本文へスキップ

 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 日米対立への序曲(大東亜戦争への道から)前篇   

                 

注:ゴシック体文字の部分は、正岡が加筆した。なお、チャイナから生じた名称についてはすべて支那又は支(中ではなく)と書き換えている。例えば中国共産党の略である中共については、支那共産党の略であるから「支共」と書き換えている。中華民国の場合はそのままとしている。中村粲氏独特の旧仮名遣いについては、引用部分を除き現代仮名遣いに置き換えた。

緒 言

大東亜戦争とは何だったのか━━。「侵略戦争史観」が世を風靡するなかで、真面目なる多くの国民が心のどこかに抱き続けてきたに違いないこの疑問に対して、本書は一箇の新しい視点と解釈を提供せんとするものである。

 戦後の滔々たる自虐史観の風潮の中で、依然として東京裁判判決を妄信し、あの戦争原因責任ともに日本にありとして、祖国の過誤失点のみを内外に揚言して時を得顔なる学者・言論人が少なくない。彼等の筆になる歴史書・歴史教科書また日本の歴史を出来るだけ醜悪に描くことをもって進歩的なりと自負するかの如くである。

 筆者は、戦争には多くの場合、複雑な史的背景と原因ありと信ずるが故に、かかる一方的な日本断罪史観を認め得ないのである。戦争は多くの些細なる累積因の上に発生するものだ。歴史の中には、他日戦争を導くことになる禍根が随所に散在する。それらの一つ一つが戦争と平和への道を分けてきたと言えるだろう。そのような戦争と平和の分岐点が何処にあったのか━━この小著はかかる問題を考察しつつ、いわばマクロ的な見地から大東亜戦争の意味について思索を促すことを意図するものである。本書が類書と異なる点は、日本の善意や誠実な和平努力に対しても━━たとえそれが、砂汀(サテイ)に描ける文字の如く消え去ったとしても━━正当に評価せんと努めたことであろう。歴史の再検証による自己確認━━畢竟、著者の志はそこにあるといってよい。かといって、大東亜戦争を実際以上に美化するものでないことは、虚心に本書を繙(ヒモト)くならば読者もなお理解し得るはずである。

 “南京虐殺30万”といった荒唐無稽の夢物語が麗々しく新聞の特大文字になるように、今や捏造された戦争犯罪までが日本の罪状に重加算されていく。しかもなお、1千万人といえども祖国の側に立ってペンを振るわんとの耿耿一片(コウコウイッペン:想うことがあって憂える)の気骨は地を払い、学者も文士も報道人も無節操に筆を曲げ、あまつさえ外国と呼応し諜(シメ)し合せてまで祖国誹謗の文を売り、国を売る有様である。

 この浅ましい世情を見るに耐えかねて、筆者は茲に敢えて禿筆(トクヒツ)を執って小冊を綴り、江湖(世間という意か?)に贈る次第である。就中、次代日本を担う青年学徒に本書が教科書の如く読まれ、正しい歴史観を育成し、もって日本に対する愛と認識との出発点たり得るならば筆者の欣幸これに過ぎるものはない。

 筆者は限りなく日本を愛する。静謐なる日本のみならず、民族の生命を燃やし尽くして美しく戦った、かつての日本と日本人の姿をも同じく尊いと思う。

  ますらをのかなしきいのちつみかさねまもるやまとしまねを      三井甲之[1]

 筆者は、戦いに敗れた祖国を呪詛誹謗してきた今に時めく徒輩よりも、祖国を守らんとて悲しい命を積み重ねて死んで逝ったかの日々の多くの日本人同胞と共に在りたいと願う。そしてその日本と日本人に被せられた濡れ衣を払い、冤(エン:濡れ衣)をそそぐことこそ、この日本に生を享け、そこに生き、そこに死んでゆく仕合せを得た不束な小子の、国恩に報いるせめてもの道なりと信じている。類書すでに洲砂夏星(極めて多数なさま)の多きを数うるに拘らず、敢えて小冊子を世に問う所以である。       ~(以下、執筆の経緯等につき略)~

  平成2年葉月16

中村 粲

中村 粲

1934424日~2010623日、英文学者、近代史研究家

東京都出身。1959年東京大学文学部英文科卒業。都立高校教員を経て、1964年より獨協大学に勤務(所属は外国語学部英語学科。1991年、英語学科長を務める)。専任講師、助教授(1971)を経て1987年より教授。20053月定年退職、名誉教授。               (ウィキペディアより)

 

目次(『大東亜戦争への道』全般の理解の理解ために

緒言

序 章 歴史問題

1章 近代日韓関係の始まり

   第1節 排外朝鮮の独善

   第2節 朝鮮の開国

   第3節 開化と事大に揺れる朝鮮

   第4節 独立の気力なき国

2章 日清戦争

   第1節 開戦と戦況の推移

   第2節 清国軍の暴状

   第3節 下関条約と三国干渉

   第4節 日清戦争と朝鮮

3章 日露戦争

   第1節 三国干渉の高いツケ

   第2節 米国の太平洋進出と門戸開放政策

   第3節 露国の南進と日英同盟

   第4節 国運賭した日露の死闘

   第5節 日露戦争と日本人

   第6節 日露戦争の世界史的意義

   第7節 韓国併合への道

4章 日米抗争の始まり

   第1節 満洲における鉄道争覇

   第2節 排日移民問題の発生と軌跡

5章 第一次世界大戦と日本

   第1節 「二十一カ条問題」を見直す

   2節 石井・ランシング協定とは

   第3節 シベリア出兵の視点

   第4節 惨劇━尼港事件

6章 米国の報復━ワシントン会議

   第1節 ワシントン会議の背景

   第2節 会議の成果

7章 国際協調の幻想

   第1節 排日の軌跡

   第2節 外蒙の赤化

   第3節 「現実の支那」の暴状

8章 革命支那と共産主義

   第1節 混迷支那へ赤い爪牙

   第2節 第一国共合作

   第3節 支共の陰謀と国共対立

9章 赤色支那への対応

   第1節 南京事件

   第2節 幣原外交の理想と現実

   第3節 田中外交の北伐対応

   第4節 怪文書“田中上奏文”

   第5節 済南事件

   第6節 不戦条約と自衛権

10章 満洲事変

   第1節 満洲緊迫、柳条湖事件へ

   第2節 四半世紀の累積因

   第3節 事変の経過概要

   第4節 満洲独立運動の虚実

   第5節 事変を生んだ内外因

   第6節 満洲は支那の領土か

   第7節 事変と建国を考える

 

11章 北支をめぐる日支関係

   第1節 塘沽停戦協定

   第2節 日支関係の好転

   第3節 梅津・何応欽協定

   第4節 「三原則」交渉

   第5節 北支自治運動と冀東・冀察両政権

12章 国共内戦と西安事件

   第1節 蒋介石の思想と政策

   第2節 コミンテルンの大謀略

   第3節 西安事件

13章 盧溝橋事件の真相

   第1節 事件の発生と推移

   第2節 日本軍謀略説の虚構

   第3節 真犯人は誰か

   第4節 不拡大への努力

   第5節 惨!通州事件

14章 戦禍、上海から南京へ

   第1節 船津和平工作の挫折

   第2節 第二次上海事変勃発す

   第3節 南京攻略

15章 新「虐殺」考

   第1節 所謂“南京事件”と東京裁判

   第2節 “大虐殺”への疑問

   第3節 「虐殺神話」を生んだ土壌

16章 対支和平の努力

   第1節 トラウトマン工作

   第2節 汪精衛━悲劇の愛国者

 

17章 防共への戦い

   第1節 赤いファシズムの成長

   第2節 日独防共協定━共産主義への防波堤

   第3節 破られた不侵略条約

   第4節 脹れ上がるソ連軍国主義

   第5節 張鼓峰事件━ソ連の対日挑発

   第6節 ノモンハン事件

18章 対米関係悪化のへの我が対策

   第1節 米の海軍拡張

   第2節 隔離演説とパネー号事件

   第3節 門戸開放をめぐる日米の相克

   第4節 対日経済制裁と中立法改正

   第5節 北部仏印へ協定進駐

   第6節 日蘭会商と米英の圧力

   第7節 汪政権の承認

8節 三国同盟の選択

19章 日米交渉

   第1節 交渉の開始と停頓

   第2節 南部仏印進駐

   第3節 日米首脳会談への努力

20章 日本の和平努力空し

   第1節 東條内閣の和平努力

   第2節 参戦を焦る米首脳

   第3節 我国、重大譲歩を示す

   第4節 ハル・ノート

   第5節 真珠湾は“奇襲”なのか

   第6節 開戦で安堵した人々

   第7節 128日と日本人

終章 改めて大東亜戦争を思う

事項索引

*目次中、青文字は前篇赤文字は後篇

序 歴史問題とは

   支韓両国への屈服

 戦後、我国最大の問題は歴史問題である。(しかし、ほんの一部を除き我国の政治家はそれに気付かずまた気付こうともしない)前科者の烙印を押された男が一生を日陰者で過ごさねばならないように、歴史を断罪され、“侵略者”の汚名を負わされたままの日本は、国際社会への完全な復権を達成したとは決して言えないであろう。

 歴史問題とは何か。昭和57年に高校歴史教科書の文部省検定に対して支那が内政干渉を行った第一次教科書騒動、昭和61年に内外を騒然とさせた高校教科書『新編日本史』検定に対する支韓両国の干渉、同じ年の「藤尾発言」[i]に対する韓国の、また63年には「奥野発言」[2]に対する支韓両国の抗議と圧力が、我が国当局者をいかに動揺せしめ、卑屈な対応に走らせたかを想起してみればよい。

 昨年(平成元年)も同様の問題が発生した。竹下首相が2月、「(第二次大戦が)侵略戦争かどうかは後世の史家が評価すべき問題だ」と国会答弁したことで生じた混乱を受けて、支那外務省が「日本軍国主義は、かつて侵略戦争を発動し、支那人民とアジア各国人民に巨大な災難をもたらした。この不幸な歴史に対して、我々は歪曲や否定を認めない」と反論してきた。これに対して我が政府は外交ルートを通じて「支那に対しては侵略的事実を否定することはできない」との基本的考え方を伝え、”理解を求める“のにこれ努める有様であった。要するに支那は、後世の史家に待つのではなく、中華人民共和国(支那共産党)の見解に従えというわけである。

 著者はかつてこう書いた。

 ━━「教科書」や「首相の靖国神社公式参拝」が日支間の紛議となるたびに、支那が好んで使う決まり文句が「戦争の加害者と被害者を混同することに反対する」というものだ。この「日本=加害者」「支那=被害者」という図式が、日支近代史に関する「公式史観」の基本構造であり、「教科書」や「靖国問題」に対するあの尊傲な内政干渉的言辞も、所詮は日本を加害者、自らを被害者と信ずるが故に違いない。いや心の底ではそうは信じていまい。そうだということが、自らの立場を強くし日本の立ち位置を最下位に落とす有効な戦術だと見ているからではなかろうか)ところが、多くの日本人もこの支那側公定史観に依拠しており、支那から「日本は加害者としての反省がない」の一言を浴びせられると、たちまち萎縮してしまうのが現下日本の情けない姿なのだ。「支那被害者説」は、今や支那が日本人を己の前に拝跪叩頭せしめる切り札なのであり、この論を承認する限り、わが国は未来永劫、支那に対して主従関係に立つほかない(「支那=被害者の神話」、『諸君!』昭和621月号)━━と。

 一体この“主従関係”に、日本人はいつまで我慢しなければならないのだろうか。

   歴史とは民族の履歴書だ

 そもそも日本人が日本の歴史を描くのに、支那や韓国に伺いを立てる必要は全くないはずだ。「大東亜戦争への道」の『諸君!』連載終了後に某現代史研究家と対談を行ったとき(『諸君!』平成234月号)、その歴史研究家は筆者に反論する際に、しきりに「それでは支那が納得してくれないでしょう」を繰り返すのであった。この先生にとっては、支那が納得し、承認したものが正しい歴史であるらしかった。たしかに、この人の他にも常に支那の意向を忖度しながら、現代史の研究を行っているらしい歴史学者は我国には少なくない。そのような卑屈な精神から生まれる歴史とは━━いや、それはもはや歴史と呼ばれるに値せぬものであろう。

 他国の「理解」や「承認」を得て自国の歴史を書く国はただの一つもない。あるとすれば独立国ではなく属国であろう。大体、支那や韓国の歴史教科書からして、虚実取り混ぜての反日記述だらけであることは周知のことだが、日本がその記述修正を求めたとしたら、彼等は応諾するであろうか。内政干渉として猛然逆襲してくるにきまっている。

 歴史とは民族の履歴書だ。どの民族も国家も、できるだけ暖かく自分たちの過去を見ようとするのは自然なことだろう。だから各国は、それぞれにとって都合のよい歴史を書こうとする。支那の歴史教科書は数十頁を費やして阿片戦争を記述するが、英国の歴史教科書の中には阿片戦争について一行も触れていないものもある。そして、それについて支那が英国に抗議したという話も聞いたことがない。また抗議したからとて、英国が応ずるはずもないだろう。

 歴史とは斯くもナショナルな感情や利益と密接しており、万国に共通の歴史理解など、まずあり得ないといえる。例えば我国とソ連に共通する歴史理解があるものなら、北方領土が返還されぬ理由はないだろう。歴史を「科学」であるとするのは、マルクス主義者の詭弁━━それもせいぜい今世紀限りで通用しなくなるに違いない詭弁である。他国の「納得」や「理解」や「承認」を得て書かれるような歴史は、民族亡滅の墓標としては残ろうが、国家民族の正史として人々の魂と記憶に留まることはないであろう。

(歴史を人文科学の一分野として可能な限り真実に近い史実を調べようとする姿勢を否定しているかのような上記筆者の記述は誤解される恐れがあり、誤解されたならば南京大虐殺や従軍慰安婦を否定する日本の立場は相対化されてしまうので注意を要する)

   大東亜戦争の解釈

 教科書靖国神社公式参拝のみならず、毎年繰り返される卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱をめぐる賛否の議論も、帰するところは歴史評価の問題である。

 そういえば、先帝陛下御不例の頃から喧しくなり始めた所謂「戦争責任論」も同じことだ。そもそも「責任」なる語は、不当不法な行為に関して用いるべきものであり、「戦争責任」と言う以上、あの大東亜戦争を不当なる戦争、すなわち侵略戦争、或は少なくとも無名の師と断ずる立場に立脚しているはずである。それ故、大東亜戦争が侵略戦争ではなく、自衛戦争であったとの結論になれば、その「責任」を論ずること自体忽ち意味を失うであろう。してみれば、「戦争責任」有無の議論の根底にも、やはり歴史観の争いが伏在しており、大東亜戦争の正邪黒白についての検証を抜きにした戦争責任論は、法的責任論にせよ、道義的責任論にせよ、所詮虚獏の論に終わるほかない。

 では一体、大東亜戦争とは何だったのか。それは「東京裁判」の「共同謀議説」や「侵略戦争史観」を援用しなければ説明できない戦争だったのであろうか。

 戦争は国家間の争いであるが、それも結局は人間社会の争いに過ぎない。そうであるなら、すべての個・人間の争いに同じく、双方の主張と立場を過去に溯って突き合わせ、時間の経過に従いつつ、両者の関係が変化し、推移してきた跡を辿ってみるなら、戦争についての納得のゆく解釈と評価が得られるはずであり、事実を理論に従属させる政治イデオロギ━━としての侵略戦争史観など全く必要としないのだ。

 筆者は大東亜戦争の構造を分析し、遡源することによって、門戸開放主義をめぐる日米抗争及び共産主義との戦いという二つの大きな筋道を探り当て、この二大潮流が合して高まる極頂点に大東亜戦争を定位することを得た。

 本書は、この大東亜戦争解釈を、多くの歴史的事実によって裏付けんとする試みであると言ってよい。それはマルクス・レーニン主義に基づく史観の如く、あらゆる歴史的事象を説明せんと欲張る観念的な歴史観とは異なり(マルクス・レーニン主義の破綻と誤謬は今我々が知るごとく、歴史自体によって立証されつつある)、あくまでも大東亜戦争に至る歴史の分析から得られた解釈であり、大東亜戦争限りの歴史解釈である。漠然たる歴史観とは全然別のものであることを申し述べておく。

   戦後の禁忌を冒して

 人間関係が複雑であるのに対応して、国家間の争いである戦争の歴史と背景も複雑なものだ。一方を“加害者”他方を“被害者”と単純に割り切ることは真実を歪めることになる。

 従来、日本のみを“加害者”とし、支那や韓国を“被害者”として扱う定式がこれら両国の公定史観となっており、これに異を唱えることは、我国の学界、教育界、言論界において禁忌(タブー)とされてきた。だが本稿は、この禁忌に触れることもあえて書く積りである。世の中のすべての争いには、当事者双方に幾分かずつの責任があるのが普通だからである。

 右のことは、複雑な歴史的背景を持つ戦争において、殊更当てはまるであろう。歴史に対する責任の問い方にはいろいろある。武力の行使だけではなく、懈怠や退嬰内訌や腐敗排外、違約背信領土的野心互譲精神の欠如なども、国際関係を悪化させ、歴史を混迷に導く重大因子であり、それ相応に歴史に対して責任があろう。戦争責任というものがあるとすれば、それはこのような広義における歴史に対する責任を含むものでなくてはならぬ。これについて筆を曲げたのでは真実は埋没する。戦争の原因は何処に、責任は何れに━━。本書は禁忌を冒して直筆直言してゆこうと思う。

 では「大東亜戦争への道」を語ることにしよう。これは「侵略戦争史観」への疑義を前提とする近代史再検証への一つの試みである。迂遠のようだが、戦争の史的背景を重視する立場を取る筆者は、どうしても近代化への一歩を露出した明治日本と清韓両国との関係から説き起すというお決まりの型を踏襲せねばならない。

************************************************

1 米国の太平洋進出と門戸開放政策

   アメリカの「新しき国境線」

 1898(明治31)という年は、列強が貪欲に清国を侵奪した年であった。米国はこの侵奪には加わらなかったが、この年は米国にとっても「劇的な転換期」であったと言われている。何故なら、この年に米国は米西(スペイン)戦争でキューバを保護国とし、プエルト・リコを獲得してカリブ海支配の基礎を固めたのみならず、遠く西太平洋に進出してグアムを獲得、更にはフィリピンまでも領有するに至ったからである。その上、米西戦争はハワイ併合の気運を高め、18988月、ホノルルで米布併合式が挙行され、ハワイ政庁に星条旗が翻ることになった。

 斯くして、1850年カリフォルニア沿岸を西の国境とした米国は、1898年には一挙に西太平洋に勢力範囲を拡大し、ハワイ、グアム、フィリピンを結ぶ線をもって「アジアにおける新国境」を設定したのであり、極東に対する米国の関心と介入はここに新しい時期を画すことになった。

   ハワイ保護化への決意

 大東亜戦争が、我が海軍の真珠湾攻撃をもって開始されたことは周知の事実だ。だがこれには、ハワイをめぐる日米の深い因縁を考えてみなくてはならぬ。米国の太平洋に対する関心は1872(明治5)に始まったとしてよいだろう。なぜならこの年、米海軍士官メードはサモア諸島中ツツイラ島のパゴ・パゴ港を根拠地にすることを企て、また陸軍長官はホノルル港を軍事目的で調査するよう指示しているからだ。

 右の調査の結果、真珠湾(当時は真珠川と呼ばれた)の軍事的価値の大きいことを知った米国は真珠湾の割譲をハワイ政府に要求したが、ハワイ島民の強い反対で交渉は失敗した。だが米国はハワイに強圧を加え、1875年に結んだ米布互恵条約によって、真珠湾の使用、改築及び必要な施設建造に関する「絶対権」を獲得した。1898年の併合以後、真珠湾は次第に近代的に改装されていく。1922(大正11)のワシントン海軍軍備制限条約によっても、ハワイは英国のシンガポールと共に防備凍結の対象外とされた。

 その後ハワイは航空基地としても重要性を加え、莫大な予算で飛行場が建設され、太平洋における米国の最重要の前哨基地となった。大東亜戦争劈頭、我が軍の攻撃を真先に受けることになったのは、右のような真珠湾の歴史と無関係ではない。

 ハワイに対する米国の政治的関心と決意のほどは、1881(明治14)12月、国務長官ブレーンがハワイ駐在の米公使に与えた訓令が疑問の余地なく伝えている。

真珠湾(ウィキペディア)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0b/Pearl_Harbor_aerial.jpg 即ちそれは「ハワイの軍事上の枢要な位置から見て、同島の占領は全く米国の国策上の問題であり、その独立を侵さずに、事実上ハワイを米国の一部としてしまうには米布間の密接な結合を必要とする。最近のハワイ人口の減退をハワイ政府は憂慮しているが、その解決策としてアジア人をもってハワイ人に代え、ハワイをアジア的制度に結合するのは良策ではない。もし自存できないなら、ハワイは米国の制度に同化すべきであり、それは自然法と政治的必要の命ずるところである。米国はハワイの中立を期待するが、ハワイの中立維持が困難になった場合は、米国は断然たる処置をとることを躊躇するものではない」として、ハワイが米国の勢力圏から離れてアジア(日本を指す)に依存せんとする場合、いつでも占領する決意を表明しているのである(以上は吉森実行『ハワイを繞る日米関係史』に依拠した)

   カラカワ王の絶望━━日布秘史

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/23/Kalakauapainting.jpg ところで、この国務長官の訓令の裏には、今日秘史として伝えられる次の出来事が生んだ疑心暗鬼があったと考えて間違いない。

 この年、即ち明治14年の3月、折から世界歴訪の途上にあったハワイ国王カラカワが来日した。我国では上下を挙げて歓迎したが、実はこの折、カラカワ王は密かに明治天皇を赤坂離宮に訪問し、懇談するところがあった。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Kaiulani_in_San_Francisco%2C_ca._1897_%28PP-96-8-010%29.jpg/640px-Kaiulani_in_San_Francisco%2C_ca._1897_%28PP-96-8-010%29.jpg 王は、近年ポリネシア族が減少するに反して西洋人が増加し、その勢力がハワイに深く浸潤しつつあることを憂え、この際ハワイ王国の命脈を保つには「日本帝国の如き強国の協力を仰ぐ他に道なし。ハワイは今や、主要産業たる甘藷耕作に適し、しかも同化し得る移民を迎えて、一に興産、二にポリネシア民族の衰退を補い、もって白人勢力に抗する他なく、日本人はこの双方に最適の人種たるを疑わず。何卒天皇陛下には右事情を酌量し賜い、ハワイの滅亡を救われたし」と切々真情を訴えた後、自分には王子がないが、王姪カイウラニが高邁な資質を備えているので、やがては彼女に王位を継がせる積りで、優れた配偶者を希望している。就いては山階宮定麿親王(当時13)を立派な皇族と拝するのでカイワラニ(当時5)との縁組を御聴許されたいと、重大な希望を申し出られたのであった(『ハワイ日本人移民史』、黒羽茂『日米抗争史の研究』より再引用)

カラカワ王(上)とカイウラニ(下)
(ウィキペディア)
 王は米国のハワイ征服を惧れ、日本皇室とハワイ王室の縁組によってハワイ併合を阻止せん、と切望したのである。

 前例のない重大事であるため、明治天皇は慎重に考慮されたが、翌年、特使を派遣してこの縁組を断られた。理由は、外国王室との縁組が日本皇室の慣例にないこと、又、日本が米国の勢力圏に立ち入るような結果を招くのは好ましくない、というものだった。

 

 

 

   「日本を盟主に亜細亜連盟を」

 右の明治天皇とカラカワ王の密談については『明治天皇紀』に詳細に記録されており、それによれば会談は明治14311日、外務卿井上馨を通訳として行われた。

 その折、カラカワ王は「欧州諸国は、ただ利己をもって主義と為し、他国の不利、他人の困難を顧みることなし。而して、その東洋諸国に対する政略においてはよく聯合、協同す。然るに東洋諸国は互いに孤立して相援けず。又欧州諸国に対する政略を有せず。今日、東洋諸国が、その権益を欧州諸国に占有せらるる所以は一に此れに存す。されば東洋諸国の急務は、聯合同盟して東洋の大局を維持し、もって欧州諸国に対峙するにあり。而して今や、その時機到来せり」とアジア諸国の連合が喫緊の要事であることを説き、更に進んで

「弊邦は大策を企画するの力なし。然るに貴国は聞知する所に違わず、その進歩、実に驚くべきのみならず、人民多くしてその気性また勇敢なり。故に亜細亜諸国の聯盟を起さんとせば、進みてこれが盟主たらざるべからず。予は陛下に臣事して大いに力を致さん」

と述べ、日本が盟主になって、清、シャム(タイ)、ペルシャ、インドなどアジア諸国連盟を起すべきことを切言した。

 これを拝聴された明治天皇は「我が邦の進歩も外見の如くには在らず。殊に清国とは葛藤を生ずること多く、彼は常に我が邦をもって政略の意図ありとなす。既に清国との和好をも全くすること難し。貴説を遂行するが如きは更に難事に属す。尚、閣臣等に諮り、熟考して答うべし」と答えられた。

 『明治天皇紀』は、カラカワ皇帝がこの他、日本・ハワイ両国間に海底電線を敷設することと、皇姪カピオラニー(カイウラニ)と定麿王の婚姻を切望されたが、「抑々(ソモソモ)東洋諸国聯盟のことたるや、清国が日本国の盟主たるを肯ぜざるは明らかのみならず、シャム・印度の如きは相距たること遠く、かつ言語・風俗全く同じからざるをもって望み難し。海底電線架設のことは、すでに米国人の請う所ありて、これに補助を約せることあり。又、外国皇帝と婚家を通ずることも、累を将来に及ぼすの処なきにあらず。これをもって、外務卿は三事みな言うべくして行われ難しとせり」と記している。

 明治天皇のカラカワ王に対する勅答は、翌明治153月、宮内権少書記官・長崎省吾に託して捧呈された。天皇の親翰は「亜細亜聯邦」(カラカワ王の提唱せる「アジア諸国の聯盟」のこと)に関することのみで、「亜細亜聯邦」の事業は広大悠遠であり、アジア諸国の実情も、風土、言語、人情それぞれ異なり、「これを思えば弥々(イヨイヨ)遠く、これを謀るは益々難し。況や、不肖、何をもってよく盟主の重任を負担するを得んや」と鄭重に盟主のことを謝絶なされ、また明治23年に国会開設を控え、内政煩多の折であるのに「朕、一朝これを放棄し去って、力を異邦の事に専らせんとするは朕が敢えて為すに忍びざる所」として「亜細亜聯邦構想」を実現することの困難であることを述べられた。

 定麿親王とカイワラニ姫の婚姻の困難であることや、海底電線及び移民の件については井上馨が返事を認めて長崎に託した(以上は難波江道泰論文「布哇王国皇帝の明治天皇との御密談について/大東亜共栄圏の首唱」に拠った)

 右は要するに、カラカワ皇帝は日本を盟主とする大アジア主義を提唱したのであり、これは後年、我国自身が提導することになる大東亜共栄圏構想の素朴な萌芽であると見てよいだろう。

 白人帝国主義に対抗するための我国を中心とする斯くの如き大アジア主義が、それを最も必要とするはずの清国・朝鮮などからは嫉視或は危険視され、波涛千里を隔てたハワイの国王から切望された事実は、歴史の皮肉を痛感させずには措かない。

   ハワイ王朝の滅亡

 ともかく、欧米勢力、就中米国のハワイ侵出を阻止すべく、我が皇室と婚姻関係まで結んで日本との連携を深めようとしたカラカワ王の希望は実現を見なかったのである。

 カラカワ王の失望は大きかった。もし王の希望通り、この縁談が成立していたら、ハワイが日本領土となる経過を辿った可能性は頗る大きい。(正岡注:日米対立はより先鋭化した可能性もある)

 とすれば太平洋をめぐる日米関係は、全く別な方向に展開を遂げたであろう。明治天皇が米国との軋轢を望まれなかったために、ハワイは我国の領土とはならず、米国に併合される結果となった。即ち18931月、白人勢力の後押しをする米国は、軍艦ボストン号から150名の海兵隊を上陸させ、ハワイ政庁を奪取し、王政を廃止した。僅か150名の海兵隊に抗し得なかったのは、軍隊なき国の悲しさであった。この日以来、カメハメハ王朝100年の間、王宮に翻っていたハワイ国旗は再び仰がれることはなかった。その5年後の1898年、米国はハワイを併合した。ハワイに対する我が国の無欲と米国の執着━━その微妙な均衡と動きの中でハワイの運命は決せられたのだった。

   門戸開放主義の提唱

 「大東亜戦争とは何か」━━これについて明確な定義を与えるために、どうしても米国の「門戸開放主義」について述べなければならないところに来た。大東亜戦争の本質を解明する鍵がここにあるからだ。

 1899(明治32)、米国務長官ジン・ヘイは英独露日伊仏6か国に対して「門戸開放宣言」と呼ばれる通牒を発した。その骨子は、支那に租借地や勢力範囲を持つ列国が、その中の条約港や他国の既得権益に対して干渉しないこと、またその勢力範囲において関税や鉄道運賃の面で他国に不利な待遇を与えないこと━━を謳ったものである。

 要するに、支那における「勢力範囲の存続を前提として」その中での通商上の機会均等の原則を提唱したものといってよいだろう。既述したように、19世紀後半、米国は西太平洋の奥深くまで「新しき国境線」を拡げたのであったが、列強の清国争奪競争には参加する機会がなかった。「門戸開放主義」は、清国おける列強の勢力範囲設定によって阻害される惧れのある米国の利益を確保すべく打ち出された新政策なのであった。

 ところが、支那における列国の勢力範囲の存在を前提とした上で提唱された門戸開放主義は、やがて範囲を拡大し、変質してゆくことになる。そしてそれこそが、大東亜戦争に至る日米抗争の核心部分を形成してゆくのである。これについて簡単に触れておこう。

 門戸開放宣言の翌1900(明治33)、清国に義和団事変(北清事変ともいう)が発生し、各国連合軍が出兵して清国分割の危機が激化するや、ヘイ国務長官は第二次の門戸開放通牒を列国に送ったのであるが、この第二次通牒は重大な新提案を含んでいた。それは第一に「通商上の機会均等主義」を勢力範囲に留まらず支那全土について主張したこと、第二に機会均等のみならず、支那の「領土的・行政的保全」を提唱したことである。

 このように門戸開放の適用範囲と内容が著しく拡張されたことについて、極東外交史の泰斗ポール・クライドは「清国の領土保全が門戸開放と混同されるに至った。門戸開放主義の定義を誤った結果、不用意な論者は門戸開放と何ら関係のない行為を門戸開放の破棄であると断ずる誤謬を犯すに至った」と論じたが(『満洲における国際争覇』)、正に門戸開放主義をめぐる日米間の解釈の相違が、極東における日米の紛議と対立の中心的争点を形成していったのである。

   「特殊」と「普遍」の争い

 門戸開放主義をめぐる争点の核心は何であったか。我国の明治以来の大陸政策は、国運を賭した日清・日露両戦役と、その後における粒々辛苦の努力によって大陸、殊に南満州において築き上げた諸権益と地位を擁護し維持することをもって、その中心的課題としていた。それらは特殊権益あるいは特殊地位と称されたのであった。「特殊」とは地理的近接のみならず、多分に歴史的感情を包含する用語と解すべきものである。

 これに対して米国の門戸開放主義は、支那全土において一律に通商上の機会均等と完全なる領土的及び行政的保全を主張するものなるが故に、必然的に「特殊地位」あるいは「特殊権益」の思想との間に軋轢を生ずることになる。尤も、ジョン・ヘイが門戸開放主義を提唱した時期においては、支那における「勢力範囲」の存在の方が「普遍」だったのであり、門戸開放主義は「普遍」原則中の「特殊」原則として唱導されたのであったが、日米国力の消長の結果、遂にワシントン会議(192122)を転機として、「拡張された門戸開放主義」が「普遍」原則となり、我国の主張する「特殊地位」が「特殊」原則とみなされるに至ったのである。

 特殊地位の保持を中心とする我が大陸政策と、門戸開放主義を理念とする米国極東戦略の戦いは、必然的に我国に不利である。なぜならば、一方が国民的生存権を守らんとする「持たざる者」の死活的主張であるに反し、他方は自己の生活に余裕綽々たる「持てる者」の赤十字的主張であり、何人の目にも後者が前者より正しく、美しく映ずるからである。「時によっては正義の擁護者たる栄誉を求めんとし、また時によっては実質的利益に均霑(キンテン:等しく享受すること)を獲んとするのが真相なるに拘らず、米国の対満活動の進退の殆ど悉くが門戸開放・機会均等という美しき標識に結び付けられて説明され、しかも多くの場合、第三者にあたかも自国が被害者かの如き立場を感ぜしめるのは、畢竟米国の対満外交が擬装に巧妙なるためである」とは、満洲事変を門戸開放主義の違反であるとした米国の対日非難に対する英修道[3]博士の反論である(『満洲国と門戸開放問題』)

 先に述べた如く、門戸開放主義の内容が著しく拡大せられ、変質を遂げるに至ったため、日米間に解釈の相違を生ずる結果となったが、そのような解釈や理解の相違が完全に調整されぬまま、この門戸開放主義は1915年所謂「21カ条問題」の際、ブライアン国務長官の「不承認主義」を生み、次いで1922年ワシントン会議における「支那に関する九カ国条約」の中心思想となり、1931年の満洲事変では米スチムソン国務長官の「不承認主義」に論拠を提供し、支那事変では米国の日本非難の口実となり、更に1941年日米交渉ではハル国務長官の硬直せる原則尊重主義の中に組み込まれ、遂には、かのハル・ノートにおける米側要求となって日米開戦を導くことになった。なお、戦後の東京裁判において、日本が侵犯した国際条約の一つとして挙げられた九カ国条約が、門戸開放を根本理念とするものであることは前述のとおりである。

 このように、門戸開放主義の形は時代や情勢と共に変じつつも、その根本主義は極東における日米間の最大争点として遂に解決されぬままだったのであり、日米50年の抗争の最深部に伏流し続けてきたのであった。実に門戸開放主義こそは、半世紀にわたる日米関係の推移と大東亜戦争の史的背景を考察する上で、最重要視点を提供する問題といえる。

 

 

2 日米抗争のはじまり

1)満洲における鉄道争覇

   ルーズベルトの親日感情

 日露戦争を境に、安政以来50年に亙って良好であった日米関係が変質してゆく。それを述べるに先立って、日露戦争中の日米の親密な有様をセオドア・ルーズベルトの言動を通して見ておこう。

 既述の如く、対露開戦決定するや、政府は直ちにハーバード大学でセオドア・ルーズベルトと同窓だった金子堅太郎男爵を派米し、親日世論形成に努力せしめた。この努力が功を奏し、日露戦争で米国は日本を支持した。

 金子の広報活動について興味ある逸話を一、二摘記してみる。

 327日、米国に着いてから金子が初めてルーズベルト大統領を訪問した時、ルーズベルト大統領は「今度の戦は日本が勝つ」と言い、更に「日本に勝たさなければならない」と述べた。その理由は「日本は正義人道のために戦っているが、ロシアは各国に悪逆無道の振舞をしている。特に日本に対しての処置は甚だ人道に背き正義に反した行為である。・・・そこで吾輩は影になり、日向になり、日本のために働く。これは君と僕との内輪話で、新聞に公にしては困る」と打ち明けたという。

 同28日、ルーズベルト大統領と2回目の懇談の時、ルーズベルトは「余は日本を敬愛すること、決して他人に譲らざることを信ず」と述べ、日本の事柄に関心を抱くに至ったのはフェノロサ[4]の説話を契機とする旨を語り、日本人の性格や精神教育面での原動力について知るべき書物があれば教えてほしいと語った。

 そこで金子は、新渡戸稲造の『武士道』(Bushido,The soul of Japan)と、日清戦争における日本軍の組織や行動について詳述した英国人イーストレイキ(F.W.Eastlake)の著書『勇敢なる日本』(Heroic Japan)を大統領に贈呈することを約した。その後、66日、金子がホワイトハウスから招待を受けた時、ルーズベルト大統領は、『武士道』を読んで初めて日本国民の特性を知悉し得たこと、直ちに30部を求めて知友に頒布すると共に、5人の子供に各1部ずつを配布し、「日常この書を熟読して日本人の如く高尚優美なる性格と誠実剛毅なる精神とを涵養すべしと申しつけたり。而して書中、日本人が尊信する天皇陛下に代わるべきもの、我が共和国に之なきが故に、先ず北米合衆国の国旗をもって之に充つべしと断じおきたり」と語った(松村前掲書)。金子は間違いなく、ルーズベルトの心情を、その深奥において把握したのであった。

 明治38(1905)42日、金子はニューヨークのカーネギーホールで「日本人の性質及び理想」という題で単独講演し、その中で、日本精神を形成したものとして「教育勅語」と「軍人勅諭」の二つを挙げ、英訳して紹介したところ、大きな反響を呼び、各方面からその英訳を貰いに来た。例えば、ウェスト・ポイントの教官は陸軍士官学校の教材にするからとて、又アナポリスの海軍大学校の教官は海軍大学校の教材にするからとて、軍人勅諭の英訳を貰いに来た。またかつてのグラント将軍の長男たる東部都督のグラント中将も、「自分の統轄内の兵卒に読ませて日本の陸軍のように強くなるよう兵隊を訓練したいから」と言って、やはり軍人勅諭の英訳を持ち帰ったという。

 日本海海戦で我が聯合艦隊がバルチック艦隊を撃破した時、米国民の歓喜は最高潮に達した。金子は「米国人は日本海の大勝利をもって未曾有となし、狂喜雀躍」と天皇陛下に宛てて祝電を打った。とりわけ喜んだのはルーズベルトであった。彼は53日付で金子に親書を送り「かのトラファルガーの戦勝もしくはスペインの『無敵艦隊』(Invincible Armada)の撃破も這般(シャハン)の大勝には遠く及ばずと愚考仕候」と述べ、手紙の最後に「万歳」と大書したのであった。

 戦争も終結期に入った明治387月、金子がオイスターベイの大統領私邸に招かれた際、大統領は日露戦争について次の如く語った。「東洋の有様を見ると、独立の勢力のあるのは日本のみである。そこで日本がアジアのモンロー主義をとって、アジアの盟主となり、アジアの諸国を統率して各々が独立するよう尽力することが急要である。それには日本がアジア・モンロー主義を世界に声明して、欧米諸国がアジアの土地を獲ったり、かれこれすることを断然止めさせることだ。そうして西はスエズ運河から東はカムチャッカまで日本のアジア・モンロー主義の範囲内として欧米諸国には干渉させないようにして欲しい」と。この重大なことを、「大統領をしている間は公表してくれるな。併し自分が大統領を辞めて一個のルーズベルトになった時には自ら進んでこの意見を発表する」と断った上で、金子に語ったという(金子前掲書)

 ルーズベルトの日本に対する信頼の大きかったことを物語る秘話である。ルーズベルトをして、斯くまで日本に傾倒せしめたものは、かつて英訳忠臣蔵(斎藤修一郎訳)を読んだ時、日本人の忠義に厚いことを知り、以後日本贔屓になったのであると伝えられる。(信夫淳平『二大外交の真相』)

   日本恐るべし━━ルーズベルトの不安

 開戦早々、ルーズベルト大統領は独仏に対し、もし露独仏が三国干渉の時のように日本に対して連合するならば、米国は即刻日本側に立って日本を支援すると警告していたし、また彼が「日本は我々のために戦っている」と述べたこともよく知られている。

 日本は米国の為に戦っている━━この言葉は米国の外交史家ベイリーが評するように、いささか自己満足で近視眼的であったかも知れない。というのは、日本の連戦連勝を見るルーズベルトの胸中には、次第に日本に対する不安が兆し始めたからである。

 日露戦争も末期の明治38(1905)6月、彼はロッヂ上院議員にあてた親書の中で「間違いなく日本の陸海軍は恐るべき敵であることを示した。全世界にこれ以上危険な敵はあり得ない」と述べているが、あれほど親日的であった彼にして、これは一体どうしたことなのであろうか。外交史家デンネットは言う。「ルーズベルトは日本を賞賛してはいたが、同時に日本を恐れてもいた。それ故に嫌いな露国を、余りにも完全な壊滅から救い出そうとしたのである」と。

 もって、日露戦争終結の頃を境にして、米国の対日間に微妙だが紛れようのない変化の生じ始めた様を窺うことができよう。然り、幕末安政の開国以来、半世紀にわたってあれほど友誼的であった日米関係は、日露戦争を契機にいつしか対立・抗争へと変質し始めて行ったのだ。この日米抗争は、一つは満洲の鉄道争覇として、もう一つは日本移民排斥問題として展開し、深刻化していくことになる。

   大東亜戦争の名称と性格

 大東亜戦争とは何か。先ず大東亜戦争という呼称は、日米開戦2日後の昭和161210日に、当時国家意思決定の実質的最高機関であった大本営政府連絡会議が「今次の対英米戦争及び今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」として決定したもので、翌々12日、この呼称は閣議で正式に決定された。こういう訳で、当時の全日本人はあの戦争を「大東亜戦争」と呼んで戦ったのであり、それは戦争の行われた地域的広がりからしても、またその戦争が東洋と西洋の対立という契機を含む歴史的経緯からしても、極めて自然な名称として受け入れられたのであった。戦後盛んに使用されている「太平洋戦争」「十五年戦争」などの呼び方は、歴史的には存在しなかったものであり、それ故、歴史用語として用いるのは不適当である。

 では大東亜戦争とはどのような性格の戦争であったのか。その性格規定を筆者なりに行ってみよう。

 大東亜戦争は二つの大きな歴史的潮流の合流し、激し合うところに生起した戦争であると言ってよい。一つの流れは19世紀末以来の門戸開放主義を理念とする米国極東政策と、特に満蒙との特殊関係維持を主張する我が大陸政策との相克であり争覇戦である。これが主流である。ロシア革命以後は、共産主義から日本と東亜を守る防共の戦いという流れが合流してくることになる。日米大陸政策のせめぎ合いと共産主義との戦い━━この二つが大東亜戦争の基本的性格であると考えられる。

   ハリマン計画の挫折━━日米抗争序曲

 この戦争の主流をなす日米対立の本質は、煎じ詰める所、支那・満洲との特殊関係を主張する我が大陸政策と、門戸開放主義に立つ米国の極東政策の抗争であったといえる。では大東亜戦争を終曲とするこの日米抗争はいつ始まったのであろうか。

 筆者は日露戦争直後の時期をもってその起点と考えたい。即ち満洲における日米の鉄道争覇戦の中に「大陸政策をめぐる日米抗争」という大東亜戦争の原型を認め得るのではないかと思う。林房雄は『大東亜戦争肯定論』の中で、大東亜戦争は幕末弘化の頃に始まった「東亜百年戦争の終曲」であると説いた。それはそれとして間違っていないが、大東亜戦争の本質を前記のように規定するなら、そのような構想は日露戦争以前には存在しなかった。それ故、以下に述べる満洲鉄道をめぐる争覇戦こそ、大東亜戦争に発展する日米抗争史序曲と考えてよかろうと思う。

 手短に書こう。満洲の鉄道に対する米国の介入は、日露戦争終結前後、鉄道王EH・ハリマンの満鉄買収計画に始まった。米国、太平洋、日本、満洲、シベリア、欧州、大西洋を結ぶ世界一周交通路の建設を夢見るハリマンは、手始めに南満洲鉄道、次に東支鉄道を買収せんと、機敏にも明治38(1905)8月、ポーツマス講和会議開始と共に米国を発って来日し、やがて日本が獲得するであろう南満洲鉄道を日米で共同管理する案を朝野有力者に説き、大方の賛同を得た。そして1012日、桂首相との間に満鉄共同管理に関する予備協定を取り交わし、意気揚々と帰国したが、すれ違いにポーツマス会議から帰朝した小村外相は、ハリマン協定に驚き、その破棄を説いて回った。小村の論は、満鉄移譲について清国の承諾を得る以前にかかる契約をなすことは不当であり、また10万の同胞の命と20億円の国帑(コクド)を犠牲にして得た満鉄を結局は米人に売却し、南満の権益を放棄するのはポーツマス条約の真髄に反するというにあった。小村の主張は通り、ハリマンがサンフランシスコに入港すると同時に我国は予備協定の中止を伝え、これを破棄した。

 斯くして米国資本の最初の満洲鉄道介入は、小村の果断によって阻止し得たのであった。ハリマン協定は日露戦争後、米国が初めて門戸開放主義を満洲に実践せんと試みたものとして注目に値しよう。(正岡注:とすれば米国の門戸開放主義を断固は撥ねつけたのが小村であり、日米対立は小村の果断によって始まったということになる)

   満洲善後条約と満鉄併行線禁止

 夷を以って夷を制するは支那の伝統的政策だ。ロシアが満洲を占領するや、清国は自力でこれを排除できず、漸く日本の力によって露軍を放逐することができた(日露戦争)。その結果、日本がロシアの在満権益を継承すると今度は英米を誘って日本を排除せんと策するに至った。これが大きな紛議の原因になるのだが、それを理解するに先立って「満洲善後条約」を知っておく必要がある。

 ポーツマス条約で我国が遼東半島租借権と東支鉄道南満洲支線(後の満鉄)をロシアから移譲されたことは既述した。ところで、このロシア権益の移譲についてはロシアの原締約国である清国の承諾が必要であり、そのことはポ条約にも明記してあった。そこでポ条約調印後の同年12月、北京で日清間に条約が結ばれ、右の権益移譲について我国は清国の承諾を得た。これを「満洲善後条約」ともいう。

 後年支那は、所謂ナショナリズムの高揚に乗じて日本の在満権益一切を否認し、旅順・大連や南満洲鉄道まで一方的に実力で回収せんとして「革命外交」なるものを展開し、これが日支間に紛議を生じ、満洲事変の一因となったが、右諸権益は、露国及び清国が条約によって日本に譲渡したものであることを忘れてはならない。いずれ書くことになろうが、日米開戦前夜、米国が我が方に突き付けてきたハル・ノートの中には右のポーツマス条約及び満洲善後条約で日本が合法的に取得した遼東半島租借権や満鉄さえ否認し、その撤廃を要求する項目を含んでいた。それは、米国が仲介したポーツマス条約を米国自身が否認し、日本に日露戦争以前の状態に戻ることを要求するに等しかった。このようなハル・ノートを突き付けられた日本が開戦を決意したのは是非もない次第だったと言えよう。

 さて、この日清満洲善後条約に関して重大な一点は、条約の付属議定書で、満鉄の利益を保護するため、満鉄と併行する幹線や満鉄の利益を害する支線を建設しないことを清国が承諾したことだ。この「満鉄併行線建設禁止」条項もまた、後年支那側が次々と侵犯を重ねたため、満洲事変に連なる日支間の重大争点を形成して行ったのである。

 これは支那の約束違反だ。今さら嘆じても詮ないことだが、右の満洲善後条約だけでも清国側が誠実に遵守していたならば、その後の日本と支那はさだめし静謐なる関係を保ち得たであろうと思う。日露戦争での日本の勝利は、露国によって占領閉鎖されていた満洲を、再び自由なる天地として回復した。ところが清国は、自らは回復できなかった満洲が日本の力によって再び自己の領有に復帰するや、今度は英米の力を借りて日本を満洲から排斥せんと試みたため、満洲は再び騒然たる抗争角逐の場と化したのである。

   ドル外交の満洲割込み

 この新たなる以夷制夷政策の「最も露骨な現れ」(前出ポール・クライド)は、新法(新民屯・法庫門)鉄道建設問題であった。即ち清国は明治40(1907)春以来、奉天西方の新民屯より、その北方50哩の法庫門までの鉄道建設を「絶対秘密裡」に計画して英国ポーリング会社との間に交渉を開始した。ところが新法鉄道は満鉄本線と併行するため「満洲善後条約」付属議定書に明白に違反する(ポーリング会社はこのことを知らなかった)。この計画を知った我国は数度にわたって清国に抗議したが、清国はこれを無視してポーリング会社との間に秘密契約まで締結した。新法鉄道はやがてチチハルまで延長し、満鉄と併行する一大幹線たるべく計画されたのであった。

 この問題で、幸い英国政府に日本に対する理解があったこともあって、明治42(1909)「清国は新法鉄道建設に当っては予め日本と協議」すべき旨の協約が日清間に成立し、清の策謀は挫折した。一方において、満鉄併行線を建設せざる約を日本と結び、他方でこの約を破って恬然として恥じることなき清国━━かかる背信と表裏ある政策が、支那に対する不信と軽侮の念を我が国民に抱かせる結果になったとしても不思議ではない。

 新法鉄道問題を皮切りに俄かに紛糾激化した満洲鉄道をめぐる国際争覇の中でも、とりわけ注目すべき事件は、新法鉄道問題が決着した2カ月後の190911月、ノックス米国務長官による全満洲鉄道の中立化提案であった。それは、(1)満洲の全鉄道を国際シンジケートで買収して所有権を清国に移し、借款継続中は国際シンジケートで運営する。(2)これが不可能ならば、列国共同で錦愛鉄道を建設し、満洲の中立化を実現する、というものであった。因みに錦愛鉄道とは南満の錦州より北満の愛琿に至る満洲縦貫鉄道で満鉄に重大脅威を与える併行線となるべきものであった。

 先のハリマンは一企業化であったが、ノックス国務長官として満洲に介入せんとしたのである。ルーズベルト大統領の跡を継いだタフト大統領の対外政策は、ドル外交と呼ばれる。ノックス国務長官の満洲中立化案はドルの力をもって満洲に門戸開放主義の実現を試みたものと評すべく、極東における米国ドル外交の象徴的表現であった。

 だが満洲の現実を無視して身勝手な理念を押し付けようとする政策が成功するはずはない。満洲に最も切実な利害を持つ日露が結束して反対したのは勿論、英仏とも日露の立場を優先すべしとして同意を差し控えたため、「日本を満洲より燻し出さんとする」ノックス提案は葬り去られてしまった。しかしながら、満洲の歴史と現実に立脚する我が大陸政策と観念的門戸開放主義を中心軸とする米国極東政策の公然たる軋轢と抗争は、ここに端を発したというべく、広義における大東亜戦争、即ち日米東亜抗争史は、この時に幕を切って落とされたのであった。

 他方、米国の満洲介入は皮肉にも日露の接近を促す結果となった。日露戦争の後両国は、再び戦うよりは協調する方を選んだのである。斯くて1907年に第1回日露協約を結んで満洲における互いの勢力範囲を設定した両国は、ノックス提案の翌1910年には第2回協約を結び、それぞれの勢力範囲に一層固い線を引くに至った。この状況を外交史家グリスウォルドは、ノックスは満洲に門戸開放の扉を開く代わりに「自分は外へ取り残されたまま、その扉を釘で打ちつけてしまった」と評したが、言い得て妙である。

 1913年、前大統領セオドア・ルーズベルトはタフトの満洲介入政策を「不幸にして余の退任後、日本に対して徒に刺激多く効果少なき、極めて不賢明で誤れる政策が採られるに至った」と嘆じたが、正しくその言葉通り、タフトの対満ドル外交は、日露戦争まであれほど親密だった日米を、戦争終結と共に満洲をめぐって嫉視抗争する関係に追い込んで行ったのである。

(2)排日移民問題の発生と軌跡

   支那人排斥法

 日露戦争と前後して、日本移民排斥問題が米国に生起したことについても述べなければならない。これもまた満洲における争覇と並んで、日米対立の大きな潮流を形成してゆくからである。

 最初に米国に移民した東洋人は、1848年のゴールド・ラッシュでカリフォルニアに渡ってきた支那人であった。当時建設中の太平洋鉄道工事や加州の金鉱開発のため労働力の需要が高く、支那労働者の来米はむしろ歓迎されたのであるが、やがて支那人移民が増加するにつれ、米国人労働者との間に軋轢を生じ、支那人排斥の気運が発生した。排斥運動は勢いを加え、遂に1880年代には支那人排斥法が制定強化されるに及び、1906年以降、支那人労働者は永久に米国とその属領から締め出され、支那人が米国市民権を取得する途は完全にふさがれてしまった。

   ハワイにおける日本移民

 米国への日本人移住は遠く1861(文久2)頃から始まったが、当初は移民の数は甚だ僅少であった。ところが1880年代に支那人排斥法が制定されて以来、支那人に代わって日本人労働者の渡航が増加して行った。

 ハワイはどうかといえば、19世紀半ば以降、砂糖キビ産業は主に支那人移民の手によって行われていたが、前記の支那人排斥法が、未だ米国領ではないハワイにも影響を与えるに至った。1881(明治14)にカラカワ王が来日し、日本人のハワイ移民を要望したことは既に述べた通りである。1884年には日布移民取極めが成立し、翌1885年には第1回官約移民944名が渡航、以来ハワイ移民は急増し、1900(明治33)にはハワイ在住の日本人は61,111(全人口の39.7)を算するまでになった。

 日本人はハワイにおける最大の外国群で、支那人やハワイ土着の民の2倍、米国人の9倍であった。グリスウィルドによれば「もし住民の数で帰属を決定したとすれば、ハワイ諸島は日本の領土となったとしてもおかしくなかった」のであるが、1898年、ハワイは米国に併合されたのである。

   排日気運の激成

 米大陸への日本人移民問題は1900年頃までは重大問題とはならなかったが、20世紀に入る頃から日本人移民は急増した。これは、1900年、ハワイに属領制が布かれた結果、ハワイから米本土への転航者が急増したことによるものであり、彼等の転任先は西海岸、とりわけカリフォルニアが主であった。この日本人急増と照応するが如く、排日運動は1900年を境に激成されていった。

 これに対して我国は、対米移民を制限するなどの措置を講じたが、米国の排日気運は改善を見ることなく、西海岸諸州の政治家はやがて排日問題を政争の具に供するに至った。カリフォルニアにおける排日は日露戦争(19041905)の刺激を受けると一気に燃え上がったが、この背景には戦争が生んだ日米の国家的対抗意識があると考えられている。日露戦争も終盤に入った19055月にはサンフランシスコに「日韓人排斥連盟」が結成された。宣伝と煽動によって米議会を動かし、支那人排斥法を日本人移民にまで拡大するのがこの連盟の目的なのであった。

 1906(明治39)418日、後に有名になった大地震と火災がサンフランシスコを襲った。同じ地震国の我国は、直ちに同市に対して50万円の見舞金を贈った。当時の50万円は今日の10数億円にも相当しよう。この見舞金は他の国々からの見舞金全額をも上回る額であった。だが、このような我国の好意も報われることなく、地震調査のために渡米した東京商科大学教授大森博士等は投石をもって迎えられ、日本人の料理店はボイコットされる有様だった。各紙は連日、排日文字を掲載して日本人迫害を煽りたてた。

   日本人学童隔離問題

遂に同年10月、サンフランシスコ学務局は前年来その意図を表明してきた日本人学童の隔離を決議した。その結果、従来公立小学校に通学していた日本人学童は、以後クレー街にある東洋人の為の隔離学校に通学させられることとなった。

 右の日本人排斥命令を正当化するために様々な日本人非難がなされたが、グリスウォルドは「学務局は、問題の理非曲直によるよりは、日本人を辱めてやりたいとの願望に応えて行動したように思われる」と書き、隔離命令が人種偏見に基づく排日運動と一体のものであることを指摘している。

我が政府は隔離命令に対して「日本人を劣等人種と宣言するに等しき侮辱行為で、我が国民の名誉を甚だしく毀損するもの」であるとして抗議書を提出した。

かねて排日は日米関係を危殆に陥れるものとして憂慮していたセオドア・ルーズベルト大統領は「余は日本の問題では痛く悩んでいる。カリフォルニア、特にサンフランシスコの大馬鹿者どもは向う見ずに日本人を侮辱しているが、戦争となった暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである」(息子カーミット宛ての手紙)と隔離令を非難した。この年の暮れ、ルーズベルトは議会への教書で、日本の文明的進歩、サンフランシスコ地震に際しての日本の好意、伝統的友好関係、両国の経済的文化的提携について注意を促し、隔離令を「邪悪なる愚行」と呼んで、日本人に帰化権を与える立法措置を提唱した。そして、これ以上日本人への迫害が続くなら、合衆国軍隊の出動も辞せずとまで警告したのである。大統領の強硬策は日本人からは歓迎されたが、カリフォルニア州民の反感を買うことになった。

   日米紳士協定とそれ以後

 翌19073月、カナダ・メキシコ・ハワイなど限地旅券者の米本土への転航禁止と日本人移民制限条約締結を交換条件として、学童隔離命令は撤回された。ルーズベルトが学務局を説得した結果であった。

 ここに学童隔離問題は一応の解決を見たが、その後米国より、転航禁止令の効果のないこと、日本政府が自主的に有効的な労働者の渡航制限をしない限り、排日移民法の成立を阻止出来ぬ旨の見解表明もあり(「日本外交文書24)、かくしてこの年即ち190711月より翌年3月に至る間、林薫外務大臣とオブライエン駐日米国大使の間に労働者渡航制限に関する11通の書簡が交換されて両者間に合意を見た。

 これが所謂「日米紳士協定」でこれによって、我国は自主的に、再渡航者・在米者の父母妻子・学生・商人等を除いて、新規の移民は総て禁止することにしたのである。即ち一切の労働移民を禁止したのであった。

 以後、日本政府は紳士協定を誠実に遵守することによって米国内の排日気運の再燃を抑止せんと努めた。

「紳士協定に基づいて日本政府は全ての旅券申請者を精査した。日本官憲は商人と労働者を完全に見分けることができた。今まで旅券が不法に交付された例は殆どなく、あったとしてもごく稀でしかない。一人一人についてみると、日本人移民は、この時期の欧州人移民に比べて勝るとも劣らなかった。彼等は一般に教養があり、法を遵守し、勤勉で立身出世の大望を有していた」これは極東史家ペイソン・トリートの見解である。だが、この紳士協定をもってしても米国の排日運動を鎮静化せしめることはできなかった。紳士協定はともかく1924年まで維持されたのであった。だが、その間、同協定は「太平洋における排外活動と、ルーズベルトが進めたのとは反対のアジア政策の追求によって絶えず動揺し続けた。排日法案や決議は、カリフォルニア州議会のみならず、ネバダ、オレゴン、ワシントンの諸州議会でも山積みされて行ったのである」(A.W.Griswold:The Far Eastern Policy of the United States)

3 第一次世界大戦と日本

(1)21カ条」問題を見直す

   我国、遂に参戦す

 大正3(1914)628日、ボスニアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビアに一青年に暗殺されるや、バルカン半島の風雲は忽ちにして急を告げ、728日オーストリアはセルビアに宣戦、81日ドイツはロシアに宣戦、続いて仏・英も対独参戦し、欧州の天地は厚い戦雲に閉ざされることになった。第一世界大戦は斯くして勃発した。

 英国が対独宣戦を布告したのは84日であった。同日、グリーン駐日英国大使は加藤(高明)外相を訪ね、日英同盟の約に従って英国の欧州戦争に対する対応を説明し、万一戦争が極東に波及し、香港・威海衛が攻撃される場合は、日本の援助を希望する旨申し入れてきたため、我が政府は即日、日本政府は厳正中立の態度を取る旨を表明「万一、日英同盟の目的が危殆に瀕する場合は、日本は同盟の義務として必要なる措置を取ることがあるべし。しかも政府は切にその然ることなきを希望」するとの声明を発表した。

 同じ日、英国ではグレー外相が我が井上大使を招いて「英国は日本の寛厚な申出に深く感謝する」と述べた後、「日露戦争当時、フランスはロシア艦隊に援助を与えていたので、日本は日英同盟上、イギリスに援助を要求し得たにも拘らず、これを要求しなかった。これは日本の誠実と自制による立派な態度である。日本のこの寛大な精神を汲み、今日のイギリスも努めて日本に累を及ぼすことを避ける考えであるが、日本の援助を必要とする時は、喜んで日本に依頼する」と語った。

 その後、英国から我国に対し「支那海で英国の貿易を攻撃するドイツ仮装巡洋艦を撃破してほしい」との正式な参戦要請があった。我国の交戦すべき地域的範囲をめぐって日英の見解に若干の齟齬があったが、結局815日、我国はドイツに対して、最後通牒の性質を持つ次の勧告を行った。

 (1)日本及び支那の海洋からドイツ艦船が即時に退却するか武装解除すること。

 (2)ドイツは膠州湾(山東省)租借地を、支那に還付する目的をもって915日限り無条件で日本に交付すること。

 兵火を交えることを望まなかった我国は、最後通牒の期限を1週間(823)という外交史上例のない長期のものとしたが、823日、ドイツが無回答の意思を通告してきたため、我国は同日、対独参戦した。

 我が軍は直ちに青島攻略を開始し、11月初旬には山東省の膠州湾、青島及び膠済(膠州―済南)鉄道全線を占領した。一方、海軍は10月中旬、赤道以北の独領南洋諸島を占領したのであった。

   我国、欧州派兵を拒絶

 我国が対独参戦した大正3(1914)秋頃より、英・仏・露は我軍を欧州に派遣するよう懇請してきたが、我国はこれを拒絶した。英国から再度の出兵要請が来た時、加藤外相は「帝国軍隊の唯一の目的は国防にあるが故に、国防の本質を完備しない目的のために帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れない」と述べて強い拒絶の意を表明したのであった(『加藤高明』下)。この他ベルギー、フランス、セルビアの諸国からも日本陸軍の欧州派兵を勧誘してきたが、我国はいずれも拒絶した。

 右の出兵要請の際、英国は、日本の出兵費用は英国が心配する事、欧州出兵により日本は戦後の列国間商議で有力な発言権を持つことになるはずであること等を申し出たのであったが、それにも拘らず我国は出兵を断ったのである。

 我が陸軍に対する出兵要請と前後して、英国は我が艦隊の地中海派遣をも要請してきた(92)が、我国は「日本海軍は外敵防御の標準で組織されており、外征を企てる余力はない」旨をもって返答した。その後、英国は重ねて我国に対し、英国艦隊と協力してドイツ・トルコ艦隊を封鎖するため、ダーダネルスに一艦隊を派遣してほしい旨を申し入れてきた(1115日)。その場合、船体の損失は補償し、燃料・軍需品は無料で一切の便宜を図るという条件付きではあったが、我国は前記の理由ほかに、日本艦隊の欧州派遣は日本の国防を危うくし、かつ日本艦隊主力の東洋留任は極東平和に不可欠の保障であることを指摘して、艦隊派遣を拒絶した。

 しかしながら、ドイツ艦船の活動が盛んとなるに及び、19171月、英国は我が艦隊の地中海派遣を求めてきたため、我国も百方詮議の末、これを応諾し、2月初旬、巡洋艦1、駆逐艦8から成る1水雷戦隊を地中海方面へ派遣した。

 因みにドイツは同じ2月、世界の非難を冒して無制限潜水艦作戦を宣言かつ決行、連合国側の船舶は多大な被害を蒙るに至った。我国の欧州航路客船の多くも、大西洋、地中海、インド洋で撃沈されて行ったのである。かかる戦況下、かつては艦隊の地中海派遣を拒絶した我国が、その立場を変えたのも蓋し止むを得ぬ次第であった。但し、我国は(大隈)前内閣の艦隊派遣拒否の決定を(寺内)現内閣が翻すには有力な証拠が必要であるとして、山東省と南洋諸島に関する日本の要求に対する英国の保証を得たい旨申し入れたのに対し、英国は講和会議に際し、山東省のドイツ諸権利と赤道以北の独領諸島(南洋諸島)に対する日本の要求を支持することを「欣然応諾」する旨、正式回答してきたのであった(216)

 我国が第一次世界大戦に参戦するに至った事情を簡単に述べた。それは例えば「(政府)は日本にとってアジアで勢力を拡げる絶好の機会が到来したものと考え、日英同盟に基づいて対独参戦した」といった高校教科書記述(直木孝次郎他『日本史三訂版』平成元年実教出版)が示唆するほど邪悪で利己的な意図から出たものではないことが分かるであろう。列国の要請、他国との友誼盟約、国軍の本義、戦況の展開、そして我が国益等さまざまな要素を深思検討の上、参戦や派兵は決定されて行ったのであり、決して不当な底意によるものであったということはできない。

   21カ条要求」の背景

 第一次大戦中、日支関係を紛糾させたのが所謂「21カ条要求」である。これは対支侵略の代名詞の如く悪名高いもので、前出『日本史三訂版』は次のように記述する。

(日本は)1915年、袁政府に対して21カ条要求を突き付けた。これは主権を著しく侵害するとして支那側の猛反発を招き、アメリカも日本を牽制したが、日本は一部を削除したのみで最後通牒を発して強引に承諾させた」

 他の日本史、世界史の教科書も大同小異だ。しかし、21カ条問題とは、そんなに単純に日本を悪玉と裁断できるようなものなのであろうか。グリスウォルド(前出)は、この問題の背景をこう説明する。

「日露戦争後、日本の不況は大いに増大したが、まだ目標には達せず、朝鮮や満蒙の地位も完全とは言い難かった。如何に条約を結んでもロシアは依然として北方の脅威であり、英米の態度も不安の種だった。現にノックスの満洲中立化計画と綿愛鉄道計画は満洲における日本の特殊地位を脅かした。支那本土の原料や資源はヨーロッパ諸国にとっては一個の投機の対象でしかなかったが、日本にとっては生きるための鮮血だった。西洋列強にとって支那の政治経済的意義は、日本にとってよりも遥かに少なかった。これらの列強が戦争に没頭している間今こそ、日本が事態をきちんと整える時だった。三国干渉以来、西洋の干渉主義者たちは、日本が正当かつ死活的に重要な政策を遂行するのを繰り返し妨害してきた。日本は満蒙と山東省の地歩を確固たらしめ、第二の三国干渉に抵抗せんとしたのだ。日本は近代産業国家として欠くべからざる支那の原料や経済的特権を確保せんとしたが、経済力でこれらを達成できぬ日本は政治的に達成せんとした。(第一次大戦の)戦後、ヨーロッパの関心が解き放たれた暁、欧州列国の相談で支那との約定がぶち壊されることのないよう、日本は今のうちに支那との約定を十分拘束力のあるものにしておきたかったのだ。簡単に言えば、これが21カ条要求の理由であった」

 この記述こそ、「21カ条要求」を提出した我国の立場と史的背景を説いて余すところがない。

   不当な要求であったか

 大正4(1915)1月、新生した中華民国に駐在する日置()公使が加藤外相の訓令で袁世凱大統領に提出した「21カ条要求」とは概略次の如くである。

 第一号は、山東省における旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める4カ条。

 第二号は、旅順・大連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の期限の99カ年延長、南満洲東部内蒙古での日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘における日本の優先権を要求する7カ条。

 第三号は、漢冶萍(カンヤヒョウ)公司を適当な機会に日支合弁とすることなどを求める2カ条。

 第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲せぬことを求める1カ条。

 第五号は、支那の主権を侵害された7カ条の希望(要求ではない)事項で、日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること(1)、日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること(2)、必要な地方で警察を日支合同とすること(3)、日本に一定数量の兵器の供給を求めるか支那に日支合弁の兵器廠を設立すること(4)、南支での鉄道敷設権を日本に与えること(5)、福建省の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること(6)、支那での日本人の布教権を認めること(7)

 このように要求は14カ条で、第五号7カ条は希望事項だった。それ故「21カ条要求」という呼称自体━━それは誇大宣伝のために支那が創作したものだが━━が誤解を与える一因をなしていたのである。

 さて「21カ条要求」とは果してそれ程不当なものであったのか。その23項目を取り上げて検討してみよう。

 例えば第二号の満蒙条項。旅大租借地と満鉄等の99カ年延長は決して例外ではなく、1898年に英国が清国から租借した香港はやはり99カ年期限であり、今日においてなお租借継続中であることを考えてみればよい。また支那側は、日本人に治外法権がある以上、満蒙での日本人の居住営業、土地所有は満蒙の植民地化になると反対した。これには一理あったが、支那はすでに外蒙において同様の特権をロシアに許与していたのであり、その反論には説得力が欠けていた。

 第三号の漢冶萍公司に関する要求も新奇なものではなく、同公司と我国との長い関係に基づくものだった。漢冶萍公司とは、明治25(1892)、湖広総督・張之洞が漢陽に鉄廠を設立し、大冶鉄山、それに萍郷炭鉱の三者を合わせて漢冶萍公司を設立したのは明治29(1896)、日清戦争の翌年である。同年、我国は八幡製鉄を設立したが、鉄鋼に乏しい我国は明治32年、互いに同量の鉄鉱石輸入と石炭輸出の契約を同公司と結んだ。義和団事件後、ドイツ側が権益の妨害を企てたため、明治37年、我国は公司と300万円の借款契約を結び、その担保とされた大冶鉄山は、以後60年間は他国へ売却せぬことを取り決めた。日露戦争中の膨大な鉄鉱需要はこれによって賄われたのである。辛亥革命が起こるや、同公司は革命軍に没収されんとしたため、盛宣懐は200万元で没収を免れようとし、右金額の調達を我国に交渉したので、我国はその条件として日支合弁を提議し、ここに漢冶萍公司日支合弁契約が結ばれた。このようにして同公司は我国との関係を一層深めたが、支那側には同公司国有化の動きがあり、我国にとって死活的重要性を持つ同公司は頗る不安定な状況に陥ったのである。これが第三号提出の背景だったのであり、決して唐突に新たな権益を求めたものではない。

   “主権侵害”とはいえぬ第五号

 支那の主権を侵害するものとされた第五号にしても、相当の経緯と理由あってのことだった。例えば福建省における優先権━━これは第四号沿岸不割譲の要求と関連する━━の歴史的背景はこうである。

 列強が清を分割した1898年、我国は清との間に福建省不割譲(いずれの国にも譲与しない)の約定を結んだが、190012月、米国は同省沿岸・三沙澳の租借を企てた。我国は、三沙澳租借は日清協定に違背し、また米国の提唱せる支那の領土保全主義にも反するとして反対したため、米国はこの企図を放棄したのであった。右一件は、米国が自己の主張に反して清国の主権を侵さんと企てたことを意味する。

 ところで、高木八尺博士によれば(『米国東洋政策の史的考察』)、この事件が公表されたのは米国務省文書「米国の対外関係/1915年」の中においてであり、それが出版されたのは1924年であるから、「21カ条要求」が国際的に論議されていた1915年には、三沙澳租借問題について世界は何ら知るところがなかったわけである。それ故に、福建省に関する我が希望と要求は、その歴史的背景について国際的無知の中で一方的な批判を受ける結果となったのであり、「21カ条」批判が公正ならざりし一例をここに見るのである。

 もう一つ例を挙げておく。「21カ条」交渉中の19153月中旬、支那革命の指導者孫文は外務省政務局長・小池張造に書簡を送り、その中で「日支盟約案」として、(1)日支共同作戦を便ならしめるため、兵器をすべて日本と同式にする、(2)支那の軍と政府は外国人を聘用する時は日本人を優先する、(3)鉱山・鉄道・沿岸航路経営の為外国資本を要したり合弁を行う場合は先ず日本と協議する。━━等を提案した(臼井勝美『日本と支那/大正時代』)。右盟約案は第二号、第三号及び支那の主権を侵すものと非難された第五号の第456条の趣旨とほぼ完全に符合する驚くべき提案であった。この孫文提案は、我国の要求と希望が図らずも孫文のそれと一致していたことを立証するものであり、あれほど支那その他の批判を浴びた「21カ条要求」が、実は支那側の希望に他ならなかったという事実は、「21カ条」をめぐる対日批判の大部分を無意味ならしめるものといってよい。

   「支那の言辞無礼なり」(朝日新聞)

 「21カ条」をめぐる日支交渉は期間4カ月、正式交渉だけでも25回という息の長いものとなり、その間我国は支那側の希望に応じて一部撤回し、大部分は修正したがなおまとまらず、遂に第五号は「他日の交渉に譲る」こととして削除した上で、残余16カ条を、最後通牒をもって支那に受諾させ決着した。最後通牒を発出したことが力で押しつけた印象を与えているが、最後通牒の発出が、実は袁世凱自身の要請によるものであった事実は、今日ほぼ確定している。

 また最後通牒を促した背景に、新聞などの強硬な国内世論のあったことを記しておくのは、言論人の責任を考える上で無意味ではなかろう。各紙の社説は「決答期を限れ」(51日付東京朝日)、「支那の責任」(54日付同紙)、「最後通牒の外なし」(同日付東京日日)、「最後通牒は当然の順序なるべし」(55日付時事新報)等の強硬論を展開し、55日付朝日新聞に至っては「支那政府最終回答は言辞極めて無礼なり」とまで支那側を論難し、「帝国の要求は東亜百年の大計のため已むを得ざるもの」と主張した。当時の代表的進歩派知識人の吉野作造ですら「事ここに至れば最後通牒を発するの外にとるべき手段はない」と断じたのであり、これらがその頃の指導的言論だったことはしっかり記憶しておくべきだろう。

   歪曲された「21カ条」

 支那が形式上“最後通牒を受諾”して交渉は終結、撤回した第五号を除き、我が要求は相当に修正されたものの、大体16カ条が日支条約として調印成立した(525日)。この大正4年日支条約をめぐるその後の波紋の二、三に触れておこう。

 511日、ブライアン米国務長官は日支双方に「支那の政治的領土的保全及び門戸開放主義に反するいかなる協定も承認せず」と通告してきたが、これがその後の「不承認主義」として有名になった門戸開放主義に立つ米極東政策の先駆けである。右ブライアンの不承認主義はやがて満洲事変でスチムソン国務長官の不承認主義として継承され、一層広く知れ渡り、後年、支那事変から日米交渉においてはハル国務長官の硬直した原則尊重主義となって日米関係を大きく阻害し、遂に戦争を惹起すことになる。このような見地に立つ時、21カ条」問題に関して声明されたブライアン不承認主義は、大東亜戦争への過程における重要な一石と評して間違いなかろう。

 次に支那が我が「21カ条」の内容を甚だしく歪曲誇張して内外に喧伝したことが、不必要な誤解を招いた点を指摘しておこう。「21カ条」否認は、以後、支那の排日運動の中心題目となったが、参考までに当時最有力の排日団体であった湖北全省商界外交後援会の作成した「21カ条」非難の説明書を見ると、「南満洲の警察と行政権を日本に譲渡す」「支那陸海軍は必ず日本人を教官とすべし」「支那の学校では必ず日本語を教授すべし」「支那に内乱ある時は日本に武力援助を求め、日本また支那の秩序維持に当るべし」「支那の石油特権を譲与す」「支那全部を開放し、日本人に営業させること」などとあり、我が要求とは全く無関係な「要求」を捏造して列挙していることが分かる。かかる虚偽歪曲の宣伝が問題を殊更に悪化させた。

 更に在支米国公使がポール・ラインシュであったことも不幸を重ねた。彼は「国務省の公式代表者と支那政府の非公式顧問という一人二役」を演じたといわれるほどの親支反日派で、米国の史家チャールズ・タンシルによれば、「ラインシュの一連の日本非難の電報こそが米国人の心に日本は邪悪なりとの固定観念を作り上げ、遂には日米戦争の確率を高めた。またこの日米戦争の公算はブライアンの不承認主義通牒で更に高まり、やがて満洲事変の際、スチムソン国務長官はこの不承認主義を一箇の手榴弾に作り替え、それによって日米の平和的関係一切を破壊することになった」のである。

   21カ条」その後

 さて大正4年日支条約として落着したいわゆる「21カ条要求」はその後いかなる運命を辿ったか。支那は日支条約が日本に「脅迫されて」結ばれたもので、支那の自由意思によるものでない故無効であると強弁して、その実施を妨害し、支那国会また、大正12(1923)には右条約の無効を決議した。

 だが、多少とも圧力をかけたことを口実として条約を無効にし得るものなら、世界に現存する条約の大部分は即刻無効となるだろう。例えば日清戦争後の遼東半島還付条約は正しく三国干渉によるものである支那の論理を用いれば「脅迫」された遼東還付条約は無効であり、我国は下関条約通り、遼東半島を「永遠」に領有する権利があり、「21カ条」の満蒙条項のような「99カ年」の租借期限など全く要らないことになるが、支那はこれを承服するだろうか。また、力でドイツに押し付けられたベルサイユ条約も、原爆投下を背景に我国に強要されたポツダム宣言も無効になるはずだ。支那の論理の独善性は明白である。第一、我国は支那の自由意思を束縛したこともなく、4カ月に及ぶ外交交渉の結果成立した条約ではないか。

 驚くべきことは、支那が条約調印直後の19156月に「懲弁国賊条例」なるものを公布したことだ。これは日本人に土地を貸したものは国賊として公開裁判なしに死刑にするという峻厳を極めた法令で、もちろん日本人の土地取得妨害が目的である。同時に支那は南満洲の官吏に「商租地畝須知(ショウソチボウスチ)」なる秘密の手引書を頒布して、日本人に対する土地商租の妨害を命じた。このため、日支条約で確定したはずの南満洲における日本人の土地商租権は、条約調印と同時に事実上、空文と化したのである。国際条約調印と同時に、政府が法令をもってその実施を妨害するとは世界に類を見ない背信行為という他ない。この結果、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利は悉く支那側に侵犯され、満洲における日支関係を極度に緊迫悪化させ、満洲事変の重大原因となった。

 21カ条のうち、最終的に支那側に要求したのは約16カ条分であったことは既に述べた。これらが日支条約となったのであるが、1922年のワシントン会議で、我国は支那に山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問傭聘に関する優先権を放棄した。更に「他日の交渉に譲る」ことになっていた第五号希望条項も全面的に撤回した。これにより、ワシントン会議の終了した1922年には、当初の21カ条の大半は消滅し、条約として残存していたのは僅か10カ条に過ぎなかったのであるが、それらでさえが激烈な排日の中で事実上空文化して行ったところに問題の重大性があった。

(前篇終わり)

[1]三井甲之(ミツイ コウシ)、明治16年(1883年)生れ、昭和28年没。文学者、歌人、右翼思想家(ウィキペディアより) [2]奥野 誠亮(せいすけ)大正2(1913)年生れ。奈良県御所市出身。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」初代会長。衆議院13回当選、文部大臣(田中内閣)、法務大臣(鈴木内閣)を歴任後、昭和62年竹下内閣では国土庁長官に任命され、土地対策にその手腕が期待されていたが、昭和6359日に衆議院決算委員会で日中戦争(支那事変)について「あの当時日本に侵略の意図は無かった」と発言して批判を浴び、513日に国土庁長官を辞任。「国士庁長官」などと揶揄された。(ウィキペディア) [4] アーネスト・フランシスコ・フェノロサErnest Francisco Fenollosa1853年~1908年)は、アメリカの東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。東京帝大で政治学、哲学、理財学(経済学)などを講じた。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、坪内逍遥らがいる。生前、仏教に帰依した。ロンドンで死去したが故人の遺志により、火葬ののち日本に送られ、大津の法明院に改めて葬られた。 文末注[i]中央大学政策文化総合研究所年報第14号抜刷(201181日発行)

服部龍二『藤尾文相発言━━外務省記録から』

曾根康弘首相は198676日の衆参同時選挙に勝利すると、第3次内閣を22日に成立させた文部大臣には、海部俊樹に代わって安倍派幹部の藤尾正行が就任した。1917年生まれの藤尾は、読売新聞記者や河野一郎秘書を経て1963年に衆議院議員に初当選していた。当選11回を重ねて1996年に引退し、2006年に死去している。この間に藤尾は、鈴木善幸内閣で労働大臣として初入閣し、自民党政調会長なども務めた。かつて青嵐会に属した台湾派でもある。

藤尾は1986725日の記者会見で、6月に発生した第2次歴史教科書問題について問われた。すると藤尾は、文句を言っているやつは世界史の中でそういうことをやっていることがないのかを、考えてごらんなさい」と発言した。藤尾は,「東京裁判が客観性を持っているのかどうか。勝ったやつが負けたやつを裁判する権利があるのか、ということがある」とも述べている。これに韓国や中国が反発した。

 さらに藤尾は910日発売の『文藝春秋10月号でも東京裁判や靖国問題などを論じ、韓国併合については、「韓国側にもやはり幾らかの責任なり、考えるべき点はあると思うんです」と語った。

中曾根後藤田正晴官房長官は、発売前に『文義春秋』の校正刷りを入手し、藤尾を首相官邸に呼び出した。中曾根が、「もし,私があなたの立場であったならば,潔く辞任を致します」と述べると,藤尾は、「無礼なことを言うな」と応じなかった。中曾根が、「どうしてもご翻意願えませんか」と求めても、「わしは翻意しない」と藤尾は拒否したという。

結局、藤尾は『文藝春秋』発売の前々日に罷免され、99日には塩川正十郎が後任の文相となった。第4次吉田茂内閣の広川弘禅農相(吉田首相の懲罰動議に現閣僚でありながら反対票を投じなかったため)以来、33年ぶりの閣僚罷免である。韓国や中国との関係に配慮した中曾根の決断によるものであり、藤尾発言は外交問題になっていた。特に韓国の反発が激しく、日韓外相会談を目前に控えていたため、外務省ではアジア局北東アジア課がこの問題に対応を迫られた。

これらのことは大筋で知られているものの、韓国や中国との交渉や日本における内部過程について、公文書で跡づけられてはこなかった。そこで以下では、藤尾文相発言をめぐる外務省記録を紹介したい。いずれも情報公開法による外務省開示文書2010319に含まれるものであり、北東アジア課の文書が5件、在韓国日本大使館や在中国日本大使館との往復電報が4件となっている。

藤尾発言(文藝春秋インタビュー)問題(概要)

61. 9.17〈北東アジア課〉

1 96日朝、本邦主要各紙は5日夜の時事・共同電をキャリーし、文藝春秋10月号(910日発売予定)において掲載予定の藤尾前文相のインタビュー記事につき、「藤尾文相が問題発言」、「日韓併合、韓国も責任」等と第一面で報道。

2 韓国側は同日朝、テレビ、ラジオが本件を報道するとともに、韓国政府は直ちにソウル、東京両地において日本側に事実関係及び日本政府の立場を照会し、仮に報道の中身が事実とすれば、国交回復後最も重大な事件であること、厳重に抗議せざるを得ないこと、日本政府が迅速に必要な措置をとることを希望する旨述べた。

更に6日の夕刊以降、本件は連日第一面に報道された。政府は7()政府緊急対策会議を開催して対応策を検討、右会議をふまえ、8日午前、崔(チェ)外務部長官が、御巫(ミカナギ)大使を招致し、韓国政府の正式抗議の伝達、この問題解決のための納得のいく措置実施の要請、外相協議延期申し入れを行った。

3 我が国においても、中曾根総理、倉成大臣以下政府・与党の首脳が事態を重大かつ深刻に受けとめ、早急な事態の収拾策の協議を開始。又韓国に対しては、日韓関係の重要性と日本政府の事態収拾へのとり組みを説明しつつ過早な正式抗議を遺憾とするとともに、かかる時こそ両国の対話を続けるべきとして外相協議の延期申し入れに反論。

4 他方、中国の反応は、6日に東京発新華社電が本件をキャリーし、同日の北京放送及び8日付の人民日報海外版とチャイナデイリー紙(英字紙)が右をキャリーしたのみ。

5 日本政府としては、本件発言は、一政治家としての断わりはあるも、一部に妥当性を欠く内容が含まれており、近隣諸国民の感情を傷つけるものであり、我が国外交の基本政策に無用の疑惑を生ぜしめたとの判断から、8日夜辞表提出を拒む藤尾大臣を罷免することとし、直ちに、右を説明する官房長官談話を発表。又右発表を受け、韓国、中国に対し、文相罷免の事実及び官房長官談話を伝達するとともに、両国との良好な関係の維持強化を図るとの基本政策に変わりなき旨等説明(8日夜。但し北京においては9日午前)

6 韓国はこれに速やかに応じ、翌91215分より、崔外務部長官は、御巫大使に対し、日本政府の迅速な措置を誠意ある適切なものと評価し、外相会談を予定通り行うことに同意する旨通告。10日崔外務部長官が来日

7 10日、第一回日韓外相定期協議が開催され、冒頭、倉成外相より改めて本件に遺憾の意を表明、韓国側は日本政府の迅速な措置を評価するとともに、これにより外交的な処理は一応終わった旨述べた。更に翌日、崔長官が、中曾根総理を表敬した際、総理より、「藤尾前文部大臣に不始末があって申し訳ない。おわび申し上げる」と述べた。これに対し崔長官は改めて日本政府の措置を高く評価する旨述べるとともに「総理のとられた措置は明快な政治的判断として受けとめている。御訪韓の際お目にかかることを楽しみにしている」旨の全大統領のメッセージを伝達した。(以下略)

 

*参考文献

① 『大東亜戦争への道』中村 粲 著 展転社平成2128日 第1刷、平成2633日 第19

② Web.ウィキペディア