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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 平和を求めた日本・戦争を欲したアメリカ     平成27年10月16日 作成 五月女 菊夫


―大東亜戦争直前の日米交渉―

Ⅰ はじめに

 1 歴史教科書が教えて来た「日米交渉」

 2 日米交渉開始前の日米関係推移概観

Ⅱ 日米諒解案

 1 松岡外交の終焉

 2 南部仏印進駐

 3 対日経済制裁の強化

 4 日米諒解案から日米首脳会談へ

Ⅲ 帝国国策遂行要領

 1 帝国国策遂行要領の採択と背景 

2 日米首脳会談実現への努力と米側の非妥協的態度

  3 支那撤兵問題と海軍の総理一任論

Ⅳ 甲案・乙案

 1 東條内閣の成立

 2 白紙還元の御諚

 3 甲・乙両案を決定

 4 対米交渉再開

Ⅴ ハル・ノート

Ⅵ まとめ

  (自由・育鵬の記述)

 

Ⅰ はじめに

 1 歴史教科書が教えてきた「日米交渉」

    大東亜戦争はなぜ起きたのか?今なお歴史学会をはじめ教育界やメディアでは我が国の侵略行動が戦争原因だと喧伝し、それを無批判に信じている国民が少なくありません。

栃木県内でそれぞれ50%近いシェアを占める東京書籍(東書)と帝国書院(帝国)の中学校歴史教科書には次のように記されています。

東京書籍日米交渉の決裂 日本が侵略的行動を取る中で、日米関係は悪化していきました。近衛内閣は、アメリカとの戦争を避けるために19414月から日米交渉を行いましたが、軍部などの要求もあって、南進を止めませんでした。

 フランス領インドシナの南部へ軍を進めた日本に対して、アメリカは石油などの輸出禁止に踏み切り、イギリスやオランダも同調しました。戦争に不可欠な石油を断たれた日本では、このように経済的に封鎖する「ABCD包囲陣」を打ち破るには早期に開戦するしかないという主張が高まりました。

 日米交渉の席でアメリカが中国とフランス領インドシナからの全面撤兵などを要求すると、近衛内閣の次に成立した東条英機内閣と軍部は、アメリカとの戦争を最終的に決定しました。(東書P224)

帝国書院日米交渉の決裂 日本は、1940年にドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結びました。この同盟の目的は、ドイツとイタリアがヨーロッパで、日本がアジアで指導的地位につくために協力し合うことでした。これらの国々を枢軸国といいます。これに対して、アメリカのローズベルト大統領は、イギリスのチャーチル首相とともに翌418月に大西洋憲章を発表し、民主主義を守り、領土の拡張や変更を否定する考えを示しました。この考えに賛同した国々は連合国とよばれました。

 こうした動きと並行して、19414月から日本とアメリカの間で、戦争を避けるための交渉が進められていました。しかし同じ4月に日本はソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保したうえで、7月には石油などの資源を求めて、さらに東南アジアへ軍隊を進めようとしました。するとアメリカは、日本への石油や鉄の輸出を制限し、イギリス・オランダなどと協力して経済的に孤立させようとしました(ABCD包囲網)。加えてアメリカは、中国を満州事変前の状態にもどすことなどを求めたため、交渉は決裂し、東条英機内閣と軍部はアメリカと戦う姿勢をかためました。(帝国P225)

 東書の説明によれば、まず日米関係の悪化の原因は、日本が侵略的行動をとったことだとしています。近衛内閣は日米戦争回避のために日米交渉を行いましたが、軍部の要求があって仏印への南進を止めなかった、そのために米英蘭は日本への石油禁輸などの経済制裁を行ったと説明しており、これを読んだ中学生たちはなるほど(日本(軍部)は悪い奴だな)と思うでしょう。

 さらに東書は「日米交渉の席で中国と仏印からの全面撤退を要求された」と書いています。これは多分ハル・ノートのことを指しているのでしょうが(ハル・ノートという単語は東書・帝国の両教科書には出てこない)、この文章を読んだ中学生は、現在行われている首脳会談や外相会談の話し合いの席上要求されたようなイメージを持つでしょう。

 帝国は、日ソ中立条約の目的を「北方を安全にして南進するため」と戦国時代の戦略の如く単純明快に断じていますが、これを推進した松岡外相の構想は、三国同盟にソ連を加えることによってアメリカに対抗できるのではないかというものでした。むしろ日ソ中立条約によって軍事的な利益を得たのはソ連で、それによって極東に配備していた兵力をモスクワ防衛戦に投入し、ドイツ軍を押し返すことに成功しました。

 帝国は「民主主義を守り、領土の拡張や変更を否定する考えに賛同した国々は連合国と呼ばれた」と記しています。この文章は、連合国が民主主義を守る良い国の集りだったという印象を与えるものです。言うまでもなく連合国の一員であったソ連や支那は民主主義を守る国ではありませんでした。この教科書で学んだ中学生たちは、第二次大戦及び大東亜戦争を、“連合国=民主主義国=VS枢軸国=専制主義国家=悪”という善悪二元対立の単純化した構図で理解してしまう恐れがあります(現にそのような図式で理解している日本人が大多数?)

 「連合国」とは単に、第一次大戦ではドイツ帝国、オスマン帝国など中央同盟国と敵対した国々、第二次大戦では日独伊など枢軸国と敵対した国々が連合した同盟を指すに過ぎません。

 日本の南進、それに対する懲罰としての経済封鎖、そして対米戦争の決意については東書とほぼ同じです。

 東書・帝国とも戦争を回避するための折衝やアメリカの対日経済圧迫が昭和16(1941)4月から始まったが如く書いていますが、「再び日本近現代史を勉強する」・シリーズの第5回「日米決戦への道」で述べたように、日米交渉については大正11(1922)年のワシントン条約以後、対日経済圧迫については昭和13(1938)年頃から行われていました。日本が仏印へ進駐したからアメリカが経済制裁を加えたのではありません。アメリカが先に経済圧迫をかけたから、日本はその生存を賭け仏印へ進出し、それによって更に制裁が強まったという流れでした。

 本稿は、中学校の歴史教科書も項目を立てている昭和164月から11月末まで行われた開戦前8カ月間の日米交渉に焦点を絞り、何故それが結実しなかったのか、その責任は日米いずれに重いのかについて再検証するものです。

 2 日米交渉開始前の日米関係推移概観

   三国同盟締結以後、日米関係は悪化の一途を辿りました。我が国を極度の窮迫状況に追い込んでいった米英の対日軍事経済制裁関連出来事の推移を、三国同盟の成立した昭和15(1940)秋から日米交渉の開始される昭和16年春にかけての期間に限って概観してみます。

月日

事項

昭和15

(1940)

925

三国同盟直前、アメリカは蒋介石に2500万ドルの借款供与(三国同盟締結は927)

926

三国同盟直前日、アメリカは屑鉄の対日全面禁輸を発表(1016日から実施)

108

アメリカが東アジア在住の婦女子の引き揚げを勧告

1018

イギリスがビルマ・ルートによる援蒋輸送を再開

1019

アメリカが名古屋領事館を閉鎖

116

ルーズベルト大統領三選

118

ルーズベルト「今後、生産軍需品の約半分をイギリスに提供するであろう」と言明

1113

イギリスがシンガポールに極東軍総司令部新設

1130

アメリカが日華基本条約を否認し、対蒋介石1億ドルの借款供与を発表

124

アメリカが工作機械41種目を同10日以後輸出許可制にする旨宣言

1210

アメリカがあらゆる鉄鋼製品を同30日以後輸出許可制にすると発表

昭和16

129

米英参謀会議(ABC)開催(329日まで)

311

アメリカ武器貸与法が成立

 上記の如くアメリカは、支那事変に対しても欧州戦争に対しても、何ら調停や和平努力に努めることなく、ただ枢軸側(日・独・伊)を非難し、他方、反枢軸側に対しては軍事・経済両面の支援を増大させることによって、戦火に油を注ぎ込んでいただけでした。

このような情勢を受けて、悪化した日米関係を好転させ、支那事変解決を促進するため、日本が積極的に働きかける形で、昭和16年春から日米交渉が開始されました。

Ⅱ 日米諒解案

 1 松岡外交の終焉

 昭和1511月末、アメリカからウォルッシュ司教、ドラウト神父の2名のカトリック僧侶が来日(当時のローマ法王は反共政策をとる日本を支持)、井川忠雄・産業組合中央金庫理事(元大蔵省官吏)の紹介で各界要人と会って日米関係打開につき画策するという動きがありました。井川は渡米、右の両神父等と連携して工作を開始し、昭和16416日、支那問題に精通した陸軍将校として野村大使の下に派遣された岩畔豪雄(イワクロヒデオ)大佐(陸軍省軍事課長)、井川、ドラウトの3名は日米の主張を折衷して「日米諒解案」と呼ばれる一案を作成しました。

同日、野村大使がこの諒解案をハル国務長官に提案したところ、ハルは「四原則」[1]なるものを手交し、「日本側がこの四原則を受諾し、諒解案を正式に提案するなら会談を始める基礎としてもよい」と述べました。ハルの示した「四原則」は、一般的原則であり、日本側にもとりたてて反対する理由はまったくありません。

 418日、「日米諒解案」が我が国に打電されると、近衛首相は直ちに政府統帥部連絡会議を招集、協議したところ大勢は受諾に傾きました。諒解案は、①日本軍の支那撤兵、②支那領土の非併合、③非賠償、④門戸開放方針の復活等を挙げている一方、⑤蒋介石、汪精衛両政権の合流、⑥満洲国の承認、⑦日米通商関係の回復、⑧日米首脳会談等を提案していたのですから我が方が歓迎したのは当然だったといえます。

東條陸相も武藤軍務局長もはしゃぐ如く喜んで、陸海軍とも諒解案に「跳び付いた」というのが実相であったといわれています。東條は「東京裁判宣誓供述書」で「連絡会議の空気はこの案を見て、問題解決の一つの曙光を認め、ある気軽さを感じました」と述懐しています。

陸海軍と外務省は直ちにこの諒解案の検討に着手、米側への「主義上賛成」の返電は訪欧の途にある松岡外相の帰京を待って打つことになり、松岡に対しては速やかに帰国を促すことになりました。

ところが「日米諒解案」には大きな誤解がありました。それは日本側が、同案をアメリカ政府の作成した案であると思い込んでいたことです。諒解案に関する電報を起草したのは若杉公使で、同公使は、諒解案を米側の起案である如くに変えた方が本国政府の意見をまとめるのに好都合であろうと判断して、そのように電文を改めたと、当時東郷外相の下で日米交渉を担当した加瀬俊一は述べています。

 松岡外相の帰京後、直ちに連絡会議が開かれましたが、松岡は諒解案に対して甚だ不機嫌かつ冷淡な態度をとりました。松岡は「アメリカは第一次大戦中、石井・ランシング協定を結んでおきながら、戦争が終わるとこれを破棄した。これがアメリカの常套手段であり、諒解案も悪意が七分、善意が三分だ」と弁じて諒解案を非難・退席、他の出席者を甚だしく失望させました。

東條陸相も武藤軍務局長も即時受諾の返電をすべしという意見で、松岡の態度にひどく憤慨したといいます。そのため陸海軍の間には松岡への反感が高まり、外相更迭論まで出る有様でした。

結局、日米諒解案は松岡の主張を入れ、大修正されて米側へ返電されました。これに対して531日にアメリカ側修正案が提示され、621日には、この531日案を訂正した案がハルから野村大使に手交されました。松岡とハルの主張の衝突点は、①日米共同して欧州戦争を調停するか否か、②米独間が戦争事態に陥った場合、三国同盟に基づき日本が対米参戦するか否か、という二点であり、真正面から対立、歩み寄りの余地はありませんでした。①については、米側は「欧州戦争の調停は、ドイツが大半占領下に置いている欧州の現状を追認するものであり絶対に不可」、②については、日本の三国同盟からの離脱を要求するものでした。日本側は、①を受け入れることができても②を許容できません。なぜなら松岡外相こそが三国同盟締結の推進者であり立役者だったからです。

 ところが翌622日に、独ソ戦が勃発、全世界を震撼させることになります。独ソ開戦は「日独伊ソ四国同盟」を目指す松岡の和平構想にとって一大衝撃であったことは言うまでもありません。独ソ戦を巡って連日会議が開かれ、ドイツからは我が国に対して正式に参戦が申し入れられましたが(630)72日、日本政府は御前会議で決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要領」を策定、その中で独ソ戦不介入の方針が採択されました。 

 独ソ戦への姿勢が決まると、米側修正案の検討に入り、ここにおいて日米双方の主張の対立が明確になってきました。さらにこのアメリカ案には松岡を暗に非難するオーラル・ステートメント(口述書)が付随しており、これがまた松岡を激怒させることになります。なおこの頃、米側は既に陸海軍情報部によって我が国の外交暗号(パープル又はマジック)の解読に成功しており、対米交渉に関する我が方の外交電報は悉く傍受解読されていました。米側には、我が政府内部の内情や意見の対立を含めて、重要情報が筒抜けになっていたというわけです。

 米修正案に対する対応の仕方を巡っても、松岡外相は近衛首相や陸海軍と対立、首相、陸海軍側も外相更迭或いは内閣総辞職以外に道なしと結論、716日、近衛内閣は総辞職し、それに伴い松岡枢軸外交は終焉しました。

 2 南部仏印進駐

   718日成立した第三次近衛内閣の特徴は、これまで日米衝突回避を強く主張してきた豊田貞次郎海軍大将の外相就任でした。我が国は、アメリカの忌避する松岡外相を更迭してまでアメリカの意に沿わんと努めたものの、この屈辱的な譲歩さえもアメリカは全く意に介することはありませんでした。

 1月から行われていた重要戦略物資(石油、ゴム、錫)の調達輸入に関する蘭印との交渉は、米英蘭の妨害によって難航し、617日、遂に交渉を断念せざるを得ませんでした。交渉が不調に終わった場合の対応策として、我が政府は「南方施策促進に関する件」を議定、25日に上奏し裁可を得ました。その要点は、「速やかに東亜安定と領土防衛のため日・仏印軍事提携を行う。その際外交交渉を優先し、止むを得ざる時武力を以て貫徹する」というものでした。

米英は、日本への回答を引き延ばすようフランスに圧力をかけ妨害を図りますが、フランス(ヴィシー政府)は721日、日本軍の駐屯が一時的なものであること、フランスの主権を尊重することを日本が公約すること等を条件として我が国の要望を受諾、かくして現地では南部仏印進駐ついての細目話し合いが成立(23)28日から29日にかけて日本軍部隊は平和裡に南部仏印に上陸を開始したのでした。

 我が国はなぜ南部仏印に進駐する必要があったのでしょうか。その理由は、南方資源確保のための橋頭堡構築、援蒋ルートの遮断、米英蘭の南方諸地域における対日包囲網の弱体化・無力化であり、米英蘭の連係による日本囲い込み戦略に対する自衛措置であったといえます。それは、723日、米国務省が南部仏印進駐に対する警告を日本側へ伝えてきたとき、野村大使が「国家の安全と経済上不可欠の理由に基づくもので、各国が対日通商を停止しつつある状況で、日本が独り座して滅びるわけにはいかぬ」と反論したとおりです。

 昭和15年以来、タイ・仏印は米英勢力と連係して我が国の生存上必要な米とゴムの入手を妨害していました。イギリスは昭和165月中旬、日本及び円ブロック向けゴムの全面禁輸を、アメリカは同6月中旬、仏印生産ゴムの最大量買い付けを行い、我が国のゴム取得を間接的に邪魔していたのです。

 我が国の南部仏印進駐に対してアメリカがかくも神経を尖らせたのは何故でしょうか。それは仏印周辺地域が戦略物資の宝庫で、特に米英が最も必要とするゴムは世界総生産額の90%を、また錫はマレー、蘭印、タイを主産地として世界の60%を占めていたことによります。

 昭和15年中、アメリカは約62万トンのゴムを消費し、世界ゴム消費の約57%を占めていたのですが、国内生産は皆無でした。また昭和14年、アメリカの錫輸入高は65千トンでそのうち47千トンを英領マレーから、5千トンを蘭印から、4千トンを支那と香港から輸入しており、その輸入量の約80%を東アジアに依存していました。

ゴムと錫から見ても、東アジア供給路が日本の進出によって絶たれることは、アメリカにとって甚大な脅威であることは確かです。この死活的地域を日本に押さえられるとなれば、従来、アメリカが日本に加えてきた経済圧迫の手段を逆に日本が握ることになり、アメリカは対日政策の決め手を失うことになります。

 当時仏印の本国たるフランスはドイツに降伏し、フランスの二つの政権のうちドゴール政権はイギリスに亡命していました。ドゴールが仏印の管理を英米に依頼する可能性は十分にあり、米英側が先手を打って仏印を占領する可能性は十分予期できました。当時の国際通念上、経済圧迫に耐えかねた持たざる国・日本にとって、仏印への進出は自衛措置の限度を逸脱するものでは決してなかったという事実は心に留めておく必要があるでしょう。

 3 対日経済制裁の強化

   アメリカは我が国の南部仏印進駐に対して時を移さず報復行動に出ます。725日、アメリカは在米日本資産凍結を声明、我が国も直ちにアメリカ資産凍結をもって応じるという本格的経済戦争が始まりました。イギリス、ニュージランドがアメリカの措置に追随、蘭印もまた28日に日本資産凍結令、日本との金融協定、日蘭石油民間協定の停止を公表、日本の最後の命綱である南方資源が完全に断たれるという事態となります。

 さらに81日、ルーズベルトは石油禁輸強化を発令、日本を対象として発動機燃料、航空機用潤滑油の輸出禁止を発令しました。これによって我が国は、既に禁輸されていた高オクタン価ガソリンのみならず、オクタン価の低い石油も禁輸措置を受け、我が国への石油輸出は全く停止されるに至ります。

 ルーズベルトは対日石油禁輸が極めて危険度の高い制裁手段であることを承知していました。当時、海軍作戦部長スタークは、大統領から対日石油禁輸について意見を求められ、「禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちにアメリカを戦争に巻き込むことになろう」との意見を提出していたことが、1941年の真珠湾に関する議会委員会の聴聞会で明らかになっています。

 ルーズベルトは724日、南部仏印進駐についての説明に訪れた野村大使に「これまで、日本に石油を供給するのは太平洋の平和のために必要だと国民を説得してきたが、この状況では余は従来の論拠を失い、最早太平洋を平和的に使用できなくなる」と述べました。しかしこの言葉は裏を返せば、対日石油禁輸が日米戦争を誘発する公算の極めて高いことをルーズベルト自身が自白したことになります。

 上記のようにアメリカ側が戦争を予期して対日政策を講じつつあった時点において、我が国は決して戦争意思を固めていたわけではありません。在米日本資産凍結後まもなく、佐藤軍務局長が東條陸相に対し、「交渉を止めて武力で対日封鎖を打開するほかに方途はなく、そのために武力準備を進める」ことを提案したとき、東條陸相は「準備はよいが、戦争決意はまだ早い。尽くすべき手段は尽くすのだ」と武力行使に賛成しませんでした。

 東條は、昭和161月大本営連絡会議が「対仏印・泰施策要綱」を作成した頃から武力行使を主張せず、仏印に対する軍事的要求の提案も余り急ごうとしなかったと言われています。東條は、「要綱」の中に武力行使の発動は「別に決定する」とあるのを「別に廟議を以て決定する」と修正するよう要求したのですが、それは統帥部が勝手に武力行使を発動するのを抑えようとの配慮からであったといわれます。やがて戦争に突入したという結果のみを見て、東條を好戦的武断主義者と決めつけてきた戦後の歴史観は改めなければなりません。

 4 日米諒解案から日米首脳会談へ

 南部仏印進駐、在米資産凍結、対日石油禁輸等の諸事態は日米関係を著しく険悪化させることになり、日米諒解案の交渉は棚上げ状態になりました。この間、近衛首相は局面打開に腐心していましたが、8月に入るや、日米諒解案の中の一項目であった日米首脳会談の一点に絞り交渉の突破口を開くことに目標を定めました。近衛は自ら米大統領と会見する決意を固め、陸海軍の賛同も得ました。陛下も近衛の決意を嘉され、速やかに会見を実現するよう督促されました。

 88日、野村大使を通じて日米首脳会談の開催が提案されましたが、折しも大統領はチャーチル英首相との洋上会談の為不在で、ハル国務長官へ伝達されました。だがハルは「日本の政策に変更のない限り、これを大統領に取り次ぐ自信がない」という冷ややかな応対ぶりでした。

 我が政府が上記の如く和平の方途を必死で模索しつつあったとき、ルーズベルトとチャーチルは大西洋で何を協議していたのでしょうか。

 この会談の結果として発表されたのが、戦後世界の構想を謳った英米共同宣言「大西洋憲章[2]」です。欧州ではイギリスがドイツの攻勢に苦戦を強いられている最中であり、太平洋には日米間に一発の砲弾も飛んでいない状況で、いつ訪れるかも知れない戦後世界の構想を英米の指導者だけで合意して何の意味があるのか、その隠された謀議を疑わざるを得ません。

「大西洋憲章」は大西洋会談の真の目的を隠すための偽装網に過ぎなかったと言えます。チャーチルがこの会談に期待したのは対日戦争にアメリカを引き込むことでした。チャーチルはそのことを、開戦後の昭和17127日、英下院での演説の中で自ら公表しました。「大西洋会談以来、たとえアメリカ自身が攻撃されなくても、アメリカは極東で戦争に入り、最後の勝利を確実にするであろうという公算が、これらの不安(イギリスが単独で日本に対処することについての)の一部を軽減するように思われた。━時が経つにつれて、もし日本が太平洋で暴れたら、我々は単独で戦うことにはならないとの確信を強めたのである」と。

 我が国が日米交渉打開のため首脳会談を米側に申し入れつつあったとき、大西洋では米英首脳が以上の如き対日戦争を想定した上での協力を協議し、約し合っていたことになります。これでは我が方がいくら力んでも日米交渉が進捗するはずがありません。

 817日、洋上会談から戻ったルーズベルトは野村大使に二つの文書を手交します。一つの文書は「もし日本が隣接諸国に対して、この上侵略的政策をとるならば、アメリカ政府はアメリカの権益と安全のため必要なあらゆる手段をとる」旨の通告書で、大西洋会談の申し合わせを実行したものでした。

 もう一つの文書は、首脳会談に原則的に賛成するとの回答であり、大統領は野村との会見では終始上機嫌で、会見場所としてアラスカのジュノー(アラスカ州の州都)を提案したり、期日として10月中旬を示唆したりするほど話が進みました。

 翌18日、豊田外相はグルー米大使に首脳会談への協力を要請したところ、グルーは豊田の真摯な態度に感動し、即刻ハル長官に「日本の提案は深い祈念を込めた検討なしに片づけるべきにあらず。最高の政治的手腕を発揮すべき機会がここに提起せられあり。これにより太平洋の平和にとりて一見乗り越え難き障害も克服し得る公算あり」と言葉の限りを尽くして上申・打電したのでした。

 米大統領の817日通告への日本側回答は26日の連絡会議で決定しました。骨子は

(1)   アメリカは自己の原則信念に立って他国を非難するが、現在の国際的混乱の中で原因と結果を一方的に判断するのは危険である。

(2)   一国の生存条件が脅かされたとき、対応措置や防衛手段をとるのは当然で、それを批判する前に、その原因を究明すべきである。

(3)   仏印共同防衛は支那事変解決の促進と必要物資取得のための自衛措置であり、支那事変が解決するか、極東に公正な平和が確立されれば直ちに仏印より撤兵する。またソ連を含め隣接諸国に進んで武力行使する意思はない。

 これらの諸点を明記した後、最後に、アメリカの言う「原則」や「プログラム」は、太平洋地域にのみ限定されるべきではなく、全世界に適用されるべきこと、またその実施に当たっては、持てる国が資源の公正な配分に努力すべきことを提言しており、冷静で説得力のある名論でした。

 また同日の連絡会議は近衛首相からルーズベルト大統領宛のメッセージも採択しました。それは従来の事務的商議に拘泥せず、大所高所より日米間の重要問題を討議し、危局救済の可能性を検討することを提案したもので、細目は会談後、事務当局に任せればよいとして、一日も早い首脳会談を希望し、会見場所にハワイを提案したものでした。

 ルーズベルトは近衛のメッセージを「非常に立派なもの」と称賛した後、首脳会談は3日間くらいを希望すると言い、大いに乗り気を見せたといいます。ところが同席していたハルは、首脳会談は事前にまとまった話を確認するだけのものにしたいと繰り返し主張し、我が方の意図とは根本的に異質な態度でした。

 93日、ルーズベルトは近衛のメッセージに対する回答とオーラル・ステートメントを野村大使に手交しました。回答は、首脳会談に同意することについては明確な表現を避け、その前提条件として基本問題に関して合意するための予備会談が必要であるというものでした。またオーラル・ステートメントに至っては4カ月前に日米諒解案の基礎としてハルが提起した「四原則」を再び持ち出し、「四原則」によってのみ太平洋における平和が達成できると念を押してきましたが、一般原則を主張するだけの意味しかなく、首脳会談の遷延と阻止を狙ったハルの策謀と見るのが妥当でしょう。ハルこそが日米戦争を招来した真の元凶であり、黒幕であったともいえます。

 我が国では、日米首脳会談の為、重光駐英大使を首席随員に内定、陸海軍の各大将(海軍は山本五十六聯合艦隊司令長官)、両統帥部次長も参加する予定で、期日は921日から25日、場所は公海上の軍艦とする方針を概定、海軍は特別な無線装置を施した新田丸を極秘裏に徴傭し、護衛の第5戦隊を待機させました。米側は、暗号解読によって我が国がここまで準備していたことを知っていました。首脳会談が行われれば、何らかの形で太平洋に高まっていた日米間の緊張がなだめられてしまうことを、ハルは危惧したに違いありません。そして当初乗り気だったルーズベルト本人もそのことに気付き慎重になってしまったとしか考えられません。

Ⅲ 帝国国策遂行要領

 1 帝国国策要領の採択と背景

このような情勢の中で、遂に我が国は、何時までもアメリカとあてのない交渉を続けるべきか、それともいい加減に見切りをつけるべきか、見切りをつけて開戦すべきか、という重大決断を迫られるに至ります。かくして93日、連絡会議は和戦に関する重大決定、「帝国国策遂行要領」を承認し、96日御前会議においてこれを採択しました。要点は

(1)   自存自衛のため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、10月下旬を目途として戦争準備を完整する。

(2)   同時に外交手段を尽くす。

(3)   10月上旬に至るも交渉成立の目途なき場合は、直ちに対米(英蘭)開戦を決意する。

このうち(2)に関連して、外交交渉上の最小限度の要求として

   米英は日華基本条約と日満支共同宣言に基づく支那事変処理を妨害せぬこと。

   ビルマ・ルートによる援蒋行為の停止

   米英は極東の兵力をこれ以上増強せぬこと。

   米英は我が国との通商を回復する等を、また我が国の約諾し得る限度として、前記の要求が応諾されるならば、

ア 仏印から支那以外の近接地域に武力進出しないこと。

イ 公正な極東平和確立後、仏印より撤兵する。

ウ フィリピンの中立を保障する。

エ 米の対独参戦の場合、三国同盟は自主的に解釈する(米独が開戦しても日本はドイツ側に立って参戦しない)

等を決定しました。

 我が国が、戦争の決意と準備を含む重大な「帝国国策遂行要領」を決定するに至ったについては、下記如き窮迫した理由と背景がありました。

(1)   米英蘭の対日経済封鎖により、我が国は満洲、支那、仏印、タイ以外の地域との貿易が完全に途絶し、日本の経済生活が破綻に直面した。

(2)   ABCD包囲網が強化され、米英が軍備を増強した。例えば

   昭和166月シンガポールで英・蒋軍事会議が開かれ、英支軍事同盟が出来たと伝えられた。

   74日、重慶外交部は米英支の結束の必要を放送した。

   同月、米大統領は太平洋諸島防備強化のため3億ドルの支出を議会に要求した。

   710日、米大統領は議会に150億ドルの国防費と武器貸与予算の支出を求めた。

   26日、アメリカはフィリピンに極東米陸軍司令部を創設、マッカーサー将軍の指揮下に置く旨発表した。

   30日、米下院軍事員会は、徴集兵、護国軍および予備兵の在営期間延長の権限を大統領に与える決議案を採択した。

   8月、米陸軍予備兵3万人を召集し、91日よりマッカーサー米極東軍総司令官の麾下に編入する命令をケソン・フィリピン大統領が発出した。

   14日、米英共同宣言(大西洋憲章)が発表された。

   19日、ケソン比島大統領とウォーレス米副大統領が交換放送を行い、米参戦の暁にはフィリピンも加担する旨言明した。

   26日、ニュージランドのフレーザー首相は同国基地を米豪蘭が共同使用することに同意する旨発表した。

   8月末、米大統領はマグルーダー准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨言明した。

(3)   米英蘭の経済圧迫で重要物資、殊に石油は一切備蓄に頼るほかなくなり、我が国力の弾力性は日毎に弱化し、海軍は2年後に機能を失い、我が重要産業は極度の戦時規制を施しても一年以内に麻痺状態になることが判明した。

(4)   重慶は米英の支援の下に抗戦を継続したため支那事変は解決せず、そのため南方問題はますます急迫し、我が国は支那事変と南方問題の両者の間に苦慮するに至った。

(5)   日米交渉決裂という万一の場合も予想しておく必要があり、統帥部は責任上それに応ずる準備をしなければならず、そのため国家意思の確定を必要とした。

(6)   武力発動には時期的制約があり、上陸作戦は11月上旬が最適、12月は不利だが不可能ではなく、1月以降は至難、春以降はソ連の動向と雨季の関係上、武力行使は著しく遷延し、戦争物資の消耗により日本の立場は大きな困難に直面する。武力行使は国家意思決定後最低1カ月の余裕を必要とする。交渉期限が10月上旬となったのはこのためである。

 2 日米首脳会談実現への努力と米側の非妥協的態度

   日米交渉が進まないのは我が国の真意が十分に伝わらないためであると考えた近衛首相は、御前会議の開かれた96日、陸海外三相諒解の下にグルー大使と会見、「現内閣は陸海軍一致して交渉成立を希望しており、この内閣を措いて他に機会ありとも覚えず」と強調、「今この機会を逸すれば我々の生涯の間には遂にその機会が来ないであろう」と述べ、速やかに首脳会談を行う必要を訴えました。

グルーは首脳会談に対する近衛首相の自信に動かされ、直接大統領宛にこの会談内容を報告することを約束し「この報告は自分が外交官生活を始めて以来、最も重要な電報になるであろう」と感慨を込めて述べたということです。

 同月27日には豊田外相が野村大使に首脳会談の急速実現を期すよう訓令しました。随員もいつでも出発できる用意をし、海軍も新田丸を待機させて万全の準備を整えていたのですが、交渉は遅々として進捗しません。

この頃グルー大使からはハルとルーズベルト宛に彼の“外交官生活で最も重要な電報”が発信されていました。その要旨は、

(1)   日本は真剣に日米首脳会談の実現に努力している。

(2)   対日経済圧迫より、建設的な宥和政策の方がアメリカにとって賢明な政策であり、この機会を逸したなら戦争の公算は増加するであろう。

(3)   アメリカが予備会談で、満足のゆく約束を日本側から期待するなら会談は遅々として進まず、日本側は、アメリカが遷延を策していると結論し、近衛内閣は信用を失墜して瓦解し、軍部独裁内閣が生まれるであろう。

(4)   日本はアメリカと正式交渉に入る意思のあることを示して、事実上、三国同盟を死文化する用意のあることを示している。

(5)   日本側の真摯さと誠意にアメリカが合理的な量の信頼を寄せるのでなければ、戦争回避への方向転換は日本に起こらないであろう。英知と政治的手腕で日米関係改善と戦争回避は可能であり、それは今やるか、さもなければ永久にできないことなのである。

と述べて、日本の誠意を信じて首脳会談を実現する必要を切言したのです。

 この間、豊田外相もクレーギー・英大使に日米首脳会談への協力を求めたのに対して、クレーギーは930日、本国政府に次の如き意見を打電しました。

 「日米首脳会談の難関は・・・アメリカが引き延ばし策をとって、合意の為には不可欠の前提であるとの理由で、一字一句について議論しているところにある。日本人の国民性と日本の国情からして、いかなる遅滞も許されぬことをアメリカが理解していないことは明白である。もし本使着任以来の最良の極東問題解決の機会がこのようにして失われるとすれば誠に遺憾である。首脳会談が流産したり、交渉が不当に長引いたりすれば、内閣は瓦解するであろう。駐日米大使も本使も不当に疑い深い態度をとることによってこの最高の機会を逸するのは愚策であると確信する」

 だが、グルー、クレーギー両大使の進言は本国において悉く無視されました。ハルはグルーの意見を採用するには程遠い心境にあったということです。スチムソン陸軍長官もハルと同意見で、フィリピンを再武装するまでの3か月間、日本との激突を避けて交渉を引き延ばすべきこと、また日米首脳会談には反対である旨を提言していました。

 102日、ハル長官より野村大使に覚書が交付されますが、その内容は重ねて「ハル四原則」を掲げ、日本は支那に「不確定期間」駐兵しようとしていると非難し、更に「三国同盟」に対する立場を一層明確にするよう要求するもので、首脳会談については相変わらず「根本的諸問題」についての予備会談が必要である旨を述べるに止まっていました。正に“暖簾に腕押し”、“馬耳東風”とはかくの如きアメリカ政府の態度をいうのでしょう。

 この102日の米側覚書は、野村大使はじめ日本側を大いに落胆させます。悲観説は特に陸軍において著しく、東條は「(102日覚書によって)首脳会談の成立せぬことが明白となった。日本は忍び得ざる限度まで譲歩をして交渉成立に努力したが、102日アメリカ案を見ると、交渉開始以来一歩も譲歩の跡が認められない。日本は生存上急迫した問題を解決しようとするのに対し、アメリカは当初からの原則論を固執するのみであった」と東京裁判の『宣誓供述書』で述べています。

アメリカの非妥協的態度については、103日の野村大使からの情況具申も「アメリカは・・・寸毫も対日経済圧迫を緩めず、既定政策に向かって進みつつあることは最も注意すべきことであり、このまま対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるにおいては、アメリカは戦わずして対日戦争目的を達成するものである」と述べるなど、諦観的・悲観的調子を深めつつありました。

104日の連絡会議で米側覚書を検討した際、永野軍令部総長が「すでに議論の余地はない」と主張したのに対し、それでも東條陸相は「この覚書に対する回答は慎重検討すべきである」と述べたと記録されています。

 96日御前会議決定によれば、10月上旬に至るも対米交渉成立の見込みが立たぬ場合は、直ちに開戦を決意することになっていました。その上旬に至っても、首脳会談の話は停頓したままで、対米交渉打開の目途は全く立たず、日本政府部内の焦慮と懊悩は深まるばかりでした。

 3 支那撤兵問題と海軍の総理一任論

   かかる状況下、近衛首相は50回の誕生日にあたる1012日、陸海外3相と鈴木企画院総裁を自宅の荻(テキ)外荘(荻窪)に招き、和戦の是非に関する会議を開きます。会議の劈頭、及川海相から「和戦のいずれに決するかは総理に一任したい」との発言があり、それに対して近衛首相が「和戦いずれかに決定すべしと言うなら、自分は交渉継続に決する」と述べたところ、東條陸相より「その結論は早すぎる。成立の見込みのない交渉を継続して遂に戦機を逸しては一大事である。外相は交渉成立の見込みありと考えるかどうか」と質問しました。外相が「陸軍が支那駐兵問題で譲歩するならば交渉成立の見込みないとは言えぬ」と答えますが、陸相は「駐兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない」と主張しました。

 因みに『東條英機宣誓供述書』によれば、東條陸相の主張は次の如くでした。「仮にアメリカの要求通り支那から完全撤兵すれば、4年有余の支那事変における日本の努力と犠牲は空となるばかりか、日本がアメリカの強圧で無条件撤兵すれば、支那の侮日思想はますます増長し、共産党の抗日と相まって日華関係は更に悪化し、第二、第三の支那事変が発生し、日本の威信失墜は満洲と朝鮮にも及ぶであろう。日米交渉の難点はこのほかに四原則承認、三国同盟の解釈、通商無差別問題等もあり、日米妥協は困難と思うが、外相に成功の確信があるなら再考しよう。また和戦の決定は統帥に重大関係があるので、総理に一任するわけにはいかない」

 このように会談は意見が一致せず、結局東條陸相の提案で

(1)   駐兵など支那事変の成果に動揺を与えぬことを前提として、統帥部の希望する時期までに外交上の成功について確信を得ること。

(2)   右確信の上に外交妥結方針で進むので、作戦上の諸準備を打ち切ること。外相はこれができるかどうかを研究すること。

━を申し合わせました。この東條提案の趣旨は、支那駐兵は不変更のまま、外交交渉で一定期間内に妥結できるかどうかを検討しようというものでした。

 1014日の閣議においても、「外交交渉が必ず成功する確信があるなら戦争準備は止めてもよい」と陸相が言えば、外相は「交渉の中心は支那撤兵問題だ」と応じます。それに対し陸相は「総理は既に支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」と反論するといった有様で、遂に閣議は一致せぬまま散会することになりました。

 そのあと武藤()陸軍軍務局長は、富田書記官長を通して「海軍は和戦について『総理一任』と言っているが、総理の裁断だけでは陸軍部内を抑えられない。然し海軍が『戦争を欲せず』と公式に陸軍に言ってくれるならば陸軍としては部内を抑えやすい。何とか海軍の方から『戦争を欲せず』と言ってくれるように仕向けてもらえまいか」と依頼してきましたので、書記官長が岡(敬純)海軍軍務局長に話したところ、岡は「海軍としては戦争を欲しないとはいうことは正式には言えない。『首相の裁断に一任』というのが精一杯だ」と答えたということです。

 海軍側さえ「戦争を欲せず」と言明すれば、東條陸相も戦争準備を放棄する用意がありました。このことは、同じ閣議のあった14日の夜、東條陸相の使として鈴木企画院総裁が近衛を訪ね、陸相の言として次の如く伝えたことによっても明らかです。「海軍大臣は戦争を欲しないようであるが、それならなぜ海軍大臣は自分にそれをはっきり言ってくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば自分としても考えなければならない。然るに海軍大臣は全責任を総理に負わせているが、これは誠に遺憾である。海軍の肚が決まらなければ、96日御前会議は根本的に覆るのだから、この際総辞職してもう一度案を練り直す以外にない」

 終に行き詰った近衛内閣は1016日、総辞職しました。

 第三次近衛内閣を崩壊させたのは、陸軍の横車であり、東條陸相の強硬な支那撤兵反対論であったと一般に言われていますが、事実はそれほど単純なことではありません。

 第一に、首相と外相は日米交渉の難点は支那撤兵問題であって、これについて譲歩すれば交渉は成立すると主張しましたがそんな簡単なものではありませんでした。交渉の難点は東條の主張する通りであって、ハルの四原則承認、三国同盟の解釈、仏印進駐、通商無差別などもあり、ただ支那から撤兵すればまとまると考えるのは余りにも楽観と断ぜざるを得ません。後日、日本政府はそれをハル・ノートによって思い知らされることになりました。

 第二に、近衛は完全撤兵し、後に支那との協定で防共協定を認めさせればよいではないかと主張したのですが、当時の支那の治安状況を鑑みれば、多くの居留民や権益財産のある支那からの完全撤兵が、棄民政策をとらない限り一時的にせよ可能であるとは考えられません。仮にそれが実現したとしても、重慶政府が改めて日本の防共駐兵を承認するとも到底期待できません。邦人と邦人企業を残置したまま撤兵すれば、支那の侮日排日はますます激化して、第二、第三の支那事変が起るであろうという東條説は、近衛の楽観論より説得力がありました。

また佐藤賢了は、「及川海相の『総理一任論』に東條はひどく立腹した」と書いています。政戦略調和の責任を首相になすり付ける、そこに東條陸相の憤慨があったというのです。佐藤は東京裁判の後、この問題の真相について岡敬純から話を聞いた結果、及川海相は、海軍から「戦争はできない」と持ち出したら、陸海軍の正面衝突になることを憂慮して、この役目を首相に買ってもらうことにしたようだと推測し、この海相の「総理一任論」の趣意は陸相はじめ陸軍側にはわからなかったようだと述べましたが、陸海軍が正面衝突するのを日本とアメリカが正面衝突するのとは比べるのは愚かしいほど違うことです。

 この重大な時機に、及川海相や岡軍務局長が、陸軍との衝突といった言わば私情の為に、和戦の決定を首相に一任したとすれば、これは無責任の誹りを受けても仕方がありません。これについて東條内閣の外相となった東郷茂徳は昭和18年、近衛と会談した折、近衛が「それにしても海軍の無責任なる態度には驚いた。戦争となれば海軍の問題なるに拘わらず、総理一任を主張した」とひとかたならず憤慨していたと記しています。「和戦の決定は統帥に重大な関係があるので、総理に一任するわけにはゆかぬ」とする東條の主張は、当時の憲法下においてそれなりに論旨明快であったことは間違いありません。

 東條陸相としては、海軍が「戦争不可」と明言するならば、撤兵問題で譲歩しても戦争回避の方向で進む肚がありました。その点でも、東條を単純に開戦論者と看做すのは誤りです。近衛内閣の後継首班として、かねてから非戦論者であり、熱心に日米交渉の成立を期待しておられた東久邇宮殿下を、東條が推薦した事実もまた、彼が日米交渉成立を望んでいた心事の一端を表すものと言えます。

 東條陸相が近衛内閣総辞職を主張した理由は

(1)   日米交渉で我が要求を貫徹する目途があるかどうかを断定し得るまでに交渉が十分に詰められていない。

(2)   海軍の開戦決意が不確実であることによって、96日の御前会議の決定が不適当となったこと。また不適当であるにせよ、御前会議の決定が実行できないとすれば、政府は責任をとって辞職し、新たな政府の責任で96日御前会議決定をやり直し、日米交渉に新たな努力を為すべきである。

ということであり、決して戦争を好むのではなく、和平を求めて新たな体制で臨むべきだとする至極当然の論理であったといえます。

Ⅳ 甲案・乙案

 1 東條内閣の登場

   後継内閣組閣の大命は東條陸相に降下しましたが、それは東條にとって全く予期せぬことでした。そして大命と共に木戸内府を通じて「96日の御前会議決定に捉われることなく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加わることを要す」との御諚が伝えられます。これが所謂「白紙還元の御諚」です。

陛下は、「10月上旬までに交渉が成立しなければ直ちに開戦を決意する」との96日御前会議決定を白紙に戻して対米交渉をやり直せ、と仰せられたのです。東條は、東京裁判宣誓供述書で「もし白紙還元の御諚がなかったなら、自分は組閣の大命を受け入れなかったかもしれない」と述べています。

 支那撤兵に反対して近衛内閣を瓦解させたと一般に考えられている東條が後継首相に奏薦されたのは何故でしょうか。近衛が後継首班について相談を受けた時の近衛の意見は

(1)   開戦を避けるには陸軍を掌握している東條を後継内閣首班とすべきである。殊に数日来の彼の言葉によれば、対米即時開戦論を擁護してはいない。

(2)   東條陸相は、海軍の(開戦についての)意向がはっきりせぬ以上は全部御破算にして案を練り直すと言っているくらいだから、首相に就任しても直ちに開戦することはないと考える。殊に大命降下の際に陛下からお言葉があれば、一層慎重な態度をとることと思う。

━というものでした。

 東條陸相を奏薦した木戸内府の意見は

(1)   東條は海軍の確信がなければ対米戦はできぬと言っているのだから、東條が新内閣を組織してもそれは対米開戦を意味することにはならない。組閣下命の際、陛下からの東條に優諚(お言葉)を賜るなら、それも一つの難局打開策であろう。

(2)   東條は海軍が開戦に反対なら戦争はできぬという思慮深い考え方になってきている。

(3)   東條は特に勅命を厳格に遵守する。彼が96日御前会議の決定の実行を主張したのもこのためである。それゆえ、もし陛下が96日御前会議決定を反故とされ、新たな見地での再検討を下命されるなら、東條は勅命に従って方針を変更するに違いない。

(4)   もし主戦派と思われている陸軍が国政を担当し、死力を尽くして対米関係改善に努力したならアメリカの疑惑も解消するであろう。

━等でした。

 

 2 白紙還元の御諚

   東條は白紙還元の御諚を直ちに実行に移します。即ち東條新内閣発足するや、連日、政府・統帥部連絡会議を開き、日米交渉に臨む基本方針が再検討に入りました。

 1回会議の冒頭、永野(修身)軍令部総長は、海軍は毎時400トンの油を消費しており、事は急を要すると述べ、杉山()参謀総長も時間の空費は許されぬとして廟議の即決を迫りました。石油貯蔵量からして、戦機の限界点は既に秒読みの段階に入っていたのです。石油消費量は毎年、軍需民需合わせて550万トンになり、それは昭和18年度までは何とかなるものの、それ以後は南方資源の石油に頼るほかありませんでした。11月開戦ならば30カ月、3月ならば21カ月で我が国の備蓄石油はゼロになる計算でした。

 議論は支那撤兵問題で最高潮に達します。東條首相は嶋田海相に対し「今更後退しては支那事変20万の精霊に対して申し訳なし、されど日米戦争ともなれば多数の将兵を犠牲とするを要し、誠に思案に暮れあり」と話して、改めて日米不戦の公言を暗に海軍に求めたが、嶋田海相、岡軍務局長ともこれを黙殺しました。また塚田参謀次長は支那からの期限付き撤退は絶対に承認できぬ旨を熱心に主張したが、東條首相は屡々これをたしなめたと伝えられています。

 東京裁判における東郷茂徳口供書によれば、「10月下旬での海軍の態度は陸軍同様に強硬なので少なからず驚いたが、連絡会議での検討の態度は真摯なものがあった」とも書き記しています。また佐藤賢了は東條首相について、特に「白紙還元の御諚」以後は「非戦論の急先鋒」となり、「東條の変節」という声が聞かれるほどであったと書いています。

 支那駐兵期限については参謀本部側が強硬に反対し、早期撤兵論の外相と激論数時間に及びました。駐兵期限として99年、50年を主張する案もあり、外相は5年を主張し、結局25年に落ち着きました。

3 甲・乙両案を決定

   東條は議論を、

(1)   戦争を避け、最後まで現状で行く臥薪嘗胆

(2)   直ちに開戦を決意し、その準備をする。

(3)   止むを得ざる場合は開戦する決意の下に、外交交渉を併行する。

の三案にまとめ、111日午前から2日未明にかけて延々17時間に及ぶ白熱の討議を行いました。その結果、「臥薪嘗胆」の第一案は国家を自滅に導くものとして採用されず、「主戦」の第二案、「和戦両様」の第三案の選択となりましたが、「交渉打切り、戦争決意」を主張する参謀本部側に対して、東郷外相は交渉の余地ある間に戦争に突入するのは国民に相済まぬとして反対しました。東條首相もまた外相のこの意見を支持したこともあり、参謀本部の主戦論は他の全員の反対を受けて斥けられ、「和戦両様」の場合、和から戦に転換する期限を何時にするかの議論に入りました。

 参謀本部側が「外交は作戦を妨害せぬこと」を主張したのに対し、東條首相と東郷外相は「外交と作戦は併行してやるのであるから、外交が成功したら戦争発起を止めること」を強く求めて反論し、統帥部と対立しました。統帥部側が外交交渉の期限を1130日としたところ、東條首相は「121日にはならないか。一日でも長く外交をやることはできぬか」と切言しましたが、塚田参謀次長は東條の懇望を拒否、結局、外交交渉は1130日夜12時までと決定されました。首相と陸相を兼摂する東條ですら、統帥部の意向に逆らうことはできなかったのです。統帥権独立の弊害が極点に達した一つの時期でした。

 ここにおいて、右の期限に至るまでの交渉案として東郷外相が提示したのが、有名な甲案と乙案です。甲案は米側の希望をできるだけ取り入れた最終的譲歩案で、支那における通商無差別、支那及び仏印よりの撤兵の三点について、譲歩した案でした。

また乙案は甲案不成立の場合、日本は南部仏印進駐以前の状態に返り、アメリカもまた日本資産凍結令の廃止や重要物資取得など我が国の最小限度の要求を認め、それによって戦争の発生を未然に防止するための暫定協定案でした。

 112日早暁にまで及んだ連絡会議は、ここに甲乙両案と「帝国国策遂行要領」(後述)を決定して散会、96日御前会議決定は陛下の御諚通り「白紙還元」され、新しい交渉案がここに生まれたのです。東條首相は会議の経過と結論を、涙を流しつつ帷幄内奏しましたが、聞き終えられた陛下は「事態が言う如くなれば作戦準備も止むを得なかろうが、何とか日米交渉打開を計って貰いたい」と沈痛な面持ちで御憂慮の言葉を述べられたと、東條は『宣誓供述書』で述べています。

 宮中から帰庁した東條に佐藤軍務局長が「乙案まで譲歩すれば開戦の正当性が主張できる」旨述べたのに対し、東條は「君まで誤解してはいけない。乙案は開戦の口実の為ではない。自分はこの案で何とか妥結を図りたいと神かけて祈っているのだ」と戒めたということです。

 陛下の御深憂を拝した東條は、審議に手落ちがないようにと考え、御前会議に先立って114日、陸海軍合同の軍事参議官会議を開きます。明治36年の軍事参議官制度創設以来、陸海軍合同の会議は初めてのことでした。陛下御臨席のこの会議で陸海軍統帥部より説明がなされ、最悪の事態に備えて戦争準備を促進することが全員一致で承認されました。このような経過と手続きを踏んで、115日午前会議が開かれ、「帝国国策遂行要領」と甲・乙両案が最終的に決定され、この案による対米交渉が開始されることになりました。

 4 対米交渉再開

   新たな「帝国国策遂行要領」とそれに基づく甲・乙両案は我が国最後の対米交渉打開案でした。その「帝国国策遂行要領」は対米英蘭戦争を決意し、121日午前零時を期限として対米交渉を行い、右期限までに交渉が成功すれば武力発動を中止するというもので、その交渉内容が甲・乙両案という位置付けでした。

 甲案は日米交渉中の4つの争点につき、新たに我が国が譲歩したものです。

(1)  通商無差別問題:従来、我が国は南西太平洋、アメリカは太平洋全域(支那を含む)における通商無差別をそれぞれ主張してきましたが、甲案では「無差別原則が全世界に適用されるのであれば太平洋全地域即ち支那においてもその適用を承認する」と譲歩。要するにアメリカ伝統の門戸開放主義を全世界に適用するのなら支那への適用も認めようと大きく譲ったのです。

(2)  三国同盟:三国同盟による参戦義務が発生したかどうかの解釈は、あくまで自主的に行う(アメリカが対独参戦したからと言って自動的に対米開戦はしない)ことを更に明らかにすることにしました。

(3)  支那撤兵:支那に派遣した日本軍は事変解決後、北支・蒙疆の一定地域と海南島に防共の為所要期間駐屯させるが、他は平和成立と同時に撤兵を開始し、治安確立とともに2年以内に撤兵を完了するというものです。「所要期間」につきアメリカより質問があれば、「概ね25年」と答えること、となっていました。これは支那駐兵の地域と期間を明らかにした点で重大な譲歩であり、我国が妥結を切に希求していることを立証するものでした。

(4)  仏印撤兵:仏印派遣の日本軍は支那事変の解決或いは公正な極東平和の確立とともに直ちに撤退することとしました。

乙案は甲案不成立の場合、事端の発するのを未然に防ぐための暫定協定案で、日米の通商関係を資産凍結前の状態に復帰させることを条件に、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐すること、また日支和平が成立するか又は太平洋地域に公正な平和が確立する上は日本軍を仏印から撤退することを約束するもので、要するに南部仏印進駐以来、日米関係の悪化した経緯に照らして、とりあえず事態を南部仏印進駐以前の状態に復帰させようとする譲歩案でした。

 117日、野村大使はハルと会見、日本の国情は6カ月間の交渉の後しびれを切らし、事態重大である旨を告げて甲案を提出しました。ハルは日本側の暗号電報解読によって甲案の内容を知っていました。ハルは素知らぬ顔で野村の示した甲案を”熟読”したものの、支那撤兵については撤兵と駐兵の割合を訪ねただけでした。野村は「大部分撤兵、駐兵は一部分なるべし」と回答。その後、18日にハルから再び駐兵数について質問があった時、野村は「9割は撤兵される」と答えています。ハルはそれ以上甲案には関心を示しませんでした。

 日本軍の支那無期限駐留に反対していたハルとしては、駐留期間に関心があり質問するはずです。それについて日本側が「25年」と答えることもハルは暗号解読で知っていました。25年が長すぎるなら、それを短縮する交渉も出来たはずなのに、ハルは駐留の「所要期間」について訊ねもしなかったのです。要するにハルには真面目に日本と和平交渉をしようとする肚は寸分もなかったしか考えられません。

 当然ながら甲案による交渉は不調に終わりました。それでも諦め切れない東郷外相は交渉を促進するため、1110日グルー大使に甲案の趣旨を説明し、交渉の急速妥結方を強く申し入れ、続いて12日にはクレーギー英大使にも日米交渉への協力を要請しましたが、これらの間接的交渉が効果を発揮する道理がありません。

日本政府は野村大使の対米交渉に協力させる目的で、115日、来栖(三郎)前駐独大使を派米しました。1120日、野村・来栖両大使はハルに乙案を提出します。しかし、ハルはこのぎりぎりの暫定協定案である乙案に対しても「一顧の価値もない」との判断を下し、これを黙殺しました。

そして乙案への回答はやがてハル・ノートという形で返ってくることになります。

 翌21日、かつて駐独大使として三国同盟に調印した来栖大使はハルに単独会見し、三国同盟には何の秘密条約も存在しないこと、またアメリカが対独宣戦した場合でも、日本は三国同盟に基づいてアメリカに対して宣戦する意思がないことを申し出ましたが、これも黙殺されました。あれほど三国同盟に反対していたアメリカが、なぜ来栖のこの思いつめた申し入れに応じなかったのでしょうか。

 答えは簡単です。ハルは、アメリカはドイツから攻撃されない限り、ドイツに宣戦することは不可能だということ、大統領も同じ考えであることを知悉しており、来栖の上記申出は全く無意味だったからです。つまり日本の三国同盟参戦義務如何には関心はなく、三国同盟を交渉項目に載せたのはただ交渉引き延ばしの口実に過ぎなかったということです。

ハルは日本との和平など爪の先ほども望んではいなかった、いつかは日本との間に戦端を開くことを予期していたハルの心底は、三国同盟の存在によって太平洋から大西洋へ戦線を拡大することさえできればいい、むしろ三国同盟が強固な軍事同盟であり続けることが、アメリカの利益になると考えていたのではないでしょうか。

 東京裁判最終弁論でブレークニー弁護人は次のように弁論しました。「日本が真に重大なる譲歩を行ったのは東條内閣が交渉の再検討をした最初の成果、即ち甲案においてであった。証拠の分析は、日本がただにあらゆる点に於いて譲歩したに止まらず、譲歩に譲歩を重ね、遂に譲歩の極に到達したことを立証するものである」。

 まブレークニー弁護人は「甲案における根本的な譲歩は支那撤兵問題であった」とし、従来米側が主張してきた「日支間の平和成立後2年以内の全面撤兵」の要求に対し、甲案は「日支間平和成立と同時に撤兵を開始し、治安確立とともに2年以内に撤兵する」としており、これは「米側要求への完全な譲歩」であると論じました。

 またハルが特に重視していた撤兵時期についても、日本側はそれを配慮し、東條内閣は撤兵時期確定に全力を注ぎ、統帥部の抵抗を押しのけてまでも甲案において初めて撤兵期限を明示したのであり、交渉成立は目前にあったにも拘わらず、アメリカがこの交渉に応じなかったと弁論しました。

Ⅴ ハル・ノート

  我が国が乙案を提出した後、ハルは日本を有利にせず、かつアメリカの同盟国の信頼を裏切ることなく破局を引き延ばすような対案を考え始めます。ルーズベルトも単に遷延を目的とする暫定協定案をハルに伝え、それに基づいてハルは

(1) 日本軍の南部仏印撤退

(2) 非軍事用石油の対日輸出緩和

━を骨子とする3カ月の暫定協定案を1122日にまとめ、英蘭豪支の各代表に内示しましたが、この暫定協定には支那が激しく反対しました。「蒋介石は国務省以外の政府高官連に数多のヒステリックな電報を送り付け、時には大統領を無視してまでも、事実を知らぬ儘、微妙かつ重大な状況の中に押し入ってきた」とハルは後に述べています。

1125日の戦争関係閣僚会議でルーズベルトが議題としたのは和平の見通しではなく、戦争は如何にして開始されるかの問題でした。出席者の一人であるスチムソン陸軍長官の日記に次のように記されています。

 「出席者はハル国務長官、ノックス海軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長、それに自分である。大統領は対独戦略ではなく、専ら対日関係を持ち出した。彼は多分次の日の日曜日(121)には攻撃される可能性があると述べた。…問題は我々自身に過大な危険をもたらすことなく、如何に日本を操って最初の発砲を為さしめるかということであった」

 これについてスチムソンは戦後の1946年上院委員会で次のように証言しました。「日本を最初の発砲者たらしめるのは危険であったが、誰が侵略者であるかを明らかにし、アメリカ国民の完全な支持を得るには望ましかった」。

 翌26日朝、英首相チャーチルから大統領宛の電報が届きましたが、それは、暫定協定案は支那を不利に追い込むとの立場から批判するものでした。このような状況の中で、ハルは遂にこの日の午後、“殆どヒステリー状態になって”日本との暫定協定案構想の一切を放棄し、その代替案として10項目の提案をまとめ上げます。この10項目提案の中にはいささかの妥協も譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも、日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していました。暫定協定案に代わるこの10項目提案、所謂「ハル・ノート」はこの日の午後5時、ハルを来訪した野村・来栖両大使に手交されたのです。

 ハル・ノートはオーラル・ステートメントと本体から成っています。

 先ずオーラル・ステートメントは、乙案を「法と正義に基づく平和確保に寄与せず」として拒否すると断じたものでした。次に本体は「極秘・試案にして拘束力なし」と書かれ、「合衆国及び日本国協定の基礎概略」と表記され、2項から成っています。

1項は所謂「四原則」を掲げたもので、重要なのは第2項です。この要旨は、下の10項目から成っていました。

(1) 日米両国は英蘭支ソ泰と共に多辺的不可侵条約を締結する。

(2) 米英支日蘭及び泰政府間に仏印の領土主権尊重に関する協定を締結する。

(3) 日本は支那及び仏印より一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤退させる。

(4) 日米両国は重慶政府以外の如何なる政権をも軍事的、政治的、経済的に支持しない。

(5) 日米両国は支那における治外法権(租界及び義和団事件議定書に基づく権利を含む)を放棄する。

(6) 日米両国は新通商条約締結の交渉に入る。

(7) 日米両国は相互に資産凍結令を廃止する。

(8) 円ドル為替安定につき協議する。

(9) 両国政府が第三国と結んだ如何なる協定も本協定の目的即ち太平洋全地域の平和と矛盾するが如く解釈されてはならない。

(10) 以上諸原則を他国にも慫慂する。

 来栖大使は陸海空軍と警察の支那全面撤退と重慶政権以外不支持の両項目は出来ない相談で、アメリカが蒋政権を見殺しに出来ないのと同様、日本は汪政権を見殺しには出来ないこと、更に、重慶に謝罪せよと言わんばかりの絶対不可能な条項を含むこのノートをこのまま本国政府に伝達するのは交渉妥結を祈願する者として深い疑念がある旨を述べました。

 日本政府がハル・ノート全文を受け取ったのは1127日でした。その時の感想を、東郷外相は「目も眩まんばかり失望に打たれた」と手記に書いています。ハル・ノートの第1項目から第5項目までは、従来の交渉において何ら言及されなかった新規かつ法外な要求であり、ノートはそれまでの交渉経過を全く無視した唐突なものでした。それは「日本への挑戦状」であり、「タイム・リミットなき最後通牒」であった、と東郷が評したのも当然と言わざるを得ません。同日、ハル・ノートを巡って直ちに連絡会議が開かれましたが、出席者全員が米側の余りに強硬な態度に衝撃を受け、落胆しました。

 東郷茂徳は東京裁判の口述書でその時の我が方の反応を「ハル・ノートに対する出席者全員の感じは一様だったと思う。アメリカは従来の交渉経緯と一致点を全く無視し、最後通牒を突き付けてきたのだ。我々は、米側は明らかに平和解決の望みも意思も持っていないと感じた。蓋し、ハル・ノートは平和の代価として、日本がアメリカの立場に全面降伏することを要求するものであったことは我々に明らかであり、米側にも明らかであったに違いないからだ。日本は今や長年の犠牲の結果をすべて放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを求められたのである。これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された途は戦争であった」と述べています。これは軍部の見解ではなく、文官たる外務大臣の意見です。

 なぜ我が国はハル・ノートを受諾できなかったのでしょうか。ハル・ノート諸項目の中でも、我が国にとって衝撃的であったのは、第3項「日本陸海軍と警察力の支那完全撤退」、第4項「重慶以外の政権の不支持」(我が方はこれを「汪精衛の南京政権と満洲国の否認」と解釈)及び第5項「支那における治外法権の完全放棄」の3項の要求でした。

 ハル・ノートの苛酷な要求が戦争を誘発したとの批判は米英の識者の間に当初からありました。イギリスでは、戦時中の1944(昭和19)6月、保守党内閣の重鎮であったオリヴァー・リトルトン生産相がロンドン米人商工会議所で「アメリカが戦争に追い込まれたというのは歴史を歪曲するも甚だしい。アメリカがあまりひどく日本を挑発したので日本は真珠湾攻撃のやむなきに至ったのだ」と述べて英米間の問題になり、国務長官弁明まで飛び出す始末となりました。

 また駐日英大使クレーギーが昭和177月に本国へ引き上げる前、来訪した加瀬俊一秘書官に、「ハル・ノートなるものは戦争勃発後、新聞で初めて見たが、あれは日本の国民感情を無視するの甚だしきもので、交渉決裂も止むを得ざりしことが分かった」と述べたといいいます。帰国したクレーギーは報告書を作成してイーデン外相に提出しましたが(昭和182)、その中で彼は、近衛の首脳会談提案は天皇の意向を反映したもので、戦争回避のため真剣に検討すべき値打ちのあったこと、またアメリカは日本の乙案を受け入れるか、「建設的な対案」を出すべきであったと述べています。彼の持つ情報によれば、アメリカの暫定協定案に日本が同意することは確かであったということです。

 開戦後公表されたハル・ノートで、初めてルーズベルトやハルの所謂「諸原則」なるものを知らされたアメリカ国民は「これが、アメリカ民が血を流し、財を費やして守るべきアメリカの極東政策なのか」との疑問を抱いたというのも当然です。

Ⅵ まとめ

  我が政府の和平交渉は愚直と評するほかはありません。東郷外相が東京裁判宣誓口述書で述べた「米側は明らかに平和解決の望みも意思も持っていないと感じた」の言葉通りルーズベルトにもハルにも日本との話し合いによって平和を維持する積りはなかったというのが本音でしょう。我が政府はそのことに早く気付くべきでした。アメリカは太平洋で戦乱が起きるのを待っているのではないかという強い疑念を念頭に置けば、対米交渉には全く別の戦略も採り得たはずです。

 昭和16年春、第二次欧州大戦は1年半を過ぎ、ドイツはバトル・オブ・ブリテンによって跳ね返されたものの、欧州全域を制圧しつつありました。アメリカは事実上中立政策を棄て、反日独伊側への支援姿勢を名実ともに明確にしていました。昭和163月から開始された武器貸与法に基づく支援は、500億ドル(現価値換算で7000億ドル)という巨額なものであり、これは事実上イギリス側に立って参戦しているのと同じではないかという見方も出来た筈です。アメリカは何を企図しているのか、アメリカは日本との戦争を望んでいるのではないか、外交の枢機に携わる者であれば誰もが考えるべきです。しかし不思議な事ですが、そのことについて表立って議論された形跡を見聞したことがありません。

 アメリカ政府に心の底から話し合って危機を回避しようとする考えが少しでもあったら、甲案・乙案に対し、もう少し真面目に対応したでしょう。また外交の責任者たる国務長官ハルは日米首脳会談の開催へ向けてもう少し丁寧な対応をできたでしょう。大東亜戦争勃発直前の日米交渉の経緯を見るとき、はっきり言えることは、「日本は平和を求めていたが、アメリカは戦争を欲していた」ということです。

 豊田外相と東郷外相はクレーギー英大使にも日米交渉への協力を要請しましたが、その事実自体が日本外交の戦略的思考の欠如を如実に表しています。両外相は米英が緊密な友好国だからこそクレーギーに協力依頼したのでしょうが、イギリスはドイツと死闘の最中、日本はドイツの同盟国、その日本の対米仲介にイギリス政府が応じるはずがないということは瞬間的にわかるはずです。

仮にイギリスに日米間の仲介者になってもらうとしたら、日本は直ちに三国同盟を破棄して対独宣戦し、欧州へ我が陸海軍を派兵するぐらいの覚悟がなければなりません、正に日英同盟が有効であった第一次大戦のときのように。

 外交を戦略的・謀略的に見ようとしないのは日本人の長所であると共に民族的欠陥と言ってもいいのかもしれません。少なくとも信玄や謙信の活躍した戦国時代以前の日本人はそうではなかったし、信長も秀吉も家康も戦略的思考に長けていました。ですから300年の江戸の平和が育んだ特性なのか、それとも明治維新以降万国公法を至高のものとして奉って国際法の優等生たろうとした明治日本の中で醸成されてきた国際倫理であるのかのどちらか又は両方であろうと考えられますが、不平等条約改定のために国際社会から近代的文明国家であることを認められんがため振る舞った遵法的かつ良識的な思考行動様式が百年弱の短い期間にある程度体質化した、即ち後者にその要因の多くがありそうな気がします。

 日本が平和を望んでいるのだから相手も望んでいるはず、如何なる国も戦争を望むはずがないという日本人特有の安直な倫理を絶対のものとして交渉した結果が招いた大東亜戦争でした。

 日々暮らしを立てている一般国民は地球上のどこの国であろうが、どこの民族であろうが、人種に関わりなく戦争のないことを望んでいますが、国家や政府は時としてそうではないことがあるということを頭の片隅に置いておかなければなりません。第二次欧州大戦が勃発した以降大東亜戦争が始まるまでの約2年間のアメリカがそうでした。

 米政府は日本と戦争になることを望んでいるはずがない、だからある程度の譲歩をすれば日米戦争を回避できるはずだという日本の指導者たちの思い込みが、逆に日米交渉を失敗させ、窮鼠猫を噛むが如く戦いの火蓋を切らざるを得ない状況に自らを追い込んだとも言えそうです。

 仮にアメリカが日本との戦争を望んでいると日本政府の指導者たちが気付き、日本がすべてを譲歩してアメリカが最も困る戦争回避政策を採ったらどうなったでしょうか。歴史にIFはナンセンスと言われますが、一つの思考実験として考えてみることは決して無駄な事ではありません。

 ハル・ノートの要求項目のうち日本が受け入れ困難としたのは、端的にいえば「支那からの撤兵」でした。支那に満洲が含まれるか否かは定かではなく、従って日本としては支那本土に限定したものと考えることが出来ます。それを日本が受諾することとなれば、在支邦人は悉く日本に帰国するか満洲或いは朝鮮へ移住するしかありません。十万人近くの邦人が支那本土から引き揚げるにはそれなりに期間が必要です。アメリカにその引き揚げに必要な期間の日本軍駐留を求めることはでき、アメリカでもそれにはNoとは言えない筈です。折角甲案によって譲歩を検討したのだから、ハル・ノートに対してもう一度交渉を試みることが出来たのではないか?ただし、それはアメリカの本当の狙いは奈辺にあるのかを承知していなければやる気が起こりません。

邦人が支那本土にいなくなれば治外法権も必要ありませんから、第5項の治外法権の撤廃も問題ありません。汪精衛政権を見棄てることは日本人の信義を重んじる民族性から言えば辛いことですが、日本軍及び日本人が支那本土からいなくなればこれは仕方がないことだと諦めるしかないでしょう。

 ここまで日本がアメリカに譲歩したとき、困るのは誰かと言えば支那本土に権益を有する欧米です。日本軍が支那本土に駐留してきた主たる目的は、その余りにも不安定な治安情勢から在支邦人を守るためでしたが、日本軍の存在が無言の抑止力となって支那に在住する欧米人の安全にも寄与する面があったことは、北清事変の経緯を見てもわかる通りです。

 日本が満洲及び北支に駐留するのは防共のためというもう一つの目的がありましたが、日本が支那本土から撤退すれば、抗日・排日の名目はなくなり、蒋介石は支那共産党の掃蕩に全力を注ぐことができるようになります。支那共産化は日本軍の撤退によって防ぐことが出来た可能性は相当高いと思われます。

東郷外相が東京裁判で「ハル・ノートは平和の代価として、日本が米国の立場に全面降伏することを要求するものであったことは我々に明らかであり、米側にも明らかであったに違いないからだ。日本は今や長年の犠牲の結果をすべて放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを求められたのである。これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された途は戦争であった」と述べていますが、それが短慮に過ぎなかったことは、戦後日本が再び大国の地位に駆け上ったことで証明されました。日本は、日本人が思っている以上に凄い国なのだということを私たち自身が深く認識することもまた大東亜戦争から学ぶべき一つの重要な教訓だとは言えないでしょうか。

とはいえ将来の日本を思うとき、我国の外交に決定的に欠けている戦略性の欠如は、竹島問題、尖閣問題等の領土問題、靖国問題や南京大虐殺、従軍慰安婦問題においても同様であり、これらの不手際が我が国の発展と安全に及ぼす影響は計り知れないものがあります。

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自由社・育鵬社はこの日米交渉についてどのように記述しているのでしょうか。

自由社

経済封鎖で追いつめられる日本日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが、成功しなかった。こうして米・英・中・蘭の4カ国が日本を経済的に追いつめる状況が生まれた。日本の新聞はこれを国名の頭文字から「ABCD包囲網」とよんだ。

ハル・ノートから
日米開戦へ
 19414月悪化した日米関係を打開するための日米交渉が、ワシントンで始まったが、交渉はまとまらなかった。7月、日本陸海軍は、インドネシアからの石油提供に関してオランダに圧力をかける目的で、仏印のサイゴン(現在のホーチミン)に入った(南部仏印進駐)。サイゴンは、日本が南進する場合に拠点となる軍事上の重要拠点だった。アメリカは、在米日本資産を凍結していたが、更に対抗して対日石油輸出を全面的に禁止した。8月、米英両国は大西洋上で首脳会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、両国の戦争目的と大戦後の方針をうたった。

 経済的に追いつめられた日本は、アメリカとの戦争を何とかさけようと努力した。日本は、妥結しない場合は開戦するという決意のもとに日米交渉を継続した。しかし、アメリカは11月、日本に対して、中国、インドシナから無条件で全面撤退を求める強硬な提案文書を突きつけてきた。当時のアメリカのハル国務長官の名前から、ハル・ノートとよばれるこの文書を、アメリカの最後通告と受けとめた日本政府は、対米開戦を決意した。(P236

育鵬社

日米交渉の破たん 1941(昭和16)4月、悪化の一途をたどる日米関係を修復するため、ワシントンで日米交渉が始まりました。アメリカは日独伊三国同盟を敵視し、中国で蒋介石政権を支援していたため交渉は難航しました。

 当時のわが国は、使用する石油の多くをアメリカから輸入し、一部をオランダ領東インド(現在のインドネシア)から輸入していました。しかし、三国同盟によってオランダとの関係が悪化し、石油、ゴムなど重要物資のインドネシアからの輸入が困難になりました。そこで日本政府は、東南アジア産出の重要物資を確保するため、フランス領インドシナ南部に軍を進めました(南部仏印進駐)

 これに対しアメリカは、国内にある日本の資産を差押えるとともに石油の対日全面禁止に踏み切り、日米の対立は決定的なものになりました。

 また、アメリカは、イギリス、中国、オランダとともに我が国を経済的に圧迫し、封じこめを強化しました。

 首相の近衛文麿は、アメリカ大統領ルーズベルトとの会談を提案しましたが実現せず、開戦に消極的だった海軍も石油問題に危機感を強めていきました。(P233)

真珠湾攻撃 日米交渉が行きづまるなか、軍部では対米開戦も主張されるようになりました。1941(昭和16)11月、アメリカは、中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退を、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄などを要求する強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました。(P234

歴史ビュー何がアメリカ国民を戦争に導いたのか

戦後アメリカの外交官HA・キッシンジャー(1923)は、その著書『外交』で、日米開戦について次のように記しています。

 「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたに違いない。(中略)アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。(中略)もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていただろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」

 決してアメリカを戦争にまきこむことはない、とうったえ続けつつも、反枢軸国の考えをもっていたルーズベルトにとって、日本軍による真珠湾攻撃は、建国以来、初めて領土を攻撃されたアメリカ国民を戦争に誘う、このうえない材料となったのでした。

*参考文献等

①『大東亜戦争への道』中村粲 平成2128日 展転社

②「日米諒解案―開戦前夜の秘められた日米交渉」 橋本恵 Web. http://iwakuro.com/maegaki/index.html

③「中学校歴史教科書28年度版」自由社、育鵬社、東京書籍、帝国書院

[1] ハルの四原則とは(1)あらゆる国家の領土保全と主権尊重、(2)内政不干渉、(3)機会均等、(4)平和的手段によらぬ限り太平洋の現状不変更

[2] 大西洋憲章:合衆国と英国の領土拡大意図の否定、領土変更における関係国の人民の意思の尊重、政府形態を選択する人民の権利、自由貿易の拡大、経済協力の発展、恐怖と欠乏からの自由の必要性、航海の自由の必要性、一般的安全保障のための仕組みの必要性