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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

『日本を滅ぼした統帥権の分裂』     平成24年8月19日 作成 五月女



1.参謀本部と軍令部の分裂
  若い世代だけではなく、年配世代の日本人も、日本軍には統一司令部がなく、今次の大戦を陸海軍それぞれにバラ
バラに戦ったと知り、驚く人が多い。統帥権の独立は知っていても、統帥権の分裂は意外に知られていない。「大本営
は?」と、つぶやくのだ。1880(明治19)年、陸海軍を統合した参謀本部が設立された。陸軍参謀総長が海軍参
謀本部を統括した。すぐに陸主海従だと海軍の不満が噴出した。激論の末に「海軍軍令部条例」が制定され、平時にあ
っては陸海軍は対等となった。しかし同時に「戦時大本営条例」により、戦時には陸軍参謀総長が全軍を指揮する事と
なった。首相はもちろん、この他に5元老が加わり、政戦一体の戦時体制が執られる事となった。日清戦争はこの態勢
で戦う事が出来た。辛うじて間に合ったのである。そして1903(明治36)年12月21日、「戦時大本営条例」
は改定され、戦時にあっても陸海軍は対等となり、日本軍なるものは統一司令部を失う事になった。この2か月後に、
日露は開戦した。

2.東条英機の暗夜の慟哭と遺言
  ハルノートに接した日本は、1941(昭和16)年12月1日、開戦日を決定する御前会議を設けた。開会の直
前に、東条英機首相は杉山元(はじめ)参謀総長から「どうも海軍はハワイをやるらしい」と耳打ちされた。「何!ハ
ワイ?…話が違うではないか!」と、東条首相は激怒している。と言うのは同年11月15日、開戦は避けられないと
追い詰められた日本は「大本営政府連絡会議」において戦略を策定していた。それは「対英米蘭蒋(介石)戦争週末促
進に関する腹案」(杉山メモ)に明らかである。
  
  第1段階 南方作戦
       諸資源を確保し、長期不敗、戦略自給の態勢を確保する。
  第2段階 西亜作戦
       インド洋を制圧し独伊と連絡を確保する。インド洋制圧により英米の補給を断つ。これにより英を脱落
       させる。インド独立のため2個師団を派遣する。
  第3段階 インド独立により、対蒋援助物資を断つ。蒋脱落により百万の兵力の自由を回復する。日本近海の諸島
       の要塞化と航空化を進める。
  第4段階 対米講和に備え国力を充実させる。以上の目途を昭和17年の秋とする。

 この「腹案」の中にハワイ作戦などは影も形も存在しない。だから「話が違う」のである。開戦前夜、首相は暗夜の
公邸で慟哭している。翌朝、首相は真珠湾攻撃の成功をラジオのニュースで知る。ミッドウェーの敗戦も首相は知らな
い。一年ほど後に仄聞(そくぶん)するのである。サイパンの防衛は当然に遅れた。真珠湾攻撃もミッドウェー作戦も
山本五十六司令長官の「私戦」に過ぎない。山本権兵衛海軍大臣と山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大で
ある。日本の勝機はインド洋の落日と共に沈んだ。以下は東条首相の遺言の最後の項である。
 「…あれでは陸海軍一本の行動はとれない」
                                  (H22「史」11号より)









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