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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 日本共産党の戦後秘史(その2)            平成29年1月15日 作成 五月女 菊夫


参考文献:「日本共産党の戦後秘史」 兵本達吉著(新潮文庫)

「『昭和の大戦』への道」  渡部昇一著

     「東アジア『反日』トライアングル」 古田博司著 中公新書

第1章 日本共産党戦前史(前回)

第2章「唯我独尊」の原点

4.革命幻想

  レーニンは、「革命の根本問題は、権力の問題である」と繰り返し書いている。その意味は、誰が権力を握っているかを正確につかみ打倒すること、そしていったん権力を獲得したら握って手放さないこと、これである。終戦直後の日本で誰が権力を握っていたかを振り返るため、ここで「天皇制」と「米占領軍」(GHQ)に触れてから、前に進みたい。

  私は平成10年(1998)8月、日本共産党から、「警察のスパイ」あるいは「警察のスパイになりつつある」という、晴天の霹靂というか、荒唐無稽というか、私にはまったく理解できない理由で、突如として除名された。党から除名されると、当然のことながら、党員としての制約はなくなるわけである。これまで、会ってはいけない人、党から除名された反党分子、つまり「敵の側」の人と会って話をすることができるようになった。また、これまで、こんな本を読んではまずいと言われていた本を自由に読むことができるようになった。ハイデガーも読んだ。仏教の本も読んだ。もう誰も「観念論」の本を読んでいるといって非難する人もいないからだ。私は党から除名されて、人間として解放され、随分と世界が広くなった。

  その広くなった世界で、最初に出会ったのが、すでに故人となっていたが、「石堂清倫(いしどうきよとも)」という人である。党から離れた人(つまり自分から離党した人)、除名・除籍された人のほとんどが絶賛しかつ尊敬していた人である。

  勧められるままにいくつかの論文を読んでみて、本当に驚いた。それほど明敏とも言えない私が、潜在的に考えていたこと、頭に浮かびかけては消えてしまったいくつかの考えが、くっきりと鮮明な文字で書かれていたからだ。

  石堂清倫は、私の知る限りわが国最大のマルクス主義知識人である。語学の天才で、英語、独語、仏語はもちろん、露語、中国語、伊語をこなし、「マルクス・エンゲルス全集」「レーニン全集」「スターリン全集」「グラムシ(イタリア共産党創設者)選集」の翻訳に大いに貢献した。

  だから我が国の左翼で石堂清倫のお世話になっていないものはいないと思われる。石堂は、グラムシ研究を通して、グラムシから影響を受けながら、様々な独創的な見解を公表して、世に(とりわけ、左翼の連中に)衝撃を与えた。

  その1つに、「転向」の研究がある。生涯の親友だった中野重治が、戦前転向して、心に深いトラウマを抱えていたこと、また、自分自身も転向(偽装転向?)に近い経験があったため、この問題に関心を集中した。

  彼は、昭和の初期に、大量の転向者を出したのはなぜか、と問いかける。

  「日本共産党史」によれば、警察の弾圧にも屈せず、不屈に戦った人たちのことが強調されている。もちろん拷問を受け獄死した人もいたことは紛れもない事実だが、しかしそれは例外であって、これを一般化するのは誤りであることはすでに述べた。

  石堂は、しかもその転向が、節操や忍耐力など道徳的欠陥のある下部党員から生じたのではなく、最も能力のある志操堅固のはずの最高指導部から発生したことを問題にする。転向が薄志弱行の部分ではなく、思想的にも組織的にも最も強固で、多年国家権力との闘争で鍛錬された部分から生じたのだから、転向の最大の原因は、「天皇制」に関する党指導部と上部団体であるコミンテルンとの原理的対立に求める他はない、と言う。

昭和7年(1932)、当時日本共産党の上部団体であったコミンテルンは、「32年テーゼ」という綱領を日本共産党に与え、その当時の日本の国家権力を、地主と資本家の支配とともに、さらにその上に君臨する絶対的天皇制であると規定し、これの革命的打倒を呼びかけた。これは、コミンテルンの執行委員だった、オットー・クーシネンが作成したものだが、当時の日本社会の経済構造を実証的に研究して下した結論ではなく、ロシアへやってくる日本の留学生や日本から送られてくる左翼文献の誇張された報告に基づいて作られたものだという。もともと「天皇制」という言葉は日本語になく、コミンテルンのつくった左翼用語であることを覚えておく必要がある。

  日本語の「天皇」は、ロシア語に翻訳すれば、「ツァー(皇帝)」ということになろう。ロシアの革命家からすれば「ツァー」を打倒しない革命などあり得ない。今から考えると実にたわいもない発想からつくられた「テーゼ」であったが、日本の共産主義者の間では、文字どおり「絶対的」なものとして受け止められた。

  日本共産党の歴史、とりわけ戦前の共産党員にとって、実は一番悩ましい、頭の痛い問題は、天皇制の問題であった。たとえば、野坂参三の青年時代の記録を読んでみると、彼が天皇制打倒というスローガンに、どれほど動揺し、躊躇したかがわかる。何とかこの問題を回避したいと考えていた。それは彼が臆病にも「正面の敵」との対決を恐れていたというよりは、こんなスローガンを掲げたならば、人民から支持されないだろうという極めて現実主義的な感覚の持ち主であったからだ。

  石堂は、天皇制打倒のスローガンを共産党員たちは一応表向きは受け入れていたが、国民大衆の間で実行に移す段になると、動揺と逡巡、そして回避が生じた、と言う。国民の支持が得られないことが、こうした消極的な態度の原因で、国民の支持があれば、どんな厳しい弾圧があっても、果敢に戦うことができたが、国民から孤立して、前衛集団だけで、事を起こす自信がなかったことが、転向の最大の動機となった、と書いている。

  そして、いずれにせよ実現性に欠けるスローガンのために、獄窓に朽ち果ててゆくことを人々が拒否したとしても、それを節操の問題にすり替えるのは政治的ではない、と石堂は結論している。

5.戦後も引き継がれた天皇制の認識

  ここまでが、石堂の見解で、この後は私が勝手に敷衍したものである。

  日本共産党は、戦前は「天皇制」を、戦後は「アメリカ帝国主義」を革命の「対象」として位置づけていた。

◎「日本において1868年以後に成立した絶対的天皇制は、無制限の権力をその掌中に維持し、一方で主として地主という寄生的封建階級に立脚し、他方ではまた急速に富みつつあった強欲なブルジョワジーにも立脚し、これらの頭部ときわめて緊密な永続的ブロックを結び、両階級の利益を代表してきた」

◎「天皇制は、国内の政治的反動と封建制の残滓の主要支柱である。天皇制国家機構は、搾取諸階級の現存の独裁の強固な背骨となっている。その粉砕は日本における主要なる革命的任務中の第一のものとみなされる」

  こうした「32年テーゼ」に述べられた「天皇制」についての認識と把握は、戦後もそのまま引き継がれ、宮本顕治が戦後昭和21年に執筆した「天皇制批判について」(「前衛」同年2月1日号)のなかで、「32年テーゼ」の命題をさらに敷衍して天皇制の廃止を強く主張している。

  この論文の中で宮本は、「制度としての天皇制の頂点に立つ天皇の一族は、それ自身大地主、大資本家である。彼らは、135万町歩の土地(山林・原野・農地・宅地)の所有者である。明治18年(1885)から明治23年(1890)にかけて、国有林から357万町歩を収奪し、その後整理して現在の所有面積になったとされている。日本の農家の平均耕作面積は一町歩内外であることを考慮に入れるならば、皇室が桁外れの大地主であることは明瞭だ。皇室所有の有価証券と現金は、3億3600万円以上と伝えられているが、これも今日では戦時利得によって決定的に膨張していることは疑いない。日本銀行21万株、横浜正金銀行11万株、日本郵船16万株、北海道炭鉱15万株を皇室が所有しているという記録は、一流資本家としての正体を端的に物語っている。皇室はこのように大資本家・大地主として、労働者・農民の直接の搾取者・略奪者である。このほか、美術品・宝石・金銀塊の所有高は15億円と推定されている。皇室が一流財閥に劣らない存在であることは、何人も否定することはできない」と書いている。

  終戦直後の天皇家(皇室)の財産状態は、宮本が素描しているところでほぼ間違いない。さらに言えば、「皇室が一流財閥に劣らない存在」であるどころか、三井・三菱といった大財閥のオーナーたちの約30倍の資産を有していた。 

  だが問題は、だから天皇家(皇室)は、労働者・農民を「搾取・収奪」するところの大資本家・大地主と言えるのか、ということである。

  明治憲法が制定された直後の皇室は、全くの貧乏所帯でほとんど財産らしきものを持たなかったので、明治の元勲たちが大いに心配して一定の「皇室財産」というものを設定しようとした。欧米流の民法が導入されて、国民の私有財産が所有権として承認されるようになると、国民の私有財産と天皇の財産を区別する必要が生じて、「皇室財産」の創設が認められることになったのである。

  皇室財産の7割が土地所有であり、そのほとんどは山林・原野である。それも「官有物のうち、先に幕府および諸藩の所有たりし山林」を「帝室に付し、もって非常の用に供すべし」として、皇室財産に編入されたものである。田畑などの耕地が含まれていないのは、小作争議など皇室と農民とのトラブルを避けたかったからである。

  皇室に一定の恒産がなければ、皇室は「皇室予算」によって、議会に支配され、「皇室の尊厳」を維持できない。そのため「皇室財産」を増やす必要が高まるのに従って、日本銀行株や横浜正金銀行株、日本郵船株などが政府から「与えられ」ていった。宮本が言うように皇室が国家の財産を「略奪して」取得したわけではない。

  以上に述べたことは、全くの歴史的事実そのものであるから、特に反論があろうとは思わない。しかし、このような事実が事実として承認されるならば、マルクス主義的にはたいへん重大な結論が生じてくる。戦前の日本社会の人口構成で、数から言って圧倒的な比重を占めていた農民が天皇家(皇室)から特段の搾取・収奪を受けてはいなかったという事実であり、労働者もまた、自分の会社の株を皇室が保有しているからと言って、特に天皇家(皇室)から搾取を受けているという認識には至らなかったという事実である。

  コミンテルンに使嗾された日本共産党が「天皇制の打倒」を呼びかけても、労働者・農民が革命的反乱(造反)に立ち上がらなかったのは、動機に欠けていたからである。戦前日本共産党は、天皇制政府打倒の旗印を掲げたけれども、労働者をはじめ、国民大衆の間にほとんど反響を見出すことはできなかった。

  反響を見出すどころか、国民に反発され、そっぽを向かれ、「非国民」「売国奴」として白眼視され、指弾された。そしてちょっと活動すると警察に通報された。

  我が国ではこれまで、転向というのは革命家の倫理、モラルの問題として、人間の節操の問題として提起されてきたが、石堂清倫はこれはもっと政治的な問題――実現不可能なスローガンを掲げたその非現実的な政治的スタンスにこそ、原因があったと喝破した。

  私ははじめ、石堂清倫のような人物を除名する党は駄目だと考えた、しかし、さらに考えてみると、インチキな非転向の勲章を鼻先にぶらさげ、それを錦の御旗に党内の階段を駆け上がった宮本顕治のような人物がトップに居座っている党に、石堂が占める場所はないように思われる。

6.誰が日本の権力を握っていたか

  日本共産党が、戦後再出発に際して、まずつまずいたのはこの問題での国民感情との乖離であった。「天皇制」の問題では党幹部、徳田、志賀、宮本らと野坂参三の間には明らかに意見の食い違いがあった。これはいわゆる「32年テーゼ」を監獄の中で氷漬けにして出獄してきた前者と、とにかく世間の空気を吸って生きていた野坂との違いのように思われる。

  野坂が党から除名されると、日本共産党はそれまで自らの憲法草案を「野坂草案」と言って天まで持ち上げていた事実を手の平を返すように否定し、野坂は「天皇と天皇家廃止でないスローガン、皇太子への譲位」という、天皇制の打倒を回避する妥協的な主張を行ったと激しく攻撃を始めた。

  「そして天皇を神と見なす宗教的機能なるものは、絶対主義的天皇制の政治的機能と一体不可分な迷信であり、天皇制の軍事的・警察的支配を美化し、侵略戦争を『聖戦』として合理化する役割を果たしてきた。宗教的機能と分離して考えること自体が妥協的なものであった」(『日本共産党の70年』)

  ここで言われていることは、コミンテルンと旧ソ連が昭和7年(1932)に日本共産党に出した「32年テーゼ」の思想そのものである。

  要するに、日本の天皇制とロシアのツァーリを同一視したのである。「万世一系」かどうか、私は歴史学者ではないので知る由もないが、日本の皇室が歴史と伝統の具現者であり、国民つまり下から相当強い支持を受けてきた事実を見落としているように思われる。

  外国の征服王朝とは少し違う。ロシアの皇帝ニコライ2世は、ドイツ人の妻を娶り、皇室ではフランス語やドイツ語が普通に使われた。

  その点野坂は柔軟かつ現実的である。

  昭和21年(1946)1月1日、天皇は詔書を発表して自らその神格性を否定された。そして2月19日から開始された天皇の地方巡幸は、2月には神奈川県、3月には群馬県と次第に範囲を広げた。初めて天皇の姿を見た国民は、涙を流した。庶民の前に天下ってきた天皇を見て、道路上に土下座して「おかわいそうに」と言って泣いた。それが新聞新語となって流行した。

  昭和21年(1946)4月10日、終戦後最初の総選挙が行われた。

  当時騎虎の勢いだった日本共産党は、わずかに5議席しか獲得できなかった。この頃戦略を転換したGHQが天皇制をクローズアップ、そしてそれに便乗した自由・進歩両党が、徹底して「国体護持」を唱えたことが、この結果を生んだ。明らかに日本共産党は、国民感情を読み違えていた。

  占領期において、誰が日本の権力を握っていたか?それはもちろんマッカーサーを最高司令官とするGHQであった。しかも、それは半端ではない絶対的権力であった。彼らは自分たちが必要とする建物があれば、情け容赦なく接収した。国鉄では、占領軍が必要とする物資については、時刻表を無視して列車を走らすよう強要された。これが敗戦というものだ。

  ところが奇妙なことに、日本共産党は、肝心要の「主敵」アメリカ占領軍は打倒の対象とはせず、敗戦で打撃を受けた天皇が敵であると主張していた。

  ミネルバ(知の象徴)のフクロウは、夕闇とともに飛び立つ。ことが終わってはじめて過ぎ去った時代精神を後からまとめることができ、歴史も総括できる。

日本共産党は、敗戦によって大きな痛手を受けた瀕死の天皇制政府に対し、国民がいわば固唾を飲んでその成り行きを見守っていたときに、その打倒を唱えて、国民の共感を得るどころか、却ってひんしゅくを買ってしまった。

  GHQはマッカーサーをトップとして左右両派によって構成されていた。右派の旗頭G2(情報局)の長チャールズ・ウィロビー少将と、左派GS(民政局)の長コートニー・ホイットニー准将で、ことあるごとに対立を繰り返していた。それは、彼らの政治的出自の違いによる。

  昭和4年(1929)、ウォール街の株の大暴落が引き金となって世界恐慌が勃発、世界の経済は大混乱に陥った。そこで景気対策のためニューディール政策を引っ下げて登場したのがF.D.ルーズベルトであった。当時アメリカのブルジョアの子弟が通う、ハーバード大学やエール大学でも、マルクス・レーニン主義が花盛りであった。彼らは当然反政府的で、政府機関への就職は好まなかった。ところが太平洋戦争が始まり、またドイツ・ナチズムに対してアメリカが宣戦布告をするや、ファシズムと戦えとばかり、政府の機関に潜り込み始めた。だから第2次世界大戦が終わった頃、アメリカの政府機関は多数のマルキシストを抱えていた。

  GHQの内部ではニューディール左派と言われた人たち、GS(民政局)のホイットニーと同局次長のケーディス大佐グループがそうであった。

  彼らは日本の民主主義者、社会主義者、そして労働運動などに対して大変好意的で、激励と助言を与え、便宜を供与した。現在の日本国憲法は、マッカーサーのスタッフが書いたものだとされているが、この憲法原案を書いたのは、ホイットニーやケーディスなどのGHQ進歩派であった。そのほか、このグループには労働問題専門家のコーエンや、農地改革をやったラジンスキーらが含まれていた。

  他方、GHQ内部の保守派としては、まずトップのマッカーサーがいた。彼は青年将校時代、シカゴの労働争議を騎馬隊で蹴散らして頭角をあらわしたと言われている。名うての反共主義者で、後の朝鮮戦争では、グアム島に20発の原爆を持ち込み、北朝鮮はもちろんのこと、中国やソ連まで空爆することを計画した。

  このマッカーサーの下にいたのが、ウィロビー少将である。ドイツのハイデルベルクで生まれたユダヤ系のドイツ人で、対独戦を戦った後、陸軍参謀大学で教官となり、マッカーサーに傾倒していることが知られ、マッカーサーに招かれて参謀となった。

  この人物は諜報の専門家で、占領期におけるいくつかの謀略事件に関与したとされるが定かではない。右派とされる人たちは人脈的には、トルーマン大統領の流れの人たちであった。しかし、右派も最初から左派と対立していたわけではない。

  両派とも、日本の軍閥・財閥を解体し、軍人はもちろん、当時の主な政治家、官僚、実業家を公職から追放し、農地を解放、農村から地主を追放して、日本を軍事的に無力化するとともに、「民主化」しなければならないと考えていた。そこでそのためには民主主義者や社会民主主義者はもちろんのこと、共産主義者についても、「民主化のための必要な範囲で利用する」ことにした。

  昭和20年(1945)、治安維持法の廃止、治安警察法の廃止、全政治犯の公民権回復を指示など、矢継ぎ早に、政治犯の解放措置が取られた。しかし、続々と労働組合や進歩的政党が結成され、戦後第1回目のメーデーには、50万人の労働者が集まって、「反動政権打倒、民主人民政権の樹立」などと勢いよく叫び始めると、占領軍も心配になってきた。

  しかも、第2次世界大戦の終了後、直ちに東西冷戦がはじまった。昭和21(1946)年3月には、チャーチルが米国フルトンで「鉄のカーテン演説」をし、そして5月には早くも対日理事会(連合国軍最高司令官の助言機関)でアメリカ代表のアチソンが「共産主義を歓迎しない」という反共声明を発表、占領軍と日本共産党の蜜月はあっけなく終わってしまう。民主化のため一定の範囲内で利用するけれども、「限度を超え始めると弾圧する」という方針に切り替わったわけである。

  戦後アメリカから民主主義を与えられ、「自由」を保障され、日本共産党も大いに盛り上がったが、一片の通達であえなく息の根を止められてしまったのである。

  日本共産党は、よく革マル派とか中核派といった過激派が警察に泳がされている、という言い方をする。しかし、占領直後の日本共産党も占領軍に泳がされていただけであることが今日になってみれば明白である。

   

7.代行された民主主義革命

  詳細は別の機会に譲るが、戦後共産党史を研究して気がついた最大の「発見」は、GHQによる戦後日本の民主的改革と言われるものが、その内容においても、武力を背景にした実力に基づいて強行された点でも、「革命」と呼ぶにふさわしいものであったという点である。

  その内容たるや、戦前の共産党が「民主主義革命」と呼んだものを、内容においてもスケールにおいてもはるかに上回るものと言っていい。ただ、革命の主体は外国(の軍隊)であり、下からではなく上から行われ、日本国民は革命の対象に過ぎなかった。こうした歴史的事実を、右翼はもちろん左翼の論客も正視しようとはしない。民族のアイデンティティにかかわる問題であり、何よりも日本人のプライドが許さないからである。

  真珠湾の攻撃後、わずか数ヶ月で米国務省に日本問題の研究家がかき集められ、「日本班」が結成されて本格的な日本研究が発足している。この間の経過については、加藤哲郎の「象徴天皇制の起源」に詳しいが、日本の国家権力の源泉として天皇制が把握され、財閥が軍部と結託して軍国主義を煽動していること、農村を支配している地主階級が農民に対して封建的搾取を行っているが、地主に隷属させられた農民は天皇制を支持していることなどを、アメリカは早々に喝破していたのである。

  日本が軍事的に敗北して、「ポツダム宣言」を受諾すると、戦後日本は極めてドラスティックな変革を被ることになった。GHQはマルクス主義の革命的教義とは全く無縁であったにもかかわらず、昭和20年(1945)8月から 、昭和26年(1951)9月アメリカサンフランシスコで講和条約を締結するまでのわずか6年の間に、戦前の共産党の革命的打倒の対象であった「絶対的主義的天皇制」も、この天皇制を支える「財閥」「地主制度」も転覆してしまう。

  GHQは共産党員を含む政治犯を監獄から解放し、共産党を含む社会主義政党にその自由な活動を保障して、活発な活動を促した。しかし、その活動が次第に過激化して、共産主義革命に向かおうとするや、一転してブレーキ(弾圧)に転じたことが示しているように、共産党の活動も所詮はGHQが許容する範囲内のものにすぎなかった。

  本書の最大のテーマは、どうして日本共産党の目指した「革命」が失敗・挫折を来たしたかを示すことであるが、その根本的な原因は、戦後日本の労働運動がGHQの指導の下で組織され 、資本主義の枠内での「改革」にとどまり、「革命」を指向するにいたらなかったこと、また革命運動の同盟軍である農民、特に小作人、貧農が農地改革によって土地を手に入れて「革命」に背を向けるようになったことにある。

  ロシア革命や中国革命では、共産党は土地を持たない数億の農民の土地に対する渇望をテコにして暴動を起こし、権力の奪取に成功した。そしてこの「民主主義革命」の成功をテコにして、いわば歴史の前進にターボをかけて、「社会主義革命」へと前進した。

  日本では、労働者に権利を与え農民に土地を与えたのは米軍であったため、労働者・農民の感謝は米軍に捧げられ、日本共産党は人民の支持を自分のまわりに結集して革命勢力(主体)を構築することができなかった。

  史家は、これを「勝ち取った民主主義」をもじって、「負け取った民主主義」などと称したり、「上からの」「外からの」革命、とか「誘導された」改革とか、様々な説明を試みているが、最も非民主主義的な組織である軍隊(GHQ)が一国の「民主主義革命」を指導した、言ってみれば、「代行」してしまったというような例は、世界史に前例がない。

  その後日本共産党は、紆余曲折をへて、第8回党大会(昭和36年)に党綱領を定め、「米帝国主義」を日本の労働者階級と農民の階級的な「敵」と規定し、その革命的な打倒を呼びかけることになるが、土地を与えられた農民にとってはもちろんのこと、労働者にとっても、アメリカ(帝国主義)は敵とは思えない存在であった。

  このような歴史的経過をみてくれば、日本共産党が、戦後の出発点において革命を推進する力とダイナミズムを欠いていたこと、その挫折と革命の流産は避けがたいことであったように思われる。

8.支持者拡大のピークは「食糧メーデー」

  戦後の労働運動、社会主義運動の関係資料を読んでいると、暗い気持ちにさせられるもの、バカバカしいもの、虚しい気持ちにさせられるものが多い。

  しかし、唯一の救い、唯一の光として肯定的な気分になるのは、終戦直後から数年間の、厳密に言うと昭和20年(1945)から昭和24年(1949)までの間の労働組合の結成(たたし暴力的でない)と高揚である。

  戦時中、戦争と軍国主義によって抑圧されていた国民には、敗戦とはいえ戦争が終わり、一種の解放感があったのであろう。今まで抑えられていたものが爆発した。それが労働者の場合、労働組合の結成という形をとった。

  大阪で貿易を営んでいた我が家に、遠い遠い親戚のものだと言って、鉄道労働者が訪ねてきた。家族や従業員が、何か汚いものでも見るような目つきで眺め、金か物を与えると追い返してしまったのを覚えている。戦前の日本では、労働者は明らかに2級市民であり、ほとんど人権など認められていなかった。戦後の労働運動の高まりの中で、労働者の労働条件は飛躍的に改善され、労働者の社会的地位も向上した。近代的な労使関係が確立された。私はこのことが、後日の日本経済の高度成長を労働者の側で支える前提条件を作り出したものだと考える。

  さて、戦争が終わると、まるで雨後の竹の子のように労働組合が結成された。破竹の勢いであった。「労働組合の組織化は短期的に飛躍的な発展をとげ、昭和20年末には全国で505組合38万が組織されて戦前の最高水準にせまり、昭和21年6月末に、12,006組合、368万人という規模に達した」(『日本共産党の70年』)

  共産党は昭和20年12月の第4回大会で「全国的単一的産業別組合の結成」を呼びかけた。「産業別組合を基盤に産別会議の結成準備が開始された。しかし、戦前、天皇制軍部に追従して労働組合の解体に手を貸した松岡駒吉、西尾末広ら反共右翼社会民主主義者は、財閥の指導者の協力ももとめながら、昭和21年1月には、いち早く、日本社会党の支持を前提として、戦前からの反共主義、労使協調主義の路線をひきついだ日本労働組合総同盟を事実上発足させた(同)」

  共産党系のあるいは容共派の労働組合つまり産別会議と、反共である社会民主主義系の日本労働組合総同盟の、2つの系統の労働組合が生まれた。この2つの流れの労働組合が絶えず競合、対立し合いながら、戦後の労働運動を形成した。

  そして日本共産党は、ついにただの1度も日本の労働運動を統一することも、その主導権を握ることもなかった。つまり、日本共産党は全体としての労働者階級を把握できなかった。日本共産党は労働者階級の党であるというのは共産党が自分勝手に言っているだけの話で、日本の労働者階級は共産主義に対してむしろ拒絶反応を示した。日本で社会主義運動が結局失敗に終わったのは、そのためである。

  戦後再出発した日本共産党が燎原の火のような勢いで伸びたのは、昭和21年5月19日の「食糧メーデー」までと言われる。このデモには25万人が参加した。このときまでの半年間、日本共産党はいたるところで労働組合を結成して、敗戦と経済混乱のなかで経営意欲を失ったり、操業するより資材をヤミに流して儲けようとたくらんだりしている経営者を相手にして、「生産管理闘争(後述)」を展開する一方、各地で旧軍需品などの隠退蔵物資摘発闘争を行い、急激に支持者を広げていった。

  戦後の労働組合運動は、この「生産管理闘争」に始まるが、この闘争方式をあみ出した元祖は誰かという面白い論争がある。それは獄中の徳田球一、志賀義雄らであるという説と、「読売争議」の中で鈴木東民や増山太助らが実践的にあみだしたものだという説がある。

  「赤旗」再刊第1号に掲載された徳田・志賀共同執筆にかかる巻頭論文「闘争の新しい方針について…新情勢は我々に何を要求しているか」のなかで、「独占資本の生産管理」が指示されていた。

  この論文によると、「生産管理」(事業主が工場閉鎖などをした場合、労働者が事業の経営を自己の手に収めて経営を継続すること。戦後の日本で労働争議の手段として用いた。-広辞苑-)は、終戦後の労働運動の最初の原型として、徳田、志賀らの日本共産党によって指導され、これがやがてゼネスト(全国全産業全労働者が一斉にストライキを行うこと。-広辞苑-)に移行し、人民政府樹立を目指した政治闘争に発展していったという。

  ところが鈴木東民は、後日インタビューに答え、「イタリアの労働闘争史のなかに、生産管理という争議手段があったが、この生産管理を日本ではじめて実験したのは、我々がやった読売争議である。共産党の徳田球一は、牢獄の中で生産管理を考えたと言うが、獄中は退屈だろうから、素晴らしい構想も浮かんだであろう。思いついた時期にあとさきはあっても、『登録』はこっちが先だから、お気の毒ながら、「専売特許」をお渡しするわけにはいかない。ただし、我々は、争議中は、経営管理と読んでいた」と語っている。

  鈴木東民が言っているように、「生産管理」は、確かに日本では前例のない労働争議のやり方であったが、この「生産管理」がGHQと吉田政権を刺激し、終戦後日本の労働運動を育成しようとしてきたGHQを、「読売争議」を境に一転して、労働運動抑圧の方向に変えてしまう導火線となった。

  終戦後の労働争議が、「生産管理」から「ゼネスト」に移行し、革命前夜の興奮を盛り上げた「2.1ゼネスト」を機に、急転直下、GHQによる「赤旗」への弾圧方針を固定させた。

  どうしてこの「生産管理」が、GHQや吉田内閣を強く刺激したかを見ておこう。

  元々「読売争議」というのはこういうことだった。戦後、報道機関、とりわけ新聞社のなかで、戦時中の報道に関連して戦争責任を追及する声が出た。そして、会社の経営者、編集幹部などは責任を取らされて、次々と追放されていった。朝日でも毎日でもあっさり退陣してしまった。しかし、読売だけは、経営不振に陥った読売に請われて経営立て直しにやってきた警察出身の反共の豪傑、正力松太郎が頑として応じない。そこで記者との対立が深まり、労働争議に発展していった。

  結局、編集はもちろん、印刷、発送、給料の支払いを労働者(記者)が引き受けることになる。要するに、労働者が経営を管理したわけである。鈴木東民らは、「別に会社を乗っ取ったわけではない。正力らが反省して帰ってきて、民主主義の要求を受け入れさえすれば、経営は返してやる」と言っていた。しかし、GHQや日本の保守層から見れば、危険な事態であったことは容易に想像できる。

  このようにして、「食糧メーデー」の直後に出された占領軍最高司令官マッカーサーによる団体的暴力否認の声明「暴民デモを許さず」や、対日理事会でのアチソン米代表による反共声明、さらにその直後に生まれた吉田茂内閣の出現で事態は一変した。

  吉田内閣が成立するや、直ちに占領目的違反取り締まり令と生産管理禁止法を制定し、国鉄大量首切り、「読売争議」の弾圧、さらには労働関係調整法の強行成立など保守勢力立ち直りのため必要な施策が矢継ぎ早に打ち出された。

  吉田首相は、「2.1ゼネスト」直前の年頭所感で、労働組合指導者を「不逞の輩」と呼んで憚らなかった。

  この時代には、労働組合以外にも、農民を組織化して日本農民組合(日農)が再建され、未開放部落の人たちを糾合して、後に部落解放同盟に発展する部落解放全国委員会が結成された。また日本共産党は中小商工業者に対して反税闘争を煽り、それを軸にして、全国商工団体連合会を組織した。また、青年組織としては共産青年同盟と、学園民主化を求める全学連などが結成された。

9.革命前夜を思わせた「2.1ゼネスト」

  吉田内閣の元でも国民の暮らしは苦しく、生活の改善を求める運動は引き続き拡大した。昭和21年(1946)8月と9月の海員、国鉄の大量解雇反対闘争は成果を上げ、押し戻すことに成功した。電産を中心とする10月闘争の勝利をへて、同年12月から、国鉄、全逓を含む官公庁労働者を中心に、国民の生活危機突破を要求する「2.1ゼネスト」が準備された。

  それまで産別会議との統一行動に反対していた日本労働組合総同盟も、当時の国民の気分に押され参加することになった。さらに社会党左派も加わって「倒閣実行委員会」がつくられ、さらには、全国のほとんどすべての労働組合が参加して「全国労働組合共同闘争委員会」結成された。

  何しろインフレは恐ろしいスピードと猛威をふるって日本全土に広がっていた。雑草のごとき庶民は、耐えがたきを「竹の子生活」(竹の子の皮をはぐように、衣類その他の所有品を売って生活費にあてる暮らし。特に第2次大戦直後に言われた。-広辞苑-)で耐えていた。そしてこの「竹の子生活」さえ危機にさらされ、餓死寸前の淵に追いやられた。もうイデオロギーもヘチマもない。次には何が起こるかしれない。国民はとにかく突破口を求めていた。

  ところが、米国政府占領軍は「2.1ゼネスト」の前夜の昭和22年(1947)1月31日、「現在の日本の困窮した事態において、かくも恐るべき社会的武器の行使を許さない」とする声明を発表して、このゼネストを禁止した。

  全官公庁共闘議長、伊井弥四郎はゼネスト中止のラジオ放送を強制された。伊井は「私は今、1歩退却、2歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして日本の労働者・農民のため万歳を唱えてこの放送を終わることにします。労働者・農民万歳!我々は団結せねばならない。」声涙ともにくだる演説で「2.1ゼネスト」は未遂に終わった。

  徳田球一はこの直後「このスト中止命令ではじめて厚い雲に覆われていた空が晴れて、自分たちの頭の上にある本当の敵が誰か、労働者階級にはっきりわかった。このことこそ大変な成果だ」と語っている。これは徳田一流の開き直りであると同時に、半ば本音であったと思われる。とにかく「敵」が見えてきたというわけだ。

  伊井の涙の放送によって、「2.1ゼネスト」は終わったとはいえ、当時日本共産党本部に勤務していた党員は、「とはいうものの、スト気分が盛り上がっていくうちに党本部内には革命前夜のような雰囲気が生まれた」と書き残している。

  この年の4月に総選挙が行われ、日本共産党がわずか4議席であったのに対し、社会党はなんと143議席を獲得して第1党となった。そして社会党は民主党、国民協同党と連立して、党首の片山哲を首班とする内閣をつくった。また片山内閣の成立に先立って、それまで日本共産党を含む統一戦線を支持してきた社会党左派の指導者鈴木茂三郎、加藤勘十は、5月15日「共産党とは一線を画する」という絶縁声明を発表して統一戦線に背を向けた。

  こういうといかにも社会党が背信的な行動をとったように聞こえるが、実はこの頃、日本共産党では伊藤律を中心として、社会党に対して最も政党として不信義、不徳義な政治工作が行われていた。社会党への潜入工作は、党の最高方針として、徳田、野坂、伊藤ら政治局の直接指導の下に行われた。伊藤が白羽の矢を立てたのは、松本健二という、戦前は全協(日本労働組合全国協議会の略称。昭和3年に非合法で結成された左翼労働組合の全国組織。日本共産党の指導下で最大12000人)の活動で不屈の戦いをやったということで高い評価を受けていた男であった。工作指名を受けた松本は、すぐ社会党に入党し、左派のグループの5月会の事務局長になった。

  片山内閣は、結局5月会の反乱によって予算委員会の採決に敗れ、退陣することになる。片山内閣が潰れ、芦田内閣ができると、彼は社会党を割って出た容共派のつくった労農党の事務局長として、徳田や伊藤と連絡をとりながら芦田内閣の内部で内閣転覆のために動いた。日本共産党は口を開けば、社会党の反共主義が統一戦線の成立を妨げ、日本の社会主義運動の前進を阻んだと言うけれども、実際は権謀術数を尽くして、社会党政権の転覆を図っていたのである。

  私が大学生の頃、京都大学に猪木正道という政治学の先生がいて、反共の政治学をやっていた。私たちはよく野次りに行ったものだ。猪木先生は講義の合い間によく脱線して、共産党の悪口を言った。そのなかで秀逸だったのは、「共産党と統一戦線を組む奴などいるかい、それは抜き打ちの名人と闇夜を歩くようなものだからだ」というのがあった。私のような代々木派も反代々木派も、大きく口を開けて、「アハハハ」と笑ったのを覚えている。

10.冷戦の巨浪が押し寄せる

  社会は騒然として揺れ動き、人心が動揺し、不安でおどろおどろしい時代がやってきた。この時代を理解するキーワードは「東西冷戦」である。それは第2次世界大戦が終わるとヨーロッパとアジアでほとんど同時に始まった。

  東欧諸国ではスターリンがソ連型の共産主義体制を押しつけ始めた。チャーチルは「鉄のカーテン演説」で「バルト海からアドリア海まで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが下された」と演説してアメリカが資本主義体制擁護の先頭に立つよう求めた。

  これを受けて米大統領トルーマンは、昭和22年(1947)3月の議会演説で「トルーマン・ドクトリン」を発表した。これは資本主義体制を維持、拡大するための闘争宣言であった。

  一方アジアでは、昭和20年(1945)ベトナムでホーチミンが独立を宣言。昭和23年(1948)北朝鮮では、ソ連のスターリンによって金日成を首相とする共産傀儡政権が樹立された。中国では昭和22年(1947)には、蒋介石の国民党政権支配に反対する革命戦争が全面化した。フィリピンでは共産系の地下組織フク団の反乱が始まり、マラヤでも陳平共産党の反乱がおこった。

  しかし、アジアでの最大の緊張要因は、昭和24年(1949)10月、毛沢東の中国革命の勝利と朝鮮半島での南北対立であった。

  この冷戦をさらに加速させたのはスターリンによる「ベルリンの封鎖」であった。昭和23年(1948)6月24日、強力なドイツの復活を恐れていたスターリンは、ソ連の占領下にあった東ドイツを完全に支配下に置くため、米、英、仏、ソの共同管理下にあったベルリンの道路、河川、運河をすべて遮断し始めた。

  ベルリンは古来ヨーロッパのヘソと言われ、東西交流の要所であった。トルーマンはこのヨーロッパの心臓部をスターリンに取り込まれてしまって大きな衝撃を受けた。第3次世界大戦の危機が迫っていた。アメリカと英国は「空の架け橋作戦」に打って出た。一日5000トンの食料と石炭を空からベルリンに送り込んだのである。

  ヨーロッパでもアジアでも東西冷戦の温度計は上がりっぱなしとなり、冷戦はまさに熱戦に転化しようとしていた。

  当時の日本列島は、たとえて言えば、世界的な冷戦という巨浪のまにまに翻弄され漂う小舟のようなものであり、日本共産党ごときにいたっては一枚の木の葉に過ぎなかった。

  日本国内では、昭和23年(1948)12月、米占領軍によって「経済安定9原則」が発表された。それは(1)経費の削減により総予算の均衡をはかる、(2)徴税計画の促進と強化、(3)賃金の安定をはかる、(4)重要国産原料と工業製品の増産――などといった内容であった。日本共産党は直ちに書記局の声明を発表して、支持を表明した。 

  だが、翌昭和24年(1949)3月、この「9原則」の具体化のためマッカーサーの経済顧問として招かれたデトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジは、この年の政府予算を「超均衡予算」と称して、公務員数の2割削減を盛り込んだ(ドッジ・ライン)。そしてこれを実行に移すため、5月には行政機関職員定員法が制定された。

  予定された整理人員は、現業2割、非現業3割で合計約26万人である。

一方、首を切られる労働者の側はどうであったかというと、この年の1月に総選挙があり、吉田茂の率いる民主自民党が264議席となって単独過半数を占める圧勝だったが、日本共産党もその前の4議席から9倍の35議席を獲得し、「大躍進」を遂げた。わずか35議席に有頂天になった日本共産党は、いよいよ革命情勢の到来とばかり、革命の共同幻想にとりつかれてしまう。

11.9月「革命」説

  地平線の彼方から、むくむくと黒い雲が湧き上がってきた。「革命」という雲である。

  昭和24年(1949)3月か4月頃、9月には保守党政府が潰れ、人民政府が樹立されるという説が流れた。それはまことしやかにささやかれ、噂が噂を読んで、次々と広がっていった。党内では1月の総選挙の頃からしきりに言われていたらしい。3月に御茶ノ水医師会講堂で民主主義科学者協会の全国大会が開催されたとき、講演に立った山田勝次郎が、「いろいろ困難はあるが、もう半年もすれば、人民政府が生まれる。困難にめげず、今は政治活動に励むべきである」という党科学技術部のメッセージを披露した。かなり高度な知識人党員でさえ9月革命説に感染していたとしたら、党影響下の大衆にどんな作用をしたか押して知るべしである。日のないところに、煙は立たぬ。この年のメーデーで徳田球一が「わが共産党は、9月までに吉田内閣をぶった押すために大運動を展開している」とブっている。

  また同年6月22日の「アカハタ」には野坂政治局員(当時)の「国会活動の報告」という記事が出ている。その中に「政府は9月頃に臨時国会を開くと言っている。その国会で何をやろうとしているかというと、税制改革と大衆弾圧法の提出である。我々にとっては次の国会は吉田内閣を墓場に追い込む国会だ」。1月の、予期もしなかった日本共産党の「大躍進」と、徳田や野坂らのホラ話に煽られて、大衆の夢が上昇気流となって空に舞い上がり、革命という雲に結実したのである。

全国の労働組合は次第に「9月革命説」という白昼夢にとりつかれ、革命夢遊病が広がっていく。

 

12.先鋭化する徳田球一と宮本の対立

  革命の黒い霧は本当にやってきた。

  昭和25年1月6日、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)機関誌「恒久平和と人民民主主義のために」が、オブザーバー署名で「日本の情勢について」を発表した。この論評は、野坂参三の「占領下における革命の平和革命論」、つまりアメリカの占領下においても平和的に人民政権ができるという考え方は、「帝国主義美化の理論」であり、「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない反愛国的・反人民的な理論である」と決めつけ、極めて厳しい調子で批判していた。

  徳田球一書記長ら指導部は当初、「デマだ」とうそぶいていたが、本物の批判とわかると慌てふためき、政治局の名前で「『日本の情勢について』に関する所感」を発表した。コミンフォルムの指摘する野坂論文の解放軍規定や「平和革命論」は不十分であり、欠陥を含んでいることは認める。しかし、それらは既に実践においては克服されている。日本の党が置かれている条件の下では、占領軍や占領政策に対する批判が許されず、「奴隷の言葉」を使わざるを得ないのである。このような現実を無視して、諸外国の同志が日本の党を批判することは、党と人民に重大な損害をもたらす――と主張した。

  この様な主張を支持する徳田・野坂ら主流派・多数派は、その後「所感派」と呼ばれるようになる。ところが、昭和25年1月17日、中国共産党機関紙「人民日報」が、社説「日本人民の道」でコミンフォルムの論評を支持し、日本共産党を批判すると、党内はテンヤワンヤの大騒ぎとなった。野坂らの所感派を、「誤りは既に克服されているゆえに、このコミンフォルムの結論に不同意であるとするが、それらの理解と態度は正しくなく、妥当ではない」と指弾し、「今日の日本のように、アメリカ帝国主義の支配下で勤労人民を獲得するのは、ただ一つ、重大な革命的闘争によってのみ成し得るのであり、この闘争の中では、議会は単に一つの補助的手段に過ぎない。すなわち、敵を暴露する演壇でしかないのである」と主張した。

  この記事によって徳田は、1月19日「所感」を撤回、野坂も「平和革命論」を自己批判し、全会一致でコミンフォルムの論評受け入れを決議して、とりあえず事態を収拾したのである。

  このコミンフォルムの日本共産党批判に絶好のチャンスとばかり飛びついたのが、志賀義雄と宮本顕治である。国際共産主義とスターリンの権威を利用して奪権闘争にのりだし、徳田指導部を揺さぶったのである。

  徳田は宮本が戦前、同志の小畑達夫にスパイ容疑をかけて査問し、リンチで死に至らしめたとして逮捕されながら反省せず、それどころか獄中非転向だと威張っている姿をみて腹を立てていた。宮本は宮本で、伊藤律を重用し、自分を全く評価しようとはしない徳田を恨んでいた。

  時はきた。宮本は昭和25年に雑誌「前衛」で「コミンフォルム『論評』の積極的意義」なる論文を発表して、まず「レーニンは『妥協について』で、革命の平和的発展の問題について触れているが、『歴史上極めて稀な、極めて価値ある可能性、例外的に稀な可能性』と規定している。敗戦後の日本の情勢は、このような『歴史上極めて稀な事態』に属しているとは言えない。そこで、ロシア革命を歴史的に類推して、日本革命の『平和的発展』を類することは、根本的な誤りとなる」と野坂の「平和革命論」をバッサリ切って捨て、さらに「したがって、議会を通じての政権獲得の理論も同じ誤りであることは論を待たない」とまで言い切った。

  さらに勢いに乗って、「我々は特に、同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、コミンフォルムの加盟者であることを明記しておく必要がある。同志毛沢東が言っているように『ソ同盟共産党は、我々の最良の教師であり、我々は教えを受けなくてはならぬ』」。さらに「コミンフォルムは、一つの友党以上のものであり、世界の革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」とスターリンとコミンフォルムを天まで持ち上げ、「これに対する認識の態度において、わが党員の中には、ブルジョア民族主義的な、狭く、正しくない態度が見られる」と主張した。

  当時中央委員で後に除名された亀山幸三は、「宮本や蔵原惟人(くらはらこれひと)の言うことは単純明快で、国際的権威に従え、日本の運動はあげて国際共産主義運動の基本ラインにおいていささかもズレるべきではない、ということに尽きた」と書いた。哲学者の野田弥四郎は、この徳田に対する反対は、「スターリン的教条主義の盲信者」であったから、「『国際派』と呼ばれたが、正確には『国際盲従分子』と言うべきだ」と述べている。

  徳田は「志賀・宮本は実践運動に傍観者的態度を採りながら、国際批判を利用して自分がいい子になろうとしている」と激怒した。このようにして、「論評」をめぐる「所感派」と「国際派」の対立は、激しい意議を通して、党組織の在り方とか幹部の人間関係まで遡上に乗せる内部闘争、権力闘争に発展していった。指導的幹部の感情的な対立、不信感はもはや抜きがたいものになった。

 

13.党史に記せない闇

  平成15年(2003)1月、日本共産党は、党史「日本共産党の80年」を発行した。共産党の党史はその時々の党内の実権を誰が握っているかを示す鏡である。昭和13年(1938)、スターリンの直接監修によって発行された『ソ連邦共産党史小教程』という本がある。以後15年間に世界で約4300万部発行されというこの「共産主義のバイブル」によれば、ボルシェビキ以外のすべての党派は、革命の裏切り者、敵であり、レーニンとスターリンのみが正しい卓越した指導者で、トロツキー、ブハーリン、ジノビエフ、カーメネフらはすべて外国のスパイ、人民の敵として描きだされている。

  「日本共産党の80年」の前には「日本共産党の70年」という党史が出されている。これは宮本史観で貫かれており、日本共産党の歴史、とりわけ戦後史は、宮本顕治という太陽を中心に回転しているかのように描かれ、事実を知る者が読めば、思わず吹き出す類のものである。ここでは、徳田も野坂も志賀も袴田も伊藤も消え失せ、名前や顔を出すときは裏切り者、反党分子としてのみ現れる。

  これに対して今回の「日本共産党の80年」は、宮本が党の実権を既に失っていることを思わせる内容となっている。名前が消え失せたわけではないが、宮本の活躍は、しばしば控えめに、ときには固有名詞抜きで書かれている。

  日本共産党を持ち出したのは、実は過去何度も出された党史で、常に触れられない部分があるからである。日本共産党のブラックホール、闇に閉ざされた部分である。

日本共産党の党史には、必ず「50年問題」とか「極左冒険主義の時代」という言葉が出てくる。「50年問題」とはどんな問題か、「極左冒険主義」とはどんな冒険なのか。部外者にはわからない。いや、党員でもその時代を経験した者でないと理解できない。

  そして、徳田主流派の人たち、その多くは除名されているが、彼らは「極左冒険主義」ではなく「軍事方針」とか「軍事闘争」という言い方をする。要するに、この時代を特徴づける共通する言葉さえないのだ。その闘争の実態をかみ砕いて言えば、交番に火炎瓶を投げ込んだり、警察官を殺害したり、水滸伝の山賊よろしく「山村工作隊」と称して山に立てこもったり、漁師の船をかっぱらって「人民艦隊」と称したり、地主を襲って金品を強奪したり、「トラック部隊」と称して会社財産の盗奪を図ったり、要するに、共産党の非合法活動の時代、テロと暴力革命に専念していた犯罪的愚行の時代のことである。

  党にとっては、これは書くわけにはいかないものである。だから、党史からオミットしてあるのである。オミットしているだけではない。白を黒、サギをカラス、白猫を黒猫というふうに、事実をあべこべに、逆さまに描き出して、党史を改竄している。

  とはいっても、この時代を客観的に書くことはかなり難しくなっている。当時「活躍」した「革命家」には故人になっている人が多く、健在でも、この時代のことは語りたがらない人が多い。半世紀以上が経っていてもまだ「総括」しきれないという人も多い。あれほど暴れ回っておきながら、「いったい何だったのか、自分でもわからない」というわけだ。

  当時の新聞などをめくると、暴れ回っていた様子が断片的にはわかるが、全体像については極めて理解しにくい。

  最近、左翼文献の収集・研究家で社会運動資料センターの渡部富哉が、故人となった革命家の親族から頼まれて何万冊という蔵書を整理していたところ、「極左冒険主義」の時代に法務省や検察庁が捜査した際の資料押収した資料が山ほど出てきた。それぞれ部外秘の判が押してあり、その革命家がどこで入手したものかはわからない。

  私のあくまでも個人的な推理だが、検察庁の相当な身分の幹部が、密かに自宅に持ち帰っていたものではないだろうか。その人が亡くなった後、遺族が蔵書の処分に困り、一括して古本屋に売却したところ、その中に紛れ込んで世間に流失したのではないかと思う。

  この資料の山により、日本共産党「極左冒険主義」の時代の研究が進むであろうが、これまでの研究は「木を見て森を見ない」ものがほとんどであった。瑣末的なことを詳しく書いたものや個人的な心情を吐露したものは多いが、秘密の地下活動をしていた時代なので一握りの党指導部の者しか全体像を知らない。

  この時代を理解するためには、「東西冷戦」という言葉がキーワードであると冒頭に書いた。「東西冷戦」はアジアでは朝鮮半島に焦点を結びつつあった。それは冷戦から朝鮮戦争というまさに熱戦へと転化しつつあった。ソ連が崩壊し、秘密公文書が公開され、アメリカでも冷戦時代の文書が公開されて、冷戦時代の事情がますます明らかになってきた。

  「極左冒険主義」の時代とは、昭和25年1月から昭和30年7月までの約5年半のことであるが、この時代が「朝鮮戦争」と表裏一体の関係にあることが、推理・推測ではなく具体的に、証拠に基づいて解明されるようになった。

  日本共産党は、党創立以来つねに、反共主義者や民族主義者から「ソ連の手先」「売国奴」「民族の逆賊・裏切り者」「走狗」として、非難・罵倒されてきた。

  ソ連をはじめ、全世界で共産主義が崩壊して、「社会主義者の祖国ソ連邦を守れ」とか、「労働者・農民の祖国ソ連邦を守れ」といったスローガン、そして「プロレタリア国際主義に基づく兄弟的な援助」などといった戯言が雲散霧消した今日、もう一度当時の状況を見直してみると、これらの指摘が的を射たものであったことがわかる。

スターリンや毛沢東など国際共産主義運動の指導者にそそのかされて、「日本の運動の必然の所産ではなく、きわめて人為的な色彩の強い」(不破哲三)「破壊活動」をやってのけたのである。

  次章では、暴力革命の党となった日本共産党について語ろう。

【人物評伝③ 野坂参三】

 とにかく政治家、いや革命家の評価をするのはむつかしい。敵か味方かによって評価は、正反対になるからである。野坂参三も毀誉褒貶相半ばするどころか、「二重、三重いや、四重、五重のスパイ」と革命家としての全人生を否定するもの(小林俊一・加藤昭『闇の男野坂参三の100年』から、野坂の「転向」や「スパイ」疑惑に柔軟な解釈を試み、そうした疑惑を解きほぐそうとする弁護論(和田春樹『歴史としての野坂参三』)まで、幅広い評価が存在する。

 野坂参三は明治25年3月30日に山口県の萩市の商家に生まれ、神戸高等商業に学んだ後慶応義塾にすすみ、在学中友愛会に加盟して労働運動に参加するようになった。卒業後は専従の活動家になり、大正8年友愛会の派遣で英国へわたり、ここで英国共産党に入党したことがきっかけになって、帰国後日本共産党に入党した。日本労働総同盟の仕事をしているときに、野呂栄太郎と出会い、マルクス主義の影響を与えたとも言われている。

3.15事件(昭和3年3月15日、日本共産党員ら約1600名を全国一斉に検挙した事件-広辞苑-)に巻き込まれて逮捕されたが、「目の病気」を理由に釈放された。この釈放の理由に疑問があるとして、除名された元共産党副委員長の袴田里見が追及したが、多分これは袴田の曲解であろう。当時の共産党では、適当な言い逃れをしたり、転向を約束して逮捕を免れる(偽装転向)ことは普通に行われていたというから、転向説には疑問がある。この釈放を経て昭和6年、妻の龍を伴って密かにソ連に入国した経緯にも疑惑があるとされるが(特高警察が野坂参三をソ連に派遣したという説さえある)、袴田あたりがばらまいたデマの類であろう。

 モスクワでは、すでに亡命していた片山潜や山本懸蔵などと、日本共産党の代表として活動した。コミンテルンでの最大の仕事は、昭和7年に戦前の共産党の党綱領ともいうべき「32年テーゼ」の作成に片山や山本とともにかかわったことであるが、しかし、実際にはオットー・クーシネンが執筆したもので、日本人党員はせいぜい「参考意見」を述べたにとどまるものと思われる。昭和11年2月には、野坂参三と山本懸蔵が連名で「日本の共産主義者への手紙」を書いて、「日本の当面の情勢は、天皇制軍部ファシズムたちが、侵略戦争の準備の遂行のため、専制支配を強化し、国民の自由と権利を抑圧している」として国民に対して決起を促す檄を飛ばした。

 この時期の野坂の活動についての情報は限られていたが、ソ連の共産主義が崩壊して秘密の公文書などが公開されると、野坂参三がNKVD(ソ連の秘密情報機関)に山本を「密告」して、それが原因となって、山本の銃殺が執行された経緯が明らかになった。野坂はこれを理由として、平成4年、満100才になって日本共産党から除名された。この点では野坂に弁護の余地はないように思われるが、実際の背景には、野坂が外国へ出張している留守中に山本が野坂の妻・龍をレイプしたことへの怨恨があったという証言もある。また、山本自身も日本からソ連に亡命していた数人の同志を密告して死に至らしめており、「30年代のソ連」とはそういう時代だったというか、もともと「共産主義の世界」はそういう世界であったとしか言いようがないのであって、筆者としては判断を差し控えたい。

 その後昭和9年、野坂はアメリカへわたり、在米日本人の共産主義者の間で活動を行った。また、アメリカ共産党とも接触していたことは知られている。実際の活動内容については、筆者は野坂に直接質問したことがあるが、笑って答えなかった。野坂がこのとき作成した在米日本人党員のリストに掲載され、後にソ連に亡命した党員の全員が粛清されたことも現在では明らかになっている。

 野坂の政治思想で興味深い点は、戦前も戦後も「天皇制」についてユニークな考えを持っていることである。統治機構としての天皇制は反対するが、国民が天皇に対して抱いている宗教感情にも似た感情については国民の判断に任せるというもので、コミンテルンの「絶対主義的天皇制」批判とは明らかに距離をおいている。これを、国民が「生きた神様」(現人神)と考えている天皇の革命的打倒を呼びかけても意味はないという野坂の現実主義とみるか、それとも正面の敵との対決を避ける日和見主義とみるべきか、宮本らは後者の見方を採っていた。

 昭和15年には、当時中国共産党の拠点となっていた延安に赴く。中国共産党と一緒になって、中国側の捕虜となった日本兵を再教育し、昭和19年2月に日本人民解放連盟を結成して、日本帝国主義に反対する活動を行った。戦後、昭和21年1月12日に帰国し、26日には日比谷公園で帰国歓迎大会が開催され、これが戦後民主運動の1つのハイライトとなったことは既に述べた。府中刑務所から解放されていた徳田球一らと合流し、日本共産党の再建のため活躍した。

 戦後初の衆議院総選挙で東京1区から当選し、新憲法制定の審議に参加したが、憲法草案については、これは国の自衛権を否定するものだとする立場から反対した。野坂私案と言われる憲法草案を発表して、「人民主権」を主張したとされるが、共産党の「人民主権」と「主権在民」でいう「国民」とは全く別個の概念であり、共産党の憲法草案が現行憲法の主権在民につながったなどと言うのは、全くの牽強付会である。

 昭和25年には、コミンテルンからその平和革命論をこっぴどく批判され、自己批判するとともに徳田らとともに所感派の指導者となり、さらにGHQからレッドパージを受けて地下に潜り、中国に渡って同地から武装闘争をした。この武装闘争が失敗に終わると、昭和30年帰国して国際派と和解し、6全協で武装闘争路線を否定して、第一書記に就任。昭和31年に東京選挙区から参議院議員に当選し、昭和52年まで4期にわたって参議院議員を務めた。

 昭和33年に党の議長に選出。同じく書記長に選出されたのは、宮本顕治である。昭和57年7月の第16回党大会で退任し、以後名誉議長だったが、平成4年にソ連時代の旧悪を指弾され解任、その後除名処分を受けた。

 平成5年1月14日、老衰により亡くなった。「瞳の澄み切った眼」という表現があるが、野坂の瞳にはいつも霞がかかっていたこと、話をするとき相手の目をまっすぐに見ることを避けているという印象を筆者は受けたが、だからといって、野坂はスパイであったとまで断定するつもりはない。

第3章 武装蜂起の時代

1.「50年問題」

昭和23年9月9日、朝鮮半島北部のソ連占領地域で、いわゆる朝鮮民主主義人民共和国がソ連の傀儡政府として成立した。首相には、スターリンの面接試験に合格した金日成が任命された。翌昭和24年3月、38度線を挟んで武力衝突が頻発する。金日成はスターリンを訪ねて、軍事援助を求める。同時に南進(武力統一)の許可を求めるが、アメリカとの衝突を恐れるスターリンは、このときは消極的な態度を示している。この間中国共産党の人民解放軍の進撃が続き、4月には南京を占領。そして10月1日、毛沢東が主席として北京で中華人民共和国の成立を宣言した。11月世界労連のアジア・太平洋労組会議(北京)で、中国の劉少奇が「人民戦争」方式をアジア・太平洋地域に広げると宣言した。昭和25年2月モスクワで、中ソ友好同盟相互援助条約が調印された。

  ここで、注目すべき新聞報道に触れておこう。それは、昭和25年2月15日付のパリ発、ニューヨーク・タイムズ特派員ザルツバーガー記者の特電と、同日付のワシントン発、AP通信のハイタワー記者の特電である。ザルツバーガー記者は、スターリンと毛沢東がモスクワで会談し、『中ソ友好同盟条約』を結んだこと、そしてその日秘密のメモランダムをスクープした。AP通信のハイタワー記者は、米政府筋の情報として、中ソ両首脳が朝鮮半島ないしは台湾海峡での有事を視野に入れて、日本共産党を武装させる合意に達したと伝えている。

   そして昭和25年3月、金日成が訪ソしてスターリンから南朝鮮への侵攻への同意を得た。

   他方アメリカは、早くも昭和24年の6月に、朝鮮半島の動きを察知して、北朝鮮専門のスパイ機関・KLO「韓国連絡事務所」を設置、北朝鮮の政府や軍から、膨大な情報を入手していたという(萩原遼著「朝鮮戦争」)。

   つまり、ソ連も中国もアメリカも、朝鮮戦争の1年前に朝鮮戦争が始まることをつかんでいたのである。そして、双方とも、日本が韓国軍と米軍の後方基地となることを明確に認識していた。だから米占領軍は、団体等規制令で共産党員を登録させ、レッドパージに利用した。

   また、昭和25年6月には、米占領軍は、日本共産党中央委員24人全員の公職追放を指令、翌日「アカハタ」編集委員など17人を追放した。

   他方、ソ連も中国も朝鮮戦争の準備をしていたので、コミンフォルムの論評という形で、「占領下での平和革命」などと言っている能天気な日本共産党に警告を発したわけである。

   ところで、友人の黒坂真一から連絡があって、名古屋の共産主義研究家の宮地健一という人が、インターネット上にHPを開いて、この時代の研究成果を発表しているという。早速読ませてもらったけれども豊富な資料と情報に加え、的確な分析をしているのを拝見して、思わず脱帽してしまった。同時になんとなく肩から力が抜けてしまった。分析の仕方、そこから出てくる結論、いずれも私の結論と酷似しており、もし私がこの研究を知らずにこの原稿を書いていたら、剽窃の疑いさえかけられるところであった。宮地氏本人の了解を得たうえで、氏の研究成果を踏まえて、「50年問題」を書いてみよう。

   「50年問題」とは昭和25年1月から30年7月の約5年半の期間、党が分裂状態にあった時代に起きたことである。しかし、先にも述べたように、この時代を特徴づける統一された呼称さえない。宮本国際派は「50年問題」とか「極左冒険主義」という言い方をするが、徳田主流派は「軍事方針」とか「軍事闘争」という言い方をする。

   『日本共産党の70年』は、「日本共産党の50年問題とは、第6回大会選出の中央委員会が、昭和25年6月6日のマッカーサーの弾圧を機に徳田球一、野坂参三を中心にした『政治局』の分派活動によって、解体・分裂させられ、全党が分裂と混乱に投げ込まれた深刻な事態をいう」と書いている。

   また、共産主義研究家の来栖宗孝は「『50年問題』は、1950年1月以降、それまで伏流としてあった党内の意見の相違が次第に露呈され、それが昂進して公然たる分裂となり、各国共産党に例を見ない大分裂・大抗争となった事件のことである」と書いている。

   当時日本共産党の内部で、徳田主流派と志賀・宮本国際派がそれぞれ、どれほどの勢力を持っていたか正確にはわからない。しかし、徳田主流派が7対3くらいで多数派を占めていたことは間違いない。

   元来共産党には、少数派とか、少数意見などというものは存在しない。少数派は必ず抹殺される。共産党が権力を握っている場合には、どこの国であれ、少数派を殺してしまう。

   徳田球一は、昭和20年(1945)の出獄以来、粘り強く陰湿に自分の権力を狙っていた宮本を警戒し、嫌悪していた。

   宮本国際派は、奪権を狙って、徳田主流派に対し「意欲日和見主義」とか「民族主義」「チトー主義者」と執拗に攻撃した。2年前にユーゴスラビアの党が、コミンフォルムから除名されたばかりであり、「チトー主義者」という名の下に、東欧各国の共産党では、ソ連による粛清が行われていた。したがって、徳田球一らはこうした自分に対する批判を聞き捨てにできないと感じたことは容易に想像できる。

占領軍による弾圧が迫ってきたことを、伊藤らを通じて察知した徳田球一らは、いち早く自分たち主流派の幹部だけで地下に潜ってしまった。

   宮本・志賀らは「おいてけぼり」を食らい「干されてしまった」わけである。

   しかし、これをもって党の分裂などと言うのは大げさな話で、徳田にしてみれば、執拗に自分のすきを窺う宮本に、地下に潜る際にお誘いするだけの気持ちにはなれなかったのであろう。こんなことは単なる感情の対立に過ぎない。

   宮本顕治が党の指導権を握り、次第に党内での地歩を固めるに従い「50年問題」に関する評価は微妙に変化をはじめ、『日本共産党の70年』で頂点に達することになる。そこには、なんと徳田や野坂「分派」が党を分裂させたという記述が現れるのである。

   しかし、いくら徳田と志賀が憎いと言っても、彼らを「分派」と言うのには少し無理がある。先に書いたように徳田主流派と宮本国際派の力関係は、一般党員レベルでは9対1、専従活動家レベルでは、せいぜい7対3くらいで、「分派」はむしろ宮本の方であった。

   日本共産党では、「50年問題」と当時の「極左冒険主義」に基づく軍事闘争を説明するのに窮して、「党が分裂していた当時、分裂していた一方の側がやったことで、現在の我々の預かり知らぬことである」といって責任を回避する。これは全く通用しない議論である。

   ある会社が罪や不法行為を侵す。そして社長が退任する。そこで次の社長になった者が、「あれは前の社長がやったことであり、しかも自分は前の社長とは仲が悪かった。だから、我が社は責任を取ることができない」と主張しても、世間では全く通用しないであろう。

2.朝鮮戦争の一部だった日共の軍事闘争

  昭和26(1951)年8月、またしても、晴天の霹靂が国際派の宮本らの頭上に降りかかってきた。コミンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義のために」は、第4回全国協議会(4全協、1951年2月)の「分派主義者に関する決議」を支持し、宮本らを「日米反動を利する」分派活動として非難した。

  当時は、ほとんどの党員が国際盲従分子で、国際的権威に弱かった。そこで5つほどあった分派組織が、自己批判書を持って党に復帰したのである。しかし、党、つまり主流派は自分たちに反抗した連中を容易に許そうとはせず、徹底的に痛めつけた。そのために、数万人の党員が党から去って行った。

このとき、宮本顕治も、志田重男の下に、「自己批判書」(経過報告書であるという説もある)を3回も書き直しを命じられながら提出して復党を認められたのである。

  この後、火炎瓶闘争など、日本共産党の軍事闘争が始まるわけであるが、宮本顕治はこのときすでに党に復帰していたのである。従って、軍事闘争つまり「極左冒険主義」は、分裂していた一方が勝手にやったものだなどと主張することは、宮本の性格的な特徴である、ウソと欺瞞に満ちた責任回避以外の何ものでもないだろう。

  このコミンフォルムの論評もスターリンの関与の下に作成されたものであり、『日本共産党の80年』によると、一連の会議は、昭和26(1951)年4月~5月に数回行われた。会議には、徳田、野坂、西沢の「北京機関」幹部が呼ばれ、中国共産党の代表も参加した。

  そこで、日本共産党の党内問題について、スターリンは4全協を支持して、宮本らを「分派」とする裁定を下した。スターリンは自ら筆を入れた最終決定「51年綱領」を日本側に押しつけたのである。5全協の「軍事方針」もスターリンが朝鮮戦争の「勝利」の展望と結び付けて問題提起し、それに基づいて具体化された。

  この会議には袴田里見も参加した。宮本らのグループが自分たちこそがスターリンに最も忠実な正統派であるとアピールするために派遣したのだが、スターリンの一喝に遭うと袴田はへなへなと腰が砕け、あっさりと徳田派に転向してしまった。この点については、後で詳しく触れる。

  それにしても今にして思えば、袴田にしても、野坂にしても、宮本にしても、このあと出てくる志田にしても、よくもまあこれだけクズのような人間が寄り集まった政党があったものだと慨嘆せずにはいられない。

  閑話休題。スターリンは「軍事方針」を朝鮮戦争の勝利の展望と結びつけて提起した、と書いた。そうなのである。日本共産党がその後展開する「軍事闘争」も結局、朝鮮戦争と表裏一体となった「軍事作戦」であった。

  みじめでこっけいな結果に終わったので、「軍事作戦」などと書くと大げさに聞こえるけれども、やはり日本共産党という政党が、正面切って戦略と戦術を練り、打って出た武装闘争であり、武装蜂起であった。

  私は人を笑わせるために「(日本版)人民戦争」とも言っている。

  これまで、「50年問題」(軍事闘争)について書かれたものを読むと、朝鮮戦争がこの問題が起こったときの「環境」として描かれている。しかし、朝鮮戦争が「環境」だったのではなく、「軍事闘争」が朝鮮戦争の一部分だったのであって、朝鮮戦争のためスターリンや毛沢東などによって後方撹乱として企画せられたものである。この点をしっかり押さえておかないとこの問題の核心をつかむことはできない。

  宮地健一は、朝鮮戦争をソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党という社会主義の国の党と日本共産党という資本主義国の党の4党による合作としてとらえている。これは、「50年問題」のこれまでの理解に一歩踏み込んだ解釈を持ち出したもので、傾聴に値する見解である。しかし、ここまで断定すると、日本共産党は何か積極的に、いわば主体的に朝鮮戦争に参加したような印象を与える。実は日本共産党は朝鮮戦争が計画されていることを事前に知らされていたわけではなく、昭和25年(1950)6月25日、戦争が勃発して初めて知ったのである。しかも、北朝鮮による南進(侵略)であることを知らず、1980年代までアメリカが戦争を仕掛けたと信じていた。

  日本共産党は、スターリンや毛沢東の支持を受けて、金日政が仕掛けた南北武力統一、革命戦争、朝鮮国内戦争に体よくのせられ、片棒を担がされたというのが正しいのだと思う。結果的には、一翼を担わされたわけだけれども、最初からそのつもりでやったわけではない。(以下次号)