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 「終戦御前会議 2度も示された国民護持の聖慮 他」 迫水久常~別冊正論より 

H27.8.23 五月女菊夫


迫水久常略歴

  • 1902年(明治35年): 東京市に生まれる。鹿児島県鹿児島市出身。
  • 1925大正14年):東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業大蔵省入省。
  • 1930(昭和5年):甲府税務署長。
  • 1934(昭和9年):岡田内閣 内閣総理大臣秘書官
  • 1937(昭和12年):大蔵省理財局金融課長。
  • 1941(昭和16年):企画院へ出向。企画院第一部第一課長。
  • 1942(昭和17年):大蔵省総務局長。
  • 1943(昭和18年):内閣参事官
  • 1944(昭和19年):大蔵省銀行保険局長。
  • 1945(昭和20年):鈴木貫太郎内閣 内閣書記官長総合計画局企画院の後身)長官。貴族院議員勅撰
  • 1947(昭和22年):公職追放
  • 1951(昭和26年):公職追放解除。昭電疑獄昭和電工事件)で起訴されるが小原直が弁護担当となる。唯一人一審段階で無罪となる。
  • 1952(昭和27年):自由党から25回衆議院議員総選挙鹿児島県第1区に立候補し衆議院議員となる。
  • 1956(昭和31年):4回参議院議員通常選挙に立候補し参議院議員に転じる。
  • 1960(昭和35年):1次池田内閣2次池田内閣 経済企画庁長官
  • 1961(昭和36年):2次池田内閣 郵政大臣
  • 1966(昭和41年):鹿児島工業短期大学1973廃止)の学長に就任。
  • 1977年(昭和52年):死去(74歳)。叙正三位、叙勲一等授旭日大綬章。

         

 

終戦御前会議 2度も示された国民護持の聖慮

元鈴木貫太郎内閣書記官長 迫水久常

終戦できたのは天皇陛下のおかげ

私が今日お話しをしようと思いましたことは、終戦ができましたことはまったく天皇陛下のおかげであるということを申し上げたいと思うのでございます。鈴木貫太郎内閣ができましたのは、昭和20年の4月7日であります。当時の習慣によりまして、総理大臣の歴任者いわゆる重臣と称する方々が集まって、小磯内閣の後の総理大臣の候補者として鈴木大将を推薦されたのを陛下がご嘉納あそばされまして、大命が降下したわけであります。

 組閣直後、鈴木総理大臣は非常に慎重でございまして、戦争を止めるということは決しておっしゃいませんでした。東郷(茂徳)外務大臣の入閣が一応1日遅れたんでありまするが、それは東郷外務大臣が鈴木大将に「あなたが戦争をやめる気ならば、自分は外務大臣になる」とこう言う。「どうしても鈴木大将は戦争をやめるとおっしゃらない。だから入閣はしないんだ」ということで、東郷外務大臣が頑張られたのであります。私は何回か東郷外務大臣のお宅にお伺いしまして「総理大臣の顔を御覧なさい。あの勇気の持ち主でありますから、戦争をするにせよ、やめるにせよ、鈴木総理大臣をご信認になって入閣してください。」ということを、私はお願いに行ったことを覚えております。

 総理大臣は組閣直後、「直ちに日本の国力の真相を究めるように」という御下命がありました。陸軍、海軍、企画院、そういうようなものが本当の材料を持ち合って検討を致しました結果、日本が組織的に経済を運営し、また、行政というものを全国統一的な立場でできるのは、昭和20年の9月いっぱいという判定をしたのです。

 そういうことで9月を過ぎると日本の経済は断片的になる。行政も断片的になる。そのために鈴木内閣では各地方総監府というものを設置することを決めたのでありまするが、従って戦争も組織的にはできずに、ゲリラ的になってしまうことになるだろうという判定を下したのが、4月の末であります。

 国際情勢の判断においては、ソ連がソ満国境に兵力を集中しておるが、ドイツの戦争が終わった後、ソ連は復員することなく、ソ満国境に兵力を集中し始めまして、その体制の整うのは概ね9月、こういうのが陸軍の判定でもありまして、何としても9月一杯までには戦争を終結しようということをご決心になったのが、4月の末だと思います。

 爾来、いろいろ御腐心になりましたが、鈴木総理の胸中には2つの条件を考えておられたようであります。その1つは、国体の護持であります。天皇制は絶対に確保する。もう1つは、民族一本の姿で戦争を終結しなければならない。こうお考えになったことです。

 陸軍がどうしても戦争をやめないと頑張っておる以上は、あるいは戦争をやめることはできても、軍と民との間の内乱的な状態になったり、軟派と硬派との間の分裂がおこったりすることのないように、民族一本の姿で戦争を終結することができるようにしたい。この2つが戦争終結の条件であるとお考えになりましたから、どうしてもきっかけを探さざるを得なかったのであります。

 6月22日という日は、われわれは忘れることのできない日であります。この日天皇陛下が、総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、軍令部総長、参謀総長の6巨頭をご内面になりました。この6巨頭は、最高戦争指導会議というものを構成しておって、日本の最高の意思を決める機関であります。内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長および内閣総合計画局長官の4名が、この最高戦争指導会議の幹事という立場に立っておったのであります。

 最高戦争指導会議の構成員たる6巨頭をお呼びになりまして、本土決戦ということについてのお話がありました。いろいろ奉答を皆申し上げたんですけれども、最後に天皇陛下から、「これは命令で言うのではないが、懇談の立場で言うのであるが、自分の希望としては、戦争を1日も早く止めるように工作してもらいたいということを希望しておる」というお言葉が、6月22日にこの最高戦争指導会議構成員の会合においてお言葉があったのであります。

 これで、日本の方向は決まりました。しかし、阿南陸軍大臣は、もしそのことが下の方に漏れるというと、あるいは異常な事態が起こらんとは限らん。クーデターが起こる恐れがある。2.26事件を上回るクーデターが起こって、天皇陛下ご自身を秩父宮様とでも変わっていただこうと言う者も出てこないとも限らない。厳重にこのことは極秘にしておいて、6人だけで工作を進めていきたいと、阿南陸軍大臣がご希望になりましたもんですから、その含みでやったのであります。

 それ以後、6人の巨頭はしばしば会合をされました。そうしてついに、ソ連に仲裁を頼むということを決めたのであります。私は、東郷外務大臣が、非常にそれに反対をされたことを覚えております。どうしても仲裁が必要と考えるならば、むしろ蒋介石に仲裁を頼む方がいいんじゃないかということを東郷外務大臣は言われたのであります。しかし、陸軍はおそらくソ満国境の状態が緊迫しておって、むしろこの際ソ連に仲裁を求めることの方が、ソ満国境から侵入してくることを未然に防ぐ1つの手段になると考えたんだろうと私は判断しますが、非常にソ連に仲裁を頼むことを主張しましたので、近衛文麿公をソ連に特派して、そうしてソ連に仲裁を頼むことを決めたのであります。

 ソ連はそのことについていろいろなことをサウンドしてきたことは事実でありますが、4月15,6日になりまして、モロトフおよびスターリンは、ポツダムの会議に出席をするからベルリンに行くと、日本からの要請には、ポツダムから帰ってきてから答えをするということを言い残して、モスコウを後にしてしまいました。

 政府は非常に焦慮して、佐藤尚武大使に、できるならポツダムに追っかけて返事を取れということまで指令したのでありますが、そのことは遂にできませんでした。

 

 ポツダム宣言が出ましたのはその直後であります。7月26日、突然としてポツダム宣言が出てまいりました。英国、米国、中華民国の3国の署名であります。東郷外務大臣はこのポツダム宣言が出ましたときに、その次の閣議において「これは今までのアメリカの言ってるのとは全く違う。今までアメリカは、国家として無条件降伏を要求しておったのに対して、8個の条件を掲げておる。そうしてその条件を日本国政府が呑むならば、戦争は終結しようという条件付きの戦争終結の提案の形になっておる。これを受諾することによって、日本国の存在が亡くなることはない。日本国は、厳重に主権を保持しつつ戦争を終結し得ることであるから、ポツダム宣言を受諾しよう」と言われたのであります。「アンコンディショナル・サレンダー(unconditional surrender)・無条件降伏」という言葉は、8番目の条項に「日本国政府は、あらゆる日本の軍隊が無条件に降伏するように処置をせよ」というような表現で「アンコンディショナル・サレンダー」という言葉が出てきた。すなわち、軍隊の無条件降伏ということが一つの条件ですが、国家としての無条件降伏を要求してるのではない。そこで東郷外務大臣、非常にこれを受諾すべきことを主張されましたが、閣議においてはソ連に仲裁を頼んでいるのに、ソ連からの返事を待とうじゃないかということで、しばらく様子を見ようということに決定をいたしたのであります。

 

8月6日、広島に原子爆弾が落ちました。それで原子爆弾であるということが確定しましたのは8月8日であります。この日、総理大臣は明日9日、朝から閣議を開いて正式に終戦のことを論議する。原子爆弾が出現したる以上、原子爆弾を持てる国と持たざる国との間には、戦争は成立しないということは、陸軍もこれを認めるだろうし、国民は必ず皆これを承認するであろうから、もう公式に終戦のことを論議してもいいんじゃないかというお考えであります。私がその準備をしておりますうちに、9日午前2時ソ連の宣戦布告を聞いたのであります。

 私は、そのときのことを今考えても全身の血が逆に流れるような憤激を感じます。日ソ間に日ソ不可侵条約というものが厳として存在しておったのにかかわらず、ソ連は日本からの仲裁申し入れに対して一言の返事もしないで、いきなり戦争をしかけてきました。当時、スターリンは、後でわかったことでありますが、モスコウにおいて「この日本に対する宣戦布告は、日露戦争に対する報復である」という演説をしていることは、皆様ご承知のとおりであります。

 8月9日の午前10時から閣議が開かれました。原子爆弾の落下、それにソ連の宣戦布告という致命的な2つの事実を前にした閣議でありまするから、閣議の方向は自ずから決まりまして、ポツダム宣言を受諾することによって戦争を終結すべしという議論になったのであります。

 しかし、阿南陸軍大臣は「陸軍としてはそれに同意ができない。このままここで戦争を終結することになれば、国体の護持について我々は確信を持てない。どっかアメリカ兵を一遍負かした機会において戦争を終結することなら別であるが、今この段階でこのまま戦争を終結することは不同意であるというのが陸軍の意思である」と非常に強調されました。そうしてとうとう夜の8時になった。閣議不統一ということは、内閣が総辞職をしなければならない1つの原因であります。夜の8時ごろ閣議を休憩しまして、鈴木総理大臣が総理大臣室に帰られました。私は総理大臣室に行って「どうされますか」と聞きましたら、「自分は総辞職をしないで終戦は自分の手で片づけたいと思う」と。「それでは総理、どうされますか」と聞きましたら、「君はどういうふうに考えるか」と言われますから、私は「誠に畏れ多いことでありますが、御聖断を拝する以外に方法はありますまい」ということを申し上げましたら、鈴木総理大臣は、自分もそう思ったから、今朝陛下にお目にかかったときにそのことをお願いしてきてあるから、その段取りを取るようにというお言葉があったのでありました。

 どういう方法で御聖断を仰ぐ機会をつくるかということについて、私はいろいろ考えまして、最高戦争指導会議を開いて、その席に天皇陛下の御親臨を仰いで、そうしてその席上、陛下の御聖断を賜るという処置を取ることに決めたのであります。

 私はそのときに非常に考えましたのは、ポツダム宣言を受諾するということは、条件付きの向こうの提案を呑むことでありまするから、一種の条約になる。条約ということになれば、当時の制度では枢密院の批准を経なければならないという議論が起こってくることが必至でありまするから、鈴木総理大臣に「この御前会議には、最高戦争指導会議には、特に思し召しを拝して、枢密院議長平沼(騏一郎)男爵を参加せしめられてはどうですか」ということを申し上げまして、鈴木総理大臣は「それなら君がそうするように」ということで、太田耕造先生が遣いになって行かれまして、平沼男爵にその最高戦争指導会議に参加をしていただいたのであります。

 この御前会議、8月9日の御前会議と称する第1回の御前会議であります。この御前会議が開かれたのは、昭和20年8月9日の夜の11時。鈴木総理大臣が議長、私はいわば進行係の形で会議は進行しました。鈴木総理から閣僚、その列席者、構成委員を一人ずつ指名しまして発言を要求しまして、最初に東郷外務大臣が、理路整然とポツダム宣言を受諾することによって戦争を終結すべきであるという議論をされました。

 次は阿南陸軍大臣が、冒頭に「私は東郷外務大臣の説には反対であります」と前提をされまして、「このままで戦争を終結するということについては国体の護持覚束なし。やむを得ない、本土で敵を迎え撃って必ず勝たなければならない。本土で決戦をするということは、自分は必勝とは申し上げませんが必敗ではありません。人の和があり地の利がある。必ずやアメリカ兵を撃退することができると思います。」声涙ともに下るというのはあのことを言ったんだと思いますが、両方の頬に涙が流れるのをお拭いもなりませず、阿南陸軍大臣は仰せられました。

 その次に米内海軍大臣は、極めて簡単に本当に一言「自分は東郷外務大臣に同意であります」と言われただけです。平沼男爵はいろんな質問を軍部の大臣、外務大臣などにされまして、結局、東郷外務大臣の説を支持する

立場をお示しになったのでありますが、梅津参謀総長、豊田海軍軍令部総長は、それに対して阿南陸軍大臣に同調する意見を申しまして、3対3という立場になったのが、8月10日の午前2時ごろであります。そこで鈴木総理大臣が立ちまして、「これだけ議論をしたけれども、議論は結論を得られないが、事態は極めて緊急であって、一刻の猶予も許さない状態であるから、甚だ先例もなく恐れ多いことであるが、ここで陛下の思し召しを伺うことによって、われわれの決心を決めたいと思う」と、こういうことを宣言をいたしまして、天皇陛下の前に進んで丁重にお辞儀をされまして、そのことを陛下にお願いをしました。

 天皇陛下は左手をお出しになって自分の席に帰れとお示しになりました後、体を前にお乗り出しになるようにしてお言葉があったのであります。「自分の考えは、先ほど東郷外務大臣の申したことに賛成である」とおっしゃいました。一瞬間、私は胸が詰まりまして涙が眼からほとばしり出て、机の上に置いてあった書類に涙の後が残ったことを覚えております。部屋はたちまちみんなすすり泣きの声から、やがて声を上げて泣きました。天皇陛下は白い手袋をおはめになった御手の親指を眼鏡の裏にお入れになって、何遍か眼鏡の曇りをお拭いあそばされました。陛下もお泣きになっていらっしゃるということを、私たちは拝したのであります。

 思いがけなく天皇陛下のお言葉は続きまして、「念のために理由を言う」ということをおっしゃいました。「自分としては先祖から受け継いできたこの日本国を子孫に伝えなければならないが、本土で決戦をするということになれば、日本国民のほとんど全部の者が死んでしまって、そのことを実現することができなくなると思うから、甚だ堪え難いことであり忍び難いことであるが、ここで戦争をやめて、1人でも多くの日本国民を救いたい。その場合、自分はどういうことになっても一つも差し支えない」ということを、たどたどしく途切れ途切れに仰せられたのであります。

 私たちは本当に泣きながら陛下のお言葉を拝しました。「大勢の戦死者が出ておるが、その人たちのことを考えると、自分の胸はまったく痛む」というお言葉もありました。

 やがて陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣から天皇陛下に入御を、ご退席をお願いしまして、そのあと私どもが残りまして、会議を続行したのであります。陛下ご退席のときのお姿を私は目の前に今思い出すことができますが、後ろから体を支えてあげなければと思うほど、お疲れの御様子で、たどたどしい歩き方でお席をお立ちになったことを覚えております。

 後に残りました者の会議において、日本国天皇の命によって日本国政府はポツダム宣言を受諾。ただし、そのポツダム宣言の要求事項の中には、天皇の国家統治の大権を変更する要求は、これを含まざるものと了解する。すなわち「天皇制の護持ということが条件だ」ということを言って、それを「あなた方の方は当然天皇制を廃止せよ、なんていうことは要求していませんね。この了解を確認せられたい」という条件を打ったのであります。

 これに対する返事が参りました。正面からそのとおりという返事はしてきませんでした。「日本国の最終の政治の形態は、日本国国民の自由に表現せられたる意思によって決定するもの」という回答が来たのでございます。ところがその日、返事を受け取りました日本は大騒ぎになりました。

 まず平沼男爵は「この回答は不満である」と言われたのです。「日本の天皇の御位置は、神ながらの御位置であって、日本国民の意思以前の問題である。しかるに先方の回答は、そのことを理解しないで、日本国民の意思によって天皇制の護持をするかどうかということを決めようとしておるが、それは明らかに日本国体の本義と若干違うんじゃないか。この際、もう一遍アメリカに対して日本の国体の本義のことをよく説明して、納得のいく説明を取らなければ自分は同意できない」とこうおっしゃったのであります。

 鈴木総理大臣は非常に困りました。そうして、遂に13日は閣議を終結にしないで、明日まで持ち越すということにして、そのままにされたのであります。そうして、陛下のお力にもう一度おすがりをしたのであります。

 9日の御前会議は制度としての会議でありました。親臨を仰ぐ、陛下の御臨席を仰ぐ最高戦争指導会議。14日の御前会議、この御前会議は陛下の思し召しによって、陛下の方から最高戦争指導会議の構成員と全閣僚をお召しになるという形の、陛下のイニシアティブによる会議という形式であります。9日のときは人数が少のうございますからみんなの前に机がありました。この日は人数が多うございますから、椅子だけが3列に並べられておったのでありますが、ここに一同集まりました。

 そうして陛下にお出ましをいただきまして、鈴木総理大臣から今日までの経過をご報告いたしました。すなわちポツダム宣言を受諾するという返事をした。天皇の国家統治の大権は変更する旨の条項は入ってないということを確認せられたいという条件を付けた。それに先方としては、そういう返事が来たということをご報告をしました。「これについて異論のある者もございまするから、異論のある者から陛下にその意見を申し上げることをお許しを願います。」と言いまして、阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田海軍軍令部総長の3人がこの席上で発言をされたのであります。

 私はこのときの阿南陸軍大臣のお話にも感激をしました。本当に本土決戦の覚悟を披歴されまして、そうして、もし本土決戦ということにならざれば、大和民族は全滅して青史、歴史に名を留めることこそ民族の本懐であると思うというお言葉も、阿南陸軍大臣のお言葉の中にはありました。

 そのほかは、誰も発言を鈴木総理はさせませんでして、豊田軍令部総長の発言が終わりますというと、鈴木総理から「もう発言はございません。陛下の思し召しをお願い申し上げます」と申し上げたのであります。

 天皇陛下は非常にたどたどしいお言葉でありましたが、もちろん原稿等はお持ちになってるのではありません。その場所で、本当に絞り出すように仰せられました。「先方の回答はあれで満足してよろしいから、速やかに戦争を終結するように」というお諭しがあったのでございます。

 陛下は白い手袋をおはめになった御手で、何遍も両方の頬をお拭いになりました。陛下ご自身もお泣きになっておられたのであります。太田文部大臣がおっしゃいましたが、岡田厚生大臣のごときは、椅子に座っておるのが堪え難くお泣きになったのを私は覚えております。誰も泣かない者はありませんでした。

 陛下は「陸海軍においてもし必要ならば、自分がどこに行ってでも説き諭す。軍隊は非常な衝撃を受けるであろうから、どこにでも行って自分は説き諭してもよろしい」と仰せられました。「必要であるならば、マイクの前に立って直接国民に諭してもよろしい」というお言葉もそのときにあったのであります。

 陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣が立ちまして、陛下の思し召しを承ったことを申し上げまして、陛下はご退席になりました。そうして、われわれ閣僚は総理大臣官邸に帰って閣議を継続して、ポツダム宣言を受諾ということを正式に決定して、その日の午後の閣議で終戦の御詔勅の審議に入ったのであります。終戦の御詔勅の審議につきましても、お話をしたいことは数々ございますけれども、「万世のために太平を開く」という言葉が中心であります。

 

そうして、これから陛下がそのお言葉の中に「これから先、再建は非常に困難であるが、自分も国民と一緒に努力をする」というお言葉があったことを表現するために「朕は、ここに国体を護持し得て、常に汝臣民と共にある」という言葉が、あの御詔勅にはあるんです。本当に陛下が国民の中に帰っていらしたような感じがしました。終戦後25年(=昭和45年 1970年)、今日の繁栄を持ちました。これは、私は経済学的には自由貿易であるとか、アメリカの恩恵であるとか、蒋介石の恩恵もあるといろいろ言いますけれども、私は、たった一つ考えることは、終戦後、厳として天皇陛下が御存在になっていらっしゃるから、今日の日本の繁栄があるんだということを、私は確信をいたしておる次第でございます。

 

ポツダム宣言受諾「無条件降伏」「戦前全否定」の誤解

 当時アメリカのトルーマン大統領をはじめ連合国の首脳は、日本との戦争を終結するのは、日本が無条件で降伏してくる場合に限る。この日本が無条件に降伏してくる場合というのは、軍隊が無条件に降伏するのではなくて、日本国という国家が無条件に降伏する、すなわち日本国の統治権のあり方というものを、連合国の自由に負かすという意味で降参してきたときに限るということを、トルーマンが言っておりました。

 そこで、直接戦争をやめたいということをアメリカに申し入れることは、非常に危険である。鈴木総理大臣の条件とされたところは、天皇制を絶対に護持すること。当時は「国体の護持」という言葉を使ったわけであります。ご承知の7月26日、ポツダム宣言が発表されたのであります。米英中華民国の3国の名前で発表されました。東郷外務大臣は、このポツダム宣言が出ますとその次の閣議において、このポツダム宣言は8個の条件を掲げて、この条件を日本国政府が呑むならば戦争は止めようという条件付きの提案である。今までアメリカが言ったように、日本国が国家として無条件に降伏するにあらざれば戦争はやめないという、かつての方針は全然放棄して、新しい8つの条件を掲げて日本に終戦のことを提案してきたんだ。すなわち条件付きの終戦の提議で、これを日本国政府が受諾することは一種の条約の締結の形で戦争を終結することができる。日本の主権というものは厳然として存するのであるから、国体護持ということについてはその瞬間においては少なくとも問題はない。後の問題になってくる。そういうことだから、むしろポツダム宣言を受諾した方がいいんじゃないかということをしきりに言われたのであります。ポツダム宣言を結局受諾することによって日本は戦争を終結した。ポツダム宣言には約8個の条件を掲げてその条件を呑みました。「unconditional surrender・アンコンディショナルサレンダー」ということは、8番目の条件に、日本国政府は日本国のあらゆる軍隊が無条件に降伏するように処置を取れという格好で、「unconditional surrender」という言葉がでてきます。すなわち、軍隊の無条件降伏ということは、1つの条件でありますが、日本国家というものは厳として存続をしておるわけです。それが西ドイツと日本とは全然違うところ。

 西ドイツは、1945年の5月の8日に全ドイツの軍隊が降伏して戦争はすんだ。そのときにはドイツの人民あり、領土はあるけれども、これを統治する組織のない状態だ。いわば敗戦による亡国という格好で戦争は終わっております。米英仏ソの4か国が当分の間、ドイツの人民および国土は自分たち4か国が管理するという声明を出しまして、この状態が10年続いているんです。10年経った後、西側の3か国が自らの占領地域を出し合わせて新たな条約によって作った国が西ドイツ。ソ連が自分の占領地域を出して作った国が東ドイツであります。

 したがって西ドイツも東ドイツも戦争を始めたドイツの承継国家ではあっても、同一の国家ではありません。したがってその証拠には、西ドイツも東ドイツも連合国との間に講和条約を持っていないんです。すなわち西ドイツも東ドイツも戦争を始めた国ではありませんから、戦争を終結するための講和条約というものはないんです。

 そこへ行くと日本は、昭和25年(昭和26年?)にサンフランシスコの条約がありまして、厳然として講和条約を結んでおります。すなわち、戦争を始めた日本国が存続してるから戦争を終結するための講和条約を結んだということになる。戦前と戦後とは同一の国家だということはこれで明らかであります。

 不思議なことには、西ドイツは同一の国家ではないのに西ドイツの学者、あるいは西ドイツの国民は、何とかして、今の西ドイツは戦前のドイツを同一国家であるということをいろいろ言おうとして努力しているようでありまするが、逆に日本は、戦前の日本と戦後の日本とは別個の国なんだというふうに言いたいと考えてる人間が、相当にあるように思います。いわゆる社会党のごときはそういうことだと思います。

 それがどういうところに表れてきたかというと、最近行われました建国記念日の制定の問題です。社会党は2月11日にすることを非常に反対しました。日本は戦争前の紀元節、すなわち建国記念日は2月11日である以上、戦争後の国家は、戦争前の国家と同じ国なんだから、誕生日が違う別な日に制定することはない。歴史上の非常なはっきりした事実が別にあるなら別だけれども、そうでない限り2月11日をそのまま踏襲するのは当たり前じゃないか。国家は同一なんだという考え方から2月11日を主張しましたけれども、日本の社会党の方、あるいは学会においては2月11日説に非常に反対があったんです。

 とうとう社会党は5月の3日の新憲法の発表の日を言いましたけれども、国会の中におりますというと、我々の耳に入ってくるのは2月10日でもいいんだよ、12日でもいいんだよ、11日だけは軍国主義を連想するから困る、こういうのが社会党の言い分でした。

 まったく私は、昔の日本国と今日の日本国とは違う国、昔の軍国主義と今日の日本とが違う、軍国主義のないという点はいいんですけれども、法律上の人格としての日本が同一であるということさえ否定しようとする、私は社会党の連中の言い分は間違えてると私は思っております。幸いに、紀元節が11日が建国記念日になりまして、この点から言っても日本の戦前戦後の国家の同一性ということは証明されたような形になりましたが、ポツダム宣言では決して日本が統治権をアメリカに委ねる意味において無条件降伏したのではありません。要するに軍隊の無条件降伏という1つの条項を含んでおるけれども、国家の無条件降伏はないんだと。すなわち日本はアメリカに対して無条件降伏したことはないんだ、軍隊の無条件降伏はしたことはあるが、日本国家は無条件降伏をしたことはないんだというのが、私の考え方であります。

 戦後、アメリカの宣伝が非常に「無条件降伏、降伏」と言いましたので、日本国民非常に迷っているようです。私は、吉田さんなんかがもっとなぜはっきりこういうことを言わなかったのか。私だって7年間追放されておりました。当時のことを知ってる者は全部追放されておったんですから無理はないかと思うんでありますけれども、まことに残念なことだと考えておる次第でございます。

 

阿南陸軍大臣が落涙した言葉

 阿南さんは、終始一貫終戦反対論を言われたような風でした。皆そう理解しております。もし本当に阿南さんが戦争終結反対であったら、鈴木内閣総理大臣のとこにやってきて辞表を出して翌日から閣議に来なくなったら、内閣は陸軍大臣を補充しないわけにはいきません。陸軍大臣のいない閣議というものはあの場合成り立ちませんから、内閣は総辞職をしたでしょう。

 そうすれば、その次の陸軍総理大臣というものは陸軍の方から奏請して、そして陸軍内閣を作って戦争を継続することが十分できたと思うのに、阿南さんはその挙に出でらずに、閣議の席上でただ、終戦反対を言われるだけでした。

 6月22日の日に天皇陛下の思し召しを拝しておられるんですから、阿南さんは内心、戦争終結をすることが一番大御心に添う所以であるということを知っておられたと、私は思います。

 なぜ一体それならば反対されたのか。もし阿南さんが早めに戦争終結賛成ということを言われたら、陸軍の若い連中は必ず阿南さんを殺したでしょう。それは当時の話をしますとですね、陸軍の連中というのは本当に斬れる日本刀を始終持っているんですから、これはもう実際危ない話です。 

 さっき言いました御前会議も不意打ちを食らわしたわけです。8月9日。今でも覚えてますけれども、陸軍の某課長は軍刀を持っていきなり私の部屋に入ってきて、「書記官長、なんてひどいことをするんだ。よそ者なんじゃないか」って入ってきました。その血相は明らかに、これ斬るなと私は思ったんです。

 かえって不思議なもんで、そういうときになると度胸というものが出てくるもんだと思いまして、何々君、一つ軍刀を置いてこいと、僕はいきなり言いました。そしたら「軍刀?」とこう言って、ちょっとそこで気勢が変わりまして、そうして私は斬られずに済んだ。あとで一体、あのとき君は俺を斬るつもりだったの。当たり前だ、叩き斬ってやるつもりで行ったんだと、こう言いますから。気合によっては叩き斬られておったと私は思います。

 ですから、阿南さんが戦争終結賛成と言ったら、陸軍はおそらく阿南さんを殺したでしょう。陸軍大臣のいない内閣。鈴木内閣は総辞職せざるを得なくなる。そこで阿南さんは、最後に終戦の御詔勅が出るまで、自分が陸軍大臣の地位にいなければ戦争を終結することはできないんだとお考えになったから、だから終戦反対の話ばかりされたんだと思います。

忘れもしませんことは、8月13日の午後の閣議の最中に、私にちょっと合図して閣議室を出られますから付いていきますと言うと、閣議室の隣の電話から陸軍省の軍務局長を呼ばれまして、そしてこう言われるんです。「現在閣議は進行中であって、諸君の意図も逐次各閣僚が了解しつつあるから、自分が帰るまで君たちは動くことはならぬ」

 私はびっくりしました。逐次諸君の言うことを了解しつつあるどころの騒ぎじゃなくて、どうして阿南さんを説得しようかということをやってる最中なんです。それでさらにこう継いで「ここには書記官長がおるが、要すれば閣議の状況を書記官長をして報告せしめるがどうだ」と言われるんです。

 私は本当にこれは阿南さん、腹芸やってるなと思いましたから、しかるべく調子を合わせる決心をしたんですけれども、そこでは私が電話に出る場所はありませんでした。

 そうして、もう何遍も内ポケットに手を入れられるんです。眼鏡かなんかを。そのたびに、あっ、辞表が出てくるんじゃないかと私はハラハラしたことを、実は覚えております。遂に最後まで辞表をお出しになりませんで、副署をされたのです。

 私は忘れもしませんが、もう副署が済んだ後、陛下がちょうど録音をお録りになってる最中ですが、総理大臣室に私がおりますというと、阿南陸軍大臣が入ってこられました。で、こう言われました。総理大臣に「閣下、先般私が申し上げましたことは、閣下に対して非常にご迷惑であったと思いまするが、私はただ皇室の御安泰を念ずること以外何ものも他意はありません。お許しを願います」と阿南さんが言われました。

 鈴木さんは立って、阿南さんの側に寄っていって、こう言われました。「阿南さん、あなたのお心持ちは私はよく知っております。皇室は阿南さん、必ず御安泰ですよ」と、こう言われたの。その後なんと言われたかと言いますと、鈴木総理は「何となれば、今の陛下は春と秋の御先祖のお祀りを、必ずご自分で熱心になさる方でございまするから。」

 今の普通の言葉でいえば、先祖の供養をよくしてらっしゃる方だから、必ず皇室は御安泰だと、こういう意味です。そういうことを今の若い連中はおそらくわからないでしょう、気持ちは。しかし、阿南さんは涙をサーッとこぼされました。そして「私も堅くそう信じます」と言って、部屋を出ていかれた。

 私は玄関までお送りをして、総理大臣室に帰ってきますと、鈴木総理大臣は「阿南はいとまごいに来たんだ」と言われました。約4時間経った後に阿南さんは自決をしておられます。

 今参議院のちょうど伊藤公爵の銅像が立ってますけど、そのすぐ近所が陸軍省の副官官舎でして、そこへ阿南さんは住んでおられて、そこで自決されたのであります。ですから、阿南さんは自分の命を絶つことによって、陸軍を抑えられたんだと思います。だから阿南さんのあの犠牲がなかったら、戦争はまたどうなっていたでしょうか。

 

参考文献

別冊正論24 再認識「終戦」―大東亜戦争と迫水証言、戦後、日本人―