進する組織であった。その目的は中国共産党による中国統一の実現と日本の大東
亜戦争への誘導であったと言われている。IPRの会員のうち、46名がアメリカ共産党員であったし、8人が後にソ連のス
パイとして挙げられた。日本に真珠湾攻撃をさせるプランがIPRで練られたとさえ言われているのである。1995(平成
7)年公表された「ヴェノナ文書」のソ連側スパイの中に、マッカーシズムで挙げられたオーウェン・ラティモアの名前がな
いことが話題になったが、これは見落としではなく、彼が決してソ連のスパイとして行動したわけではなく、OSSの一員と
して共産化に動いていたことがわかる。ラティモアはルーズベルト大統領に登用されたが、ソ連スパイのカリーの推薦で、4
1(昭和16)年から42(昭和17)年にかけて蒋介石の特別顧問として中国に派遣されていた。そしてラティモアの助言
によりアメリカの為政者は蒋介石を見捨て、毛沢東を支援したのである。このことはアメリカが毛沢東を、ソ連からの要請で
はなく自ら支持したことがわかる。ラティモアだけではない。アメリカが中国共産党を支持し、蒋介石を見捨てたことにもっ
とも貢献したのが、戦後、国務長官にもなったジョージ・マーシャルである。マーシャルは1946(昭和21)年晩春、毛
沢東が危機状況に陥っているときに蒋介石に対して強力な圧力をかけ、東北へ敗走する共産党勢力に対する討伐作戦を中止さ
せた。共産党をこれ以上深追いするならばアメリカは蒋介石を援助しない、国民党部隊を東北へ移送する作戦も中止する、と
申し渡したのである。アメリカは意図的に毛沢東を勝利させようとしたと言ってよい。あのとき侵攻を続けていれば、蒋介石
は少なくとも共産党勢力がソ連国境沿いに大規模で強固な根拠地をおくのを阻止できた可能性が大きかっただろう。

 こうしてこの時代の日本と中国の状況を見てくると、両国を同じように共産主義化する執拗な意図が、アメリカ政府自体に
あったと考えざるを得ない。それは終戦の年に死んだルーズベルトの意志の反映であったと考えることができよう。マッカー
シーが「共産中国はアメリカが作った」と言うのと同じように、日本もまたアメリカによって共産化されようとしたのである。

 しかしそれが日本でできなかったのは、中国よりはるかに安定した日本という国家と国民大多数の意志によると言うべきで
あろう。天皇を国民が強く支持していることが何よりも日本の共産化が不可能であることを示しているということを、アメリ
カが察知せざるを得なかったのは、OSSが1942(昭和17)年の段階から、天皇に手をつけないと判断したところでほ
ぼ確定していたのである。確かに、野坂のような共産主義者を政権につけようとしたが、天皇の存在によって、共産主義の2
段階革命を説く路線を取らざるを得なかったフランクフルト学派路線が生かされたのである。ラティモアもケーディスもエマ
ーソンもその路線があったからこそ、日本の戦後を次の段階に向かわせるように仕向ける政策をとろうとしたのだ。この考え
方が、ソ連を日本に参戦させ、一気に社会主義化せんとした左翼を押しとどめさせた、と言うこともできる。それは日本にと
ってまだしも幸いなことであった。天皇を護り、国体を護ることができたからである。

第6章  東京裁判とOSS「日本計画」
 「東京裁判」で「A級戦犯」として訴追され裁かれた28名の日本人被告は、昭和23年11月12日判決を受けた。公判
途中で2名が病死、1名は精神病ということではずされ、判決を受けたのは25名である。そして死刑を執行されたのは7名、
服役中に病没したものが5名、計12名が昭和53年靖国神社に合祀された。私たちは、いつの間にかこの「A級戦犯」とい
う言葉に慣れてしまっている。このことは、あの戦争は国民に責任はなく、すべて戦犯たちの行為であったという、私たちに
安易な責任逃れの精神を与えてきた。少なくとも、国民が彼らを選び戦時中支持してきたという事実を忘れさせ、彼らの勝手
な暴走によって我々が被害を受け取ったのだ、という刷り込み情報に慣れてしまったのである。終戦直後に首相の東久邇宮が、
国会での施政方針演説の中で、「一億総懺悔」という言葉を使われたとき、日本人はそれを身にしみて感じたにもかかわらず、
戦後20年経つとその言葉が不自然なものに聞こえ始め、「戦犯」はいるが、自分たちはそうではないという意識になってし
まったのである。「懺悔」などというと、感情的な言葉のように聞こえ、リベラル派はこれを「仏教用語、キリスト教用語」
といってあざけようとしたり、それゆえ「わけのわからない言葉」にしてしまっているが、決して特殊な用語ではなく、過去
に犯した失敗を神仏や人々の前で告白し、許しを請うという意味で、そのときは決して不自然なものではなかった。当時は軍
部とか支配層だけそうするべきだという糾弾もなされていない。これを東久邇宮が述べたとき、正直な国民の世論を代弁して
いたのである。彼は記者会見で、「日本はいま国民的な苦衷に喘いでいる。このようなときこそ、軽々に足並みを乱さず、国
家的な団結を維持しなければならない」と訴えたのであった。「敗戦の因って来るところは固よりひとつにして止まりませぬ、
前線も銃後も、軍も官も民もすべて、国民ことごとく静かに反省するところがなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、
神の御前に一切の邪心を洗い清め、過去を以って将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一致、相援
け相携えて各々その本分に最善を尽くし、来るべき苦難の道を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります。」

 それが「国体護持」につながると述べている。さらに言葉をつないで、そもそも今度の敗戦にはいくつかの理由がある。原
爆の投下、ソ連の参戦、国民道徳の退廃、それから戦略の間違いとか全部で5つくらいある、というのだ。そのために戦況が
悪化し、敗戦を余儀なくされた。しかるがゆえに、この段階ですべての国民が敗戦という事態を反省し、懺悔し、そして改め
て団結を固めようという。それがいわゆる国民的な「一億総懺悔」となった。私(=田中英道)はこれが当時の日本人の全体
の思いであったことに疑いを容れない。天皇の終戦の「詔勅」の精神を自ら感じ取っていたのである。戦争を始めるときの多
くの日本人の共感も、同じものであったはずだ。

 この見解は、今のような軍部だけに責任があるなどと保守まで信じ込んでしまうことに対する、国民全体の責任論のあり方
を代弁していたのだと思われる。それをいまさらこれが嘘であった、私は抵抗した、反対だったなどと言う人がいれば、それ
は真実ではないはずだ。このような国民全体に責任があるという感情が、日本人の偽らぬ感情であったのである。多くの人々
が皇居に向かって跪いた。自刃する者もいた。しかしそれよりも、戦争が終わって安堵する者も含めて、その艱難に国民等し
く懺悔する精神は共通していたはずである。この「一億総懺悔」に似た言葉に「悔恨の共同体」という言葉がある。これは丸
山真男が使った言葉である。同じような意味であるが、一方は肯定的な意味で人々に賛成を促し、他方は日本社会を突き放し
た否定的な意味合いがある。「東京裁判」が閉廷された翌年(昭和24年)、東大に奉職した丸山が、「軍国支配者の精神形
態」という論考を発表した。ニュルンベルク裁判で、「私は100%責任を取らねばならぬ」といったナチス被告のゲーリン
グの責任感の強さに対して、日本人被告の「既成事実への屈服」と「権限への逃避」とを常とする「無責任体系」を糾弾して
いるのだ。その態度は、まさに東京裁判の「A級戦犯」への断罪の精神と重なり、世論を変える原動力の一つとなったと思わ
れる。しかしナチスのゲーリングは、ユダヤ人虐殺の責任を取らされたのであって、戦争を起こしたことに対する責任を取ら
されたのではない。もし戦争を起こした責任を問われたら、ゲーリングはその責任はない、と主張したに違いない。丸山は先
の戦争について、これを主導した日本人指導者に「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないと言っている。ナチスドイツ
の指導者は「今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。しかる
にわが国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、吾こそ戦争を起したという意識が…どこにも見当たらないのである」な
どと述べる。丸山はさらに「軍国支配者の精神形態」という論文があって、東京裁判での日本人被告の「矮小性」をナチ戦犯
の「明快さ」と対比的に論じ、繰り返してナチスの責任感の強さに感心している。「空気」で行動する日本人が、自分の主体
的な「責任」が取れないということを論難しているのである。そして戦争における蛮行を日本人についてだけ非難している。
丸山の「悔恨の共同体」とはまさに、大東亜戦争を日本人が「悔恨」するものでなければならないということだ。

 しかしなぜ、丸山はこうした日本の軍国支配者だけを批判するのであろうか。国民の1人として自分自身がそうではないと
でも言うのであろうか。もし軍部がゲーリングのようにするべきだとするなら、彼自身それができるかどうか見極めるべきだ
ろう。若いときに何年も西洋に留学して、向こうの学者の中で議論し合い、西洋人的な生き方が身につけば、ゲーリングのよ
うになれるかもしれない。それは主観の問題であって軍部の「既成事実への屈服」や「権限への逃避」「矮小性」の問題では
ない。しかし彼は政治学者として、こうした支配者批判をすることが、勝利国による、日本人自ら歴史を否定させる謀略性そ
してOSSの意図した日本国民の分裂を目的とする軍事政権断罪を日本人として肯定してしまっていることに気づかなかった
のであろうか。丸山自身が、日本の共同体を批判するマルクス主義者と同様であったのだ。

 OSSの「日本計画」の中に「日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと」とある。「今日の軍事政権の正当性の欠如と独
断性およびこの政権が天皇と皇室を含む日本全体を危険にさらした事実を指摘すること」と述べられている。つまりこの軍事
政権を裁判にかけるという意味は、日本社会に階級分裂の状態を作り出し、国民同士を対立状態にするということである。敗
戦という処罰で十分であるにもかかわらず、指導者層をギロチンにかけ人民と対立を図り、日本社会の階級分裂という段階か
ら次の段階でさらに日本を変革する、というイデオロギーがあるのを見てとるべきなのだ。

 キーナン首席検察官は検察側冒頭陳述で「文明である連合国が野蛮な日本を裁くという枠組み」を示した上で、「彼らが同
胞の上に何をしたかを見んと欲するならば我々は単にこの建物の階上に数歩を運べば足りるのであります。人が記述により為
し得るより事実はさらに雄弁に語っております。」と言っているのは、その指導者層が人民にもたらした事実を指摘し、空襲
の惨害は被告席に座るこの「極めて少数の人間」たちの責任に他ならないと、あからさまに糾弾しているのである。

 しかしこれは「極めて少数の人間」の戦争責任のみを問うということである。これを明示することで、その他多数の日本人
を事実上免責し、対立させ、占領軍への協力を容易にするための発言であった。法律的考察ではなく政治的工作であったのだ。
ここにあるのは、オブラートに包んだ階級闘争史観である。軍部とそれを支える財閥に対する階級闘争を指示している。それ
が戦後のGHQによる「財閥解体」に結びつくことになる。戦後、常に政府と国民は対立するといった発想はここから出てい
たのである。

 しかし当のマッカーサー自身が、後に米議会で、この戦争の理由を、資源の乏しかった日本が輸入規制などにより包囲され、
何百万、何千万という国民が失業に陥ることを恐れて行なった安全保障のためであったと証言していることからでもわかるよ
うに、日本が「ハルノート」を拒否せざるを得なかったことは当然である、という理解を意味していた。それに対し、戦後
「ハルノートを受諾できなかったはずはない」という非難が東條に浴びせられたとき、東條は「戦争による被害がなかっただ
け有利ではなかったかとの考えがあるかも知れぬが、これは一国の名誉も権威も忘れた考え方であるので論外である」と、獄
中で記した「時代の一面」の発言でそのことを述べている。

 戦後、同じようにこの国民の分裂を意図するOSSの意図が見抜けない人たちがいる。それは「結果として負けたからでは
なく、初めから戦争を導いた点で、『A級戦犯』の多くは、国民に対して政治的責任を持つのではなかろうか」などという学
者も、結局OSSの支配者、被支配者を分裂させる宣伝に乗っていることになる。ほかに自民党副総裁であった後藤田正晴氏
まで「A級戦犯と言われる人たちが戦争に勝ちたいと真剣に努力したことを誰も疑っていない。しかし、天皇陛下に対する輔
弼の責任を果たすことができなかった。国民の多くが命を落とし、傷つき、そして敗戦という塗炭の苦しみをなめることにな
った。そのことに結果責任を負ってもらわないといけない」と東京裁判を肯定するような発言をしている。

 東京裁判と日本国憲法との間に一貫性があることは、OSSを牛耳ったフランクフルト学派の「隠れマルクス主義」による、
階級という言葉を使わない「階級闘争史観」のひとつの成果であるといってよい。この裁判とともに日本国憲法にもそれが持
ち込まれたことに保守の側でさえも気がつかなかったのは、やはりマルクス主義音痴とでもいうべきであろう。彼らはこれら
が日本国民の価値観を転換させることに大きな影響を及ぼすことになったことさえ理解しないでいる。この日本国内の少数勢
力であるはずの「革新」勢力が、あたかも大きな力を持ったかのような理論を与えられたのである。この2極分解によって
「権力を取らずに世界を変える」術策にはまり、戦後の「左翼」化がはじまったのである。少数勢力が多数派を装う理論である。

 これらがOSSのプロパガンダ路線を継いだ左翼GHQの意図であった。GHQ司令部に対する批判を一切認めない、東京
裁判の結果を批判してはならないというGHQの徹底した統制が出ていた。アメリカのみならずソ連に対する批判も一切封じ
られた。この恐ろしい左翼的な全体主義が、あたかも正義の法であるかのごとく新聞、放送を通じて蔓延した。この占領時代
に1万にも上る焚書、禁書令が出ていたことを日本の論壇は無視してきたのである。

 これら「A級戦犯」が他の死者とともに靖国神社に合祀されたのは当然であった。それは昭和53年のことであるが、松平
宮司の主張、すなわち昭和27年4月28日までは戦争だったという考えは正しい判断であった。占領下は戦争の期間である、
その間に亡くなった人たちは平等に殉難者であり、軍事裁判がある種の「階級裁判」であって決して正しい意味での「裁判」
ではなかったという考え方である。厚生省が刑死者に殉難者と同じように年金を出していることも当然のことであった。松平
宮司によれば、維新殉難者を前例として裁判の途中に獄中で死んだ人たちもみな殉難者としたということだが、まさにそれが
「一億総懺悔」の精神の体現であったのだ。国民がすべて敗戦という責任をとった以上、それをあたかも国民には責任がなく、
一部の軍国主義者だけに責任があるなどということは、現実の過程ではなかったからだ。

 最後に一言すれば、サンフランシスコ講和条約第11条の「日本国は、極東国際軍事裁判所ならびに日本国内及び国外の他
の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、かつ、日本国で拘束されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものと
する」とある。これによって日本はこの「東京裁判」を受諾したと解釈されてきた。日本はサンフランシスコ講和条約で戦争
責任を認め、謝罪して国際社会に復帰したはずだと言われてきたが、裁判が「儀式化された復讐劇」だとすれば、この「平和
条約」も「儀典化された復讐劇」なのである。これらの「儀式」や「儀典」は、日本人の正当な行為を覆い隠すものにすぎな
かったのだ。


第7章 世界のメディアを支配するフランクフルト学派
 現在、フランクフルト学派の思想がテロリズムを肯定するインテリの思想を支えていると言ってよい。2度のイラク戦争で
たびたびジャーナリズムに登場するチョムスキー、サイード、ソンタークなどアメリカの学者は、大きな意味でフランクフル
ト学派の中にいると言ってよい。ニューヨークの9.11テロを見てひそかに喝采し、各地で頻繁に起こるテロを共感して見
ている人々の中に巣食う思想を支えているのも、この学派である。戦後、一時サルトルをはじめフランス左翼が流行り、その
後フーコーやアルチュセール、デリダといった新しい動きがあったが、それよりもアメリカの大学に食い入ったフランクフル
ト学派の影響が大きいのである。アメリカの評論家・政治家のパトリック・ブキャナンが「西洋の死」という衝撃的な書を出
してアメリカでベスト・セラーになった。西洋先進諸国の没落が子供の減少にあり、それが貧困な周辺の移民によって代置さ
れ、2000年代の後半には、アメリカも西洋もそれで崩壊する、という本の内容だが、その中でこのフランクフルト学派の
影響を強調しているのである。まさに人口減少で「悩むアメリカ、滅び行く西洋」を作り出しているのがこの学派の危険な思
想だ、と言うのだ。この書によるフランクフルト学派を信奉する米国民主党の左派やそれを支持する少数のジャーナリズムへ
の批判は激烈である。

 フランクフルト学派の批判対象は、「キリスト教、資本主義、権威、家族、家父長制、階級性、道徳、伝統、性的節度、忠
誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義、因習、保守主義、何から何まですべて」という。これをやさしく言えば、
「批判理論」は社会のすべての現象を批判することになる。ブキャナンは彼らのキリスト教非難を重視しているが、そればか
りではなく、彼らが人種差別、性差別、移民排斥、外国人嫌い、同性愛嫌い、反ユダヤ、ファシズム、ナチズムなど、身近に
ある偏向をことごとく西洋社会の特質として批判していることに注目している。ナチズムそのものを西洋社会の疾病と考え、
それを西洋文化から出たものとして否定するのである。これは日本においては、同じことを中国や朝鮮で行なったととらえ、
日本の戦争を「侵略戦争」であり、「南京大虐殺」を作り上げて日本人の疾病とする思想と共通している。

  この学派の影響を考えてみると、いかに平成14年の「新しい歴史教科書」の反対運動が彼らの主戦場であったかがわか
る。「子供と教科書全国ネット21」などという組織が組まれ、共産党不破議長が率先して「新しい歴史教科書」批判の本を
書いた。この教科書が検定に通ったとき、朝日、毎日、赤旗などすべて一面トップでその非を唱えたのも、まさに選挙などの
政治的運動よりも、こうした教育問題の方が中心的な戦いであったからなのだ。この教科書の採択がゼロに近かったとき、そ
れが主として中学生のレベルで使いにくい教科書であったにからに過ぎないのに、あたかも近隣諸国への侵略戦争の記述が悪
かったのだ、という政治問題に勝利したような記事を書いて大喜びをしていたのも、まさにこの戦いが彼らにとってどれだけ
主要なことであったかを示している。

 無論、彼らはフランクフルト学派のことはあまり知らないし報道もしない。しかしそれはこのような傾向がすでに既成のも
のとして根付いているからだと言ってよい。日本人が戦後、経済において高度成長を遂げた後、その豊かさと自由を享受しな
がらも「疎外感、絶望感のようなものを覚え、社会や国家は差別的で邪悪で忠誠を誓うに値しないと思い始めた」のも、この
フランクフルト学派の理論どおりの状態である。そしてこの「批判理論」がこれらマルキストたちにとっては将来の「革命の
必須条件」なのである。

 この「批判理論」の影響を受け、戦争もない西側の平和の時代でさえ、60年代の多くの西洋や日本の人々は自分たちが疎
外の中におり、耐え難い地獄に生きていると教えられ、そのように感じるようになった。長髪でひげを生やし、ギターを奏で
るヒッピー世代の反戦運動が生じたのもこの頃である。学校では「試験やテストは暴力の一種、体育の強制も苦手な者や不安
な者にとっては暴力と同じ。生徒は許可もなく廊下に出てはいけないという規則も暴力なら、無理やり授業を聞かされるのも
自習室での勉強を強制されるのも暴力」ということになる。放任、登校拒否も自由ということになり、学級崩壊も当然のこと
となる。そのために「ゆとり」教育も生まれることになる。教科書のレベルを下げなければ生徒たちはついてこない。エーリ
ッヒ・フロムの「自由からの逃走」も、ライヒの「ファシズムの大衆心理」もこの「批判理論」を反映している。最も影響を
与えたのが「権威主義のパーソナリティ」で、これにより経済決定論が文化決定論に置き換えられた。裕福で一家そろってク
リスチャン、父親が権威主義的という家庭に育った子供は、独裁的な人種差別主義者に育つという決定論をぶつ。ブキャナン
は「ファシズムの営巣を家父長制家族に見出したアドルノは、今度はその生息環境つまり伝統文化をこう分析した。『ファシ
ズムへの感染は中産階級に典型的な現象で、その文化に内在すると言える。よってそのような文化に順応した中産階級こそ、
最も偏見に満ちた層と考えられる』」と述べている。いわゆる「ナチ・ファシズム」は絶対的悪、それを生んだ中産階級はみ
な悪に仕立て上げた。アラン・ブルームの「アメリカ・マインドの終焉」という本では、アメリカの高校生はほとんど教養が
なくなった、ということを述べているが、それは日本でも同じである。古典は読まれず、軽い反抗的な現代小説が読まれる。
自国の過去との連続性、父母、祖父母…と代々受け継がれてきた伝統的な思想の切断こそ、彼らの新しい抽象的な市民社会形
成の基本なのである。古臭いことは悪いことだという宣伝は戦後徹底した。さらにブキャナンは「フランクフルト学派の代表
的な論者マルクーゼの『一元的人間』は『右翼に対する不寛容、左翼に対する寛容』を要求し、そこに『教育的専制』を行な
い、一方で『解放的寛容』を要求した。これが一元的態度である。逆ファシズムである。ベトナム戦争で、戦争擁護派を黙ら
せ、戦争反対でそのくせベトナムの旗を振る過激派を支持した。右翼の暴力は許さないが、左翼なら何でも大目に見る。これ
でなぜ左翼がテロを行ない、右翼に対しては絶対許さない態度を取ることが当然であるかがわかる」と述べている。また「マ
ルクスの『ドイツ・イデオロギー』の中で、家父長制家族は妻子を財産と考えるところから始まる。物質的所有と同じと見る。
エンゲルスは『家族、私有財産および国家の起源』で女性差別の根源は家父長制にあると論じ、これが基礎となった。エーリ
ッヒ・フロムは、性差(ジェンダー)は固有なものではなく、西欧文化によって創出されると主張し、フェミニズムの始祖と
なった。ライヒは『権威主義的家庭は権威主義的国家の縮小版…帝政家族は帝政国家で繁殖する』と述べる。アドルノにとっ
ては家父長制家庭はファシズムのゆりかごである」とも言っている。

  アドルノは家族から父親を追放するために、母親が父親と役割を交換することを提唱した。女性が男の役割を演じること
ができる、ということもソ連で早くも実現していたが、ソ連の人口の停滞を招いたことはその影響である。子供を生まない、
という女性が多くなったのは、性の役割りは相対的だとする考え方に立っており、フランクフルト学派の考え方が元になって
いる。「西洋社会というコンテキスト(=背景)において『長期的制度改革』とはマルクーゼ流に言うと『すでに確立した制
度内に身をおいての働きかけ』を意味していた。主としてそうした手法――対決というよりむしろ徐々に侵入、潜入する――
によって、マルクーゼらの急進派が目指すカウンター・カルチャーの夢が実現した」のであった。この思想は内部からの解体
を進めることであり、日本の官僚にもこの傾向があるのはこの思想から発していると言うことができる。

 こうした思想を大学時代に教えられると、その破壊的な傾向が、大学に残った学者にも報道機関や出版社に就職していった
ジャーナリストにも受け継がれていくのである。それは必ずしもフランクフルト学派の書物を読んだ、読まなかったにかかわ
りがない。難解さで学者でさえ辟易するものを、若い学生が理解できるものではない。しかしその真意は容易につかみとれる
から、それが日頃の言動にもあらわれる。恋愛をしても夫婦生活となると破壊的になり、家族生活を十分に営むこともできな
い。自分自身が組織で権力を得ても、その責任はわきまえず、政府やそれ以上の権力に常に批判的になる。秩序を形作ってき
た伝統文化を否定する。大学での歴史学、社会学は、そこからの離脱を教えられる。出版もできるだけ批判的な書を出すこと
が進歩的であると感じるようになる。そしてその子供に反抗的気分が受け継がれていく。現在多くの子供が、日本に戦争があ
ったら「逃げる」と答えるのも、この影響といってよいだろう。国家はもともと否定されているのだから、それを守ろうとす
る意志もない。

 官僚でさえ何らその思想的な変更を強いられぬまま官庁に入るから、当然それに即した法律なり規則なりが作られていく。
戦後の法律の多くがそれであり、日本が内部から社会主義化していったのもよく理解できる。戦後アメリカによって作られた
憲法や教育基本法から近頃の男女共同参画法案やジェンダー・フリー教育まで、ひそかにフランクフルト学派の影響が忍び込
んでいる、と見ることができる。

 ここで、そんな思想がマルクス主義なのか、と疑問を感じる向きもあるかもしれない。マルクス主義は経済分析の方法であ
り、共産党を中心とする政治活動を言うのであって、そのような文化認識はマルクス主義ではないのではないか、と。しかし
このフランクフルト学派とまったく同じ時期に、相呼応してイタリアのアントニオ・グラムシが登場した。最近のフランクフ
ルト学派もしきりに彼を引用する。グラムシは1922年ムッソリーニのローマ進軍により、イタリアからロシアに亡命した
共産主義者である。しかし彼はつぶさにロシア革命の状況を検分すると、そこにある絶望感を感じざるを得なかった。つまり
恐怖政治でしか体制を維持できないレーニン主義は失敗に終わる、と判断したのである。それでレーニンを継いだスターリン
に疎んじられ、幻滅と恐怖を覚え、イタリアに戻った。彼はイタリア共産党書記長となりムッソリーニによって投獄され、獄
中で膨大な「獄中ノート」を著し、それが後に出版されて新しいマルクス主義の経典の一つとなった。そこで西洋における社
会主義革命の成功の青写真を詳細に記している。肺結核を患ったグラムシが釈放された1937年、46歳で死んだこともそ
のカリスマ性を高めている。

 ブキャナンもやはりグラムシの役割を重視し「グラムシは労働者階級が幻想だと知ると、革命の新兵として『歴史的に反主
流派とされる層、経済的に虐げられた人々だけでなく、男性に対する女性、多数民族に対する少数民族、犯罪者まで』すべて
が含まれると考えた。犯罪者が悪いのではなく、犯罪を起させた社会が悪いのだ、加害者が逆に保護される、被害者は安穏と
暮らしてきた保守的な階級なのだ、と言わんばかりに。『新世代の若者はみな疎外感にもがき苦しんでいるからこそ』犯罪に
走るのだ。『黒人や貧困者、世の中の敗者』脱落者こそ英雄なのだ」と述べている。

 グラムシは「市民社会」がすでに確立している西欧を分析し、「ロシアでは国家がすべてで、市民社会はそのなかに内包さ
れる…。一方西欧では国家と市民社会は適切な力関係を保っており、国家が揺れるときこそ市民社会のゆるぎなき構造が明ら
かになる。西欧における『国家』は単なる外堀に過ぎず、その背後に堅牢堅固な要塞のごときシステムが控えている」と考え
る。ふつう左翼は「闘争至上主義」に走り、権力を奪取し、上から文化革命を押しつけようとする。しかしグラムシは「発達
した資本主義社会では機動戦から長期間の陣地戦への移行を必然とする。まずは市民社会の文化を下から変える必要がある。
そうすれば熟した果実のごとく権力は自然と手中に落ちてくる。そのために、文化変革には種々の制度――芸術、映画、演劇
、教育、新聞、雑誌、さらにラジオという新媒体――転換のための「長い長い行程」を要する。それらを1つ1つ慎重に攻め
落とし革命に組み込んでいく必要がある。そうすればやがて人々は徐々に革命を理解し、歓迎さえするようになる」と考える。
「カウンター・カルチャー」(対抗文化)を標榜した1970年代のベストセラー「緑色革命」で、著者のチャールズ・ライ
クはグラムシをそっくりそのまままねしていた。「革命がやってきた。昔とは異なる革命が。起点となるのは個人であり文化
であり、政治制度に影響を及ぼすのは、最後のほんの一筆。成功のために暴力を要せず、暴力による鎮圧も成功しない。脅威
の速さで広まり、すでに法律や組織、社会制度を変えつつある…新世代の革命が」と。

 ブキャナンは次のように結論づけている。「グラムシの理論は正しかったことが証明された。70年にわたり世界を振動さ
せた社会主義革命思想はついに崩壊した。結局レーニン・スターリン主義は、本来の目的――絶対的権力掌握――をごまかす
ためにマルクス思想を政治的に利用するという当初の考えから抜け出すことができなかった。レーニン方式は疎んじられ、誰
にも嘆かれることなく死を迎えた。しかし、グラムシの革命は脈々と受け継がれ、今なお多くの賛同者を獲得し続けている。」

 日本のグラムシ主義の第一人者片桐薫氏もまた次のように言っている。「日本の左翼は、戦前・戦後を通じてコミンテルン
の強い影響下にあり、資本主義の『全般的危機』や『停滞性』そしてその最終的な衰退を信じて疑うことは一度もなかった。
その日本の左翼がグラムシにも目が向けられるようになったのはここ数年のことである。そして資本主義の危機的状況が続い
ているにもかかわらず、なぜ資本主義が存続しているかに注目するようになるのである」

 特にグラムシの言論が危険性を伴うと思われるのは、彼の「全面的歴史主義」つまり、道徳、価値観、真実、規範、人間の
あり方はみな歴史的に異なる時代の産物であり、「歴史を飛び越え、人類普遍の真実とされるような絶対的規範は存在しない
。道徳観は1社会によって構築される」と言っているからである。歴史において普遍的な価値を否定する考え方は、まさにイ
タリア人のイタリア文化否定である。キリスト教文化だけでなく、ギリシャ古典文化もイタリア・ルネッサンス文化も何も価
値がないことになる。日本の祖先がつくりだした文化・芸術も意味がない、という考え方を導くのだ。

 ブキャナンもこうした彼の2大原則を非難する。1つはこの世の絶対的価値、美醜の基準、善悪の基準は存在しない、とい
うこと。2つ目は「神の存在しない世界」では人間の行動規範については最終審判者たる左翼がルールを決定するようになる
ということ、である。まさに現代の言論が、あたかも左翼知識人のルールで決められているようにさえ見える、と言っている。

 ソ連崩壊後、アメリカも「右派の勝利」を考えたが、今や左翼から文化を奪い返すときだとは考えなかった。保守派が、社
会主義勢力に政治、軍事で勝利したと思っているとき、すでに文化は縄張りを失っていたのである。保守派はもっと文化闘争
に関心を持つべきだ、とブキャナンは言うが、保守派はこの叫びを無視している。フランクフルト学派もグラムシも、社会主
義運動における最大使命は「文化の攻略」だと述べているにもかかわらず、保守派は政治と経済のことしか語らない。ブキャ
ナンは、保守派は金儲けと政治戦略だけを好むと述べている。日本の自民党の大部分を見れば、これが明らかとなろう。保守
派の話題には政治と経済しかない。保守派はいつのまにか文化的な教養も感受性も失っているのである。

 なぜか。ひとつには、左翼知識人が文化理論を武器に、一般の文化・芸術愛好家を芸術から遠ざけたからである。保守政治
家たちの文化音痴、芸術への無知は救いがたい欠陥を示しているが、そこに追い込んだのは、現代文化が左翼リベラルに握ら
れ、その言葉についていけない保守派は何も発言できないからである。美術、演劇、文学、音楽、バレエから、映画、写真、
教育、メディアにいたるまで彼らの手中に収められている、と言ってよい。NHKの多くの文化番組も新聞の文化欄もほぼ彼
らによって支配されている。ブキャナンはアメリカでは文化支配によって回答はおろか質問まで左翼が指示する、要するに、
これまでアメリカ人が依拠してきた全機構を左翼が支配する、とさえ言っている。

 フランクフルト学派は多文化主義を肯定し、価値観の上下を否定する。すべて平等なのだ。こうした隠れフランクフルト学
派によって、日本の論壇は左右を問わず支配されていることになる。日本の若い学者がとびつく「カル・スタ」(カルチュラ
ル・スタディーズ)とか、「ポス・コロ」(ポスト・コロニアリズム)、ジェンダーなども、マルクス主義を標榜しないマル
クス主義方法論である。左翼リベラリストと呼ばれるものも、ほとんどこの範疇に入る。歴史における価値観を粗末に扱い、
誠実な理解をおちょくるようになる。いちいち名を挙げないが、文化、教育、芸術に気の利いたことを言う文化人は大体この
思考方法の持ち主である。ただフランクフルト学派の根底にある熾烈な革命思想があいまいになっているのでどちらかわから
ないだけだ。現在のところ「正論」などの雑誌以外の商業雑誌はほぼ隠れフランクフルト学派に支配されているように見える。

 ただ日本ではそのような西欧の左翼的な考え方は欧米信仰と重なっており、二重のつくりものであることが問題である。日
本ではほとんどの知識人があくまで欧米に追従する発想を持っているから、そのおかげで自己責任を逃れ、議論が中に浮いて
しまうのである。フランクフルト学派によって輸入された論理が日本の歴史、現実の実情に合わないことが大半なのに、それ
を認識する言葉を発見できていないのである。西欧の大半は実は保守的なのである。日本も同じだ。しかしそれを保守派が知
的に表現していない。日本の神道や仏教をとっても、その伝統は根強く人々の心の中にあるにもかかわらず、日本人はそれを
自分の知力で把握していない。

 マルクス主義者やフランクフルト学派は伝統ある歴史を恐がり否定的にとらえ、それを現代から断とうと試みる。彼らには
未来にしか解決法がない。その「文化理論」を見ると、文化は実用的なものを目指しているのではない、文化は自由なのだ、
などと言う。しかし彼らが現代芸術の持つ破壊的傾向を支持し、そこに芸術の自由のあり方を見出すとき、それは歴史を忘れ
ようとしていることなのだ。しかしいくら破壊的な「文化理論」をつくろうとも、人々は過去の遺産や歴史を大事にし、それ
と共存しているのである。彼らは結局、政治的党派性を文化に持ち込む愚を冒している。

 歴史は当然、資料だけでなく生きた形、文化や宗教の形で残されている。そこには現代文化にかけている崇高な概念が存在
し、われわれはその精神文化を通して祖先たちと出会うことができる。現代でも過去の芸術が持っている高い地点に我々が立
ち会うことができるのだ。それらの多くが神道、仏教、キリスト教、イスラム教あるいはアミニズムなどによって生み出され
てきた。またナショナリズム(民族主義)、パトリオティズム(愛国心)など共同体性に依拠しているものもある。それによ
って人間の物語が作られている。精神表現の高みには必ず宗教精神あるいは共同体の精神が宿っているのである。それは古今
東西を問わない普遍的なものだ。文化相対主義の「歴史主義」は芸術には成り立たない。

 彼らは基本的には人間社会は事物の社会としか考えられない唯物論者だから、説明できないものからは眼をそらす。彼らは
科学を重視する。その「啓蒙主義」は宗教の創造神話や奇跡というものを否定することはできるかもしれないが、それらがも
たらした精神文化やその結晶である芸術を否定することはできない。それはイデオロギーを越えたものであるのだが、そこが
経済主義唯物論の限界であり、終焉でもある。

 20世紀はマルクスの社会主義がイデオロギーとして跋扈した時代であった。その後、このイデオロギーは「平和と民主主
義」を導くかに見えるプロパガンダを展開した。日本の共産党も社会党も多くの知識人もそれを唱えたのである。ソ連、中共
を初めとして、第2次大戦後30年ほどはそのプロパガンダを繰り返した。恰も社会主義国が国家として実現化しようとして
いるかのようにマスコミは宣伝していた。私たち資本主義国の国民もその影響を受けざるを得なかった。というのも社会主義
国の実態がマスコミによって隠蔽されたまま、あたかもそれが実現されかけている、と思わされたからである。社会主義が崩
壊しさまざまな彼らの歴史が暴露されると、あのとき私たちは情報操作で見事にその宣伝に載せられていたのだ、と了解され
る。

 確かにアドルノはロシアの恐怖政治について少しは言及している。彼がそれを知っていたことは「今日すでにソビエト領域
で…シニカルな恐怖政治の口実となっている…」という言葉が示している。しかしそれ以上には、深刻なものとして受け取っ
ていないことが問題なのだ。実態はアウシュビッツの虐殺者以上の人々が、ソ連や中国で殺されていたのである。スターリン
によるトロツキー派の殲滅どころではない。政治犯、思想犯が次々と処刑されていたことは、当時においてさえ知られていた
はずである。アドルノはナチズムのユダヤ人に対するホロコーストだけに注目したのであろうか。そうではあるまい。アドル
ノが1949年の段階で、前記の引用のようにソ連の実態を知らなかったとは考えられない。彼の属するフランクフルト大学
の社会研究所の研究者は、すでにレーニン主義そのものの考察を1920年代の段階で始めていたし、ルカーチの文化論もレ
ーニン主義の批判の上に立っていたはずである。同じユダヤ人でありながら、バルデマル・ギュリアンやその研究を知ったハ
ンナ・アレントはすでにこの段階で、ソ連社会主義の蛮行をナチズムと同じ全体主義国家としての蛮行だとして批判していた
のである。アドルノはアウシュビッツだけでなく、ラーゲリ(ロシア政治犯などの強制収容所)もその批判に加えるべきでは
なかったか。

 日本でも戦後、捕虜60万人がソ連に抑留され、強制労働を課せられ、1割以上が死亡している。それを日本の知識人のほ
とんどが無視したし、ましてやソ連という社会主義イデオロギーが犯した戦争犯罪だ、と非難するものはほとんどいなかった。
しかも単に戦後の労働力不足の補填のために必要としたのではなく、ラーゲリにおいてイデオロギー教育を徹底させ、日本で
共産主義思想を広めるために、この抑留された日本兵を洗脳しようとしたことも明らかになっている。この社会主義国の実態
を無視しようとする姿勢はどこから来たか。それはもっぱら彼らのマルクス主義の党派性にある。見て見ぬふりをした20世
紀の社会主義同伴者の犯罪といってよいものである。

 その多くがフランクフルト学派のような大学人であったことも特色がある。大学という権威を借りて、社会の「権威主義」
を批判したのである。大学という閉鎖機関で孤立して研究してきたことによるものといってよい。そこは常識的な社会情報を
拒否する場所、同じレベルのもの同士だけが集う場所であって、多用な意見が飛び交う場ではないからだ。私たち戦後世代は
大学で、あたかも普遍的な論理であるかのように、マルクス主義の理論と実践を教えられた。今日でもベルリン・フンボルト
大学では、マルクスの「哲学者はこれまで世界を解釈してきたに過ぎない。大切なのはそれを変革することである」という標
語が、その玄関ホールに掲げられているのだ。日本の戦後の大学も似たような状況に合ったことはよく知られている(しかし
「権威主義」があるために批判されない)。

 20世紀、それは一見、ソ連や中共といった社会主義国を標榜した国々の勃興とその没落の時代を指すように見える。だが
ソ連は崩壊し、中共の資本主義的変質は、社会主義の実現化の不可能性を示したにもかかわらず、イデオロギーそのものは、
資本主義社会を批判する幻想として依然としてくすぶりながらも生きながらえている。それはときには、資本主義の行き過ぎ
を批判することで有用に見えるが、しかしその根底には、社会主義国で起こったような全体主義的な野蛮さが存在しているの
である。その部分が社会主義理論に無関心な保守勢力からの批判の及ばぬ世界として放置された分野であった。その放置が、
借り物理論と虚構の世界を振り回すことで、なにやら新しい思想でもあるかのようにメディアが宣伝する言論活動を流行らせ
てきた原因である。

 彼らマルクス主義に依拠するフランクフルト学派は、ナチズムだけを「近代」の行き着くところと非難していた。彼ら自身
ユダヤ人であったから、ナチスの弾圧によりアメリカに亡命し人々から同情の目で迎えられた。しかしアウシュビッツは有名
になっても、ラーゲリについてはほとんど誰も話さなかったのである。ユダヤ人を助けることだけが優先し、社会主義国の虐
殺を告発して犠牲者を助けることなどは念頭になかった。

 アドルノたちは1950(昭和25)年に再びフランクフルトに戻って当時の資本主義を批判したが、その行きつくところ
のはずのソ連社会主義の実状は批判しなかったのである。このことは、彼らの客観的に見える知性がいかに党派性に支えられ
ていたかを暴露せざるを得ない。アメリカの原爆は汚いが、ソ連の原爆はきれいだという党派性があったのである。

 自由主義のはずの日本でも同じであった。教育・研究に携わるものは、ほとんどがマルクス主義の影響を受けてきた。特に
大学こそ、と言うべきかも知れない。そこが彼らの活動の場だったからである。ルカーチから始まるこの新しい社会主義運動
のターゲットは中産階級であり、大学の学生層であった。学生たちが知的に左翼になるような教育が大学を中心に行なわれた
と言ってよい。その後の政治の分野の退潮は激しいが、最後の砦が大学に残されてきた。それは戦後の公職追放から始まった
大学の人事権が左翼教授に委ねられている場合が多いからである。大学教授は1度なると退職まで思想を変えなくてすむ。大
学とマスコミで生き長らえているということは、彼らの活動は社会主義国家が崩壊したこととは独立している動きである、と
思わせており、さまざまな潮流を作っている。それは旧態依然の社会主義運動だけでなく、ポスト・モダン、ニューアカデミ
ズム、フェミニズム、ポスト・コロニアリズム、カルチュラル・スタディーズ、マルチカルチュラリズム、反権威主義など、
さまざまな名で包み隠されてきたマルクス主義の流れを作り、それが奇妙にも大学や論壇で我が物顔に振舞ってきた。社会に
おける少数派が、大学、ジャーナリズムに巣食い、あたかも多数派のような顔でテレビや紙面をにぎわしてきたのである。私
がかかわっている日本の歴史教科書問題についても彼らは幅をきかせている。ジャーナリズムと結びついて教科書潰しを押し
進めたのである。しかし実際は、彼らは国民の中のごく少数である。この流れを主張する言論は元がすべてカタカナか西洋語
の翻訳であることからもわかるように、彼らは日本の伝統文化とは異なる異質言語による文化支配を自ずから目指していた。
私はそれらが、日本の伝統文化への批判思想であるだけでなく、それを破壊するものであることを常に危惧してきた。社会の
暴力革命がなくても、言葉の暴力が伝統文化への破壊工作を担っているのである。そこに日本の知識人の、西洋思潮への異常
な憧憬による、西洋思想依存の非自立性があることは悲しいことである。

 その劣等感は保守主義者にも及び、カタカナの西洋保守思想、あるいは近代主義・合理主義といったものまで含むと言って
もよい。バークやニーチェの言葉を振り回す保守主義者もある意味で同根である。シュペングラーやオルテガの思想には決し
て日本に定着することのない人工的な空虚さがあるのだ。つまり西洋保守思想でも必ずしも日本の現実に依拠していないもの
が多いのである。

 私(=田中英道)はこれらの思想の根底を批判する必要がある、ということを21世紀を迎えた現在、考え続けている。学
生時代に影響を受けたマルクス主義は、私のその後の学究生活に残され、自己を荒廃させた面があるからである。私の専門が、
美を探究する学問だけに、それが強く感じられたのである。人間の質を低下させ、伝統文化の破壊を助長している現代の商業
文化は、マスコミで喧伝されるだけの、素人のつくりごとと感じられ、内容の空虚なことを実感していた。それらは社会の少
数派が文化領域を独占することによって、多くの人々を惑わし続けているのである。