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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 関東大震災・朝鮮人虐殺事件の真相                  平成25年9月15日 作成 正岡 富士夫


1 時代背景
(1) 関東大震災前の5年間(大正7(1918)年~大正12(1923)年)のおもな出来事
                                                                 第1表
国内政治・経済・社会等 朝鮮半島 支那 欧米
大正7
(1918)
米騒動勃発・寺内内閣退陣
シベリア出兵
原敬内閣成立
孫文が広東軍政府樹立 ロシア革命
大正8
(1919)
ベルサイユ条約調印普選運動 斉藤実総督就任
高宗死去
三・一運動
渡日制限
五・四運動 コミンテルン結成
大正9
(1920)
経済恐慌、ストライキ多発
第1回メーデー
国連加盟(常任理事国)
梨本宮方子女王李王家に嫁す
間島事件
地方制度改正
産米増殖計画
広東軍政府崩壊 尼港事件
国際連盟成立
カ州排日法
大正10
(1921)
原敬暗殺
ストライキ多発で軍隊出動
友愛会から日本労働総同盟へ改組
ワシントン会議
日英同盟破棄(四国条約成立)
孫文が広東政府総統
支那共産党結成
ナチス党結成
大正11
(1922)
株価暴落・不況慢性化
日本共産党(非合法)結成
海軍主力艦制限条約
シベリア派遣軍撤退

上野平和博覧会開催
日本農民組合結成
水平社結成
水力電気調査開始
渡日制限解除
奉直戦争 ワシントン軍縮条約
ソ連邦成立
ムッソリーニがローマへ進軍
大正12
(1923)
第一次共産党事件(堺利彦逮捕)
石井・ランシング協定廃棄
日本 の中国における特殊権益の
承認と、中国の領土保全・門戸
開放・機会均等を定めた1917年
の日米協定
21カ条廃棄を要求日本拒否
孫文が大元帥となる
仏等がドイツのルール占領
  赤:共産党情勢青:経済不安情勢緑:国際政治情勢の変化


(2) 日韓併合と朝鮮人虐殺事件

 日本の朝鮮統治に対する理解と朝鮮人虐殺事件の真相に対する判断は深く関連している。日本が武力を背景に強引に併合し、朝鮮人に対する苛酷な植民地支配を行い、全 朝鮮人の恨みをかっているために、大震災の混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしても不思議ではないと多くの日本人が思いこんでおり、その日本人の思いが、朝鮮人による 強盗、放火、強姦などの暴力犯罪が発生したとの根拠なき流言蜚語が伝えられる原因となったとするのが朝鮮人虐殺肯定説の主たる論拠となっている。
 事実にこだわる(?)ノンフィクション作家といわれる吉村昭 は、その名著(?)『関東大震災』(昭和48年)において次のように記述している。
 1吉村昭 昭和2年(1927年)~平成18年(2006年)。東京生まれ。1966年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や 『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表。日本芸術院会員。

《大地震が起こってからわずか3時間ほど経過した頃、すでにその奇怪な流言は他の様々な流言に交じって人々の口から口へと伝わっていた。それは「社会主義者が朝鮮人と 協力し放火している」という内容であった。
 その流言は、日本の社会が内蔵していた重要な課題を反映したものであった。
 第一次大戦以後、資本主義化の過程をたどっていた日本は、最大の難関を迎えていた。
財閥は資本の蓄積につとめることに狂奔し、庶民の生活は極度に圧迫されていた。 それに対して政府は、軍部の要請にもとづいて明治以来の富国強兵策を政策の中心に据え、財界との連携を深めることに終始していた。
 そうした政治姿勢に対して庶民の不満は募り、米騒動をはじめとした運動が全国的に広がっていた。が、政府はこれらの素朴な反発を根本的に解決しようとすることはせ ず、官憲による弾圧でそれに対した。
 そのような歪んだ社会情勢のなかで、明治後半にきざし始めた社会主義運動は活発化し、政治結社が続々と結成され、全国各地でストライキも頻発していた。
当然政府と 軍部は、社会主義運動を敵視した。その運動の拡大は国家形態の破壊を促し、庇護されている財界を混乱させることに通じるからだった。
 政府は、官憲を駆使して社会主義者に苛酷な弾圧を試み、大地震の起こった3か月前の6月5日には、第一次共産党員の検挙を実施した。そして、庶民に対し、社会主義者 は国家秩序をくつがえす恐るべき意図を抱いていると宣伝し、一般庶民も運動家を忌避する傾きが濃かった。
 朝鮮人に対する日本民衆の感情は、社会主義者に対するものと異なっていた。
 日露戦争勃発後、日本は大陸からの軍事的脅威を緩和させるため朝鮮を重視し、明治37年2月には日韓議定書を締結した。この議定書は日本が朝鮮を従属させる第一歩と なったが、強圧的な日本の態度に朝鮮国内の日本に対する反感は高まった。
 さらに日本政府は、強大な武力を背景に朝鮮を保護国とすることを企て、伊藤博文を初代統監とする統監府を設けて内政をすべて掌握してしまった。そして、明治43年8 月には、最後の手段として強引に朝鮮を日本領土として併合したのである。
 このような日本政府の行為は、朝鮮国民を憤激させ、朝鮮各地に暴動が発生したが、日本政府は軍を派遣してその鎮圧につとめさせた。
 日本政府は朝鮮を領有することに成功したが、
朝鮮人の憎悪は募るばかりで伊藤博文がハルビン駅で安重根に射殺されるなど各種の事件が続発した。
 日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、日韓議定書の締結以来その併合までの経過が
朝鮮国民の意思を完全に無視したものであることを知っていた。また統監府の苛酷 な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れ込んできていた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらもその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気 づいていた。そして、そのことに同情しながら、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。
 つまり、
日本人の内部には朝鮮人に対して一種の罪の意識が潜んでいたと言っていい。ただ社会主義運動家のみは朝鮮人労働者との団結を強調し、前年末には朝鮮人労働 者同盟会の創立を支援していた。
 
そうした社会的背景のもとに、大地震の発生した直後、社会主義者と朝鮮人による放火説が自然に起こったのである。日頃から革命を唱えていた社会主義者の一群は、無 警察状態になった日本の首都東京を中心に積極的な活動を開始するかもしれぬと判断され、また祖国を奪われ苛酷な労働を強いられている朝鮮人が、大災害を伴う混乱を利 用して鬱積した憤りを日本人にたたきつける公算は十分にあると思えたのだ。》
 事実を徹底的に調べ上げて書くノンフィクション作家であるという吉村の文章とは思えない。大震災が起きた大正後期は、「大正デモクラシー」が最高潮に達した時期で ある。不思議なことに吉村の文章には「大正デモクラシー」という語さえでてこない。それなりに国民の自由や人権が尊重され、部分的な矛盾を抱えながらも資本主義経済 が進んだ時代であり、決してスターリン時代のソ連や毛沢東時代の支那のような暗黒の強圧的な政治が行われたわけではなかった。吉村は、満洲事変以降の日本が紛争から 戦争への泥沼へ突っ込んでいき、戦時色を強めて社会全体に暗雲がたちこめた昭和10年代以降のようなイメージで大震災前夜の社会背景をイメージしている。
 明治末から大正の日本国民は、デモによって内閣を総辞職へ追込むほどの力をもっていたわけであり、「日比谷騒動」や「米騒動」によっても内閣は退陣させられたので ある。
 朝鮮の実情に関する吉村の認識では、
「日本が統治する前の朝鮮はまあまあの政治が行われており、朝鮮国民もまあまあの生活をしていた」ということが前提になってい るようにみえる。
  現実の朝鮮社会はどうであったか。日韓併合前の朝鮮は
不労、略奪、放恣にふける両班がソウルから地方までいたるところで跋扈する紊乱を極めた社会であった。民衆にと っては苛斂誅求の時代でありながら、時代に目をそむけた慕華思想、事大主義などの因習に囚われた李朝政府に改革の意欲は乏しく、自力更生の気力なく、朝鮮は独立国家 としての統治能力を喪失していた。
  20世紀を目前にしたこの時代においてさえ、中央や地方の官職は両班の間で売買され、政府から官吏・役人に官職に応じた給与は支給されなかった。買官や賄賂に要した費 用を在職間に取り返しさらに蓄財するため、農民から搾取の限りを尽くすことは役人の当然の役得とされていた。イザベラ・バード の言葉を借りれば、
「朝鮮の官僚は大 衆の生き血をすする吸血鬼」であった。政府官僚の大半は、どんな地位にいようがソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下に任せ、任地の住民を搾取の対象 ととらえ、住民の生活向上については考えようとしなかった。朝鮮には公正な官吏の規範は存在しなかった。
 イザベラ・バードによれば日本が統監府を設け改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかったという。
盗む側盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす 膨大な数の人間がいた。「搾取」と「着服」は上層部から下級官吏に至るまでの慣わしであり、どの職位も売買の対象となっていたのである。
 学校制度についてみれば両班の科挙受験のために学ぶ塾しかなく、近代的な教育は皆無だった。イザベラ・バードは当時の支配層である両班の堕落ぶりを活写している。 「両班は自分では何も持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。
伝統上、両班に求められるのは、究極の無能さ加 減である。両班の従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の一般民衆は、両班によっ てその労働力と生産物を搾取され、過酷な圧迫を受けていた」と。
 そしてイザベラ・バードは次のように結論している。「
朝鮮についていくらかでも知っているすべての人々にとって、現在、朝鮮が国として存続するには、大なり小なり 保護状態におかれることが絶対的に必要であるのは明白であろう。日本の武力によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗した行政と いう重荷に朝鮮はあえぎ続けている。堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難極まりなかった。発展を目指した前進を達成するため、 唯一望みを託せる道は、鋼鉄の握力で手綱を引き締め続けることである
 李朝が極度に腐敗したどうにもならない王朝であり、歪みきった身分社会のなかで、国民がどれほど悲惨な生活をしていたか、徹底した事実調査を行うことで定評のあっ た吉村は考えることが出来なかったのであろうか。不思議である。

 吉村は、伊藤博文が朝鮮併合に反対であったことについても触れておらず、その暗殺テロが併合を促進したことに対する認識すら見られない。 当時の一般日本人に一般朝鮮人への罪の意識が潜んでいたというのはとんでもない勘違いである。李朝下での政治システムでは日韓併合に関する朝鮮国民にその意思を表現 する手段はなかった。朝鮮大衆は、彼らが内心どう思っていたかは別にして、日本の関与によって李朝の堕落しきった暴政から救われ、そして統監府や総督府が推し進めた 教育制度の改革など近代思想の扶植によって民族独立の気概を纏ういささかの余裕を得たのである。日韓併合について、日本社会のなかには余分なお荷物を背負ったとする 反対があったが、そのために朝鮮大衆に苦難を強いて申し訳ないと考える日本人は少なかったはずだ。なによりも朝鮮社会の現実がそれを明確に示していたからである。

 2イザベラ・バード:(1831年~1904年)イギリスの女性旅行家・紀行作家。最初の朝鮮訪問は1894年。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『朝鮮紀行 』を著す。


 吉村は明確に筋道立てて説明していないので補足すると次のような論理になるのであろうか。
 
日韓併合によって穏やかな生活をしていた朝鮮人は、苛酷な生活を強いられるようになった日本人は朝鮮人に対する罪の意識があったそれが朝鮮人による暴動を予見 させたその予見が朝鮮人による放火などの流言蜚語を生む可能性があったゆえに流言蜚語である
 ノンフィクション作家工藤美代子 は、その著『関東大震災・朝鮮人虐殺の真実』において朝鮮統治の内容に多くの紙面を割いている。それは吉村氏の論理の背景に、「日 韓併合は朝鮮国民を圧政のもとに苦しめた苛酷な統治である」との認識が存在するとみたからであり、それは的を射ている。
 吉村は次のようにも書いている。《大地震の起こった日の夜7時頃、横浜市本牧町附近で、「朝鮮人放火す」という声がいずこからともなく起った。それは、東京市内でさ さやかれていた社会主義者と朝鮮人放火説とは異なって、純然と朝鮮人のみを加害者とした流言だった。その流言が誰の口からもれたのかは、むろん明らかではない。ただ、
日本人の朝鮮人に対する後ろ暗さが、そのような流言となってあらわれたことはまちがいなかった。》  この文章も前述の文章とほぼ同様論理に飛躍があり、どういう理屈でそのようになるのか理解不可能である。これを工藤は、「奇怪な論法」と評している。吉村にとって の「朝鮮人暴動は流言」という最大の根拠は、「日本の朝鮮人民に対する苛酷な統治」だということだ。彼の論理を逆手にとれば、日本の韓国統治が苛酷でなく、朝鮮社会 の改善・向上、生活の質の向上に繋がるものであれば、「朝鮮人暴動は流言ではない」、つまり一定の事実に基づいた情報であったことになる。
 すでに説明したように、論法以前に吉村の論理はスタートで破綻している。日韓併合によって朝鮮人の生活は大きく改善され、わずか30年余で人口が倍増するほど急速に 庶民生活が向上したのだ。併合後13年が経過した大正12年頃は、まさに日進月歩の改善であったろう(大正11年には、小学校が1校/3面まで急増)。それらの事実は当時 の日本人も現在の我々以上に知っていたはずである。現代と同様、当時も朝鮮に対する贖罪意識をもつ一部の日本人がいたことを否定しないが、それが日本社会の大勢とな ることはなかったに違いない。  事実の認定と論理の両方において、吉村の流言蜚語説は成り立たないことがわかる。日韓併合という時代背景は、必ずしも流言蜚語を誘引するものではなかったのである。
 むしろ「日韓併合が朝鮮人の暴動の原因となった」というのであればよくわかる。この場合、朝鮮人による放火・強盗・強姦・爆発物テロなどは、大震災の後本当に行わ れたのであり、自警団等による朝鮮人殺害は自衛行為だったということになる。
 中東で行われている際限なきテロや紛争をみていると、そこには日本人には到底理解できない論理がある。「なぜ、戦闘をやめて平和で豊かな生活ができるよう国民は協 力しないの?」と日本人は素朴に考える。しかしアラブの人々はそうは思わない。価値観が違うのである。日韓併合も結果として朝鮮人を物質的に豊かにしたが、一部の過 激かつ思想的朝鮮人にとっては、「日本国家から与えられる豊かさ」ほど忌まわしいものはなかったのである。いつかは日本という国を滅ぼし、あるいは滅ぼすことができ ないまでも、反抗し復讐したい、その絶好の機会が大正12年9月1日、関東大震災という未曽有の天災によって訪れた、とその機会を狙っていた朝鮮人が考えても不思議はな かった。なにしろ日本の首都がほぼ壊滅状態に陥ったのである。上海に臨時政府をつくっていた李承晩も欣喜雀躍としたことであろう。

 3工藤 美代子 昭和25年生れ。一時期つくる会副会長。父はベースボール・マガジン社および恒文社を創設した池田恒雄、母の実家は両国の工藤写真館。両親が離婚した ため工藤姓を名乗る。数度の結婚離婚を繰り返す恋多き美女。


 
(3) 李承晩の謀略
   上海に仮政府を置き、朝鮮独立運動を推進する活動家の主たる舞台は、朝鮮ではなく、支那・満洲あるいは日本内地であった。第2表に列挙するように、震災以前に全国いたるところで抗日運動組織が活動しており、爆発物や銃器・弾丸などが押収され、また資金集めのための銀行強盗が朝鮮半島で起きていた。

 彼等が日本政府に出来るだけ大きな衝撃を与えるべくテロを計画するのは当然の成り行きであった。逮捕された不逞鮮人の多くが自白したところによると、テロの標的は、大正12年11月27日に予定されていた「東宮殿下御成婚の御大典」であった。もちろん、内務省警備当局も彼等朝鮮独立運動家たちの不穏な動きを察知し、その最大の危機が11月27日に訪れることを極度に怖れていた。

 ところがその前に大震災が起きると、朝鮮独立運動家たちはこれを最大の好機としてテロ活動を開始したと考えられ、捕縛された不逞鮮人も「震災によって御大典の延期される可能性が大であり、大震災を好機として実行した」と自白している。

 もちろん、こういった規模の大きい念入りのテロは、上海仮政府の朝鮮人の力だけでは実行は難しい。その背後にはコミンテルンがあったことはほぼ疑いない。震災当時、朝鮮総督府警務局警務部長の職にあって内鮮融和に実績を挙げていた丸山鶴吉は、次のような報告を上げている。

 《従来日韓併合記念日(8月29日)に際し、日本人の意気揚々たるものあるに反し、朝鮮人は祖国喪失の悲哀を感じ快々として楽しまざりしが、今次の震災は正反対に、朝鮮人は楽観し、日本人は悲観し居れり。蓋し凶暴日本に対する天の責罰なり云々と洩らし、社会主義者及び之に類するソウル青年会、労働連盟会、朝鮮教育協会、天道教等は帝都の大惨禍及び山本総理の暗殺説等を吹聴し、這回の異変は之偶然の事にあらず日本革命の象徴なり。近く各地に内乱起こり、現在の制度は改革せらるあるべし》
(『現代史資料6』朝鮮総督府警務局文書)

 朝鮮全土の反日運動系の団体は、日本内地で同志たちによる暴動から内乱へ、そして革命への道が開かれた如く、震災後の日本情勢を観ていることが分かる。9月6日頃になると、内地における朝鮮人による放火、強盗、強姦、殺人、井戸への毒薬投入、爆弾投擲などの震災に乗じた犯罪行為の情報が入り、これまで快哉を叫んでいた一般の朝鮮人も、同民族の卑劣な非人道行為に恥じ入る気持ちへと変わり、大勢に順応して罹災民救済慰問金の募集に参加する者が増えたという。さらに、震災地における朝鮮人の安否情報が届き、約6,000名の生存者氏名が新聞に掲載されると、一斉に安堵の声が朝鮮全土に広がった。

 一方過激な反日運動団体は全く違う反応を見せたと報告されている。

 《共産主義を鼓吹する者及びこれらに依り組織されたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の損害よりも之に伴う火災の損害が最甚大なる模様なるが、
火災はわれらと志を同じうせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり。我らはこの壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべく期待し居りたる○が戒厳令布かれ遂にその目的を達する能はざりしは遺憾なりと同志間にて語り合う者あり》(『現代史資料6』朝鮮総督府警務局文書)

 上海の抗日組織「義列団」の団長金元鳳は、震災前後に北京に滞在していたが、これを好機ととらえ、9月9日部下を集めて天津から東京へ向かわせたとの情報も警務局に入っていた。「義列団」は、爆弾50個を安東に向け発送したという情報も警務局はつかんでいた。こうしたことから朝鮮総督府は上海方面の情報収集に努め、上海仮政府発行の「独立新聞」が災害記事を過大に記載し、朝鮮人の団体と日本軍が衝突し、日本軍閥が滅亡したという記事を掲げていることも承知していた。

第2表
年月日 新聞(タイトル) 記事の内容
大正9年
2月21日
大阪毎日
15万円強奪の不逞鮮人の片割れ神戸にて捕わる 1月4日朝鮮銀行が朝鮮羅南より間島鮮銀出張所に輸送中なりし銀行券15万円龍井村に於いて護衛巡査他1名に重傷を負わせ、該券を強奪し去りたる不逞鮮人尹駿煕外4名が浦塩に於いて逮捕され、2名は逃走行方不明なる事は当時報道したる如くなるが、7日午前8時頃神戸市内今在家町1丁目北黒白米商にて白米2俵を買い、港内に停泊中なる露国義勇艦隊シチエフ号に運ばして、鮮銀5円券5枚を支払いたる鮮人あり、(略)図らずもそれが盗難の15万円の一部なる事を発見し忽ち警察の大活動となりシチエフ号より前記鮮人及び同船乗組員支那人露学周を連行取調中なるが該犯人に相違なき見込なりと。
大正9年
4月17日
神戸新聞
首相邸を襲わんとした鮮人の大陰謀露顕-爆弾数個と陰謀書類 去る10日警視庁にては、いづれよりか数名の鮮人を拉致して厳重なる取調べを続行しつつあるが、右は一世を震駭すべき頗る重大事件の発覚したるものにて、昨年10月31日の天長節の当夜外務省に起こった爆弾事件以上の由々しき某重大事件にして拉致されたる鮮人は、本郷区湯島天神町1の9金麗館止宿徐相漢(22)、下谷区竜泉寺町237日鮮商会金洪秀方洋服職工金成範(22)、同人止宿中央郵便局集配人梁張海(33)外数名のものにて、彼等の家宅を捜索したるに果して爆弾数個を発見し、更に陰謀書類なども顕れたるより、ここに警視庁にては事実を闡明(センメイ)にするに至りしより(略)彼等は本年3月1日の所謂独立記念日にあたり各方面の不逞鮮人を呼応して密かに某大官を襲撃せんと企てたるも時機を失したれば(略)首相官邸を襲わんとしたるものにて、右爆弾は上海方面より密輸したる形跡ありと。
大正9年
8月27日
神戸新聞
不逞の徒と気脈を通じ内地に潜める魔の手/在京鮮人700余名中、上海仮政府に縁のあるもの2割
大正9年
10月19日
大阪毎日夕刊
在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見 南区天王寺公会堂に集合し独立云々の不穏文書を配布したる事実もあり、さらに厳重なる捜査を行いし結果、南区日本橋筋附近鮮人李某方に於いて去月29日頃端なく爆弾数個を発見したれば、宮本署長は直に徳田高等主任とともに部下を集めて本件を厳に秘すべき旨を命じ、即刻李方を襲い家宅捜査の末、不逞鮮人との往復書面を押収し朝鮮総督府に向け李某と不逞鮮人との関係、連絡等の照会をなしたり。
大正10年
3月3日
大阪朝日夕刊
変名して早大に入り上海間島方面と連絡を取る 東京警視庁で45日前から西神田、早稲田の両署と協力し、刑事を各方面に派して秘密の裡に活動を続けている。右は早稲田鶴巻町某下宿屋止宿の朝鮮平壌生れ某を中心とする或一団の鮮人に関する事件で、警視庁は彼らの行動を重大視しているが、某は元上海にある鮮人仮政府の大蔵大臣或は総理大臣秘書としての重要な地位にあった男で、警視庁の一警部が彼の行動を内偵するために某地に渡航した際、同警部を密偵と知り多数の部下に命じて警部を絞殺したこともある。某は上海における不逞鮮人団の或は重要なる任務を帯び昨年9月下旬、上海から東京に入りこみ変名して早稲田大学政治科に入学し、絶えず上海、京城、間島方面にある不逞鮮人団と気脈を通じ、最近は市内各所に神出鬼没を逞しうし密議を凝らしている。
大正10年
11月11日
神戸又(ユウ)新日報
不逞鮮人崔の自白から判明した事実 内地在住の一味も知れた 10月23日上海経由で神戸に入港した郵船静岡丸2等船客崔濱武(27)が上海仮政府の密使であることを発見、神戸水上署から警視庁に護送した。(略)其の自白する処によると今回来朝した第一の目的はワシントン会議当日を期して東京を中心に内地在住の鮮人学生団に猛烈な大示威運動を行うことで、次いでは極めて巧妙な方法によって東京と上海との連絡方法を講じるためであったという。書類によると上海仮政府の第一次計画としては彼ら不逞の徒が多年目的とせる国民議会を開くことで、組織は日本内地の屯田兵にかたどり2万の会員を募って、其の会員中から米国その他に留学生を送り独立運動の中心人物を養成する筈になっていたことも判明した。かかる大事件が内地で発見されたのはこれが初めてのことである。
大正11年
2月10日
大阪朝日
目下の形勢では過激派の手先に使われる不逞鮮人を取締ることが最大の眼目となり、当局(特別高等課)でも独立問題を余り問題にせず、過激派に対する彼等の行動に警戒を加えるよう取締の傾向が一変してきた。
大正11年
5月20日
大阪朝日
総督府投弾の犯人は田中大将を狙撃した男 朝鮮総督府警務局では19日朝に至り、昨年9月12日に総督府に爆弾を投じた犯人の検挙顛末を発表した。当時犯人捜査に全鮮官憲は努力したが逮捕に至らなかった。ところが本年3月28日上海で田中大将に爆弾を投じ更に拳銃を放った犯人2名が英国巡査及び支那巡捕に逮捕され我領事館に引渡を受けたとの電報を得、右2名の犯人は領事館で取調の結果、京畿道高揚郡龍江面華徳里 金益相(28)、咸鏡北道穏城郡永瓦面、常時間島在住呉成昆(25)と判明した旨通知を受け警務局は直に各道に手配し、取調べたところ、其の自白(金の実弟とその妻の自白)で金益相が総督府爆弾犯人なること判明し、(略)一方上海総領事館に於ける金益相も総督府爆破犯人であることを自白したとの通報あり。
大正12年
2月2日
九州日報
友禅職工に化けた不逞鮮人の一旗頭/上海仮政府の隠密/同志の統合に失敗し何れかへ姿を晦ます。
大正12年
4月25日
神戸又新日報
怪鮮人密書事件の黒幕に妖美人、上海仮政府重要委員を父として鄭を愛人とする金玉華/李、鄭は警視庁護送
大正12年
5月9日
大阪毎日
大仕掛の武器密売
拳銃一万挺、
挺弾九十万発
武器密輸出事件に関し横浜戸部署は県高等課刑事課及警視庁と協力し、京浜に亘り犯人捜査中だが、同署遠藤警部補は6日神戸に急行し、共犯者遠藤銀之丞(32)を逮捕し、7日夜横浜地方裁判所検事局で取調べの結果、大仕掛けの武器密輸出が発覚。米国銃砲製造会社の連発ピストル1万挺並びに(略)10万発の弾丸を買い受け、船員の手を経て青島に密輸出し、朝鮮独立陰謀団に売込んだと発覚した。

(4) 在日朝鮮人の人口推移

 政府の統計では、震災時に日本にいた朝鮮人は8万617人である。工藤は、統計に加えられない密航者や住所不定者を加えると、10万人以上いたのではないかとみている。
 このうち東京近県に約3,000人、東京市には約9,000人、合わせて1万2,000人ほどの朝鮮人が震災に遭遇したことになる。
 日韓併合後9年を経た大正8(1919)年、民族自立機運の高まりによって生じた三・一運動は2ヶ月ほどで終息した。(因みにシリア内戦は2年8カ月以上継続中)内乱罪は適用されず、運動の指導者たちも重罪とされず(運動の指導者が最高で3年の懲役、その後恩赦で半減)、総督府の統治方針も憲兵警察制度の廃止、集会や言論、出版の自由をなど武断的なものから文治的なものへ転換され、それ以降大きな独立運動は行われなかったが、その運動の中心は支那や日本内地へ移動した。日本政府及び朝鮮総督府は、朝鮮人の活動家たちを粛清することなく軽罪・微罪で社会復帰させたがために、社会主義運動とりわけコミンテルンと連携し、日本国内に拠点をおいた過激な活動が行われる火種を残したのである。

 以来、日本国内における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい事件が続発している。工藤はそれらの中から、危険な犯罪、テロの温床になる恐れがある事件として前表(第2表)に示す記事を列挙している。
 大正デモクラシーの高まりで自由や人権が叫ばれる中、一方では朝鮮人による組織的な抗日活動が、朝鮮(間島)、上海、国内で行われており、国内で大規模なテロ犯罪がいつ起きてもおかしくないといった緊張した情勢にあったことがわかる。デモクラシーの発揚は社会の弛緩をもたらす効果があり、日本社会は間接的な攻撃に対し脆弱になりつつあったともいえる。

 在日朝鮮人の人口推移で特異的な年がある。それは不思議なことに関東大震災の起きた
大正12(1923)年である。大正12年から翌年にかけての在日朝鮮人口はそれまでにない急激な増加を見せている。これは何を意味するのであろうか。

 朝鮮人虐殺などといった物騒な事件が本当に起きていたなら、大震災後の急激な人口の増加は不可解極まりない。

2 朝鮮人暴動の真偽


  朝鮮人の暴動(殺人・放火・強姦・爆弾テロなど)の実態がどうであったのか?吉村は頭から流言と決めつけているためにその著作からはその真偽を計ることはできない。吉村は次のように書いている。
 
 《流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上がって口から口へと伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。》この文章のうち、下線部は吉村の論理の綻びの見える部分である。「全くなんの事実もなかったという特異な性格」と書くが、全くなんの事実もなかったというのが朝鮮人の社会現象としてはおよそ考えられないことは、戦後の韓国における犯罪報告などからみても考えられない。治安が安定してきた最近の韓国においてさえ、殺人、強姦、強盗などの凶悪犯罪発生率は、日本より大幅に高く、殺人、強盗、強姦の3大凶悪犯罪の発生件数は、2001(平成13)年に14,896件、2010(平成22)年には27,482件となっており、10年間でほぼ倍増している。また、消防防災庁の発表によると、2008(平成20)年に韓国内で発生した
放火事件は4,420件である。韓国警察庁の発表によると、2007(平成19)年から2011(平成23)年の5年間で発生した性犯罪事件は81,760件で、その半数以上は強姦事件である。2011年の強姦事件は19,598件であり、10万人当たりの発生率は日本の約40倍である。韓国人は日本国内でも頻繁に強姦事件を起こしており、「日本は強姦がやりやすい」、「強姦目的で来日した」と供述した容疑者もいた。くどいようだが、これらの犯罪は、治安が安定して、生活も向上し、警察力が普通に機能している21世紀の韓国で起きているということだ。大震災という治安・秩序が混乱をきたしている中で、朝鮮人による強盗・強姦・放火などの暴力行為がなかったと言われてもにわかに信じることは誰にも出来まい。

 「当時の官憲の調査」というのは、細部は後述するが、政府が朝鮮人保護、内鮮一体化を進めるために勅令まで出して行った情報操作の結果に過ぎない。

 「大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた」と言うが、東日本大震災で見せた日本人の冷静かつ遵法精神に則った行動からは想像できず(「修身」などの教育が重視されていた戦前の日本人が戦後の日本人より道徳的に低いということは考えられない)、しかも自警団を編成して朝鮮人テロと闘ったのは、比較的軽微な被害で済んだ地域であり、人々の大半が精神異常をきたすことなどあり得なかったはずである。精神異常をきたすほどの大被害を受けた地域に住んでいた住民は自らの身を守るために身一つで逃げ惑い自警団に加わることはできなかった。

 「各町村で朝鮮人来襲にそなえる自警団」としているが、これについても後で詳述するが、自警団は対象を朝鮮人に絞って作られたものではなく、火事場泥棒的な犯罪から自分たちで守るために作られ、その後朝鮮人来襲が伝えられたために組織や装備が強化されたというのが事実である。

 工藤は、吉村と同じ立場に立つ吉野作造の書き残したものから論評している。「無実の朝鮮人が流言を信じた日本人によって虐殺された」とする説の定説化に指導的な役割を担ったのは、当時大正デモクラシーの旗を高く掲げて社会思想に大きな影響力をもっていた吉野作造であった。

 吉野は、流言蜚語が何ら根拠を有しないことを断定したうえで、「予はここで予の耳に入った諸種の事実を簡明にまとめるにすぎない」と断り、その大要は次の如きものであったと述べている(『ドキュメント関東大震災』)。

 《朝鮮人は210日から220日までの間に、帝都を中心として暴動を行う計画をしていたが、たまたま大震災が起こったので、その秩序の混乱に応じて、予ねての計画を実行したのである。即ち彼等は、東京、横浜、横須賀、鎌倉などの震災地において、掠奪、虐殺、放火、強姦、毒物混入等あらゆる凶行を行って、6連発銃、白刃を以って隊伍堂々各地を荒したのである。震災当時の火災が、かくのごとく大きくなったのも彼らの所為で隊を組みて震災地を襲い、首領が真っ先になって家屋に印をつけると、その手下の者が後から、或いは爆弾を投じ、或いは石油にて放火し、又は井戸に毒物を混入して廻ったのである。戒厳令が布かれて兇暴を逞しくすることができなくなって、地方へ逃げて行った。そして右の如き暴動、凶行は朝鮮人の男のみには限らず、女も放火し、子どもも毒薬入りサイダーを日本人に勧めた。》以上は吉野が耳にした伝聞である。また、吉野は親交ある朝鮮紳士から聞いた話として次のような文章を『中央公論』大正12年11号に書いている。

 《横浜に居る朝鮮人労働者の一団が、震災火災に追われて逃げ惑うや、東京へ行ったらどうかなるだろうと、段々やってきた。更でも貧乏な彼等は、
途中飢えに迫られて心ならずも民家に行って食物を掠奪し、自らまた多少暴行を働いた。これが朝鮮人掠奪の噂を生み、果ては横浜に火をつけて来たのだろう、などと尾鰭をつけて先から先へと広まる。かくして彼等の前途には警戒の網が布かれ、彼等は敢無くも興奮せる民衆の殺すところとなった。飢餓に迫れる少数労働者の過失が瞬く間に諸方に広がって、かくも多数の犠牲者を出すに至ったのを見て、我々は茫然自失するの外はない》さらに吉野は続けて次のようにも書いている。

《よしあったとしたところが、
あのくらいの火事泥は内地人にも多い。普通ああいう場合にありがちの出来事で、特に朝鮮人が朝鮮人たるの故も以って、日本人に加えた暴行という訳にはいかない。いわんや2,3の鮮人が暴行したからとて、すべての朝鮮人が同じ様な暴行をすると断ずるわけにはいかないではないか》

 こういったことを書きながらも、吉野は、根拠不明なまま次のように断じている。

 《震災地の住民は、震災のために極度の不安に襲われつつある矢先に、戦慄すべき流言蜚語に脅かされた。之がために市民は全く度を失い、各自武装的自警団を組織して、諸所に呪うべき不祥事を続出するに至った。この流言蜚語が、
何等根拠を有しないことは勿論であるが、それが当時、如何にもまことしやかにしかも迅速に伝えられ、一時的にもそれが全市民の確信となったことは、実に驚くべき奇怪事と云わねばならぬ。荒唐無稽な流言蜚語が伝播されたのは、大正12年9月2日の正午頃からである》

 吉野の文章の中にはいくつかの朝鮮人暴行の「根拠」が明確に書かれている。にもかかわらず、頭から「流言蜚語」と断定することによって、その情報の真偽について診断することを拒否しているかのようにみえる。「火のないところに煙は立たない」という観点から、朝鮮人の暴動的行為についてその犯罪性について、政治学者あるいは思想家として人文科学的識見から点検する余裕はなかったのであろうか。

 東日本大震災においても震災後多くの様々な犯罪が起きているが、それらは震災が起きてから数日あるいは1週間以上過ぎて被害状況・被害地域がある程度明らかになった以降に起きたものであり、被災した人々が命の危険にさらされながら死に物狂いで避難等している真っ最中に、人の弱みにつけ込むような犯罪は起きていない。特に、暴行、放火、強姦など悪質な犯罪は皆無である。

 次に震災直後の各種新聞に掲載された朝鮮人による暴行・掠奪等の記事をみてみる。新聞記事がすべて正しいことはあり得ないが、これだけのたくさんの記事がすべて、吉野の言うように「何等根拠を有しない」流言蜚語であるというのもまず常識的には考えられない。

第3表
                                                                                             
年月日 報道 記事要旨
T12.9.3 大阪朝日 朝鮮人の暴徒が起こって横浜、神奈川を経て八王子に向かって盛んに火を放ちつつあるのを見た。
T12.9.3 東京日日 (略)一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手があがるの点につき疑問の節あり、次いで朝鮮人抜刀事件起こり、警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約30名は5台の自動車にて現場に向かった。当市内鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり。
1日正午の大地震に伴う火災は帝都の各所より一斉に起こり、2日夕刻までに消失倒壊家屋40万にのぼり死傷算なく、同時に横浜・横須賀等同様の災禍にあい、相州鎌倉・小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更、災害の防止すべからざるを見るや出動の軍隊に命じて焼くべき運命の建物の爆破を行わしめた。この災害のため帝都重要の機関建築物等大半烏有に帰し、避難民は隊を組んで黒煙立ちこめる市内を右往左往して飢に瀕し、市民の食糧不安について鉄道省は各地に購入方を電命し、府市当局は市内各所に炊き出しをなし、三菱地所部も丸の内で避難民のための炊き出しを行った。 一方、猛火は依然として止まず、(略)、当市内朝鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり、2日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めている。因みに2日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果、午後4時までに本郷富阪署で6名、?町署で1名、牛込区管内で10名、計17名の現行犯を検挙したが、いづれも不逞鮮人である。
今回の凶変を見たる不平鮮人の一味は避難せる到る所の空家等にあたるを幸いに放火をしていることが判り、各署では2日朝来、警戒を厳にせる折から、午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ、辛うじて追い散らし、その1,2を逮捕したが、このほか放火の現場を見つけ取り押さえ、又は追い散らしたもの数知れず、政府当局でも急に2日午後6時を以って戒厳令を下し、同時に200名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し、双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し、正力主事、山田高等普通課長以下30名現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。なお一方警視庁本部備え付けの鉄道省用自動車を破砕すべく爆弾を持って近寄った一団20名を逮捕したが、逃走した者数知れず。 目黒競馬場を指して抜刀のまま集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まった者らしく、途中出会せし日本人男女十数名を惨殺し、後憲兵警官隊と衝突し、三々五々となりすがた影を隠したが、彼等は世田谷を本部として連絡をとっておると。 横浜方面の不逞鮮人等は京浜間の線路に向って鶴嘴を以って線路をぶち壊した。1日夜火災中の強盗強姦犯人はすべて鮮人の所為であった。2日夜焼け残った山の手及び郊外は、鮮人のくい止めに全力をあげられた。
T12.9.4 東京日日 火に見舞われなかったが唯一の地として残された牛込の2日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒するために、青年団、在郷軍人団及び学生の有志連は、警察官・軍隊と協力して徹宵し、横丁毎に縄を張って番人を付し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気が漲り、小中学生等も棍棒を携えて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地における義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷各町は、?町6丁目から平河町は風下の関係から火の粉が雨の如く降り、鮮人に対する警戒と火の恐れで生きた心もなく戦場さながらの光景を呈した。牛込佐渡原町では、2か所において鮮人放火の現場を土佐協会の大学生数名が発見、直ちにもみ消した。また3日朝2人づれの鮮人が井水に猫いらずを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。
T12.9.6 河北新報 (略)これより先、越中島も糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川あたりから避難してきた罹災民約3000人が雲集していたところが、その入口の方向に当って異様な爆音がしたと思うと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。3000人の避難者は逃場を失って阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死してしまった。月島住人は前期の如く土管内に避難し幸いに火薬庫の破裂も免れたため死傷者は割合少なかった。それだけにこの3000人を丸焼きにした実見者が多かった。 しかも鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいう側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕らえた。おそらく首魁者の一人であろうというので厳重に詰問した挙句、遂に彼は次の如く白状した。「我々は今年のある時期に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、次いで全市到る所で爆弾を投下し炸裂せしめ、全部全滅鏖殺を謀らみ、また一方210日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければ、その機に乗じて一旗挙げる陰謀をめぐらし機の到来を待ち構えていた」 風向きと反対の方向に火の手が上がったり意外の所から燃えだしたりパチパチ異様な音がしたりしたのは、正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであったことが判然としたので、恨みは骨髄に徹し評議、忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた。
T12.9.6 河北新報神田区淡路町2の4筑波館山瀬甚治郎談 9月2日夜12時頃、ときの声がするので吃驚したが、南千住一帯を巣窟とする鮮人団が三河島附近の花火製造場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を凌辱し、食糧・軍資金を掠奪すると言うので、在郷軍人、青年団が決死隊を組織し警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を連れて同夜は田圃のなかに露宿して難を免れたが、日暮里に引き返す途中2人の鮮人が撲殺され、1人の鮮人が電線に縛られ半死半生の体であったのを目撃した。また、付近の墓場には扮装賤しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚だしく、局部にも重傷を負い昏倒していたが、7,8人の鮮人に輪姦されたということで、地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。鉄道線路は軍隊で警戒し、その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、避難している者が多数で、いずれも鮮人の襲撃を恐れたためである。
T12.9.6 河北新報東北大学書記談(被害状況調査のために仙台から上京) 川口町の混雑は実に名状すべからざる有様で、避難民は大群をなして押し寄せてくる。(略)やっと上野に着いて山に登って見れば、まるで焼石の河原のようだ。わすかに浅草の観音様や大建物の鉄筋のみが見えている。青年団、軍人分会、自警団員等はいずれも刀・鉄棒・樫木棒を持って警護に任じている。なんでも地震後の火災はさほどでもなかったが、1日夜から不逞鮮人が随所に放火し、上野のごときも朝鮮婦人が石油を撒き、それに鮮人があとから爆弾を投げたためだそうで、罹災民が鮮人を憎むことはとても想像以上である。この附近の人は岩崎邸に避難したのであるが、邸内の井戸に鮮人に毒薬を投ぜられたので非常に困っている。それで、4日午前には万世橋で7人、午後には大塚で20人、川口で30人の不逞鮮人隊が捕縛され、その一部は銃殺されたといっていた。
T12.9.7 北海タイムス
青木繁太郎談
私は本所の家に帰る途中、道成橋で多数の人が鮮人を捕えているのを見ました。(略)其の話に依ると鮮人たちは東宮殿下御成婚の当日に一斉に暴動を起こす事を牒合して爆弾等をひそかに用意していたが、この震災で一斉に活動したのだという。また2日にはこれに関する協議会さえ開く予定があったという。彼らには又誰か後押しはあるらしい風であったが、死ぬほど攻めてもとうとう吐かなかった。
T12.9.8 北海タイムス
北大予科2年生 杉山又雄談
丁度昼食をしようとするところでした。始めは上下動に揺れ次第に水平動になりましたが、とても立っていられぬので庭に出ましたが(略)兎に角罹災民は小石川方面に集まる。(略)1日夜、植物園に行ってみましたが、本当に避難民で一杯で、一番困るのは排泄物は凡て居たままなのでその臭気の程は形容の言葉がありません。2日の朝から昼にかけて非常に石油の臭いがしました。この頃小石川周辺では鮮人が団体を組んで来るとか爆弾を投げて焼き払う計画を立てているとか、(略)生きている心持がありませんでした。私どもも一緒になって捜索の結果、私の家のしかも附近の宮様の原で爆弾1個を発見しました。私の乗った汽車は途中で列車の下より爆弾を抱いた3人の鮮人を見出して殺しましたが、(略)鮮人はいずれも多大な金をもっておりました。
T12.9.8 北海タイムス鉄道機関手平田鉄談 私が田端で不逞鮮人の巨魁らしき壮漢が軍隊に取り押さえられて自白しているのを聞くと、彼等は210日を期して放棄するの計画を立て8月28日に銀行や郵便局の預金を悉く引き出し準備した。若し210日が静穏であったならば、今秋の御盛典を期して行うことにしていたが、あたかも震災に乗じて活動したものであると自白したが直に銃殺された。
T12.9.23 福岡日日新聞中根栄談 (2日の朝)はっきりと目覚めやらぬ眼をこすりつつ「何だ」と言うと、妻は「○○」が攻めて来たそうです」と震えながら答える。自分の住んでいる所から5,6町も隔たった処に大仏(品川区大井)という寺がある。(略)それが近頃土地熱、住宅熱にうかされて附近の丘陵や松林を切り開いて埋立地を作っている。これに従事している土工は全部○○である。彼等は遊楽の婦人にからかう、悪戯をする、折角好ましきこの遊楽地も○○の働くようになってからは、すっかり恐怖の土地となってしまった。(略)果せるかな、妻は自分に彼等の襲撃を告げた。 自分の宅は小高い山の上にある一千坪の一廓が三つにしきられて、私はその一廓の一隅を占めている。(略)避難地としてはまことに適当な個所である。それを認めてか、自分が妻に揺り起こされてまだ身支度も整えぬうちにもう附近の人達が
続々と自分の家を目指して避難のため押し寄せて来た。(略)総勢25,6名、婦人、子供、お婆さんが多くて、男性はわずか4,5人である。生い茂る叢や芒のなかにすっぽりと姿を隠さしめた。その場合、勢い自分は指揮官たらざるを得ぬ、自分は「もし○○が掠奪を目的とするならば、全然無抵抗で行きましょう。しかし多少でも生命に危害
を加えるような形跡があったならば、私達は婦人子供を先々逃がしながら出来るだけ抵抗を続けて逃げましょう」と宣告した。巡査の一人があご紐をかけて、自転車に乗って駆けて行く。それを捉えて「どんな形勢ですか」と訊ねると、彼は「今○○の数、三百人ほどが団体を作って六郷川で青年団や在郷軍人団と闘っている。そのなかの
5,60人が毬子の渡し附近から馬込に入り込んだという情報がありました。そうして毬子を渡った処で15,6人の女や子供を殺したそうです。皆さん警戒して下さい」と叫びながらどこかへ飛んで行く。 自分は、これは誠に容易ならざる事と思った、(略)警鐘の響が四方八方から起こる。ワーッというような喊声がどこからか聴こえる。
 以上のような新聞記事を読む限りにおいて、朝鮮人による何らかの暴力行動があったことは間違いないように見える。しかし、不思議なことに朝鮮人の暴動に関する事実は徐々に否定されていった。そして残ったのは「流言蜚語を妄信した日本人(自警団)が無辜の朝鮮人を虐殺した」という事実だけになってしまったのである。
それはなぜか?


3 朝鮮人暴動報道の抑止・鎮静化(大震災治安方針の推移)


 大震災の起こった9月1日は、次期内閣首班に決まっていた山本権兵衛内閣の組閣が進まず、内田康哉前外相が臨時首相を務めていた時だった。内田臨時首相は直ちに前加藤内閣の閣僚を総理官邸に集め臨時閣議を開き、治安維持と罹災民救済を第一として対策をとることを決めた。内務大臣水野錬太郎と警視総監赤池濃は、第1師団と近衛師団に出兵要請するとともに、戒厳令の発令の必要を森岡守成東京衛戍司令官に説き、森岡司令官は戒厳令を政府に要請した。政府はこの緊急事態に鑑み、特例の緊急勅令の裁可を仰ぎ、次のような勅令を発した。
緊急勅令第398号 一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件
 朕茲に緊急の必要ありと認め帝国憲法第8条に依り一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件裁
 可し公布せしむ
  嘉仁 裕仁
      内閣総理大臣 伯爵内田康哉
      各大臣副署

なお、帝国憲法第8条とは、次のような条文である。
 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス

2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
 この条文には「戒厳令」という語は見当たらない。また大日本帝国憲法下の法令に、「戒厳令」なる法律等は存在しない。具体的な執るべき措置等は、逐次発出される勅令によって示される。戒厳令を発令することによって、より大規模な戒厳部隊が編成することが可能となるということだった。因みに、大日本帝国憲法下で戒厳令が布かれたのは、次表の3件のみである。
戒厳令施行期間 日数 事 由
1905年(明治38年)9月6日~11月29日 85日間 日比谷焼打事件(ポーツマス条約反対暴動)
1923年(大正12年)9月2日~11月15日 75日間 関東大震災
1936年(昭和11年)2月27日~7月16日 140日間 二・二六事件

 9月2日、東京全市、京浜地区に戒厳令が布かれた。

 水野内相、赤池総監は、4年前、朝鮮で起きた「三・一運動」の直後に文治政策へ転換した斎藤實朝鮮総督の下で、それぞれ政務総監と警務局長を務めた間柄であり、朝鮮人によるテロを、身をもって経験し、彼らの性向や実行力を熟知していた。しかし、そのことがかえって「朝鮮人の暴動は流言蜚語」と流布される根拠となった。

 《2日朝にいたって各所に広がる朝鮮人暴動の流言は政府首脳を脅かした。特に水野内相と赤池総監は、三・一独立運動直後にそれぞれ朝鮮総督府の政務総監・警備局長の要職にあり、独立運動の弾圧にあたった経験をもっているだけに、人一倍朝鮮人の圧政に対する報復を恐れていたに違いない。かれらがこの流言を聞いて、あるいは事実かと動揺したことは余りある》(「国民の歴史21民本主義の潮流」)
 9月2日は朝から富坂署、大塚署などから朝鮮人の火薬庫襲撃や放火の報告が入り、警視庁は対策に追われていた。夕刻、軍と警察は合同して指令を発した
 鮮人中不逞の挙に次いで放火その他凶暴なる行為にいずる者ありて、現に淀橋、大塚において検挙したる向きあり、ついてはこれら鮮人に対する取締りを厳重にして警戒上遺算なきを期せられるべし。『現代史資料6』「大正震災誌」
 2日夜、遅れていた山本権兵衛新内閣の親任式が赤坂離宮で蝋燭の灯りの下で慌ただしく行われた。水野に替って内相に就いたのは後藤新平であった。戒厳令の布かれたなかで、戒厳区域が神奈川全域、千葉、埼玉まで拡大され、関東戒厳司令部が置かれ、司令官に戦時特命の司令官要員である軍事参議官の福田雅太郎大将が任じられた。新体制の確立と並行して、朝鮮人襲来への警告や取り締まりは一段と強化された。内務省警保局は各地へ次のような緊急電を発した。
 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。(略)鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加えられたし。
                                            『現代史資料6』「大正震災誌」
 前表に掲げた朝鮮人による犯罪等に関する報道は、東京では4日頃から趣に変化が見え始めた。東京朝日新聞の4日付け号外は、次のように報じたのである。
朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当に苛めてはならぬ。市民で武器を携えてはならぬと、戒厳司令官から命令を出した。
                                       (大正12年9月4日 東京朝日新聞号外)
 翌5日朝刊には、さらに明確な内容で同趣旨のことが報じられた。
善良な朝鮮人を愛せよ。
▼善良なる朝鮮人を敵視してはなりませぬ。
▼警察力も兵力も充分ですから、これに信頼して安心して下さい。
▼各自に武器等を執って防衛する必要はありません。
▼勝手に武器を携帯することは戒厳司令官の命令により堅く禁じられておりますからやめて下さい。
                           (大正12年9月5日 東京日日新聞)

 これらの記事は、至極当然のことを書いている。同時に、一部の不逞鮮人による暴動等が行われていたことも認めたものとなっている。こうした戒厳司令部からの指示等が掲載される一方で、扱いは小さくなったものの、依然として朝鮮人襲撃事件の記事は掲載されていた。前表に掲げたようにとりわけ東京以外の地方紙では目立って多かった。

 4日朝の閣議で、朝鮮人保護の具体策が決定された。それは、市内に残留する朝鮮人を、習志野、下志津の兵舎に収容し、衣食住を安定させ、彼らを救援するという内容であった。併せて山本首相名による次の「告諭」が発せられ、朝鮮人暴動対策の方針が急転回した。
今次の震災に乗じ、一部不逞鮮人の妄動ありしとて鮮人に対し頗る不快の感を抱く者ありと聞く。鮮人の所為もし不穏にわたるにおいては、速やかに取締りの軍隊または警察官に通告してその処置にまつべきものなるに、民衆自らみだりに鮮人に迫害を加えるが如きもとより日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、諸外国に報ぜられて決して好ましいことにあらず。(略)非常時に当り、よく平素静を失わず、慎重前後の措置誤らず、もって我が国民の節制と平和の精神を発揮せむとは本大臣のこの際特に望む所にして民衆各自の切に自重を求むる次第なり。
 大正12年9月5日
        内閣総理大臣 伯爵 山本権兵衛         (東京日日新聞 大正12年9月7日)


 福田戒厳司令官からも同様の告諭が出され、軍は工兵を動員してバラック小屋を建て天幕を張って、医薬品や食料を習志野へ搬送した。朝鮮人収容能力は東京及び近県の朝鮮人人口を超える15,000人分に達した。

 この政府の執った措置に対しても朝鮮人からの批判は多い。震災直後の状況では歩いて移動せざるを得なかったが、これを「歩かせての強制連行」だと主張する史料が多いのである。その収容中の待遇に不平不満を言い募り、「飯がまずい」、「強制連行された」、「扱いが乱暴だった」と朝鮮人たちが文句を並べたことが記録に残っている。

 政府は朝鮮人を軍の施設に収容することで、過剰防衛に走りがちな自警団から隔離・保護し、炊き出しをして握り飯を配給し、毛布を配り、負傷者には医者・看護婦を待機させ手厚い救護・看護を施した。そうした待遇については全く顧慮することなく、不平を言いたて、「野宿同然だ」、「食糧が足りない」、「手当てが遅い」、「自由がない」などと騒ぎたてたという。一方で、被災した日本人は、東京市当局が用意した公共建物等へ避難できたものはわずかで、大多数の日本人は橋の下や壊れた家の軒下に野宿したり、仮小屋を建てたり、樹木に蓆をかけるなどして雨露をしのぎ、食糧の不足する中で助け合い、便所もない悲惨な生活を送った。

 次いで9月7日、政府は「三大緊急勅令」といわれる命令を公布した。その勅令とは、「暴利取締勅令」、「支払猶予の緊急勅令」及び「流言浮説取締令」である。ここで問題となる3番目の「流言浮説取締令」の内容は次のようなものであった。
 出版通信その他何等の方法をもってするを問わず、暴行騒擾その他生命身体若しくは財産に危害を及ぼすべき犯罪を煽動し、安寧秩序を紊乱するの目的をもって治安を害する事項を、流布し又は人心を攪乱するの目的をもって流言浮説を成したる者は、10年以下の懲役若しくは禁錮又は3000円以下の罰金に処す。

 この勅令は、事実上「朝鮮人による暴動等の報道を禁ずる」ものであった。さらに9月16日になると、内務省は新聞・雑誌等への検閲を強化する命令を発したばかりではなく、日本国民が朝鮮人を積極的に好ましく思いたくなるような報道干渉に踏み込んだのである。新聞記者は焦土の市内を走り回って、朝鮮人による善行や小さな親切話を必死に探し始めた。もとより朝鮮人のすべてがテロリストではない。新聞記者がその気になって探せば、街中で美談をもつ朝鮮人に出会うのはさほど難しいことではなかった。かくして「善良なる朝鮮人」が新聞に紹介され、朝鮮人を救う国家的運動が始まった。

 9月5日付で赤池濃に替って警視総監に就任した湯浅倉平の記者会見で「鮮人の爆弾、実は林檎」といった話が紹介され、「鮮人団相愛会が無償で道路工事」、「鮮人に救われた老婆」などのとってつけたような美談記事が掲載された。

 山本内閣にあってこのような鮮人保護政策を強力に推進したのは、後藤新平内相であったことは疑いない。後藤の真意はどこにあったのか?元々医師・医学博士でありながら、台湾総督府民政局長、満鉄初代総裁、東京市長、逓信大臣、初代鉄道院総裁、拓殖大学学長、社団法人東京放送協会初代総裁、二度の内務大臣、ボーイスカウト連盟初代会長など多彩な業績を残した後藤新平は、大杉栄に資金援助するなど社会主義者とも親交があり、孫など近い縁戚に共産主義者がいる。「大風呂敷」と渾名され、つかみどころのない人物であることは論を俣ないが、熱心な皇室尊崇者であり、朝夕大正天皇の御真影への礼拝を欠かさなかった後藤は、台湾統治の実績等から推し量っても心の底から日本を発展・進歩させたいと願っていたことは想像に難くない。
 震災当時警視庁にあって治安対策の中心にあった正力松太郎警務部長は、朝鮮人暴動の報に接したとき、徹底的にこれを制圧する決意に燃えていた。ところが内相が後藤に替り、後藤から朝鮮独立運動家たちへの対策についての並々ならぬ決意を聞かされると、一転、後藤の方針に従うことに変心した。
 後年、野球を縁に正力と知己を得た池田恒夫氏(工藤美代子の父、「ベースボール・マガジン社」創業者)は、正力から次のような裏話を聞いたという。
後藤が自分を呼んで次のように言った。「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのまま引き下がらないであろう。必ずその報復が来る。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったぐらいでは済まされない。
だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね。」
 38歳の正力警務部長は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激して、後藤の崇拝者となる。前述のように、皇室(特に摂政宮殿下)を狙ったテロを極度に恐れていたのが後藤を筆頭とする政府の中枢であり、その兆候となる事件も多発し、朝鮮総督府からの情報もあったため、彼らを追い詰めたり、怒らしたりすることは極力避け、抗日朝鮮人団体との宥和を図ることが得策だと判断したのであろう。後藤にとって、摂政宮をはじめとする皇室をテロから守ることが何事にも代えがたい最優先事だったのである。

 ところが後藤の予言は違う方向から現実となった。正力は、同年12月27日、社会主義者テロリスト難波大助によって実行された「虎の門事件(摂政宮・裕仁皇太子殿下狙撃事件)」の警護責任により湯浅警視総監とともに内務省を懲戒免職になり(山本内閣も総辞職)、読売新聞社を創業することになる。(その際、後藤新平は自邸(現支那大使館)を担保に借金し、正力の創業資金を融通した)

 そして後藤を中心とした政府の「朝鮮人暴動流言説」の流布によって、
「関東大震災・朝鮮人虐殺事件」は定説化したのである。
 10月21日、朝鮮人が起こした事件の報道禁止の差し止めが解除されると翌10月22日から震災当時の朝鮮人による事件が報道されるようになった。10月21日の時点では、すでに取り調べが終わり起訴された朝鮮人による事件は十数件に上り、その他に治安警察法違反・窃盗・横領で起訴された朝鮮人が23人いた

4 自警団と殺害された朝鮮人

(1) 自警団

 戦前の町内会など末端の地域社会の緊密さは現在の日本社会では想像できないほど強いものであった。日本の自治の伝統は中世の「惣村」に始まり、江戸時代には「自身番」といわれるような町内の治安維持にあたる自衛組織がおかれた。
大地震発生直後、各町村では、消防組、在郷軍人会、青年団等が火災防止・盗難防止をはじめ罹災民の救援事業に協力した。被害を受けなかったあるいは軽微だった地域では炊き出し・救護の受け入れ場所を設け、避難民を温かく迎え入れた。その中心となったのが町内会などの自治組織であった。警察や軍隊などの治安維持機関が相当な被害を受けたと推定される中で、これらの自治組織が自衛組織化するのは自然の成り行きであった。

 残念ながら「火事場泥棒」に類する犯罪を企てる輩はどこにでもある。日本はそのような犯罪者が最も少ない国であり、今次東北大震災においても世界のジャーナリズムは、秩序を失わず冷静に行動し略奪が起きない日本社会を賞賛した。自警団の当初の目的は、避難民救援等に機動的に対処できる組織とし、合わせて火事場泥棒的な犯罪を防止することであった。そのような場合の自警団がもつ得物は、通常竹刀とかせいぜい木刀くらいで、いきなり日本刀を持ち出すのは異様である。当時の日本人は、明治以来、半世紀以上法治国家の中で生きてきており、殺傷能力の高い武器を集団で持つことが刑法に違反することぐらいは十分知っていたはずだ。

 ところが、朝鮮人暴動が多人数の組織的なものであることが伝わると、主たる目的が朝鮮人襲撃団からの防衛に変わった。日清・日露と戦場で弾の下をくぐってきた経験のある日本人は、日本刀、竹槍、鳶口、棍棒などの武器を集め、戦闘力を強化した。

 自警団は自分たちの町や家族を守るため、関所のようなものを設け、通行者を誰何した。また隊を組んで町内を巡回した。吉村はこれを《手当り次第に通行人を呼びとめては訊問する。
凶器を手にした自警団は、完全な暴徒集団に化していた。男たちは、町内を探し回って朝鮮人を発見すると、これに暴力を加え縛り上げて傷つけ、遂には殺害することさえした。被害者は、朝鮮人のみではなかった。通行中の日本人も路上で訊問を受けたが、凶器をたずさえた自警団におびえて答えることもできない。自警団員は、国歌をうたってみろとか。いろはがるたを口にせよとか命じる。気も動顛した通行人がまちがえると、日本人ではないと判定される。殊に地方出身者は言葉に訛りがあるので、自警団員の疑惑を深めさせた。また中には気丈にも自警団員の暴行に憤激して反撥した通行人もいたが、それらはことごとく袋叩きに遭い、凶器で殺傷される者も多かった。自警団員たちは、一般庶民がおびえるので益々増長し、略奪、暴行、殺傷をほしいままにする者まで出てくるようになった。》と書いている。この文章は、しばしば支那大陸などにおけるいわゆる「日本軍の蛮行」を描く本田勝一などの反日文化人の書きぶりに酷似している。戦前の日本人は、現代の日本人とは著しく性質を異にする非道・残虐な野蛮民族であったかのような書きぶりである。

 9月1日の昼頃までは、日本は治安力の優れた完全な法治社会であり、東京は平和な普通の生活を送る人々で満ちていた。その日の夜から翌日にかけて、それらの通常生活人が24時間も経たないうちに凶暴な暴力団以上の人間に豹変できるだろうか。東日本大震災において東京地下通路で帰宅困難者となった経験から考えると、まことに想像を超えた風景のように思えてならない。また、震災当時、東京市内に1万人足らずの朝鮮人がいたとみられ、地域によっては朝鮮人が多く居住する場所があったかもしれないが、それは特別で東京といえども朝鮮人が徘徊することは滅多になかったはずであり、自警団はそういった地域の事情にも通じていたであろう。当時の日本人は、自衛とはいえ、武器を携えて公地・公道にたむろすることは違法であることぐらいは承知していたはずであり、他人を殺傷する場合は原則正当防衛又は緊急避難等の非常時にしか認められないくらいは念頭にあったであろう。

 その中で、自警団員によって朝鮮人が殺傷される事件が起きたとすれば、それなりの事情があり、誤って無辜の朝鮮人や日本人が攻撃を受けたこともあったに違いない。
また、血の気の多い一握りの自警団員の中には軽挙妄動に出る者もいたであろう。特に、朝鮮人の襲撃によって被害を受けた地域の自警団員には行き過ぎた報復があり、吉村が描写したような光景が見られたかもしれないが、それはむしろ稀なケースであったに違いない。

 9月7日、後藤内相の主導した朝鮮人宥和策に基づき発出された勅令「流言浮説取締令」によって自警団は武器の放棄又は解散を余儀なくされ、10月には自警団が本格的に取り締まられるようになり、11月には解散が命じられるようになった。
 その後、警察は朝鮮人や支那人などを襲撃した自警団員などを逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。そのほとんどが執行猶予となり、実刑となった日本人はいない。後藤新平が正力松太郎に打ち明けた「自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね。」という言葉はここで実行されたのではあるまいか。

(2) 虐殺された朝鮮人の数

 それでは、関東大震災で何人の朝鮮人が虐殺されたのか?これもまた諸説あり、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2,613人余、最も犠牲者を多く見積もるものとしては大韓民国政府による1959年の公式発表で「数十万の韓国人が大量虐殺された」と主張するものがある。上海の大韓民国仮政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での6,661人という数字があり、「在日関東罹災朝鮮同胞慰問班調査」では2607人となっている。内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、支那人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった。
 最近発見された英国大使館から本国へ打電した文書では次のような報告となっている。
1923年12月24日 在東京英国大使館より本省への報告(日本政府)当局はすぐに法律と秩序を保つために行動に出ました。戒厳令が布かれ、軍部の適切な行動により深刻な暴動や掠奪はありませんでした。しかしながら市内では、建物に放火をしたということで、僅かな(a few)の朝鮮人が人々に殺されたように見受けられます。朝鮮人労働者です。朝鮮人の中には一定の不平分子たちがいて、彼らが放火の罪を犯した可能性があります。(ロンドン・ナショナル・アーカイブス所蔵 Fail No,F280)
 工藤は、震災後、日本当局に保護された朝鮮人の数から推量している。前述のように東京における在日朝鮮人の数は、約9,000人(労働者6,000、学生3,000)であり、そのうち震災時に帰郷・出張・休暇などで被災圏外に出ていたものは約2割ほどいたとの公式推定がある。従って東京には7,200人、これに神奈川県などの近県にいたと推定される2600人を加算すると、9月1日関東大震災が起きた時間にいたと思われる朝鮮人は、9,800人となる。この数字が最も基礎的な値である。

 それでは震災後、日本官憲によって保護等を受け、確認された朝鮮人は何人いたのか。それを次表に挙げる。
1 9月15日までに習志野陸軍廠舎に収容したる鮮人 3,169名
2 労働者4000名主として本所深川川辺に居住せり。目下警察署に収容し保護を加える 4,000名
3 埼玉、栃木両県下各警察署等において、保護中なりし鮮人 471名
4 神奈川県庁において、鮮人を収容し保護を加えつつあり 40名
5 目黒競馬場に収容保護を加えつつあり 617名
保護されている朝鮮人の合計 7,697名
大震災で死亡又は虐殺された朝鮮人は、 9800-7697=2103 2,103名
 大正12年の東京市の人口は約200万人であり、そのうち約10万人が震災で圧死、焼死などで死亡あるいは行方不明となった。東京市全体の平均被災死亡率は約5%となる。
とりわけ死者・行方不明者の大多数を占めた隅田川東岸の本所・深川あたりの下町には朝鮮人が多く居住しており、58,000人を超える被害を出した。大震災に関連して死亡した朝鮮人約2,100名のうちその多くがこの58,000人の中に含まれていたものと推定される。本所・深川区の大正12年当時の人口は、それぞれ約25万人、約18万人である。
こうち不在していた者を除く約40万人が被災した。そして58,000人もの被害となった。その死亡率は実に約15%にもなる。朝鮮人がすべて本所・深川にいたわけではないが仮に朝鮮人の被災死亡率をこの15%とすると、震災で圧死・焼死などで死亡又は行方不明となった朝鮮人は(9,800×0.15)1470名と推定される。つまり、人の手によって殺された朝鮮人は、どんなに多く見積もっても(2,103-1,470)
633名を超えることはないと考えられる。

 虐殺人数の諸説のうち、1,000名を超える説は明らかに過大であり、司法省等政府の公式発表の約230名あたりが最も信憑性の高い数値といえよう。この殺害された230名余の朝鮮人の内訳は明確ではないが、実際に放火・強姦等を働いた者、徒党を組んで来襲したため自警団との間で闘って死亡した者、善良な市民であったにもかかわらず誤って殺された者が混在しているものと考えられる。

5 おわりに
 震災当時64歳という当時としては老境にあった著名な平和主義者でありキリスト教思想家であった老人が、夜毎の自警団の夜警任務に就いていた。その老人とは、日韓併合に対しては反対の立場を貫き、伝道の体験から自ら「朝鮮贔屓」と称して憚らなかった内村鑑三である。その警備活動の仔細が彼の日記に残されている。
9月3日(月) 雨 震動やまず。食物僅かに3日分を残すのみ。その供給に苦心した。近隣相助けて相互の慰安と安全とを計った。放火の恐れありとて各家警衛の任に当った。
9月6日(木) 晴 昨夜やや強度の震動3,4回あり。夜警、前日に異ならず。(略)今井館聖書講堂を警衛のために上京した仙台第2師団第3中隊第2小隊の営所に提供した。この際最も適当の使用法と信じて嬉しかった。平和の福音を説く所に、銃剣のかくかくたる音を聞くは今度が初めてである。
9月22日(土) 晴 過ぐる半ヶ月間滞在せし仙台第2師団第3中隊第2小隊の兵士が今日、今井館を去った。彼らに対し厚き感謝のなき能はずである。民に平安を与える為の軍隊であると思えば、敬せざるべからず、愛せざるべからずである。我らの彼らを労うの甚だ薄かりしをうらむ。
10月5日(金) 晴 昨夜順番に当り、自警団の夜番を務めた。内村医学士(息子)、金剛杖をつき、提灯を持って前に進み、老先生(鑑三)拍子木を鳴らしながらその後に従う。昼間は到底演じ難き業である。震災が産み出せし滑稽の一つである。
 「流言浮説取締令」が出て、自警団による武器をとっての自力防衛は禁止されたが、町内会等で自警団を編成しての夜回り等犯罪防止活動は長く行われたことがわかる。
 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件は、韓国における反日・侮日運動の絶好の材料となり、戦前においては朝鮮独立運動派によって利用された。
 前述した「ロンドン・ナショナル・アーカイブス所蔵 Fail No,F280」には、震災直後に配布された謀略宣伝用の小冊子が添付されていた。それは、朝鮮人独立運動家の誰かが北京総領事に持ちこみ、北京から横浜総領事が郵送で受け取った小冊子であり、チラシも同封されていた。それを在日本英国大使館が本国へ送ったものである。その冒頭には、在日英国大使館の所見・説明が記されていた。
1924年5月12日 横浜の英国総領事が郵送で受け取った『朝鮮独立運動の朝鮮人』発行の小冊子とチラシをここに送付いたします。
 小職の複数の報告でお分かりの通り、大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いない事実であります。しかし、不幸な出来事はこの小冊子の筆者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を煽動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。
東京や横浜の住民は、恐慌状態に陥り、朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、欧州人を含む事情通の多くは、そう住民が思いこんだのには根拠が全くないわけではないと考えていました。
 閣下の最も従順で謙虚な奉仕者であることを名誉に思い、最高の敬意を表して
             在京イギリス大使 署名
以下、小冊子本文の要点を記す。
 原野で道に迷った羊が獰猛な野獣の餌食になったように、自由を失った人間は抑圧する者の犠牲になった。 日本では大震災のさなかに、多数の罪なき朝鮮人が何の挑発行為や大義もなしに血に飢えた日本人によって虐殺された。日本人が犯した恐るべき残虐行為の証拠は、以前は入手できなかった。日本政府が生き残り朝鮮人による調査を一切禁じたからだ。この問題は甘言と脅しによって闇に葬られた。それでも、一部の朝鮮人は勇敢にも危険を冒して手の届く限りの調査をし、悲惨な出来事を次のように描写した。
 
1923年9月6日頃、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、『朝鮮人の老若男女を街角で見かけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ』と指示した。無線で命令が出されるや、悪魔のような殺し屋が、銃、刀、火かき棒、斧、こん棒など利用できるあらゆる武器を手に、四方に散らばり街頭や家々、森、川船、丘陵地帯などで朝鮮人狩りをした。 騎馬兵はあらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、銃撃を加えて皆殺しにした。・・・警察は保護を名目に朝鮮人を追い回し、警察署の敷地内にある小屋に集めた。そこで朝鮮人は空腹の狼におわれた羊のようなものだった。この罠で警察は朝鮮人多数を捕え、他の人々に気付かれないよう夜か早朝に殺害した、・・・ しかし最も痛ましい殺人は、いわゆる自警団や民衆によって行われた。『朝鮮人だ、朝鮮人だ』と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。彼等は朝鮮人を電柱に縛り付け、眼球をくりぬいて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。彼等は朝鮮人の首を少し長い縄で縛り、車の後ろにくくりつけて走らせた。彼等は朝鮮人の手を鎖で縛り、道を裸で歩かせ、犠牲者が命令に反抗すると棍棒で殴って殺した。 非常に野蛮な女性殺害の方法を詳しく記述するのは品を欠くことになる。例えば、彼等は女性の両側から足をつかみ、日本人的なさまざまな残忍な方法で、笑いながら、『女性を殺すのは面白い』と言いながら体を引き裂いた。・・・・・・
 
1923年9月6日に日本政府は、朝鮮人殺害を中止するように指示を出した。自らの政策が犯罪的なのを承知している日本政府は、この問題を闇に葬るため、さまざまな計略を試みた。警察と憲兵隊は殺人への関与から一転して『朝鮮人を保護しようとした』と主張した。このニュースが世界に漏れないようにするため、彼等は朝鮮人が故郷へ帰るのを禁じた。世界で最も不幸な国は朝鮮であり、最も惨めな人間は朝鮮人である。2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは『日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと』だ。
 上記についてコメントはしないが、いわゆる従軍慰安婦問題のように世界中いたるところで執拗に反日宣伝を繰り返している韓国及び韓国人の性向から、この問題もいつかまた日本攻撃材料として復活利用される恐れもなしとはしないことを銘記しておく必要があろう。(終)

*参考文献 『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』 工藤美代子 著 産経新聞出版 2009.12.8 第1刷
      『関東大震災』  吉村昭 著   文春文庫   2004.8.10 第1刷~
2011.5.10 第10刷
      その他Web.資料