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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 和の国・日本                    平成26年7月20日 


1 多様な民族が共存した日本列島

  NHK(日本人はるかな旅:平成13年放映)などの日本人のルーツを特集したテレビ番組では、日本列島に先住していた
 縄文人と渡来してきた弥生人との間で戦いが行われる場面がCGアニメーションなどで描かれる。当時の遺跡から出土する
 人骨に鏃による傷が残っていることが根拠となっている。弥生時代に入ると戦傷人骨が増え、石鏃が打ち込まれた大腿骨、
 切断された頭骨、関節がバラバラになった手足の骨など明らかに人体に過大な力が加えられたことを示す人骨が多数出土す
 る。弥生時代のわずか数百年の間に1万年以上にも及ぶ縄文時代の負傷人骨数をはるかに上回る受傷人骨例が検出されてい
 る。このことなどから紀元前後に大陸から百万人もの大量の弥生人の渡来があり、そこで在来の縄文人との間に戦いが起き
たと推論するのである。

  弥生系渡来集団が九州から畿内への拡大していく過程で、各地に先住していた縄文系在来集団との間で摩擦を起こし、
 「倭国大乱」が起き、弥生系集団は防御のために逆茂木で幾重にも囲った環濠集落や高地性集落を造ったとしている。この
 説で見逃せないのは、あくまでも弥生人は防御側であり、縄文人は攻撃側だとしていることである。

  いわゆる「倭国大乱」という2世紀後半に起きた大和朝廷確立へ向けての国家胎動の動きの中で日本列島内の諸勢力の間で
 武力抗争があったことは、支那の『三国志(魏志倭人伝)』や『後漢書(東夷伝)』などに多くの記録が残されていることからみ
 ても史実に近いと考えられる。しかし、それを直ちに弥生人と縄文人の血を血で洗う抗争へと結びつけるのは短絡に過ぎるし、
 なぜ縄文人が攻撃側で、渡来人が防御側なのか理由を理解しかねる。(こんなところまで侵略史観が適用されている!)

  文化人類学の泰斗・埴原和郎
1 の唱導した「百万人渡来説」と日本人の「二重構造モデル」の真否についてはおくとして2
 この二つの考え方は現在の通説的な論の背景となり、「華夷秩序」を織り成す一つの論拠となっている。つまり、弥生人の大
 量渡来に伴い稲作技術など新たな技術が伝来・普及し、未開であった日本の縄文社会が人口急増とともに一挙に文明化したと
 する考え方である。そこには、縄文時代は技術の乏しい、あくまでも未開な社会だという華夷秩序的大前提がある。未開な蕃
 人は戦闘を好むという前提もあろう。縄文土器が世界で最も早く製作された土器
3であり、切れ味鋭い磨製石器を初めて創った
 のは縄文人の祖先であるという考古学的事実
4 を頭から無視した認識である。

1.埴原和郎(ハニワラカズロウ)1927年~2004年。北九州市出身。東京大学大学院(旧制)修了。東京大学、国際日本文化研究センター各教授、国際高等
研究所副所長・学術参与・顧問、神戸女学院理事を歴任。日本人の起源に係る
「二重構造モデル」を展開したことで有名。「二重構造モデル」とは、
日本人の成立を説明するモデルで「大陸由来の古モンゴロイドを祖先とする縄文人と朝鮮半島経由で日本列島にきた新モンゴロイドである弥生人が混
血して現代の日本人になった」とする説
である。
2. 「百万人渡来説」と日本人の「二重構造モデル」の真否については市井の歴史研究家・長浜浩明氏が『日本人ルーツの謎を解く』で詳しく分析し、
その説を厳しく批判している。
3.青森県東津軽郡外ヶ浜町の縄文遺跡である大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から発掘された縄文土器が高精度の年代測定法「加速器質量
分析計による放射性炭素(C14)測定法(AMS法)と較正年代補正法」によってほぼ精確に16500年前のものと算定されたことを根拠とする。
4.群馬県の岩宿遺跡から約3万年前の磨製石器が、東京都武蔵野台地遺跡群からは3~4万年前の地層から磨製石器が大量に発見された。日本列島人は、
世界に先駆けること2万年前以上から、打製石器ではなく磨いて先鋭な刃先をもった高級な石器を製作し、使っていたことが確定した。(ユーラシア大陸
では日本の2~3万年後、オーストラリア大陸では1~2万年後) 崎谷満著『DNAでたどる日本人10万年の旅』に詳述されている。



  また数百年の間に百万人もの人々がどのようにして日本海を渡海できたのか。タイタニック号でも約1500人、セウル号でも
 約500人しか一度に乗船させることはできない。数万年かけてというなら別だが、当時の「舟」で波の高い日本海を越えて百万
 人が数百年の短い間に渡来することは、苦難を極めた遣隋使・遣唐使の例を挙げるまでもなく不可能に近いという常識も忘れて
 いる。

  仮に百万人もの人が渡来し、彼らが大陸における部族・民族間の激しく残虐な戦いを経験し敗れた人々であったとすれば、戦
 慣れしていないどんなに多く見ても百万人にも満たない縄文人は渡来した弥生人に戦闘力で圧倒され、ほとんどの縄文人男性は
 北海道や沖縄を除いて絶滅していた可能性が高い。詳しい説明は割愛するが、Y染色体DNAの研究 はそれを完全否定している。
 戦傷人骨の例が示すように、大陸系の弥生人が縄文人より好戦的な人々であったことは疑いないが、かれらは在来の縄文人に対
 し圧倒的に少数派であったために、多少の摩擦・戦いがあったにせよ、ほとんどの渡来人は在来縄文人に溶け合うことでしか生
 きることができなかったとみるのが常識的である。

  では戦傷人骨数の増大は何を意味するのか。いつの時代も人間は争い殺し合うものだということの証明に過ぎない。殺傷道具
 技術の向上に加え渡来人が増えたことがそれを助長しただけのことだ。人類は霊長目ヒト科の中でしかない。言語、人種、宗教
 そして利益などが異なれば人間はいつでもお互いに殺し合うDNAを持っていると見るべきである。ただし人が人を殺すのは目的
 ではなく手段である。何らかの利益を得るため、相手を屈服させる手段である。その過程で戦いが起きる。そういった生物学的
 事実を直視すれば、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれわれの安全と生存を保持しよう」などという言葉がいか
 に空しいものかわかる。それでも縄文人には渡来した弥生人に比べれば平和的なDNAが蓄積されていた。

  旧石器時代から新石器時代(縄文時代)にかけての数万年間に、北から南からそして西から日本列島へ向かって多様な人々が
 多様な時期に多様な文化を携えてやってきたことは間違いない。海水面の上昇によって日本列島が孤島化する以前から日本にい
 た縄文人の祖先は、彼ら大陸での生存競争に敗れた渡来人をいつの時代も温かく迎え入れたものと思われる。そのため21世紀の
 今日も、ユーラシア大陸では絶滅した遺伝子を日本列島内に見ることができるのである。

  世界的に人類のDNA多様性が失われていった中で、日本列島は奇蹟的といえるほどDNA多様性の高い地域であり、少数者や弱
 者にも生存を保証する優しい伝統が芽生え保持され続けてきたのである。

  それは遺伝子に止まらず、大陸では歴史のなかで失われた文化や言語を巧みに取り入れて改善する民族的特性も育んできたと
 もいえよう。(日本人が漢字を取り入れ、新語を創り出さなかったら、19世紀から21世紀にかけて東アジアへ流入した西洋文明
 用語の漢字での表現はなかったであろう。別添「和製支那語」参照。朝鮮語も無理やりハングルに変換しているが、元々は日本
 語であった単語が多い。特に、近代に入って使われるようになった自然科学、人文科学、産業・工業用語はほとんどが日本語に
 由来する。日本由来を隠すためにハングル文字を使用している)


2 「国譲り」さえ話し合いで
  国の統一が外交を通じた話し合いによって達成されるというのが日本神話の一大特徴の一つである。その説話の流れの概要は
 次のとおりである
① 天照大神の決心:日本(葦原中国)は、自分の子(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホノミミノミコト))に治めさせる
          と決定。
② 天忍穂耳命の敵情偵察:命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神
             に報告。
③ 作戦会議:天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか諮問会議を開催。
④ 使者の派遣:第1の使者 天菩比神(アメノホヒノカミ)は、大国主命に懐柔されて家来となる。
        第2の使者 天若日子(アメノワカヒコ)は、大国主命の娘に見初められて結婚、大国主命の跡取りとなるが、高木神
             (天照大神に次ぐ№2の神)の返し矢によって命を失う。
        第3の使者(雉名鳴女(キギシナナキメ))は、天若日子に殺される。
        第4の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)に天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を副えて葦原中国へ派遣
⑤ 建御雷神による交渉:十掬剣(トツカノツルギ)を抜いて逆さまに立て、その剣先にあぐらをかいて座り(武力を背景にした交渉か
            ?)、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどう
            か」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子に訊ねるよう言った。事代主神は直ちに承知。もう一人
            の息子の建御名方神(タケミナカタノカミ)は反抗したが建御雷神によって屈服させられ、承知した。大国主神は
            「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる」と回答、国譲りの交渉は決
            着に向かう。
⑥ 大国主命の交換条件:私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。建御雷神は葦原中国
            平定をなし終え、高天原に復命した。

  この国譲りの神話には古代日本人の思想を読み解く手がかりが含まれているとして、自由社の歴史教科書(P45)は次のように
 書いている。
  高天原の神々は合議によって使者の派遣を決め、オオクニヌシも息子の意見を聞いて去就を決めています。日本には話合い
 でものごとを決める伝統があったのです。
  また、世界の他の地域なら、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦
 争ではなく話合いで決着しています。


3 日本建国の理念
  多くの場合神話は、民族や国の始まりを物語とし、国の創始者などを英雄として描き、帰属集団で生きる術や守るべき掟など
 を教え諭すものとして成立している。神話の存在は、人間社会には必ず始まりがあり、それ以前には人間はいなかったという当
 たり前のことを、古代の人々もまた考えていたことを示すものである。

  現在、私たちは相対性理論や量子論などによって宇宙には始まりがあるということを知識としては持っている。しかし感覚的
 にそれを理解することは容易ではなく、ではビッグバン以前の宇宙がどうなっていたのかということになると、皆目具体的イメ
 ージが浮かばない。それと同じようなことを、古代の人々が考えたとしても不思議ではない。

  縄文時代においても、そのようなことを炉端で子供から質問されて、当惑する親が数限りなくいたであろう。ビッグバンのよ
 うな絶対的始まりが人間の集団にも必要であった。そこに創作という人間的な頭脳活動が行われる無数の動機があり、それが神
 話となって民族の心を伝える伝承物語として語り継がれていった。その集大成がユダヤ民族においては旧約聖書であり、日本に
 おいては各地の『風土記』や『古事記』と『日本書紀』(以下『記紀』という)であった。

  『記紀』の作られた時代の日本神話の原形が、支那の盤古神話
6 の影響を受けていることなどからみても、大陸や朝鮮半島の
 存在は、日本の支配階級あるいは知識人の間では既によく知られていたはずであり、大地なるものは日本列島だけではないこと
 は周知であったと考えられる。

  普通に考えれば、大地、空気、海、空などの自然環境は、与件として人や神以前に存在していたとする神話構造であってもな
 んら差し支えない。むしろその方が自然かもしれないが、そうしなかったのは、支那・アルタイ諸民族や南太平洋諸民族の神話
 の影響によるものと考えられる。支那の神話は旧約聖書と同じく人の創造についても語っている
7 が、『記紀』の世界は大地の
 創造を明確に描くのと対照的に人間の創造については曖昧というより、人間が神や大地以前に存在したかのように描かれている。
 しかし日本列島という大地がない状況ではそこに人間が生きていることはできなかったはずであるから、やはり日本人も神の創
 造物であったとしか考えられない。ところが日本の神話には『旧約聖書』にあるような「神(エホバ)が天地創造とともに人を
 創った」とするような話はないのである。

  この矛盾に対する答えは、『記紀』の中に隠されていた。日本人はすべからく神の子孫であり、日本神話においては、「神は
 人であり、人は神である」と考えるとすべての疑問が解けるのである。水、岩や草木までも神の仲間であるとする八百万の神と
 いう神話体系において、人もまた神の一つと考えるは当たり前といえば当たり前である。

  日本列島に住む人々は、天照大神を祖神とする天皇家が幹となった神々の系図の枝の先々のどこかには属しているとされる。
 源氏や平氏が皇室の傍流から臣下に降下し長い時間を経て庶民の祖先となったのがその典型例である。
  『古事記』ではその最初の例が、天照大神と須佐之男命の誓約(ウケイ)の勝負において、天照大神の角髪(ミズラ)や手の玉飾から化
 生(ケショウ)した五柱の神にみえる。その一人である天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)の御子、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)は、出雲、武蔵、上
 総、下総、遠江などの国造(クニノミヤツコ)の祖先となったとされる。天津日子根命(アマツヒコネノミコト)は、茨城、周防、山城などの国造の祖
 先となった。そして国造は地方に土着し、その地域の日本人の祖先となったのである。

  須佐之男命が高天原を追放され、地上の国である出雲の国に流れてきたとき、この国を治める国津神・足名椎(アシナヅチ)に出会
 い、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治するという話がある。『記紀』のなかで国津神はほとんど普通の村人のように描かれている。それ
 は国津神もまた人々の祖先という考え方である。日本列島には、百神を超える多数の神々がおり、日本人はそれら神々の子孫と
 して日本列島上に住んできたということだ(古事記には138柱以上の神々が登場する)。だから、日本の神々は、外国の神のよう
 に人を創る必要がなかった。それは言葉も同様だった。「日本語列島」の上に日本神話は成立したのであり、天津神も国津神も
 そして人々も同じ日本語を話していたと考えれば納得できるのである。

 6.「宇宙の最初、そこには天地も日月もなく、それは暗黒の混沌たる一つの塊、いわば巨大な鶏卵のようなものであった」で始まる支那の神話。
「盤古の息から風が、左目からは太陽が、右目からは月が生まれた」というくだりは、伊邪那岐命が禊のため、鼻を洗って生まれた須佐之男命、左目
 を洗って生まれた天照大神、右目を洗って生まれた月読神の誕生経緯に影響を与えていると考えられる。なお、その支那神話は古代インドの影響を
 受けて造られたという説もある。
 7.女媧(じょか)という女神が土を水でこねて初めて人を造ったとする神話である。最初は一つ一つ丹念に造っていたが、しまいには縄を泥に浸して引 き上げ、滴り落ちた泥を人にした。ゆえに初期に造られた人は上等な人間になり、後で造られた人は下賤な人間になったという。


  これらのことは、皇室の祖神・天照大神は日本民族の総氏神としてその頂点にあり、皇室が日本のほとんどすべての家系の大
 宗家であるということを示している。多くの日本人は、意識するかしないは別にして、漠然とした感覚でそのように思っている
 のではないか。天皇制は、日本の国体の根源かつ基幹であるが、それは日本民族全体にも適用可能なものであり、天皇家を大宗
 家とする日本民族の全体構造を律することと軌を一にしている。したがって敢えて極論すれば、天皇制の喪失は天皇家がなくな
 るということに止まらず、日本民族の解体をも意味するのである。

  日本人はすべて神の子孫という趣旨は、決して日本人の選民化、天皇の絶対化を主張しているのではない。日本人は神話の時
 代から以上のような神話的仮想空間の中で、日本人としての民族特性を育んできたということを言おうとしているに過ぎない。
 それが縄文時代以降、絶海の孤島の中で日本人が誇りをもって生きる縁(エニシ)でもあった。

  だから、伊邪那岐尊がこの国を「日本(ヤマト)は心安らぐ国、良い武器がたくさんある国、優れていて良く整った国」と言われ、
 神武天皇が「なんと素晴らしい国を得たことだ!」と言われたのである。

  すべてが神の子孫という日本社会おいては、当然ながら身分制の発達は抑制された。邪馬台国の時代、生口
8 という奴隷があっ
 たといわれているが、その後大和朝廷による統一が進む中で、日本の奴隷階級は消滅していった(良民化された)。日本は世界的
 に見ても珍しいほど、生まれながらの身分を拘束する階級制度が発達しなかった国である。奈良・平安時代の貴族と庶民、鎌倉
 以降の公家、武士、庶民、江戸時代の士農工商などにみられるように、職業による身分はあったが、例えばインドのカースト制
 のような出自によって決まる絶対的な身分制は発達することがなかった。因みに、日本の奴婢制度は第60代醍醐天皇(在位897
 ~930年)及び第62代村上天皇(在位946~967年)の行った「延喜・天暦の治」と称される平安中期の天皇親政の時代に公式に
 廃止された。

  平清盛や豊臣秀吉のように武家から公家に身分を変えた者もおり、農民から武家へと身分上昇する者は無数にいた。もちろん
 その逆の身分変化、例えば皇孫(王)や藤原氏の末裔が地方で没落して農民などの庶民になることは当たり前でさえあった。
 現代でも、政治家、企業経営者、医師、弁護士、大学教授、労働者、公務員、主婦など様々な職業があり、それらの間には社会
 的な地位や収入に明らかな差があるが、それは決して身分を規定するものではない。政治家が労働者よりも身分が高いと思って
 いる人はほとんどいないであろう。日本人はすべて人間として国民として基本的に平等な身分にあるはずだと考えている。

  江戸時代、「穢多・非人」と呼ばれた身分が特異的に差別されてきたが、それとても一般に忌避されていた食肉皮革産業や廃
 棄物処理などの仕事に従事する人々を固定化し、代替補償措置として独占権益と非課税という恩典を与えたことに始まるもので
 あった。その固定化・身分世襲化が進んだのはもっぱら徳川幕府の統治政策によるものであって、中世以前における世襲化はな
 かったといわれる。被差別部落の人々も含め日本人はすべて等しく神の子孫であり、天皇家の分家であるという大筋にかわりは
 ないのである。

 
8.生口(セイコウ):は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。生口は日本だけのものではなく、
 朝鮮でも使われた。また高麗史によれば、文永の役(1274年)で高麗に帰還した金方慶らは、日本人の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献
 上したとの記録がある。

  天皇家だけは特別であった。大和朝廷成立以降二千数百年、日本宗家として確実な世襲が行われてきた。日本宗家の血筋が絶
 えることなく継承されることによって、誰であろうと親兄弟がいようがいまいが、すべての日本人は天皇家の分家の一員として
 系統図のどこかに位置を占めるであろうことを、勝手とはいえ推定することができるのである。そのためには皇統が男系で維持
 されることが必須である。一般国民の家系においては、男系であろうと女系であろうと何の支障も生じないが、宗家においては、
 それは許されず、国民の拠りどころとなる血統の美しい一貫性が求められているのである。

  皇統における男系維持は、もちろん男尊女卑とは無関係で、それは祖神が天照大神という女神であることによって担保されて
 おり、女性天皇の存在を認めていることからも明白だ。約2000年、125代もの男系で維持されてきたからこそ、未来永劫、日本
 国の続く限り皇統は男系で維持されなければならない。仮に、天照大神以来、女系で一貫して維持されてきたなら、これからも
 女系で維持される必要がある。要するに、男系であろうが女系であろうが皇統はふらつかせてはならないものなのである。(男
 系と女系ともに守ろうとすれば近親婚が進み劣性化)

  125代、男系で維持されてきた皇統に女系を認めれば、それは天皇制瓦解の第一歩となる。『古事記』や『日本書紀』などに
 記された神話などによって形成されてきた天皇の神聖性を汚すことになってしまうばかりか、血統的な背景がまったくわからな
 い男性の血が皇統に混入し、天皇家の血統的地位は無に帰することになる。125代の長い間には、背景の不確かな女性の血が混
 入されてきた可能性
9 は否定できないからである。したがって今さらの女系の導入は一気に天皇制を相対化し、内閣総理大臣以
 下の一般人となんらかわらず、就任(即位)すれば天皇となれる。そのような天皇は、何の有難さもなく、国家・国民の統合の象
 徴とはなり得ず、海外からも尊敬される存在ではなくなってしまう。それは実質的な天皇制の崩壊である。

9.古代の天皇はかなり多くの妻を娶って子供をつくっており、第26代継体天皇(応神五世の孫)にはその5世代の間に近江の地で皇族や豪族ではない女
の血が混じっているとみられる。その後も、蘇我、物部、藤原氏などの女の入内があり、彼女たちの出自についても不明な点が多い。頼朝以降の有力武
士たちも天皇の外戚になることを目指してその娘の入内させており、女性の血は怪しげな点が多々ある。


4 日本の民は古代から「国の宝」
  『古事記』では「百姓」を、『日本書紀』では「民」、「百姓」を「おおみたから」と訓読みする。「おおみたから」は「大
 御宝」であり、まさに民百姓は国の宝だという認識が古代日本におけるコンセンサスになっていたと思われる。
  それを示すものとして、『日本書紀』巻11「仁徳天皇・大鷦鷯天皇(オオキザキノスメラミコト)」に記された「竈の煙」は有名。以下、現
 代語訳(宇治谷孟(ツトム)訳・一部改変)を示す。
  4年(即位から)春2月6日、群臣に詔して「高殿に登って遥かに眺めると、人家の煙があたりにみられない。これは人民たち
 が貧しくて、炊ぐ人がいないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳を称える声を上げ、家々では平和を喜ぶ歌声があ
 ったという。今自分が政(マツリゴト)に就いて3年経ったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀
 が実らず百姓が窮乏しているからである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなに大変であろうか」と言
 われた。
  3月21日、詔して「今後3年間すべて課税を止め、人民の苦しみを和らげよう」と言われた。この日から御衣や履物は破れる
 まで使用され、御食物は腐らなければ捨てず、心をそぎ減らし、志を慎ましくして、民の負担を減らされた。宮殿の垣は壊れ
 ても直さず、屋根の茅は崩れても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らし、星影が室内から見られるほどであった。この後天候も
 穏やかに、五穀豊穣が続き、3年の間に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
  7年夏4月1日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上っていた。皇后に語られ「自分はもう富んできた。
 これなら心配ない」と言われた。皇后が「なんで富んできたといえるのでしょう」と言われると、「人家の煙が国に満ちてい
 る。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣が崩れても修理ができず、殿舎は破れ、御衣が濡れるありさ
 まで、なんで富んでいるといえるのでしょう」と。天皇が言われる。「天が君主を立てるのは、人民の為である。だから人民
 が根本である。それで古の聖王は、人民に一人でも飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、
 自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば、自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、君主が貧しいという
 ことはないのである」と。
  9月諸国の者が奏請し「課役が免除されてもう3年になります。そのため宮殿は壊れ、倉は空になりました。いま人民は豊か
 になって、道に落ちている物も拾いません。連れ合いに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんなときに税を
 お払いして宮室を修理しなかったら天の罰を被るでしょう」と申し上げた。けれどもまだお許しにならなかった(課役の免除
 が継続された)。
  10年冬10月、はじめて課役を命じられて宮室を造られた。人民たちは促されなくとも、老いを助け、幼き者を連れて、材を
 運び、土籠を背負った。昼夜を分けず力を尽くしたので、幾ばくも経ずに宮室は整った。それで今に至るまで聖帝と崇められ
 るのである。

  『記紀』に記された「竈の煙」の説話は実話である可能性が高いが、それが事実であったかどうかは本当のところ重要ではな
 い。大事なことは、「百姓(オオミタカラ)の為に大規模な農業インフラの工事を行い、水害を防ぐとともに灌漑施設を造成し、新田を
 開発する」という撫民政策に対する当時の日本人の価値観がしっかりと確立していることである。「民百姓あってこその国」と
 いう現代では当たり前の価値観が、『日本書紀』を編纂した舎人親王
10 以下の大和朝廷の役人にとっても当たり前のように思え
 たからこそ仁徳天皇を聖帝と崇めることについて上記のような文章となったのである。したがってこのような国土整備事業は仁
 徳朝に限ったことではなく、それ以前にも以降にも行われたことを意味しているのである。

  例えば実在性の高いといわれる第10代崇神天皇の62年、天皇は農業の振興が国の本であると考え、水利事業を開始した記事
 が『日本書紀』にみえる。大和朝廷が公共事業を実施するという実質的な行政を行った最初の記述であり、画期的な出来事であ
 ったといえる。貯水のために、依網池(ヨサミイケ)
11苅坂池12反折池(サカオリイケ)13 を造成したものである。第17代天皇履中期
 にも磐
 余(イワレ)の池、石上の用水路を造ったことが『日本書紀』に記されている。

  とても真面目さが感じられない近頃の政党のキャッチフレーズに「国民の生活が第一」というのがあるが、彼らは、日本が古
 代から「国民の生活が第一」であったことはご存知ないのであろう。因みに第16代仁徳天皇の御世には、次のような民生を安定
 させるための土木事業が行われている。

10.舎人親王(676~735年)天武天皇の皇子、母は天智天皇の娘新田部皇女。淳仁天皇の父。『日本書紀』の編纂を総裁した。
11. 大阪市住吉区南東部にあり、古墳時代から現代まで用水池として使われたが、1968年埋め立てられ、現在は大阪府立阪南高校のグランドになって
いる。
12.依網池があった大阪市住吉区庭井町の北側に「苅田」という地名が見えるが、場所は不明。 大阪狭山市(大阪府南東部)にあったと推定されるが、
場所は不明。
13. 市中心部には7世紀前半に築造されたダム式ため池である狭山池がある。


  ① 難波の堀江の開削 ② 茨田堤(マンダノツツミ)の築造 ③ 山背の栗隈県(クルクマノアガタ)の灌漑用水の設置 ④ 和珥池(ワニノイケ)・
 横野堤(ヨコノノツツミ)の築造 ⑤ 感玖大溝(コクムノオオミゾ)の灌漑用水の掘削と広大な新田の開発等であり、なかでも茨田堤は日本初の大
 規模土木事業であった。こういった大規模土木工事は、誰の為かといえば、もちろん国を富ますのが目的だが、まずは百姓(オオ
 ミタカラ)の生活を安定させるのが第一であった。現在行われている公共事業と同じであり、現代風に言えば、インフラを整備するこ
 とによって当時の国民総生産を増大させたのである。
  近代になっても日本人は、台湾や朝鮮の統治に見られるように学校、道路、鉄道、水利、灌漑などさまざまなインフラ整備に過
 剰とも思えるような執念を燃やした。まずは民生を安定させるためのインフラ整備にこだわるのは日本人の古代からの民族的習性
 ・伝統であるといえるのかもしれない。


5 古代における社会保障
 (1) 律令制下での人民救済政策
  日本古代の律令制は、共産国家に類似した公地公民制と軍事国家であったが、両者の違いは、その軍事力が治安すなわち人民抑
 圧のための力としてほとんど使われなかったことであった。律令国家の軍事力は、大和朝廷に敵対する蝦夷、新羅といった外部勢
 力への対処力として設けられたものであり、共産党の軍隊のように政権維持のための人民抑圧に使われることはなかった。

  第42代文武天皇(697~707年)以降の律令制下での出来事を『続日本紀』から俯瞰したとき、千年以上昔の古代社会ゆえに驚
 くとがある。それは、古代大和朝廷の一種の福祉政策である。現代日本よりも進んだ福祉政策であったといえば眉唾に聞こえる
 が、時代による社会や技術の進歩を勘案して補正すれば、21世紀の現代日本よりも優れた面があったと思われほどだ。古代にお
 いても日本は自然災害列島であり、特に、各地方で台風や旱魃によって飢饉が頻繁に起きている。大和朝廷はそのたびに医師の
 派遣や食糧支援と税の免除などを行い救済しているのである。

  その最初は、697年閏12月7日、播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予など(瀬戸内海沿岸)の国に飢饉が起きた
 ので食糧を与え、減税したとする記事である。翌年、越後と近江・紀伊の三国に疫病が流行したので、医師(クスシ)と薬を送って
 治療させている。同年12月26日、大倭国に疫病が起こり、医者と薬を下賜してこれを救わせたとある。このような自然災害等
 に対する人民救済政策は、『続日本紀』に見るだけでも枚挙に暇がないほどの記事が記されており、すべてを列挙することは割
 愛するが、その件数及び特異な事例を挙げて、古代日本政府の人民に対する考え方を理解する一助としたい。

             表1 『続日本紀』に記載された自然災害に伴う救済件数
 天 皇     在 位 在位年数 救済件数 備考
第42代文武 697.8.1~707.6.15 11年 26 『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した。
したがって桓武天皇は今上天皇であり、延暦10(7
91)年が最後の年となっている。

桓武天皇の在位期間の記事は、11年間の出来事まで
が記されている。
第43代元明 707.7.17~715.9.2 9年 19
第44代元正 715.9.2~724.2.4 9年半 2
第45代聖武 724.2.4~749.7.2 26年半 26
第46代孝謙 749.7.2~758.8.1 10年 5
第47代淳仁 758.8.1~764.10.9 7年 36
第48代称徳 764.10.9~770.8.4 5年 44
第49代光仁 770.10.1~781.4.3 11年半 37
第50代桓武 781.4.3~806.3.17 26年(11年) 18
 累 計 697.8.1~806.3.17 109年半 213

  文武天皇の大宝元(701)年8月16日、大風邪と高潮による被害を受けた播磨、淡路、紀伊の三国の慰問のための行幸が計画さ
 れたとする記事がある。これは東日本大震災などの大災害時に天皇皇后両陛下及び皇太子殿下・妃殿下が被災地を慰問される皇
 室のお姿を彷彿とさせるものである。

  『続日本紀』には表2に示すような記事がある。これは現在でいえば一種の生活保護政策ともいえるものである。文武天皇か
 ら桓武天皇までの約100年間に主だったものでも17件の救済記事が掲載されている。このほかにも天皇の即位、皇太子の立太
 子、立后、太上天皇の病気平癒祈願のための大赦によってしばしば人民救済を指示した詔勅が出されている。

  こういった人民救済策は「賑給」又は「賑恤」と呼ばれた制度であり、律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤
 独(カンカコドク;身寄りのない人々)に対して国家が穀物や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給するという律令によって
 定められた福祉制度であった。

  表1、表2に示した人民救済策は、ともに「賑給」に属するが、表1が被害を受けた地域に限定されて行われたのに対し、表2は
 原則全国規模で行われることが多かった。
  財源としては正倉などに納められていた穀物などの備蓄が用いられていたが、支給の対象・実施の基準が曖昧であったために、
 中には「賑給」を口実として正税未進の補填を行ったり、私的に流用したりする国司などもいた。いつの世にもある政治家や公
 務員の不正であり、これをもって朝廷の行った福祉政策の価値が損なわれるものではない。

表2 律令制下で行われた社会福祉政策の一例
天皇 西暦 記事の内容
文武 701 紀伊国の高齢者に年齢に応じて稲を給付、今年の租と調を免除。
704 京内の80歳以上の高齢者全員に物を恵み与えた。
705 使者を五道 14へ派遣し、高齢者、病人、やもめの男女、孤児、独居老人に物を恵み与え、この年の調
の半額を免除。
元明 711 畿内の人民80歳以上の者と孤独で自活できない者に衣服・食物を下賜。
712 詔を下して、京・畿内の高齢者と男女のやもめ、孤児、独居老人とにA}、真綿、米・塩を下賜。
714 すべての老人で百歳以上の者に籾5斛、90歳以上に3斛、80歳以上に1斛をそれぞれ与え、孝子、
順孫、義夫、節婦はその旨を家と村里の門に標示して、終身租税を免除する。やもめの男女、孤
児、独居老人、強度の障害者、重病人と自活できない者には各国司が判定して救恤を行え。
717 百歳以上の者にA}3疋、真綿3屯、麻布4端、栗2石、90歳以上に、A}2疋、真綿2屯、麻布3端、栗
1石5斗、80歳以上にA}1疋、真綿1屯、麻布3端、栗1石をそれぞれ授ける。僧尼もこれに準ずる。
孝子、順孫、義夫、節婦はその旨を家の入口と村の端にその旨を示し、終身租税を免除する。鰥(カン)
・寡・(ケイ)・独 ・疾病の者や自活することのできない者には、状態に応じて物を与える。そこで
長官に命じて直々に慰問させ、薬を支給させる。
聖武 733 諸生(大学生など修業中の者)の中で、生活に窮乏している者213人を殿前に召し入れて。それぞれ米・
塩を下賜した。怠りなまけることなく本業に励むよう戒められた。
737 高齢者・鰥・寡・・独及び京内の僧尼や一般の男女で病臥して自活できない者には、状況に応じ
て物を恵み与えよ。
10 745 高齢で80歳以上の者・鰥・寡・・独並びに病気で自活できない者には、程度に応じて恵み物を加
増せよ。
11 749 男やもめ、女やもめ、みなし子、独居老人や病人で自活できない者には籾米5斗を給し、孝子・順孫・
義夫・節婦はその家の門と村の入口の門にその旨を示し、終身課役を免除する。篤農の人で無位の
者には位一階を授け、陸奥国には3年の調・庸を免除し、同国の小田郡にはそれを永く免除する。
その年限は後の勅で告示するのを待て。自余の諸国は国別に1年間、2郡の調・庸を免除し、毎年
免除となる2郡を替えて、免除がすべての郡にいきわたるようにする。またことごとく天下の今年
の田租を免除した。
12 孝謙 756 これより先に天皇の思いやり深い勅があり、京中の孤児を集めて衣服と食糧を支給し、これを養わ
せた。ここに至り、男子9人・女子1人が成人した。このため彼らに葛木連の氏姓を賜い、紫微少忠
・従五位上の葛木連戸主の戸に編入して、親子の関係とさせた。
13 758 使者(問民苦使(モミクシ))を八道に遣わし巡行させ、人民の苦しみを問い、貧乏と疾病の徒に恵み、飢寒
に苦しむ者に施しをしよう。朕の願いは民を撫で育て神の心と仁の心を合わせ、養育の慈しみが天に
通じ、病気や悪疫が悉くなくなり、五穀が必ず実り、いえに寒さ貧しさの憂いがなく、国に人民の蘇
生する喜びが生ずることである。所管の官司はよくわきまえて、清廉公平の人を選び、使者として良
く恵みを与え、朕の意に沿うようにせよ。
14 称徳 766 陸奥国の磐城・宮城の2郡も籾米穀16,400余石を貧民に与え救済した。
15 光仁 781 天下の老人の百歳以上の者に籾3石、90歳以上に2石、80歳以上に1石を賜る。また鰥・寡・・独の
者で自活できない者には、その状態に応じて物を恵み与えよ。孝子、順孫、義夫、節婦はその家の門
や村里の入口の門にその旨示し、終身租税を免除せよ。
16 桓武 787 老人を養うことの意義は前代より明らかであり、歴代の天皇もみなこの道理に従ってきた。今はちょう
ど耕作の時期であり、人々は田畑に出向いている。そこで民を心にかけて、深い情で憐れみたいと思う。
左右京・畿内五カ国と七道の諸国において、百歳以上の者にそれぞれ籾米2石を与えよ。90歳以上の者
には1石、80歳以上の者には5斗を、鰥・寡・孤・独と病気で苦しんでいる者にはその年齢に応じて、3
斗以下1斗以上の籾米を与えよ。そこで、その国の長官を村々へ行かせ、心を込めて施し与えさせた。
17 787 朕が天下に君主として臨むようになって今年で7年になるが、未だに生ある民にみな教化をゆき渡らせ、
国の果てまで上下の者がともに和らぎ、安泰にさせることができていない。この品格・才能の乏しさを顧
みると、まことに恥じ入るばかりである。しかし今年は、天下諸国は豊作であった。この大きな賜物を受
けるのが独り自分だけであってよいものであろうか。そこで百歳以上の者にそれぞれ籾米3石、90歳以上
の者にはそれぞれに2石、80歳以上の者にはそれぞれ1石を賜う。鰥・寡・孤・独または病気で苦しむ者や
自活できない者には、所轄の官司が前例に準じて物を恵み与えよ。そのために。それぞれの国の国司の次
官以上の官人に村々を巡回させ、直接に籾米を与えさせよ。

14.古代延喜式では、日本全国を5畿七道の行政区域に分けていた。五畿とは山城、大和、河内、和泉、摂津の国、七道とは、山陽、東海、東山、
北陸、山陰、南海、西海の各道に連接した国々である。


 (2) 古代の子育て支援
   699年春正月26日には、次のような記事がある。「
京職(キョウシキ)16 が次のように言上した。『林坊に住む新羅の女・牟久売
  (ムクメ)が、一度に2男2女を産みました』と。朝廷はA}(アシギヌ:太めの糸で織った絹布)5疋、真綿5屯、麻布10端、稲500束、
  乳母1人を賜った」
   古代の布の大きさを表す単位の「疋」は、布2端(反)を意味する。布1端は、1尺×30尺(33cm×10m)であるから、5疋の
  絹布とは33cm幅の布が50mというとてつもない大きさになる。
   真綿の重さを表す「屯」は、
主計寮17の定めによれば、1屯=150gで、5屯は750gとなる。麻布10端も絹布と同じ広さの
  33cm幅の布が50mという量である。
   稲500束はどのくらいの米の量になるのであろうか。1束=10把、1把は、親指と中指でつかめる稲穂の量を示し、1束は
  籾米1斗(近代以降の量では0.4斗=4升に相当)なので、稲500束は、籾米500斗(200斗)に相当する。籾米1斗は精米す
  ると約半分になるので、現在の玄米に換算して概ね100斗になろう。つまり稲500束は玄米1000升もの大量の米である。
  家族5人で、1人が1日5合を食するとしても、400日も生活できる量である。

 15.「鰥」は妻のいない男、「寡」は夫のいない女、「惸」とは兄弟のないこと、「孤」はみなし子、「独」は子のいない老人のこと。古くは『孟子』に
 も登場する言葉である。日本では『令義解(リョウノギゲ)』(833年、淳和天皇の勅により文章博士菅原清公ら12人によって撰集された令の解説書)
 の注釈にて具体的な解説が載せられており、「鰥」とは61歳以上のやもめ(妻を亡くした夫)、「寡」とは50歳以上の未亡人、「孤(惸)」と
 は16歳以下の父親のいない子供、「独」は61歳以上の子供がいない者を指したが、実際の運営上は、鰥は60歳以上、独は50歳以上とされていた。
 戸令では鰥寡孤独のうち、生活が困難な者に対しては三親等以内の者に対して扶養義務を課し、それが不可能な場合には地域(坊里)で面倒をみ
 るものとされた。また、賑給に際しては高齢者とともに支給の優先対象とされていた。
 16.京職は京内の行政・司法・警察を司る役所。大宝律令以後、左京職、右京職に分かれる。
 17.主計寮は税収(特に調)を把握・監査することが職掌である。具体的には租税の量を計算し、それが規定の量に達しているか監査する民部省の
  機関。そのため数学(算道)に関する技術が求められ、枢要の職として律令制崩壊後も存続した。主計寮の名称は現在、財務省主計局・主計官に
  継承されている。


   当時の経済・生産レベルを考慮すると、現在の感覚では信じられないほどの手厚い社会保障である。現代でもこれほどの厚
  遇を行えば、少子化に歯止めがかかるだろう。乳母も手当てされるのだから保育園無料化以上の手厚さである。
   700年11月28日には「大倭国葛上(カズラギノカミ)郡の鴨君粳売(カモノキミヌカメ)が一度に2男1女を産んだ。女にA}4疋、真綿4屯、麻
  布8端、稲400束、乳母1人を賜った」とあり、出産人数によって褒賞額をかえていることがわかる。
  『続日本紀』には、上記2件のほかこのような多産の女性を褒賞した事例が13件記載されている。因みに褒賞記事が見られな
  いのは、第42代文武天皇(即位697年)から第50代桓武天皇(即位781年)の約100年間の中で、第47代淳仁天皇(在位758~76
  4年)と第48代称徳天皇(在位764~770:孝謙天皇の重祚)の約12年間だけである。

             表3 『続日本紀』における多産女性褒賞記事一覧
天皇 西暦                    記事の内容
1 文武 704 河内国古市郡の高屋連薬女(タカヤムラジクスメ)が男3つ子を産んだので、A}2疋、真綿2屯、麻布4端を下賜
2 706 山背国相楽郡の鴨首形名(カモノオビタカタナ)が6人の子を3回に分けて産んだ。最初に産んだ2人の男の子を
大舎人18とした。
3 右京の人日置須太売(オキスタメ)が男の3つ子を産んだので、衣服、食糧、乳母を下賜
4 707 美濃国から村国連等志売が一度に3女産みましたと言上した。籾40石19と乳母を下賜
5 元明 708 美濃国穴八郡の国造の妻である如是女が3つ子の男の子を産んだので、稲400束と乳母を支給。
6 711 山背国相楽郡の狛部宿禰奈売(コマベヤタドジナメ)が男の3つ子を産んだ。A}2疋、真綿2屯、麻布4端、稲
200束、乳母を下賜。
7 714 土佐国の物部毛虫咩(ケムシメ)が3つ子を産んだ。これに対して籾40斛と乳母を下賜。
8 元正 715 常陸国久慈郡の占部御蔭女(ウラベノミカゲメ)が3つ子の男の子を産んだので、食糧と乳母を下賜。
9 聖武 733 遠江国榛原郡の君子部真塩女(キミコベノマシオメ)が3つ子の男の子を産んだ。大税(稲)200束と乳母を下賜。
10 746 右京の人で上部乙麻呂の妻の大辛刀自売(オオカラノトジメ)が3つ子の女の子を産んだので、正税の稲400束
を下賜。
11 孝謙 750 摂津国のみか玉大魚売(ミカタマノオオナメ)、三河国の海直玉依女(アナノアタイタマヨリメ)がそれぞれ3つ子の男の子を産
んだ。よってそれぞれ正税(稲)300束と乳母を下賜。
12 752 下総国の穴太部阿古売(アナフトベノアコメ)が一度に2男2女を産んだ。食糧と乳母を下賜。
13 光仁 776 丹後国与謝郡の采女部宅刀自女(ウネメベノヤカトジ)が一度に3人の男子を産んだので、母子の食糧と乳母の
食糧を下賜。
14 780 左京の椋小長屋女(クラノコナガヤメ)が3つ子の男の子を産んだので、乳母と稲を下賜。
15 桓武 781 下総葛飾郡孔王部美努久咩(アナホベノミノクメ)が3つ子を産んだので乳母と食糧を下賜。


 18.大舎人は、天皇に供奉して宿直や様々な雑用をこなす職務で官吏の養成段階の一つであった。
 19. 石:石は斛とも書く。1石=10斗=100升=1000合で1反の田地から収穫される米の量であるが、古代からそうであったかどうかは不明。1石は、
  成人が1年間に消費する米の量であるとされ、40石は40年間の分に相当するため、近世以降の石とは別の単位量の可能性が高い。支那の漢の時代
  の1石は約31kgなので、40石は、約1200㎏相当の米の量となり、こちらではないかとも考えられる。

6 朝鮮との比較
 古代の大和朝廷の行ったインフラ整備や
社会福祉について見てきた。
ではほぼ同時代の朝鮮はどうだったのか。
『三国史記』 に描かれた三韓(新羅、百済、
高句麗)の政策等について見てみたい。
375年の朝鮮(ウィキペディアより)

 (1) 新羅
 『三国史記』
20の中では、新羅の始祖は朴赫居世(カッキョセイ)居西干(キョセイカン)21 (在位BC57~AD4年)とされている(実在性は疑わしい)。
 赫居世は卵から生まれたことになっている。王妃の閼英(アツエイ)は龍の右脇から生れたとされる。「BC41年、赫居世は、王都の
 六部を巡撫し、農業や養蚕を奨励し、土地の生産力を十分生かした」というのが唯一の統治に関する記述である。

  第2代王は朴南海(ナンカイ)次次雄(ジジユウ)(在位4~24年)である。AD18年「蝗が穀物を食い荒らし民が飢えたので、穀物倉を開
 いて救済した①
」とある。22年に「疫病が大流行し多くの人が死んだ」、24年に「蝗が大発生し穀物を食い荒らした」とする
 記事があるが、救済したという記述は見えない。

  第3代王は朴儒理(ジュリ)尼師今(ニシキン) (在位24~57年)である。「28年、王が国内を巡行していると、一人の老婆が飢え凍えて
 死にそうになっているのを見た。王は『私は微力でありながら人の上にいる。人民を養うことができず、老人や幼児たちをこの
 ような極悪な生活に陥れている。これは自分の罪だ』と言って、着ていた着物を脱いで老婆にかけ、食物を勧めて食べさせた。
 そして役人に命じて、各地を慰問させ、鰥寡(ヤモメ)・孤独な者・老人・病人など自活できない者には食糧を与えて養わせた②。
 隣国の人々はこの話を聞いて、新羅に移住する者が多かった」という記事がある。

  第4代王は朴氏から昔氏へ移り、昔脱解(ダッカイ)尼師今 (在位57~80年)が即位した。昔脱解は日本列島(越前~越後辺り)の
 生れとされる。「75年、王都はひどい旱魃で、人民が飢えたので穀倉を開いて施し与えた」とある。

  第5代朴婆娑(バサ)尼師今 (在位80~112年)は81年、「地方の州・郡を巡撫し、穀倉を開いて施し与え、監獄の囚人の罪状を
 再検討して、大逆・謀叛以外の者の罪を許した」とある。また93年、「王は地方に行幸し、親しく高齢者を慰問し、穀物を賜っ
 た」とある。106年にも同様の記事がある。

  第6代朴祇魔(ギマ)尼師今 (在位112~134年)では、在位間大水や旱魃があったとの記事があるが、そのために人民に施しを与
 えたとする記述は見られない。

  第7代朴逸聖(イッセイ)尼師今 (在位134~154年)の治世下、疫病や旱魃が起きている。145年の旱魃時に最も被害が大きかった南
 部地方に限って「住民が飢えたので栗(脱穀以前の穀類)を送って施し与えた③」との記述がある。

  第8代朴阿達羅(アダツラ)尼師今 (在位154~184年)の時代には洪水、蝗、霜・雹、疫病、旱魃が起きて人民が苦しんだとの記述
 があるが、救済したとの記事は見られない。なお、この王の在位間の173年夏5月、「倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた」
 とある。

  第9代昔伐休(バッキュウ)尼師今 (在位184~196年)は第4代王昔脱解の孫にあたる。新羅の王統は日本系に移ったことになる。
 193年の記事に「漢祇部の婦人が一度に4人の男子と1人の女子を産んだ」とあるが、褒賞はない。大雪・山崩れ・日照りが起き
 たという記事が見られるが、この王の在位間に人民救済をしたとの記述はない。

  第10代昔奈解尼師今(在位196~230年)の時代には、198年、「国の西部で大水が出たので、水害のあった州・県には1年間だ
 け租と調を免除④
した。使者を派遣し慰問させた」とある。226年、「春から雨が降らず、秋になってようやく雨が降った。人民
 が飢えたので、穀倉を開いて施し与えた⑤」とある。

  第11代昔助賁(ジョフン)尼師今 (在位230~247年)、第12代昔沾解(テンカイ)尼師今(在位247~261年)の治世下ではたびたび災害が
 あったが、人民救済をしたとの記事はない。

  第13代金味鄒(ミスウ)尼師今(在位262年~284年)は昔脱解の縁者(庶子の系統)である。この治政間「黄山に行幸し、高齢者や貧
 者で自活できない者を慰問し施し恵んだ⑥
」とあるものの災害に対する救済記事はない。

 第14代昔儒礼尼師今(在位284~298年)の時代には、旱魃、洪水、蝗の被害に加えて、倭人の侵入事件がたびたび起きているが、
 人民救済の記事はない。

  第15代昔基臨(キリン)尼師今(在位298~310年)の時代には、300年、「比列忽に巡幸した。王自ら高齢者や貧窮している人たち
 を慰問し、応分の穀物を賜った⑦
」とある。

  第16代昔訖解(キツカイ)尼師今(在位310~356年)の時代には、313年「秋7月、日照りが続いて蝗が発生したので人民が飢えた。
 使者を派遣して彼らを恵み救った⑧」とある。330年、碧骨池を初めて造った。堤防の長さは1800歩である」とあり、『三国史
 記』に出てくる数少ないインフラ整備事業である。なおこの池は現存している。堤は長さ3km、高さ4.3mもある立派なものであ
 り、その後数回増改築されたとの記事がある。
  
以上、初代から16代までは、いわば神話であり、日本の『記紀』でいえば「神代」に相当する。

 20.高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。
 朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻
 21. 居西干、次次雄、尼師今はいずれも王号に相当(王号の意味は不明)するが、いわゆる王よりも下の称号かと思われる。

  第17代以降の王は実在が確認できる王であり、したがって新羅の建国は356年とされる。
  第17代金奈エ・ナコツ)尼師今(在位356~402年)以降、王統は昔氏から金氏へ移る。金氏はその創立経緯からみて昔氏の傍流と見
 られる。372年、「春から夏にかけて旱魃がひどく、穀物は実らず、人民は飢えて逃亡する者が多かった。使者を派遣して、穀物
 倉を開いて彼らに施し与えた⑨
」との記事がある。381年には旱魃があり、389年と399年に蝗の発生と疫病が流行したが、救民
 措置はとられなかった。397年、「北部地域の何瑟羅では日照りが続き、蝗が発生したので、穀物は実らず、人民は飢えた。そ
 こで囚人を赦し、1年間租と調を免除⑩した」との記事が見える。

  第18代金実聖尼師今(在位402~417年)の期間には旱魃等の記事はあるが救民したとの記述は見られない。

  第19代金訥祇麻立干(トツギマリツカン)(在位417~458年)の治世には、420年「秋7月、早霜が降りて穀物を枯らしたので、人民は
 飢えて、
子や孫を売る者さえ現れた22 」あるいは432年「春穀物が高騰して、人々は松の樹皮を食べた」といった具体的な記事
 のほか自然災害が起きたとする記述が見られるが救民措置をとったとの記事は見られない。

  第20代金慈悲麻立干(在位458~479年)の時代、蝗の発生や疫病の流行に対しては、救民措置は記されていないが、469年に
 「国の西部で起きた洪水による被災に対しては、王が被害を受けた地域を巡幸し住民をいたわった」と記されている。

  第21代金、p知(ショウチ)麻立干(在位479~500)の治世では、480年に「人民が飢え苦しんだので、倉庫の穀物を放出して、施し
 与えた⑪
」、483年「大水が出たので一善地方に巡幸して被災者を慰問し、応分の穀物を賜った⑫」、488年「一善郡に行幸し、
  鰥寡(ヤモメ)・孤独な者を慰問し、それぞれ応分の穀物を賜った⑬」という複数の救民記事が見られる。

  第22代金智證麻立干(在位500~514年)の治世では、505年「初めて役人に命じて氷を保存させ、また水運の便を図らせた」
 という記事が特筆できる。506年には「旱魃被害に対して穀物倉を開いて施しを与えた⑭」とある。

  第23代から「王」を称することになる。法興王(在位514~540年)の時代に新羅独自の年号が用いられるようになる。531年
 「役人に命じて堤防(碧骨池か)を修理させた」とある以外人民慰撫の記事はない。

 第24代真興王(在位540~576年)、第25代真智王(在位576~579年)の治世下旱魃や大雪の記述はあるが救民したとの記事は見
 えない。

  第26代真平王(在位579~632年)のとき、589年「国内西部で大水が出て人家30360戸が流されたり浸水したりして、死者が
 200余人にも達した。王は使者を派遣し、彼らに施し与えた⑮」とある。また596年「永興寺が火災にかかり、付近の民家350
 家を類焼した。王は自ら現場に出かけ、罹災者たちを救援した」との記事がある。さらに628年「夏ひどい旱魃であった。秋か
 ら夏にかけて
人民が飢え、子女を売るほどであった」という記事も見えるが、旱魃などの災害に対し、救民したという記述は
 見られない。

  第27代は真平王の長女が即位し、初めての
女王・善徳王(在位632~647年)となった。632年「使者を全国に派遣し、鰥寡や
 孤独な者で自立できない者を慰問し、施し与えた⑯
」という記事が見えるだけだ。善徳女王は今や韓国社会では誰ひとり知らな
 い者はいないという有名な新羅王の一人となっている。彼女を主人公にした韓流歴史劇が視聴率40%を超えるという大ヒットテ
 レビドラマとなったからである。ところが『三国史記』の善徳女王の項には「物語」になるような味わいのある話はまったく書
 かれていない。その何もないところから全62話の歴史ドラマを紡ぎだすのだから韓国人の想像力は凄い。しかもそれが一見真実
 の歴史を描いているかのように仕立て上げられているのだからそのテクニックには舌を巻くのである(宮脇淳子著『韓流時代劇と
 朝鮮史の真実』より)。

  第28代
真徳女王(在位647~654年)、第29代太宗武烈王(在位654~661年)、第30代文武王(在位661~681年)の間の記事は
 ほとんどが百済と高句麗との戦争、朝鮮半島統一関連のもので、旱魃や洪水などの自然災害はもちろん人民救済に関する記述は
 ないが、統一が成った翌年の669年、「夏5月、泉井郡、比郡、連の3郡の民が飢えたので、倉庫を開いて恵み与えた⑰」という
 記事が見える。また、670年には「漢祇部の婦人が一度に3男1女を産んだので、栗200石を賜った」とする記事が久しぶりに見
 える。

 22.当時、子や孫を売ってそれが金銭に替り食糧を買えるとは考えられないので、高句麗や百済で出てくるように、お互いに子や孫を交換して食べ
 たと見るのが妥当である。高麗は新羅から禅譲を受けて成立した王朝という建前になっているため、「食人」を直接表現することは憚られたのであ
 ろう。

  第31代神文王(在位681~692年)、第32代孝昭王(在位692~702年)の治世下では災害記事はあるが、救民記事はみられない。

  第33代聖徳王(在位702~737年)の時代には、705年「国の東部の州・郡で飢饉になったので、人々が多く流浪・逃亡した。
 使者を派遣し人々に施し恵んだ⑱」とある。さらに707年「春正月、多くの人民が餓死したので、栗を1人1日あたり3升配給し、
 7月まで続けた⑲
」とある。在位期間が長いのでその間多くの自然災害に見舞われたが、祈祷によって救われたなどの記事が見られるだけである。

  第34代孝成王(在位737~742年)には災害がおきたとの記事はない。

  第35代景徳王(在位742~765年)の時代、747年秋の旱魃によって「国民が飢え、その上病気が流行したので、使者を十道に
 派遣し人民を安撫させた⑳
」とある。755年春には、「穀物が高く国民が飢えた。熊川(ユウセン)州の向徳は貧乏で親を養えなかっ
 た。そこで
ⅲ彼は自分の股肉を切って、父親の食糧にあてた。王はこれを聞いて、大変多くの賜物を与え、旗を村の門に立てさ
 せた」という面白い記事がある。この王の治政間、多くの自然災害記事があるが救民したという記述は見られない。また、742
  年と753年に日本の使者がきたがこれを拒否したとの記事がある。この王の時代は唐への服属体制が強化され、日本・新羅の
 関係が冷え込んだ時代であった。

  第36代恵恭王(在位765~780年)は、幼少のときに王位に就き、壮年になると音楽と女色に溺れ節度なく遊びまわった。綱紀
 がすっかり乱れ、天災地変がしばしば現れ、人心が離反したと記されており、叛乱と唐への朝貢の記事で埋められている。この
 王は王妃と共に反乱軍によって殺された。

  第37代宣徳王(在位780~785年)には災害記事が見られない。

  第38代元聖王(在位785~798年)の治世下では、786年「9月王都の民が飢えたので、栗33240石を放出し、これを施し与え
 た
21」、「10月栗33000石を放出して与えた22」とある。788年「秋、国の西武が旱魃になり蝗が発生し、盗賊が多く現れた
 ので、王は使者を派遣してこの地方を安撫した」とある。789年「漢山州の民が飢えたので、栗を放出して彼らに与えた
23」と
 ある。790年「5月栗を放出して、漢山、熊川二州の飢えた民に施した24」とある。796年「春、王都は飢えに苦しみ、病気が
 流行したので、王は米倉を開いて人々に施し与えた
25」とある。
 791年、熊川州の向省大舎の妻が、一度に3人の男の子を産んだ」、798年「屈自郡の石南烏大舎の妻が一度に3人の男子と1人
 の女子を産んだ」とする記事があるが、褒賞はされていない。

  第39代昭聖王は1年の在位であり、特筆記事はない。

  第40代哀荘王(在位800~809年)には、災害及び人民救済の記事はない。806年と808年「日本国の使者が来朝したので、王
 は正式の儀礼で鄭重に待遇した」とある。渤海(698~926年)の興隆などによって新羅の国力が相対的に低下していることを
 示していると考えられる。哀荘王は叔父によって殺されている。

  第41代憲徳王(在位809~826年)の時代には旱魃や大雪があったが救民記事はない。821年には「春、人民が飢え、
ⅳ子や孫を
 売って、自分だけ生き延びた
」という記事が見られる。

  第42代興徳王(在位826~836年)の時代には旱魃などの災害がたびたび起きたとの記事があるが、米倉を開いて施したといっ
 た記事は見られない。ところが834年「王は国の南部の州・郡を巡幸して、老人や鰥寡や孤独者を慰問し、分に応じて穀物や布
 を賜った
26」とする記事がある。

  第43代僖康(キコウ)王(在位836~838年)、第44代閔哀王(在位838~839年)、第45代神武王(在位839年)は、短命政権で、部下
 の反乱によってそれぞれ自殺、殺戮、病死しており、人民を見守るような記事はない。
 
  第46代文聖王(在位839~857年)の治世下では、日照り、疫病、洪水、蝗発生が起きたとの記事があるが、救民措置はとられ
 ていない。

  第47代憲安王(在位857~861年)のとき、859年「春、穀物が高く、人々が飢えたので、王は使者を派遣し、穀物を与え救っ
27」とある。また「夏4月、命令を下して、堤防を完全に修理し、農業を振興させた」とある。

  第48代景文王(在位861~875年)の治世下では、疫病、大水、凶作などの記事はあるが、穀倉を開いて救民したとの記事は少
 ない。ただ867年「冬10月、使者を派遣し、道ごとに安撫・慰問させた」とある。873年、「春、人民が飢えて疫病が流行した
 ので、王は使者を派遣して、穀物を与え救った
28」とある。

  第49代憲康王(在位875~886年)、第50代定康王(在位886~887年)には災害及び救民記事はない。

  第51代
真聖女王(在位887~897年)は善徳女王、真徳女王以来の3人目の女王である。治世は10年にも及んだ。災害の多かっ
 たことは記されているが救民記事は見られない。888年「女王は少年や美丈夫2,3名を密かに宮廷に引き入れ淫乱を極めた。そ
 してその者たちに要職を授け、国政を委任した。そのため阿(オモネ)り、諂(ヘツラ)い、ほしいままに振る舞い、賄賂が公然と行われ、
 賞罰が公正ではなく、政治の綱紀が弛み崩れた」という記事がある。

  第52代孝恭王(在位897~912年)、第53代神徳王(在位912~917年)、第54代景明王(在位917~924年)、第55代景哀王(在位
 924~927年)、第56代敬順王(在位927~935年)の時代には、災害・救民の記述はなく、新羅滅亡の過程を辿ったものである。
 935年12月「太祖は敬順王を封じて正承公となし、その位を太子の上におき、俸禄1000石を給した」とあり、これによって、新
 羅は滅び、高麗へと移る。

(2) 高句麗
  高句麗の建国は三国の中で唯一史実と一致するBC37年と考えられている。始祖は東明聖王(在位BC37~BC19年)といい、『朱
 蒙』という韓流歴史ドラマのタイトル及び主人公の名で有名だ。総製作費約30億円という映画並みの巨費を投じてつくられた超
 大作である。東明聖王に関する神話を、現代的な物語にアレンジし、衣装や鎧、建築物、戦闘スタイルに至るまで時代考証を完
 全無視したきらびやかさと近代的美しさが盛りだくさんというエンターテイメント化が功を奏して、平均視聴率40%超というテ
 レビドラマとしては驚くべき数値を叩きだした。

  韓国のテレビ局には「衣装考証諮問委員会」なるものが存在するというのだが、王族はもちろん庶民の服装は李氏朝鮮時代の
 ものよりはるかに立派で、戦士は鉄鋼の鎧を纏い、馬まで装甲に覆われている。ローマあるいは中世ヨーロッパの甲冑を模した
 以上に、むしろ機動戦士ガンダムのような近未来的とさえいえるデザインなのである。

  ところが宮脇淳子によると、ある会合で在日韓国人の医師が次のように言ったという。
  「『朱蒙』を見て、わが国には素晴らしい歴史があったことを初めて知りました。非常に勉強になりました」日本に住んで医
 師というインテリでさえこうなのだから、韓国に住む一般韓国人は推して知るべきであろう。

  『朱蒙』という番組は、支那との間において高句麗の帰属問題で争いの一因となったことでも話題となった。現在の支那北部
 の東北地方は本来朝鮮に帰属するというのが韓国側の主張で、そのために実在しなかったことが明確になっている古朝鮮という
 国を設定し、扶余とか沃沮などの東北アジア諸部族の国まで古朝鮮から発した朝鮮民族の分国とし、さらには『朱蒙』のドラマ
 では古朝鮮の版図が南京付近まで及ぶという地図が使われているのだから呆れてしまう。

  朱蒙も新羅の始祖朴赫居世と同じく卵から生まれたことになっている。なおこの治世には人民統治に関する記述はない。
  第2代瑠璃明(ルリメイ)王(在位BC19~AD18年)、第3代大武神王(在位18~44年)、第4代閔中王(在位44~48年)、第5代慕本王(
 在位48~53年)の時代には、災害記事は若干あるが、救民などに関する記述は皆無である。

  第6代大祖大王(在位53~146年)は94年もの長い期間統治した。王都に洪水や旱魃などの自然災害があったことが記されてい
 る。108年「春、ひどい旱魃になった。夏になると草木が全くなくなり、人民が飢え苦しんだ。王は使者を派遣し、施し恵んだ
 ①
」 とある。118年には「8月、役人に命じて、賢人や善良な人、孝行な人たちを推挙させ、鰥寡や孤独な老人で自活できな
 い者を慰問し、衣服や食糧を与えた②
」とある。121年、「冬10月、王は扶余に行幸し、大后の廟を祀った。このとき困窮して
 いる人たちを慰問した。賜物には分に応じて差異があった③
」とある。

  第7代次大王(在位146~165年)、第8代新大王(在位165~179年)には災害・救民の記事はない。

  第9代故国川(ココクセン)王(在位179~197年)には194年「秋7月、霜が降りて穀物を枯らした。人々が飢えたので、穀倉を開いて、
 施し恵んだ④
」また同年「王は内外の役人に命じて広く鰥寡・孤児・老人・病人・貧乏で自活できない者を探し救済させた⑤
 役人に命じて、毎年春3月から秋7月まで、国の穀物を家族数に応じて施し貸し、冬10月に回収させた。この方法を恒式としたの
 で、王都でも地方でもたいへん喜ばれた」とある。

  第10代山上王(在位197~227年)、第11代東川(トウセン)王(在位227~248年)の記述には、王位争いや支那の三国時代の争乱に
 関わることが多く、災害・救民の記事はない。

  第12代中川(チュウセン)王(在位248~270年)には災害記事はあるが、救民記事はない。

  第13代西川(セイセン)王(在位270~292年)には273年「秋7月民が飢えたので、穀倉を開いて施し与えた⑥」とあり、そのほかに
 も旱魃があったことを記している。

  第14代烽上(ホウジョウ)王(在位292~300年)は気ままで疑い深い人物であったと批判的に描かれている。298年「秋9月、霜や雹
 が降り穀物を枯らしたので、人民は飢えた」とあり、300年「2月から秋7月まで雨が降らず、穀物が実らず、ⅴ
人民が互いに殺
 して食べた
」という記事がある。天災がしきりに起こり五穀も実らない中でも、この王は宮殿の改築工事に人民を駆り出し、群
 臣に諌められても聞く耳を持たなかったため、終に群臣らによって自殺に追い込まれたという。

  第15代美川(ビセン)王(在位300~331年)は在位期間が長いが災害・救民記事はない。

  第16代故国原王(在位331~371年)の332年、王は「百姓の老人や病人を見舞い施し与えた⑦」とある。この王の時代、災害
 記事が一つあるが救民したとの記述はない。

  第17代小獣林(ショウジュウリン)王(在位371~384年)の378年、「旱魃で人民が飢え、ⅵ
互いに殺して食べた」とある。

  第18代故国壌王(在位384~392年)にも389年「春、ⅶ
人民が飢えて、人々は互いに殺し合って食べた。王は穀倉を開いて施
 し与えた⑧
」とある。

  第19代が有名な広開土王(在位392~413年)である。406年「秋7月、蝗が発生し、旱魃となった」とするが、救民記事はない。
 百済、契丹、燕と戦って大いに勝ったとする記事はあるが、日本と戦ったことを示す記述はない。

  第20代長寿王(在位413~491年)の治世は長いが、外交のことに関する記述ばかりで、災害・救民記事はない。

  第21代文咨明(ブンシミイ)王(在位492~519年)の時代、495年「ひどい旱魃になった」とあるが、救民記事はない。499年、「百
 済の人々が飢え、2千人がやってきた」とある。502年、蝗が発生したとあるが、救民したとは記されていない。

  第22代安贓(アンゾウ)王(在位519~531年)の523年「春、旱魃になった」、「冬、飢饉がおこったので、穀物倉を開いて与え救っ
 た⑨
」とある。

  第23代安原(アンゲン)王(在位531~545年)の時代には洪水、疫病、台風、蝗の発生など自然災害記事が多いが救民記事は一つだけ
 で、537年「春3月、人民が飢え、王は慰問視察を行い、与え救った⑩」とある。

  第24代陽原王(在位545~559年)には災害・救民記事はない。

  第25代平原王(在位559~590年)の時代には、大水、旱魃、蝗、霜・雹などの自然災害が多発した。571年、「8月、宮殿を修理
 したが、蝗が発生し、旱魃になったので工事を中止した」、581年「冬10月、人民が飢え苦しんだので、王は巡り歩き、慰め恵ん
 だ
」、583年「2月、布告を出して、不急の事業を減らさせ、使者を郡邑に派遣し、農耕と養蚕を奨励させた」の記事が見られ
 る。比較的名君である。

  第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位590~618年)の時代は隋が勃興したときであり、戦争・外交に関することが詳述されており、人民統治
 に関する記事はない。

  第27代栄留王(在位618~642年)の時代、隋がほろんで唐が興ったためか、唐との外交折衝についての記述が多く、災害・救民の 記事はない。

 第28代宝贓王(在位642~668年)は高句麗最後の王で、唐の太宗、高宗によって滅ばれる経緯を詳述しているのみである。


 (3) 百済
   百済の始祖は、高句麗の始祖・朱蒙の次男の温祚王(在位BC18~AD28)となっている。この始祖王の在位間、しばしば旱魃、
 疫病などの災害があったと記されている。AD15年「春夏ひどい旱魃になり、国民が飢えて、ⅷ
互いに殺して食べ、盗賊がいた
 るところに現れた。王は人民を巡撫・慰安した」という記事がある。20年「3月、使者を派遣し、農業や養蚕を勧め、不急のこ
 とで農民に苦労をかける役人は免職にした」という記事があるだけで穀物を配給したことなどの救民記事はない。

   第2代多婁(タル)王(在位28~77年)の治世では、33年「2月、国の南部の州郡に、初めて稲田
23 を作らせた」という記述があり、
 注目される。38年「秋、穀物が実らなかったので、人々が勝手に酒を醸造するのを禁止した」とあり、冬10月、王は東西両部を
 巡視・慰撫し、貧乏で自立できない者には、一人あたり2石の穀物を与えた①」とある。


23.稲田:朝鮮で田というのは日本の畑の意味で、沓というのが日本の田に相当する。したがって陸稲を指すと考えられる。朝鮮での水田稲作の普及
 は、李氏朝鮮中期以降である。


   第3代己婁(コル)王(在位77~128年)の時代も、旱魃・水害・地震などの災害記事の多さが目立つ。108年「春夏、旱魃が続き、
 穀物が乏しく、ⅸ
人民は互いに殺し合って食べた」とあるが、救民措置の記述はない。

   第4代蓋婁(ガイル)王(在位128~166年)には災害・救民記事はない。

   第5代肖古(ショウコ)王(在位166~214年)には、208年「秋、蝗の害と旱魃で穀物が実らず、盗賊が多く現れたので、王は人民
 を慰撫した」とある。

   第6代仇首(キュウシュ)王(在位214~234年)の時代には洪水・旱魃などの災害記事はあるが人民を救済したとの記述はないが、
 222年「春2月、役人に命じて堤防を修理させた」、「農業を勧めるよう布告を出した」と記されている。

   第7代沙伴(サハン)王(在位234)は在位の記録のみである。

   第8代古尓(コニ)王(在位234~286年)の治世では、旱魃がしばしば起きたと記しており、248年「春、旱魃が続いた。冬、民
 が飢えたので倉を開いて、施し恵み、また、1年間の租・調を免除した」とある。また、242年の記事には「春2月、国人に命じ
 て、稲田を南沢に拓かせた」とある。

   第9代責稽(セキケイ)王(在位286~298年)、第10代汾西(フンセイ)王(在位298~304年)には人民統治の記述はない。

   第11代比流(ヒリュウ)王(在位304~344年)の時代には旱魃や蝗災害がしばしば起きたように記されており、312年「春2月、使
 者を派遣し、百姓の疾苦を巡問させ、鰥寡や孤独な者で、自分で生活できない者には、穀物を一人当たり3石賜った②」とある。
 331年「春夏、ひどい旱魃が続き、草木は枯れ、漢江の水もなくなった。秋7月になってようやく雨が降った。穀物が実らず、
 ⅹ
人々は互いに殺して食べた」とあるが、救民措置の記述はない。

   第12代契王(在位344~346年)は即位の紹介記事だけである。

   第13代近肖古王(在位346~375年)は外交・軍事のことを簡単に記すのみである。この王が歴史的に実在の確認できる最初
 である。

   第14代近仇首王(在位375~384年)では、疫病の流行、旱魃の記事があり、382年「春、雨が6月まで降らず、国民が飢え
 て、xi
子供を売る者まで現れたので、王は国庫の穀物を出して、売った子供を買い戻した③」とある。

   第15代枕流(チンリュウ)王(在位384~385年)、第16代辰斯(シンシ)王(在位28~77年)には災害・救民記事はない。

   第17代阿・(アシン)王(在位392~405年)には旱魃の記事があるが救民したとの記述はない。397年「夏5月王は倭国と国交を
  結び、太子の腆支を人質とした」、402年「5月使者を倭国に派遣して、大珠を求めさせた」、403年「春2月、倭国の使者が
  やってきた。王は特に鄭重にねぎらい迎えた」といった日本との外交記事がある。

   第18代腆支(テンシ)王(在位405~420年)には417年「夏4月、旱魃があり、人民が飢えた」とあるが、救済したとの記述はな
  い。日本との国交記事がある。

   第19代久尓辛(クニシン)王(在位420~427年)は即位したとの記述のみである。

   第20代比有王(在位427~455年)の時代はしばしば台風、旱魃、蝗などの自然災害が起きている。428年「春2月、王は東
 西南北の4部を巡視・慰撫し、貧乏な者には身分に応じて穀物を賜った④」とある。447年「秋7月、旱魃で穀物が実らず、人
 民が飢えて新羅に流入する者が多かった」とあるが、人民救済措置はとられていない。

   第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位455~475年)、第22代文周王(在位475~477年)には災害等の記事はない。

   第23代三斤王(在位477~479年)にはひどい旱魃があったと記すのみである。

   第24代東城王(在位479~501年)の治世には災害記事が多い。482年「大雪が降り1丈余も積もった」、491年「夏6月、熊
 川の水が溢れ、王都の200余戸が流されたり水没したりした」とある。同年「秋7月、人民が飢え、新羅に逃げ込んだものが600
 余家もあった」、497年「大雨が降り、民家を流したり、水没させたりした」とある。そして499年「夏ひどい旱魃で、人民が
 飢え、xii
互いに殺して食べ、盗賊が多く現れた。臣下や官僚が倉を開いて施し与えようと願い出たが、王が許さなかった。漢山
 地方の人で、高句麗に逃げ込んだ者が2000人もいた」と記されている。その冬疫病が流行し、その翌年も旱魃となったが、王
 は側近と宴を設け歓楽をきわめたとの記事が見える。

   第25代武寧王(在位501~523年)の時も災害が多い。502年「春、民が飢え、そのうえ疫病まで流行した」とあり、506年
 「春、疫病が大流行した。3月から5月まで雨が降らず、川も沼も枯れた。民が飢えたので、倉を開いて与え救った
。521年
 「夏5月大水が出た。秋8月、蝗が穀物を食い荒らし、民が飢えて、新羅に逃亡した者が900戸もあった」とある。

   第26代聖王(在位523~554年)及び第27代威徳王(在位554~598年)の治世は長いが、外交と軍事に関する記述のみである。

   第28代恵王(在位598~599年)、第29代法王(在位599~600年)のときは600年にひどい旱魃の記事があるだけである。

   第30代武王(在位600~641年)には旱魃と洪水の記事が多く見られるが、救民記事はない。

   第31代義慈王(在位641~660年)は百済最後の王である。653年「春、ひどい旱魃になって国民が飢え苦しんだ」、657年「夏4月、ひどい旱魃になって、草木がすっかりなくなった」とあるが、滅亡の過程を描いた戦争を主体とした記事が大半を占める。


7 以和為貴(まとめ)
  『日本書紀』・『続日本紀』と『三国史記』はそれが作られた背景も事情も大きく異なることから単純な比較は適切ではない
 が、「古代における社会保障」あるいは「古代における統治者と人民の関係」を大掴みにすることはできる。
  日本においては697年から806年までの約110年間の間に起きた旱魃などの自然災害時に213回も人民救済の措置をとってい
 る(年平均2回)。朝鮮半島ではBC57年から935年の約1000年間に、新羅・高句麗・百済合わせてわずか44回の救民措置しか記
 述されていない(年平均0.04回)。さらに日本の多くの救済記事はとられた措置が具体的であるのに対し、朝鮮においては具体的
 な救援内容があるのはほんの一部しかない。日本では律令によって制度化されていた「賑給」又は「賑恤」が、朝鮮においてはそ
 のときの支配者の気分や考え方で行われていたと考えられる。

  朝鮮半島では旱魃時にかなり頻繁に「食人」が行われていたことも特異的である。『三国史記』のそれらしき記述だけでも12
 回を数える。「食人」せざるを得ないほどの状況に追い込まれながら、そのような事態にならないように水利改良などのインフ
 ラ整備が行われたような記述は見えず、一方で「民をいつくしむことが政の正道」と言わんばかりの記述があるが、それは支那の
 古典を受け売りしただけにしか思えない。
  日本は縄文時代から多様な人々や文化を受け入れ、弱者や少数者の生存を許容する社会・国家を形成してきた。それは日本語
 特有の謙譲さ・丁寧さを生み、相手の立場を必要以上に忖度して意思を伝えようとする心の働きをDNAの中に刻んできた。「粗
 茶、粗品、愚妻、弊社」等の名詞としての謙譲語や「伺う、頂く、お待ちする、ご相談する」等の動詞としての謙譲語を使うこ
 とに何の違和感をもたないのが日本人である。最近ではさらにエスカレートして「~させてください」という懇願の言葉を謙譲
 の意味で多用している。「これで終わらせていただきます」とは首相の所信表明演説の締め括りの言葉として当然のように思う
 が、外国人が聞けば「首相が演説を終えるには許可が必要なのか?」と不思議に感じるのである。しかしこういった何気ない謙
 遜や謙譲の言葉遣いが、多様な価値観をもつ不特定多数の人々が協同で仕事をするとき、周りに棘のない柔らかな空気を醸し出
 し、「和の精神」を育くんできたと考えられるのである。
  聖徳太子の十七条憲法では、第1条、第10条、第17条にそれぞれの協調を尊ぶ精神が謳われている。そこでは天照大神が主催
 した「天の安の河の河原の会議」あるいは大国主命の「話し合いによる統治権の移譲」の説話に一貫する和の精神がある。

 【十七条憲法】(金治勇著 『聖徳太子の心』より、一部改変)
☆第1条 和を何よりも大切なものとし、諍いをおこさないことを旨としなさい。人は党派を作りたがるものであり、悟りきった人は少ない。だから、君主や父親の言うことに遵うことができず、近隣の人たちともうまくいかないのである。しかし上下の者が協調・親睦の気持ちをもって議論するなら、自から物事の道理にかない、何事も成るものである。

*第15条で、第1条を次のように補足している。〈およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心が起こってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである〉


☆第10条 心の中の憤りをなくし、憤りを顔に出さぬようにし、ほかの人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。人はそれぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。他の人が正しいとすることを自分は不正だと思うし、自分が正しい思うことを他の人は不正だとする。自分は必ず聖人で、他の人が必ず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、誰が定めうるのだろう。お互い誰も賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手が憤っていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかと畏れなさい。


☆第17条 物事は一人で判断してはならない。必ず皆で論議して判断しなさい。些細なことは、必ずしも皆で論議しなくてもよい。重大な事柄を論議するときは、判断を誤ることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、理にかなった結論が得られよう。
 「聖徳太子はいなかった」、「十七条憲法は後世のつくりもの」などといった聖徳太子に関わる虚構説が江戸時代から論じられてきた。しかしこの憲法は『日本書紀』の推古天皇12年4月3日(604年5月6日)の条に「皇太子親肇作憲法十七條」と明確に記載され、『日本書紀』は養老4(720)年に編纂が完了している(因みに『古事記』は和銅5(712)年に編纂)。ということは聖徳太子の時代は編纂開始時期の百年足らず前のことであり、多少の世の中の進歩があったにせよ、変化が緩やかな時代の中で為政者や人民の考え方はほとんど変わらないと考えてよいだろう。
 仮に虚構であったにせよ、それは仁徳天皇の「竈の煙」の説話と同様、十七条憲法に記されたことを在るべき規範とする考え方が当時の大和朝廷に定着していたと見ることができ、そのことが何よりも重要な意味を持っているのである。
 米ソ、支那、韓国に対して諂いにも似た卑屈な外交を続けてきた戦後の政治家やマスメディアには、「和」を唱えながらも大国隋に対してさえ「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と毅然たる外交を行った聖徳太子の気高い精神を思い出してもらいたい。終戦来未だに続く自虐史観に支配された言語・メディア空間の中で、「和の国・日本」が「醜の国・日本」へと変貌しつつあることを憂えざるを得ないのである。(終)


[参考文献等]
① 『全現代語訳 日本書紀』 宇治谷孟 1988年6月 講談社(株)
② 『古事記』 校注・倉野憲司 1963年1月 岩波書店(株)
③ 『全現代語訳 続日本紀』 宇治谷孟 1992年6月 講談社(株)
④ 『日本人ルーツの謎を解く』 長浜浩明 平成22年5月 展転社
⑤ 『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』 小名木善行 平成25年11月 星雲社(株)
⑥ 『日本人の起源』 中橋孝博 2005年1月 講談社(株)
⑦ 『DNAでたどる日本人10万年の旅』 崎谷満 2008年1月昭和堂(株)
⑧ 『三国史記Ⅰ、Ⅱ』 金富軾 訳井上秀雄 1980年2月 平凡社
⑨ 『韓流時代劇と朝鮮史の真実』 宮脇淳子 2013年8月 扶桑社(株)
⑩ 『聖徳太子の心』 金治勇  1986年10月 大蔵出版