年 | 国内政治・経済・社会等 | 朝鮮半島 | 支那 | 欧米 | |
大正7 (1918) |
米騒動勃発・寺内内閣退陣 シベリア出兵 原敬内閣成立 |
孫文が広東軍政府樹立 | ロシア革命 | ||
大正8 (1919) |
ベルサイユ条約調印普選運動 | 斉藤実総督就任 高宗死去 三・一運動 渡日制限 |
五・四運動 | コミンテルン結成 | |
大正9 (1920) |
経済恐慌、ストライキ多発 第1回メーデー 国連加盟(常任理事国) |
梨本宮方子女王李王家に嫁す 間島事件 地方制度改正 産米増殖計画 |
広東軍政府崩壊 | 尼港事件 国際連盟成立 カ州排日法 |
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大正10 (1921) |
原敬暗殺 ストライキ多発で軍隊出動 友愛会から日本労働総同盟へ改組 ワシントン会議 日英同盟破棄(四国条約成立) |
孫文が広東政府総統 支那共産党結成 |
ナチス党結成 | ||
大正11 (1922) |
株価暴落・不況慢性化 日本共産党(非合法)結成 海軍主力艦制限条約 シベリア派遣軍撤退 上野平和博覧会開催 日本農民組合結成 水平社結成 |
水力電気調査開始 渡日制限解除 |
奉直戦争 | ワシントン軍縮条約 ソ連邦成立 ムッソリーニがローマへ進軍 |
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大正12 (1923) |
第一次共産党事件(堺利彦逮捕) 石井・ランシング協定廃棄
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21カ条廃棄を要求日本拒否 孫文が大元帥となる |
仏等がドイツのルール占領 |
年月日 | 新聞(タイトル) | 記事の内容 |
大正9年 2月21日 大阪毎日 |
15万円強奪の不逞鮮人の片割れ神戸にて捕わる | 1月4日朝鮮銀行が朝鮮羅南より間島鮮銀出張所に輸送中なりし銀行券15万円龍井村に於いて護衛巡査他1名に重傷を負わせ、該券を強奪し去りたる不逞鮮人尹駿煕外4名が浦塩に於いて逮捕され、2名は逃走行方不明なる事は当時報道したる如くなるが、7日午前8時頃神戸市内今在家町1丁目北黒白米商にて白米2俵を買い、港内に停泊中なる露国義勇艦隊シチエフ号に運ばして、鮮銀5円券5枚を支払いたる鮮人あり、(略)図らずもそれが盗難の15万円の一部なる事を発見し忽ち警察の大活動となりシチエフ号より前記鮮人及び同船乗組員支那人露学周を連行取調中なるが該犯人に相違なき見込なりと。 |
大正9年 4月17日 神戸新聞 |
首相邸を襲わんとした鮮人の大陰謀露顕-爆弾数個と陰謀書類 | 去る10日警視庁にては、いづれよりか数名の鮮人を拉致して厳重なる取調べを続行しつつあるが、右は一世を震駭すべき頗る重大事件の発覚したるものにて、昨年10月31日の天長節の当夜外務省に起こった爆弾事件以上の由々しき某重大事件にして拉致されたる鮮人は、本郷区湯島天神町1の9金麗館止宿徐相漢(22)、下谷区竜泉寺町237日鮮商会金洪秀方洋服職工金成範(22)、同人止宿中央郵便局集配人梁張海(33)外数名のものにて、彼等の家宅を捜索したるに果して爆弾数個を発見し、更に陰謀書類なども顕れたるより、ここに警視庁にては事実を闡明(センメイ)にするに至りしより(略)彼等は本年3月1日の所謂独立記念日にあたり各方面の不逞鮮人を呼応して密かに某大官を襲撃せんと企てたるも時機を失したれば(略)首相官邸を襲わんとしたるものにて、右爆弾は上海方面より密輸したる形跡ありと。 |
大正9年 8月27日 神戸新聞 |
不逞の徒と気脈を通じ内地に潜める魔の手/在京鮮人700余名中、上海仮政府に縁のあるもの2割 | |
大正9年 10月19日 大阪毎日夕刊 |
在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見 | 南区天王寺公会堂に集合し独立云々の不穏文書を配布したる事実もあり、さらに厳重なる捜査を行いし結果、南区日本橋筋附近鮮人李某方に於いて去月29日頃端なく爆弾数個を発見したれば、宮本署長は直に徳田高等主任とともに部下を集めて本件を厳に秘すべき旨を命じ、即刻李方を襲い家宅捜査の末、不逞鮮人との往復書面を押収し朝鮮総督府に向け李某と不逞鮮人との関係、連絡等の照会をなしたり。 |
大正10年 3月3日 大阪朝日夕刊 |
変名して早大に入り上海間島方面と連絡を取る | 東京警視庁で45日前から西神田、早稲田の両署と協力し、刑事を各方面に派して秘密の裡に活動を続けている。右は早稲田鶴巻町某下宿屋止宿の朝鮮平壌生れ某を中心とする或一団の鮮人に関する事件で、警視庁は彼らの行動を重大視しているが、某は元上海にある鮮人仮政府の大蔵大臣或は総理大臣秘書としての重要な地位にあった男で、警視庁の一警部が彼の行動を内偵するために某地に渡航した際、同警部を密偵と知り多数の部下に命じて警部を絞殺したこともある。某は上海における不逞鮮人団の或は重要なる任務を帯び昨年9月下旬、上海から東京に入りこみ変名して早稲田大学政治科に入学し、絶えず上海、京城、間島方面にある不逞鮮人団と気脈を通じ、最近は市内各所に神出鬼没を逞しうし密議を凝らしている。 |
大正10年 11月11日 神戸又(ユウ)新日報 |
不逞鮮人崔の自白から判明した事実 内地在住の一味も知れた | 10月23日上海経由で神戸に入港した郵船静岡丸2等船客崔濱武(27)が上海仮政府の密使であることを発見、神戸水上署から警視庁に護送した。(略)其の自白する処によると今回来朝した第一の目的はワシントン会議当日を期して東京を中心に内地在住の鮮人学生団に猛烈な大示威運動を行うことで、次いでは極めて巧妙な方法によって東京と上海との連絡方法を講じるためであったという。書類によると上海仮政府の第一次計画としては彼ら不逞の徒が多年目的とせる国民議会を開くことで、組織は日本内地の屯田兵にかたどり2万の会員を募って、其の会員中から米国その他に留学生を送り独立運動の中心人物を養成する筈になっていたことも判明した。かかる大事件が内地で発見されたのはこれが初めてのことである。 |
大正11年 2月10日 大阪朝日 |
目下の形勢では過激派の手先に使われる不逞鮮人を取締ることが最大の眼目となり、当局(特別高等課)でも独立問題を余り問題にせず、過激派に対する彼等の行動に警戒を加えるよう取締の傾向が一変してきた。 | |
大正11年 5月20日 大阪朝日 |
総督府投弾の犯人は田中大将を狙撃した男 | 朝鮮総督府警務局では19日朝に至り、昨年9月12日に総督府に爆弾を投じた犯人の検挙顛末を発表した。当時犯人捜査に全鮮官憲は努力したが逮捕に至らなかった。ところが本年3月28日上海で田中大将に爆弾を投じ更に拳銃を放った犯人2名が英国巡査及び支那巡捕に逮捕され我領事館に引渡を受けたとの電報を得、右2名の犯人は領事館で取調の結果、京畿道高揚郡龍江面華徳里 金益相(28)、咸鏡北道穏城郡永瓦面、常時間島在住呉成昆(25)と判明した旨通知を受け警務局は直に各道に手配し、取調べたところ、其の自白(金の実弟とその妻の自白)で金益相が総督府爆弾犯人なること判明し、(略)一方上海総領事館に於ける金益相も総督府爆破犯人であることを自白したとの通報あり。 |
大正12年 2月2日 九州日報 |
友禅職工に化けた不逞鮮人の一旗頭/上海仮政府の隠密/同志の統合に失敗し何れかへ姿を晦ます。 | |
大正12年 4月25日 神戸又新日報 |
怪鮮人密書事件の黒幕に妖美人、上海仮政府重要委員を父として鄭を愛人とする金玉華/李、鄭は警視庁護送 | |
大正12年 5月9日 大阪毎日 |
大仕掛の武器密売 拳銃一万挺、 挺弾九十万発 |
武器密輸出事件に関し横浜戸部署は県高等課刑事課及警視庁と協力し、京浜に亘り犯人捜査中だが、同署遠藤警部補は6日神戸に急行し、共犯者遠藤銀之丞(32)を逮捕し、7日夜横浜地方裁判所検事局で取調べの結果、大仕掛けの武器密輸出が発覚。米国銃砲製造会社の連発ピストル1万挺並びに(略)10万発の弾丸を買い受け、船員の手を経て青島に密輸出し、朝鮮独立陰謀団に売込んだと発覚した。 |
日韓併合後9年を経た大正8(1919)年、民族自立機運の高まりによって生じた三・一運動は2ヶ月ほどで終息した。(因みにシリア内戦は2年8カ月以上継続中)内乱罪は適用されず、運動の指導者たちも重罪とされず(運動の指導者が最高で3年の懲役、その後恩赦で半減)、総督府の統治方針も憲兵警察制度の廃止、集会や言論、出版の自由をなど武断的なものから文治的なものへ転換され、それ以降大きな独立運動は行われなかったが、その運動の中心は支那や日本内地へ移動した。日本政府及び朝鮮総督府は、朝鮮人の活動家たちを粛清することなく軽罪・微罪で社会復帰させたがために、社会主義運動とりわけコミンテルンと連携し、日本国内に拠点をおいた過激な活動が行われる火種を残したのである。 以来、日本国内における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい事件が続発している。工藤はそれらの中から、危険な犯罪、テロの温床になる恐れがある事件として前表(第2表)に示す記事を列挙している。 |
大正デモクラシーの高まりで自由や人権が叫ばれる中、一方では朝鮮人による組織的な抗日活動が、朝鮮(間島)、上海、国内で行われており、国内で大規模なテロ犯罪がいつ起きてもおかしくないといった緊張した情勢にあったことがわかる。デモクラシーの発揚は社会の弛緩をもたらす効果があり、日本社会は間接的な攻撃に対し脆弱になりつつあったともいえる。 在日朝鮮人の人口推移で特異的な年がある。それは不思議なことに関東大震災の起きた大正12(1923)年である。大正12年から翌年にかけての在日朝鮮人口はそれまでにない急激な増加を見せている。これは何を意味するのであろうか。 朝鮮人虐殺などといった物騒な事件が本当に起きていたなら、大震災後の急激な人口の増加は不可解極まりない。 |
年月日 | 報道 | 記事要旨 |
T12.9.3 | 大阪朝日 | 朝鮮人の暴徒が起こって横浜、神奈川を経て八王子に向かって盛んに火を放ちつつあるのを見た。 |
T12.9.3 | 東京日日 | (略)一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手があがるの点につき疑問の節あり、次いで朝鮮人抜刀事件起こり、警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約30名は5台の自動車にて現場に向かった。当市内鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり。 |
1日正午の大地震に伴う火災は帝都の各所より一斉に起こり、2日夕刻までに消失倒壊家屋40万にのぼり死傷算なく、同時に横浜・横須賀等同様の災禍にあい、相州鎌倉・小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更、災害の防止すべからざるを見るや出動の軍隊に命じて焼くべき運命の建物の爆破を行わしめた。この災害のため帝都重要の機関建築物等大半烏有に帰し、避難民は隊を組んで黒煙立ちこめる市内を右往左往して飢に瀕し、市民の食糧不安について鉄道省は各地に購入方を電命し、府市当局は市内各所に炊き出しをなし、三菱地所部も丸の内で避難民のための炊き出しを行った。 一方、猛火は依然として止まず、(略)、当市内朝鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり、2日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めている。因みに2日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果、午後4時までに本郷富阪署で6名、?町署で1名、牛込区管内で10名、計17名の現行犯を検挙したが、いづれも不逞鮮人である。 今回の凶変を見たる不平鮮人の一味は避難せる到る所の空家等にあたるを幸いに放火をしていることが判り、各署では2日朝来、警戒を厳にせる折から、午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ、辛うじて追い散らし、その1,2を逮捕したが、このほか放火の現場を見つけ取り押さえ、又は追い散らしたもの数知れず、政府当局でも急に2日午後6時を以って戒厳令を下し、同時に200名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し、双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し、正力主事、山田高等普通課長以下30名現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。なお一方警視庁本部備え付けの鉄道省用自動車を破砕すべく爆弾を持って近寄った一団20名を逮捕したが、逃走した者数知れず。 目黒競馬場を指して抜刀のまま集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まった者らしく、途中出会せし日本人男女十数名を惨殺し、後憲兵警官隊と衝突し、三々五々となりすがた影を隠したが、彼等は世田谷を本部として連絡をとっておると。 横浜方面の不逞鮮人等は京浜間の線路に向って鶴嘴を以って線路をぶち壊した。1日夜火災中の強盗強姦犯人はすべて鮮人の所為であった。2日夜焼け残った山の手及び郊外は、鮮人のくい止めに全力をあげられた。 |
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T12.9.4 | 東京日日 | 火に見舞われなかったが唯一の地として残された牛込の2日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒するために、青年団、在郷軍人団及び学生の有志連は、警察官・軍隊と協力して徹宵し、横丁毎に縄を張って番人を付し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気が漲り、小中学生等も棍棒を携えて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地における義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷各町は、?町6丁目から平河町は風下の関係から火の粉が雨の如く降り、鮮人に対する警戒と火の恐れで生きた心もなく戦場さながらの光景を呈した。牛込佐渡原町では、2か所において鮮人放火の現場を土佐協会の大学生数名が発見、直ちにもみ消した。また3日朝2人づれの鮮人が井水に猫いらずを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。 |
T12.9.6 | 河北新報 | (略)これより先、越中島も糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川あたりから避難してきた罹災民約3000人が雲集していたところが、その入口の方向に当って異様な爆音がしたと思うと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。3000人の避難者は逃場を失って阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死してしまった。月島住人は前期の如く土管内に避難し幸いに火薬庫の破裂も免れたため死傷者は割合少なかった。それだけにこの3000人を丸焼きにした実見者が多かった。 しかも鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいう側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕らえた。おそらく首魁者の一人であろうというので厳重に詰問した挙句、遂に彼は次の如く白状した。「我々は今年のある時期に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、次いで全市到る所で爆弾を投下し炸裂せしめ、全部全滅鏖殺を謀らみ、また一方210日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければ、その機に乗じて一旗挙げる陰謀をめぐらし機の到来を待ち構えていた」 風向きと反対の方向に火の手が上がったり意外の所から燃えだしたりパチパチ異様な音がしたりしたのは、正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであったことが判然としたので、恨みは骨髄に徹し評議、忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた。 |
T12.9.6 | 河北新報神田区淡路町2の4筑波館山瀬甚治郎談 | 9月2日夜12時頃、ときの声がするので吃驚したが、南千住一帯を巣窟とする鮮人団が三河島附近の花火製造場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を凌辱し、食糧・軍資金を掠奪すると言うので、在郷軍人、青年団が決死隊を組織し警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を連れて同夜は田圃のなかに露宿して難を免れたが、日暮里に引き返す途中2人の鮮人が撲殺され、1人の鮮人が電線に縛られ半死半生の体であったのを目撃した。また、付近の墓場には扮装賤しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚だしく、局部にも重傷を負い昏倒していたが、7,8人の鮮人に輪姦されたということで、地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。鉄道線路は軍隊で警戒し、その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、避難している者が多数で、いずれも鮮人の襲撃を恐れたためである。 |
T12.9.6 | 河北新報東北大学書記談(被害状況調査のために仙台から上京) | 川口町の混雑は実に名状すべからざる有様で、避難民は大群をなして押し寄せてくる。(略)やっと上野に着いて山に登って見れば、まるで焼石の河原のようだ。わすかに浅草の観音様や大建物の鉄筋のみが見えている。青年団、軍人分会、自警団員等はいずれも刀・鉄棒・樫木棒を持って警護に任じている。なんでも地震後の火災はさほどでもなかったが、1日夜から不逞鮮人が随所に放火し、上野のごときも朝鮮婦人が石油を撒き、それに鮮人があとから爆弾を投げたためだそうで、罹災民が鮮人を憎むことはとても想像以上である。この附近の人は岩崎邸に避難したのであるが、邸内の井戸に鮮人に毒薬を投ぜられたので非常に困っている。それで、4日午前には万世橋で7人、午後には大塚で20人、川口で30人の不逞鮮人隊が捕縛され、その一部は銃殺されたといっていた。 |
T12.9.7 | 北海タイムス 青木繁太郎談 |
私は本所の家に帰る途中、道成橋で多数の人が鮮人を捕えているのを見ました。(略)其の話に依ると鮮人たちは東宮殿下御成婚の当日に一斉に暴動を起こす事を牒合して爆弾等をひそかに用意していたが、この震災で一斉に活動したのだという。また2日にはこれに関する協議会さえ開く予定があったという。彼らには又誰か後押しはあるらしい風であったが、死ぬほど攻めてもとうとう吐かなかった。 |
T12.9.8 | 北海タイムス 北大予科2年生 杉山又雄談 |
丁度昼食をしようとするところでした。始めは上下動に揺れ次第に水平動になりましたが、とても立っていられぬので庭に出ましたが(略)兎に角罹災民は小石川方面に集まる。(略)1日夜、植物園に行ってみましたが、本当に避難民で一杯で、一番困るのは排泄物は凡て居たままなのでその臭気の程は形容の言葉がありません。2日の朝から昼にかけて非常に石油の臭いがしました。この頃小石川周辺では鮮人が団体を組んで来るとか爆弾を投げて焼き払う計画を立てているとか、(略)生きている心持がありませんでした。私どもも一緒になって捜索の結果、私の家のしかも附近の宮様の原で爆弾1個を発見しました。私の乗った汽車は途中で列車の下より爆弾を抱いた3人の鮮人を見出して殺しましたが、(略)鮮人はいずれも多大な金をもっておりました。 |
T12.9.8 | 北海タイムス鉄道機関手平田鉄談 | 私が田端で不逞鮮人の巨魁らしき壮漢が軍隊に取り押さえられて自白しているのを聞くと、彼等は210日を期して放棄するの計画を立て8月28日に銀行や郵便局の預金を悉く引き出し準備した。若し210日が静穏であったならば、今秋の御盛典を期して行うことにしていたが、あたかも震災に乗じて活動したものであると自白したが直に銃殺された。 |
T12.9.23 | 福岡日日新聞中根栄談 | (2日の朝)はっきりと目覚めやらぬ眼をこすりつつ「何だ」と言うと、妻は「○○」が攻めて来たそうです」と震えながら答える。自分の住んでいる所から5,6町も隔たった処に大仏(品川区大井)という寺がある。(略)それが近頃土地熱、住宅熱にうかされて附近の丘陵や松林を切り開いて埋立地を作っている。これに従事している土工は全部○○である。彼等は遊楽の婦人にからかう、悪戯をする、折角好ましきこの遊楽地も○○の働くようになってからは、すっかり恐怖の土地となってしまった。(略)果せるかな、妻は自分に彼等の襲撃を告げた。 自分の宅は小高い山の上にある一千坪の一廓が三つにしきられて、私はその一廓の一隅を占めている。(略)避難地としてはまことに適当な個所である。それを認めてか、自分が妻に揺り起こされてまだ身支度も整えぬうちにもう附近の人達が 続々と自分の家を目指して避難のため押し寄せて来た。(略)総勢25,6名、婦人、子供、お婆さんが多くて、男性はわずか4,5人である。生い茂る叢や芒のなかにすっぽりと姿を隠さしめた。その場合、勢い自分は指揮官たらざるを得ぬ、自分は「もし○○が掠奪を目的とするならば、全然無抵抗で行きましょう。しかし多少でも生命に危害 を加えるような形跡があったならば、私達は婦人子供を先々逃がしながら出来るだけ抵抗を続けて逃げましょう」と宣告した。巡査の一人があご紐をかけて、自転車に乗って駆けて行く。それを捉えて「どんな形勢ですか」と訊ねると、彼は「今○○の数、三百人ほどが団体を作って六郷川で青年団や在郷軍人団と闘っている。そのなかの 5,60人が毬子の渡し附近から馬込に入り込んだという情報がありました。そうして毬子を渡った処で15,6人の女や子供を殺したそうです。皆さん警戒して下さい」と叫びながらどこかへ飛んで行く。 自分は、これは誠に容易ならざる事と思った、(略)警鐘の響が四方八方から起こる。ワーッというような喊声がどこからか聴こえる。 |
緊急勅令第398号 一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件 朕茲に緊急の必要ありと認め帝国憲法第8条に依り一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件裁 可し公布せしむ 嘉仁 裕仁 内閣総理大臣 伯爵内田康哉 各大臣副署 |
天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス 2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ |
戒厳令施行期間 | 日数 | 事 由 |
1905年(明治38年)9月6日~11月29日 | 85日間 | 日比谷焼打事件(ポーツマス条約反対暴動) |
1923年(大正12年)9月2日~11月15日 | 75日間 | 関東大震災 |
1936年(昭和11年)2月27日~7月16日 | 140日間 | 二・二六事件 |
鮮人中不逞の挙に次いで放火その他凶暴なる行為にいずる者ありて、現に淀橋、大塚において検挙したる向きあり、ついてはこれら鮮人に対する取締りを厳重にして警戒上遺算なきを期せられるべし。『現代史資料6』「大正震災誌」 |
東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。(略)鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加えられたし。 『現代史資料6』「大正震災誌」 |
朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当に苛めてはならぬ。市民で武器を携えてはならぬと、戒厳司令官から命令を出した。 (大正12年9月4日 東京朝日新聞号外) |
善良な朝鮮人を愛せよ。 ▼善良なる朝鮮人を敵視してはなりませぬ。 ▼警察力も兵力も充分ですから、これに信頼して安心して下さい。 ▼各自に武器等を執って防衛する必要はありません。 ▼勝手に武器を携帯することは戒厳司令官の命令により堅く禁じられておりますからやめて下さい。 (大正12年9月5日 東京日日新聞) |
今次の震災に乗じ、一部不逞鮮人の妄動ありしとて鮮人に対し頗る不快の感を抱く者ありと聞く。鮮人の所為もし不穏にわたるにおいては、速やかに取締りの軍隊または警察官に通告してその処置にまつべきものなるに、民衆自らみだりに鮮人に迫害を加えるが如きもとより日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、諸外国に報ぜられて決して好ましいことにあらず。(略)非常時に当り、よく平素静を失わず、慎重前後の措置誤らず、もって我が国民の節制と平和の精神を発揮せむとは本大臣のこの際特に望む所にして民衆各自の切に自重を求むる次第なり。 大正12年9月5日 内閣総理大臣 伯爵 山本権兵衛 (東京日日新聞 大正12年9月7日) |
出版通信その他何等の方法をもってするを問わず、暴行騒擾その他生命身体若しくは財産に危害を及ぼすべき犯罪を煽動し、安寧秩序を紊乱するの目的をもって治安を害する事項を、流布し又は人心を攪乱するの目的をもって流言浮説を成したる者は、10年以下の懲役若しくは禁錮又は3000円以下の罰金に処す。 |
後藤が自分を呼んで次のように言った。「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのまま引き下がらないであろう。必ずその報復が来る。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったぐらいでは済まされない。 だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね。」 |
1923年12月24日 在東京英国大使館より本省への報告(日本政府)当局はすぐに法律と秩序を保つために行動に出ました。戒厳令が布かれ、軍部の適切な行動により深刻な暴動や掠奪はありませんでした。しかしながら市内では、建物に放火をしたということで、僅かな(a
few)の朝鮮人が人々に殺されたように見受けられます。朝鮮人労働者です。朝鮮人の中には一定の不平分子たちがいて、彼らが放火の罪を犯した可能性があります。(ロンドン・ナショナル・アーカイブス所蔵 Fail
No,F280) |
1 9月15日までに習志野陸軍廠舎に収容したる鮮人 | 3,169名 |
2 労働者4000名主として本所深川川辺に居住せり。目下警察署に収容し保護を加える | 4,000名 |
3 埼玉、栃木両県下各警察署等において、保護中なりし鮮人 | 471名 |
4 神奈川県庁において、鮮人を収容し保護を加えつつあり | 40名 |
5 目黒競馬場に収容保護を加えつつあり | 617名 |
保護されている朝鮮人の合計 | 7,697名 |
大震災で死亡又は虐殺された朝鮮人は、 9800-7697=2103 | 2,103名 |
9月3日(月) | 雨 震動やまず。食物僅かに3日分を残すのみ。その供給に苦心した。近隣相助けて相互の慰安と安全とを計った。放火の恐れありとて各家警衛の任に当った。 |
9月6日(木) | 晴 昨夜やや強度の震動3,4回あり。夜警、前日に異ならず。(略)今井館聖書講堂を警衛のために上京した仙台第2師団第3中隊第2小隊の営所に提供した。この際最も適当の使用法と信じて嬉しかった。平和の福音を説く所に、銃剣のかくかくたる音を聞くは今度が初めてである。 |
9月22日(土) | 晴 過ぐる半ヶ月間滞在せし仙台第2師団第3中隊第2小隊の兵士が今日、今井館を去った。彼らに対し厚き感謝のなき能はずである。民に平安を与える為の軍隊であると思えば、敬せざるべからず、愛せざるべからずである。我らの彼らを労うの甚だ薄かりしをうらむ。 |
10月5日(金) | 晴 昨夜順番に当り、自警団の夜番を務めた。内村医学士(息子)、金剛杖をつき、提灯を持って前に進み、老先生(鑑三)拍子木を鳴らしながらその後に従う。昼間は到底演じ難き業である。震災が産み出せし滑稽の一つである。 |
1924年5月12日 横浜の英国総領事が郵送で受け取った『朝鮮独立運動の朝鮮人』発行の小冊子とチラシをここに送付いたします。 小職の複数の報告でお分かりの通り、大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いない事実であります。しかし、不幸な出来事はこの小冊子の筆者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を煽動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。 東京や横浜の住民は、恐慌状態に陥り、朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、欧州人を含む事情通の多くは、そう住民が思いこんだのには根拠が全くないわけではないと考えていました。 閣下の最も従順で謙虚な奉仕者であることを名誉に思い、最高の敬意を表して 在京イギリス大使 署名 |
原野で道に迷った羊が獰猛な野獣の餌食になったように、自由を失った人間は抑圧する者の犠牲になった。 日本では大震災のさなかに、多数の罪なき朝鮮人が何の挑発行為や大義もなしに血に飢えた日本人によって虐殺された。日本人が犯した恐るべき残虐行為の証拠は、以前は入手できなかった。日本政府が生き残り朝鮮人による調査を一切禁じたからだ。この問題は甘言と脅しによって闇に葬られた。それでも、一部の朝鮮人は勇敢にも危険を冒して手の届く限りの調査をし、悲惨な出来事を次のように描写した。 1923年9月6日頃、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、『朝鮮人の老若男女を街角で見かけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ』と指示した。無線で命令が出されるや、悪魔のような殺し屋が、銃、刀、火かき棒、斧、こん棒など利用できるあらゆる武器を手に、四方に散らばり街頭や家々、森、川船、丘陵地帯などで朝鮮人狩りをした。 騎馬兵はあらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、銃撃を加えて皆殺しにした。・・・警察は保護を名目に朝鮮人を追い回し、警察署の敷地内にある小屋に集めた。そこで朝鮮人は空腹の狼におわれた羊のようなものだった。この罠で警察は朝鮮人多数を捕え、他の人々に気付かれないよう夜か早朝に殺害した、・・・ しかし最も痛ましい殺人は、いわゆる自警団や民衆によって行われた。『朝鮮人だ、朝鮮人だ』と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。彼等は朝鮮人を電柱に縛り付け、眼球をくりぬいて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。彼等は朝鮮人の首を少し長い縄で縛り、車の後ろにくくりつけて走らせた。彼等は朝鮮人の手を鎖で縛り、道を裸で歩かせ、犠牲者が命令に反抗すると棍棒で殴って殺した。 非常に野蛮な女性殺害の方法を詳しく記述するのは品を欠くことになる。例えば、彼等は女性の両側から足をつかみ、日本人的なさまざまな残忍な方法で、笑いながら、『女性を殺すのは面白い』と言いながら体を引き裂いた。・・・・・・ 1923年9月6日に日本政府は、朝鮮人殺害を中止するように指示を出した。自らの政策が犯罪的なのを承知している日本政府は、この問題を闇に葬るため、さまざまな計略を試みた。警察と憲兵隊は殺人への関与から一転して『朝鮮人を保護しようとした』と主張した。このニュースが世界に漏れないようにするため、彼等は朝鮮人が故郷へ帰るのを禁じた。世界で最も不幸な国は朝鮮であり、最も惨めな人間は朝鮮人である。2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは『日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと』だ。 |