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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 日本共産党の戦後秘史                平成28年11月20日 作成 五月女 菊夫


参考文献:「日本共産党の戦後秘史」 兵本達吉著(新潮文庫)
     「『昭和の大戦』への道」  渡部昇一著
      「東アジア『反日』トライアングル」 古田博司著 中公新書

 

はじめに

 戦後日本共産党史を書くことにした。青年時代から30数年にわたって日本共産党員だった私としては、全世界で大音響とともに崩壊した共産主義というものについて、一度頭を整理する必要があったからである。人間一生やっていたことを、「やあ、失敗、失敗」の一言で済ませるわけにはいかないからである。

 ゴルバチョフの友人でブレーンであったヤコブレフは、「幻想を追っかけて生きる一生というものは、人間がこの世で受ける最も厳しい罰だ」と書いている。

 自分が人生のどこで誤りを犯して共産主義という迷路に足を踏み入れるに至ったのか自己検討したが、その原因が1つではないことがわかる。しかし、ドイツのある詩人が言っているように、「自分の人生の悩みも、人類が抱えるすべての悩みも、共産主義は一挙に解決してくれる」と考えたことが最大の誤りであったことは事実だ。

 さて、私は昭和35(1960)年の「安保闘争」の後入党したので、その時代から後のことはそれなりに理解している。

 しかし、まだ自分が未成年だった頃のことを立体感を持って理解するのは大変だ。結局これまでに書かれた論文、著作に頼らざるを得ない。

 ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」によれば、「歴史家の病」というのがあるそうである。過去へ過去へと遡及してゆく傾向のことだという。筆者も「日本共産党の戦後秘史」を執筆しているうちに、やはり「戦前史」を抜きにして、「戦後史」は語れない、と思うようになった。

 

 日本共産党は、大正11(1922)年7月15日に創立された。そして日本が敗戦して、長い間投獄に耐えていた党員がやっと出獄してくるのが昭和20(1945)年であるから、党の戦前史の期間は約23年間だと普通は思われている。

 ところが、日本共産党は、産声を上げた直後から第一次検挙と言われる弾圧に直面して、綱領草案も審議未了のまま、大正13(1924)年2月にたちまち解党の決議をしてしまうのである。このときは幹部がコミンテルン(共産主義インターナショナル)に呼びつけられ、厳しく叱責されて再建の方針を決める。そして、大正15(1926)年12月、山形県五色温泉で第3回党大会を開いて党を再建し、初めて党の政治方針と党規約を採択した。この第2次共産党と言われる党の発足をもって、党の正式な創立の時期と考えてもおかしくはない。

 そして、宮本・袴田らの「スパイ査問事件」(昭和8年 1938年12月)によって宮本顕治が逮捕され、最後まで残った中央委員である袴田里見が検挙された昭和10(1935)年3月4日をもって事実上中央委員会が解体し、戦前の党の活動は停止した。だから、戦前の党の活動期間は、大正15(1926)年12月から昭和10(1935)年3月までの、実質9年間ということになる。

 ただ、この間にも昭和3(1928)年3月15日のいわゆる3.15事件や昭和4(1929)年4月16日の4.16事件によって壊滅的な打撃を受け、そのあとは逮捕を免れた残党によって細々と活動が続けられていたに過ぎない。

 したがって、戦前の党活動と言っても、曲がりなりにも党中央の指導の下に活動した期間というものはわずかに数年間、厳密に言うと実質3年か4年にすぎない。

 戦前の党史を通覧して驚かされる第1の点はまずこのことである。

 

第1章日本共産党戦前史

1.歪んだ生い立ち

 ロシア革命(大正6年 1917年10月)に勝利したとはいえ、先進工業国(主としてヨーロッパ)のプロレタリア革命の支援なしには、後進国ロシアの革命が生き残ることはできないと考えたレーニンによって、大正8(1919)年3月モスクワで、革命的なプロレタリアートの国際会議が招集され、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の創設が決議された。そして以下のような主張が取り上げられた。

「世界のブルジョアジーを打倒するために、さらに国家の完全な廃止に向けての過渡的段階としての国際的ソビエト共和国を建設するために、軍事力を含むあらゆる可能な手段によって戦うこと」

 その第2回大会でレーニン自身によって定められた21ヶ条の厳格な加入条件を遵守することを誓約し、コミンテルンから承認されたものだけが、以後国際的には革命政党としての資格を認められることになった。かくて、日本共産党は、コミンテルンの指導のもとにロシア革命と「同一の道」を通って、日本革命の実現を目指すことを誓約して加入したのであった。日本共産党は、そのコミンテルンの「日本支部」に過ぎなかったということを改めてしっかりと押さえておく必要がある。

 それゆえ戦前の日本共産党には綱領はなく、それに代わって「27年テーゼ」と「32年テーゼ」と呼ばれる綱領的文書がある。これらはいずれも、モスクワのコミンテルンで作成され、日本共産党に実践すべく与えられたものである。「27年テーゼ」は、のちにスターリンに粛清されたブハーリンが作成したものである。ブハーリンが失脚すると、オットー・クーシネンによって書き直された。これが「32年テーゼ」と言われるものであり、戦前の日本共産党の指導方針となった。これらの文書の作成に日本人党員も立ち会ってはいるが、参考意見を述べるにとどまり、基本的にはコミンテルンの外国人指導者によって作成されたものである。

 日本共産党は党の創立以来モスクワからの相当巨額の政治資金によってその活動が賄われてきた。また、その幹部要員を養成するために、毎年数名の労働者や青年がモスクワのクートベ(極東勤労者共産主義大学)に送られて教育を受け、帰国して幹部となった。

 大正11(1922)年1月、コミンテルンの呼びかけで、極東諸民族大会に出席した片山潜や徳田球一らは、共産党の創立の必要性を説得されて5万円の創立資金をもらって帰ってくる(片山潜はそのままモスクワに留まる)。

 そして、山川均や堺利彦らに呼びかけて、ようやく党の結成にこぎつけた。これが大正11(1922)年7月15日のことである。

 委員長には堺利彦が選ばれ、荒畑寒村、近藤栄蔵、徳田球一らが創立委員に選ばれた。そして、11月に開かれたコミンテルン第4回大会に2人の代表が派遣されて、とにもかくにも日本支部として承認された。綱領と規約もコミンテルンがつくってくれた。

 翌大正12(1923)年3月東京・石神井で臨時党大会を開いて綱領草案を審議した。

 「綱領草案」は、日本を封建制度の残存物がいまなお優位を占めている国家とみなし、権力の頂点は天皇であるが、これが地主とブルジョワの連携の上にのっていると見る。そして革命は、プロレタリアートが農民やブルジョワと協力して、まずブルジョワ革命を起こし、その次がプロレタリアートの独裁を実現するプロレタリア革命の2段階説を取っていた。このような現状規定をふまえて、君主制の廃止、普通選挙権、出版・言論の自由、労働組合、デモ・ストライキの自由、8時間労働制の実施など、22項目からなる民主主義的スローガンを当面の要求として掲げていた。

 こうした綱領や規約、当面の要求などが成立する前に、先に述べたように、一斉検挙(大正12年6月、治安警察法による第1次検挙)があって審議未了のまま、党内から、日本で共産党を結成するのは時期尚早であるとする山川均らの解党主義が生まれてくる。綱領をめぐる論議の中で、(1)2段階革命説の是非、(2)天皇制の廃止、が争点となって紛糾した。とりわけ、天皇制の廃止を綱領に入れると、第2の大逆事件として弾圧の対象にされることが危惧された。このあと、関東大震災があり、朝鮮人や社会主義者が暴動を企てている、などという流言飛語が流れ、朝鮮人や社会主義者が虐殺される事件(大杉事件など)が相次いだ。これにおびえて党内に解党主義と日和見主義が優勢となり、大正13(1924)年2月に解党を申し合わせる。

 しかし、この年の6月にコミンテルン第5回大会に出席した片山潜や佐野学らは、解党を厳しく非難され、党解散の決議を取り消してもう一度再建の決議をする。

 大正15(1926)年、山形県五色温泉での第3回党大会では、政治方針と党規約を採択した。出席者は17名で、旅館には東京・深川の蓄電池の会社の忘年会という触れ込みだった。佐野文夫が社長、福本和夫が支配人、共産党のことを「うちの会社」というようにあらかじめ決めてあった。

 福本は大会宣言で「我々の闘争は、まず専制的封建的遺制の打破に向けられる。この革命は内的必然性をもってプロレタリア革命に転化するであろう」とうたい、さらに「封建的遺制とは君主制の廃止のことである」と口頭で述べると、一同は緊張して重苦しい空気になったと言われている。委員長が佐野文夫、政治部長が福本和夫、組織部長が渡辺政之輔、中央委員には徳田球一、市川正一、佐野学らが選出された。

 

2.2つのテーゼ

 翌昭和2(1927)年、佐野文夫、徳田球一、福本和夫らが、戦略方針の協議のためモスクワへ出発、コミンテルンでは、当時スターリンと組んで主流派であったブハーリンが中心になって「日本問題についての決議」(27年テーゼ)が作成された。解党主義の山川均とともに、当時日本共産党の理論的な指導者であった福本和夫や、その理論を支持していた徳田球一、佐野文雄らが厳しく批判されて中央委員から罷免され、渡辺政之輔、鍋山貞親、市川正一らの選任が指示された。

 コミンテルンは、日本共産党が党大会を開いて決定した大会宣言、規約、運動方針、党人事のすべてを反故にして、全く新しいテーゼを押しつけるという前代未聞の横暴な態度を示した。コミンテルンは、ドイツ革命(大正10年、1921年3月)がロシア革命に続いて起こり、これがロシアのプロレタリアートを支援してくれるものと期待したが、ドイツ革命はあっけなく失敗に終わってしまったので、こんどは目をヨーロッパから中国へ向け、これに全力を注ぐことになった。いつになるかわからない日本よりも、中国の方が革命の可能性があると見たのである(そして、これは結果的には正しかったわけだ)。

 「確かに、極東では日本が一番発達した帝国主義国だと言えよう。だからといって、日本が革命に一番接近しているかというとそうではない。支那の方が社会的矛盾の激化という点からみて、日本よりも革命の可能性が高いと言わざるを得ない」―――このような考え方が、「27年テーゼ」に書かれたスローガンの順序に示されている。

(1) 帝国主義戦争の危機に対する闘争

(2) 日本軍は支那革命から手を引け

(3) ソビエト連邦を擁護せよ

……

(6) 君主制の廃止

自分の国の革命という「本来的な任務」よりも、ソビエト連邦の擁護や中国革命の支援が優先された。このようなテーゼをコミンテルンから与えられた革命政党は、日本共産党の他にはない。コミンテルンの観点からすると、日本革命は昭和2(1927)年から、中国革命に従属するものとみなされていたことがわかる(立花隆「日本共産党の研究」)。

 戦前の共産党は、その活動の全体を「ソ連邦の擁護」と「支那革命の支援」に費やしていたと言っても過言ではない。『赤旗』を創刊する前の機関紙『無産者新聞』は、毎号「支那革命」への日本軍の干渉を非難しその撤兵を求めていて、当時の党の活動の重点がどこにあったかはっきりと見て取れる。

 コミンテルンが日本共産党に与えた任務は、何よりもまず、中国大陸に展開していた日本軍が、「社会主義の祖国」ソ連邦へ攻め込むことを防止すること、そして、そのためにも中国で進展しつつあった「支那革命」を支援することであった。

 「27年テーゼ」をつくったブハーリンがコミンテルンの第6回大会で失脚すると、ブハーリン批判が盛んになり、ブハーリンのつくったテーゼでは具合が悪いということになってきた。とりわけ、彼の資本主義の相対的安定論は誤りであり、日本は今や帝国主義段階にあり、戦争の危険が切迫しているということが強調された。

 「32年テーゼ」の特徴は、「日本における具体的情勢の評価に関して、必ず出発点にならなければならないのは、天皇制の性質および体制の中での比重である」として、天皇制を『絶対主義的天皇制』と規定し、これを革命的打倒の正面に位置づけたことである。

「27年テーゼ」では、権力を握っているのはブルジョワであり、天皇は地主ブロックの中の大地主として把握されていた。つまり封建制度の残りかすとしてとらえられていたわけだ。それが「32年テーゼ」になると、権力の中心として正面に押し出された。ブルジョワ・地主両階級を超絶した「絶対的な」専制権力として把握され、「天皇制国家機構は、搾取諸階級の現存の独裁の強固な背骨となっている。その粉砕は日本における主要なる革命的任務の中で一番重要である」ということになった。この天皇制の問題は、のちに改めて詳しく述べたい。

 また、「日本の資本主義は急速に没落しつつある」というのが日本共産党員の間での共通認識であったことが、「大衆の急進化の過程は促進されつつある」とか、「街頭ではますます頻繁に警官隊との衝突が起こっている」とか、「農民と地主の革命的衝突がいたるところで急速に増加しつつある」といった記事が「赤旗」や党発行のビラに満載されていることからわかる。

 そして、「32年テーゼ」には、大衆はますます自らを革命化してゆき、「その結果として、必ずや最も近き将来において偉大なる革命的諸事件が起こり得る。幾多の事実は近き将来において大衆的抗議・大衆的闘争の大規模な爆発が起こり得ることを示している」などといった、現実から完全に遊離した誇張した情勢論が示されていた。

 

(ここで一端基本的なことを確認しておきます)

ア.社会主義

共産主義そのものは財産の共有を目指す思想であるが、社会主義は特に生産手段の社会的共有・管理などによって平等な社会を実現しようとする思想・運動であり、狭義ではマルクス主義を指す(日本ではこの狭義を指すことが多い)。歴史的には、市民革命で市民が基本的人権など政治的な自由と平等を獲得したが、資本主義が進むと少数の資本家(ブルジョアジー)と大多数の労働者(プロレタリアート)の貧富の差が拡大して固定化し社会不安が増大したため、労働者階級が経済的な平等と権利を主張した。政治的には「左翼」と呼ばれ、労働組合の結成と労働条件の改善、社会保障による富の再分配、教育や医療の無償化、教会権力に対する政教分離、主要産業の国営化、計画経済による近代化、帝国主義戦争への反対、国際主義などを主張する。

イ.マルクス主義

マルクス主義は、私有財産そのものの廃止ではなく、生産手段(工場、土地など)の私有を廃止して社会化(=国有化)することをその核心とした。 マルクスとエンゲルスは「共産党宣言(共産主義者宣言)」(1848年)の中で、人類の歴史を階級対立の歴史とし、資本主義社会をブルジョアジーとプロレタリアートの対立によって特徴づけた。そしてプロレタリアートによる政治権力の奪取により、民主主義を実現し生産手段を社会化することによって階級対立の歴史を終わらせれば、階級支配のための政治権力も死滅し国家権力は止揚する(=低い段階の否定を通じて高い段階へ進み、高い段階の中に低い段階の実質が保存される)と論じた。さらに1人1人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるようなアソシアシオン(仏語で、「協会・団体」の意味)を形成することが共産主義の目標であり、これまでの一切の社会秩序が暴力的に転覆されることによってのみ、この共産主義の目標が達成されると宣言した。 マルクスは共産主義社会を、分配の原則に基づいて、低い段階と高い段階とに区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現すると述べた。また資本主義社会から社会主義社会への過渡期における国家をプロレタリアート独裁と呼んだ。

 

日本への共産主義の侵入

日本への共産主義の侵入には3つの経路があった。

第1の経路は秘密組織「コミンテルン日本支部日本共産党」の結党(大正11年 1922年)である。日本共産党はコミンテルン指令の下、君主制(天皇制)廃止を綱領に掲げた。だが政府は治安維持法によりこれを徹底的に取り締まり、大衆の支持もゼロに等しく、社会的な影響はほとんど持ち得なかった。(ただし、右翼の社会主義者の存在が大きな力を持った)

第2の経路は、旧制高校や帝国大学の学生など若いインテリ層への、知的ファッションとしてのマルクス主義の浸透である。その背景には大正デモクラシーの風潮があり、また特権階層であった彼らの、労働者や農民に対する負い目の意識も作用した。彼らは卒業後、官僚となって国家の中枢に進出していく。

第3の経路は、国家主義者や軍人への共産主義の影響である。昭和11(1936)年に2.26事件をおこした青年将校たちに強い影響を与えた北一輝の思想も、天皇を戴いた共産主義革命の思想であった。彼らに共通するのは自由経済と政党政治の否定である。2.26事件以降、共産主義の洗礼を受けた官僚たちは、軍と密接に協力し日中戦争「完遂」を呼号して、官僚統制と計画経済の体制である国家総動員体制を構築していく。

 

3.大量転向

 戦前、日本共産党は、数次にわたる大弾圧を被った。その結果、「スパイ査問事件」(昭和8年)によって党が壊滅したことは、最初に述べた。この事件で宮本・袴田らが逮捕されると、党の組織的活動は停止してしまった。昭和8(1933)年6月7日、獄中で思想的に動揺していた共産党の指導者、佐野学、鍋山貞親らが、「コミンテルンおよび日本共産党を自己批判する」と題した転向声明書を発表した。

 声明書には「現在の党は、労働者の党ではなく、急進的なプチブルの政治機関となり、一揆主義や腐敗傾向を示している。その結果、労働者の心から遊離してしまった」「その原因は我々が無限の信頼をよせていたコミンテルンの組織原則そのものにあるのを悟った」などと記され、要するに、日本共産党はソ連邦擁護の道具に過ぎなくなった、そして、天皇制反対などと唱えても、労働者からは却って見放されるだけであった、と自己批判したのである。

 共産党の両「巨頭」であった佐野・鍋山の転向は、党員・党支持者に大きな衝撃を与えた。佐野・鍋山の転向声明が全国の刑務所に送られると、それをきっかけにして、雪崩を打って、転向現象が起こった。その年の7月末までに、(たった1ヶ月で!)全国の共産党関係の未決囚1370名のうち30%を超える415名が、既決囚372名のうち、36%の133名が転向した。

 共産党員ばかりか、こうした動きは文化人・知識人にも波及し、河上肇博士、秋田雨雀、細田民樹、江口きよし、沢村貞子などが、つぎつぎ転向して新聞の紙面を賑わせた。

 やがて風間丈吉が転向し、田中清玄(きよはる)、佐野博も転向し、各時代の最高指導者たちがほとんど転向することになった。非転向を貫いたのは徳田球一、志賀義雄、宮本顕治らほんの一部の党員だけであった。

  昭和8(1933)年6月の佐野・鍋山の「転向声明」から昭和10(1935)年6月のわずか2年の間に、共産党関係受刑者650名のうち、当局が転向・準転向と認めたものが505名、非転向にとどまった者が145名であったとされる。また、昭和13年4月において、昭和3年以降に治安維持法違反で司法処分(起訴猶予・留保処分)を受けた12,145名のうち、総数11,355名が釈放されているが、そのうち、再犯者として司法処分に至った者は854名に過ぎなかった。

 逮捕される前に自ら密かに運動から離れてしまう者も多かった。トップから末端の下部党員にいたるまで、全員とは言わないまでも党員の圧倒的多数が、雪崩を打って大量転向するという現象は(1991年のソ連崩壊を別として)世界的に例がない。そのためか、わが国では「転向」の研究が盛んである。日本共産党では、転向や変節を最大の「階級的裏切り・背信行為」とみなしている。党史には「獄中の共産党員のなかでも、相当数の人々が、官憲の野蛮な暴圧に屈して革命運動からの離脱を表明した。これらの『転向者』の中には、佐野、鍋山らがおり、同じく、天皇制と侵略戦争を賛美し、その積極的な協力者に転落したものだけでなく、階級的成長の未熟から心ならずも革命運動の放棄を口にさせられた者も含まれていた。しかし、理由や動機のいかんにかかわらず、それが天皇制専制権力に対する降伏であり、党と革命運動にとって許されない政治的変節であったことは明白であった」と記されている。

 「転向」は革命家のモラルの問題であり、その政治的節操を問われる最大の試金石であるとみなされた。革命家たるものはいかなる弾圧があろうとも、「不撓不屈」に弾圧と戦い、いかなる場合であろうと敵に屈することは許されないというのが、日本共産党の公式の態度であった。それは強固な革命意思の有無の問題だとされた。

 このような「転向」「非転向」の心情的な把握に疑問を投げかけたのが、石堂清倫(いしどうきよとも)である。石堂は、昭和の初期に大量の転向者を出したのはなぜかと問いかける。「転向」「非転向」の問題は、戦後に党を再建するにあたって最大の問題となった。徳田、志賀、宮本といった人たちが党再建のリーダーシップを握ることができたのは、「非転向」とされたおかげであった。

「後知恵」という誹りは免れないが、共産主義の学説が根本的に間違った理論であることが立証された現在、転向者のなかには、単に意志薄弱で権力に屈したものもいたであろうが、弾圧を受けたことを1つの契機として、マルクス主義が謬説であることに気づいた者も、数少なくはなかったのではないかと思われる。

 しかも、戦後公開された資料によって党の指導部に多くの警察のスパイが入り込み、中央委員の過半数をこのスパイが占めていた時期や、中央委員の人事を特高警察が握っていた時期さえあることが明らかにされている。このような時期の日本共産党を、共産党と呼ぶことができるのか疑問視する研究家も少なくない。

 

4.獄中18年

 日本共産党は党創立以来、その存在を守るのが精いっぱいであった。徳田球一と志賀義雄は有名な「獄中18年」のなかで、それぞれ自分の獄中体験を次のように書いている。

「網走―――氷のこんぺいとう   徳田球一

その年(昭和10年)の12月も暮れ近くなってから我々はにわかに北海道へ送られることになった。志賀君だけは函館刑務所、我々――市川君と国領君と私とは網走刑務所ということに決まった。護送自動車で上野駅までもってゆかれ、上野から汽車に乗せられて、網走へ着いたのは、年の瀬も押し迫った12月の27日だった。北海道は、見渡す限り一面の雪にうずまっていた。網走は、何分にもあの寒さだから、監獄の様子もよそに比べるとだいぶ変わっている。屋根はぐっと低いし、外気に触れるところはすっかり目張りがしてある。

 監獄の領地の中に、水田が13町歩、畑を合わせると450~60町歩もの耕地があって、米はいくらもとれないが、カボチャやジャガイモがいやというほどできる。もし寒ささえなければ、網走の監獄は、監獄としては割に暮らしよいと言える。

 ただ寒かった。骨の髄にしみとおるあの言語に絶する寒さは、6年間の網走生活の記憶を今もなお冷たく凍りつかせている。

 真冬には、冷夏30度に下がることも珍しくなかった。そんなときには、暖房の入った監房の中でも零下8度とか9度とかを示す。吐いた息が壁に当たると、見る間に凍りついて、無数のこんぺいとうができる。こんぺいとうは壁にだけできるとは限らない。うっかりすると、眉毛の先や鼻のあたまにもできる。しょっちゅう気をつけて鼻をもんでいないと、やけどのようにドロドロになって腐ってしまう。

 夜は、例の赤いつんつるてんの作業意を寝巻に着かえて寝るのだが、着替える前には、必ず氷を割って、全身に冷水摩擦をしなければならない。これを怠って、零下何度の寒さでかちかちに冷え切った寝巻を、そのままの肌に着ようものなら、たちまち風邪をひいて肺炎を起こす。寝るときには、必ず布団の中に頭ごとすっぽり潜り込まねばならない。監獄では、自殺の恐れがあるというので、布団にもぐって寝ることは禁じられているが、そんな規則などには構ってはいられない。もし布団から顔を出して寝たりしようものなら、寝ているうちに、自分の吐く息で口の周りがすっかり凍傷にやられてしまう。

とにかく猛烈な寒さだった。私は、網走へ行った翌々年、忘れもしないそれは2月11日紀元節の朝だったが、目が覚めて起きようとしても、どうしても起きられない。全身に神経痛が起こって、ぎりぎりと錐をもみこまれるようで、足も腰も立たない。部屋の中のすぐそこにおいてある便器の所までも行けないのだ。人に助けてもらってやっと用を済ませ、担がれて病室へ行って、手と足と腰に注射し、それから1週間ほど全く動けないで寝ていた。このとき以来神経痛は私の持病の1つとなった。

 それから1年半ほどのうちに、今度は右の手首が動かなくなった。肩の付け根から指先まで、ジーンとしびれたきりで、右手全体が自由にならない。1年ほどこの状態が続いて、今に至るも完全に治らないで、網走生活の記念になっている」

 

「氷のなかで  志賀義雄

(昭和9年 1934年10月17日に判決があり、懲役10年の刑を科せられることになった。そして)その年の12月、我々はにわかに北海道へ送られることになった。徳田、市川、国領の諸君は網走へ、私は函館へ送られた。上野駅から編み笠、手錠姿で汽車に乗せられ、まっすぐに函館へ行った。北海道はちょうど吹雪のさなかだった。すべてをひっさらってゆくような激しい吹雪が函館の町中を吹き荒れていた。

 函館というところは、網走などに比べると、夏と冬との温度の差もはるかに少なく、北海道ではまず一番しのぎよいところとされている。ところが、函館刑務所の建築というのが、鉄筋コンクリート造りで、設計した技師が内地式の頭で考えてやったものだから、北海道の気候に合わない。コンクリートには雪解けの水がしみこむが、それが夜中に凍結してコンクリートに大ひびを入れる。もともと世のどん底である監獄の暮らしの、住みよかろうはずもないが、なかでも冬の寒さは一番体に応えて苦しかった。

 寒くなると役人はストーブを炊くが、無論我々には、真冬でも炭火ひとかけらも与えられはしない。コンクリートの壁は、わずかに外を吹く風を遮ってくれるだけで、その壁の割れ目からは、容赦もなく水気がしみこんでくる。零下15度にもなると、悪い監房では部屋中がバリバリと凍りついてしまう。電気のコードがつららになる。日が暮れて電燈が灯ると、そのかすかなぬくもりでつららが解け、ぽたりぽたりと露が垂れる。その露が布団の上に子供のおしっこの後のようなシミを作り、そのシミがだんだんに広がっていく。こうして、6、7年というものを、冬は氷の中で寝た。

 着物は、大寒に入ると増衣(ましぎ)というものをくれるが、それまでは、監獄者の合わせとももひきが一枚きりだ。布団は夏冬通して同じのが一枚きりだ。

 私は函館へ移されたのが12月で、行くとすぐにリウマチス性の神経痛をおこした。ふしぶしが刺されるように痛んで、一分間と仰向きに寝ていられない。ところがうかつに横になると、肩から風が入って凍えつきそうになる。『木曾殿と背中合わせの寒さかな』どころではない。こういう状態が3年間も続いた。ミノムシのように、一枚の布団をしっかり体に巻きつけて、それでもまんじりともできずに、痛さと寒さをしのびながら夜明けを待ったこともしばしばだった。『神曲』で、地獄のどん底に氷寒地獄をおいたダンテは、人間の苦しみのもっともひどいものが寒さであることを、さすがによく知っていたものだと感心したこともあった」

 志賀義雄も、徳田球一や野坂参三と並んで、戦後日本の代表的な革命家であった。志賀義雄もご多分にもれず後に、ソ連に対する盲従分子、裏切り者として、党から除名された。

 

5.精神主義という刻印

 日本共産党の戦前史とはまさに投獄の歴史であり、党史には、「獄中で不屈に戦った」とある。しかし、政党というのは社会的存在であり、社会にあって戦ってこそ意味がある。支配階級は共産党員に「戦われ」ては困るから監獄へ閉じ込めているのである。このような体験は日本共産党の性格に負け惜しみと強がり、そして精神主義という刻印を残した。

 戦前の日本共産党が、いつ政党として消滅したと見るかについては、定説はない。宮本顕治は、最後の中央委員たる「オレ」が、獄中で非転向で頑張っていたのだから、党は獄中で存続していたと主張していた。しかし、このような見解は、宮本イコール党だと考えることのできる人だけが支持できる見解である。

 昭和8(1933)年には大弾圧、そして党内でのリンチ事件の頻発、小林多喜二・野呂栄太郎らの検挙と獄死、宮本・袴田らの「スパイ査問事件」と逮捕などが続けざまにあった。その点から戦前の活動家で、同年に党は壊滅したと考える人は多い。

 その後全国各地で、小グループによる党再建運動が展開された。

 昭和10(1935)年、増山太助ら京大生による、戦争反対、反ファシズム統一戦線運動を通じて党を再建しようという運動があった。京都河原町のあさひ会館に、末川博を招いて決起したが、あえなく検挙された(「京大ケルン事件」)。また昭和14(1939)年の大阪では、春日庄次郎らによる「共産主義団」の結成が企てられたが、いずれも端緒において鎮圧された。党史ではこのような事実は抹殺されている。「党は獄中で存在していたのである。何が党再建だ」というわけである。何はともあれ、終戦時において全国の刑務所、拘置所、予防拘禁所には、約3000名の政治犯がいた。徳田、志賀らは、終戦前に刑期満了を迎えたが、非転向のままで出獄することを恐れた当局が、彼らを拘禁しておくことを目的とした予防拘禁法を特別に制定して、東京・府中刑務所の拘禁所に収監した。

 徳田、志賀ら日本共産党の思想犯が府中刑務所にいたことを発見したのは、仏「ル・モンド」紙の東京特派員ロベール・ギランであった。ギランは戦前―戦中の7年間日本に滞在していた。彼の助手をしていたユーゴスラビア人のブーケリッチが、ゾルゲ事件に連座して獄死したこともあり、日本人の共産主義者の運命に強い関心を持っていた。彼は、日本が降伏した直後から、ひそかに共産党員たちと連絡をとり、徳田や志賀を探し出す作業に取りかかった。やがて、徳田と志賀はどうやら府中刑務所にいるらしいという通報を受けた。「ニューズ・ウィーク」誌の特派員ハロルド・アイザックスらと、アメリカ将校の軍服を着て、大型ジープを運転して、府中刑務所に乗りつけた。

 刑務所長は仰天して、「府中には泥棒とか、人殺しとかの普通の刑事犯人はいない」と言い張ったが、米軍将校になりすましたギランらは、看守の尻を叩いて刑務所の陰惨な長い廊下を歩き回り、監房をあちこち探した。看守がすれちがった同僚にささやいた。「急いで事務所に伝えてくれ…この連中は見せてはならないところに俺を引っ張っていこうとしている。」ギランには、その日本語が筒抜けだった。廊下の突き当たりに、途方もなく大きな扉があった。ギランはどなった。「これは何だ。」

 看守は震えながら鍵穴に鍵を差し込み、錠前を開けた。

 ギランはこのときの様子を次のように書いている(『文芸春秋』1955年10月号「徳田球一を釈放させたのは私だ」)。

 「扉は重くて、開くのに手間がかかった。完全な静寂。はち切れそうな緊張。そうして、そのとき、一生私が忘れることができそうもない光景が目の前に展開された。かなり大きな監房の中に、ひとかたまりの人間が、カーキ色の服を着て、頭を丸坊主にして、ベンチの上に腰を掛けていた。そして顔を凝結させ、今にも飛び出しそうな眼をして、扉が開くのを見守っていた。まるで奇怪至極な、恐ろしいけだものが、彼らを食い殺そうとして入って来てでもしたかのように、すっかり放心の体だった。それが何秒間か続いた。それから全部の人間が、15人くらいもいたろうか、悦びと感激との無我夢中の狂乱とでもいったものにとりつかれて私たち目がけて飛びついてきた。

 英語が叫ぶ声が聞こえた。『僕たちは共産党員だ…僕は徳田だ。僕は徳田だ。』朝鮮人の顔をした2人の男が、ベンチの上に立ち上がって、インターナショナルを歌っていた。痩せた顔つきをした、1人の囚人が英語で話しかけてきた。『やっと、来てくれましたねえ。何週間も待っていました』それが志賀だった。徳田は私に話しかけて、本当とは思えないような次の言葉を言った。

 『僕はこの刑務所の扉が開くのを18年待っていた。』囚人のうちの数人は顔を涙で濡らしていた。徳田はアイザックスの方に振り向いて彼を腕の中に抱きしめ、『これで僕たちは安全です。救われました』と言っていた。共産主義者がアメリカ人を抱擁するのは今までに見たこともない光景だった…。

 こうした興奮がやっと静まり、囚人たちが跳ねたり、踊ったり、叫んだり、私たちの制服を撫でさすったり、うれし涙を流したりするのがやっとすむと、私たちは一同を監房から出てこさせた。看守の群をかきわけて、私たちは刑務所の事務室まで行列を作って進み、さっそく『記者会見』を開いた。」

 

6.地球上で最後のスターリン主義の党

 先に記したように、日本共産党はレーニンが定めたコミンテルン加入の21か条に従って創立された党であって、民主集中制という軍隊的な規律をいまだに厳守している、発達した資本主義国では珍しい党である。日本共産党にやってきたフランス共産党の代表団が党大会の様子を見て、日本共産党は地球上で最後のスターリン主義の党だと言った。議長団と言われるグループが拍手をしながら壇上に上がってくると、代議員たちが一斉に立ち上がって、一斉に「嵐のような拍手」をする。スターリンの時代にソ連で開発されたやり方で、今では中国もやっていないのではないかと言われている。

 このように日本共産党というのは、ソ連共産党をモデルとして、何から何まで真似をしながら日本でロシア革命を再現するべく創立されたのであった。

 つい最近まで、ロシアの10月革命の道を通ってのみ共産主義は実現できると断言し、その考えに同調しないすべての人を、党から追放してきた。

 日本共産党はロシア革命という子宮とへその緒でつながっているのであって、ロシア革命を否定するのであれば、まず解散して一から出直すべきであろう。日本共産党の戦前史に関して、ここでは2つの嘘についてだけ述べておこう。

1つは、日本共産党は戦争に反対して命をかけて戦ってきたというよく聞く嘘である。戦前日本共産党は、レーニンの抵抗主義論に基づき、帝国主義戦争反対、帝国主義戦争を内乱に転化せよというスローガンを掲げ、戦っていた。これはしかし、アメリカ兵や中国兵と戦うのではなく、日本の天皇制政府や日本兵と戦えと宣伝、煽動していたのである。私は平成12(2000)年にロシアを旅行して遅まきながらロシア革命の研究を始めたのであるが、同じ民族が殺し合う内戦、内乱ほど恐ろしいものはないと思った。ある歴史家が書いている。「内戦の炎の壁が、国全体、家族の1つ1つまで突き抜けた。」階級闘争を軸にした内戦は相手を絶滅するまでは終わらない。繰り返し言うが、これほど残酷で凄惨なものはない。

 わが国民に内戦、内乱を呼びかけた日本共産党を反戦平和の闘士として描き出すことほど事実に反することはない。全く逆である。有名な「32年テーゼ」は「革命的階級はただ自国政府の敗北を願うだけである。政府軍隊の敗北は、天皇制政府を弱め、支配階級に対する内乱を容易にする」と述べている。日本共産党は自国の兵士に対し自国への戦いを呼びかけ、内乱への参加を呼びかけた。野坂参三がコミンテルンからアメリカへ派遣されたのもアメリカに対し日本への参戦を促すためであった。

 戦前の日本共産党の活動に関するもう1つの大きな嘘は、戦前すでに主権在民を主張していたという議論である。これも真っ赤な嘘である。美濃部達吉博士が、天皇機関説を唱えただけで大騒ぎとなり、博士が軍部から命まで脅かされたという時代である。主権在民などという思想や概念があろうはずもない。

 戦後マッカーサー司令部から示された憲法草案に「the sovereignty of the peoples will」という英語があり、英語学者が鳩首協議をして「主権在民」という訳語を捻り出したことはよく知られている。

 日本共産党が天皇制政府を打倒してソ連型の労農政府を樹立しようと考えていたことは事実だとしても、これはマルクス主義で言うところのプロレタリアートの独裁の政府であり、スターリンの独裁と恐怖の政治であって、主権在共産党、主権在書記長の独裁政治はおよそ近代政治学でいう主権在民という概念とは程遠い、むしろ正反対のものであった。

 戦前の日本共産党の活動で忘れてはならないことは、密告、粛清、強制収容所、飢餓、民族の強制移動とそれに伴う大量死など、何千万人というソ連国民が、レーニン、スターリン、ボルシェビキによって虐殺されていた時代に――情報不足という事情があったにせよ――ソ連を天まで持ち上げ絶賛し、社会主義の祖国、労働者・農民の天国と美化し、社会保障、医療費の無料制、教育費の無料制、労働8時間制など、ありもしない美点を宣伝して、長年にわたり労働者や国民を騙してきたことで、日本共産党の責任は誠に重大なものがあると言わなければならない。

 一方で、ソ連が崩壊すると、宮本顕治は「双手を挙げて賛成」などと全く意味不明の発言をして国民の失笑を買い、不破哲三は「ソ連は社会主義でなかった」などと主張し始め、その人間としての限界を超えた破廉恥さで世間を驚かせた。

 国会図書館に新館ができたころ、誘われて見学に行ったことがある。案内してくれた職員が戦前の左翼運動に興味を持っていた人で「面白いものがある」と言う。見せてくれたものは、戦前の特高警察が発行していた「特高月報」という雑誌だった。パラパラとめくってみて驚いた。スターリンの人物評が出ているのである。読んでみてまた驚いた。スターリン批判以後、とりわけソ連崩壊後、スターリンの研究は進んで、その冷酷無残な権謀術数にたけた人物像を浮かび上がらせたが、特高警察は当時すでにかなり的確につかんでいる。他方、当時の「赤旗」を読むと、「おお!われらの偉大な、同志スターリン!」「全世界の労働者・農民の輝ける天才的な指導者にして教師スターリン!」などという歯の浮くような賛辞、革命夢遊病者のような戯言、さらには「星から来た人、火星からの人類への使者」などとまるでエイリアンだと言わんばかりである。

 今となっては勝負は明らかだ。あの悪名高い特高警察の方がむしろ正しい歴史認識を示していたのだ。ソ連が崩壊し、ソ連の犯した数々の凶悪な犯罪事実が人々をうんざりさせている今日、日本共産党の言う「特高史観」を改めて評価し直す必要がある。

 私は国会に勤務していたころ、月に2,3回「赤旗」を参議院会館の中で配達していた。当時参議院には秦野章がいた。日大の夜学で苦学して卒業、叩き上げで警視総監にまでなった傑物で、ギョロッと目をむくと恐ろしく迫力のある人物であった。

 ある朝、秦野事務所で彼につかまった。精勤な人物で毎朝秘書よりも早く出勤して新聞を読んでいた。彼は「共産党はことあるごとに、弾圧、弾圧というけれども、戦前の共産党を考えてみろ。外国(スターリンやコミンテルン)の手先になって、自国の政府を暴力で転覆するという政党を取り締まらない警察がどこにあるか」と迫ってきた。

 「そうですね」とも答えられないので困った記憶がある。後でも触れるが、もし日本共産党がロシア型の共産主義を輸入することに成功していたら、日本は歴史上経験したこともない災厄に見舞われ、底知れぬ奈落の淵に沈淪(チンリン)していたことであろう。

 

【人物評伝① 徳田球一】

 徳田球一は、宮本顕治と並んで戦後共産党を代表する「革命家」である。「」で括ってあるのは、日本に革命運動はあっても、日本革命というのはついになかったからである。

 徳田は、父は鹿児島県人であったが、琉球人の現地人妻を母として、明治27(1894)年9月12日に沖縄の名護市で生まれた。当時の日本では、沖縄県民を琉球人と呼んで一級下等な人種のように差別をしていた。この差別に憤慨して日本共産党に入党する「琉球人」がかなりいた。徳田も、父が富裕な商人であったので、鹿児島の第7高等学校に入学したが、差別的な仕打ちを受けて中途退学して上京、日大の夜学に学んで苦学の末弁護士資格を取得した。 

 大正9(1920)年、日本社会主義同盟に参加。10年にソ連訪問。11年28歳のとき非合法の日本共産党の結成に参加した最古参党員である。大正14(1925)年、昭和2(1927)年にもモスクワや上海に渡って国際的にも活躍した。当時の日本共産党では、山川均の右翼解党主義理論へ反発するあまり、今度は逆の観念的な極左理論である福本和夫の「福本イズム」と呼ばれる極左理論が一世を風靡していた。党を純化するためには、いったん不純分子を分離する必要があるという「分離と結合」と称する理論であった。

これは放置しておくわけにはいかないということになって、福本和夫や徳田球一がコミンテルンに呼びつけられた。コミンテルンが「福本イズム」を問題にしていることがわかると、徳田は手のひらを返すようにこの理論との決別を宣言したので、却って仲間の不信を買ってしまった。このときコミンテルンから、福本・徳田らは今後中央委員になることを禁じられた。

 徳田はこのことを根に持って、モスクワに対して快く思わなくなったという。当時の共産党員として、コミンテルンの人事介入に対してこのように反発していたというのであれば、徳田の反骨を示すものとして面白い。

 昭和3(1928)年の第1回普通選挙に労農党から出馬したが落選した。その直後の2月26日に治安維持法違反で逮捕された。公然と姿を現した共産党に対して、特高警察が露骨に取り締まりの姿勢を示した3.15事件の走りでもあった。

 徳田はその後、刑期を終えるとそのまま予防拘禁を受けて、終戦の年に解放されるまで「獄中18年」を過ごすことになった。3.15事件の併合審理では、徳田は弁護士としての法律知識を活かして被告全員のために大いに活躍し、先に失墜した自分の名誉を挽回している。

 この裁判での弁論を読んでみると、徳田が琉球差別にどれほど心を傷つけられたかが縷々述べられており、これが徳田を抑圧された人民の解放への道を歩ませる動機づけとなったことが見てとれる。

 徳田は法廷で頑張ったばかりではなく、監獄でも受刑者の権利を主張して譲らず、転向に傾く受刑者を叱咤激励してはリーダーシップを発揮して、他の政治犯たちからも尊敬を集めた。府中刑務所の中で、日本の敗戦と自分たちの解放が近づいてきたことを知った徳田らは、志賀義雄らと戦後の党の復活に備えて、共同声明「人民に訴う」を用意した。

 敗戦直後の昭和20(1945)年10月3日、共産革命を懸念する声に応えた山崎内務大臣が、治安維持法による共産党員の逮捕や投獄を引き続き執行すると声明するや、逆にGHQは「人権指令」を発表して、天皇に関する討議の自由、治安維持法の撤廃、政治犯の即時釈放を日本政府に指示、山崎内務大臣の罷免を要求した。これに反発した東久邇内閣が総辞職する中で、10月10日、3000人の政治犯が釈放された。

 徳田らは昭和20(1945)年12月、実に19年ぶりとなる党大会の第4回党大会を党本部で開き、行動綱領と規約を発表して中央委員会と書記長に徳田球一を選出した。「虎は野に放たれた」徳田らの戦後の活躍の幕は切って落とされた。

 野にして卑、豪放磊落、放言暴言、若いころは酒と女にはだらしなく、徳田は、革命家というよりはむしろ野放図な人物であったけれども、同時に庶民的で親しみやすく親切で思いやりがあり、気さくでざっくばらんな性格は、インテリは別だが、誰からも好かれた。

 しかも、煽動的な演説は、聴衆をうっとりさせた。筆者は、共産党の支持者で父親が徳田球一の演説をわざわざ徳島から大阪まで聞きに出かけたという労働者を知っていたが、この労働者は、「自分の父親は徳田の口から火炎放射器のように火が噴き出しているのを直接見たのだ」と主張して譲らなかった。当然ながらあり得ない話であるが、「父親が自分の息子にわざわざ嘘をつく必要はない」とまで言うのである。

 怒涛のように盛り上がる大衆デモ、労働運動には行き過ぎは多々あったけれども、それらを承知の上で、がむしゃらにすすめるには、徳田のような図太い神経と旺盛な闘志が必要であった。

 戦後まもなく、共産党は、隠退蔵物資の摘発、宮城デモ、食糧メーデーなどの大衆動員戦法をとった。労働者を煽動しては闘争現場を渡り歩いたが、工場占拠、生産管理と称していわば企業の乗っ取りに等しい戦術をためらいもしなかった。奔放でアナーキーな戦術は占領軍や政府の警戒心を呼び起こしたが、こうしたところにむしろ徳田の真骨頂があったように思われる。

 朝鮮戦争を目前にして、国際共産主義運動は、日本共産党に路線の転換を求める談話を発表した。コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の共産党批判である。これを受けて日本共産党は、「所感派」と「国際派」に分裂してしまう。そして、コミンフォルム批判に当初反発した「所感派」が批判を受け入れるや、今度は「国際派」が分派として批判を受けるという複雑な展開をへて、党は分裂した。共産党の指導部は中国へ亡命し、そこから地下放送の「自由日本放送」などを通じて、日本国内の党員に武装闘争を呼びかけ指導した。

病を得て中国へ逃れていた徳田は、病勢いかんともしがたく実際には活動はできなかったとみえ、これという活動実績の記録はない。昭和28(1953)年10月14日、北京で病没した。59歳であった。

 

【人物評伝② 志賀義雄】

 志賀義雄は、明治34(1901)年1月12日、福岡県門司市(現在の北九州市)に生まれた。一高を経て東京帝国大学に入学。東大の新人会でマルクス主義の洗礼を受け、学生運動、労働運動で活躍し、徳田球一らと「無産新聞」の編集にあたった。在学中の大正12(1923)年、前年に非合法で結成された日本共産党へ入党。昭和3(1928)年、3.15事件で検挙され、治安維持法により懲役10年の有罪判決を受ける。以後終戦の昭和20(1945)年まで、「獄中18年」間、非転向を貫いて、出獄後徳田とともに名声を博した。出獄に際し「人民に訴う」という声明を発表して、党再建の方針を示すとともに、党勢拡大に向けて一歩を踏み出した。党政治局員として、大阪1区から衆議院議員総選挙に出馬して当選し、以後当選を重ねた。 

 昭和25(1950)年、コミンフォルムの日本共産党批判があり、志賀は宮本とともに、コミンフォルム批判を受け入れる国際派(分派)を結成したが、コミンフォルムが徳田主流派を支持していることを知るや、主流派に変身してしまった。同年にGHQから公職追放され、衆議院議員の身分を失うとともに、地下に潜伏した。

 党が武装闘争路線を捨てて合法活動を開始した昭和30(1955)年になって再び活動を再開し、徳田が北京で死去したことを知ると、遺骨を引き取りに中国を訪問した。また、党勢の回復とともに大阪での衆議院の議席を回復した。 

 しかし昭和38(1963)年に部分核実験停止条約が調印され、翌昭和39(1964)年に国会でその条約の批准が審議された際、志賀はこの条約に反対する党の方針に異議を唱え、鈴木市蔵とともにこの条約に賛成投票して党から除名処分を受けた。

 当時、中国共産党とソ連共産党との対立は深刻化しており、中国が核実験を準備していることを知ったソ連共産党が、この実験を阻止するために、核実験停止を英米と締結したとされる。この中ソ対立の影響は、日本共産党にも波及していた。宮本ら指導部の多数派は、密かに中国共産党と中国の核実験の成功支持に傾いており、コミンテルン以来のソ連盲従から抜け切れなかった志賀らをこの機会に排除したのである。

 このあと、志賀義雄らは鈴木市蔵、中野重治、神山茂夫らと「日本共産党(日本のこえ)」を結成したが、党員の大勢は、志賀らに追随せず、昭和54(1979)年に日本共産党がソ連共産党と関係を修復したために、国際的にも孤立を深めてよって立つ基盤を失った。平成元(1989)年に没。 

 

第2章「唯我独尊」の原点

1.臨時再建本部「自立会」

 東京郊外の国分寺駅を出て、雑草やペンペン草が生い茂った、がれきの焼け野原を20分も歩くと、新築2階建て、木造かわらぶきの「自立会」がぽつんと立っていた。府中刑務所の出獄者で、さしあたって行先のないものを収容するために新築された府中刑務所の付属施設であった。徳田球一は出獄に際して府中刑務所の所長を脅しあげて、この建物を強引に確保してしまった。これが日本共産党の臨時再建本部=「自立会」となった。

 全国の刑務所、拘置所、予防拘禁所から釈放された共産党員たちが、ぞくぞくと集まってきた。「自立会」の建物の中には、米俵や野菜類が積み上げられ、威勢よく炊き出しが行われていた。サツマ芋にありついただけで狂喜する食糧難の時代だった。自立会にやってきた同志たちはまず、銀飯を拝んでなりふりかまわず貪った。

 右翼のテロも予想される情勢であった。武装した朝鮮人たちが、「自立会」周辺の警備に当たった。

 集まってきた旧同志たちは、一階にたむろして、さかんに天皇制や人民解放を論議して赤い気炎を上げていた。当たるべからざる勢いで、国鉄、海運、逓信、電気、鉱山などの労働者の組織化や、国有化についてさえ議論が交わされた。

 もともとよく言えば、個性的で意志の強い、悪く言えば、頑固で意固地な連中が監獄の中でますます頑固になって出獄し、角を突き合わせ「オレが、オレが」で喧嘩を始めた。マッカーサー司令部の政治犯釈放命令により、刑務所の中から出獄してきた共産党員は受刑者150名、公判継続中の者52名、予防拘禁者20名であった。府中刑務所から徳田球一、志賀義雄、金天海、黒木重徳、山辺健太郎、松本一三ら16名が出獄したほか、豊多摩拘禁所から神山茂夫、中西功、宮城刑務所から春日庄次郎、袴田里見、そして網走刑務所から宮本顕治が出獄してきたのである。このほか、官憲が捜査中だったものも続々と地下から浮上し、府中の「自立会」に集まってきた。 

 一方で、佐野学、鍋山貞親、田中清玄、風間丈吉など、獄中で完全転向した者を除き、長谷川浩らのように転向組で、警察の保護監視下に置かれていた者の数が2千数百名に達していた。彼ら転向組も続々と「自立会」へ集結してきた。

 この「自立会」では、転向組と非転向組は、白と黒はっきりと区別(差別)され、両者は歩き方で判ったとさえ言われる。非転向組は、後ろへ倒れるのではないかと思われるほどふんぞり返って歩き、転向組はうつむいて前に倒れんばかりにして歩いたという。

 監獄にいた監獄組、娑婆にいた娑婆組にまず大別され、監獄組も転向、非転向に区別され、非転向組も、獄中にいた年数で、上下関係が決まったと言われる。地方からやってきた転向組が、恐る恐る「自分のような者でも、もう一度党に入れてもらえるか」とお伺いを立てたところ、そこにいた山辺健太郎が、「ここはお前のような人間の来るところではない」と言って自立会の2階の階段から突き落とした。これを見た徳田球一が驚いて、山辺をたしなめたという話が残っている。

 獄中組にもいろいろとあって、治安維持法違反一本で下獄していた者と、ほかの罪名で下獄した者とでは、まったく違う扱いを受けた。例えば、警察官を殺害したとして監獄にいた三田村四郎などは、刑事犯であったということで低いランクの扱いを受け、「自立会」の庭掃除をもっぱらやらされ、政治的な論議の中には、入れてもらえなかった。

 完全黙秘、非転向という、非の打ちどころのない経歴を誇り、後にはこれを錦の御旗にして、党内で出世の階段を登ることになる宮本顕治や袴田里見らも、治安維持法違反のほかに、不法監禁致死罪とか銃刀法違反といった罪名がくっついていたために、昭和22(1947)年にマッカーサー総司令部から、政治的配慮に基づき公民権回復の措置を受けるまでは、随分肩身の狭い思いをして小さくなっていた。

 日本共産党の正史では、戦前の日本共産党員は、絶対主義的天皇制の圧制の下、特高警察の強烈な弾圧、拷問に屈せず、不撓不屈の戦いを展開したと繰り返し強調されている。

「アカ弁」という言葉がある。共産党員または共産党系の弁護士のことである。この「アカ弁」のリーダーの1人に、日本共産党の衆議院議員で青柳盛雄という人がいた。長野県出身で、正直で実直、竹を割ったような性格でずけずけと歯に衣を着せぬものの言い方をする人だった。彼が、確か日本共産党の党史が発表されたときだったと思うが、国会議員秘書をしていた私に、「戦前の日本共産党員が、特高警察に反対して不屈に戦ったなどという文章を読むと私なんかは恥ずかしくて顔が赤くなってくるよ」と言ったことがある。

 私が意外に思って聞き返すと、「誰それが逮捕されたという連絡がきて、警察へ駆けつけていく。せめて私が警察につくまでは頑張ってほしい、そう思って警察につくと、もうなにもかもしゃべった後だった。いつもそうだったなあ」と言う。

 もちろん、特高警察の厳しい取り調べに対して、頑強に戦って拷問され殺された野呂栄太郎のような人もいたことを日本共産党の名誉のために言っておかなければならない。しかし、このような人は、実は例外中の例外であり、ほとんどの党員はすぐに屈伏し、転向してしまったという。

 終戦当時獄中にいた約3000名の党員のうち、本当に非転向を貫いたのは数人以下だと言われている。宮本顕治が、「非転向の同志は、何人くらいだと思う?」と質問されて「オレとあと一人か二人だなあ」と答えている。山辺健太郎と春日庄次郎の2人のことだと言われている。

 この青柳盛雄が「私の知る限り、非転向を貫いたのは1人だけだ」と言う。私が「それは誰ですか?」と尋ねると、「宮本顕治だ」という答え。私が、「やはり、宮本顕治という人は相当な人物ですね」と言うと、「いや宮本君は転向できなかっただけだ」と言う。青柳盛雄の説明では、治安維持法違反一本で投獄された者は転向を誓うと、半年ほどの観察期間を経て仮出獄が認められた。ところが、宮本のように、治安維持法違反のほかに、不法監禁致死罪のような破廉恥罪の罪名がついていると、転向しようとしても制度的に仮出獄できないのである。殺人や強盗の罪を犯して監獄に入っている者が転向しましたと言って出獄できないのと同じである。 

 宮本顕治は、非転向を鼻にかけて威張り散らし、転向者(たとえば、中野重治)を痛めつけいじめ抜きながら、非転向の勲章をぶらさげて日本共産党の階段をトップまでよじ登ったが、実際には転向しようとしても制度的に意味がない立場にあったに過ぎない。宮本の、生涯のキーワードは、「災い転じて福となす」である。

 彼は不法監禁致死罪という罪のおかげで転向できなかった。そして、同志を査問にかけ、リンチで殺してしまったに過ぎなかったのに、治安維持法違反という罪を検事がつけてくれたおかげで日本共産党のトップにまで登りつめ、40年の長きにわたって、指導者として独裁、君臨することができた。

 宮本顕治の生涯には、「災い転じて福となす」場面が次々と現れてきて、実際、驚かされる。しかし、「最後に笑う者が、一番大きく笑う」ということわざもある。宮本顕治が最後に大きく笑ったかどうか、読者諸氏は、その顛末を知ることになるだろう。

 

2.宮本顕治の不満

 ともあれ、日本共産党の活動は再開された。その中心となったのは、府中の「自立会」に結集した徳田・志賀らを中心とする獄中組であった。宮本・袴田らも後にこれに加わるけれども、内心は大変不満だった。袴田の書いた「私の歩んだ道」によると、宮本は袴田に対して、何度も「君と僕が戦前最後の中央委員だ」と確認している。

 宮本は、戦後の党を再建する中心は、自分と袴田でなければならないと考えていた。宮本は、「宮本・袴田が戦前最後の中央委員会のメンバーであり、非転向を続けているのだから、この中央委員会は生きており、まず暫定的にでもこの中央委員会を拡充する形で党中央を構成すべきだ」と主張して徳田を激怒させた。

 また、後に党が分裂したいわゆる「50年問題」と言われる時期に宮本が書いた文書(「党組織の整備とケルン組織の確立は緊急重大な任務である」)には、「戦後党組織の再建に当たって我々が犯した誤りは、命をかけて党の輝かしい伝統を守ってきた中央委員が同志宮本、袴田をはじめ若干いたにもかかわらず、中央委員会の名によって党の再建が提唱されず、中央委員でない徳田球一を中心にいわゆる府中派と言われる同志によって、一応党の解体を是認した形でこれがなされたことである。この過誤の中には解党主義に通じる前衛党の組織原則上の根本問題がある」とある。これは、戦後の党再建は、宮本・袴田が中心になってやるべきであったのに、「徳田・志賀といった府中派(府中刑務所にいた人たち)が中心になってやるという、党の組織原則から言えば誤ったやり方でやったことに今日の混乱がある」という意味のことを、共産党用語を使って言っているのである。

 徳田と宮本の対立は、党再建のイニシアティブを誰がとるかという主導権争いに尽きるものではなかった。宮本にとってはもっと深刻な問題があった。「スパイ査問事件」である。

 かいつまんで、事件について触れておくと、昭和8(1933)年12月23日、当時日本共産党の中央委員だった大泉兼蔵、小畑達夫の2名が、宮本顕治、袴田里見らによって「特高警察のスパイ」容疑で査問され、査問中に小畑が急死し、その死因が激しく争われた事件である。異常体質によるショック死であったという説とリンチで虐殺されたのであるという説が今日でも対立している。

 宮本らはこの事件について、党内に潜入したスパイを摘発して党をスパイから守ったと主張するのに対し、徳田らほかの幹部はこの事件のおかげで党は潰れてしまったと批判した。この間の事情について、袴田は「私の戦後史」の中で次のように書いている。

 「宮本と私との関係ということになると、例のスパイ査問事件のことになるけど、この問題でも戦後まもなく、たしか第5回大会(昭和21年2月)前後だったが、幹部の会議で大議論になったことがある。死者を1人出したあの査問について、激しく非難したのは徳田球一だった。『不測の事態が起こり得るわけだから、あんな査問などやるべきではなかった。第一、あの2人がスパイだったかどうかもわからんし、たとえスパイだったとしても、連絡を絶てばそれですむことだった。ああいう形の査問はけしからん、実にけしからんよ』とガンガンやる。私も応戦した。『けしからんというが、たまたま結果ああなっただけのことであって、査問をやったこと自体は間違っていなかった。連絡を絶ったくらいですむことではなく、一定期間監禁しておかないと、同志のなかに被害者が出ることは避けられない。事情も知らないで何を言うか』つかみ合わんばかりの議論になった」

 宮本・袴田にしてみればスパイを党から追放して党を守った。それなのに、徳田からあれは余計なことであった、おかげでお前たちは党をぶっ壊してしまったと言われると、それこそ身も蓋もない話になってしまう。「スパイ査問事件」に対する徳田のこの評価は、あの陰湿な性格の宮本の心に、暗い怨念を刻み込むことになった。これが後には、党分裂の伏流となっていく。

 ただ、当時宮本は、徳田に対抗する一方の旗頭であったかというと、それほどの存在ではなく、指導者の中のその他大勢のうちの1人だった。志賀や外国の亡命生活から帰ってきた野坂参三、それに神山茂夫、中西功などいくらでも大物があり、それほど目立たない地味な存在であった。

 しかし、両者がかなり対照的な性格であったことは間違いない。

 徳田が沖縄生まれの、明るい陽気な性格の、ネアカな亜熱帯性共産主義者であったとすれば、宮本は山口県出身の陰気でむっつりした、ネクラな、どちらかというとロシアの共産主義者によくあるタイプであった。徳田はそのあけっぴろげで、ざっくばらんな性格で、大衆から圧倒的な支持を得たけれども、宮本が大衆から慕われたというようなことは、生涯一度たりともなかった。徳田にとって労働者や大衆は「同志」であり、「仲間」であったけれども、宮本は労働者や大衆の前にいつも、「指導者」「教師」として現れた。暗い、人を威圧するような雰囲気を身につけており、人から愛されたり、親しみを感じさせる男ではなかった。

 戦後共産党を研究するときには、党を構成していた党員の階級的出自を見ておかなければならない。戦後、特に終戦直後の党は、毛並みの良いエリート層の出身者と、逆に社会の底辺にはいつくばっていた、文字通り「被抑圧人民」との2つのグループによって構成される混成部隊であった。

 一方は、一高、三高を出た、東大、京大の学生、私学では慶大、早大の学生たちであった。学生運動の御三家は、東大、早大、京大と言われ、いずれにしてもマルクス主義で言うと「搾取階級」ブルジョワと地主の子弟が、「頭から」社会主義に入って、党員となっていた。これが、ある時期には、過半数を占めていた。

 他方は、在日朝鮮人、未解放部落の人たち、それに沖縄出身の琉球人である。これらの人たちは、差別や抑圧を社会でいやというほど体験して、いわば「体で」党に入った人たちであった。もちろんそれほどインテリというわけではない学校の教師とか公務員や、それほど抑圧されていたわけではない普通の労働者もいるにはいたが、現在のように多数派ではなかったのである。今回、私は戦前、戦中、終戦直後の党の状態を調べたが、在日朝鮮人の占める比率の高いのには驚かされる。ほとんど党の3分の1を占めていた。そしてこの「毛並みの良い」のと「悪い」のが陰に陽にせめぎあったのである。つまり、マルクス主義の言葉であっさり言えば、「階級制の違い」であり、俗に言えば肌が合わないのである。一方が他方を「青白きインテリ」「プチブル野郎」と罵れば、他方は「無学文盲の輩」とやり返していた。

 徳田は、琉球人であった。彼の公判記録を読むと、自分が琉球人としてどれほどひどい「民族差別」を受けたか、繰り返し訴えている。彼は戦前、終戦直後にもまだ沖縄の民族独立を考えていたくらいである。

 学生たちとりわけ東大生は、琉球人の徳田が党のトップとして指導権を握っていることを内心面白く思っていなかったので、折あらば引きずり下ろし、宮本を担ごうとした。当時「スパイ査問事件」の内容もよく知られていなかったし、「獄中10年」、非転向で頑張り、しかも理論家肌の宮本は、学生の目からすると、後光が差していた。

 徳田もその気配は察知しており、警戒を怠らなかったけれども、彼は、労働者や大衆の間で圧倒的な人気があって、宮本は到底徳田の敵ではなかった。

 

3.野坂参三という異物

 「獄中18年」の徳田球一と志賀義雄が府中刑務所から出獄したのは、昭和20(1945)年10月10日であった。徳田と志賀は連署して、「人民に訴う」という、俗に「10・10声明」と言われる7項目からなる出獄声明を発表した。

 「日本共産党出獄同志 徳田球一 志賀義雄 他一同」とあり、これは既に獄中で準備されたものであった。これを手回しよく準備していたことが他の出獄組の機先を制することになったと言われる。

 その1項目は「ファシズムおよび軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒が開かれたことに対して、我々は深甚の感謝を表する」とある。

 日本共産党は、戦後一貫して「アメリカ帝国主義」に反対して戦っていた、と考えている人が多いが、当初はアメリカの進駐軍を「解放軍」と規定し、「深甚な感謝」をしていたのである。日本共産党は自分たちが「獄中で戦って」日本軍国主義を打倒したかのように主張するが、支配階級は共産党員に戦われては困るので、「獄中」に閉じ込めていたのであって、「日本軍国主義」を打倒したのは、「アメリカ帝国主義」のヤングソルジャーであった。ちなみに、米占領軍は、日比谷の皇居前にあった第一生命ビルを接収して総司令部をおいた。徳田球一らはトラックに乗って押しかけ、「マッカーサー元帥万歳」を三唱したという噂話を何度も聞いた。このたび少し調べてみたが、これはどうも誤りのようで、実際には、大阪の堂島にある住友ビルを占拠していた第一軍団司令部前で「万歳」をやったのが誤り伝えられたらしい。これは袴田里見の著作に書かれている。

 昭和21(1946)年1月14日に、徳田球一と野坂参三が占領軍総司令部に呼ばれ、事情聴取を受けて帰るときの写真が残っているが、被疑者が取り調べでも受けて帰ってくるような写真で、気持ちの高揚のようなものは感じられない。

 昭和20(1945)年8月15日、日本は連合軍に降伏した。それから釈放される10月10日まで、政治犯の方に何の動きもないのも不思議である。ヨーロッパのレジスタンスのように、敗戦とともに外部から牢獄の壁を打ち破って、共産党員を奪還する動きもなければ、牢獄を内側から押し開いて脱獄する動きもなかった。それどころか、徳田球一は府中の刑務所で、仲間に対してひんしゅくを買わないように、整然として学習に励むよう訓示している。これではまるで借りてきたネコだ。日本共産党と占領軍の関係は、今日特に若い党員が考えているようなものではなく、日本共産党は連合国軍を解放軍として意識していたし、連合国軍の側には、日本を民主化するために一定の範囲で、共産党員を利用するつもりであったから、むしろ「持ちつ持たれつ」の関係にあったと見ていい。

 不破哲三「日本共産党に対する干渉と内通の記録」なる本を読むと、ソ連大使館に出入りしていた幹部の動静が詳しく書かれ、いかにも干渉とスパイ行為が存在したような書き方がされているが、終戦後、ソ連大使館どころか、アメリカ大使館にも、野坂、志賀、袴田、伊藤、神山といった人物が普通に出入りしていた記録がある。法制大学名誉教授で、米占領期の公文書研究で有名な袖井林二郎に直接聞いた話だが、当時日本共産党の情報が、総司令部に30分ごとに通報されていた記録があるという。全く驚くほかはない。

 「人民に訴う」の第3項目には、「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民共和政府の樹立にある。長い間の封建的イデオロギーに基づく暴虐な軍事警察的圧政、人民を家畜以下に取り扱う残虐な政治、殴打、牢獄、拷問、虐殺を伴う植民地的搾取、これこそ実に天皇制の本質である。かかる天皇制を根底的に一掃することなしには人民は民主主義的に解放せられず、世界平和は確立されない」とある。

 徳田も志賀も、日本中の共産主義者は、実際にここに書かれているような圧政が敷かれていたのは、当時の地球上ではスターリンのソ連のみであったことを知らなかった。

 日本共産党にとって天皇制の問題は戦前も戦後も悩ましい問題であった。戦前は天皇制政府の打倒を唱えたばかりに投獄され、それが心のトラウマとなっていた。獄中にいた人たちは、「32年テーゼ」を頭に氷漬けにしたまま出獄してきたが、その間の「獄中18年」で世界も日本も根本から変わっていた。

 だから、刑務所の外にあって、世界や日本の変化を知っている人が、戦後の指導者になるべきであるという意見もあったが、日本共産党では、革命的精神主義が圧倒的であって、「獄中何年組」が幅をきかせ、革命運動で苦労した人間が指導者になるべきだという意見が他を圧倒した。

 延安から帰ってきた野坂参三は少し別の考えを持っていた。政治制度としての天皇制と「国民の半宗教的崇拝の的」としての天皇制を分けて考え、前の方には反対だが、後の方には、「我々は用心深い態度をとらなくてはならない」という柔軟な考えであった。また、敗戦により、天皇制は大きな打撃を受けていたが、国民は天皇制打倒よりも、天皇制護持の気分の方がどちらかといえば強かった。

 しかし、野坂は徳田に押し切られた。野坂も長年の亡命生活で苦労したであろうが、俺は日本に踏みとどまって獄中で苦労したというわけである。

 面白い記録がある。米軍が捕虜になった日本兵を尋問した記録である。米軍の尋問に対し、最高指揮官や自分の上官を批判するものは相当いたけれども、天皇を批判するものが1人もいないことが、米軍を驚かせたのだ。戦後に制定された新憲法は、いわゆる「象徴天皇制」と言われ、明治憲法でいう「立憲君主制」から一歩後退したかに見える。これについて津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」という論文の中で、「歴史的な事実として、天皇が『親政』を行うことはほとんどなかった。そして国民と対立する地位にあって国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって、国民の意志を体現せられる」存在であるために、皇室の地位と民主主義とは調和し得る、と主張した。また、和辻哲郎は「封建思想と神道の教義」の中で、神道国教化の運動などから「天皇統治」の伝統を切り離し、「国民の全体性の表現者」としての天皇の存在意義を擁護している。

 要するに、「君臨すれども統治せず」の日本版が「天皇不親政」であり、むしろこちらの方が、天皇家の統治形態の本流だというのである。 

 平成5(1993)年、皇太子殿下と雅子妃殿下の結婚式があった。私は当時国会に勤務していて、たまたま日曜日であったが、出勤していた。パレードがあるというので、見に行った。沿道を埋め尽くした国民が日の丸の旗を打ち振り、どよめく歓声を聞いて、自分の共産党活動30年は一体何だったのかと考え込まずにはいられなかった。

 戦後60年、国民の深層意識の中に、「象徴天皇制」が定着し、支持されているように見える。英国やオランダの王制と民主主義とが矛盾しないように、「天皇制」も民主主義と何ら矛盾しないことが証明された。皮肉なことに、民主主義と矛盾するのは、共産主義である。旧ソ連や北朝鮮、中国に民主主義が存在すると考える人はどこにもいない。

 共産党が支配する「プロレタリアート独裁」の国にひとかけらの民主主義も存在しないことくらいは、今や明白である。

 「獄中18年」組が、18年前の思想を頭に凍結したまま監獄から出てきたことは先に述べた。彼らが獄中にいる間に、世界の共産主義運動に大きな思想的変化が起きた。

 それは昭和10(1935)年のコミンテルン第7回大会である。ディミトロフが指導したコミンテルンは、それまでのブルジョアジー対プロレタリアートという階級対立の図式に替えて、ファシズムに反対する統一戦線戦術という、より柔軟な戦術を採用した。ファシズムに反対する人であれば、誰とでも共同の行動をとろうというのである。味方の範囲をできるだけ広くして、敵をなるべく少なくして包囲するという戦術であった。

 徳田も志賀も、そして宮本も結局この思想をものにすることができなかった。昭和20(1945)年10月20日、10年8ヵ月ぶりで、「赤旗」が再刊された。先の「人民に訴う」に続いて、徳田・志賀の共同執筆による「闘争の新しい方針について新情勢は我々に何を要求しているか」という巻頭論文を掲載した。

 この論文で述べられた党再建の基調方針は天皇制の打倒だったが、そのためにはまず社会党をやっつけなければならない、という「社会ファシズム論」であった。

 ファシズムの社会的支柱となっているのは社会民主主義であり、これをまず打倒しないことには、ファシズムをやっつけることはできないという、まことに倒錯した論理である。徳田らは、社会党の本質はデマゴギーであり、戦時中天皇制を保持してきた軍閥と同根であり、賀川豊彦や水谷長三郎、西尾末広らは政治ゴロの親分であり、ダラ幹の元締めであり、戦争犯罪人であると、あらん限りの中傷、罵倒を頭から浴びせかけた。

 社会党を目の敵にして、終戦直後から社会党が解散・消滅するその日まで、自民党以上に攻撃をかけることが「赤旗」の通奏低音として鳴り響いた。

 もと「赤旗」記者で、Yという男がいるが、この男は日本共産党の「前衛」という雑誌に「社会党の右転落」という記事を書き続け、ついに宮本に認められて出世に及んだという。しかし、本来は「統一戦線」の相手となってもらうべき政党にどうしてそこまで攻撃を加えるのか、私などは不思議に思ったものだ。(以下次回)