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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 シベリア抑留日本人に対する「民主運動」教育            平成28年1月17日 五月女菊夫


1.シベリア抑留の概略

 シベリア抑留とは、終戦後武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称である。一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト3国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。現在でもそれらの地域には、抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993(平成5)年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。

 昭和20年11月になって、日本政府は、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。昭和21年5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという。左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

 昭和22年から日ソが国交回復する昭和31年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された者、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると言って、収容所でソ連側に誓い念書し早期に帰国した念書組と呼ばれた者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など、満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され撫順戦犯管理所などに収容された者がいた。

しかしさまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例や(例・川越史郎)、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もある。

 一方、兵卒や下士官を中心に抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数いて、GHQによる1950(昭和25)年からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている。多くは帰国後も共産主義に固執し続けたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に1990年代後半まで彼等を監視下においた。

日本側の調査による死者名簿には約5万3000人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1000人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6000人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4000人、行方不明・推定死亡者は9万3000名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。


2.思想(洗脳)教育は主要任務の1つだった

 ア.思想教育は共産主義の本質

 共産主義は唯一絶対のイデオロギーとして、本質的に他者への宣伝、教化、浸透という動因を持つ。その点は1神教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)の布教に似ている。ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカを植民地化するとき、キリスト教の宣教師が先兵の役割を果たした史実を想起してみればよい。ソ連が抑留者に思想教育、イデオロギー教育を施して共産主義思想を注入し洗脳しようとしたのは、共産主義国家の本質に根ざしていたのである。そういう意味で、シベリアの「民主運動」あるいは「民主化運動」は、ソ連側およびアクチーヴ(活動家・積極分子)側が意図的に用いた用語であり、欧米で使われる民主主義とは異質のものだ。「共産主義運動」または「思想改造運動」と呼ぶ方がふさわしい。

 それを端的に示しているのは、思想教育に使われた教材が「ソ連共産党小史」や「レーニン主義の諸問題」であったことや、「民主運動」を教導した「日本新聞」(後述)に掲げられた「すべての道は共産主義に通ず」「共産党の下に人民政府を樹立せよ」といったスローガンである。シベリア「民主運動」が、共産主義国ソ連に抑留されたために起きた特有の現象であったことは、昭和23(1948)年1月まで比較的長く英軍管理下でタイ、ビルマ、マレーシアに抑留され、粗末な食料で危険な作業に使役されて多くの犠牲者を出した日本兵捕虜約10万人の間では、同様の「民主運動」は全く起きなかったことが傍証している。

 イ.先例としてのドイツ人捕虜への政治工作(思想教育)

 ソ連の「捕虜収容所に関する規定」は主要任務の1つとして「扇動宣伝工作と大衆文化工作」を挙げていた。これが捕虜に対する政治工作、思想教育の根拠となり、グプヴィ政治部と収容所の政治将校はまずドイツ人捕虜に対して以下のような政治工作、思想教育を実行し、次に日本人に応用した。

 ◎ドイツ兵向けの「ダス・フライエ・ヴォルト(自由な言葉)」など、国別の捕虜向け宣伝新聞を発行した。

 ◎1943(昭和18)年7月に、クラスノゴルスク収容所で「自由ドイツ国民委員会」を設立した議長は、共産  主義者で作家のエーリヒ・ヴァイナートで、創立メンバー38人のうち13人が亡命共産党員だった。機関誌と  して「フライエス・ドイチェラント(自由ドイツ)」を発行した。

 ◎1943年9月に「ドイツ将校連盟」が設立された。議長にはヴァルター・フォン・ザイトリツ少将が選ばれた

 ◎ドイツ捕虜の反ファシスト・アクチーヴの養成に力を入れ、反ファシスト・クラブ、反ファシスト政治学校・講  習会をつくって、1943年で6700人にのぼるアクチーヴを生み出した。講習会を終えた反ファシスト・ア  クチーヴは収容所で活動し、また一部は前線に送られてドイツ軍に対する宣伝工作に従事した。

 ◎ドイツ敗戦後、「自由ドイツ国民委員会」と「ドイツ将校連盟」が解散したあとも、反ファシスト運動は引き続  き行われたが、その目標は「ソ連経済復興への寄与」および「民主的ドイツ建設のためのイデオロギー教育」へ  と変わった。

 ◎NKVD(=内務人民委員部)は、戦争犯罪人、残虐行為をした者、親ファシズム的または反ソヴィエト的な者  など、「諜報的関心をそそる分子」の摘発を行った。「戦犯」の摘発だけでなく「戦後においても自国で高い政  治的社会的地位を占め、利用し得る捕虜を見つけて抱き込むこと」すなわちソ連のスパイ、協力者に仕立てて送  り込むことも重要な任務だった。

 ◎摘発したドイツ軍人に対する公開・非公開の裁判を行って3000人以上を処罰した。同時にニュルンベルク裁  判用の資料の準備も行い、「戦犯」を証人として出廷させた。

 ◎捕虜を段階的に本国送還し、1947~49(昭和22~24)年の集団送還期には積極的な政治工作が行われ  た。出発前には多数の大衆集会が開かれ、ソヴィエト政府と同志スターリンへの感謝文や決議が採択された。帰  還列車はスローガンやポスターで飾られ、文献や新聞が支給され、輪読会や座談会が開かれ、演芸会が行われた


3.「日本新聞」とシベリア「民主運動」

 ア.「日本新聞」の発行と編集者

 「ソ連内の日本人捕虜向けに発行される」と銘打った「日本新聞」第1号は、昭和20年9月15日に発行された 8月9日のソ連軍侵攻から1か月あまり、日本の降伏からちょうど1か月、関東軍兵士の大部分がまだ満州の収容所にいたときである。きわめて早いタイミングでの発行で、ソ連が思想教育をいかに重視していたかが分かる。副題は「新日本建設へ」とあり、発行元はハバロフスクの日本新聞社となっているが、本当はソ連軍(赤軍)政治部が発行したもので、編集長は極東ソ連軍司令部の将校イワン・コワレンコである。

 「日本新聞」はタブロイド版の日本語新聞で、昭和24年末の2ヶ月を除いて火木土と週3回発行され、昭和24年12月30日の662号をもって廃刊となった。当初は2ページ立てで、後に4ページになった。発行部数は20万部、およそ捕虜の3人に1人の割合で発行されたとされる。昭和23年5月1日発行の第412・413合併号から「日本しんぶん」に名称が改められた。

 コワレンコは、自伝「対日工作の回想」で、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥に呼ばれて、「ソ連共産党中央委員会は、日本の軍人捕虜のために新聞を発行することを決めた。隔日発行とし、部数は15万部。判の大きさは『プラウダ』の2分の1とする。発行開始年月日は1945年9月1日」とのソ連赤軍中央政治総局長クズネツォフの暗号電報を見せられ、編集長に推薦されたと書いている。昭和20年7月30日頃のことだ。

 コワレンコは創刊から廃刊3ヶ月前まで4年間編集長を務めており、「日本新聞」の編集に決定的な影響を与えた。コワレンコは、「日本新聞」が世界や日本で起こっている出来事を伝える「情報源」としての役割だけでなく、「オルグ(組織者)」としての役割も果たしていたと語っており、レーニンのテーゼ「新聞は集団に宣伝し扇動するものだけでなく集団を組織するものでもある」に忠実だった。

 コワレンコは確信的なスターリン主義者で、共産主義ソ連への忠誠を貫いた。インタビュー記事では「捕虜に対するソ連の処遇は適切であった」と、あたかも日本人の大量死がなかったかのように語り、「当時ソ連政府はこの委員会(反ファシスト委員会)を使って思想教育をやろうとは全く考えていなかった。共産主義教育は一切するなというのが党の方針だった」と、事実とは真逆のことを述べているので彼の発言を額面通りに受け取ることはできない。ここでコワレンコの日本人観を見ておこう。

 「日本人は目立つ特色を持っている民族だ。まず集団主義の国民、勤勉な国民ということだ。日本人は約束すればどうしてもそれを実現して遂行する。文化的にも高い。そして権力に弱い。こうした民族性は収容所で日本人を管理するのに役に立った。日本人は論争をまず一切しなかった。命令には『はい、そうですか』という返事以外は聞いたことがない。収容所時代は私の日本人に対する経験の一部ではあるが、『日本人は強く出れば引き下がる』という私の考え方に影響を与えた。」

 日本通だけに日本人の長所、短所をよく捉えている。ソ連はこのような通俗的な日本人観に基づいて抑留者をうまく利用した。日本人が勤勉さを発揮して働けば働くほど作業のノルマを釣り上げた。日本人の美点であるお人好よしと同じく勤勉さも、ソ連にあっては都合よく利用されたのだ。

 編集部には、ソ連側はコワレンコ編集長以下常時7,8人いた。日本人幹部の浅原正基は、この編集部とは別に、ナウモフ中佐が指導するグプヴィ(捕虜抑留者管理総局)政治部に属する宣伝グループまたはオルグ団があったと証言しており、「日本新聞」は赤軍政治部、宣伝グループはグプヴィ政治部と役割分担が決まっていたようだ。オルグとは左翼用語で組織者を意味し、組織拡大のためにハバロフスクから収容所へ派遣され政治工作をした。

 日本人スタッフは、浅原正基と相川春喜ら編集部に10人くらい、翻訳室に12,3人、それに工場を含めて、全部で30人ほどの日本人が働いていた。 
  浅原正基はシベリア「民主運動」の指導者の一人で、「シベリア天皇」の異名をとった。昭和21年2月下旬から、昭和24年8月に「戦犯」の疑いで逮捕されるまで、コワレンコとほぼ同じ期間「日本新聞」の編集に携わった最重要人物であり、帰国後もコワレンコを「同志」と呼んだ。ペンネーム「諸戸文夫」はソ連首相モロトフにちなんだもので、新聞に多くの論文や解説などを書いた。戦前、東京帝国大学在学中に日本共産党の再建運動にかかわり、治安維持法違反で検挙された左翼活動歴を持つ。帰国後、日本共産党に入党した。

 相川春喜は学生時代に「唯物論研究会」やプロレタリア文化活動を理由に退学処分を受け、その後著作活動を行った左翼理論家だった。「日本新聞」には昭和21年半ば頃から加わっている。浅原と同じく帰国後、日本共産党に入党した。

 編集部の中心人物である浅原正基と相川春喜が、ともに共産主義運動の経験を持つ左翼活動家だったことは、「日本新聞」の性格に大きな影響を与え、「民主運動」に筋金を入れることになった。ふたりは大正末期から昭和初期にかけて、マルクス主義が一世を風靡した時代の申し子だった。

 「日本新聞」は当初2ページ立てで日本とソ連に関する記事が多く、コワレンコの言う「情報源としての役割」を果たしていた。天皇に対して「天皇陛下」という尊称や敬語が使われる一方で、ソ連の宣伝や日本など各国の共産党に関する記事が多く載せられるなど、左翼的傾向も明らかだった。戦犯や戦犯裁判に関するニュースを多く取り上げていたのも特徴である。しかし「組織者」としての役割はまださほど表れていない。

 「日本新聞」が4ページ立てになったのは昭和21年2月28日の第71号からだが、この号に初めて諸戸文夫(浅原正基)の署名入り論文が載った。論文のタイトルは「民主戦線と財閥の陰謀」で、「日本軍国主義」と「財閥」を批判し、「天皇制の廃止」と「民主主義的統一戦線の結成」を訴えるという日本共産党の路線を踏襲した生硬な左翼用語で書かれていた。これは後の「民主運動」を予告するものだった。

 以後、「日本新聞」の4面の構成は次のようになった。

  1面 国際情勢、社説

  2面 日本帝国主義関係、論説、解説

  3面 ソ連国内事情

  4面 「民主運動」、収容所関係、文化欄

 記事の情報源としては「タス通信」の配信と東京放送(NHK)の短波放送の受信、ソ連共産党機関紙「プラウダ」の記事、1ヶ月遅れで来る日本共産党機関紙「アカハタ」の記事、各収容所からの投書などであった。浅原らの日本人編集者もコワレンコ(ペンネーム大場三平)らソ連側スタッフも論説などを数多く書いた。タス通信や東京放送を利用したので、意外なほど早く内外の情報が伝えられており、幽閉された抑留者にとっては唯一の貴重な情報源だった。国際関係、日本関係といっても日本共産党をはじめ各国共産党の動向や労働運動を取り上げた記事が多かった。東京放送の受信記事は次第に減ってタス通信主体になっていったが、タス通信社はもともとソ連の国営通信社で対外宣伝のための情報機関だった。次第にニュース報道よりも社説や論説、時事解説が多くなり「宣伝者」「組織者」としての側面が強化されていった。

 イ.「民主運動」開始前の状況

 満州や樺太で日本兵はその固有の部隊編成を解かれ、1000名の作業大隊に再編成されて入ソした。隊員の構成がすっかり変わった大隊が多かったが、あまり変わらないものもあった。尉官を大隊長として軍隊組織の形を取り、旧軍秩序を維持して入ソした。多くの大隊では週番下士官制、皇居遥拝、軍人勅諭奉唱、敬礼、当番兵制などが従来通り行われた。さらに悪名高い内務的リンチが横行しているところもあった。

 過酷な作業では下級兵につらい作業が割り振られ、食事も上官に厚く、下級者に薄くという軍隊の習わしが生きていた。これも食料が足りているうちは、日本軍の習わしとしてさほど問題にはならなかったであろうが、収容所での給食は生死ぎりぎりの量であったし、将校は作業を免れていたから、兵卒の不平不満が高まるのは当然であった。現実に犠牲になって死んでいったのは若い初年兵や年配の補充兵(根こそぎ動員兵)といった、軍隊の弱者、弱兵であった。

 例えばフルムリ第5収容地区に収容された岩井由三は、入ソ当初の様子をこう述べる。

 「下士官と古年兵は上の寝台その他は下段である。ペチカを焚くので温度は上にあがる。下段は寒い。彼らは良い  場所を占領し、配給の黒パンは勝手に切り、大きいのを食べた。当然その他は定量より減る。そんな無茶を毎日繰 り返した。また日本へ帰れぬこともあって、初年兵や応召兵に難癖をつけていじめた。」

 ここにあるのは悪名高い内務班的現実である。こういう収容所もあったということだが、もはや戦時ではない平時なのに内務班的横暴が許されてよいわけはない。兵卒の不平不満から、食料および労働の平均化要求が出てくるのは当然であった。いつまでも旧軍方式をそのまま続けるのは無理があり、戦闘集団ではなく作業集団として全員が無事に帰国するためにどうするかが問題だったのである。

 ただし、ハーグ陸戦法規や昭和4年のジュネーブ条約では、将校と下士官・兵卒を労働や給食などで別待遇にすることを認めていたことは確認しておかなければならない。ソ連が当初、軍隊組織を維持し、将校の作業を免除し、給食に別の規準を設けたことは国際法に則っていたのである。将校による食料のピンハネは論外として、「平等」の名の下に将校食を廃したり、兵卒と同じ作業を強制したりするのは国際法違反の行為だった。ソ連は「捕虜に関する規定」で将校の別扱いを認め、また「捕虜には制服、階級章、勲功章の着用が許される」として軍組織を認めながら、「民主運動」を指導する過程では自ら同規定や国際法を破っていった。

 一方で、日本軍は軍人勅諭や戦陣訓は強調するものの戦時国際法の教育を怠ったため、兵卒はほとんど国際法の原則を知らなかったのも事実である。下級兵を中心としたアクチーヴが「民主化」や「平等」をスローガンにして将校の特権をすべて剥奪しようとしたのは、国際法に無知ゆえの行き過ぎとも言えた。

 作業大隊の編成はソ連側の指示だったが、日本の将校・下士官が軍隊組織の復活をこころよく受け入れたのもまた事実であった。とくに入ソ後は、収容所側と日本軍幹部とのいわば利害共有関係が形成された。タイシェト第7収容地区に抑留された落合東朗が記すように、「将校や下士官は、まるでソ連側の人間ではないかと思えるほど作業の進捗に一喜一憂した。わが身を犠牲にしても部下を守ろう、できる限り仕事量を抑えて部下の体力の消耗を食い止めようなどという殊勝さはどこにも見当たらなかった」幹部もいたのである。一方で、大隊幹部が身を挺してソ連側とやりあったところもあったものの、権力がソ連側にあったのは厳然たる事実である。大隊長といえども当局に逆らえば否応なく営倉に入れられ、解任されて他の収容所に追放されるのが現実だった。

 また、「民主運動」とは関係なく入ソ早々から旧軍の階級を捨てた収容所もあり、旧軍隊組織の横暴と一言で括ることのできない現実があった。たとえば、イルクーツクに抑留された工藤清吉は自然発生的な民主主義についてこう記している。

 「そのうち、ソ連軍の管理下にある捕虜は、解散した軍隊組織を維持する必要はないのではないかと主張する人たちが出てきた。集団生活をする以上秩序と統制は必要だが、それは軍隊の階級によってではなく、集団の話し合いの合議で決めるべきではないのかと、民主主義と称する耳慣れない言葉が使われ出した。(中略)『民主主義の原則は多数決である。すべての物事は多数決によって決められる。』このことは私たちが今までの教育では受けたことのない新しい考え方であった。」

 この段階で変わったことは、今まで自分の考えや意見を阻まれていた人たちが自由に物が言える立場になったことである。これは従来の命令社会が崩壊したことを意味し、大きな進歩と改革であった。班長、寮長、役員などが話し合いや選挙で選ばれた。現在の私たちには当然のことではあるが、当時のラーゲリでは画期的な大改革であったのだ

 この民主主義を提唱したのはインテリ層だったという。工藤のラーゲリで「日本新聞」が配られたのはその後のことであった。日本の伝統的な民主主義思想(5箇条の御誓文)に加えて、大正期にはマルクス主義だけでなく吉野作造の民本主義に代表されるように民主主義思想も普及していたから、収容所でこうした自然発生的な民主主義が行われる素地は十分あったのである。

 ウ.「民主運動」の3時期

 「民主運動」は大きく3つの時期に分けることができる。

   第1期(昭和21年春~21年末) 「日本新聞」友の会の時期

   第2期(昭和22年)       「民主グループ」の時期

   第3期(昭和23年~24年)   「反ファシスト委員会」の時期

 第1期は黎明期で、「日本新聞」の働きかけで「日本新聞」友の会が生まれ、いわゆる「反軍闘争」が一部の収容所で行われた。各地で「民主グループ」が結成され、壁新聞も発行された。輪読会など啓蒙活動が主体だった。リーダーは将校グループや知識層、左翼運動経験者だった。

 第2期は「友の会」をもとに生まれた様々な「民主グループ」を、地区や地方で横断的に組織化した時期である。収容所では旧来の軍隊組織(大隊本部)と「民主グループ」が共存していたが、指導層から将校を追放する動きが強まるとともに、アクチーヴのうち1,2名は専従者として活動した。政治学校や講習会が開かれ、アクチーヴを養成した。「戦犯」や「反動」の追求が始まり生産競争が奨励された。ナホトカでの帰還者教育が強化された。

 第3期は当局の指導で「反ファシスト委員会」が選挙で選ばれ、大衆化の名の下に「民主運動」が過激化して、「批判会」「吊し上げ」が横行した時期である。リーダーは若い労働者農民出身兵士に代わり、「反ファシスト委員会」が大隊本部に代わって実権を握っていった。生産競争も激しくなった。締めくくりとしてスターリンへの感謝文書名運動と、日本共産党入党運動が展開された。

 こうした経緯を見ると「一番洗脳されやすいのは、世間知らずの若い職業軍人と、東北出身の貧農の兵隊たちです」という言葉が真実味を帯びてくる。軍医だった小林重次郎は昭和23年2月に、ソフヴァガーニ第2収容地区の将校収容所(400人)に追放されたが、着いた途端「同志諸君、この連中を今後1ヶ月間、ただの反動ではなく特別極反動分子として取り扱ってやろう」と宣告され、「こんな狂人の集団が、私たちに迫り、包囲し、袋叩きにするのかと恐れた」と恐怖の体験を語っている。世間知らずの将校の中にも、狂信的なデモクラートがいたのである。

 ビクトル・カルポフは、初期において政治工作(思想教育)が可能だったのは通訳と政治工作員がいた収容所に限られ、一部で進歩派分子の活動が見られただけだと指摘している。政治工作に限らず、異国の収容所における「通訳」の役割は非常に重要である。ソ連側と日本人側との意思疎通が不十分なため監視兵が必要以上に日本人を警戒し、抑留者をわけもなく射殺したり、不当なノルマを強制したりすることがあった。逆に、優秀な通訳がいたところでは無用なトラブルは回避され、相互理解が促進されたのである。

「日本新聞」が収容所内の「民主運動」を呼びかけるのは、第86号(昭和21.4.4)においてである。祖国日本では平和な明るい日本を建設すべく、民主主義の下に一大国民運動が展開しつつあるので、我々も収容所で「民主運動」を起こさなければならないと訴え、ホール第17収容地区の木村大隊による以下のような檄文を掲載した。

 1. 旧関東軍将兵は即時反軍国的民主グループを結成せよ!

 2. 明朗なる収容所建設のために民主的軍紀を確立せよ!

 3. 我々の隊伍における軍国主義的分子との断乎たる闘争を開始せよ!

 4. 祖国日本における民主統一戦線運動を強力に支持せよ!

この檄文こそ、シベリア「民主運動」の開始を告げるものだった。ただ檄文では将兵一体で民主化を訴えており、後に将校を「反動」や「戦犯」として激しく弾劾したこととは対照的だった。

 エ.「日本新聞」友の会

 「日本新聞」は昭和21年5月25日の第108号において「友の会」結成を呼びかけた。日本新聞編集委員会名の「日本新聞友の会に集まれ!」という記事である。「我々はこのたびソ連当局の好意ある了解のもとに『日本新聞友の会』を結成することになった。(中略)日本新聞を中心にして我々は即時活動を開始しよう」と訴えた。そこには「友の会」がソ連当局のお墨付きを得て結成されるものであることが明示されていた。目的は「日本並びに全世界の動向を日本新聞社の援助の下に全会員に解説するとともに、来るべき民主主義日本における新生活に備えて、軍国主義より覚醒せる旧関東軍将兵に祖国の民主運動を紹介すること」つまり啓蒙活動である。具体的任務は「日本新聞」読者会の結成、討論・講演・研究・報告、壁新聞の発行、日本新聞への投稿だった。

 次号からは「友の会読本」「友の会便り」が連載され、盛んに結成を呼びかけた。反帝国主義、反軍国主義、財閥批判、とりわけ激しい天皇制批判が一貫して続けられた。天皇制という言葉は、「君主制」を日本に適用したコミンテルン用語である。共産党が天皇制解体を叫んだのは、天皇を支配階級の頭目と見なす階級闘争理論からである。ロシア革命のとき、皇帝ニコライ2世以下一族が惨殺されたのもこういう革命思想からであった。

 「日本新聞」の呼びかけに応じて各収容所で「友の会」が結成され、壁新聞が発行された。友の会会員を中心にして「民主グループ」が形成された。そのなかに「民主突撃隊」とか「民主青年同盟」とか「青年行動隊」といった若者の先進的なグループが形成され、輪読会を組織したり、作業能率の向上をはかったりした。

 オ.「戦犯」の摘発

 昭和21年11月19日の第183号では、「断乎!戦犯人を摘発せよ!」として日本国内の公職追放に呼応する形で、収容所内でも「戦犯」を追求せよと訴えた。以後、「戦犯」を撲滅せよ、叩き潰せと激しい呼びかけが載せられる。これは「反動」の追求と同じく日本人の団結を破壊する分断工作である。「戦犯」とは誰か。11月26日の第186号ではこう定義している。

 1. 戦争を計画し、発起し、指導した者

 2. 戦争によって儲けた者

 3. 戦争をかさに虐政を敷いた者

 4. 戦争において暴力国威をなしたる者

 昭和3年の不戦条約でさえ、侵略戦争は禁止するものの自衛のための戦争は認めており、戦争は本来、国家に認められた合法的な行為である。戦争のためのルールを定めたのが戦時国際法だ。上記の定義にはこうした基本認識が欠けている。戦争においては殺人が合法化される。戦争犯罪とは戦時国際法に違反する行為、たとえば捕虜虐待や民間人の殺傷などである。戦争の計画や戦時の暴力行為を否定するのは戦争そのものを否定することであり、つまるところ「戦争反対」という「反戦」イデオロギーの表明に他ならない。

 しかしこういう定義をすれば、戦争にかかわった人を誰でも「戦犯」として裁くことができる。このような「戦犯」追求の本質は、将校など上級者の罪状をあばいて排除・追放する「階級闘争」であり、のちの「反動」追求と同じだった。

 これ以降、将兵一体の民主化が変質し、将校を「敵」とした階級闘争が「プロレタリア民主主義」の名の下に実行された。和を尊ぶ日本人社会に階級闘争のような2項対立概念を持ち込むと、集団を必要以上に軋ませ、激しく分裂させることになる。

 重要なことは、「民主運動」での「戦犯」追求が、ソ連内務省チェキストによる「戦犯」の逮捕・断罪とつながっていたことである。日本人同胞によって「戦犯」と密告されてチェキストの取り調べを受け、25年の刑を言い渡された前職者(警官、憲兵、特務機関員、協和会関係者など)は数多い。

 昭和22年元旦号(第201号)で浅原正基は、昭和21年の運動の成果は、従来ばらばらだった「民主グループ」が「日本新聞」と壁新聞とを中心に結集完了したことだとし、今後の任務は「民主運動」の大衆化にあるとした。以後、地区代表者会議や地方代表者会議といった横断的な組織化がなされるが、それらは実はソ連当局主導で行われていた。

 カ.「反動」の追求

 昭和22年3月6日の第228号は、日本新聞編集委員会名で、「戦犯追及、反動分子追放」の闘争を呼びかけた。戦犯に加えて「反動」が追求対象になっている。「反動」という言葉は「民主運動」のキーワードのひとつであるが、これについて第216号(昭和22・2・6)の「豆字引」欄で、唯物史観による歴史の必然的な発展の流れ(封建時代→資本主義→社会主義)を食い止めようとすることだと説明している。

 将校の多くが「反動」として追求されたがそれだけではなかった。「民主運動」や社会主義、共産主義に反対する者はもちろん、積極的に賛同しない者もすべて「反動」として糾弾された。シベリア「民主運動」では右か左か態度を明確にするよう執拗に迫られ、沈黙も傍観も許されなかった。

 結局、将校は「戦犯」としても「反動」としても迫害されたわけだが、その裏にあるのは、虐げられた農民兵士階級が抑圧階級である将校を打倒するという階級闘争史観だった。

 「日本新聞」が帰国問題について初めて触れたのは、昭和22年3月13日の第231号である。昭和21年10月にソ連政府が日本人捕虜と一般市民の本国帰還を開始する決定をして、昭和22年2月25日までに14万5000人以上が送還されたとのタス通信発表を載せた。4月8日の第242号では、「各所、各地区、各地方から激流のようにほとばしり出る民主運動が一点に結集し、奔流となり、日本海を押し渡る潮流となって流れ出ていかねばならぬ」として、帰国集結地ナホトカへ「日本新聞」の高山秀雄、吉良金之助、宗像創を特派したと報じた。

 昭和22年4月半ば、クラスノヤルスク第34収容地区からナホトカに到着した磐木円乗は、「この収容所には、日本新聞記者が3名と、そのほかに各収容所(第1、第2、第3)に、我々と同様に捕虜であったが、ソヴィエトの指導によりこの収容所にとどまって我々の身柄を世話し、同時に共産主義思想を鼓吹している者(そのグループを新日本青年同盟と呼んでいた)が10数名いた」と、この時期の「悪夢に狂った狂人の集い」を証言している。

 キ.特権者としての専従者

 昭和22年6月7日付の内務省令は、捕虜に対する政治教育工作や文化啓蒙工作における、反ファシストアクチーヴの組織化機能を強化し、積極的な参加を確保するため、収容所政治部に宣伝工作の訓練をされた専従者を持つよう命じた。専従者は警護なしに収容所内を自由に行動し、作業を免除され、食事は完全に与えられる上、毎月100ルーブル支給された。ほとんどの抑留者が3重苦(飢餓、労働、酷寒)に耐えながら無報酬で働いていたときに、作業なしで100ルーブルの給与である。要するに、専従者は政治部将校のお墨付きをもらった収容所の特権者だった。

 ク.将校グループのおもねり感謝文

 昭和21年7月11日付で将校グループがスターリンに感謝文を捧げた文章がある。エラブガ第97収容地区で主席を務めた関東軍建設団長の花井京之助大佐をはじめ、20名の大佐以下2572名もの将校が連署している。その中では、入ソ以来、日本の嘘の宣伝によりソ連について全く歪んだ考えを持っていたことを痛感させられた、ソ連体制の強固さやスターリン憲法の素晴らしさなどに感嘆した、収容所における日本人の待遇は素晴らしく全員が元気に帰国できるよう全力を尽くしてくれている、としてスターリン大元帥とソ連政府に深い謝意を表明していた。将校収容所だけに他より待遇がよかったにせよ、早々とソ連当局にすり寄りおもねった文章を発表したわけで、将校グループの変わり身の早さ、豹変ぶりを示すものだった。世間知らずの若い将校が狂信的なデモクラートになり、分別あるべき大佐がソ連におもねる、こうした現実もあった。

 ケ.講習会

 「日本新聞」第244号(昭和22.4.12)は、3月17日からの地方代表者会議に関する記事を掲載し、民主グループの活動として各地区で「講習会」を開催するとした。これは重要な決定で、「講習会」は「民主運動」の活動家アクチーヴを速成で養成する機関となった。この号では会議出席者一同の名で「ソ同盟に対する感謝文」が発表されており、以後ことあるごとにスターリンまたはソ連に対して「感謝文」を捧げることが慣例となった。また昭和22年7月29日から開かれた「民主運動代表者会議」では、『ソヴィエト同盟共産党(ボルシェヴィキ)歴史小教程』が配布された。これが最も重要な教育学習教材だった。講習会で速成教育されたこれらアクチーヴは、それぞれ収容所に戻って民主グループを作り「民主運動」を担っていくことになる。

 コ.反ファシスト委員会

 内務相グプヴィ政治部は昭和22年12月31日、収容所に「反ファシスト委員会」をつくる決定をした。専従者が「民主主義の将校」になって大衆から遊離し官僚的になっているので、大衆が選挙で選ぶ反ファシスト委員会をつくるというのである。ただ選挙とはいっても当局側が承認した人を選ぶだけの場合が多かったので形式的なものである。「日本新聞」に反ファシスト委員会が初めて現れたのは、昭和23年3月2月の第384号である。反ファシスト委員会は「民主運動」を大衆化するため全員の無記名秘密投票で選出され、民主グループを基礎に文化、啓蒙宣伝、民主運動を指導する統一戦線組織であるとされた。反ファシスト委員会の組織は委員長の他に、宣伝部、文化部、生活部、作業部、青年部があり、従来の大隊本部に代わって抑留者を管理運営した。

 今立鉄雄は、『日本しんぶんー日本人捕虜に対するソ連の政策』と『収容所列島―ラーゲリの中の日本人たち』を著したが、後者によると、昭和23年3月に各地方民主運動指導者会議が開かれ、会議の主催者は名実ともにソ連の地方政治局でソ連側から指示されるだけであり、反ファシスト委員会の権限を3つ挙げている。

 1.地区および分所の反ファシスト委員会は、その地区および分所の捕虜の帰国に際して、誰を帰国させるか否か  に関して、地区政治部長および分所政治部員に対して意見を具申することができる。

 2.地区および分所の反ファシスト委員会は、その地区および分所の捕虜の過去における行為に関し、戦犯暴露を  中心とする人民裁判を組織し、これを実施することができる。

 3.地区および分所の反ファシスト委員会は、その地区および分所における捕虜の生産競争を組織し、生産競争の  誓約書の内容が誤りなく実施されることに関し統制力をもつことができる。

 ここには「帰国」「戦犯暴露」「人民裁判」「生産競争」という重要なキーワードが現れている。反ファシスト委員の特権として、①パスポートの支給、②毎月100ルーブルの支給、③作業の免除を挙げている。パスポートとは通行許可証のことだろう。反ファシスト委員にも専従者と同様の特権が付与されていたのである。

 各収容所で反ファシスト委員会ができるのと同時に、「生産競争」「作業成績」が強調され、ノルマ達成率○○○%が紙面に多く載せられた。

 民主グループから反ファシスト委員会への転換が意味したのは、運動を一部の活動家の者から全員に広めることと、それを生産競争と結びつけることであった。つまり生活と労働の場にじかに運動を持ち込むことだった。生産現場では「ソ同盟のために」生産競争という名の労働強化が強いられ、収容所に帰ってからも休憩時間を削って輪読会や学習会、批判会に動員され教化扇動されるのだ。

 寒さより重労働の仕事より 一番つらき政治教育    薄井秀義

 地方反ファシスト委員会代表者会議が終わった後、「日本新聞」には激しい言葉が載せられるようになり、運動の過激化が進行した。6月15日の第431号では、「反ソ反共デマをたたきつぶせ!」として反動を「吊し上げた」と、初めて「吊し上げ」という言葉が現れた。以後、この「吊し上げ」は過激なシベリア「民主運動」を象徴するものとなって抑留者を震え上がらせる。吊し上げは精神的苦痛だけにとどまらず、重労働の割り振りや入獄という肉体的苦痛につながるものでもあった。

 8月19日の第459号の社説で強調されているのは、大衆にソ連の真実を伝えること、日本における民主民族戦線のための闘争と結びつけること、帰国後の闘争に備えることである。ダモイ(帰国)が進むとともに帰国後のことに重点を移していったわけである。さらに「真の戦犯人については、これをソヴェート側当局に通知しなければならない」と、同胞の密告さえ指示していた。「戦犯」の追求が、当局への密告という最も卑劣な行為に帰着したのだ。

 昭和23年10月24日付のソ連軍政治総局指令では「祖国に帰還したら日本共産党に入党する必要があることを意識させるべく捕虜をじかに導く」任務を課した。アクチーヴより帰還闘争として日本共産党入党運動が展開されたのは、この指令に基づくものだった。

 サ.スターリンへの感謝文署名運動

 シベリア「民主運動」の総仕上げである「スターリンへの感謝文署名運動」を決定したのは、昭和24年5月14日から21日まで開かれた第2回地方反ファシスト大会においてである。浅原正基は、この「スターリンへの感謝文署名運動」がグプヴィ政治部の発案・指示であったことを認めている。

 感謝文草案の採択と署名式が6月中旬から各収容所で行われ、8月中旬に完了した。第623号(昭和24.9.6)は感謝文とシベリア戦士の彫像の写真を掲載し、9月6日に発表式、7日に完成祝典大会が行われると報じた。第625号(昭和24,9.10)は、署名総数が66、000名余りで、記念祝典大会は504名の参加で行われたと伝えた。昭和24年6月には約95、000人残留していたとみられるので、およそ7割もの抑留者が署名したことになる。

 ライチヒンスク第19収容地区で帰国を目前にして感謝文に署名した原中宣夫は、「感謝はむしろ、大きな犠牲を強いられ、ソ連の戦後復興に多大な貢献をさせられた我々日本人捕虜にこそあるべきと思うのだが、塀の中の民主運動は逆の方向へ仕向けてしまった。今はただ、勢いに押され、単なる帰国儀式として署名をするしかなかった」と正直な気持ちを吐露している。その通りで、スターリンこそ日本人に多大な犠牲者を出したことを謝罪し、日本人の多大な貢献に感謝すべきだったであろう。

 感謝文は異例に長い文章で、全体にソ連とスターリンに対する最大級の賛辞、礼賛の言葉が溢れており昂揚感と陶酔感に満ちている。反対に、祖国日本は悪逆非道な帝国主義国として「野獣」「強盗」と罵倒した。日本ではなくソ連を「わが祖国」と呼ぶ、倒錯した思想からつくられたイデオロギー文である。

 しかし、感謝文を贈呈するため5名の代表をモスクワに派遣する計画はなぜか実現せず、感謝文がスターリン大元帥に届くことはなかった。さらに同年9月にはシベリア「民主運動」を主導してソ連に忠誠を尽くした浅原正基が、戦時中ハルビン保護院(ソ連の逃亡兵や情報員を収容した施設)に勤務していたことが露見して「戦犯」として逮捕され、25年の有罪判決を受けて服役する椿事があった。いずれもシベリア「民主運動」の総決算たるスターリンへの感謝文署名運動の皮肉な結末である。


4.吊し上げとサムライ

 ア.同胞相食む陰惨さ

 吊し上げは、よくも悪くもシベリア「民主運動」を象徴する言葉である。広辞苑では「逸脱者・交渉相手などを集団的に批判し問責すること」と定義しているが、実際には批判・問責にとどまらず威力威圧を伴う「精神的テロル」であったというべきである。

 吊し上げに先立ってまず「批判会」と「カンパ」が行われる。「批判会」は、幹部など少数の人間が出席して吊し上げ対象の「反動」を批判するものだ。「カンパ」とは運動を意味するカンパニヤの略で、大衆に吊し上げ対象者の反動性をあらかじめ宣伝扇動することである。そのうえで、吊し上げ対象者を壇上に立たせ、周囲を数百名の者が囲んでアクチーヴの議事進行で吊し上げが始まる。

 進行役のアクチーヴが被告の罪状暴露を行い、他のアクチーヴが「同感!」「異議なし!」などと同調する。周囲の人々が代わる代わる立ち上がって、「被告」の過去の罪状なるものを暴き反省・謝罪を強要する。「被告」が弁明したり抗弁したりすると、一層激しく野次られ罵詈雑言を浴びるだけである。だから壇上で肉体的苦痛と精神的圧迫にじっと耐える他ない。この間の恐怖、屈辱、絶望感は想像を絶するものがある。

 屋外では、スクラムを組んだ大衆が革命歌などを歌って「被告」に迫り、身体を突き上げ、もみあげる威力を行使する。吊し上げはいつどこでも行われる。最悪の場合は「24時間闘争」といって食事中であれ、休憩時間であれ、四六時中アクチーヴがつきまとって責め立てる。

 しかも「反動」という理由だけで食事を減らされ、作業でわざと重労働を割り振られる。その作業の報酬も「反動」にはやる必要がないと召し上げる。休憩時間に腰を下ろすだけで作業サボと非難される。また「反動」を「村八分」にして誰にも口を利かせず孤立させることもある。卑劣で陰湿なやり方だ。

 吊し上げの怖さ、辛さは当人だけでなく、吊し上げる大衆にとっても同じだった。吊し上げに反対したり「反動」を擁護したりすれば、たちまち自身が「反動」に転落して吊し上げられるのである。明日は我が身なのだ。吊し上げでは沈黙すら許されなかった。自分を守るためには率先して発言し、糾弾しなければならなかったのである。

 誰1人人を信ずることならず つるし上げして身を守りけり 薄井秀義

 抑留者にとって最大の願望であるダモイ(帰国)も利用された。「民主運動」の実践いかんによってダモイの順位が決定されるというのである。ソ連当局が公式に明言したわけではないが、アクチーヴは帰国者の順位を決める選任権ないし推薦権を持っていると広言し、「反動は日本に帰すな!」「反動は白樺の肥やしにしろ!」と叫んでいた。これは抑留者の切なるダモイ願望を悪用した脅し文句だ。追い詰められた抑留者の多くは「ダモイ民主主義者」、俗にいう「赤ダイコン(表面は赤いが、中身は白い)」を装う他なかった。「民主主義者」を実証するためには戦友の前歴や行為を暴露し告発することを迫られる。それがソ連側に利用され戦友が「戦犯」に仕立てられる。親しい人から裏切られることほど辛いことはない。収容所には根深い相互不信が生まれ、本来なら逆境で助け合い支え合うべき仲間が、同胞相食む陰惨な事態となったのだ。

 みんなが吊し上げの怖さを感じ力の限り働いたが、どの作業隊も同じように、作業サボの名目のもとに、1組に1人か2人必ず青年行動隊の犠牲にさせられた。(中略)そのようなとき「作業サボ」と印を押された人たちは、毎朝1000人も整列している前で壇上に立たされ、「この者は反動だ!」「反動は絶対日本に帰すな、シベリアの白樺の肥やしになってしまえ!」と叫ばれる。反動と名づけられた人に対しては、自分の身を考え、誰1人話しかけもせず孤立させる。そして24時間監視の中に置かれるのだ。夜の星空だけしか見ることのできない異郷での孤立は、味わったものでなければ絶対わからない想像以上の苦しみだったであろう。我が身は明日は反動になりはしないかとの不安の毎日で、それこそ力の限り一生懸命働かねばならない。合わせる顔に誰1人として笑顔なく、同胞相食み、目の色も変わり、息の詰まるような、毎日が地獄の生活だった。

 「反動」闘争の標的になったのは主に将校と前職者だったが、職業軍人の将校も激しい吊し上げを受けて転向していった。青年将校だけでなく中堅将校の多くも「にわか民主主義者」に変貌した。思慮分別のある年配の文官も同じ傾向だった。ソ連権力をバックにした「民主運動」の、有無を言わせぬ同調圧力に抗することはまさに至難のわざだった。

 こうした中、一般の人は「集会には努めて参加し、子供だましの幼稚な論議をばかばかしいと思いながらも黙ってその場の空気に同調し、労働歌に声を張り上げ、相槌をうち、手を挙げ、そうだそうだと叫び、ひたすら身の保全を図り、何としても帰還する日までの我慢だと言って、歯を食いしばり耐え抜くほかなかった」のである。

 そして折居次郎は「民主運動」は「心の底から恐怖感と人間相互の不信感を強く抱かせた。そして日本人の無気力、便乗主義、裏切り、非良心、破廉恥などの醜い面をさらし、日本人は最低だと思い知らされた人々が多かったことを悲しむ」と記す。「民主運動」は日本人の便乗主義と逆境における精神的弱さをさらけ出させたと言えよう。受刑者としてロシア・ヤクザのただ中に入れられた倉井五郎も、「権力や組織の背景を失うと、多くの日本人たちは別人のように弱かった。(中略)それは単なる敗戦後の虚脱というようなものではなく、もっと民族的な深いものに根差した現象のように思われた」と自省を込めて記している。

 イ.シベリアのサムライたち

 一方で将校のなかには最後まで妥協せず筋を通した人がいたのも事実だ。その1人が「極反動」とされた草地貞吾である。草地貞吾は陸士・陸大出のエリート軍人で、敗戦時は関東軍参謀大佐だった。ハバロフスク、コムソモリスク周辺の収容所と監獄を転々とし、最後はモスクワの北東275キロ、イワノヴォ第48将官収容所に入れられた。「戦犯」として資本主義援助罪で25年の判決を下され、最後の帰還船で帰国した。受刑者になる前は「極反動」としてアクチーヴから執拗な攻撃を受けたが、最後まで妥協を拒んだ。吊し上げについて草地はこう述べている。

 「残念なことにお互いに同胞の身でありながらも、これらのいわゆる反動に対する全般の迫害は言語に絶するものがあった。食事は作業の関係もあったであろうが、いわゆる反動には最後に支給された。噴飯にも『反動!メシーッ』という呼び声がかかるのである。丁度犬や猫に向かって『そらメシやるぞ……』と言わんばかりである。その号音ならぬ号声に応じて私どもは食事に出かけるのであるが、そのときは何百人もの進歩的人間(?)どもが庭にも食堂にも待ち構えて四方八方から罵詈雑言を浴びせたり、甚だしきはスクラムを組んで身動きもならぬように引っ包んでしまうのである。それが1週間や10日くらいならまだしも、3月も半年も続くのであるからたまらない。憎悪と瞋恚(しんい=自分の心に逆らう者を怒り恨むこと)とに満ちた深刻苛烈な吊し上げがこの世に行われるに至っては、それこそ地獄であり修羅である。」

 草地貞吾はこうした迫害に耐え、国際法とソ連の「捕虜に関する規定」を楯に階級章を外さなかった。「民主運動」への抵抗のシンボルであったろう。「民主運動」では菊の御紋章を踏みつける現代版「踏絵」を強制した所もあった。草地はそれにも静かに抵抗している。「食堂の出入口に菊の御紋章が大きな板に深く彫られて靴拭いの代用にされてある。すでに数十人が土足で蹴り拭った痕跡が歴然としている。私は我を忘れ急いで手でその土を払いのけ横の方に片づけた」。キリスト教弾圧の悪政と指弾される「踏絵」を強いる無節操ぶりを許せなかったのだ。

 もうひとり「沿海州に津森あり、ハバロフスクに草地あり」と謳われた津森藤吉中佐がいた。陸士・陸大卒の軍人で第1方面軍参謀(情報主任)であった。ヴォロシーロフ第14収容地区、スーチャン第11収容地区、アルチョム第12収容地区など沿海州の収容地区を転々とした。「戦犯」として25年の宣告を受け、最後の帰還船で帰国したのは草地と同じである。

 津森藤吉は将校として作業拒否を貫いた。1929年の捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約第27条では「将校またはこれに準ずる者が、自己に適する労働を欲するときは、できる限りこれを与える」と定めていた。津森らは自活作業以外の労働を拒否し階級章を付け続けた。

 アルチョム第12収容地区で、一般収容所の中にさらに鉄条網を張り巡らせた懲罰収容所に、津森と一緒に隔離されていた池田尹彦はこう述べる。

 「津森さんはその収容所の実質上の長として、捕虜は国際法によって思想(共産主義)運動を強制されることはなく、また将校は強制労働を課せられることはないということで、ソ連の圧力を断乎として排撃し、またいまだ復員していないので、軍隊の組織は解体したものではないとして、階級章をつけていた。このようなことは当時ソ連にあった日本人収容所には他に例を見ないところで、まさに万紅(ばんこう)の中の白一点という状況であった。したがってソ連側はもちろん、それを後ろ楯とするアクチーヴと称する日本人の執拗な圧迫を受けたものである。時に甘言を持って懐柔を策し、あるいは帰国させないと言って脅し、また食事その他の生活面において圧迫するなどによって津森さんに迫り、かつ内部の切り崩しを図った。しかしながら一名の脱落者もなく団結を堅持したのである。これはひとえに津森さんの断乎たる決意に基づく操守とその卓越せる統率指導力によるものである。その結果、一部生活面の不自由と主として帰国に関連する精神的不安感はあったが、比較的安泰な生活を送り得たのである。」

 シベリアには草地貞吾や津森藤吉のような誇り高きサムライたちが、少なからずいたことを銘記しておきたい。

 シベリア抑留の研究者アレクセイ・キリチェンコ(ロシア科学アカデミー東洋学研究所)は、収容所における日本人捕虜の抵抗を、「敵の捕虜としてスターリン時代のラーゲリという地獄の生活環境に置かれながら、自らの理想と信念を捨てず、あくまで自己と祖国日本に忠実であり続けた人がいた」としていくつもの抵抗の事例を挙げて、《シベリアのサムライたち》と呼んだ。これも氷山の一角だ。彼らは自殺、脱走、ハンストなどの形で抵抗し、昭和20年秋の抑留開始から最後の抑留者が帰還する昭和31年まで、各地のラーゲリで抵抗を続けた。キリチェンコが挙げたサムライは、堤不夾貴(ふさき)中将、水津(すいず)満少佐、佐藤政治(まさじ)少将、草場辰巳中将、上村幹男中将、二階堂綱男軍曹などである。ただ、一方の極であるアクチーヴと、他方の極であるサムライとの間に、声なき大衆がいたことも大事なことだ。

 最悪の状況の中一言も 弱音をはかぬ人のありけり  薄井秀義

 薄井は抑留中に「偉い人だ、わたしはとてもかなわない」と尊敬の念を持たされる人に何人も出会ったという。その人は教育のないお百姓さんであった。農民がみんなアクチーヴになったわけではなかった。

 あるいは鬼川太刀雄が共感した「ただ黙々と、アンニュイに堪え、空腹を忍び、労働という日常の義務を果たし、そして静かに帰国を待っていた、目立たない人々」がいた。「夜と霧」の作者フランクルがこうした人々を「平均的囚人」と呼んだのにちなんで、鬼川は「平均的捕虜」と名付けた。ただしナチスの絶滅収容所とは違って、シベリアの収容所には沈黙すら許さない「民主運動」があった。


5.終わりに

 ア.日本人の変わり身の早さ

 敵国に占領された場合、徹底的に反抗するか、面従腹背し無言のまたは密かな抵抗をするか、勝者に媚びへつらうか、であろう。有史以来の敗戦を喫した日本国民の多くは、早々と占領者に身を摺り寄せていって占領者と一体化しようとした。悲惨な敗戦を経験した日本人に、「もう2度と戦争はごめんだ」という強い平和への希求または厭戦気分があったのは確かである。初めての敗戦による自信喪失と反動で、軍人や戦没者に対する国民の視線が、戦前戦中とは打って変わって非常に激しくなった。特攻帰りは侮辱の対象にさえなった。軍隊にかかわることはすべて悪いとして忌避する極端な風潮が、シベリア帰りに対する就職差別や冷淡さにも表れたのである。

 シベリアで関東軍将兵がいち早く「民主運動」アクチーヴに転じたのもそうだった。日本人にはひどい体験をすると大きく反対に振れるという性格がある。最近でも平成23年の東日本大震災の津波で福島第一原発の事故が起きると、世論が原発容認から脱原発へと大きく転換した例がある。

 ビルマに抑留された会田雄次は著書「アーロン収容所」で、日本人捕虜の面前で恥ずかしげもなく裸で振る舞うイギリス婦人の人種差別意識を鋭く描いたが、イギリス軍士官と日本の将校との印象的な対話も書き留めている。日本の将校が「日本が戦争を起こしたのは申し訳ないことであった」と謝ったのに対して、英軍士官は居住まいを正して「君は奴隷か」と次のように応じた。

 「我々は我々の祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのであろう。敗けたからすぐ悪かったと本当に思うほどその信念は頼りなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。敗けたらすぐ勝者のご機嫌を取るのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。我々は多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私は彼らが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな。」

 これは敗戦後の日本人に広く見られた、立ちどころの変節を指摘したものである。勝っているときは奢り、敗けた途端に勝者のご機嫌取りに傾く日本人の変わりやすい心性、便乗主義に対する痛烈な批判である。こうした傾向は日本本土でもソ連モンゴルでも見られたものだ。会田はシベリア「民主運動」の成り行きを承知していたから、ビルマで「もしそれ(思想教育)をやられたら、本当に反省したものより便乗者や迎合分子が支配者になることは確実である」と正確に見透かしている。

 しかし戦後日本人の変わり身の早さをご機嫌取りや便乗主義だけに帰することはできない。もっと深いところに根があるだろう。明治維新以降の日本は、近代以前を否定して、文明開化、殖産興業をスローガンにして欧化、近代化を強力に進めたが、これは進歩主義的思想そのものだった。独立を維持するためのやむを得ぬ選択とはいえ「古いものを粗末にして新しいものをありがたがる」進歩主義が近代日本の心性の一部にしっかりと根を下ろしたのである。だから先の大戦敗北後、GHQが推進する急激な日本改造にあまり抵抗なく飛びついたのだと言えよう。しかし、経済・社会の急激なアメリカ化による空前の繁栄の一方で、古きものとしての自国の歴史と伝統に対する誇りや道義心はますます失われた。

 イ.自前の歴史観を取り戻す

 たった1度の敗戦で日本人であることにまったく自信を喪失したのは過剰な反応であろう。戦争の歴史を少し見ただけでも勝敗が紙一重であることは明らかである。1度も戦争に負けたことのない国など存在しない。かの超大国アメリカでさえベトナム戦争には敗北した。それが世界の現実である。

 日本人が自国の真実の歴史を忘れ始めてすでに久しい。学校で全うな「国史」を教えないことが最大の理由だが、家庭でも親が子に、日本神話を、昔の英雄たちを、ご先祖様のことを語らなくなったからだ。だから中国と韓国、北朝鮮からでたらめな歴史認識で攻撃されてもまともな反論ひとつできないのである。自国の歴史に誇りを持てない国民に未来はない。戦勝国や周辺国の歴史観ではなく、自前の歴史観を取り戻さなければならない。

 自国の歴史を忘れるとは、例えば次のようなことである。現在の国民の祝日が戦前はどういう名称でどういう意味を持っていたかご存知だろうか。些末な歴史知識のクイズではない。戦前の日本人が、どのような日常意識の中で暮らしていたのかという問題である。2月11日建国記念の日、3月20・21日春分の日、4月29日昭和の日、9月22・23日秋分の日、11月3日文化の日、11月23日勤労感謝の日は、それぞれ2月11日紀元節、3月20・21日春季皇霊祭、4月29日天長節、9月22・23日秋季皇霊祭、11月3日明治節、11月23日新嘗祭であった。

共産主義政権に抵抗したチェコの作家ミラン・クンデラは、次の警世を残している。

 「一国の人々を抹殺するための最後の段階はその記憶を失わせることである。さらにその歴史を消し去った上で、まったく新しい歴史を捏造し発明して押しつければ、間もなくその国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう。」

参考資料 

 1.「シベリア抑留  日本人はどんな目に遭ったのか」  長勢 了治 新潮選書
 2.ウィキペディア「シベリア抑留」より