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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 関東大震災・朝鮮人虐殺事件の真相                  平成25年9月15日 作成 正岡 富士夫


1 時代背景
(1) 関東大震災前の5年間(大正7(1918)年~大正12(1923)年)のおもな出来事
                                                                 第1表
国内政治・経済・社会等 朝鮮半島 支那 欧米
大正7
(1918)
米騒動勃発・寺内内閣退陣
シベリア出兵
原敬内閣成立
孫文が広東軍政府樹立 ロシア革命
大正8
(1919)
ベルサイユ条約調印普選運動 斉藤実総督就任
高宗死去
三・一運動
渡日制限
五・四運動 コミンテルン結成
大正9
(1920)
経済恐慌、ストライキ多発
第1回メーデー
国連加盟(常任理事国)
梨本宮方子女王李王家に嫁す
間島事件
地方制度改正
産米増殖計画
広東軍政府崩壊 尼港事件
国際連盟成立
カ州排日法
大正10
(1921)
原敬暗殺
ストライキ多発で軍隊出動
友愛会から日本労働総同盟へ改組
ワシントン会議
日英同盟破棄(四国条約成立)
孫文が広東政府総統
支那共産党結成
ナチス党結成
大正11
(1922)
株価暴落・不況慢性化
日本共産党(非合法)結成
海軍主力艦制限条約
シベリア派遣軍撤退

上野平和博覧会開催
日本農民組合結成
水平社結成
水力電気調査開始
渡日制限解除
奉直戦争 ワシントン軍縮条約
ソ連邦成立
ムッソリーニがローマへ進軍
大正12
(1923)
第一次共産党事件(堺利彦逮捕)
石井・ランシング協定廃棄
日本 の中国における特殊権益の
承認と、中国の領土保全・門戸
開放・機会均等を定めた1917年
の日米協定
21カ条廃棄を要求日本拒否
孫文が大元帥となる
仏等がドイツのルール占領
  赤:共産党情勢青:経済不安情勢緑:国際政治情勢の変化


(2) 日韓併合と朝鮮人虐殺事件

 日本の朝鮮統治に対する理解と朝鮮人虐殺事件の真相に対する判断は深く関連している。日本が武力を背景に強引に併合し、朝鮮人に対する苛酷な植民地支配を行い、全 朝鮮人の恨みをかっているために、大震災の混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしても不思議ではないと多くの日本人が思いこんでおり、その日本人の思いが、朝鮮人による 強盗、放火、強姦などの暴力犯罪が発生したとの根拠なき流言蜚語が伝えられる原因となったとするのが朝鮮人虐殺肯定説の主たる論拠となっている。
 事実にこだわる(?)ノンフィクション作家といわれる吉村昭 は、その名著(?)『関東大震災』(昭和48年)において次のように記述している。
 1吉村昭 昭和2年(1927年)~平成18年(2006年)。東京生まれ。1966年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や 『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表。日本芸術院会員。

《大地震が起こってからわずか3時間ほど経過した頃、すでにその奇怪な流言は他の様々な流言に交じって人々の口から口へと伝わっていた。それは「社会主義者が朝鮮人と 協力し放火している」という内容であった。
 その流言は、日本の社会が内蔵していた重要な課題を反映したものであった。
 第一次大戦以後、資本主義化の過程をたどっていた日本は、最大の難関を迎えていた。
財閥は資本の蓄積につとめることに狂奔し、庶民の生活は極度に圧迫されていた。 それに対して政府は、軍部の要請にもとづいて明治以来の富国強兵策を政策の中心に据え、財界との連携を深めることに終始していた。
 そうした政治姿勢に対して庶民の不満は募り、米騒動をはじめとした運動が全国的に広がっていた。が、政府はこれらの素朴な反発を根本的に解決しようとすることはせ ず、官憲による弾圧でそれに対した。
 そのような歪んだ社会情勢のなかで、明治後半にきざし始めた社会主義運動は活発化し、政治結社が続々と結成され、全国各地でストライキも頻発していた。
当然政府と 軍部は、社会主義運動を敵視した。その運動の拡大は国家形態の破壊を促し、庇護されている財界を混乱させることに通じるからだった。
 政府は、官憲を駆使して社会主義者に苛酷な弾圧を試み、大地震の起こった3か月前の6月5日には、第一次共産党員の検挙を実施した。そして、庶民に対し、社会主義者 は国家秩序をくつがえす恐るべき意図を抱いていると宣伝し、一般庶民も運動家を忌避する傾きが濃かった。
 朝鮮人に対する日本民衆の感情は、社会主義者に対するものと異なっていた。
 日露戦争勃発後、日本は大陸からの軍事的脅威を緩和させるため朝鮮を重視し、明治37年2月には日韓議定書を締結した。この議定書は日本が朝鮮を従属させる第一歩と なったが、強圧的な日本の態度に朝鮮国内の日本に対する反感は高まった。
 さらに日本政府は、強大な武力を背景に朝鮮を保護国とすることを企て、伊藤博文を初代統監とする統監府を設けて内政をすべて掌握してしまった。そして、明治43年8 月には、最後の手段として強引に朝鮮を日本領土として併合したのである。
 このような日本政府の行為は、朝鮮国民を憤激させ、朝鮮各地に暴動が発生したが、日本政府は軍を派遣してその鎮圧につとめさせた。
 日本政府は朝鮮を領有することに成功したが、
朝鮮人の憎悪は募るばかりで伊藤博文がハルビン駅で安重根に射殺されるなど各種の事件が続発した。
 日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、日韓議定書の締結以来その併合までの経過が
朝鮮国民の意思を完全に無視したものであることを知っていた。また統監府の苛酷 な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れ込んできていた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらもその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気 づいていた。そして、そのことに同情しながら、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。
 つまり、
日本人の内部には朝鮮人に対して一種の罪の意識が潜んでいたと言っていい。ただ社会主義運動家のみは朝鮮人労働者との団結を強調し、前年末には朝鮮人労働 者同盟会の創立を支援していた。
 
そうした社会的背景のもとに、大地震の発生した直後、社会主義者と朝鮮人による放火説が自然に起こったのである。日頃から革命を唱えていた社会主義者の一群は、無 警察状態になった日本の首都東京を中心に積極的な活動を開始するかもしれぬと判断され、また祖国を奪われ苛酷な労働を強いられている朝鮮人が、大災害を伴う混乱を利 用して鬱積した憤りを日本人にたたきつける公算は十分にあると思えたのだ。》
 事実を徹底的に調べ上げて書くノンフィクション作家であるという吉村の文章とは思えない。大震災が起きた大正後期は、「大正デモクラシー」が最高潮に達した時期で ある。不思議なことに吉村の文章には「大正デモクラシー」という語さえでてこない。それなりに国民の自由や人権が尊重され、部分的な矛盾を抱えながらも資本主義経済 が進んだ時代であり、決してスターリン時代のソ連や毛沢東時代の支那のような暗黒の強圧的な政治が行われたわけではなかった。吉村は、満洲事変以降の日本が紛争から 戦争への泥沼へ突っ込んでいき、戦時色を強めて社会全体に暗雲がたちこめた昭和10年代以降のようなイメージで大震災前夜の社会背景をイメージしている。
 明治末から大正の日本国民は、デモによって内閣を総辞職へ追込むほどの力をもっていたわけであり、「日比谷騒動」や「米騒動」によっても内閣は退陣させられたので ある。
 朝鮮の実情に関する吉村の認識では、
「日本が統治する前の朝鮮はまあまあの政治が行われており、朝鮮国民もまあまあの生活をしていた」ということが前提になってい るようにみえる。
  現実の朝鮮社会はどうであったか。日韓併合前の朝鮮は
不労、略奪、放恣にふける両班がソウルから地方までいたるところで跋扈する紊乱を極めた社会であった。民衆にと っては苛斂誅求の時代でありながら、時代に目をそむけた慕華思想、事大主義などの因習に囚われた李朝政府に改革の意欲は乏しく、自力更生の気力なく、朝鮮は独立国家 としての統治能力を喪失していた。
  20世紀を目前にしたこの時代においてさえ、中央や地方の官職は両班の間で売買され、政府から官吏・役人に官職に応じた給与は支給されなかった。買官や賄賂に要した費 用を在職間に取り返しさらに蓄財するため、農民から搾取の限りを尽くすことは役人の当然の役得とされていた。イザベラ・バード の言葉を借りれば、
「朝鮮の官僚は大 衆の生き血をすする吸血鬼」であった。政府官僚の大半は、どんな地位にいようがソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下に任せ、任地の住民を搾取の対象 ととらえ、住民の生活向上については考えようとしなかった。朝鮮には公正な官吏の規範は存在しなかった。
 イザベラ・バードによれば日本が統監府を設け改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかったという。
盗む側盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす 膨大な数の人間がいた。「搾取」と「着服」は上層部から下級官吏に至るまでの慣わしであり、どの職位も売買の対象となっていたのである。
 学校制度についてみれば両班の科挙受験のために学ぶ塾しかなく、近代的な教育は皆無だった。イザベラ・バードは当時の支配層である両班の堕落ぶりを活写している。 「両班は自分では何も持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。
伝統上、両班に求められるのは、究極の無能さ加 減である。両班の従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の一般民衆は、両班によっ てその労働力と生産物を搾取され、過酷な圧迫を受けていた」と。
 そしてイザベラ・バードは次のように結論している。「
朝鮮についていくらかでも知っているすべての人々にとって、現在、朝鮮が国として存続するには、大なり小なり 保護状態におかれることが絶対的に必要であるのは明白であろう。日本の武力によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗した行政と いう重荷に朝鮮はあえぎ続けている。堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難極まりなかった。発展を目指した前進を達成するため、 唯一望みを託せる道は、鋼鉄の握力で手綱を引き締め続けることである
 李朝が極度に腐敗したどうにもならない王朝であり、歪みきった身分社会のなかで、国民がどれほど悲惨な生活をしていたか、徹底した事実調査を行うことで定評のあっ た吉村は考えることが出来なかったのであろうか。不思議である。

 吉村は、伊藤博文が朝鮮併合に反対であったことについても触れておらず、その暗殺テロが併合を促進したことに対する認識すら見られない。 当時の一般日本人に一般朝鮮人への罪の意識が潜んでいたというのはとんでもない勘違いである。李朝下での政治システムでは日韓併合に関する朝鮮国民にその意思を表現 する手段はなかった。朝鮮大衆は、彼らが内心どう思っていたかは別にして、日本の関与によって李朝の堕落しきった暴政から救われ、そして統監府や総督府が推し進めた 教育制度の改革など近代思想の扶植によって民族独立の気概を纏ういささかの余裕を得たのである。日韓併合について、日本社会のなかには余分なお荷物を背負ったとする 反対があったが、そのために朝鮮大衆に苦難を強いて申し訳ないと考える日本人は少なかったはずだ。なによりも朝鮮社会の現実がそれを明確に示していたからである。

 2イザベラ・バード:(1831年~1904年)イギリスの女性旅行家・紀行作家。最初の朝鮮訪問は1894年。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『朝鮮紀行 』を著す。


 吉村は明確に筋道立てて説明していないので補足すると次のような論理になるのであろうか。
 
日韓併合によって穏やかな生活をしていた朝鮮人は、苛酷な生活を強いられるようになった日本人は朝鮮人に対する罪の意識があったそれが朝鮮人による暴動を予見 させたその予見が朝鮮人による放火などの流言蜚語を生む可能性があったゆえに流言蜚語である
 ノンフィクション作家工藤美代子 は、その著『関東大震災・朝鮮人虐殺の真実』において朝鮮統治の内容に多くの紙面を割いている。それは吉村氏の論理の背景に、「日 韓併合は朝鮮国民を圧政のもとに苦しめた苛酷な統治である」との認識が存在するとみたからであり、それは的を射ている。
 吉村は次のようにも書いている。《大地震の起こった日の夜7時頃、横浜市本牧町附近で、「朝鮮人放火す」という声がいずこからともなく起った。それは、東京市内でさ さやかれていた社会主義者と朝鮮人放火説とは異なって、純然と朝鮮人のみを加害者とした流言だった。その流言が誰の口からもれたのかは、むろん明らかではない。ただ、
日本人の朝鮮人に対する後ろ暗さが、そのような流言となってあらわれたことはまちがいなかった。》  この文章も前述の文章とほぼ同様論理に飛躍があり、どういう理屈でそのようになるのか理解不可能である。これを工藤は、「奇怪な論法」と評している。吉村にとって の「朝鮮人暴動は流言」という最大の根拠は、「日本の朝鮮人民に対する苛酷な統治」だということだ。彼の論理を逆手にとれば、日本の韓国統治が苛酷でなく、朝鮮社会 の改善・向上、生活の質の向上に繋がるものであれば、「朝鮮人暴動は流言ではない」、つまり一定の事実に基づいた情報であったことになる。
 すでに説明したように、論法以前に吉村の論理はスタートで破綻している。日韓併合によって朝鮮人の生活は大きく改善され、わずか30年余で人口が倍増するほど急速に 庶民生活が向上したのだ。併合後13年が経過した大正12年頃は、まさに日進月歩の改善であったろう(大正11年には、小学校が1校/3面まで急増)。それらの事実は当時 の日本人も現在の我々以上に知っていたはずである。現代と同様、当時も朝鮮に対する贖罪意識をもつ一部の日本人がいたことを否定しないが、それが日本社会の大勢とな ることはなかったに違いない。  事実の認定と論理の両方において、吉村の流言蜚語説は成り立たないことがわかる。日韓併合という時代背景は、必ずしも流言蜚語を誘引するものではなかったのである。
 むしろ「日韓併合が朝鮮人の暴動の原因となった」というのであればよくわかる。この場合、朝鮮人による放火・強盗・強姦・爆発物テロなどは、大震災の後本当に行わ れたのであり、自警団等による朝鮮人殺害は自衛行為だったということになる。
 中東で行われている際限なきテロや紛争をみていると、そこには日本人には到底理解できない論理がある。「なぜ、戦闘をやめて平和で豊かな生活ができるよう国民は協 力しないの?」と日本人は素朴に考える。しかしアラブの人々はそうは思わない。価値観が違うのである。日韓併合も結果として朝鮮人を物質的に豊かにしたが、一部の過 激かつ思想的朝鮮人にとっては、「日本国家から与えられる豊かさ」ほど忌まわしいものはなかったのである。いつかは日本という国を滅ぼし、あるいは滅ぼすことができ ないまでも、反抗し復讐したい、その絶好の機会が大正12年9月1日、関東大震災という未曽有の天災によって訪れた、とその機会を狙っていた朝鮮人が考えても不思議はな かった。なにしろ日本の首都がほぼ壊滅状態に陥ったのである。上海に臨時政府をつくっていた李承晩も欣喜雀躍としたことであろう。

 3工藤 美代子 昭和25年生れ。一時期つくる会副会長。父はベースボール・マガジン社および恒文社を創設した池田恒雄、母の実家は両国の工藤写真館。両親が離婚した ため工藤姓を名乗る。数度の結婚離婚を繰り返す恋多き美女。


 
(3) 李承晩の謀略
   上海に仮政府を置き、朝鮮独立運動を推進する活動家の主たる舞台は、朝鮮ではなく、支那・満洲あるいは日本内地であった。第2表に列挙するように、震災以前に全国いたるところで抗日運動組織が活動しており、爆発物や銃器・弾丸などが押収され、また資金集めのための銀行強盗が朝鮮半島で起きていた。

 彼等が日本政府に出来るだけ大きな衝撃を与えるべくテロを計画するのは当然の成り行きであった。逮捕された不逞鮮人の多くが自白したところによると、テロの標的は、大正12年11月27日に予定されていた「東宮殿下御成婚の御大典」であった。もちろん、内務省警備当局も彼等朝鮮独立運動家たちの不穏な動きを察知し、その最大の危機が11月27日に訪れることを極度に怖れていた。

 ところがその前に大震災が起きると、朝鮮独立運動家たちはこれを最大の好機としてテロ活動を開始したと考えられ、捕縛された不逞鮮人も「震災によって御大典の延期される可能性が大であり、大震災を好機として実行した」と自白している。

 もちろん、こういった規模の大きい念入りのテロは、上海仮政府の朝鮮人の力だけでは実行は難しい。その背後にはコミンテルンがあったことはほぼ疑いない。震災当時、朝鮮総督府警務局警務部長の職にあって内鮮融和に実績を挙げていた丸山鶴吉は、次のような報告を上げている。

 《従来日韓併合記念日(8月29日)に際し、日本人の意気揚々たるものあるに反し、朝鮮人は祖国喪失の悲哀を感じ快々として楽しまざりしが、今次の震災は正反対に、朝鮮人は楽観し、日本人は悲観し居れり。蓋し凶暴日本に対する天の責罰なり云々と洩らし、社会主義者及び之に類するソウル青年会、労働連盟会、朝鮮教育協会、天道教等は帝都の大惨禍及び山本総理の暗殺説等を吹聴し、這回の異変は之偶然の事にあらず日本革命の象徴なり。近く各地に内乱起こり、現在の制度は改革せらるあるべし》
(『現代史資料6』朝鮮総督府警務局文書)

 朝鮮全土の反日運動系の団体は、日本内地で同志たちによる暴動から内乱へ、そして革命への道が開かれた如く、震災後の日本情勢を観ていることが分かる。9月6日頃になると、内地における朝鮮人による放火、強盗、強姦、殺人、井戸への毒薬投入、爆弾投擲などの震災に乗じた犯罪行為の情報が入り、これまで快哉を叫んでいた一般の朝鮮人も、同民族の卑劣な非人道行為に恥じ入る気持ちへと変わり、大勢に順応して罹災民救済慰問金の募集に参加する者が増えたという。さらに、震災地における朝鮮人の安否情報が届き、約6,000名の生存者氏名が新聞に掲載されると、一斉に安堵の声が朝鮮全土に広がった。

 一方過激な反日運動団体は全く違う反応を見せたと報告されている。

 《共産主義を鼓吹する者及びこれらに依り組織されたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の損害よりも之に伴う火災の損害が最甚大なる模様なるが、
火災はわれらと志を同じうせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり。我らはこの壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべく期待し居りたる○が戒厳令布かれ遂にその目的を達する能はざりしは遺憾なりと同志間にて語り合う者あり》(『現代史資料6』朝鮮総督府警務局文書)

 上海の抗日組織「義列団」の団長金元鳳は、震災前後に北京に滞在していたが、これを好機ととらえ、9月9日部下を集めて天津から東京へ向かわせたとの情報も警務局に入っていた。「義列団」は、爆弾50個を安東に向け発送したという情報も警務局はつかんでいた。こうしたことから朝鮮総督府は上海方面の情報収集に努め、上海仮政府発行の「独立新聞」が災害記事を過大に記載し、朝鮮人の団体と日本軍が衝突し、日本軍閥が滅亡したという記事を掲げていることも承知していた。

第2表
年月日 新聞(タイトル) 記事の内容
大正9年
2月21日
大阪毎日
15万円強奪の不逞鮮人の片割れ神戸にて捕わる 1月4日朝鮮銀行が朝鮮羅南より間島鮮銀出張所に輸送中なりし銀行券15万円龍井村に於いて護衛巡査他1名に重傷を負わせ、該券を強奪し去りたる不逞鮮人尹駿煕外4名が浦塩に於いて逮捕され、2名は逃走行方不明なる事は当時報道したる如くなるが、7日午前8時頃神戸市内今在家町1丁目北黒白米商にて白米2俵を買い、港内に停泊中なる露国義勇艦隊シチエフ号に運ばして、鮮銀5円券5枚を支払いたる鮮人あり、(略)図らずもそれが盗難の15万円の一部なる事を発見し忽ち警察の大活動となりシチエフ号より前記鮮人及び同船乗組員支那人露学周を連行取調中なるが該犯人に相違なき見込なりと。
大正9年
4月17日
神戸新聞
首相邸を襲わんとした鮮人の大陰謀露顕-爆弾数個と陰謀書類 去る10日警視庁にては、いづれよりか数名の鮮人を拉致して厳重なる取調べを続行しつつあるが、右は一世を震駭すべき頗る重大事件の発覚したるものにて、昨年10月31日の天長節の当夜外務省に起こった爆弾事件以上の由々しき某重大事件にして拉致されたる鮮人は、本郷区湯島天神町1の9金麗館止宿徐相漢(22)、下谷区竜泉寺町237日鮮商会金洪秀方洋服職工金成範(22)、同人止宿中央郵便局集配人梁張海(33)外数名のものにて、彼等の家宅を捜索したるに果して爆弾数個を発見し、更に陰謀書類なども顕れたるより、ここに警視庁にては事実を闡明(センメイ)にするに至りしより(略)彼等は本年3月1日の所謂独立記念日にあたり各方面の不逞鮮人を呼応して密かに某大官を襲撃せんと企てたるも時機を失したれば(略)首相官邸を襲わんとしたるものにて、右爆弾は上海方面より密輸したる形跡ありと。
大正9年
8月27日
神戸新聞
不逞の徒と気脈を通じ内地に潜める魔の手/在京鮮人700余名中、上海仮政府に縁のあるもの2割
大正9年
10月19日
大阪毎日夕刊
在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見 南区天王寺公会堂に集合し独立云々の不穏文書を配布したる事実もあり、さらに厳重なる捜査を行いし結果、南区日本橋筋附近鮮人李某方に於いて去月29日頃端なく爆弾数個を発見したれば、宮本署長は直に徳田高等主任とともに部下を集めて本件を厳に秘すべき旨を命じ、即刻李方を襲い家宅捜査の末、不逞鮮人との往復書面を押収し朝鮮総督府に向け李某と不逞鮮人との関係、連絡等の照会をなしたり。
大正10年
3月3日
大阪朝日夕刊
変名して早大に入り上海間島方面と連絡を取る 東京警視庁で45日前から西神田、早稲田の両署と協力し、刑事を各方面に派して秘密の裡に活動を続けている。右は早稲田鶴巻町某下宿屋止宿の朝鮮平壌生れ某を中心とする或一団の鮮人に関する事件で、警視庁は彼らの行動を重大視しているが、某は元上海にある鮮人仮政府の大蔵大臣或は総理大臣秘書としての重要な地位にあった男で、警視庁の一警部が彼の行動を内偵するために某地に渡航した際、同警部を密偵と知り多数の部下に命じて警部を絞殺したこともある。某は上海における不逞鮮人団の或は重要なる任務を帯び昨年9月下旬、上海から東京に入りこみ変名して早稲田大学政治科に入学し、絶えず上海、京城、間島方面にある不逞鮮人団と気脈を通じ、最近は市内各所に神出鬼没を逞しうし密議を凝らしている。
大正10年
11月11日
神戸又(ユウ)新日報
不逞鮮人崔の自白から判明した事実 内地在住の一味も知れた 10月23日上海経由で神戸に入港した郵船静岡丸2等船客崔濱武(27)が上海仮政府の密使であることを発見、神戸水上署から警視庁に護送した。(略)其の自白する処によると今回来朝した第一の目的はワシントン会議当日を期して東京を中心に内地在住の鮮人学生団に猛烈な大示威運動を行うことで、次いでは極めて巧妙な方法によって東京と上海との連絡方法を講じるためであったという。書類によると上海仮政府の第一次計画としては彼ら不逞の徒が多年目的とせる国民議会を開くことで、組織は日本内地の屯田兵にかたどり2万の会員を募って、其の会員中から米国その他に留学生を送り独立運動の中心人物を養成する筈になっていたことも判明した。かかる大事件が内地で発見されたのはこれが初めてのことである。
大正11年
2月10日
大阪朝日
目下の形勢では過激派の手先に使われる不逞鮮人を取締ることが最大の眼目となり、当局(特別高等課)でも独立問題を余り問題にせず、過激派に対する彼等の行動に警戒を加えるよう取締の傾向が一変してきた。
大正11年
5月20日
大阪朝日
総督府投弾の犯人は田中大将を狙撃した男 朝鮮総督府警務局では19日朝に至り、昨年9月12日に総督府に爆弾を投じた犯人の検挙顛末を発表した。当時犯人捜査に全鮮官憲は努力したが逮捕に至らなかった。ところが本年3月28日上海で田中大将に爆弾を投じ更に拳銃を放った犯人2名が英国巡査及び支那巡捕に逮捕され我領事館に引渡を受けたとの電報を得、右2名の犯人は領事館で取調の結果、京畿道高揚郡龍江面華徳里 金益相(28)、咸鏡北道穏城郡永瓦面、常時間島在住呉成昆(25)と判明した旨通知を受け警務局は直に各道に手配し、取調べたところ、其の自白(金の実弟とその妻の自白)で金益相が総督府爆弾犯人なること判明し、(略)一方上海総領事館に於ける金益相も総督府爆破犯人であることを自白したとの通報あり。
大正12年
2月2日
九州日報
友禅職工に化けた不逞鮮人の一旗頭/上海仮政府の隠密/同志の統合に失敗し何れかへ姿を晦ます。
大正12年
4月25日
神戸又新日報
怪鮮人密書事件の黒幕に妖美人、上海仮政府重要委員を父として鄭を愛人とする金玉華/李、鄭は警視庁護送
大正12年
5月9日
大阪毎日
大仕掛の武器密売
拳銃一万挺、
挺弾九十万発
武器密輸出事件に関し横浜戸部署は県高等課刑事課及警視庁と協力し、京浜に亘り犯人捜査中だが、同署遠藤警部補は6日神戸に急行し、共犯者遠藤銀之丞(32)を逮捕し、7日夜横浜地方裁判所検事局で取調べの結果、大仕掛けの武器密輸出が発覚。米国銃砲製造会社の連発ピストル1万挺並びに(略)10万発の弾丸を買い受け、船員の手を経て青島に密輸出し、朝鮮独立陰謀団に売込んだと発覚した。

(4) 在日朝鮮人の人口推移

 政府の統計では、震災時に日本にいた朝鮮人は8万617人である。工藤は、統計に加えられない密航者や住所不定者を加えると、10万人以上いたのではないかとみている。
 このうち東京近県に約3,000人、東京市には約9,000人、合わせて1万2,000人ほどの朝鮮人が震災に遭遇したことになる。
 日韓併合後9年を経た大正8(1919)年、民族自立機運の高まりによって生じた三・一運動は2ヶ月ほどで終息した。(因みにシリア内戦は2年8カ月以上継続中)内乱罪は適用されず、運動の指導者たちも重罪とされず(運動の指導者が最高で3年の懲役、その後恩赦で半減)、総督府の統治方針も憲兵警察制度の廃止、集会や言論、出版の自由をなど武断的なものから文治的なものへ転換され、それ以降大きな独立運動は行われなかったが、その運動の中心は支那や日本内地へ移動した。日本政府及び朝鮮総督府は、朝鮮人の活動家たちを粛清することなく軽罪・微罪で社会復帰させたがために、社会主義運動とりわけコミンテルンと連携し、日本国内に拠点をおいた過激な活動が行われる火種を残したのである。

 以来、日本国内における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい事件が続発している。工藤はそれらの中から、危険な犯罪、テロの温床になる恐れがある事件として前表(第2表)に示す記事を列挙している。
 大正デモクラシーの高まりで自由や人権が叫ばれる中、一方では朝鮮人による組織的な抗日活動が、朝鮮(間島)、上海、国内で行われており、国内で大規模なテロ犯罪がいつ起きてもおかしくないといった緊張した情勢にあったことがわかる。デモクラシーの発揚は社会の弛緩をもたらす効果があり、日本社会は間接的な攻撃に対し脆弱になりつつあったともいえる。

 在日朝鮮人の人口推移で特異的な年がある。それは不思議なことに関東大震災の起きた
大正12(1923)年である。大正12年から翌年にかけての在日朝鮮人口はそれまでにない急激な増加を見せている。これは何を意味するのであろうか。

 朝鮮人虐殺などといった物騒な事件が本当に起きていたなら、大震災後の急激な人口の増加は不可解極まりない。

2 朝鮮人暴動の真偽


  朝鮮人の暴動(殺人・放火・強姦・爆弾テロなど)の実態がどうであったのか?吉村は頭から流言と決めつけているためにその著作からはその真偽を計ることはできない。吉村は次のように書いている。
 
 《流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上がって口から口へと伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。》この文章のうち、下線部は吉村の論理の綻びの見える部分である。「全くなんの事実もなかったという特異な性格」と書くが、全くなんの事実もなかったというのが朝鮮人の社会現象としてはおよそ考えられないことは、戦後の韓国における犯罪報告などからみても考えられない。治安が安定してきた最近の韓国においてさえ、殺人、強姦、強盗などの凶悪犯罪発生率は、日本より大幅に高く、殺人、強盗、強姦の3大凶悪犯罪の発生件数は、2001(平成13)年に14,896件、2010(平成22)年には27,482件となっており、10年間でほぼ倍増している。また、消防防災庁の発表によると、2008(平成20)年に韓国内で発生した
放火事件は4,420件である。韓国警察庁の発表によると、2007(平成19)年から2011(平成23)年の5年間で発生した性犯罪事件は81,760件で、その半数以上は強姦事件である。2011年の強姦事件は19,598件であり、10万人当たりの発生率は日本の約40倍である。韓国人は日本国内でも頻繁に強姦事件を起こしており、「日本は強姦がやりやすい」、「強姦目的で来日した」と供述した容疑者もいた。くどいようだが、これらの犯罪は、治安が安定して、生活も向上し、警察力が普通に機能している21世紀の韓国で起きているということだ。大震災という治安・秩序が混乱をきたしている中で、朝鮮人による強盗・強姦・放火などの暴力行為がなかったと言われてもにわかに信じることは誰にも出来まい。

 「当時の官憲の調査」というのは、細部は後述するが、政府が朝鮮人保護、内鮮一体化を進めるために勅令まで出して行った情報操作の結果に過ぎない。

 「大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた」と言うが、東日本大震災で見せた日本人の冷静かつ遵法精神に則った行動からは想像できず(「修身」などの教育が重視されていた戦前の日本人が戦後の日本人より道徳的に低いということは考えられない)、しかも自警団を編成して朝鮮人テロと闘ったのは、比較的軽微な被害で済んだ地域であり、人々の大半が精神異常をきたすことなどあり得なかったはずである。精神異常をきたすほどの大被害を受けた地域に住んでいた住民は自らの身を守るために身一つで逃げ惑い自警団に加わることはできなかった。

 「各町村で朝鮮人来襲にそなえる自警団」としているが、これについても後で詳述するが、自警団は対象を朝鮮人に絞って作られたものではなく、火事場泥棒的な犯罪から自分たちで守るために作られ、その後朝鮮人来襲が伝えられたために組織や装備が強化されたというのが事実である。

 工藤は、吉村と同じ立場に立つ吉野作造の書き残したものから論評している。「無実の朝鮮人が流言を信じた日本人によって虐殺された」とする説の定説化に指導的な役割を担ったのは、当時大正デモクラシーの旗を高く掲げて社会思想に大きな影響力をもっていた吉野作造であった。

 吉野は、流言蜚語が何ら根拠を有しないことを断定したうえで、「予はここで予の耳に入った諸種の事実を簡明にまとめるにすぎない」と断り、その大要は次の如きものであったと述べている(『ドキュメント関東大震災』)。

 《朝鮮人は210日から220日までの間に、帝都を中心として暴動を行う計画をしていたが、たまたま大震災が起こったので、その秩序の混乱に応じて、予ねての計画を実行したのである。即ち彼等は、東京、横浜、横須賀、鎌倉などの震災地において、掠奪、虐殺、放火、強姦、毒物混入等あらゆる凶行を行って、6連発銃、白刃を以って隊伍堂々各地を荒したのである。震災当時の火災が、かくのごとく大きくなったのも彼らの所為で隊を組みて震災地を襲い、首領が真っ先になって家屋に印をつけると、その手下の者が後から、或いは爆弾を投じ、或いは石油にて放火し、又は井戸に毒物を混入して廻ったのである。戒厳令が布かれて兇暴を逞しくすることができなくなって、地方へ逃げて行った。そして右の如き暴動、凶行は朝鮮人の男のみには限らず、女も放火し、子どもも毒薬入りサイダーを日本人に勧めた。》以上は吉野が耳にした伝聞である。また、吉野は親交ある朝鮮紳士から聞いた話として次のような文章を『中央公論』大正12年11号に書いている。

 《横浜に居る朝鮮人労働者の一団が、震災火災に追われて逃げ惑うや、東京へ行ったらどうかなるだろうと、段々やってきた。更でも貧乏な彼等は、
途中飢えに迫られて心ならずも民家に行って食物を掠奪し、自らまた多少暴行を働いた。これが朝鮮人掠奪の噂を生み、果ては横浜に火をつけて来たのだろう、などと尾鰭をつけて先から先へと広まる。かくして彼等の前途には警戒の網が布かれ、彼等は敢無