① 天照大神の決心:日本(葦原中国)は、自分の子(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホノミミノミコト))に治めさせる と決定。 ② 天忍穂耳命の敵情偵察:命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神 に報告。 ③ 作戦会議:天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか諮問会議を開催。 ④ 使者の派遣:第1の使者 天菩比神(アメノホヒノカミ)は、大国主命に懐柔されて家来となる。 第2の使者 天若日子(アメノワカヒコ)は、大国主命の娘に見初められて結婚、大国主命の跡取りとなるが、高木神 (天照大神に次ぐ№2の神)の返し矢によって命を失う。 第3の使者(雉名鳴女(キギシナナキメ))は、天若日子に殺される。 第4の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)に天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を副えて葦原中国へ派遣 ⑤ 建御雷神による交渉:十掬剣(トツカノツルギ)を抜いて逆さまに立て、その剣先にあぐらをかいて座り(武力を背景にした交渉か ?)、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどう か」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子に訊ねるよう言った。事代主神は直ちに承知。もう一人 の息子の建御名方神(タケミナカタノカミ)は反抗したが建御雷神によって屈服させられ、承知した。大国主神は 「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる」と回答、国譲りの交渉は決 着に向かう。 ⑥ 大国主命の交換条件:私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。建御雷神は葦原中国 平定をなし終え、高天原に復命した。 |
高天原の神々は合議によって使者の派遣を決め、オオクニヌシも息子の意見を聞いて去就を決めています。日本には話合い でものごとを決める伝統があったのです。 また、世界の他の地域なら、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦 争ではなく話合いで決着しています。 |
4年(即位から)春2月6日、群臣に詔して「高殿に登って遥かに眺めると、人家の煙があたりにみられない。これは人民たち が貧しくて、炊ぐ人がいないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳を称える声を上げ、家々では平和を喜ぶ歌声があ ったという。今自分が政(マツリゴト)に就いて3年経ったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀 が実らず百姓が窮乏しているからである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなに大変であろうか」と言 われた。 3月21日、詔して「今後3年間すべて課税を止め、人民の苦しみを和らげよう」と言われた。この日から御衣や履物は破れる まで使用され、御食物は腐らなければ捨てず、心をそぎ減らし、志を慎ましくして、民の負担を減らされた。宮殿の垣は壊れ ても直さず、屋根の茅は崩れても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らし、星影が室内から見られるほどであった。この後天候も 穏やかに、五穀豊穣が続き、3年の間に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。 7年夏4月1日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上っていた。皇后に語られ「自分はもう富んできた。 これなら心配ない」と言われた。皇后が「なんで富んできたといえるのでしょう」と言われると、「人家の煙が国に満ちてい る。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣が崩れても修理ができず、殿舎は破れ、御衣が濡れるありさ まで、なんで富んでいるといえるのでしょう」と。天皇が言われる。「天が君主を立てるのは、人民の為である。だから人民 が根本である。それで古の聖王は、人民に一人でも飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、 自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば、自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、君主が貧しいという ことはないのである」と。 9月諸国の者が奏請し「課役が免除されてもう3年になります。そのため宮殿は壊れ、倉は空になりました。いま人民は豊か になって、道に落ちている物も拾いません。連れ合いに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんなときに税を お払いして宮室を修理しなかったら天の罰を被るでしょう」と申し上げた。けれどもまだお許しにならなかった(課役の免除 が継続された)。 10年冬10月、はじめて課役を命じられて宮室を造られた。人民たちは促されなくとも、老いを助け、幼き者を連れて、材を 運び、土籠を背負った。昼夜を分けず力を尽くしたので、幾ばくも経ずに宮室は整った。それで今に至るまで聖帝と崇められ るのである。 |
天 皇 | 在 位 | 在位年数 | 救済件数 | 備考 |
第42代文武 | 697.8.1~707.6.15 | 11年 | 26 | 『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した。 したがって桓武天皇は今上天皇であり、延暦10(7 91)年が最後の年となっている。 桓武天皇の在位期間の記事は、11年間の出来事まで が記されている。 |
第43代元明 | 707.7.17~715.9.2 | 9年 | 19 | |
第44代元正 | 715.9.2~724.2.4 | 9年半 | 2 | |
第45代聖武 | 724.2.4~749.7.2 | 26年半 | 26 | |
第46代孝謙 | 749.7.2~758.8.1 | 10年 | 5 | |
第47代淳仁 | 758.8.1~764.10.9 | 7年 | 36 | |
第48代称徳 | 764.10.9~770.8.4 | 5年 | 44 | |
第49代光仁 | 770.10.1~781.4.3 | 11年半 | 37 | |
第50代桓武 | 781.4.3~806.3.17 | 26年(11年) | 18 | |
累 計 | 697.8.1~806.3.17 | 109年半 | 213 |
№ | 天皇 | 西暦 | 記事の内容 |
1 | 文武 | 701 | 紀伊国の高齢者に年齢に応じて稲を給付、今年の租と調を免除。 |
2 | 同 | 704 | 京内の80歳以上の高齢者全員に物を恵み与えた。 |
3 | 同 | 705 | 使者を五道 14へ派遣し、高齢者、病人、やもめの男女、孤児、独居老人に物を恵み与え、この年の調 の半額を免除。 |
4 | 元明 | 711 | 畿内の人民80歳以上の者と孤独で自活できない者に衣服・食物を下賜。 |
5 | 同 | 712 | 詔を下して、京・畿内の高齢者と男女のやもめ、孤児、独居老人とにA}、真綿、米・塩を下賜。 |
6 | 同 | 714 | すべての老人で百歳以上の者に籾5斛、90歳以上に3斛、80歳以上に1斛をそれぞれ与え、孝子、 順孫、義夫、節婦はその旨を家と村里の門に標示して、終身租税を免除する。やもめの男女、孤 児、独居老人、強度の障害者、重病人と自活できない者には各国司が判定して救恤を行え。 |
7 | 同 | 717 | 百歳以上の者にA}3疋、真綿3屯、麻布4端、栗2石、90歳以上に、A}2疋、真綿2屯、麻布3端、栗 1石5斗、80歳以上にA}1疋、真綿1屯、麻布3端、栗1石をそれぞれ授ける。僧尼もこれに準ずる。 孝子、順孫、義夫、節婦はその旨を家の入口と村の端にその旨を示し、終身租税を免除する。鰥(カン) ・寡・(ケイ)・独 ・疾病の者や自活することのできない者には、状態に応じて物を与える。そこで 長官に命じて直々に慰問させ、薬を支給させる。 |
8 | 聖武 | 733 | 諸生(大学生など修業中の者)の中で、生活に窮乏している者213人を殿前に召し入れて。それぞれ米・ 塩を下賜した。怠りなまけることなく本業に励むよう戒められた。 |
9 | 同 | 737 | 高齢者・鰥・寡・・独及び京内の僧尼や一般の男女で病臥して自活できない者には、状況に応じ て物を恵み与えよ。 |
10 | 同 | 745 | 高齢で80歳以上の者・鰥・寡・・独並びに病気で自活できない者には、程度に応じて恵み物を加 増せよ。 |
11 | 同 | 749 | 男やもめ、女やもめ、みなし子、独居老人や病人で自活できない者には籾米5斗を給し、孝子・順孫・ 義夫・節婦はその家の門と村の入口の門にその旨を示し、終身課役を免除する。篤農の人で無位の 者には位一階を授け、陸奥国には3年の調・庸を免除し、同国の小田郡にはそれを永く免除する。 その年限は後の勅で告示するのを待て。自余の諸国は国別に1年間、2郡の調・庸を免除し、毎年 免除となる2郡を替えて、免除がすべての郡にいきわたるようにする。またことごとく天下の今年 の田租を免除した。 |
12 | 孝謙 | 756 | これより先に天皇の思いやり深い勅があり、京中の孤児を集めて衣服と食糧を支給し、これを養わ せた。ここに至り、男子9人・女子1人が成人した。このため彼らに葛木連の氏姓を賜い、紫微少忠 ・従五位上の葛木連戸主の戸に編入して、親子の関係とさせた。 |
13 | 同 | 758 | 使者(問民苦使(モミクシ))を八道に遣わし巡行させ、人民の苦しみを問い、貧乏と疾病の徒に恵み、飢寒 に苦しむ者に施しをしよう。朕の願いは民を撫で育て神の心と仁の心を合わせ、養育の慈しみが天に 通じ、病気や悪疫が悉くなくなり、五穀が必ず実り、いえに寒さ貧しさの憂いがなく、国に人民の蘇 生する喜びが生ずることである。所管の官司はよくわきまえて、清廉公平の人を選び、使者として良 く恵みを与え、朕の意に沿うようにせよ。 |
14 | 称徳 | 766 | 陸奥国の磐城・宮城の2郡も籾米穀16,400余石を貧民に与え救済した。 |
15 | 光仁 | 781 | 天下の老人の百歳以上の者に籾3石、90歳以上に2石、80歳以上に1石を賜る。また鰥・寡・・独の 者で自活できない者には、その状態に応じて物を恵み与えよ。孝子、順孫、義夫、節婦はその家の門 や村里の入口の門にその旨示し、終身租税を免除せよ。 |
16 | 桓武 | 787 | 老人を養うことの意義は前代より明らかであり、歴代の天皇もみなこの道理に従ってきた。今はちょう ど耕作の時期であり、人々は田畑に出向いている。そこで民を心にかけて、深い情で憐れみたいと思う。 左右京・畿内五カ国と七道の諸国において、百歳以上の者にそれぞれ籾米2石を与えよ。90歳以上の者 には1石、80歳以上の者には5斗を、鰥・寡・孤・独と病気で苦しんでいる者にはその年齢に応じて、3 斗以下1斗以上の籾米を与えよ。そこで、その国の長官を村々へ行かせ、心を込めて施し与えさせた。 |
17 | 同 | 787 | 朕が天下に君主として臨むようになって今年で7年になるが、未だに生ある民にみな教化をゆき渡らせ、 国の果てまで上下の者がともに和らぎ、安泰にさせることができていない。この品格・才能の乏しさを顧 みると、まことに恥じ入るばかりである。しかし今年は、天下諸国は豊作であった。この大きな賜物を受 けるのが独り自分だけであってよいものであろうか。そこで百歳以上の者にそれぞれ籾米3石、90歳以上 の者にはそれぞれに2石、80歳以上の者にはそれぞれ1石を賜う。鰥・寡・孤・独または病気で苦しむ者や 自活できない者には、所轄の官司が前例に準じて物を恵み与えよ。そのために。それぞれの国の国司の次 官以上の官人に村々を巡回させ、直接に籾米を与えさせよ。 |
№ | 天皇 | 西暦 | 記事の内容 |
1 | 文武 | 704 | 河内国古市郡の高屋連薬女(タカヤムラジクスメ)が男3つ子を産んだので、A}2疋、真綿2屯、麻布4端を下賜 |
2 | 同 | 706 | 山背国相楽郡の鴨首形名(カモノオビタカタナ)が6人の子を3回に分けて産んだ。最初に産んだ2人の男の子を 大舎人18とした。 |
3 | 同 | 同 | 右京の人日置須太売(オキスタメ)が男の3つ子を産んだので、衣服、食糧、乳母を下賜 |
4 | 同 | 707 | 美濃国から村国連等志売が一度に3女産みましたと言上した。籾40石19と乳母を下賜 |
5 | 元明 | 708 | 美濃国穴八郡の国造の妻である如是女が3つ子の男の子を産んだので、稲400束と乳母を支給。 |
6 | 同 | 711 | 山背国相楽郡の狛部宿禰奈売(コマベヤタドジナメ)が男の3つ子を産んだ。A}2疋、真綿2屯、麻布4端、稲 200束、乳母を下賜。 |
7 | 同 | 714 | 土佐国の物部毛虫咩(ケムシメ)が3つ子を産んだ。これに対して籾40斛と乳母を下賜。 |
8 | 元正 | 715 | 常陸国久慈郡の占部御蔭女(ウラベノミカゲメ)が3つ子の男の子を産んだので、食糧と乳母を下賜。 |
9 | 聖武 | 733 | 遠江国榛原郡の君子部真塩女(キミコベノマシオメ)が3つ子の男の子を産んだ。大税(稲)200束と乳母を下賜。 |
10 | 同 | 746 | 右京の人で上部乙麻呂の妻の大辛刀自売(オオカラノトジメ)が3つ子の女の子を産んだので、正税の稲400束 を下賜。 |
11 | 孝謙 | 750 | 摂津国のみか玉大魚売(ミカタマノオオナメ)、三河国の海直玉依女(アナノアタイタマヨリメ)がそれぞれ3つ子の男の子を産 んだ。よってそれぞれ正税(稲)300束と乳母を下賜。 |
12 | 同 | 752 | 下総国の穴太部阿古売(アナフトベノアコメ)が一度に2男2女を産んだ。食糧と乳母を下賜。 |
13 | 光仁 | 776 | 丹後国与謝郡の采女部宅刀自女(ウネメベノヤカトジ)が一度に3人の男子を産んだので、母子の食糧と乳母の 食糧を下賜。 |
14 | 同 | 780 | 左京の椋小長屋女(クラノコナガヤメ)が3つ子の男の子を産んだので、乳母と稲を下賜。 |
15 | 桓武 | 781 | 下総葛飾郡孔王部美努久咩(アナホベノミノクメ)が3つ子を産んだので乳母と食糧を下賜。 |
古代の大和朝廷の行ったインフラ整備や 社会福祉について見てきた。 ではほぼ同時代の朝鮮はどうだったのか。 『三国史記』 に描かれた三韓(新羅、百済、 高句麗)の政策等について見てみたい。 |
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375年の朝鮮(ウィキペディアより) |
☆第1条 和を何よりも大切なものとし、諍いをおこさないことを旨としなさい。人は党派を作りたがるものであり、悟りきった人は少ない。だから、君主や父親の言うことに遵うことができず、近隣の人たちともうまくいかないのである。しかし上下の者が協調・親睦の気持ちをもって議論するなら、自から物事の道理にかない、何事も成るものである。 *第15条で、第1条を次のように補足している。〈およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心が起こってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである〉 ☆第10条 心の中の憤りをなくし、憤りを顔に出さぬようにし、ほかの人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。人はそれぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。他の人が正しいとすることを自分は不正だと思うし、自分が正しい思うことを他の人は不正だとする。自分は必ず聖人で、他の人が必ず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、誰が定めうるのだろう。お互い誰も賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手が憤っていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかと畏れなさい。 ☆第17条 物事は一人で判断してはならない。必ず皆で論議して判断しなさい。些細なことは、必ずしも皆で論議しなくてもよい。重大な事柄を論議するときは、判断を誤ることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、理にかなった結論が得られよう。 |