本文へスキップ

 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 日米対立への序曲(大東亜戦争への道から)後篇

平成27215日 つくる会栃木支部・日本を愛する栃木県民の会

目次(『大東亜戦争への道』全般の理解の理解ために

緒言

序 章 歴史問題

1章 近代日韓関係の始まり

   第1節 排外朝鮮の独善

   第2節 朝鮮の開国

   第3節 開化と事大に揺れる朝鮮

   第4節 独立の気力なき国

2章 日清戦争

   第1節 開戦と戦況の推移

   第2節 清国軍の暴状

   第3節 下関条約と三国干渉

   第4節 日清戦争と朝鮮

3章 日露戦争

   第1節 三国干渉の高いツケ

   第2節 米国の太平洋進出と門戸開放政策

   第3節 露国の南進と日英同盟

   第4節 国運賭した日露の死闘

   第5節 日露戦争と日本人

   第6節 日露戦争の世界史的意義

   第7節 韓国併合への道

4章 日米抗争の始まり

   第1節 満洲における鉄道争覇

   第2節 排日移民問題の発生と軌跡

5章 第一次世界大戦と日本

   第1節 「二十一カ条問題」を見直す

   第2節 石井・ランシング協定とは

   第3節 シベリア出兵の視点

   第4節 惨劇━尼港事件

6章 米国の報復━ワシントン会議

   第1節 ワシントン会議の背景

   第2節 会議の成果

7章 国際協調の幻想

   第1節 排日の軌跡

   第2節 外蒙の赤化

   第3節 「現実の支那」の暴状

8章 革命支那と共産主義

   第1節 混迷支那へ赤い爪牙

   第2節 第一国共合作

   第3節 支共の陰謀と国共対立

9章 赤色支那への対応

   第1節 南京事件

   第2節 幣原外交の理想と現実

   第3節 田中外交の北伐対応

   第4節 怪文書“田中上奏文”

   第5節 済南事件

   第6節 不戦条約と自衛権

10章 満洲事変

   第1節 満洲緊迫、柳条湖事件へ

   第2節 四半世紀の累積因

   第3節 事変の経過概要

   第4節 満洲独立運動の虚実

   第5節 事変を生んだ内外因

   第6節 満洲は支那の領土か

   第7節 事変と建国を考える

 

11章 北支をめぐる日支関係

   第1節 塘沽停戦協定

   第2節 日支関係の好転

   第3節 梅津・何応欽協定

   第4節 「三原則」交渉

   第5節 北支自治運動と冀東・冀察両政権

12章 国共内戦と西安事件

   第1節 蒋介石の思想と政策

   第2節 コミンテルンの大謀略

   第3節 西安事件

13章 盧溝橋事件の真相

   第1節 事件の発生と推移

   第2節 日本軍謀略説の虚構

   第3節 真犯人は誰か

   第4節 不拡大への努力

   第5節 惨!通州事件

14章 戦禍、上海から南京へ

   第1節 船津和平工作の挫折

   第2節 第二次上海事変勃発す

   第3節 南京攻略

15章 新「虐殺」考

   第1節 所謂“南京事件”と東京裁判

   第2節 “大虐殺”への疑問

   第3節 「虐殺神話」を生んだ土壌

16章 対支和平の努力

   第1節 トラウトマン工作

   第2節 汪精衛━悲劇の愛国者

 

17章 防共への戦い

   第1節 赤いファシズムの成長

   第2節 日独防共協定━共産主義への防波堤

   第3節 破られた不侵略条約

   第4節 脹れ上がるソ連軍国主義

   第5節 張鼓峰事件━ソ連の対日挑発

   第6節 ノモンハン事件

18章 対米関係悪化のへの我が対策

   第1節 米の海軍拡張

   第2節 隔離演説とパネー号事件

   第3節 門戸開放をめぐる日米の相克

   第4節 対日経済制裁と中立法改正

   第5節 北部仏印へ協定進駐

   第6節 日蘭会商と米英の圧力

   第7節 汪政権の承認

8節 三国同盟の選択

19章 日米交渉

   第1節 交渉の開始と停頓

   第2節 南部仏印進駐

   第3節 日米首脳会談への努力

20章 日本の和平努力空し

   第1節 東條内閣の和平努力

   第2節 参戦を焦る米首脳

   第3節 我国、重大譲歩を示す

   第4節 ハル・ノート

   第5節 真珠湾は“奇襲”なのか

   第6節 開戦で安堵した人々

   第7節 128日と日本人

終章 改めて大東亜戦争を思う

事項索引

*目次中、青文字は前篇赤文字は後篇

 

(2)石井・ランシング協定とは

   石井特使派米の背景

 第一次大戦中、日米間に結ばれたこの協定は、日本外交の勝利を意味するものの如く見えながら、その根底に、欧州大戦当時、米国が日本に対して抱いていた不信感が色濃くにじんでいる上に、米国の不誠実な対日態度をはしなくも露呈したものとして記憶されるべき値打ちがある。(中略)

 19174月、米国も遂に大戦に参加したので、日本は英仏の例に倣って、連合国の一員としてこれを祝福し、かつ謝意を表するために石井菊次郎を特派大使として米国に派遣することになった。前述の如く他の列強との間に協定を遂げた我国としては、特使訪米の機会に、極東政策に関して米国との間にも諒解を企図することとなったのであるが、これは極めて自然の成り行きであったと云えるであろう。日本としては、米国が執拗に門戸開放主義を唱導し、とかく日本の満蒙進出を掣肘せんとする傾きがあったので、この機会に満蒙をはじめとして支那における我が特殊地位に関して米の承認を確保せんとする要請が漸く強くなってきたのである。

 石井は「米国は自らモンロー主義なるものを唱えて自国より5000哩を隔たる南米の南端に至るまでもその縄張りを声明している国柄である以上は、日本が一衣帯水の支那の運命に一種独特の利益を有することを諒解せざる訳はないはずであるが」、4億の民を有する支那を好市場として米資本家が着眼し始めた事情と、各国が支那に設定した勢力範囲というものに対するウィルソン大統領の根強い個人的反対意見とが、米国の特殊利益不承認の内面の理由であろうと考えた(石井『外交余禄』)

   「特殊利益」の解釈に食い違い

 8月下旬華府に着いた石井は儀礼的方面の使命を終えると早速、ランシング国務長官と交渉に入った。因みにランシングは、元国務長官で退官後に支那政府顧問となったフォスターの女婿である関係から自然支那贔屓であった。

 双方の見解の相違を調整した後大正6(1917)112日、日米共同宣言の公文が国務省で交換された。これが所謂「石井・ランシング協定」である。

 「日本国及び北米合衆国両国政府は、領土相接近する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認す。従って合衆国政府は、日本が支那において特殊の利益を有することを承認す。日本の所領に接壌する地方において特に然りとす

 これが宣言の前段であり、かつ主要眼目であった。ところが後段には「日本国及び合衆国両国政府は毫も支那の独立又は領土保全を侵害するの目的を有するものに非ざることを声明す。かつ両国政府は常に支那において所謂門戸開放又は商工業に対する機会均等の主義を支持することを声明す」と前段とはややニュアンスの異なる趣旨が述べられたのであり、これが解釈上の争いの余地を将来に残すこととなった。

 この宣言の目的が、支那における日本の特殊利益を米国に承認させることにあった点を考えれば、この協定は明らかに日本外交の勝利であった。しかしながら、元来、支那における日本の特殊利益を承認する意思のなき米国は、石井・ランシング協定の字句に特殊な解釈を施すことによって、日本の「特殊利益」の意味内容を制限せんとした。

 即ち1919831日、ランシング長官は米上院外交委員会で、ボラー氏他共和党委員から、民主党は何故、日本政府に対して支那における特殊利益を承認するが如き譲歩をしたのかと詰問され、「ランシング・石井協定」の云う「支那における日本の特殊利益」は政治的な性質のものではなく、経済的にして非政治的なものである旨を弁明した。しかしこの説明は、協定調印当初から意図されていた欺瞞でないとすれば、自らの外交的敗北を糊塗せんがための強弁でしかなかった。なぜならば、のちに石井が反駁したように、もし協定前段に云う「日本の特殊利益」が政治的なものではなく、経済的・商工業的なものであるならば、門戸開放機会均等を謳った後段と完全に矛盾するからである。通商上の門戸開放機会均等主義の下に、日本が支那おいて経済的特殊利益を有すとは、そもそも言葉として意味をなさないからである。

   米国のその場しのぎの懐柔策

 では何故、米国はかくも重大な解釈上の問題を残すような協定を日本との間に結んだのか。グリスウォルドは云う。

 「よく比較される桂・タフト協定[1]高平・ルート協定[2]と違って、石井・ランシング協定は米国極東政策の意図的転換でもなければ修正でもなかった。セオドア・ルーズベルトは信念を持って行動したが、ランシングは便宜主義で行動した。ルーズベルトは日本との協定を遂げるや、円熟した政策を持って日本との協定に沿わんとした。ランシングは日本の『特殊利益』を承認しなければならなかった事情に不満を持ち、法律的逃げ口上によって日本の特殊利益の範囲を制限しようとし、又パリ平和会議では、これを破棄しようと全力を尽くしたのである。1917年、米国外交は日本の膨張に対して、後退ではなく大攻撃の準備をしていたのである。それ故、日本の外交官が協定の字面からどんな満足を引き出したにしても、協定の精神は妥協的ではないことを間もなく発見せねばならなかった。それは米国がドイツ専制主義という竜の退治を準備している間だけ、日本帝国主義というブヨに対して示した間に合わせの手段、弥縫(ビホウ)策、嫌々ながらの譲歩に過ぎなかったのである」

 まさしく、これが石井・ランシング協定の本質であった。米国が欧州戦争に忙殺されている間、極東における日本の行動を掣肘するための一時的な懐柔策であり、その場しのぎの便宜的政策に他ならなかった。それ故にこそ、大戦終結後、米国は該協定を破棄することに努力し、成功したのである。即ち後述の如く、華府会議で九カ国条約が締結された結果、石井・ランシング協定は存続の理由を失ったとされ、19234月廃棄されたのであった。(中略)

(3) シベリア出兵への視点

   無益な出兵」だったのか

 第一次大戦中の1917年、ロシア革命が起きたことは今世紀の最重要事件として大書に値する。何故なら、その後地上に生起した戦争や政治的闘争と悲劇の大部分が、ロシア革命で現実の政治力を得た共産主義と深く関わっているからだ。これ以後、支那をめぐる日米抗争も、新たに共産主義という要素が加わることによって、俄然、複雑さを増してゆく。  このロシア革命に続く内乱時代に、日本が列国と共同して行ったシベリア出兵は、徒に国費を使い、兵力を消耗し、ロシア国民の反感を買い、しかも得る所のなかった軍事行動であったとして、

すこぶる評判が悪く、歴史家による評価も低い。「無益な出兵」と書くのが歴史書のお決まりらしく、例えばある高校用日本史教科書の記述は次の通りだ。

「ロシア革命の影響を恐れる日英仏米はチェコスロバキア軍の救出を名目に1918(大正7)、シベリア出兵を開始した。日本以外の諸国は1920年に撤兵したが、シベリア東部に勢力を伸ばそうとした日本は、兵力を増強して1922年まで出兵を続けた。しかし革命軍と住民の抵抗を受け、3千名の死者と2万人の負傷者を出し、1億円の戦費を費やしただけに終わった」(東京書籍「改訂日本史」平成元年2月発行)

 他の教科書も大同小異だが、このように冷淡に片付けたのでは、シベリア出兵の問題点や歴史的意味は到底生徒には伝わるまい。シベリア出兵は、共産主義に対する列国の理解と対処を知る上でも、またその後の歴史から振り返ってみても、甚だ考えさせられることの多い事件なのである。

 当時の国際政局や、その後今日に至る歴史の流れ、特に赤色勢力の蔓延とその政治的罪悪を思う時、我がシベリア出兵は、その結果や効果の如何とは別に、一定の歴史的評価が与えられてしかるべきではあるまいか。以下、出兵経過概略と出兵に付随した問題点を指摘しつつ、その史的意味を考察する。

   我が国へ出兵要請

 第一次大戦中の19173月、露国に所謂二月革命が起こり、ケレンスキーによる臨時政府が樹立され、ロマノフ王朝は廃止された。同年11月、ケレンスキーに代わってレーニンを首班とするボルシェビキが政権を掌握した。十月革命という。共産ロシアが第一歩を踏み出したのであった。ロシア全土に、革命に伴う混乱が発生したが、シベリア・北満方面も例外ではなかった。しかも、「平和、土地、パン」のスローガンで人心を収攬したソビエト政権は、対独戦線から離脱したのである。

 191811日、英国は日本に対して、ウラジオストックに堆積されてある60万トン余の軍需品がドイツの手に渡るのを防止するため、日本軍を主力とする連合軍の派兵を希望する旨、提案してきた。またもや出兵への誘いである。日本を連合国の「受託国」としてシベリア派兵を要請する英国の提案はフランスに支持され、米国に対しても申し入れが行われたが、ウィルソン大統領は一切の干渉、特に日本単独派兵には、連合国の「受託国」としてでも反対であった。

 さて、英仏より共同出兵の提案を受けて、日本側でも出兵問題をめぐる論議が高まった。日本の政府・軍部には、積極的出兵論と慎重論とが対立した。慎重派は米国の反対を顧慮していたのであり、米国との協調なしにシベリアへ軍事介入を行うことを危険な外交的選択と見ていた。我が政府は319「日本は常に連合国共同目的のために貢献を行う用意があるが、それは全部の連合国の全幅の支持に依存する。故に日本は米国と他の連合国間の諒解が成立するまでいかなる行動を取ることも差し控える」と答えた。

 ところが5月中旬、突如としてロシアに新しい事態が起こった。514日、ウラル山中のチェリアビンスク駅において、折から東進中のチェコ軍と故国に向けて帰還中の独墺俘虜部隊の間に衝突が発生、この事件が拡大してチェコ軍とボルシェビキとの衝突となり、やがてシベリア鉄道全線にわたって戦闘が開始まされた。

()チェコ軍とは帝政時代からロシアにいたチェコ人移住者とオーストリア・ハンガリー軍からの脱走兵で構成された軍隊で、全体で約2個師団に達し、1917年には臨時政権により東部戦線におけるロシア軍の一部として、その活動を認められていた。これらのチェコ人は連合国の勝利によって、自国の独立或は少なくとも自治が得られるものと信じていたため、ロシア側に付いて歓んで戦っていた。19182月末にドイツ軍がウクライナに進入し始めたので、チェコ軍は撤退を余儀なくされ、ドイツ軍の包囲を逃れた。チェコ軍は正式に連合国軍に属することになり、形式的にはフランス最高司令部に従属することとなった。フランス政府及びチェコ軍司令部は、チェコ軍を西部戦線へ送って対独戦争に使用することを望んだ。当時、他にロシアから出国する適当な方法がなかったので、シベリア経由ウラジオストックから撤退することになった。3月末にはすでに第一陣はウラル、シベリアに向かって出発、5月中旬には、そのうち約15千人がウラジオストックに到着した。残りのチェコ軍は中央ロシアのボルガ河西方地点からイルクーツクに至る約3千マイルにわたって、シベリア鉄道を列車で移動中であった。総数は4万に近かった。

 反ボルシェビキのロシア人は、共産党の権力を倒すためにチェコ軍を援助した。チェコ軍は蜂起が始まってから数日間のうちに、大した困難もなくボルガ河からイルクーツク付近まで3千マイルの鉄道の大半を占領し、白軍と共に付近一帯の広大な地域を支配下におさめた。即ち、チェコ軍の蜂起は西シベリア大半とウラルにおけるソビエト政権を倒してしまったのである。

 「今日なお、ソ連の宣伝機関は連合国がチェコ軍の叛乱を教唆したとの非難をやめない。その非難は実際には当っていないが、その政治的意味は全く的外れというわけでもない」とジョージ・ケナンは書いている(『レーニン・スターリンと西方社会』)。連合国にとってチェコ軍の蜂起は大きな喜びであり、正に降って湧いた好運なのであった。英仏は直ちに、これを機会に新しい東部戦線の再建計画を進めた。連合国最高軍事会議の決議に基づいて英国は67日、日本にシベリア出兵を要請してきた。これに対して我国は、シベリアでの軍事行動には「米国の精神上並びに物質上の支持」が必要なこと、英仏伊と米国との間に完全なる協調が出来ぬ以前に日本が決意を表明することは徳義上できない立場であることを述べて、出兵要請を拒否したのであった。

 連合国最高軍事会議は、即時シベリアに出兵することが連合国の勝利に不可欠なること、日本の協力なくしては十分な派兵ができないが、日本は米国の支持がなければ効果的な行動を引き受けないこと等の理由からウィルソンに共同出兵を承認するよう訴え、米国最高軍事会議は日米各々約7千の兵をウラジオに派兵すること、派兵目的は独墺捕虜軍に対してチェコ軍の援助にあることを声明すべきこと等を決議した。かくして82日、日本が、翌3日には米国が、シベリア共同出兵を宣言したのであった。

 我国は第12師団(師団長大井成元中将)を沿海州に派遣した(12日ウラジオに上陸開始)。米国は比島から2個連隊を、英国は香港から1個大隊、仏はインドシナから1個大隊半を、8月上旬それぞれウラジオに派遣した。支那も出兵を申し出で、歩兵2個大隊を8月下旬ニコリスクに派遣した。伊も在北京部隊を持って1個大隊を編成し、10月下旬シベリアに到着させた。連合国の共同出兵は完了したのである。

   日本を猜疑し共産主義を歓ぶ

 日米共同出兵―と普通云われている。だがその実態はグリスウォルド(前出)が「米国のシベリア出兵の目的は徹頭徹尾日本の北満とシベリアへの進出に抵抗することであった」と書いているように、米軍は日本の出兵意図に猜疑を抱き、ボルシェビキと戦う日本軍に協力せず、却ってボルシェビキに好意を示す有様だった。これを「共同なき共同出兵」であったとする説もある。

 何故日米はシベリアで共同せずして反目したのか。それは結局ボルシェビズム(共産主義)に対する基本的態度の違いによると云える。

 我が国がロシア共産主義をはっきり危険思想と認識していたのに対して、米国にとってはボルシェビキといえどもシベリア進出の日本軍ほど邪悪な存在ではなかった。のみならず、ボルシェビキは専制政治を倒した人々であり、その点で欧米民主主義と同類に見えたのである。日本の出兵は「シベリアの門戸開放」主義に違反するとも見えた。この時、米国の門戸開放理念はシベリアまで及んでいたのである。遂に米国は自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図し、大正9(1920)1月、米派遣軍は政府通告なしに突如撤兵を行った。この不信義な撤兵を駐日モリス大使は「日本の誇りに対してのみならず、日本のすべての自由主義と親米勢力に対する脳天からの一撃」と評したのであった(細谷千博『ロシア革命と日本』)

 極東露領が赤化することは、我国にとっては満洲・朝鮮への重大脅威を意味したのであるが、太平洋を隔てた米国にとっては対岸の火事でしかなかった。この認識の差についてペイソン・トリートは、「シベリアに対する米国の関心は学問的なものに過ぎない。何故ならボルシェビキは米国の領土をいささかも危険にさらすことにはならないからだ。だが日本にとっては、それは生死にかかわる問題だったのであり、朝鮮に近いウラジオストックに赤色政府の存在することは確かに驚愕すべきことだった。日本が予想以上の兵力を派遣したのはこの理由によるものであり、同情すべきものがある」と書いている。また米政府首脳の全てが極東赤化の危険に対して無知だったわけでもない。ランシング国務長官自身、その日記に「ボルシェビキが満鮮に浸透した場合の日本に対する危険を考えてみる時、過激派進出を阻止するため日本が十分な兵力を派遣することに反対すべきではない。何故なら、極東へのボルシェビズムの蔓延は文明への恐るべき脅威だからである」と記して、我国の共産主義防止の努力に十分な理解を示しているが、日本がかかる具眼の支持者を多く持ち得なかったことは、アジアと世界のためにも不幸なことだった。

(4) 惨劇―尼港事件

   強姦、虐殺至らざるなし

 大正9(1920)年初頭にはチェコ軍救出という出兵目的も達成されつつあり、わが国も満鮮の直接防衛以外は守備線を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明したのであるが、ここに思いがけぬ惨劇、尼港事件の発生を見た。

 日本軍が行ったとされる”蛮行”は針小棒大に書き立てる我国の歴史学者、歴史教科書、新聞も、700名を超える日本人が共産主義者に惨殺されたこの世紀の虐殺事件については、何故か口を緘して語らず、知らぬ風を装い、日本人の記憶と歴史の頁から事件を消し去らんと努めているかのごとくである。

 尼港(ニコライエフスク)は樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海にそそぐ河口に位置する市邑である。大正9年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊計7百数10名が在住していたが、連合軍が撤兵するや、ロシア人、朝鮮人、支那人から成る4000名の共産パルチザンが氷雪に閉ざされた同市を包囲襲撃、守備隊との間に偽装講和を結んで同市を支配した。彼等は仮借ない革命裁判と処刑を開始したが、遂にロシア革命3周年記念の312日、我軍と交戦状態に入り、我守備隊は大半が戦死、居留民ら140名余が投獄された。

 この時、尼港に在って事件を目撃した一人の海軍士官が、非常な辛苦の末、ウラジオストックに脱出し、事件の手記をもたらしたが、その手記は共産パルチザンの蛮行を次の如く伝えている(『大阪毎日』大正9420日付)

 「彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたものとす。即ち左のごとし。

 第一段行動として、露国資産階級の根本的壊滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然略奪したる後、老若男女を問わず家人悉く家屋内に押し込め、外部より各出口を厳重に閉塞し、これに放火し、容赦なく家中に鏖殺(オウサツ)し尽くしたり。

第二段の行動として、親日的知識階級の属する官公吏と私人を問わず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽くし、第三段行動として、獰猛なる彼等の毒牙は着々我が同胞日本人に及びたり。ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、惨虐なる暴戻ほとんど言うに及ばざるものあり、敢えてこれを書く所以のもの、即ち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。

公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱めて獣欲を満たし、なお飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を断ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与え、残酷なるなぶり殺しをなせり。

 また甚だしきに至っては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌いなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞍を与うるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至っては、野獣にもあるまじき兇悪の蛮行にして言語に絶す。世界人類の公敵として天下誰かこれを許すものぞ、いわんや建国以来の民族血族においてをや。

 帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決するところあり。死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼携え相扶け、ようやく身をもって領事館に避難し、その後市街における同胞日本人に属する全財産は、掠奪は勿論、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといえども軍人と云わず領事官民と云わず飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堅忍自重す。しかるに彼等過激派はますます増長し、ついに領事館に向かって砲撃を加え、我が領事館は砲火のため火災を起こすに至り、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。

これまでとなりと自覚するや、居留民の男女を問わず一斉に蹶起して、自衛上敵対行動を取るに決し、男子という男子は総員武器を把って護衛軍隊と協力戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、敵の毒手に斃れんよりは、潔く軍人の死出の途連れ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にわかに活動を開始す。

 しかも全員いかに努力奮戦するも、衆寡敵すべくもあらず、刻一刻味方の減少するのみ、終には繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込むるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、悉く壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、人力のいかにすべきようもなく、なお生存の健気なる婦人または身動きできる戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受くるものかわと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最後を遂げたり」

   壁に残る断末魔の文字

 やがて氷雪の解ける頃、我国は救援軍を派遣したが、共産パルチザンは日本軍到着に先立って5月下旬、収監中の日本人を悉く惨殺、更に尼港市民12千人中、共産主義に同調せぬ者約6千人の老若男女を虐殺、市街に火を放ってこれを焼き払った後遁走した。斯くして、石田副領事夫妻以下居留民384(うち女子184)、軍人351名、計7百数10名の日本人同胞が共産パルチザンによって凌辱暴行された上、虐殺されたのであった。

 事件から2週間後、我が従軍記者8名が虐殺の現場を視察した。『時事新報』(大正9613日付)が掲載したその視察記の抜粋を紹介しよう。

 南北1里半、東西2里半の尼港全市はペチカ(暖炉)の煙突のみ焼け残り、一望荒廃、煉瓦造りの家屋は爆破されて崩れ、木造家屋は跡方もなく焼失せり。電柱は往来に焼けおちて、電線は鉄条網の如く我らの足に絡み、焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱せり。監獄は市の北部にあり。余等は直ちに焼け残れる一棟に入る。先ず異臭鼻を突くに、一同思わず顔を背けざるを得ざりき。中は8室に別れ、腐敗せる握り飯の散乱せる壁に生々しき血液の飛び散れる、女の赤き扱(シゴキ)帯の釘に懸れるなど、見るからに凄惨を極む。最も落書きの多かりしは2号室にて、「大正9524日午後12時を忘るな」と記し、傍らに12時を指せる時計の図を描きあり。また「曙や物思ふ身にほととぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」等数句の俳句を記し、また「昨日は人と思えど、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、白ペンキ塗りの壁に鉛筆をもって書かれあり。特に悲惨なるは、赤鉛筆にて519日より623日までの暦日を数字にて表に作り、最初より24日までは線を引きて消されあるも、25日以下は消されず。これ24日夜、140名は監獄より曳き出されて、黒竜河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。

 記者一行は同胞の呻吟せしこの獄内に暫し低徊の後、出でて黒竜河畔に赴く。造船工場の前およそ200坪の空地は一面血に染められ、色既に黒し。これ皆我が同胞が血!縛めの縄にべっとり付着せる、また鮮血を拭いたる縮みのシャツ等陸に引き揚げられ、舷(フナベリ)におびただしき血潮の飛び散れるなど、目も当てられぬ惨状なり。同胞が恨みを呑んで毒刃に殪(タオ)れしこの汀!余等は一歩一歩同胞の血潮を踏まざれば進むを得ざるほどなり。余等はそれより津野司令官を訪う。津野少将は涙を浮かべ、「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に耐えません。ただその中の一人として卑劣な行いもなく、最後まで屑(イサギヨ)かったということだけは嬉しいです」と。

 『明治大正国民史』を書いた白柳秀湖は尼港事件の項の結末に「七百の同胞は老若男女を問わず、悪獣の如き共産パルチザンの手にかかり、永く黒竜江上の煩鬼と化した。彼等が無辜の居留民に対して加えた凌侮残虐の甚だしき、世界に人道の存する限り、如何なる歴史家もこれを筆に上すに忍びないであろう」と記しているが、前出の海軍士官手記や従軍記者視察記と合わせて読む時、この事件の残虐性が我が国民に与えた衝撃の深刻さを窺うことができよう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Niko-hannin.jpg/1024px-Niko-hannin.jpg 明治以来、近隣諸民族の革命運動にあれほど同情と支援を惜しまなかった我国の民族派陣営(所謂「右翼」)が、共産革命に対しては厳しい警戒と否認の立場をとるに至ったについては、尼港事件が大きく影響していると考えられよう。政治史のみならず、日本人の精神史の上からも、この事件は大書して記録すべきものである。

(正岡注)パルチザンPartisanPartizan)とは占領軍への抵抗運動や内戦・革命戦争における非正規の軍事活動、またそれを行なう遊撃隊およびその構成員。「同じ党派に属するもの」を意味するイタリア語「パルティジャーノ」が語源。英語圏における「パルチザン」は、共産主義や抵抗運動に限らず、特定の党を熱心に支持・応援する一般市民を意味することがある。

尼港事件を起した赤軍パルチザンの幹部達
(Web.ウィキペディアより転用)正岡入
ゲリラと類義語であるが、歴史上、ロシア革命後のロシア内戦における赤軍の別働隊、イタリア王国時代におけるファシズム体制への抵抗運動のうち、特に武力による抵抗活動、ロシア内戦から第二次世界大戦までの朝鮮独立を目指した共産主義系非正規軍いわゆる抗日パルチザンなどに使われる。 (Web.ウィキペディアより改変転用)

   共産侵略を洞察した日本

 尼港事件は「元寇以来の国辱」として我が国民感情を著しく激昂せしめた。当然ながら対ソ強硬論が高まり、我軍は事件解決まで北樺太を保障占領することになり、シベリア撤兵は大幅に遅れる結果となったのである。

 先に紹介した歴史教科書の既述が、如何に出兵の歴史的意義を歪曲し、我国の侵略意図を印象づけようとする編集方針によって書かれているかが明らかになったと思う(自由社も含め「尼港事件」を記した教科書はない)ボルシェビキを“民主主義者”と信じ、北満・シベリアの門戸開放の名の下に日本の出兵を妨害した米国と、シベリアから満洲・朝鮮への共産主義の侵入を防止するために駐兵を続けた我国と、いずれに歴史への洞察力があったかは論ずるまでもなかろう。やがてシベリアより満鮮に共産主義が浸透し、終に満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争を導いた歴史の展開は今日掩うべくもないからだ。

 見よ。シベリア、沿海州はあれから70年を経た今日においてさえ、米国をはじめ外部に対して完全に門戸を閉ざしているではないか。(正岡注:本書出版当時はソ連の時代)日本の進出を阻止すれば、シベリアの門戸開放が実現すると信じ切っていた米国の誤断はこれをもって明らかであろう。タンシル教授は云う。「米国派遣部隊が達成した唯一の成果は、シベリア沿海州を露の無慈悲な支配のためにとりのけておくことだけだった」と。また長年、上海で『ファー・イースタン・レビュー』誌主筆を勤めたブロンソン・リーは次の如く断じ去る。

 「もし日本がシベリアで単独行動を許されていたならば、共産主義のアジア征服計画は紙上のものに終ったであろう。米国のシベリア出兵はアジア共産党の自由活動の地たらしめたのである」と―。

 

4 米国の報復―ワシントン会議の背景

   パリ講和会議での我が主張

 欧州大戦は、19181111日休戦条約が調印され、44カ月に及ぶ戦乱に終止符が打たれた。翌19191月からパリで開かれた講和会議に、我国は英米仏伊と共に五大国の一員として参加した。講和会議に参加した連合国は総計28カ国に達した。

 講和会議に臨むに当って、我国は(1)山東省の旧ドイツ権益継承問題、(2)赤道以北の旧ドイツ領諸島処分問題、(3)人種平等問題―の3つの主たる要求をもっていた。山東問題では支那は、日本の犠牲と労費でドイツの手を離れた山東省を、自分は何の犠牲も払うことなしに回収せんとした。そして支那の対独宣戦(19178)で独支間の条約は一切消滅し、旧ドイツ権益の一切は支那に復帰したと強弁し、山東省の直接還付を主張した。

 日支の主張は正面から対立したが、支那の虫のいい要求は通らず、山東省ドイツ権益の日本移譲はベルサイユ条約中の明文として承認された(156158)。支那はこれを不満として条約調印を拒否し、米上院もまた国際連盟規約を含むベルサイユ条約の批准を否決した。因みに所謂五・四運動は山東問題をめぐって発生した排日運動である。

 独領南洋諸島問題は、我が国が大戦中に英仏伊と協定を結んでいたため容易に要求が通り、マリアナ、マーシャル、カロリン等の赤道以北旧独領諸島は我国の委任統治領となった。

 人種平等問題については、実益よりは主義の問題として我が国はこれを主張した。この背景に、米国等における排日移民問題があったことは云うまでもない。だが日本の主張は白人諸国の強硬な反対に遭った。我国は連盟規約前文に「各国平等の主義を是認し、これら国民に公正なる待遇を与う」の一節を入れることで、日本の人種平等主義の立場の一半なりとも明文化せんとしたが、この提案は国際連盟委員会17票中11票の賛成を得たが、委員長ウィルソン()は全会一致を主張し、終に日本の提案は不採決となった。この時、我国の要求した人種差別撤廃が国際規約として実現していたならば、5年後に米国で排日移民法が成立するような事態には立ち至らなかったに違いない。言い換えれば、日米紛争の火種の一つは、その時於いて既に消えていたことになろう。これも戦争と平和の一つの分岐点であったかと思えば、残念なことという他はない。

 しかしながら、欧州大戦が我が日本に大躍進の機会を提供したことは事実である。支那では山東省のドイツ権益を継承し、21カ条問題は既に1915年、日支条約として確定していた。在満特殊権益は1917年、石井・ランシング協定(前述)で米国の承認を得た。また太平洋方面では旧独領諸島を委任統治し(南洋諸島)、赤道にまで勢力圏を拡張することになった。これらは悉く我国の軍事・外交努力の結果であり、明治以来、日本民族が流した血と涙の結晶であったと評しても過言ではない。

   日米、新たな対立へ

 だが日本のこの発展を喜ばなかったのは米国である。パリの講和会議では支那は日本に敗退し、米国また日本の躍進を阻止することができなかった。米国が日本に報復する機会は、パリ講和会議終了から2年有余の後、ワシントン会議と云う形で出現した。ではワシントン会議とは何であったのか。それは1921(大正10)11月から翌19222月まで米国の招請によってワシントンで開催された海軍軍縮と極東・太平洋問題に関する国際会議で、米、英、日、仏、伊、支、蘭、ポルトガル、ベルギーの9カ国が参加、欧州大戦以来の重要な国際的懸案を調整する努力がなされた。華府会議とも呼ばれ、その後、大東亜戦争に至るまでの日米関係の枠組みと方向を決定した会議として、極めて重要な歴史的意義をもつ。

 第一次大戦後、ドイツは極東と太平洋より敗退し、露国は革命に続く内乱によって余力なく、フランスまたインドシナを領し、支那に租借地を存続していたものの、その勢力は著しく低下していた。ひとり米国は、大戦以来、世界の債権国として実力を示すに至り、又ベルサイユ条約を拒否してその関心を欧州から再び極東に転ずるに及んで、ここに大戦中、満蒙・支那と太平洋に大きく進出した我国と正面から対抗する事態が現出した。

 日本のこの新たな対立関係が、華府会議開催の大きな背景と云える。その背景を更に若干の要素に分析して述べよう。

〈日英同盟の問題〉19117月改訂された第三回日英同盟は、192111月に10年間の期限が来ることになっていた。しかし、この日英同盟もその対象たりし露国が革命で倒れ、ドイツまた極東から退いた今になっては、その存続の意義は希薄であった。

 米国は、露独の脅威が消滅した状況下では、日英同盟は、米を仮想敵国するほか存続する理由なしとして、該同盟の廃棄を望むに至った。日英同盟の存在が支那における日本の自由行動を許していると米国が考えたことも、米国がその不継続を望んだ理由であった。日本は当然日英同盟の継続を望んでいた。英国は19216月から8月にかけて、ロンドンで英帝国首相会議を開き日英同盟継続問題を討議したが、英、豪州、印度、ニュージランドは継続論であったが、米国と接壌するカナダが強硬に反対した。斯くて善後策に苦慮した英政府が、日英米支による太平洋会議を提唱したのと時を同じくして、米から海軍軍縮会議開催の提案がなされたのであった。

〈極東・太平洋問題〉石井・ランシング協定は、元来、米国が大戦中のみ日本を一時的に懐柔するための弥縫策であったが故に、大戦が終ると米国はこの協定を清算せんと試みるに至った。またパリ講和会議で日本の主張が通った山東問題も、引き続き米国において官民の論議を呼んでいた。更にシベリア共同出兵にまつわる両国の態度の懸隔が、彼我の反感を増大せしめていた。米国はそれまで支那に関して主張していた所謂「門戸開放」を沿海州にまで拡大せんとしたのである。太平洋の問題としては、パリ講和会議で日本の委任統治領に入った南洋群島中のヤップ島の帰属問題があった。即ち、米領グアム島東南に位して海底電線連絡の要地たるヤップ島を、日本の委任統治から除外することを米は主張していたのである。

〈建艦競争〉米国の近代海軍力建設の出発点は19世紀末マハン提督の大海軍構想であった。当時海軍長官たりしセオドア・ルーズベルトはマハンの大海軍主義に共鳴し、後年大統領となるや「世界第一等の海軍建設を議会に要求することは大統領たる予の荘厳なる責任である」と述べて、大海軍建設の基礎をいすえたのである。

 日露戦争直後には、米海軍は日本海軍に比して決して強大を誇り得る状態ではなかったが、その後、米国は日本を最大敵手とみなすに至り、又門戸開放主義を中心とする米外交政策遂行のために海軍力の持つ重大性を痛感し、世界第二位海軍を目指す建艦計画を続行した。第一世界大戦はこの勢いを激成し、米国は19168月には150余隻の建艦の3カ年計画を決定し、所謂「世界の何国にも劣らざる」海軍を志すに至った。これが我国を脅威したことは云うまでもなく、そのため、米海軍拡張計画が議会を通過した翌1917年、日本は八四艦隊計画を、翌年には八六艦隊計画、更に翌々大正9(1920)年には遂に八八艦隊(戦艦8、巡洋戦艦8を基幹とする艦隊)計画を樹てざるを得なくなった。

 この間の消息を、イギリスの海軍通バイウォーターはその著『海軍と国家』の中で次の如く述べている。「日本は一年以上に亙って、海上の覇権を握らんとする断乎たる目的をもって行われたる米国海軍の大規模の拡張を、不安の念を高めつつ眺めていた。日本の利害は太平洋に限られているが、米国がその力を集中して来れるは、実にその太平洋に外ならなかった。19198月、米国海軍の最強艦隊が、新たに編制せられたる太平洋艦隊としてパナマ運河を通って来た。同時に太平洋艦隊根拠地の計画が発表された。フィリピン、グアム、サモアにおいて大規模の海軍施設が計画された。ハワイの真珠湾は太平洋上のジブラルタルたらしめられんとした。而して1920年、日本は名高き八八艦隊計画を立てて之に対抗した」(大川周明『米英東亜侵略史』による)

 この日米建艦競争で、金力を別にすれば、ドック・港湾の設備並びに造船技術の上から見て、我国は明白に米国を凌駕していた。米国はこの競争の容易ならぬ性質を漸く看取するに至った。又、米国の海軍計画は日本のみならず英国の海軍拡張を促す結果となり、ここに三大海軍国の建艦競争と、これに伴う緊迫感とは世界政治の重大事実となったばかりか、当事国にとっての財政的負担も容易ならぬものとなった。かくて米国は、自ら招いた苦境から脱出すべく、ここに海軍軍縮に関する国際会議を招集し、これに拠って日英両国の海軍を掣肘すると同時に、日本の太平洋進出を阻止し、もって米国の東洋進出の路を平坦ならしめんとした。華府会議は、まさしくその本質において「日米両国の政治的決闘」であった。

 以上が華府会議前夜の国際的背景である。斯くの如き情勢の下に、19213月、「正常の主唱者」と云われたハーディングが大統領に就任し、ウィルソン的理想主義の政策を翻し、「米国第一」を標榜して欧州への関与より手を引き、外交の方向を東洋に転じ、積極的なる極東政策を推進せんとするに至った。日露戦争以後、日本の大陸進出を妨害せんとする米国の政策は常に失敗してきたが、今、日本の大陸と太平洋への躍進を封ずる機会が到来したのである。かくして米国は海軍軍縮会議に英国提案の太平洋会議を合流させ、19217月ハーディングは華府において軍縮と太平洋及び極東問題に関する国際会議開催の旨を日・英・仏・伊・支・白(ベルギー)・蘭・葡(ポルトガル)に対して提議してきたのである。

5 会議の成果

   太平洋の凍結

 海軍軍縮協定の要点は以下の如くである。

 (1) 英、米、日、仏、伊の主力艦比率を、5531.751.75する。

 (2) 建造中の主力艦は廃棄し、かつ10年間建造を中止する。

 (3) 戦艦は、35千トン16インチ(406ミリ)砲、航空母艦は27千トン8インチ砲を限度とす。

(4) 巡洋艦限度を1万トン8インチ砲とし、建造量を制限せず。

(5) 太平洋前進基地の現状維持を約す(新たな要塞又は海軍根拠地を建設せず、沿岸防備を増大しないこと)

現状維持の対象とされたのは、

米国が太平洋で現在または将来領有する島嶼。但し、米国海岸、アラスカ、パナマ運河近接の島、並びにハワイを除く。

香港並びに英国が東経110度以東の太平洋で現在または将来領有する島嶼。但し、カナダに近接せる島、豪州とその領土、ニュージランドを除く。

千島列島、小笠原諸島、台湾および澎湖諸島並びに日本が将来獲得することあるべき太平洋の島。

()この結果米国はグアム、パゴ・パゴ、フィリピン及びアリューシャンの防備を断念することになった。

 米国はこれによって日本の海軍主力艦を対英米6割の比率に抑えることに成功した。これと引き換えに太平洋の現状維持(「太平洋の凍結」と云う」が約し合われ、日英米とも、太平洋の属領たる島嶼の防護強化を制限することとなったが、米国についてはハワイ、英国についてはシンガポールが、この制限外に置かれ、自由に防備を強化し得ることになったわけである。斯くしてハワイは米軍の主要な前進基地として防備が強化され、英国またシンガポールを東洋最大の要塞たらしめた。

 大東亜戦争勃発するや、我軍がハワイとシンガポール両基地を攻撃したのは、右の如き歴史的背景あってのことだった。この軍縮で米国は世界第1位の海軍建設を目指す野望を達成したわけである。

   ウィスキーが水に―日英同盟終了す

 第二は日英同盟の廃棄である。米国は早くから日英同盟の更新(1911年締結の第三次日英同盟の期限は19217)に疑惑を抱き、その廃止を望んでいた。それは既述の通り日英同盟の対象であった帝政ロシアが滅亡した後も同盟が存続するのは米国を対象とするのではないかと疑ったこと、そしてそれにもまして、日本の支那に対する進出を支えるものは日英同盟存続であると考えたからである。日英双方とも日英同盟の継続を希望したが、日英共に米国を無視するわけにはいかず、結局は日英同盟に代わるものとして日英米仏間に「太平洋に関する4国条約」が結ばれ、その第4条において日英同盟の終了が明文化された。

 斯くして21年間の長きにわたり日本外交の柱となってきた日英同盟は19238月をもって消滅した。

 米国が日英同盟終了を喜んだのは云うまでもない。ハーディング大統領は「日英同盟終了は最大の満悦」と表現し、ロッヂ議員は「日英同盟廃止こそ4国条約の主要目的である。日英同盟は米国の極東と太平洋に対する関係において最も危険な因子だった」と述べ、同盟に対する反感を明言して憚らなかった。

 これに対してかつての英外相グレーは、日本は日英同盟を不当に利用したことは一度もなかったと称え、「日本は大戦中、支那における地位を強化する機会を多少利用した。(21カ条」問題を指す)けれども、日本のような人口問題を抱える西欧のいかなる国が、日本ほどの自制心をもってかかる機会を利用したであろうか」と述べて同盟を愛惜した。

 日英同盟廃棄は当然日本を国際的孤立の方向に追いやる結果となった。同盟に代わる4国条約は某外交官をして「我々はウィスキーを捨てて水を受け取った」と嘆息せしめたほど(T.A.Bailey:A Diplomatic History of the American People)無意味かつ無力な盟約だったからだ。我国はその後、極東情勢の混乱に単独で対処する他なかった。最も同盟の必要な時機にそれがなかったのだ。日本は自ら望まずして、孤立へ追いやられたのである。以後大東亜戦争に至る迄我が国が歩んだ孤立と苦難の20年間を思う時、日英同盟消滅せざりしかば、の感を深くせざるを得ない。

   九カ国条約―門戸開放主義の明文化

 第三に、しかしながら華府会議で最も重大な歴史的意義をもつのは「支那に関する九カ国条約」の成立かもしれない。192226日、会議最終日に参加九カ国間に調印された条約で、支那の主権、独立、領土的及び行政的保全の尊重、門戸開放・機会均等主義の遵守を約したものである。

 第一条

 (1) 支那の主権、独立、領土的保全を尊重すること。

 (2) 支那の安定政権樹立のため十分なる機会を与えること。

(3) 支那における商工業上の機会均等主義の樹立と維持に努力すること。

(4) 友好国国民の権利を損なう特権を求めるため支那の情勢を利用したり、友好国の安寧を害する行動を是認したりせぬこと。(以上をルート4原則と云う)()参照

 第三条 支那における門戸開放又は機会均等主義を有効ならしめるため、支那以外の締約国は支那における経済的優越権を設定せず、他国の権利を奪うが如き独占権を求めない。

 第五条 支那は支那における鉄道利用に関し、旅客貨物とも国籍による如何なる種類の差別も行わぬこと。

 第七条 本条約を適用すべき事態が発生した時は関係締約国間で十分かつ隔意なき交渉をなすべきこと。(第二、四、六、八、九条省略)

 ()華府会議の極東委員会で支那全権・施肇基(シチョウキ)が支那に関する10カ条の原則を提案したのに対して、米国全権・ルートが対案として提案したもの。

 19世紀末ジョン・ヘイの提唱した門戸開放主義は、これまで単なる希望の表明以上に出るものではなかった。だが米国は九カ国条約によって、この米極東政策の原則を、拘束力ある国際条約として成文化し、列国に承認させることに成功したのであり、同条約は「支那のマグナカルタ」とさえ呼ばれている。

 だがこの九カ国条約は、日支の特殊関係を重視する我が大陸政策を原則的に否認する性格をもつが故に、我国を拘束すること最も甚だしく、以後九カ国条約は大東亜戦争に至る日米関係において最も基本的な争点を形成してゆくことになる。

 即ち以後、大東亜戦争に至るまで、米国は九カ国条約を日本の大陸政策を非難する論拠として存分に活用することとなったのであり、満洲事変、上海事変、支那事変の際における対日非難の根拠は九カ国条約違反と云うことだった。この対日非難を甘受してきた日本が、遂に門戸開放・機会均等と云う九カ国条約の原則を正式に否認したのは支那事変中の昭和1311月である(後述)。更に戦後の極東軍事裁判で、日本の国際条約違反が裁断されたが、日本が違反したとされる国際条約の一つがこの九カ国条約だった。実に九カ国条約は華府会議以来終戦後に至る四半世紀の間、執拗に日本を追及し続けたのである。(中略)

 最後に、ワシントン会議で我国はシベリア撤兵を声明し、約束通り山東省を支那に返還し、所謂「21カ条要求」第五号を全面的に撤回した。これらは既に述べた通りである。

()露清密約の暴露 1922124日の極東委員会で支那全権はヒューズ米国全権を通じて1896(明治29)の露清密約を公表した。公表の目的は、かかる密約が支那を国際紛争に巻き込むということと、露支が攻守同盟を密約しなければならないほど日本が侵略的であったことを立証するためのであったようだが、この密約の公表は、却って日本の対露開戦に正当な理由があったことを立証したに過ぎず、支那の信用を高めるよりは、逆の印象を世界に与える結果になったと云われる(小松緑『華盛頓会議之真相』)

   米極東政策の神格化

 日露戦争を境に日米関係が変質し、それまでの良好な関係が一転、対立へ向かったことは既述した。だが、ドル外交による満洲からの日本追い出しや、門戸開放の名目による日本の対支政策掣肘をはじめとする米極東政策は悉く失敗に帰した。パリ講和会議においても、日本外交は支那の主張を敗退せしめ、我国は満蒙から南は遠く赤道まで勢力圏を拡げ、アジア最大の強国の地位を確立した。日本のこの躍進を阻止する機会―それが華府会議なのであった。華府会議は第一次大戦後の平和主義と国際協調を象徴する会議の如き概観を有しながら、余りに現実を無視したが故に、予期せぬ矛盾を生み出してゆく結果になり終ったのであった。

 例えば、米国は不安と疑惑の対象たりし日英同盟を4国条約締結と云う形で解消せしめ、日本と英国を引き離すことに成功した。だがその結果、その後の極東情勢の混乱と急変に、日本は単独で対処せざるを得なくなり、我国は自ら望んだわけでもないのに、孤立の道へ追いやられて行ったのである。

 又「支那に関する九カ国条約」について考えてみるならば、この条約の最大の問題点は、それが早晩支那に確固たる安定政権が出現し、支那が近代国家として統一されるであろうとの予測に基づいた条約だったことである。現実の支那は、その後共産主義の浸透によって、益々混乱の度を深め、激烈な排外主義に向かったのであるが、これは九カ国条約締結当時には予想されなかったことである。華府会議においては、「現実の支那」よりも「在るべき支那」が前提とされたと云われる。されば、支那のその後の情勢の変化に対して、華府条約は何ら現実に有効なる対応を成し得なかったのである。ここに華府会議の非現実性と幻想があった。

 上述の如き華府会議諸条約の上に築きあげられた体制をワシントン体制と称する。西においてはドイツの弱体化を目的とせるベルサイユ体制が、東においては日本の進出を拘束せんとするワシントン体制が、ほぼ時期を同じくして出現したのは興味深い現象であり、この両体制がその後の20年の経過の中で、夫々独・日両国によって打破すべき目標とされ、第二次世界大戦を惹起したことは、一層皮肉な符号と云うべきであろう。

 一般にワシントン会議は米国極東政策の国際的成文化であると云われる。しかも、それは多分に観念や原則の優先する性格のもので、再びグリスウォルドの言葉によれば「米国の伝統的極東政策の神格化」であった。そしてそれが日本の大陸と太平洋への進出を阻止し、もって米国の東洋進出の路を平坦ならしめる動機に出たことを考えれば、ワシントン会議は正しくその本質において「日米の政治的決闘」と呼ぶことが許されよう。

6 国際協調の幻想-排日の軌跡

 ワシントン会議は、第一次大戦後の平和主義や国際協調の気運を象徴するものとも見られるであろう。日米関係について云えば、ワシントン会議から満洲事変に至る10年間は日米協調の時代であり、それを代表するのが幣原平和外交であると考えられている。だが1920年代が、真実国際協調の時代であったなら、ワシントン会議の10年後に満洲事変が勃発するような事態にはならなかったであろう。

 ワシントン会議で高唱された国際協調精神の破綻を示す一つの明白な表徴は、会議の2年後、1924年に米国で排日移民法が成立したことである。

   再燃した米国の排日

 さて、日米紳士協定成立以後の米国における日本人排斥問題はどのように展開して行ったであろうか。

 1913年、カリフォルニア州議会は、日本人の土地所有を禁止し、かつ借地期間を3カ年に制限する法案を可決したが、これが第一次排日法と云われるものである。

 1917年には、全アジア地域からの移民を排斥する米国移民法が制定されたが、我国は厳重な抗議を繰り返した結果、米国への入国を禁止されるアジア地域から日本を除外させることに成功した。

 欧州戦争中は一般に対日感情は好転し、加州排日土地法緩和の望みさえ抱かせたのであった。だが、大戦が終結するや、パリ講和会議での日本の人種差別撤廃の提唱などもあって、排日運動は激化した。その過程で問題となったのが所謂「写真結婚」による渡米である。

 写真結婚は、主として明治末から大正期の米国・カナダなどの日本人移民間に見られた典型的な結婚手段で、故郷の両親や親戚など仲介者を通して写真・履歴書を交換し、文通を重ねた後縁談を成立させ、入籍後に妻として夫の元へ渡航するものである。迎妻帰国に比べて簡便であり、特に新規労働移民が禁止・制限された日米紳士協定以後、呼び寄せ移民の多数を占めた(若槻泰雄『排日の歴史』)

 この写真花嫁は風俗習慣の相違から奇異の目で見られ、米国人の感情を刺激したため、フィーラン、インマン等の加州出身排日家が特に日本人攻撃の好材料としたのであった。

 かくして日本政府は対極の利害を考量し、遂に写真結婚禁止の断行を決意し、写真婦人への米国本土行き旅券発給を翌192031日以降禁止することを決定したのであったが、写真禁止は加州の排日緩和には効果なく、1920年には加州排日土地法が成立し、「帰化不能外国人」には土地所有のみならず、1913年カリフォルニア州土地法の認める借地権も禁止されることとなった(第二次排日土地法)

   「日本人は帰化不能」と裁定

 1921年から1925年にかけて、アリゾナ、アーカンソー、ルイジアナ、デラウェア、アイダホ、カンザス、ミズーリ、ネブラスカ、ネバダ、ニューメキシコ、オレゴン、テキサス及びワシントンの諸州が、カリフォルニアと殆ど同様の狙いをもつ外国人土地法を制定した。そしてついに19221113日、米国大審院は、日本人は帰化による市民権獲得の資格なし(帰化不能)と最終的に判決を下したのであった。翌年、この裁定は全ての東洋人に適用されることとなった。

   排日法案の提出

 第一次大戦後、欧州の疲弊に伴い、東欧及び南欧諸国より渡米する移民の数が激増すると共に、米国における経済上思想上並びに政治上の論議の対象となり、ここに欧州移民問題は一般の注目を惹くに至った。殊に戦後台頭してきたアメリカニズムの思潮は、米国における国民統一の完成の急務なることを強調し、欧州移民制限運動に有力な根拠を与えたのであった。

 「日本人移民だけが、大戦後、米国にとりついた外国人嫌いの影響を受けた外国人ではなかった。ユダヤ人、カトリック教徒、そして黒人も、共産主主義あるいは反米的信条の疑いをかけられた外国人と同様に、国家的魔女狩りの対象となったのである」(グリスウォルド)

 戦後におけるヨーロッパの不況により、移民が氾濫することを恐れて、1921年、米国議会は、如何なる国民たるを問わず、1カ年の入国者数を「1910年に米国に居住していた外国生まれの各国民」の3%に制限する法律を制定した。

 この移民制限法は19266月までの時限立法であったため、やがてこれに代わるべき永久的法案が提出されるに至ったのである。

 192312月、ワシントン州選出共和党議員アルバート・ジョンソンが米国下院に、帰化不能外国人の入国禁止条項を含も移民法案を提出したのはかかる情勢化においてであった。これと同時に帰化不能外国人の米国生まれの子の国籍を剥奪せんとする憲法改正法案もまた同じくワシントン州選出共和党議員ジョーンズによって上下両院に提出された。この「帰化不能外国人の入国禁止」と云う表現は、「日本人と名指しこそしないが、日本人排斥を意図した法律的語法」(グリスウォルド)に他ならなかった。(中略)

   「便宜上あらず主義の問題」

 この明らかに日本人排斥を目的とした2法案を阻止するため、日本政府は埴原正直駐米大使をして国務長官ヒューズと会談し、ジョンソン移民法案は日米通商航海条約及び日米紳士協定と矛盾する条項を含んでいること、また憲法改正決議案は、成立すれば在米日本人に重大な影響を及ぼすものであることを指摘し、もってヒューズ長官の注意を喚起せしめた。越えて192411日、伊集院外務大臣は埴原大使に対し、この問題ではあくまで穏健説を唱えてきた日本の有識階級の論調も、著しい変化を来たしつつあるので、国務長官と篤と懇談を遂げるよう訓令し、その際次の諸点を参照するように注意した(『日本外交文書24/対米移民問題経過概要』)。

 ① 排日移民法は現行の日米通商航海条約(1911)と矛盾すること。

 ② 移民制限は他の東洋人にも均しく適用されるものであると弁明する者があるが、支那人には支那人排斥法があり、他の東洋人については現行移民法中に経度によって制限を設けている点より見れば、新移民法案中の差別規定は特に日本人を目的とするものである。

 ③ 新移民法の差別規定は、日本政府が条約を改正し、紳士協約を遵守し、多年の間、幾多の犠牲を意とせず甚大な苦心を重ねて維持してきた政策を一朝にして破壊するものである。

 ④ 元来、一国の市民としての適否は個人の条件によって個々に判定すべきもので、人種の区別によって概括的に決定すべきものではない。日本人を独断的に帰化不能民として排斥することは日本国民の正当な自負心を損傷するものである。

 ⑤ 太平洋岸の日本人は帰化権なきため各種の権利を奪われ、その結果生業を失って窮しつつあるが、憲法改正決議案はさらに一歩進めて、何ら罪なき彼等の子孫より各種の公権私権を剥奪し、向上的精神に希望を失わせ、米国内の不幸な少数民族たらしめるものである。

 ⑥ 今回の憲法改正決議案は日本世論の反感を衝動し、両国の親善関係に面白からざる影響を与える虞あるため、帝国政府は本問題に関し、米国政府の慎重なる考慮を求めざるを得ない。

 115日埴原大使は国務長官に面会し、日本国民は下院で着々審議中の移民法案と憲法改正案の成行きに甚大の注意を払いつつあり、万一、同案通過すれば我が国論の沸騰するは必然なれば、日本政府が憂慮するは当然の次第なりとして、11日外務大臣訓令の趣旨に基づいて覚書を手交し、国務長官の注意を喚起した。その覚書の一節はこう述べている。

 「日本政府は、外国移民取締りに関して一国の有する主権につき云々せんとするものにあらず。また日本人を歓迎せざる国に向かって移民を送らんと欲するものにあらず・・・本問題は日本にとり便宜の問題にあらずして主義の問題なり。単に数百乃至数千名の日本人が他国に入国を許さるるや否やの問題は、国民感情の問題を惹起せざる限り何等重要なるものにあらず。日本政府の重要視する所は、日本が国民として相当の尊敬及び考慮を受くる資格ありや否やの問題なり。換言すれば、日本政府が米国政府に対して要求する所は畢竟一国民が普通他の国民の自尊心に対して与うる所の正当な考量にして、これ実に文明諸国間における友誼的国交の基調たるべきものなり」

   「華府会議の成果も水泡に・・・」

 128日、下院移民委員長ジョンソンは国務長官に対し、ジョンソン移民法案に関する国務省の意見を求め、これに対しヒューズ国務長官は28日付の長文の回答を送った。彼は移民に対して適切な制限を加えることには賛成であったが、同法案がもくろむような方法は強く不可としたのである。彼の意見では、法案は1911年の日米通商航海条約と抵触するのであった。だが問題は、法律の問題であるよりはむしろ政策の問題なのであり、日本人だけを取り出して排斥する法案の実際的効果は米国にとって不利益なものとなるであろうと云うのであった。

 ヒューズはそのジョンソン宛の書簡において

① 帰化不能外国人の入国を禁止することは日本商人の入国を不可能ならしめるもので、日米通商航海条約に違反する。

② 帰化不能外国人に関する規定が単に日本人のみを目的とするにあらずと弁明するのは無益である。何故ならば、支那人排斥法も、他のアジア人に適用すべき禁止区域に関する移民法の規定も依然として存続するが故に、帰化不能外国人の入国禁止条項は実際上、日本人のみの排斥を目標とすることになる。

と指摘した上で以下の如く述べた。

「日本人は元来敏感なる国民なれば、疑いもなく、かかる立法をもって恥辱を加えられたるものとみなすであろう。余は遺憾ながら、斯くの如き立法行為は、日米関係改善に貢献すること大なりし軍備縮小に関するワシントン会議の事業を、大部分水泡に帰せしむると信ずる旨を表明せざるを得ない。日本における最近の震災に際し、難民救済のため米国が示した関心と任侠も、本法案制定の結果生ずべき日本国民の憤激を軽減するには効果ないであろう。何となれば、斯くの如き立法は如何なる慈善行為をもってするも到底緩和し得ざる侮辱とみなさるるからである。かかる感情が正当なるか否かを論議するは無用にし、単にかかる感情が生ずべしと云うをもって足りるからである。・・・問題は、我々が最も懇篤なる関係を確立して、来れる友邦をかく侮辱することが有意義か否か並びにかくの如き行動より如何なる利益を得ることができるか、なのである」(前掲『日本外交文書』)

 帰化不能外国人に関する条項を削除し、日本移民にも他国民に対すると同様の割当制度を適用することとすれば、それによって入国し得べき日本移民は僅かに246名に過ぎない。従ってこの方法によれば、日米紳士協定と相俟って移民に対する旅券及び移民許可書発給に関して日本政府の有効な協力を受けることができるのであり、更に日本政府として日本より合衆国接壌地に渡航する者の取締りに協力することも確実である。このような措置は毎年250名以下の日本移民に対し二重の取締りを行うことになり、日本人入国禁止措置よりも遥かに有効である。移民制限の必要は十分に認めるが、差別待遇云々の非難を招くことがなきよう希望する―ヒューズ国務長官はジョンソン宛書簡でこう述べたのである。

   問題となった「重大なる結果」

 410日埴原大使は松井慶四郎外務大臣(新任)の訓令に基づき、米国務長官に抗議書を送付した。右抗議書は

(1) 我が国が日米紳士協定を忠実に実行してきたこと。

(2) 写真花嫁は192031日以来停止してきていること。

(3) 米国移民長官発表の統計によれば、1908年から1923年の15年間に米本土の日本人人口の増加はわずかに8,681人、年平均578人に過ぎず、しかもこの中には商人、学生、旅行者、官吏等全ての日本人を含んでいること。

(4) 本問題は日本にとって便宜の問題にあらずして主義の問題である。日本政府が重要視するのは、日本が国民として他国民より相当の尊敬と考慮を受ける資格ありや否やの問題である。

と述べ、次の文言で結ばれていた。

「帰化不能国民排斥条項ノ目的ハ特ニ日本国民ヲ摘出シ、コレニ米国民ヨリ見テ価値ナク且ツ好マシカラザル国民トノ汚名ヲ印スルニアルコト明白ナリ。而モコレガ法律トナリタル暁、ソノ実際ノ結果ハタダ1年ワヅカ246名ノ日本人入国ヲ排斥スルノミ。他面紳士協約ハコノ246名ノ入国ヲ許ス以外ニオイテハ、事実上日本人排斥条項ニヨリテ達セントスル凡ユル目的ヲ達成シ居ルモノナリ、従来国際的交際ニ当リ、常ニ正義ト公正トノ崇高ナル主義ニ立脚シ来リタル貴国民ガ毎年246名ノ日本人ヲ排斥センガタメニ貴国トノ友情維持ニ熱心ト黽勉(ビンベン)トヲモッテ絶エズ努力シ来リシ友邦国民ノ自尊心ヲ著シク傷ツケ、且ツ米国政府モシクハ少ナクトモ行政部ノ誠意ヒイテハ名誉ヲ毀損スルガ如キ手段ニ訴フルノ意思ヲ有スベシテヤ信ジ難シ。・・・モシコノ特殊条項ヲ含ム法案ニシテ成立ヲ見ンカ、両国間ノ幸福ニシテ相互ニ有利ナル関係ニ対シ重大ナル結果ヲ誘致スベキハ本使ノ感知セザルヲ得ザル所ニシテ、貴官モマタ同感ナルヲ信ズルモノナリ・・・」

 ところがこの書簡が公表されると、ロッヂ上院議員(外交委員長)は、埴原書簡の中の「重大なる結果」(grave consequences)と云う文言は「覆面の威嚇」であり、米国は外国の覆面の威嚇によって移民法と云う国家主権に属する立法を左右されるべきではない等と述べ、「重大なる結果」の一句が俄然問題化したのである。この後の数日間のうちに、下院、続いて上院も排日移民法を可決したのであった。

 ここにおいて埴原大使は、「脅迫」とはもってのほかであるとして国務長官に書簡を送り(417)、移民法案中の排日条項が日米の伝統的友誼に及ぼす憂慮すべき影響を「重大なる結果」と信ずるが故に「本使はただ淡白に右文書を用いたる次第にて、毫も非礼の念を伝えんとする意思を有せしにあらず。況や『覆面の威嚇』を加えんとするが如き意思においてをや」と釈明した。

 これに対しヒューズ長官は翌日、埴原大使が少しも威嚇の意を表明しようとの意思を有しているものではないと確信する旨の回答を送付してきたのであった。

 この前後、ヒューズ国務長官はロッヂ上院議員に手紙を送り、次のように深刻な憂慮を伝えたのであった。

「私は事態を非常に心配している。日本に対してのみならずアメリカに対しても、全く不必要な、しかも癒しがたい傷をつけられてしまった。日本人の心に深い恨みの念を植え付けるのは極めて無分別なことであった。もとより日本との戦争を懸念したり恐れたりする必要はないが、これから東洋において友情と協調の代わりに、傷心と敵意とを期待して行かなければならないだろう。このような種をまいた結果がどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。我々が東洋で友好的な雰囲気を作り出そうと懸命に努力してきたために、かなりの成功があったが、これも今となっては水泡に帰してしまった」(C.C Tansill:Back Door to War)

   排日移民法成立す

 515日、下院は両院協議会が決定した移民法案を30858で可決、上院もまた699で可決し、17日移民法案は大統領に送付された。

 526日、クーリッジ大統領は1924年移民法案に署名し、排日移民法は成立した。

 論議に論議を呼んだ1924年排日移民法は実施されることになった。1900年頃から太平洋岸に発生し、次第に激化して行った米国の排日移民問題は、かくして一応の帰結を見た。「日米両国政府が避けようと30年間にわたって努力を続けてきた排日法は、遂に事実となったのである」(グリスウォルド)

 排日移民法は正式には1924年移民法と呼ばれる。既述したように1924526日成立、同年71日より実施された32条により成る新アメリカ移民法である。欧州移民の流入を割当制によって制限した1921年比例制限法の強化と恒久化を目指すものであった。

 即ち「第11(a)各国移民の年歩合を1890年国勢調査に基づく米本土在住の当該国籍の外国出生者の2%とす。尤も各国民の最少歩合は100名とす。(b)192771日以後は、毎年入国総数を15万人とし、それを1920年国勢調査による合衆国大陸移住者の旧本国別による人口数に按分比例し、各国に割り当てた数を歩合(Quota)として移民の入国を許す。尤も各国の最少歩合を100とす」となっており、この規定によれば1927年以後は日本移民の割当数は185となるのであった。

 だが他方で、この移民法は第13(c)項「合衆国市民となることを得ざる外国人は・・・合衆国に入国することを得ず」と規定しており、先に大審院により「帰化不能国民」と判定された日本人は、この第13(c)項により歩合制の適用対象から除外されたのである。支那人は1882年支那人排斥法で、また他のアジア人は1917年移民法で既に入国を禁止されていたので、この移民法の排斥条項は明白に日本人を対象とするものであった。同法が排日移民法(Japanese Exclusion Act)と称される所以である。

   我国の「厳粛なる抗議」

 不幸にして排日移民法は成立し、日本政府が1907年紳士協約以来、苦心に苦心を重ね維持してきた現状維持(Status quo)の立場は遂に根本より破壊されることとなった。531日、日本政府は埴原大使をして抗議文をヒューズ国務長官に提出せしめた。

 右抗議は、「1924年移民法」の第13(c)項が日本人排斥を目的とすることは明白であると批判し、「惟フニ正義公正ノ原則ハ列国親交ノ根底ナリ。現今一般ニ承認セラレ、米国ノ終始支持セル機会均等主義マタ実ニコノ原則ニ基礎ヲ有ス。殊ニ人種ニヨル差別待遇ハ不快ノ念ヲ一層深カラシム・・・」

と述べて、排日移民法が米国対外政策の理念たる機会均等主義と矛盾する点を鋭く指摘した。そして抗議文は、

「新法律ノ規定ハ、竟(ツイ)ニ日本国ニオイテ紳士協約ニヨル責務ノ継続承認ヲ不可能ナラシムルニ至レリ。日米両国政府間ニオイテ長時日ニ亙リ反復討議ノ未成立セル友好的強調ノ了解ハ今ヤ米国ノ立法行為ニヨリ突如トシテ破壊セラレ、日本ガ両国ノ親善関係ノタメニ過去16年以上耐忍ヲモッテ誠実且ツ正確ニ遵守シ来レル自制的取締リモ今ヤ徒爾ニ終レルガ如シ。・・・日本政府ハ茲ニ1924年ノ移民法第13(c)項ニ包含セラルル差別的条項ニ対シ、厳粛ナル抗議ヲ持続シ、コレヲ記録ニ留メ、且ツ米国政府ニ対シ差別待遇除去ノタメ一切ノ適当ナル措置ヲトラレムコトヲ要請スルヲモッテソノ当然ノ責務ナリト思考ス」と結んでいる。

 明治の中葉以来続いた日本移民排斥問題をめぐる日米両国の応酬はひとまず終了したのであった。そして戦後の1952(昭和27)627日制定の新移民帰化法で差別条項が撤廃され、日本人への割当制(185)適用が復活されるまで、排日移民法は28年間にわたって施行され、その間日本移民は完全に米国の港から締め出され続けたのであった。

   反米世論沸騰す

 4月中旬、移民法案が上下両院を通過すると、東京所在の新聞15社は、排日法案の不正不義を断じ、421日、連名で共同宣言書を発表した。その中で曰く―

「今回アメリカ合衆国の上下両院を通過排日法案の不正不義なる次第は極めて明白である。・・・華府会議によって一層その度を加えた日米親善と、昨秋の大震災を機として太平洋の両岸に架せられた友誼の橋及びその多幸なる記憶が米国国会の措置によって破壊されるとは、我々の到底忍び得ざる所であり、もし該法案にしていよいよ成立せんか、吾々はこれを米国民の確定意思と認むるの外なく、その結果両国民の間に存せる伝統的友好が深大なる創痍を受くるは勿論、両国民の協調によって各自並びに諸国間の幸福に寄与することあるべき一切の光輝ある事業に一大障害を来さん」と。

 428日内田良平の指導下に東京で開かれた国民大会を皮切りに全国各地で排米国民大会が開催され、決議文の中には電報でアメリカ大統領に伝達されたものも少なくなかった。425日には、神田三崎町仏教会館に日大、早大、東洋大の学生が集まり「排日問題大演説会」が開催され、大学有志十数名が熱弁を振い、「来たれ愛国の志士」「救え同胞の危機」等の檄を飛ばした。

 その他各所で演説会が開かれ、警視庁は在留米人の身を案じ、各警察署へ通牒を発するに至った。また、清浦首相、水野内相その他の閣僚や陸軍省へ過激な投書が頻々と送付された。

 526日排日移民法が成立するや、日本の世論は沸騰し、排日移民法反対の集会が相次いで開かれた。531日には対米問題に憤った40歳前後の男が「米国民に訴う」「日本国民同胞に与う」との遺書を残し、割腹自殺を遂げる事件も起きた。

 6月に入るや、在日米国宣教師に続々と脅迫文が送られた。63日東京商工会議所は、新移民法実施を極めて遺憾とする旨の決議をなし、米国各商工会議所に打電することに決した。

 65日東京大阪の主要新聞社19社連名の下に「排日移民法の成立は内容において人道に背き正義に反するのみでなく、日米両国の伝統的親誼を無視したる暴挙である。我が国民は隠忍自重するも決してこのような差別的待遇に甘んずるものではない。吾人は輿論の代表としてここに我が民族の牢固なる決意を表示し併せて米国官民の反省を求むる」旨の共同宣言が発表された(瀬川善信「1924年米国移民法と日本外交」『国際政治26』所収)

 また同日、両国国技館では「米国の措置に対し日本国民挙国一致的決意を表示する」目的で対米国民大会が開かれ、上杉慎吉帝大教授、頭山満、内田良平らが演説し、3万人が来会した。

 排米運動は映画界にも飛び火し、東京市内の映画関係者は71日より「米国映画を一切上映しない」旨の決議を行った。

 排日法実施の71日には、米国大使館焼跡に竿高く形容されていた米国国旗を引き下ろし、窃取するという事件が起きたが、犯人は間もなく逮捕され、国旗も無事に取り戻すを得た。

   1924年」の歴史的意味

 排日移民法の成立した1924年は、米国の対日作戦計画であるオレンジ計画が確定された年でもあった。

 1904年日露戦争開戦直後の4月、米国では陸海軍統合の色別計画と云われる一連の戦争計画が作成された。即ち赤は英国、黒はドイツ、緑はメキシコ、オレンジは日本などと、国別にカラーネームをつけて呼ばれる作戦計画であった。

 対日戦争計画の中心はフィリピン防衛構想であった。即ち、米国が米西戦争でフィリピンを獲得してから大正中期に至る20年間は、日本に比島攻略の意図はなかったのであるが、米国は日本にその意図があるものとして、太平洋戦略を着々と推進したのである。そして、ワシントン会議によって軍備強化を凍結された西太平洋における対日作戦計画「陸海軍統合作戦計画―オレンジ」が作成されたのは、正に19248月だったのである(WR・プレイステッド論文「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」)

 かく見てくる時に、大正13(1924)年という年は真に象徴的な年であると云う他ない。米排日移民法の成立は、日本国民をして国力なき国の悲哀と屈辱を痛感させ、三国干渉以来、2度目の臥薪嘗胆を余儀なくさせた。ワシントン会議は、太平洋における日本の発展を掣肘するに止まらず、それが掲げた国際親善・国際協調なる理想が、所詮は一時的な幻影に過ぎなかったことを、排日移民法によって白日の下に暴露したのである。日本人が、ワシントン体制の下での平和主義に、偽善の疑いを抱き始めたのも理由のないことではなかった。ワシントン体制への抜きがたい不信と、その体制を打破せんとする民族的志向は、否応なくここに動き始めたのである。そして、これと時期を同じくして、米国軍部において、具体的な対日太平洋作戦計画「オレンジ・プラン」が最終的に制定されたことは、日米関係の歴史的推移を象徴する重大事象であったと云わねばならない。

 ワシントン会議によって太平洋上に新時代が到来したかと思われたが、それも経った2年間の幻影にしか過ぎなかった。実に1924年の移民法こそは、ワシントン会議の成果を瓦解せしめ、太平洋の平和を危殆に陥れ、国際親善の蕾を枯死せしめたのであった(前掲瀬川論文)白人世界への進出を拒まれた日本は、これ以後、満洲を日本民族が生存発展するための新天地として、或は「生命線」として一層注目と関心を寄せるようになってゆく。1924年は戦争と平和の分岐点であった。

()

*参考文献等

① 『大東亜戦争への道』 中村粲 平成2128日第1刷 展転社

② ウィキペディア等Web.

日露戦争中の明治38(1905)年総理大臣兼外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中来日したアメリカ特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定。この協定では、米国は大韓帝国における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。列強が勢力を模索する時代の中で、日米首脳が相手国の権利を認め合った協定といわれ、その後の日米関係を円滑にするものであった。

国務長官エリフ・ルートと、高平小五郎駐米大使の間で交渉が行われ、明治41(1908)年に調印されたもの。この協定は、190811月時点における領土の現状を公式に認識し、清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等(所謂門戸開放政策)、ハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認、満洲における日本の地位の承認から成っている。また暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満洲南部の支配を承認し、そして日本はカリフォルニアへの移民の制限を黙諾した。