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活 動 報 告report

 米国に使して―日米交渉の回顧―(その2)     平成28年6月19日 作成 五月女 菊夫


野村吉三郎著 岩波書店

中編 会談日誌抜粋

ルーズヴェルト大統領およびハル国務長官との会談について

昭和16年2月11日紀元節当日、余はワシントンに着した。よく12日国務省にハル国務長官を訪問して若干の打ち合わせをした。新聞には会見時間4分、短いレコードと出ておった。

 余は終始ハル長官を目標として話をし、長官が不在の場合は長官代理ウェルズ国務次官と話した。大統領およびハル長官から、「日本外交の問題は貴大使と自分らとの間において話をし、他の何人も日本の代表として話すことができない」という話があったことにも鑑み、余も主として以上2人を相手にしたのである。豪州公使のごときは余に対し、ときには大統領の側近ホプキンスなどと話をしたらどうかというような忠告をしてくれたが、これは実行の機会がなかった。

 なお余と大統領との会見の場合は国務長官、もし長官不在の際は長官代理が必ず列席した。

ルーズヴェルト大統領との第1次会見

 1941(昭和16年)2月14日(金)、余は御信任状を奉呈したが、これよりさき、大統領は、余のワシントン到着の日(2月11日)新聞記者との会見において、アドミラル野村の信任状受領のために水曜日か木曜日に引見する旨を話し、なおアドミラルは自分の旧友であるとも言ったということは前述したところである。従って余もまたこの会見に当たり旧友に会う親しみをもって出向いたのであった。

 大統領は、ご信任状奉呈当日は極めて慇懃な態度をもって真に旧友を迎えるの情を示し、余の顔を見て、一向変わっていないし傷ついた眼も少しも気づき得ない旨を話された。次いで主題に入っては、「余は日本の友であり、君は米国をよく知っている米国の友である。従ってお互いは十分率直に話ができるわけである。日米の関係は国務省において二百数十の抗議書を日本に出しており、その結果世論は刺激されて今や両国国交は悪化の状況にある。ことに昔のメイン号の例(米西戦争の発端。1898年1月キューバにおけるアメリカ権益保護のためハバナ港に入港したが、2月朝大爆発をおこし、死者260名、負傷者47名を出して沈没。原因不明。当時キューバではスペインに対する内乱が長期化して、キューバにおけるスペイン軍の非人道的行為に対する非難が高まっており、この事件でキューバ人への同情とキューバ干渉論が一層刺激されて98年4月、米西戦争開始にいたった)もあり、彼のパネー号事件(=1937年12月12日、日中戦争の最中、南京付近で日本海軍機が米国砲艦パネー号を撃沈した事件。日米間の緊張を高めたが、アメリカの抗議に対して日本側は221万4000ドルの賠償金を支払って解決した。)のような際は、自分および国務長官(同席)において世論を抑えなかったならば、まことに危険の状態に陥ったであろう。日本は今や海南島からスプラトレー(新南群島)、仏印およびタイ国方面にまで進まん形勢にあり、日本の南進はときに緩急あるもほとんど既定の国策のごとくに思われる。米国の援英は米国独自の意思に基づくも、日本は3国同盟あるがためにその行動に十分独立的の自由がなく、却って独伊両国が日本を強制するの恐れもある」とて心配の意向を洩らし、「今後自分は何時なりとも喜んで君に面会するであろう」と言われた。

 余はこれに対し、「自分は日米は戦うべきものではないということを徹底的に信じているものであり、将来あるいは世界平和の回復のため、はたまた世界平和を維持するためにむしろ両国が協力すべき日の来ることを確信しているものである」と述べたところ、大統領は同感なるがごとき風を示し、続いて彼が夫人と、余について話した模様などを語って、極めて打ち解けた会談をしたのである。

当時の米国感情

 米国の対英援助方針はほとんど挙国一致の状況になっており、また3国同盟に対しては米国朝野一般は非常にこれを重視し、日本を準敵国となすの意識が盛んであった。孤立論者は漸次勢力を失墜しつつあり、欧州方面に兵を送るという声こそないが、「貸与法」が議会を通ったならば、兵器および物資を積極的に送り出すだけの準備を整え、従って米国軍艦がこれらの商船を護送するであろうということも確実視せられておった。また米国は英国がもしドイツの春期攻勢に耐え得ることができたならば、元来潜水艦戦というものは時間を要する消耗戦であるから、戦は長期戦になり、従って英国が破れない見込みは大いに増加するであろうと見ておった。

 日米関係についてはもはや行き詰っていると思ってはいたが、さりとて米国は2正面作戦を欲せず、支那問題はいささか下火の形勢になって、仏印・タイ国問題が米国の注意を喚起して、日本はドイツの春季各方面の攻勢と呼応し、これらの地方に種々準備工作をやり、シンガポール・蘭印に対しても兵力的進出をするのではないか、もしそうなったならば日英戦争は必然であり、従って米国がこれに引き込まれる公算は頗る多いと一般に見られていた。

 余の私見をもってすれば、この場合米国はおそらく「通商停止」を実行し、最初は堂々たる艦隊戦ということよりも、むしろ遠距離封鎖によって航路遮断の作戦に出づるのではないか、すなわち海上のゲリラ戦になるのではあるまいかという風に思われた。そうして第1の重点をドイツに置き、第2に日本を重視し、イタリーは余り顧みず問題とせぬ有様であった。

 余は着任以来ニューヨークおよびワシントンにおいて多数知名の士および新聞人と会見の結果、米国の近状を明らかにするを得た。そこで2月19日および3月8日2回にわたりこれを本国に報告するとともに、結言として、我が国は宜しく冷静沈着の態度を保ち過激の言論を差し控え、今次の戦争が長期戦となるチャンスが多いゆえ、十分将来不測の変に備うると共に、日米関係の調整については小手先の技巧は効果がないのであるから真に大乗的対策を採るべき旨の意見を述べておいた。

ハル国務長官との会談

 3月8日午前9時半、国務長官を往訪、長官の住所カールトン・ホテルにおいて2時間にわたり2人きりで会談した。まずハル長官は世間周知の彼の経済政策を語ったが、そのことはすでに普く知られていることであるからしばらく別とし、余より「日米関係は大統領において悪化する状態と言われたが、もし万一最悪の場合に到達したとすれば、それは毎10年、20年において繰り返されることであって、両国の不幸この上もない」と述べたところ、長官は共鳴した。次いで余よりこの際冷静沈着を保ち刺激を最小限度にすることが必要であるが、余として最も重きを置いているのは通商停止の問題であり、それはいたく人心を刺激するという点を強調して警告した。しかし長官はこれには満足な答えを与えなかった。

 次に長官は「ヒトラーの武力制覇の大望は、ナポレオン、アレキサンダー、ジンギスカンのごとく限りないものである。日本はこれに共鳴せられつつあって、その唱えられる東亜新秩序なるものは要するに武力で大東亜を制覇せんとするものと見られている」と言って、支那、仏印、タイ国の話になった。そこで余は、日本の求むるところは、汪政府との条約にも明らかなとおり、善隣友好(しかしこれは勿論第3国が支那に軍事施設を持つようなことになれば、それは日本の脅威になるから日本はこれを承知できないこと)、経済提携(これは鉄、石炭のような基礎的産業は日本として重視するが、普通の貿易については第3国に対して干渉する意向はないこと)、防共協定(ご承知のごとく共産党は支那の西北部において成功していること)、この3点であって、全く支那に対しては平等主義をもって臨んでいる。しかし目下わが軍が支那において活躍しつつある以上、今日の戦は経済戦を含んでいることは無論であるから、占領地の経済が計画的、統制的になるのは当然のことであると述べた。この点に対して長官はあまり強く反対はしなかった。ただ長官は250の対日抗議はその問題と離れて解決すべきものであると言った。

 次いで余より「仏印については、元来同方面は従来余りに閉鎖主義であったから、日本は世界の割拠経済に対応するためにも、門戸を開放せしむるの要がある。タイ国に対してもまた善隣友好であり、すでに友好条約の存していることはつとに御承知のことと思う。今度の仲裁(タイ、仏印国境紛争問題)に海軍力を用いたとの新聞報道については自分は承知しないが、それはおそらく仲裁の速やかなる成功のためにそういうことがあったかもしれない、しかし目的は今述べたとおりである」旨を話したところ、長官はこれにつき一向反駁しなかった。

 さらに会談において最も重きをおいている点と思われる日本のシンガポール、蘭印進出について長官より質問あり、日本政治家の言論を引用して、日本が現在以上東亜において武力による征服を企てつつあるのを憂慮するかのごとき様子であったから、余より「自分の知る限りにおいては、シンガポール、蘭印には事情やむを得ざることなき限り武力進出をなすことはない。日本の蘭印に望むところも要するに経済的である」と述べ、それに関連して米国が通商停止を強化する以上は、吾らは何処よりか油を入手する必要もあるし、油田を獲得せよという主張がますます勢いを得ることにもなるということを諷したが、長官はその点よりもむしろ3国同盟がこれを余儀なくせしめるのではないかと考えるように見受けられ(大統領も第1回の会見のとき同意味のことを言った)、また松岡外相の欧州訪問説については大なる関心を示した。

 なお長官は「自分は貴大使とのみかかる問題を、あるいは非公式にあるいは個人的にオフレコで話をすることができる」と言い、「大統領と自分とは全く同じ意見であるが、大統領との会見を望まれるならば自分が仲介する」旨語った。

 終わりに今日はいずれの発意ともせず、自然に両者が会談したこととし、今後同様継続することとした。ただし新聞には発表せざることに打ち合わせて、第1回の会談は終わった。

ルーズヴェルト大統領との第2次会見

 ルーズヴェルト大統領が静養旅行をするということだったので、3月14日午後1時半、国務長官同席の上1時間半にわたり秘密会見を行った。余としては、第1、太平洋の平和を維持して世界戦争を太平洋に拡大せしめざること、第2、これがため何とかして日米間に了解をつけてその戦争の勃発を防ぎ、さらに進んでは日米協力の上世界の平和を回復するということ、第3、支那事変を速やかに収拾すべきであるということ、この3点を根本観念として相互の意見交換の目的を以てこの会見に臨んだのである。

 最初に余は「米国と言えども2正面作戦は非常に困難であろうし、万一日米戦争となったならばこれまた大問題たるを免れ得ない。太平洋戦争は歴史あって以来のことでなかなか難しい戦争であるが、仮にその戦いに米国が勝利を得たと想像した場合、極東はその安定勢力を失うではないか。のみならずソ連の極東勢力はその虚に乗じてますます広がり、かつての帝政時代の極東膨張を繰り返すのではなかろうか。もしそういうことになれば満州国のごときも戦争に巻き込まれるやも知れず。支那の赤化はもちろん極東全体が赤化するの恐れなきにあらず。これは米国にとっても非常に不幸なことになるのではないか。また一方大西洋方面を見るに、英独の戦争は長期になる傾向十分にあり。かくして戦争がヨーロッパから太平洋に拡大し、なお一層の長期戦ということになったならば、勝った者も負けた者も、おそらく社会的革命、もしくはそれに近いことになるのは前の大戦がこれを実証している(大統領は同感の面もちを示した)。従って余としては日米協力の上太平洋の平和を維持するということが、両国の重大責任であると思う」旨詳しく述べ、次いで日本の態度や、政策について「元来日本は今次支那事変勃発の当初においても、局地解決、不拡大の方針に努めておったのであるが、国民政府の徹底的抗日主義がその原因の1つとなって、遂に今日のごとく拡大したのである。日本の支那に求むるところは過日国務長官にもお話したのであるから詳細は申さぬが、要するに善隣友好、経済提携、共同防共にあるのであって、これは愛他主義であり、過般締結発表された汪政府との新条約もこれを証明して余りあると思う。日本の言う東亜の新秩序ということについては誤解があるらしいが、要はこれも近隣諸国と友好関係を保ちつつ生存のためお互いに必要な物資を得ようとするのであって、これは却って各国のブロック経済、経済圧迫などがこの傾向に赴くことを促進したのである。要するに近隣諸国に対して経済的門戸開放を希望し、共存共栄を図るにあるのであって、別に領土を求めようとしているのではない。すなわち米国でいう全米主義、あるいは善隣政策と同一のものである。ただ貴下の方が説明が上手であるから非常にいいように宣伝されているが、その内容実態は少しも変りないはずである(大統領は国務長官と顔見あわせて苦笑しておった)。支那問題も日米戦うにあらずんば解決しがたいというようなものではないと確信している。この際日本の米国に望むところは積極的に支那を援助するような態度、あるいはまた日本に対して通商停止を強化するような態度は両国の関係を悪化せしむるから、この点を深く考慮せられんことであり、これらはまた何とか両国において解決の途を講ずべきものだと思う」と述べた。大統領はこれに対して、彼の祖父が支那の各地で商業に従事したことがあるところから種々例を挙げて「日本の能力は他国と平等主義で十分に競争する力をもっている。米国も善隣政策を採っており、他国を武力で圧倒する力はあるけれども、それは無益有害と信じてそのようなことはせぬ。カリビアン海に対してもそういう方針でやっており、その諸島を収得せよという説に対し英国が多額の行政費を支出するのを米国がこれを引き受けるの無用を説いている」と詳説した。

 なお、大統領は日本の対支政策に関して「すでに数千年の文化を有する支那を一時はいざ知らず、永久に日本が統治することができるとは信じていない」と語り、さらに長官を顧みて、ヒトラーの政策は世界制覇であろうと言い、長官は疑いもなく世界制覇であると同意した。そして大統領は語をついで「ヒトラーの世界制覇は疑いもなくニア・イーストおよびイラクにも及んで、アフリカまでもこれを植民地とせんとしている。ヒトラーが戦勝を得た暁は、日本の言う東亜の新秩序と相俟って米国は極めて苦境に立つことになるから、これは到底容認しがたい」旨を述べ、また「ソ連はその国民の大多数が無教育であるし、文化は遅れまことにスターリン1人の独裁政治であるが、支那は漸次統一の傾向にあり、その支那が赤化するものとは自分には思われない。現に第8路軍に従軍せる米国武官の報告に依っても、第8路軍のなすことは共産的に非ずして教化であるとあった。ただしこれは自分が誤っているかもしれないが、いずれにしても日支事変がいつまで継続してよろしい道理がない」ということを話したので、余より汪・蒋の合流もしくはこれに類似のことがあれば事変解決に便宜であろうと一応応酬したが、その辺多少大統領は色気を持っているように見えた。

 次に大統領は3国同盟に関し、これは非常に米国人を刺激した。同盟条約の文字だけを見れば大したことはないけれども、これは文面以上に発展するところ大なりとて、日本がドイツと協調して南方進出をなすに非ずやと懸念されたので、余より「元来本条約はアングロサクソンの圧迫に余儀なくされてできたもので、その目的は予防策であって、攻撃的なものではない。我々はこれを平和条約なりと称している」と話した。しかし、大統領は松岡外相の渡欧と相俟ってこれは油断のできない条約であるとみているごとく感ぜられた。

 次いで大統領は日本の内閣や制度のことを種々質問したので、余は「大体重要なものについては共同責任である。外交も重要なものは連帯責任であるのが常である」と述べたところ、これを首肯し、近衛首相の人となりを知っている模様で、法外のことをやらないであろうと推察しておった。そして局面善処のためには何とか方法があろうといった。通商停止については、間接に答えた。すなわちソ連に対する輸出を例に引いて、例えば機械を作る工具をソ連に送り出すことは一向差し支えないが、それがもしくはその代りのマシンツールがドイツに入ることになれば、当然それはドイツの戦力を増すことになるから、その結果今ソ連との経済交渉にも厄介な問題を生じているとて、暗に日本に物を出すとそれがドイツに行くというような心配をしておった。

 さらに話題を転じて「時々日本政府の代表というようなことを言う人が来るけれども、米国政府としてはこれらの人を相手にするわけにはいかない。いつたりとも今日のごとく貴大使とは胸襟を開いて話すことを自分は喜ぶものであり、また貴国との外交交渉は貴大使のみと語り得べく、当方としては自分自身または国務長官においてこの任に当たる」旨を述べた。

 国務長官は今日の会談を非常に喜んで、当面の問題のため日本からイニシアティブを取ってくれないかとも言い、そして彼もまた日本の南進を心配し、その点を確かめたので、余より今のところその危険はないと答えておいた。

 大統領は話の当初、本日は貸与法に対し70億米ドルの予算を関係者と話をした事情もあって、戦争に巨費を要するというような話からして、戦後軍備の整頓は大問題である、自分は海軍は非常に好きであるが、平和になった上はそう無限に海軍に金を出し得べきものでもなし、また太平洋を隔てる戦争の困難なることを縷々述べた上「これは貴大使もよくご承知のことであり。日米両国が戦争準備のために国民に大負担を負わすということは、政治的に見て賢明とは思われない」と言って、軍備制限にわたるような話もあった。なおヒトラーと松岡外相との写真が現れるのは旬日のことであろう、それは国民を刺激するという話もあった。

 これよりさき、余は松岡外相の渡欧説が実現するにおいては、日米国交の調整に困難を加うるものと心配し、2月25日外相宛にて、

 「新聞が外相の渡欧説を伝う。自分には現在政局の大局がわからぬが、米国方面より観察するに、閣下この際の渡欧は極めて不利と信ず。しばらく延期せらるるを有利と認む。」

と発電したところ、外相は3月12日豊田海軍次官に対し、余限りの含みとして、

1.        南方武力進出のごときは統帥事項なるをもって、仮にドイツ側より言及あっても先方の意向を聴取するに止め当方よりは何ら関わらざること。

2.        ドイツ側が日米戦争を示唆することがあっても右は必ず長期戦となり、条約の根本に違反するのみならず日独いずれにも極めて不利なるを以て両国とも極力対米戦を避くるよう応酬すること。

3.        仏印タイ問題は一応解決したところ。爾後はもっぱら経済的扶植に努力し、日本の公正なる態度を中外に示したきこと。

4.        対支和平、対ソ国交調整には最善を尽くさんとすること。

 

を報じてきた。なお外相は余に別に電報する心構えなるも、右の次第であるからくれぐれも安心、大いに努力ありたき旨打電方依頼せられたと3月14日海軍武官の方に入電があった。

 

ハル国務長官との会談

 4月14日午前9時15分、国務長官とその新宅ウォードマン・パーク・ホテルにおいて会見した。余より「両国政府が太平洋の平和維持ということに一致する以上は、お互いは大乗的に大きく考えて速やかに妥結するを要する」と申したところ、長官は同意を表した。また「米国艦隊は南太平洋を巡航し、各地に海軍将校を派遣し、マニラにおいて英、米、蘭会議等々をやったりしているが、これは軍事専門家から見れば包囲政策の第1歩とも見られ得るし、従って戦争熱を煽る」と難じたところ、長官は「豪州の希望もあり、海軍を巡航せしめた」と簡単に答えた。

 さらに余より「漸次米国は軍艦による護衛も始めるし、従って交戦状態にもなり得るし、次いで、戦争の宣言にでもなれば日本としてはこれは由々しき大事である。この際お互いは何とか工夫して、両国間の戦争に向かう進路を平和に向かう進路に改めなければならぬ」と言ったところ、その後段に対しては同意を表した。

 次に長官より、日本の武力行使による侵略政策に対する質問があったので、余は近衛声明を述べ、非賠償、非併合の方針を説き、支那と平等の基礎において事変収拾の用意があり、日本の国家観念、国際観念について敷衍説明したところ、長官は納得した。

 その他欧州戦争、支那事変、海軍問題、経済問題、太平洋安定問題などについても多少語り合って再会を約した。既述が前後したが、会談中、話がたまたま日ソ条約に及んだので、余よりその意味を説明し、かつ太平洋の平和は他日欧州平和再建の第一歩たらんと言ったところ、長官はこれに同意を表した。

 

 長官との会談は以上のようであったが、余は翌4月15日政府に対し次の要旨の状況報告を行った。

1.        米国は3国同盟により非常の刺激を受け日米戦争を真剣に考慮するに至れるも2正面作戦は欲せざるところなるべし。

2.        日本の南進は独伊の戦勢を見て行うことあるべく、必ずしも平和的経済的たるにとどまらず。日ソ中立条約成立によりむしろ武力的となるを慮り英帝国および蘭印と協調対抗策をとりつつあり。

3.        前号に鑑み、艦隊の主力は太平洋に集中せらるべし。

4.        米国は対支援助により日本を支那に牽制することは、我が南進を阻止するためにもないしは日米戦争となる場合にも有利なりとなす。

5.        ソ連をデモクラシー側に引き付けると共にソ連により日本を牽制することは日ソ中立条約により挫折したり。

6.        英帝国の諸邦および米州諸国及び蘭印と協力、吾に経済圧迫を加えつつあり。

7.        米国の国力動員は動きだし来年は活況に入るべく、しかして長期戦の準備をなしあり。

8.        大西洋戦における船舶の損失程度が本戦争の勝敗を決す。しかるにその損失多きを以て対策に苦心し通商護衛を準備す。いよいよ実施の暁は参戦1歩手前となる。

9.        1から8の形勢を考慮し日米和平のため有利の条件を得るに努力す。

なお次の2項は重要なる点なり。

  10.日本が参戦する場合日本海軍はほとんど独力にて米英の連合海軍に当たらざるを得ざる大責任を負うこととなる。しかしてこのことは独伊の大陸における優勢および大西洋戦の推移如何により毫も変化するものに非ず。なおソ連との中立条約も何らこの大負担を軽減することなし。

  11.米国が通商護衛をやりだし、やがて戦争状態の存在を宣言するような場合は、我が国に取り大問題となる。この際何とか了解を成立せしめ今日の戦争心理より平和心理に転向し、太平洋平和を第一歩としてさらに日米協力の上世界平和の再建に進む下地を作り出すべきなりと信ず。

   

4月16日、前回同様のところにおいて国務長官と会談した。

    そのとき長官から、日本人および日本の友人たる米人の作成したいわゆる「日米諒解案」によって交渉を進めて可なりという日本政府の訓令を得られたき旨申し出で、なお、長官は「この話が進んだのちに東京よりこわされたならば、米国政府の立場は困難になる」と言った。

    その「日米諒解案」なるものについてはかねてから内面工作をやり、米国側の真意を探っておった次第であるが、長官においても大体異存がないように確かめ得たので、余は右に関しさらに大使館の幹部、陸海軍武官および岩畔大佐などと縷々会議を催し、入念に検討を重ねた上種々折衝せしめた結果、ようやく成案を得たものである。

    大体余としては出馬の際の訓令の精神により、この了解案が成立した場合においても、3国同盟の御詔勅に悖るところはないであろうし、これは太平洋平和維持の第1歩をなすものであり、さらに他日日米協力して欧州平和再建の礎石となると信じて、ただちにその旨発電同訓を仰いだのである。  

備考

    国務長官は極めて用心深く、自分の意見として言うことを警戒しておったが、この日の会談の間に次のような印象を得た。ソ連は依然として戦争に介入せず、他国をして戦わしむるの方針を探るものと認めており、また日ソ新条約についてもこの観点から見ているもののように思われた。日米戦争は欧州戦争を拡大せしめ、遂には現代文明の破滅となるという点は松岡外相と同様の意見を持っている。ヒトラーの武力制服は一時成功しても、やがて各国民は離反するに至るべく、また大陸は征服し得ても7つの海は征服できぬと見ておるようである。ただ今のところ、米国は対英援助と国防充実に力を注いでいるが、米国政府は戦後の世界再建の対策を練りつつあることは確実であると思われる。

(付記)

    日米国交調整に当たり支那事変は必然的に重大問題となるべきを以て、陸軍より支那事変通の逸材を連れ行く必要を痛感し、本邦出発前、阿南陸軍次官を往訪して適材の選抜を頼み、なお杉山参謀総長を往訪、同様に依頼した。その結果岩畔豪雄大佐を派遣せられた。同大佐は軍事課長の職にあり、頭脳極めて明敏かつ非凡なる努力家で、余に全幅の協力をしてくれた。大佐は元大蔵省官吏井川忠雄氏を同伴したが、氏は英語に熟達し非公式に十分活躍した。両人の努力は余の最も感謝するところである。

 

  5月2日午後4時半、その私邸において国務長官に面会した。

   余より「日米諒解案についてはいまだ政府の訓令に接しないが、予期せざる事件の起こらない限り遠からぬうちに同訓に接することと期待している。ただし若干の修正は免れないであろうからしばらく御辛抱ありたく、なお余限りの意向としてみれば前途を有望視している。日本の各方面では日米国交改善の熱意がある。自分もかねてから大統領および貴長官にも申したとおり、十分努力する決心である」と述べたところ、長官はこれを諒とした。なお余より進んで「通商停止」の緩和について意見を述べ、フィリピンにまで通商停止を及ぼしては、フィリピンと日本の地理的近接より見てもわが国民を刺激すること大なるものある旨語ったところ、長官はフィリピンの問題については多少耳を傾けたが、通商停止については、これは国防の必要もあるのであると説明し、また「汝が言う日本自身も各所において独占などをやっておるではないか」とて、容易に応ずる色がなかった。

 

備考

    海軍武官への入電によれば、陸海軍共に4月17日付野村大使電を基礎とし日米関係を調整するに意見一致しあり。ただし多少の修正を要するものあるも右に関しても陸海軍間に検討を了し、外務もまた略略同意見にして4月22日外相の帰京を待ちわが態度を決定の上訓電を出す見込みなりと。

    岩畔大佐へも入電あり。本件の成功は陸海軍共に希望し修正案も完全に意見一致しあるも、外相は帰朝後病気、総理も病気引籠中にして、急速回訓を発し得ざる趣を報じ来れりと。

 

   5月7日午前9時15分、私邸に国務長官を訪問した。

    松岡外相からのオーラル・ステートメントを読み、なお日米中立条約に関する会談をしたが、長官は「国交調整に関する貴使の熱誠努力は十分これを諒とし深く感謝するが、米国は今や速やかなる行動を必要とするのであって、あまり手遅れにならないうちに行動の要がある。ヒトラーの制覇が7つの海にまで及ぶことは忍ぶべからざるところであって、米国は防御を目的とし米国の権益擁護をなすものである。この権益は各国平等の権益であって、そのために10年でも20年でも、あくまで抵抗する決心である。もちろんこれは防御のためである」と繰り返した上、自分の同僚は皆自分に対して敏速なる行動を勧告する。手遅れとならないうちに速やかなる行動を要する旨を述べ、日米交渉の開始について力を込めて督促した。中立条約に関する長官の態度は、余が政府の訓令に接して居らぬという言葉を捉えて、これらの問題について政府の訓令に接していない余と話をすることは一切無用と見ているもののごとく、これに触れる意向は寸毫もなかった。なお、長官は「日米諒解案」においても両国のため若干修正を利益とする点を認める旨語った。

  

備考

    余の当時の所感は、我が国の大局から見てこの際大いなる「政治的手段」を発揮して日米両国国交調整のために大決断をなす時期は今なりと痛感し、その趣は東京にも電報しておいたのである。

    米国政府は、日本は独特の国柄で独自の国策を採り得、行動の自由あるものと認識を新たにし、これを前提として話し合いを始めた次第である。故に枢軸3国を一体と認め心中まで一貫するとの考えならばもとより話し合いの余地は毫もないのである。ただ太平洋の平和が他日欧州平和再建の第1歩となり日米諒解はやがてこの方向に向かって工作し得る機縁ともならば3国同盟のためにも利益なりと思っていた。

 

    5月11日午後10時、国務長官と会見し、政府訓令によって日本の対案を提出した。その際長官は「今はまだ話し合いであって、交渉には入っていない」と言い、且つ「機密は十分守って新聞記者などには口外しておらず、また自分は貴使の人格および大局観を信頼し、自分も率直に腹を割ってお話する」と述べたから、余はこれを諒とし「余の使命は国交調整にある」と言ったところ、長官は「自分もすでに退職を欲していたのであるが、この戦争のために職に止まっているのである」と語った。

 

    また両者より、お互いは外交のエキスパートではないから、なおさら率直に腹蔵なく話をしようという希望を交換した。なお長官は東京へ通報しないよう断った上、これは米国としても内政上重大問題であって、やがては脅迫も行われ得べきことを述べて、これに善処する必要ある旨の内緒話もした。そうして日本政府の外交問題の取り扱い振りをも尋ねた。余よりわが方対案の理由を若干説明したところ、長官は支那より撤兵の件につき質問したので、余は「防共のために北支・内蒙に駐兵しその他よりは協定に従い漸次撤兵するはずである」と答えた。また長官は「支那事変が終了したならば、日本はその兵力を持って南進をやるのではないか」と問うたから、余は「南進は平和的が本旨である」と答えた。

    長官はヒトラー主義が米国の国境にまで侵入するところあることを述べ、「これは単に防御手段に出でては駄目である。彼らが侵入し得ないように機先を制する必要がある」と語ったが、余は、この点は日本としても頗る警戒を要することは申すまでもないと思った。なお、戦争が長引けば物質文明は破壊せられて、各国は勝者も敗者も等しく疲労と飢餓を免れ得ず、結局は精神的にボリシェヴィズムの温床となること、また太平洋に戦火が波及する場合のことに及んで、両国間の戦争心理を幾分にても平和心理に向かう必要を話し合ったところ、長官は「米国は日本と紛争を望まざることは勿論である」と述べた。

 

    5月12日午後8時半、長官を往訪、前日の諒解案に我が方より若干の修正を加えたるものを提出して書類を取り替えた。長官は新しい書類を一覧して、彼が最も重きを置いている日本の南進と支那事変の部門を見て「南進の部に対しては最早保障せられること何ほどもなし」と独語し、支那事変については講和条件の実質を訪ねたので、余は「南進については侵略的の意図はないが、将来不測の変に対し日本のみを束縛しておくことはできない。例えば米国の有力艦隊がシンガポールに入るも我は如何ともし難き立場に置かれるのは欲しないのである」と言ったところ、長官は「自分たちが日本になさざるように求めるところを米国自ら行うことの愚はやらないのみならず、さらにそれより進んで他国をして同様の態度に進ましめることにしたい」と述べた。

    なお、機密保持については国務長官は非常に注意して「国務長官の側より漏れることは絶対ない」と言った。

    

5月14日午後8時半、国務長官に会見。先方の質問に応じて支那事変に関する項目を若干説明した。長官はこれはまとまる前に、支那に対し、さらにまた英国に対し、渡りをつける必要があるがごとく話した。

    次に余よりいわゆる「安全保障」の問題に関して話をなし、「米国ほど国防上安全にして他国より侵略の恐れなき国はない。米国の参戦熱は我らより見れば不可解である」と言ったところ、長官は「4月24日の国際法学会における自分の演説を読まれたか。自分は南米を知っているが、もしヒトラーが欧州征服の後にこの方面に手を伸ばしてきたならば、そのうち数カ国はたちまち征服せられる恐れがある。それにはドイツは制海権を必要とするであろうし、もし一時なりとも英国が征服せられて、英国にクウィズリング(ノルウェーの政治家。40年ドイツの侵入に当たり親独協力内閣を組織。戦後反逆罪で処刑。「クウィズリング」は「裏切り者」「売国奴」の同義語となった。五月女)のような者が現れ、その海軍をドイツに提供するような場合には、南米においてもそういうことが起こり得る」と大真面目に言うからして、余は「英海軍はドイツに渡さないとの厳約がありとも聞いており、貴長官の言はあまり空想的ではないか」と言ったところ、「いやいや、フランスは幾度かその艦隊をドイツに渡さずと吾人に言っているが、ダルラン(仏海軍元帥。1942年11月米英連合軍の北アフリカ上陸に際して、アルジェリアおよびモロッコでの戦闘停止を仏軍に命じた。五月女)、ラヴァル(仏政治家。42~44年ビシー政府首相となり、親独協力政策を遂行。戦後反逆罪で銃殺。五月女)あたりはこれをドイツに渡すかもしれない。米国はかかる可能性を考えて時期を失せずしてチャーチル政府を救わなければならぬ。これは単にデモクラシーの擁護ではなくして、米国自身の安全のためである。日本の方針は米国の援英を阻止するにありと思う」とて、東京方面の話に移り、「松岡はグルーに対し戦争をやるとまで威嚇したらしいが、目下進行中の会談はいまだグルーにも知らして居らぬ」ということを言った。

    当日はナチのナンバーツーであるヘスが飛行機にて渡英した事件について「それは平和運動にあらずや」と問うたところ、長官は、まだ確実なる情報に接しておらぬようで、ドイツ政府の一部分解とも見られるような話をした。

    さらに日本の南進に対する疑惑が解けないようであったから、余より「日本は支那事変を収拾してその兵力を以て、日米に諒解ができた挙句、その約を破って南進するようなことはない」と説明した。しかし長官は例をヒトラーにとって、ヒトラーは条約を結んでは破棄し、また結んではこれを破棄した。ミュンヘン協定もまた然りである。ナポレオンは6回和を結んでそうしてたちまちこれを破棄したというような例を引いて、十分納得するに至らざるがごとく見受けられた。

 

    5月16日午後3時半、国務長官を往訪。長官は、アンオフィシャル・アンド・インフォーマルであると前提して「オーラル・ステートメント」を見ながら言うには、「ドイツの侵略が西半球に及ぶを俟って措置するようでは手遅れとなるが故に、英国を助けるということは底知れぬ侵略に対する自衛である。支那問題については日支和平条件を列記する方がよいと認める。1,2の点には困難があろうが、これを解決すれば日支の和平は実現する。従って満州問題も自然に片付くと思う。また西南太平洋における日本の経済活動については、これは日米両国に対し平等に適用あるがごとくしたい。米国のラテン・アメリカ諸国との関係は、すべて第3国に適用あるものである」と説明した。

    余より米国側対案を十分研究することを約したる上、万一米国が戦争することとなったならば、3国同盟第3条の義務につき問題が起こり得るということを話し、以て米国自衛の限度を尋ねたが、長官は援英は自衛なりという言を繰り返したに過ぎなかった。

    なお、余は「日米諒解成立の上は日支の和平は速やかに交渉開始となると思うが、支那人はどうもすれば遷延策に出づる者である」と言ったところ、長官は同感の態度で「原則的意見の一致を見、話がまとまった上は、自分は関係国に遅滞なく手を打つ用意がある」と答えた。

 

  備考

    この当時の余の考えは、日米双方の主張にはなおかなりの開きがあるけれども、館員はもとより陸海軍武官などとも十分打ち合わせを行って、一致協力、訓令の趣旨達成のため努力するにあったのである。

 

    5月20日午後8時半、国務長官を往訪。長官より東京の空気を尋ねられた。次いで長官は蒋介石に平和を勧告する以上蒋が支那国民の支持を受け得るようになす必要ありとて「共同防共」につき質問応答をなし、長官は蒋介石に及ぼす影響と共にソ連に及ぼす影響をも考えておったが、同席の極東部長ハミルトンはむしろ日本がこれにより支那各地駐兵の口実をこしらえるものと見ているようであった。長官は諒解案成立し日米経済関係復活のためには、最初に太平洋の平和維持のはっきりした文句を掲げる必要があるということを言った。なお、長官は西南太平洋を含めて太平洋全体の現状維持的約束の能否を尋ねたが、余はこれは断った。(太平洋戦争全般と言えば支那を含む)

 

    5月21日午後8時半、国務長官を往訪。長官は「太平洋平和維持の文句については何人が見てもごまかしでなく、明らかに了解し得るようにしたい。これは国民に対する上においても必要である」とて、双方の案を研究することにした。なお「支那に関する件は重要であるが、南京条約および3国宣言を引用することは米政府の立場上不可能である」と力説した。しかし近衛声明を反復する点までは譲る意向あるがごとく見えた。共同防共に関しては「その趣意には異存ないが、ソ連、蒋介石に対しかつまた米国内にコミュニズムの存在を許しある関係上、コミュニズムの文字を用いることは欲しない」と強く主張した(この頃は初めの間は米国政府においても用語次第にて、例えば生命財産の保護とか、あるいは自衛権というような点で必ずしもある地点の駐兵には反対せざるがごとく見えた)。欧州戦争に関しては自衛の意義を長官のなした演説より引用せんと主張したが、余はそれは困ると答えた。要するにこの日は議論倒れで収穫がなかった。

    最後に長官は「大統領と自分とは根本の主義が一致して居るが、いまだ詳細なることは報告していない。大統領に報告のときは何等疑点なきようにしたい」ということを言った。

 

5月28日午後8時半、国務長官を私邸に往訪。長官は米国が自己の安全のために抵抗する意義を説明した上、3国同盟第三条の意味について質問し「松岡外相繰り返し次の声明などにより自分の同僚の間にはかなり懐疑的の者がある」旨語ったから、余は東京に尋ねても東京は第3条を敷衍せざるべく、また攻撃の字句についても解釈はなさざるべき旨答えた。

    次に支那問題に話題を転じ、「撤兵と共に防共駐兵の件があり一見矛盾するが、これはいかに解釈すべきや」と質問したから、余は「撤兵は概ね汪兆銘政府との条約によって明らかであり。防共駐兵は内蒙および北支であるが、その地点および駐兵期限は日支の会議において談判せらるべきもので、余よりその詳細を東京に尋ねるも徒労に帰すると思う。要するに日本が米国に望むところは橋渡しの役を演ぜられ、その後は蒋介石相手に直接交渉をなすにあり」と述べておいた。

    なお、余がその他に提案があるかと尋ねたところ「小なるもの若干あるが、2、3日中に決定する」と言うから、余から「元来本諒解の目的は、両国国民の戦争心理を平和的方向に転換することに重点をおいておる。巧妙なる外交文書をでっち上げるがごときことは他日に譲ってしかるべし。もしあまりに廣日弥久(コウジツビキュウ むなしく日を費やして、長引きひまどること)するならばその間に予期せざることなど起こって我々せっかくの努力も水泡に帰することあるを恐れる」と申したところ、長官は同感の様子であった。しかし何となく多少迷いおるようにも見られた。

 

5月31日、午後6時過ぎバレンタイン参事官が、国務長官の使いとして米国案を持参した。これは要するに6月21日案に到達する中間案であった。

 

6月3日午後9時、国務長官を往訪。長官は「松岡外相の声明により果たして日本に太平洋平和維持の誠意ありやを疑う者が米国側に多数あり。従って自分においても極めて困難な立場にある」と打ち明け、太平洋の平和維持は今回の諒解案の根本であって、日米両国間は勿論、日本と豪州などの関係もまた等しく然りと協調し、防共駐兵についても従来の説を繰り返した。そこで余は「これは日本政府の方針で不変である。日本としては米国が支那に日本との講和を勧告し、もし聴かない場合は蒋介石に対する援助を打ち切られたい」と言ったところ、長官が言うには、「この問題は自分としても最も苦心するところである。日米両国国交を調整すると同時に、支那をして不平不満を懐かしめず、日支間がうまくいくようになることが望ましいところであって、最も骨の折れる仕事である」と縷々述べた。最後に長官は「太平洋の平和維持が根本であるから、この点どうか東京に十分知らしてもらいたい」と述べた。

 

6月7日午後8時半、余は国務長官を往訪。長官は余および同道の岩畔大佐に対し、極めて慇懃なる態度を以て、個人の関係、友情は将来何ら変わるところがないがなどと言って、日米会談の進行不可能なるを暗示するがごときことを言った。

    この日は2時間ばかり会談したが、その翌8日より長官は病床に就いた。そして22,3日頃からグリーン・ブライアー・ホテルに転地された。その当時の交渉の難点は自衛権の問題、駐兵の問題、太平洋全面にわたる通商無差別主義、この3点であった。長官は「太平洋平和維持は本諒解の根本問題であるから、この点何人が見てもはっきり了解するようにしたい。ごまかしたる感を与えたくない。然る上は実業界に対しても日米間の金融経済協力などをなさしむるよう十分説得すべし」とて、2,3回同様のことを繰り返した。

    日米両国の太平洋の平和維持の問題に関連して、長官は「日米両国の、欧州戦、日支事変に対する関係が生ずることになって、支那問題は最も自分の苦心するところであるが、日米、米支、日支関係の3者改善は望ましいところであって、これがために支那において対米悪寒を懐かしめないように用心しなければならぬ」といった。余より「大統領は太平洋の平和、世界人類の幸福のため自ら進んで日支間に和平勧告をなし得ないか」と申したところ、長官は「本諒解案に対する両国の精神が一致し得るや否やによって決定する問題である」と答えた。欧州戦争に対しては長官は「ヒトラーは世界征服を企図している。英国屈すれば大西洋は彼に制せらるる惧れがあり。南米は彼の資源供給地となって米州が危険となる。彼がその国境を侵すまで安閑としていて滅ぼされた国がヨーロッパには15カ国ある。米国はその覆轍を望まないのである」とて一流の自衛論を数回繰り返した(これに対し余は従来大いにその観念の牽制に努めたが効き目はなかった。しかし米国は直ちに参戦するとは思われなかった)。さらに「太平洋方面の通商無差別主義を重視し、米国は米州に対しこの主義を採っている。日本は本主義を採用せられて失うところはなく、大いに日本は発展すべし。米国は日本の発展を阻止する理由は何等ない。これらの根本について了解がなければ両国案文の字句末節などについては何等興味を持たぬ」とはっきり言い切った。

    

6月13日、余は某閣僚より次の内輪話を聞いた。その閣僚は絶えず熱誠を持って日米国交改善に尽力した人である。ハル国務長官を誠実の人、所信に強い人として非常に尊敬しておったが、長官もまた氏を信じておった。氏が国務省幹部と会談した問題の要点として話してくれたのは次の如きことである。

 

甲 支那問題

     北支および内蒙駐兵が日本の自衛権行使のためとあらば何年これを行うも当然と思う。しかし他の政治的理由の下に無期限駐兵をなすは自ら別問題となる。従って支那事変に関する撤兵は北支内蒙を最後として一応完了するものと了解したし。

乙 対欧州問題

自衛権云々の字句の削除は一応当然なるも、この際これを省くときは米国に対する一種の威嚇と解釈せらるる故考えものなり。従ってこれを削除する場合他の項の字句に多少修正を加うるかまたは問題の字句そのものを双方満足するよう修正するよういたしたい。

丙 ハル長官の持論たる無差別主義を支那および南洋に拡充したし。

従って支那においては近衛声明にて表明せられたる通り、日本側に独占の意なく、また第3国の権益制限の意なきを明らかにしおきたし。

南洋において日本が合法的に米国の権益に割り込むよう考慮すべきも、英蘭の主権を侵害するようなことは諒解文の上において避けたし。然れども米国はこれら諸国に対し斡旋を惜しむものにあらず。

 

なお大統領も国務長官も諒解案の成立を依然希望しているとの内輪話であった。

 

    6月15日午前10時半、国務長官を往訪。長官は病床にあって東京の模様を尋ねたから、余は「政府の訓令により5月10日日本案を出し、5月31日米国案を受け取り、事後の折衝すべて東京寄りの訓令の埒内においてやっておるのである。余は何等雑音に迷うところがない」と言った。長官は松岡君の伊国向け声明を云々し、東京より松岡君の一味は本諒解を破壊せんとする情報入手したる旨語り、次いで太平洋問題については、日米の平和と共に日英の平和を望むもので、太平洋における通商無差別主義の必要を説き、日支事変に対しては支那政治家の言を引用して、日支間がよくなり米国は支那の通商に於いて無差別となることを希望すると述べた。

    この日長官は自衛権については繰り返さなかったが、「太平洋の平和を維持し得るようになれば、やがて世界平和を促進することになり、自分は誠意この問題に当たり何ら懸引するところなきも、今や病床にあり。どうか貴大使より今一応東京に電報して東京の意向を確かめられたい」と申すから、余より「そういうことにてはつかみどころがない」と言い、さらに若干事務的に打ち合わせすることにした。

 

    6月18日午後5時半、某閣僚と懇談した。氏は、米国は大統領の炉辺談話と言い枢軸資金の凍結および領事館閉鎖に当たり日本に特別の意を用い除外しつつあるが、日本は松岡君の声明などを見ても一向これに報いるところがないと不平を洩らし、目下の懸案は

甲 三国同盟に関連し自衛権の問題

乙 北支内蒙の防共駐兵

丙 通商上無差別主義の採用

であって、この3点の合意成立すれば了解が成立すると申した。余はこれに対し日本の態度を説明し、丙は相当強く東京に勧告する用意があるが甲及び乙はなかなか難しく、これは何とか工夫を要する次第を縷々述べておいた。

 

ウェルズ国務次官との会談

 6月19日午後1時、ウェルズ国務次官を往訪して、立花海軍中佐問題の解決について謝意を表したところ、次官は「貴大使より特別の要望があり、かつ貴大使が日米国交調整に誠実努力を行われおることを考慮し、証拠確実なるものあるにかかわらず即刻帰国の条件のもとに本件を結末した」旨語った。

余より目下懸案の了解案についても「余は成功を確信し努力しつつあるものである。もし成立すれば幾百万の生霊は必ず喜ぶ」と申したところ、彼も同意の態度を示した。

備考

 立花中佐のスパイ事件については、余はその内容の詳細を知らなかったが、6月14日余はウェルズ次官及びスターク作戦部長を往訪し、両国国交のため対局上その穏便解決を希望し置いたところ、6月18日若杉公使がハミルトン局長より解決の条件を聞き、これにて解決を告げた。その後余はスターク大将の邸に赴き謝辞を述べておいた。

 

ハル国務長官との会談

 6月21日午後0時半、国務長官を往訪。彼は病床にあった。今日まで進行したるものを、懸案は懸案として書き残しつつある米国案を受け取った。長官はさらに従来と同じことを繰り返して、「ヒトラーはヨーロッパの15ヶ国を征服したが、それに満足せずさらにほかの国を征服せんとしている。あたかも猛虎のごとし。これに対して抵抗するのは自衛上当然である」と言い、「欧州は今や断崖絶壁の上に立っている。次いで来るものは無秩序と破産である。これを考えても太平洋の平和を維持する必要あるは申すまでもない。ところが東京には責任者にして日米了解を今のラインにてやることに反対する者ある旨頻々として報告に接している。何とか日本政府において誠意を示されることを希望する」と話した。余は例によって強くその無稽なるを告げ、余は政府の訓令内において折衝しつつある旨を説明しておいた。

 

 6月22日午後8時半、国務長官を病床に往訪し、前日受け取った書類につき、「3国同盟に関連して自衛権を主張され、米国政府が付属文書を作るに至ったが、これは日本としては承服しがたし」と申したところ、長官は「米国は日本を困らせたくはないし、また日本のために米国が困らされたくない」と語った。

 防共駐兵に関する当方の主張に対しては、長官は「日米間に話がついても日支間に話がまとまらず不一致となっては米国の立場は困る」と申した。そのほか支那における通商上の無差別主義の付属文書についても種々話し合った。長官の態度は極めて慇懃であった。

 

 6月23日午後6時半、余は某閣僚と懇談した。氏は「ハルの病気は残念である。了解の成立を希望するが、何分老人の一徹を持って東京政府の真意を確かめたき心境である。一番の難点は防共駐兵であるが、何とかして撤兵を一貫し、その上で日支間の問題としてこれをとりあげる方法なきや」とのことであった。これに対し余は、昨夜ハル長官に答えたと同様に「これは日本の規定方針だから自分としてはコミットしたことは申しかねる」と答えた。なお大統領もハル長官も了解成立を希望する旨の話が合った。

 

6月23日、下記の要旨の請訓をした。

 5月31日先方提案の了解案につきご訓令の趣旨により折衝を重ねたるが、本使15日病臥中の長官(8日以来療養中)に会見したる際、長官は米側情報によれば東京に日米了解を欲せざる有力者ある旨を語りかつ日本は国交調整を重視するものにあらざるべしと述べ、本使の裁量により、帝国政府に経過を報告せられ帝国政府に調整の真意ありや否や今一応確かめられたしとの希望を申し出たるを持って、本使は米政府入手の情報の取るに足らざる旨及び本使は訓令内において折衝しある旨を強く説明し、具体案を得ざる限り請訓の無意味なるを述べ、爾来折衝を重ね21日長官より先方提案とともにオーラルステートメントを受け取りたり。

(このオーラルステートメントは松岡外相よりの訓令により先方と交渉の上撤回せしめた。)

米国案はunofficially exploratory and without commitmentと断りありてご訓令の趣旨と懸け離れ本使としてもはなはだ不満足なるも、なお前記の事情に鑑み稟議申す。案中、自衛権及び支那事変和平条件(支那において通商無差別待遇適用に関する件)に関し先方主張の趣旨を交換公文にて取り決めたき申し出ありたるも、右内容は帝国として到底容認しがたきものなるを以て、本使は昨日22日夜長官に会見、これを本国政府に伝達し得ざる旨申し入れおきたり。

    彼我の主張は重要の点につき開きあるところ、ことに第1、欧州戦に対する米の自衛権と3国同盟の関係につき、先方は当方の主張に承服せず。第2、防共駐兵については日支和平条件に介入せずと称しつつ、一面第3国の主権に関係ありと言い難色あり。第3、商業上の無差別主義はハル長官の信条にして米国の汎米政策はこれなりと言いこれを支那及び太平洋前面に及ぼし日本は失うところなきのみならず、日本の実力をもってすればむしろ有利と思うと繰り返しおれり。いずれも難点なるが先方が我が方に刻々調整の熱意あることを正当に認識するにおいては、なお折衝の余地なきに非ずと認めおれり。しかして我が方第2及び第3については日支直接交渉の和平条件なるを以て米国の容喙を認めざる建前をとりおるも、先方は蒋介石に米国の主義と反することを伝達するわけにいかずと強硬に主張す。

    資金凍結より日本を除外せること、海軍士官事件を穏便にとり計らえること及び合衆国の長官が3度本使を引見せること、その他の事情に照らし国交調整に対する大統領並びにその側近及び国務長官になお熱意ありと認めるも、最近米大使館及びニューヨーク財界方面その他より日本政府の誠意を疑わしむる情報頻々として入手しあるため、米側は何とかして日本政府の真意を確かめんとしつつあるよう解せらるる節多し。

   本件に関する日米の主張に懸隔あるも、折衝の余地なきに非ざると諸般の情勢に鑑み、本使としては今直ちに交渉を打ち切らざる方有利と認めるも、中央において打ち切りのご決定あるにおいては米政府は資金凍結、エムバーゴ(輸出禁止)の強化など強攻策を逐次とるに至ることほとんど確定的なるを持って、合わせて最悪の場合に処する対策必要なりと信ず。

 なお6月29日、余より意見を具申した中には次のことを言っている。

  米国政府にして日米了解の望みを失うに至った場合、日米関係の改善工作は中止となり、その辿る道は自然に経済断交、続いてわが南方への進出となりついには英米との衝突となる恐れ多分にこれあるべし。かかる事態において日本と全米諸邦及び英領各地との交通貿易また維持しがたく、結局総て国交は断絶すべきものと思わる。

  我が根本方針は3国同盟を基調とするも日米戦争はこれを避くるにありと承知す。了解成立の上は3国同盟と太平洋平和とは両立するものと信ず。要するに日米了解の成立は対局上有利なるべく往電の3懸案については何とか解決の途もあるべきにつき至急何とか御工夫相なりたし。なお了解の成立は日本政府の希望するところなる旨、この際とりあえず先方に明らかにいたし置きたし。あまり遅延は得策にあらず。責任の重大を痛感し重ねて電稟す。

  7月3日、意見具申の際には「この際南方武力行使をなすご決意なりとせば、日米関係調節の要素は全然なきものと思う(中略)。この際米国に対して何らかの手を打つことを必要と思う」旨重ねて述べておいた。

 ハミルトン東亜局長の来訪

  7月4日、余はバレンタイン参事官を招き、公平なる基礎のもとに日米国交調整をなす根本義についてはわが政府において異存なき旨長官に伝えしめた。するとよく5日ハミルトン東亜局長がバレンタイン参事官を同伴して来訪。「ハル長官にご申し出の趣旨を伝えたところ、元来米国政府は太平洋の平和維持ということが日米了解の根本をなしている。しかるにいよいよ日本はソ連に対して開戦するとの情報がある。これは昨日大統領にも報告した。またグルー大使に対しては日本政府の意向を確かめるよう電訓した」と申し、次に2,3の新聞切り抜きを示し、「それによると日本は2週間内にあるいは南進を開始し、まず西貢あたりを占領し、タイ国に航空基地を求め、一方ビルマを爆撃するとともに他方南進シンガポール及び蘭印に進む準備をなし、右準備の整うまではなるべく英米との衝突を回避し、またこれによって米国海軍を太平洋に牽制しドイツに南京政府の承認の代償を払う云々と書いてある」と話したので、余は「その新聞は自分も一読した。余はいまだ何等の情報にも接していないが、貴国が蒋介石を援けて財的援助をなし、飛行機軍需品などを送り、なおまたパイロットなども遣わる以上、日本がこれに対抗する手段を取るは必然止むを得ざることである。すでに長官にも申したが、裏には豪州に艦隊の巡航するあり、各方面に武官を派遣され、かつ蘭印、英領などの軍事当局との会談の内容として新聞が種々のことを伝えるもののあるほか、以上の方面では軍備の増強もある模様である。その上アリューシャン方面の防備を固くしてソ連との相互援助のことすら云々している。これは軍事的には日本に対する包囲であり、そのうえエンバーゴ(輸出禁止)を油にまで及ぼさんとの情報がある。このごとく形勢が進展しては平和の維持困難となるを以て、余は日米了解を成立せしめんと努力している次第である。日本人は戦争に対してはあくまで慎重であり、若干の例外を除いては日米戦を望む者はほとんどいないと言ってよい。米国人はこれと異なり戦争を軽く見る風がある。数ヶ月にして日本を破り得ると盲信するものすらある。余は米国の責任当局者はそんなことは考えていないということを承知するが、日本から見れば楽観を許さないことである。ゆえに何とか了解点に到達するの必要を感ずる」と答えたところ、ハミルトン局長は「今日はただ長官の使いとしてきたものである」と言っておった。

意見具申

 7月8日、東京宛に出した意見の中には次のようなことを言っておいた。

  請訓後すでにかなりの時日を経たるにかかわらず、御回訓に接せざるところ、熟熟当国の形成を見るに、独ソ戦開始(昭和16年6月)以来は特に日本の動向に注意し、あるいは日本は多年抱ける北進策をこの際実現することもあるべく、これがためには日ソ条約に重きを置かざるべしと見る者あり。あるいはこの際南進に巨歩を進めることあるべく、これはドイツの熱望に一致すると見ておる者もある。このごとき情勢のもとにおいて米国が太平洋の平和維持、戦局の不拡大を約束するは錯覚であるとなし、加うるに日本政府の国際信義を過少評価する者すらあり。しかるところ国務長官は日米了解問題を重視する旨耐えず余に語っている。また側面工作者がその親しい閣僚に絶えず接近した印象もまた同じく、大統領においても同様なる旨聞き及んでおり、また海軍方面も概してこれに賛成しているというように認められる。それは当国の政治上、国防上当然のことであると思うも、さりとて余はこの際我が毅然たる態度を継続するにおいては、彼ついに折れ来るべしとは到底信ずることができぬ。新聞雑誌の論調を見ても米政府はかかる態度をとり得ないと思う。ついては懸案の3点(自衛権、駐兵問題、商業上の無差別主義)に関し、当方においてもさらに何とか工夫を凝らしたる上、先方と連絡を取り繋ぎを失わざるよう致すべきも、米国側案の処理につき至急何分のご指示を得たいと思う。云々。

 7月10日、若杉公使事情聴取のため帰朝を命ぜられたるにより、余自ら帰朝願いを出したるも許可がなかった。

 7月13日、ウェスト・バージニア州のホワイト・サルファースプリングスにおいて6月23日以来転地療養中の長官をその宿舎グリーン・ブライアーに見舞った。

 秘書官が代わりに応対した。「病状はよろしく10日から2週間の後に帰り得る見込みである。医戒により面会謝絶なるが、長官は厚意を謝し会談は継続したいが最近の書類はいまだ熟読しあらざる始末だ」と申した。余は東京雷電により総理も外相も陸海両相その他皆でき得る限り刻々調整を望んでいる旨長官に伝言を頼んだ。

 よく14日、ハミルトン局長とバレンタイン参事官が長官の命により答礼に来た。

 7月15日、ハミルトン局長とバレンタイン参事官が来訪、保養中の長官の命によると前提し「今や太平洋の平和維持を中心として会談進行中なるが、昨今頻りに日本が仏印に海軍および空軍根拠地を設けるとの情報がある。その真相を承りたい。」と申した。そこで余は「それは新聞報道によって承知しおるだけであるが、しかし英米の重慶援助強化、米英蘭印の協力および米ソの協力などによって日本は漸次包囲せられつつある状態にあり、この際右のごとき噂ありとて余は驚かない。現に米国はアイスランドを占領し、またダカール、アゾレスなどに手をつけるなどの噂あるに比較すれば日本がこれに噂の通り実行してもあえて不思議はない。もっとも本国政府に訪ねて何分の御答えをしよう」と述べた。

次にハミルトン局長は「米国が参戦した場合に日本が米国と戦うべき独伊との同盟条約以外確的ありや」と尋ねたから、余は「それはなかるべしと思うが、条約第3条の義務は発生する。義務の詳細は東京にて必要を認めない。それは条約に書かれてあるとおりである。ハル長官に関しても日本政府は、米国が将来行わんとするところは一切自衛権の発動なりとあらかじめ認定することはできない。個々の場合を吟味する他なしとお話したこともあり、元来米国は国防上もっとも安全であって他国より攻撃を受ける恐れはない。そうしてカナダとは別懇の間柄、メキシコは満州国と同様、パナマ以北はもちろん以南も漸次米国の勢力圏となり国防上の安全は日本と同日に論じ難い」と、かつてハル長官に話したことを繰り返して申したところ、同人などはハル長官の論旨を述べておった。 

 

 7月15日にいたり6月21日付米国案に対する回訓に接した。しかしその内容は少しも目下交渉の要点である懸案の自衛権、北支内蒙の駐兵及び商業上無差別主義に改変を加えず。従来より一歩も前進しておらなかった。しかるに米国の情勢は米国側は7月4,5日頃よりわが南進の情報を入手し、東亜局長が療養中の長官の命により2回余を来訪し、爾来形勢とみに悪化しつつあった。余は東京政変近衛第3次内閣の出現により多少の期待をかけ新しい訓令を待望し、右の回訓は先方へ提出しなかった。要するに仏印南部進駐は日米交渉の最大危機であった。米国大統領は他日余に向かい、大使とハル長官と平和交渉中に冷水をつっかけたと語った。

ウェルズ国務長官代理との会談

 7月18日午後6時、ウェルズ国務長官代理を往訪。パナマ運河付近にある日本商船の運河通行に関して好意的取り計らいを要求したところ、同次官は右は国防上の見地に基づき無期限である旨返答したが、なお詳細取り調べの上返事する旨答えた。無期限の一語は特に余を刺激した。

 東京における政変、日本国防上の地位にも言及したが、次官は、日米の平和関係は90年に達しており、これを何とか維持したいものであるということを話した。

状況報告

 7月19日、豊田副武新大臣より、協力相成りたき旨の挨拶があったからして、余は微力を尽くして奮励致すべき旨返事した。同時に長文の意見の具申をなした。

 7月23日付発した電報中に次のような状況報告をした。

 我れ南進の場合日米関係に及ぼす影響についてはたびたび申進ぜしところである。今日その影響はかなり急速度を以て進展し国交断絶1歩手前までの恐れ大である。月曜日(7月21日)の国務次官および若杉公使の会談により事態の窮迫を感じ、火曜日時間に会見を申し込んだところ、水曜日(7月23日)午後3時会見の予定である。昨夜急に旅行先より帰華した1閣僚に面会したところ、同氏もハル長官は保養中であり、ウェルズ次官も困却していると言って如何とも致しがたいような口吻であった。余の所見を以て、余はあくまで希望を失わず所信に従い最善を尽くすと答えておいた。国交断絶1歩手前まで行くものと思われる。当方面対日空気急変の原因は我の南進にあり。南進はやがてシンガポール、蘭印にまで進むであろう第1歩と認めるからである。当国海軍もまたしかく認めるようである。日本が一面日米了解を売り物となす反面、南進の策を立てておる。国務長官のごときは騙されているという非難もある模様である。しかして米国政府に達する情報はわが真意を疑わしむるもの多く、その最も顕著なるものは、余の交渉は東京において爆破さるべしとか、あるいは日本が枢軸側に対し日米国交調整は南進準備完成までの謀略なりという説明を与えたなどである。これらの情報には最高責任者もようやく耳を傾け出すに至ったという説もあり。要するに交渉進行中に日米双方にこれが反対運動あり。また第3国側の策動もあったに相違なく傍々今やますます難しい形勢にあり。ついては一面米国大使に機を失せず日本の日米国交調整に対する誠意と、仏印進駐の真意を披歴相成るよう致したく、余に対しても至急新内閣の方針を指示願いたい。余も起死回生のつもりにて12分の努力をいたしたき覚悟である。

 7月23日午後3時、ウェルズ国務長官代理と会見。わが南部仏印進駐は要するに国家の安全と経済上必要不可欠の理由に基づけるものであり。ことに各国において通商停止の行われる形勢において、日本が一人座して滅ぶる態度をとり難い旨を縷々説明し「仏印問題も新聞によればすでにヴィシー政府との間に平和裏に進行するの見込みあり。今ようやく形勢を見られ、あまりに早急なる結論に到達せられざることこそ望ましい。油の禁輸が日本の国民感情に一大刺激を与えることを恐れる。日米交渉については新内閣も前内閣同様その成立に熱心である旨を述べたところ、同長官代理は「若杉公使に述べたところはこれを繰り返さないが、要するに貴使とハル長官の会談を一貫せる精神と仏印に対する日本のやり方とは両立し難い。米国も英国も仏印を攻撃することはない。ヴィシー政府の屈服はヒトラーの強圧によるものと思う。日本は仏印を足場にしてさらに南進するものと認められる。かつ米国政府は過去多年の間いまだ早急なる結論をなしたことはない。要するに日本の政策に従って当方は動くに過ぎない」と述べ、またハル長官は近いうちに帰るであろうとの話であ