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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

『日本における共産主義の広がりと満州・支那情勢』
  〜大正後期から敗戦期にかけて〜   平成24年8月19日 作成 五月女



T.日本におけるマルクス主義の広がり

1.歪曲された昭和前期史
  昭和前期とは社会主義思想が日本人の頭を占領し、日本の共産主義化がダイナミックに指向されていた時代だった。しかし1945(昭和20)年からの昭和後期に入ると、この歴史的事実はすっぽりと消され、徹底的な歪曲・捏造が状態となり、偽りの歴史の横行となった。戦後の日本には大東亜戦争の真相が解明される事を恐れた一大勢力が存在していたからである。その勢力とは日本共産党、社会党、戦後民主主義者、進歩的文化人、労働組合、教職員組合、朝日新聞、共同通信社、NHK、岩波書店、左翼評論家である。ではなぜ、これらの勢力が大東亜戦争の真相が戦後解明される事を恐れたか。それは戦後の日本において「大東亜戦争=軍国主義」という公式を宣伝する事によって共産主義を聖域化し、共産主義革命を大東亜戦争批判の外に避難させておくと言う詭弁を弄するためであった。つまり、歴史の事実である「大東亜戦争=日本と東アジアの共産主義化」を隠すための情報操作の一つであった。これまで日本を大東亜戦争に走らせた思想は「軍国主義」「国粋主義」「日本主義」などと呼ばれてきたが、実は「社会主義」「共産主義」を抜きにして大東亜戦争を語る事は出来ない。ところが、歴史の歪曲作業が現代史家の多くによって戦後60年以上も続けられた結果、「戦前において社会主義思想は弾圧されて逼塞(ひっそく)させられた」という嘘が定説となった。彼らは戦前の右翼を左翼の対極だと見なして、その革命運動を当時の呼称「国家主義」「国家社会主義」に短絡させ、共産党や労農派(後述)の「社会主義・共産主義革命」とは、さも別であるかのように大胆に歪曲した。

2.一世を風靡した社会主義・共産主義思想
  歴史捏造の一つとして「治安維持法が社会主義思想を弾圧したから社会主義思想など戦前の日本にはなかった」と言うものがある。治安維持法は1925(大正15)年に制定されたが、これは「結社」の「活動」の規制法であり、規制される「活動」とは「国体の変更(つまり天皇制廃止)」と「私有財産制廃止」の2点のみであった。従って治安維持法は、コミンテルンの命令に従った天皇制廃止などの革命運動をする「団体」(=コミンテルン日本支部=日本共産党)は取り締まったが、社会主義・共産主義の「思想」は全面的に放置するという、立法上の一大欠陥を犯していた。同じ頃、ソ連との国交回復によって、大使館という情報謀略工作基地を得たソ連が、すぐに日本の出版会や学会を牛耳り支配したため、マルクスやレーニンの翻訳本が爆発的に大量出版された。日本人の知的水準や嗜好とよほどウマが合ったのか、猫も杓子もマルクスやレーニンに飛びついた。それらの著作に対する日本の需要は世界一だった。特に旧制高校や帝国大学の学生など若いインテリ層へ、知的ファッションとしてマルクス主義が浸透した。その背景には大正デモクラシーの風潮があり、また特権階級層であった彼らの、労働者や農民に対する負い目の意識も作用した。彼らは卒業後、官僚となって国家の中枢に進出していく。
 さらに国家主義者や軍人に対しても共産主義の影響があった。1936(昭和11)年に2.26事件を起こした青年将校たちに強い影響を与えた北一輝の思想も、天皇を戴いた共産主義革命の思想であった。彼らに共通するのは、自由経済と政党政治の否定である。共産主義の洗礼を受けた官僚たちは、2.26事件以降、軍と密接に協力し日中戦争「完遂」を呼号して、官僚統制と計画経済の体制である国家総動員体制を構築していく(ちなみに2.26事件とは、天皇制は廃止するが、その前に日本を社会主義国に改造する革命に天皇を徹底利用しようとした事件であったと喝破して、同事件の正体を戦後最初に明らかにしたのは竹山道雄であった。彼は「青年将校たちは、政党・財閥・官僚・軍閥の代表者を次々と殺し、あるいは殺そうとした。これによって構成される〈天皇制〉を倒そうとした…革命を欲して、それを天皇によって成就しようとした」と述べている。そしてこの「天皇による天皇制廃止と日本共産化」を企てた9年半ぶりのクーデターが、1945(昭和20)年8月14日夜半から翌15日未明にかけての玉音放送録音盤強奪未遂事件であった)。

 しかも1929(昭和4)年の米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930(昭和5)年から、日本では「ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する」と言う神話が信仰された。だからソ連型計画経済を概説した著作は大人気で、官界でも陸軍でも学会と同じく大量に読まれ、ソ連型計画経済を美化する本が、一流の学者の執筆において出版された。こうして学界・官界・陸軍・出版・雑誌界は社会主義・共産主義一色に染まり、ソ連を「理想の国」と見なすのが国民的合意となった。資本主義を罵り、軽蔑し、嘲笑し、唾する、それが基本風潮であった。一方「自由経済」擁護は、ほぼ皆無だった。以下にその例をいくつか挙げてみよう。

ア.各種団体からの反自由経済宣言(昭和8年 内務省警保局)
 ●神武会 「私利を主とし民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し…」
 ●尊皇急進党 「資本主義もまた日本主義にあらずゆえ…反対す」
 ●愛国勤労党 「産業大権の確立により全産業の国家的統制を期す」
 ●日本社会主義研究所 「生産手段の国有及び国家による集中的計画経済の施行」
 ●日本ファシズム連盟 「国家統制による経済形態の確立を期す」
 ●皇道会 「資本主義経済機構を改廃し、国家統制経済の実現を期す」
 ●急進愛国党 「非国家的資本主義の徹底的改革…搾取なき国家の確立を期す」
イ.本位田祥男
 市場経済を否定し、統制経済の導入を唱えた。
 「統制経済は直接に社会および公共の利益を目的として、国家自ら統制する…。公共の利益を目的とし、その基準に
 よってどの程度に資本の営利性を認許するかを決定する…。かかる判断を最も適切になし得るのは国家である」
ウ.労農派学者による書籍出版
 労農派:戦前の非日本共産党系マルクス主義者集団。昭和2年創刊の雑誌「労農」によったのでこう呼ばれる。経済
     学者(大内兵衛、向坂逸郎)、最左派の無産政党によった社会運動家(堺利彦、山内均)、「文戦派」のプ
     ロレタリア文学者(平林たい子)などからなる。戦後は日本社会党左派の理論集団社会主義協会に継承され
     日本社会党、総評の路線形成(いわゆる日本型社会民主主義)に大きな影響を与えた。私有財産制と妥協す
     る「統制経済」を軽蔑し、スターリン型「計画経済」を絶賛した。ちなみに一方の「講座派」(日本共産党
     中央)とは、日本資本主義の運動法則や構造分析を解明しようという目的で刊行された、野呂栄太郎を主筆
     とする「日本資本主義発達史講座」(全7巻・岩波書店)に由来する。執筆者は、野呂栄太郎、羽仁五郎、
     山田盛太郎など。労農派は「直接社会主義革命」を目指すべきであるとする1段階革命戦略を唱え、講座派
     は「ブルジョワ民主主義革命しかる後に社会主義革命への強行的転化」とする2段階革命戦略を唱えた。
   「日本統制経済全集」(改造社 全10巻 昭和8年〜昭和9年)
   「経済学全集」 (改造社 全63巻 昭和3年〜昭和8年)
エ.山本勝市
 少数の自由経済擁護派。昭和2年と昭和4年に訪ソして、計画経済が完全に破綻している事を実地観察し、統制経済
 を否定した。
 「社会や公共の利益は政府の施策であって、経済活動から得た私企業の利潤に課した税金を用いてなすものである。
 経済はあくまでも私企業の(国家権力の介入を排除しての)私的な利益追求が中核となった時のみ、右肩上がりに発
 展する」
 「計画経済では需要と供給のための情報を唯一に提供できる市場が不在だから、必然的に計画が出来ず経済は機能し
 ない」
 「昭和2年の秋に帰朝してみると、日本の共産主義運動は恐ろしいまでに普及していた。(大学の授業でマルクス主
 義を批判すると)生徒は立ち上がって反抗してきた」
オ.清水幾太郎(「なぜあなたは共産主義者になたのか」と言う問いに対して)
 「昭和初年の1926〜1927(大正15・昭和元〜しょうわ2)年ですら、神田の本屋街で、平積みの新刊本は
 皆マルクスとレーニンばかり。そんな環境で、読書好きな優秀な学生が、どうやって共産主義者にならない事が可能
 ですか。」
カ.竹山道雄(「昭和の精神史」より)
 「インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めは〈アカにあらずんば人にあらず〉という風であった。」
キ.杉森久英(「大政翼賛会前夜」より)
 「私の学生時代は昭和初年で、思想界はマルクス主義一色に塗りつぶされていた」
ク.与謝野晶子(「与謝野晶子全集」より)
 「マルクシズムよりレエニズムへと言うのが、優秀な大学生間の近頃の研究題目であり…それを人生の唯一の準拠と
 万事を批判し照準する傾向が著しい。この考え方は余りに冷たく、かつ非人間的である…人間が物質に負けて隷属し
 た形である。(日本の帝大生たちは)目前流行の階級意識や唯物主義や過激な破壊思想を超越して大きく豊かに考え
 得る人間であらねばならない…欧米の国民が日本の青年の近状ほどロシアから来た一つの新思想(=マルクス・レー
 ニン主義)に熱狂しないのを羨ましく思っている」
 「共産主義の実現によって期待していた平和な国民生活は全く空想であった。彼の国の労農政府は名を共産主義に借
 りて、実はプロレタリアの中の野心家が、旧資本家を駆逐して、自身が政治、経済、その他の一切の上に専制支配者
 となり、新しい特権階級を建設したのに過ぎない。ロシア国民にとっては支配者が変わったばかりで、帝政時代より
 も一層過酷な圧政政治の下に不幸の度を加えている」       〈1927(昭和2)年〉
ケ.埴谷雄高(はにやゆたか 昭和6年共産党入党、2年後離党)
 「党員となってしまえば、何等の代償なしに人を殺し得る権利を持つ事、また非党員は、そのどれでも任意に取り出
 して殺されるべき単なる標的として存在する事の、不思議なほど自然な暗黙の了解があった」
参考:「共産党宣言」(1848年 マルクス・エンゲルス 大内兵衛・向坂逸郎訳)
    「共産主義者はこれまでの一切の社会秩序を強力的に転覆する事によってのみ、自己の目的が達成される事を
    公然と宣言する。支配階級よ、共産主義の前に慄くがいい。プロレタリアは革命において鎖のほか、失うもの
    を持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国のプロレタリア、団結せよ。」

3.右翼と左翼
  戦前の日本では日本特有の奇妙な政治団体の存在は無視できないほど力があった。いわゆる右翼団体(=皇室護持)であるが、右翼団体を正確に理解できないと大東亜戦争の真実にたどり着く事は出来ない。戦前の右翼団体は「国家社会主義」の「運動団体」と目され、必ずと言っていいくらい「資本主義からの脱却」とか「統制経済/計画経済化への日本改造」を標榜した。このような右翼社会主義思想は、特に若い軍人たちに浸透した。日本の不況、ことに農村部の窮迫が意識にあったからである。「義憤」に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。一部の財閥が巨利を貪っているのに農民は飢えに苦しんでいる、政治家たちは目先の利益だけを追い求め国民の事を考えようとしない――こうした不満が「天皇を戴く社会主義」と結びつくのはある意味で自然の成り行きであった。こうして資本主義・政党政治は否で、社会主義・全体主義(ファシズム)は是とする風潮が生じた。その中で生まれた陸軍内のグループが皇道派と統制派である。皇道派は2.26事件を起こした事からも判るように、テロ活動によって体制の転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた「昭和維新」とは「天皇の名による、そして天皇を戴く社会主義革命」であった。これに対して統制派は軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現する事を目指した。理想とした政策は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。
 このように「反議会主義」にしても「反政党主義」にしても、戦前日本の右翼団体は共産党や労農派と差異がなかった。経済体制の選択に関しても、両者を峻別する垣根は存在しなかった。例えば1934(昭和9)年発行の陸軍パンフレット(通称陸パン)「国防の本義とその強化の提唱」は、資本主義を倒して日本を計画経済の社会主義国にするという陸軍の公式声明書だが、右翼を偽装する極左革命団体に、すこぶる評判が良かった(ただ国家に関しては、国家を否定する「インターナショナル」な共産主義者とは対極的に、右翼社会主義は国家・国境重視で国家的・民族的であった)。つまり右翼は、皇室護持と言う立場では反共産主義であったが、反資本主義を是とする左翼イデオロギーの団体でもあり、資本主義、共産主義両面の排撃をその思想内容としていた。そして、この思想傾向は最後まで共産主義陣営から利用される重要な要素となった事を見逃してはならない。

4.大東亜戦争の正体
  1937(昭和12)年6月の近衛内閣の誕生とは「コミンテルン日本支部(共産党)」の政権掌握と同じだった。同時に日本の外交・内政の指針となったのが、1932(昭和7)年5月コミンテルンで決定された「コミンテルン32年テーゼ」であった。「コミンテルン32年テーゼ」とは、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」の通称であり、戦前日本の支配体制を絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、天皇制を地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格を持つ政体として捉えた。そして当面する改革は、天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命であり、プロレタリア共産主義革命は、その次の段階であると位置付けた(いわゆる2段階革命論)。さらに満州事変によって帝国主義戦争への第一歩を踏み出した当時の日本資本主義の段階を、ブルジョア民主主義革命の段階と定め、この戦争を通じて内乱敗戦に導き、一挙にプロレタリア共産主義革命に移行する戦術をとった。このため日本の共産主義者は、戦争反対闘争から戦争を敗戦革命に導く戦術へと方向転換した。
 1937(昭和12)年6月から1945(昭和20)年9月2日までの8年間、日本の外交・内政は「昭和天皇の退位と言う形での天皇制の廃止」までが暗黙に合意されるなど、モスクワの命令のままに動いていた。そして蒋介石の国民党軍に対して近衛が戦争を開始した理由は、毛沢東の共産党が対国民党戦争に勝利し全支那征服が出来るまで、弱小の軍隊に過ぎない共産党軍に代わって、蒋介石の国民党軍をつぶしてやるためだった。そして「日本の共産主義者の行動スローガンは支那の完全な独立のための闘争でなくてはならない。日本の共産主義者は、敗戦主義者であるにとどまらず、ソ連邦の勝利と支那人民の解放のために積極的に戦わなければならない」のであった。(「コミンテルン資料集」より)
 当然に蒋介石との和平は有り得ず、その通りに「蒋介石を対手とせず」の声明を出した(昭和13年1月)。蒋介石と対立した汪兆銘を中心に傀儡(かいらい)政権まで作った。支那全土を毛沢東の手に渡すまでは、日中戦争を続けるのが近衛の固い心情であり意志でもあった。近衛は口では日中戦争不拡大方針、早期解決を唱えているが、現実には「日中和平工作」を壊し、日本国内を社会主義体制へと誘導していった。例を挙げると、1937(昭和20)年10月に創設された企画院は、支那事変に対応するため戦時統制経済のあらゆる基本計画を一手に作り上げるという目的で作られたものである。言ってみれば「経済版の参謀本部」であって、その権限はあらゆる経済分野をカバーする強大なものとなった。企画院によって生み出されたものが、国家総動員体制であった。(昭和13年4月1日国家総動員法成立)。これは日本に存在する全ての資源と人間を国家の命令ひとつで自由に動かせるという法律であり、日本は完全な右翼社会主義の国家となった。
 また第一次近衛内閣では「東亜新秩序の建設」が閣議決定され(昭和13年12月)、第二次近衛内閣では「大東亜共栄圏」が確立した(昭和15年7月)。確かにアジア諸国を白人の植民地支配から解放しようという、大川周明の唱えた「大アジア主義」(=アジア人によるアジア・人種差別撤廃・アジア諸国の独立支援)の理念自体は、人類社会にとって道徳的にも倫理的にも最も高いものであった。しかしながら、この輝かしい理念は、実はコインの裏表であって、この理念に政治的に絡んでいったのが、近衛文麿と尾崎秀実・風見章など彼のブレーンたち(昭和研究会・朝飯会)であり、それは共産主義ソ連の勢力の膨張政策でもあった。さらに近衛は1940(昭和15)年10月に大政翼賛会を創設した。一国一党の独裁政党となるはずであった大政翼賛会は、実際には綱領も宣言もなく、最終的には国民運動の組織のような性格のものに大きく格下げになったが、近衛の当初の構想はレーニン(スターリン)のソビエト共産党がそのモデルであった。
 「我々は支那事変の初期においては、この事変の持つ重大性を予知して、両国のために速やかなる解決と和平の手段を発見すべき事を密かに望んだのであるが、その後、事変が現在のごとき決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、もはや中途半端な解決法と言うものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外にはないのである。全精力的な支那との闘争、これ以外に血路は断じてないのである。同じく東洋民族の立場から、また人道的な立場から支那との提携が絶対に必要だとする主張は正しいかもしれない。しかしながら現在の瞬間においてこれを考え、これを説く事は意味をなさないのである。敵対勢力として立ち向かうものが存在する限り、これを完全に打倒して後、初めてかかる方法を考えるべきであろう」      (尾崎秀実著作集より)

 「尾崎は、支那事変の発生当初から『コミンテルンの多年目指してきた世界革命の現実の可能性は、この戦争の経過発展の内に急速に増大するもの』と見通し、『この世界資本主義崩壊の過程において重要なる意義を持つべき、いわゆる東亜新秩序の実現は、支那事変を契機として、その決定的なものがあると言う事』を確信していた。彼にとっては支那事変が拡大して、その過程の中で日本と支那が疲弊し消耗する事は、世界革命の要因が醸成される事であるから、むしろ望ましい事であった、と判断される。自ら告白しているように、昭和3年頃には共産主義を信奉し、以後その信念を堅持しつつ、表面的にはリベラリストまたはファシストであるかの態度で偽装した尾崎は、その偽装の下で支那事変の拡大を主張したのであるが、その主張は彼の諜報活動と密接に関連し、究極においては『世界資本主義の墓堀人』の仕事の一環であった、と言うことが出来よう」   (「支那事変の拡大と尾崎秀実」元皇學館大學教授 坂本夏男)

 「近衛首相の周辺に結集した知識人ブレーンの大部分は、左翼思想の持ち主であり、尾崎がその最も有力な中心人物の一人であったわけである。彼らが当時にも何度かあった対中和平の動きをその都度流産させつつ、日本を支那と無制限的かつ半永久的に戦わせようと仕向け、さらには日本を対米戦争不可避の状況に追い込んで行ったのであるが、彼らはそう仕向ける事によって、日本と中華民国(=国民党)とを「共倒れ」させ、日中両国の共産化を実現しようと意図したのである。当時は尾崎が所属していた『朝日新聞』をはじめとする我が国の大新聞も、これに同調して日本の全国民を対中・対米英戦争に向けて駆り立てたのであったが、この事については次のような驚くべき事実を認識しておかねばならない…この当時、土肥原賢二、佐藤賢了といった軍部の中枢の要職にあった有力な高級将校たちが『改造』『日本評論』といった総合雑誌に我が国の国策を論じた論を寄稿しているのであるが、そこに展開された思想や論理は、尾崎グループの「隠れ左翼」の論者たちのそれとほとんど同じなのである。おそらく尾崎グループのだれか(尾崎自身かもしれない)が土肥原将軍たちのゴースト・ライターを務めたのであろう。
                        (「昭和の時代」京産大名誉教授 丹羽春喜)

 中国への日本の軍事的進出を表面的に見て「侵略」だと糾弾するのであれば、軍事的進出によって毛沢東を支援し、中国を共産化するという目的こそ真っ先に糾弾されるべきであろう。真に糾弾されるべきは、アジアの共産化を考え、それを巧妙にカムフラージュして国家と国民とを戦争に誘い込んだ特定の政治家、ジャーナリスト、学者、軍人や新聞・雑誌である。大東亜戦争とは、「東亜新秩序」というスローガンに秘めて計画された、東アジア全体の共産主義化のための戦争だった。結局、大東亜戦争の全ては、ただただソ連の利益に奉仕するために行われた。そして日本が対英米戦争を決断した理由・目的は、英米との戦争によって日本がソ連に改選する選択肢を完全に潰し、共産主義の祖国ソ連を防衛する事、自由主義の国、英米をアジアから追放する事、そして日本を敗戦に追いやり共産主義革命の土壌を作る事だったのである。


U.満州・支那情勢

1.危機にさらされる日本の満州権益
  我が国の満州権益は、日中当事者間の条約、締結、国際社会における列国の承認と言う形で、幾重にも正当性が確認された合法的なものであった。しかし、この我が国の満州における合法的権益は侵害され続けた。単なる侵害と言うレベルを超えて、まさに非合法手段によって日本から剥奪されようとしていた。この認識を抜きにして戦前の日本人の思いを知る事は出来ない。
 当時の満州は馬賊から成り上がった張作霖や、それを継いだ張学良が支配者の地位に就いていた。馬賊とは要するに盗賊を生業とする暴力団である。満州に権益を持ち、居留民を抱える日本は、この張作霖および張学良親子と向き合わねばならなかった。…居住権侵害、商鉱農工業妨害、反日教科書などを使った侮日行為、日本国民への命の危険に関わるような圧迫が日常的にあった。しかし北京政府も南京政府(昭和3年以降)も現地軍閥の張学良も、犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力に欠け、責任を持って対処する政府は事実上存在していなかった。その結果、外国人への犯罪は放置され、無法地帯と化していた。

2.満州権益に対するアメリカの戦略
 @満州権益への介入
   満鉄併行線の建設計画により1927(昭和2)年アメリカは張作霖を支援して、満鉄併行線の一つ「打通線」
  を、満鉄併行線敷設禁止協定を無視する事によって完成させた。さらにもう一つの満鉄併行線である「奉海線」が
  アメリカからレール、イギリスから車両を輸入して建設された。そして1931(昭和6)年には、これらの併行
  線で運ばれた貨物を輸入するための新しい積出港を築く工事も始まった。さらにアメリカは道路工事、航空、電力
  事業へとその勢力範囲を広げていった。
 A反日ナショナリズムの育成
   アメリカの対アジア戦略のもう一つの柱は中国の反日ナショナリズムの育成であった。その具体的な手段がアメ
  リカ系の教育機関による反日教育であった。アメリカは中国における教育文化事業に対して累計4億3000万ド
  ルの投資を行い、多くの学校を設立した。それらの学校には、さらに毎年500万ドルから1000万ドルの寄付
  がアメリカ本土から送られていた。これらの学校では徹底した反日教育が行われ、中国知識人および中国国民党内
  の親米反日グループが形成されていくと共に、中国人の中に多くの親米的指導者を生み出すに至った。中国政府・
  言論界の指導者たちの特徴として、外国帰り、ことにアメリカ帰りが多い。ハーバード大、コロンビア大に学んだ
  宋子文、ヴェルズリー大の宋慶齢・美齢姉妹、カリフォルニア大、コロンビア大に学んだ孫科ら、国民党幹部が特
  に有名だ。彼らは、アメリカの極東政策が反日親中に傾く上で大きな影響を及ぼした。中国の大学の多くでは、親
  米色の強い教育が留学帰りの教授らによって行われると共に、多くの英字紙、漢字紙が発行されて言論界に影響を
  及ぼしたのである。アメリカ人宣教師たち自身も、中国への日本の影響を取り除き、親米的な統一国家が完成すれ
  ば中国市場はアメリカにとり魅力あるものになるとの通信を、米本国に対して繰り返し行っていた。このように中
  国の言論界、教育界は、ほとんどアメリカの影響下にあったと言って過言ではない。
 B中国への軍事援助
   アメリカは張学良に対して3年間で総額2600万ドルに及ぶ資金援助を行う事を決定した。合わせて張学良の
  軍事顧問には、それまでの日本人に代わってアメリカ人が就任し、アメリカの資本で満州の奉天に東洋一の兵器工
  場が作られたのである。また北大営の地にアメリカによる近代設備の整った大兵舎が作られ、中国人兵士20万人
  が、そこで訓練を受け精鋭なる兵士に成長していった。アメリカは、反目していた国民党の蒋介石と張学良とを仲
  介して結託させ、日本の追放を両者の手で行わせようとした。アメリカの反日姿勢は満州事変の導火線ともなり、
  事変当時の日本の新聞には「在満日本人の苦悩の真犯人はアメリカ資本にある」と言う記事が書かれたほどであっ
  た。

3.ソ連による中国への工作
 @共産党の育成工作
   ソ連はコミンテルンを設立して世界革命の本部とし、世界の教案化を推進する政策を開始した。1919(大正
  8)年の第一次カラハン宣言により、北部満州の権益(東支鉄道、満州鉱山、森林など)を中国に返還し、翌年の
  第二次カラハン宣言で治外法権を撤廃した。このような対中国融和政策により、中国国民の間に親ソ意識が生まれ
  た。ソ連は1921(大正10)年、コミンテルン中国支部、すなわち中国共産党を結成させ、中国各地でストラ
  イキ戦術による学生運動、労働運動を起こして、共産革命を行なう指令を発した。
 A国民党への浸透工作
   辛亥革命後、列国との外交関係は北京を首都とした中華民国が結んでいた。ところが、中国各地には中華民国政
  府の統制に服さない独立の地方政権が林立していたために、国家は分裂状態にあった。ソ連は、その地方政権の一
  つである孫文率いる国民党(於広東)に注目し、接近を図った。国民党に最高顧問としてボロディンを送り、15
  0名の軍事顧問を派遣し支援を行なったのである。その一方、共産党に対しては国民党と提携するよう指示を出し
  た。そして1924(大正13)年に、第一次国共合作が成り、孫文は「民主主義は共産主義を包含している」と
  して共産主義を受容し、その結果、国民党中央執行委員24名中3名が共産党員であった。
   その後、国民革命軍(国民党+共産党 総司令 蒋介石)が組織され、1926(大正15)年、北京の中華民
  国政府を倒すため「北伐」が開始された。国民革命軍を支えるためソ連は国民党に対して、小銃23万丁、大砲1
  00門、弾薬、さらに毎年300万ルーブル強の資金を提供したとされている。一方、国民革命軍の将校育成機関
  である革命士官学校は共産化され、共産主義者が多数輩出される事となった。また、国民党中央執行委員として、
  毛沢東ら共産党員13名が就任し、国民党内部に影響を拡大していった。蒋介石も一時は「革命は第3インターナ
  ショナル(コミンテルン)の指導を受くべし」と言ったほどだが、共産党勢力の国民党内部への浸透の激しさを危
  惧した彼は、1927(昭和2)年、反共に転じ、上海でクーデターを断行して国民党内の共産主義勢力の排除に
  乗り出した。しかしながら、国民党が反共路線に転換してからも党内には数多くの隠れ共産党員が残り、後に国民
  党を対日戦争に引き込むに当たり、大きな役割を担う事となる。
 Bソビエト支配地域の獲得工作
   国民党が反共路線に転換したため、コミンテルンの指令によって、共産党は武装暴動を決議し、共産党の支配地
  域を獲得する方針に路線転換した。最大で、9つのソビエト区、400のソビエト県があり、30万の共産軍〈農
  民を含むと200万〉がいた。
   1927(昭和2)年、広東省にソビエト政府樹立
   1930(昭和5)年、広西省にソビエト政府樹立
       〃      江西省にソビエト政府樹立
 C満州における反日武装蜂起戦略
   1921(大10)年、満州に中国共産党支部結成
   1926(大15)年、奉天医大、満州医大の学生による反日デモ
   1927(昭和2)年、反日示威大会(学生、市民2万人)
              田中義一内閣打倒、帝国主義打倒
   1928(昭和3)年、労働者ストライキ
   1929(昭和4)年、「全満暴動委員会」組織、共産ゲリラ活動推進
   1930(昭和5)年以降
       東満州の共産軍遊撃区が間島省、安東省、吉林省、奉天省などに及び、反日活動を展開する共産ゲリラ
      は、数十名を単位として絶えず移動し、放火、略奪、暴行事件を起こした。

4.満州事変
  こうして大正中期より、東満州は共産ゲリラによる暴動の巷となり、満州の日本人社会においては、次は共産党正規軍による反日暴動が起こるのではないかと言う、危機感が高まった。一方では既に見たように、同じく日本排除を目指すアメリカが、国民党を扇動して、日本の満州権益を非合法手段によって強制回収させようとしていた。国民党政府の元で満州を支配する張学良軍は約30万、これに対して満州における日本の権益を守り、日本の居留民100万の保護に当たるべき関東軍の兵力は1万強に過ぎなかった。そのような中で、1931(昭和6)年9月18日、事態打開を目指して、関東軍が柳条湖において電撃的な軍事行動を開始し、張学良軍を満州から駆逐したのが、満州事変であった。満州における日本の行動が侵略であったと主張するならば、まずは当時の南京政府、または張学良に犯罪者を取り締まる当事者能力の有無を問題とすべきであろう。現実には、その能力も無ければ、事態に誠実に対応する姿勢も見せなかった。与謝野晶子は「日本は中国の排日行為に対して、久しく隠忍を重ねた。終に忍び切れずして出先の陸軍が、非常手段の自衛策を断行した。この非常手段は決して好ましい事ではないが、(中略)責任が彼国(中国)の軍閥政府にある事は前述の通りである」と述べている。在中アメリカ公使マクマリーは「日本を、そのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上、中国が自ら求めた災いだと、我々は解釈しなければならない」と言い、内田外相も「当時、日本の当局者は、機会あるごとに張作霖に忠告を与え、保境安民の必要を説きたるも顧みられず、その子、張学良に至りては…ついに南京政府に通じて満州より日本を駆逐せんとするの暴挙を行うに至れり。これ昨年9月18日の事変を惹起(じゃっき)せる真因なり」と述べている。

●リットン調査団報告書
 イ.日本の権益の正当性と中国側による侵害の事実を認め、排日運動の禁止を中国側に要求した。
 ロ.中国の国境が日本軍に侵略されたと言った簡単な話ではない、すなわち、日本軍による侵略戦争ではない、との
   との認定を行った。
 ハ.治安維持のために、満州地域を国際管理の下に置く事を提唱した。

  リットン調査団の報告書は、日本の困難な立場にも一定の理解を示す内容だった。日本側も同報告書をそのまま認
 めるつもりであった。昭和天皇は「私は報告書をそのまま鵜呑みにしてしまうつもり」だったと記している。リット
 ン報告書によって我が国は、満州の将来について、満州国による統治か国際管理による統治かの二者択一を迫られる
 事となった。しかし国際連盟の場で実際に日本に勧告された国際管理案(ARA密約による)は、リットン調査団報
 告書とは異なり、日本の立場を一段と追い詰める内容となっていた。

●国際管理案
 イ.「満州事変解決のための調停委員会に、米ソ両国を招聘する」の記述加筆
 ロ.「満州の自治政府は国際連盟の主導の下で、外国人顧問が各方面で指導・勧告に当たる」の記述削除
   「外国人顧問については十分な割合を日本人に考慮する」の記述削除
   「最高法院の2名の外国人顧問のうち1人は日本人とする」の記述削除

  満州の問題の核心は、その治安維持にあるが、治安維持のための国際管理のメンバーから日本人が排除される恐れ
 が出てきた。ここで重要な点は、国際連盟への米ソ両国からの工作の可能性である。アメリカが過去、満州に介入す
 る方法として、常に満州の国際管理を提唱してきた事実がある。新たに打ち出された国際連盟の勧告は、アメリカの
 要求を満たし、国際社会が初めて満州における国際管理に、お墨付きを与える事を意味した。アメリカにとって、満
 州の国際管理、しかもその管理の当事者として国際連盟から招聘される事は、それまでの宿願を果すものであった。
 したがって、もし日本が国際連盟の勧告した国際管理案を受け入れたならば、それはソ連及びアメリカが、それぞれ
 中国共産党及び中国国民党を背後より扇動する立場から、満州を堂々と管理する当事者としての立場に移行していく
 事を了承する事となる。その結果、国際管理は米ソ中の3国の結託によって運営され、次第に日本の権益は排除され
 る事となったであろう。日本は国際管理案拒否・国連脱退と言う選択によって、米ソ両国と対決した。

5.日本を取り巻く反日包囲網の形成
  これに対して、それまで独自の日本排除戦略をとっていた米ソ両国は、提携して日本排除を目指すようになる。1933(昭和8)年11月、アメリカは、それまで国家として承認する事を拒否してきたソ連との国交を樹立した。米ソ間ではアメリカによるソ連承認と引き換えに、満州におけるソ連の権益をアメリカに譲るという合意がなされていた可能性があるという。ソ連が満州問題でアメリカと提携し、それが対米債務の解消やソ連承認につながる事はソ連にとって有利な事だった。日本を満州から排除し、満州権益を米ソ両国が分割するに当たって、米ソ両国間において様々な秘密交渉がなされていたであろう事は想像に難しくない。
 アメリカがソ連と反日提携に動いた事実は、中国情勢に大転換をもたらす事となった。従来中国では、国民党政府(アメリカが支援)と共産党(ソ連が支援)とが、中国の覇権をめぐって戦いを続けていた。それまで国民党は、アメリカの支持を失う危険性があるとして、ソ連との関係強化に否定的だったが、米ソ両国の反日提携によって、その内部にソ連との提携を容認する動きが生まれたのである。例えば、1933(昭和8)年3月、国民党政府はソ連に対して米中ソ三国同盟を提案する申し入れを行っている。また満州事変によって、地盤の満州を追われた国民党の張学良も、共産党との関係を深めていった。一方ソ連も、1935(昭和10)年に第7回コミンテルン大会をモスクワで開催し、米ソ国交回復を踏まえ、当面の敵を日本とし、反日団体の結集をはかる「抗日民族統一戦線」の形成を決議した。

※第7回コミンテルン大会
 これまでは、一般の社会民主主義団体は共産主義の敵であるとして排撃闘争してきたが、これからは、これらの諸勢力も出来るだけ利用していく事、各国それぞれの国情に適した戦略戦術を採用する事、これまでは共産主義者の堕落として極端に排撃してきた、合法場面の活用を巧妙に考える事など、人民戦線戦術路線への大転換が唱えられた。例えば、中国では共産党は蒋介石政権と合作提携して抗日人民戦線を確立し、中国全民衆を抗日戦線に統一動員する事、日本では従来の小児病的な戦争反対論を引っ込め、むしろ満州事変以降極端に増長してきた日本軍部を巧妙に操って無謀な戦争に駆り立て、軍閥政権を自己崩壊せしめる方向に誘導する事、また官憲の神経を最もとがらせる天皇制打倒のスローガンなどは、しばらく表面に出さず、出来るだけ合法的に食い込んで、資本主義支配体制を内部から切り崩していく事が挙げられた。
 さらにコミュニストの道徳的基準は、世界共産主義革命を完成し、プロレタリア独裁政権を通じて共産主義社会を実現せしめる以外にない、従ってこの目的達成のためには、権力者を騙す事も、友人を裏切る事も、白を黒と言い曲げる事も躊躇してはならない…共産主義者としての立場を守るために必要な場合は、妻でも、親でも、上官でも、親友でも、恩師でも裏切って平気でいられるだけの鉄の意志が必要だ、この事は共産主義者の最も大切な行動の基準である事が唱えられた。

リャザノフスキー(コミンテルン天津代表)
  「反日感情をかき立てなければならない。反日運動とボイコットを同時に行う事。日本製品を買う者に対して、南
  京政府は罰則を用意しているという声明を出す事によって、日本製品の購入を阻止するよう努める事」
   そしてこの動きを決定的なものとしたのが、1936(昭和11)年12月に起こった西安事件であるが、これ
  は中国内部で反共政策を優先させていた、蒋介石の路線転換を図るためのものであった事は明らかである。反共の
  立場で日本との提携の道を模索していた蒋介石は、一転して国共合作に踏み切り、日本に対抗する事となった。

●米ソ英仏による対中軍事援助〈1931(昭和6)年〜1945(昭和20)年〉
 ・米総額 25億5400万ドル (現在の貨幣価値で約11兆2170億円)
 ・ソ総額 1億7317万ドル  ( 同 約1兆円 別に共産党向けに巨額の軍事援助)
 ・英総額 2550万ポンド   ( 同 約2兆8764億円)
 ・仏総額 2億100万フラン

6.ヤルタ密約
  1945(昭和20)年2月に行われたヤルタ会談にルーズベルト、チャーチル、スターリンが集まったが、その時ルーズベルト・スターリン間で密約が結ばれた。
  @大連を「国際的商業港」とし、ソ連の利権が優先的に保証される事
  Aソ連は旅順を租借して海軍基地として復興させる事
  B大連まで至る「東清鉄道」と「南満州鉄道」は、ソ連と中国の合弁会社によって共同で操業する事
  Cソ連は日露戦争敗北で割譲した南樺太を取戻し、さらに千島列島を領有する事
 以上を換言すれば、日露戦争前の権益をソ連が回復したという事である。

  @ソ連は、中国の唯一の政府として、国民党政府を承認する事
  Aソ連は、共産党支援を停止して、国民党による中国統一を容認する事
 以上を換言すれば、アメリカが国民党政府を通じて中国本土を支配する事を、ソ連が承認するという事である。

 ヤルタ密約は、ソ連が満州を、アメリカが中国本土を、それぞれ分割支配する事で合意した事を意味する。しかもこれほど重大な権益の分割合意が、当事者である蒋介石には全く秘密のまま決定されたのである。満州には、日本が100億ドルを超える資金を投資し14年に渡って開発した重工業設備、炭鉱などの鉱物資源、さらには日本軍が備蓄していた膨大な軍需品(10年は戦争が続けられると言われた)、日本軍が満州国軍として長年訓練していた人員があった。ソ連は、満州に進撃して占領するや否や、これら全てを接収し、共産党を支援しないとするアメリカとの約束を反故にし、共産党側に引き渡した。この結果、共産党軍はそれまでの貧弱なゲリラ部隊から一転して、近代装備と訓練十分な兵員を持つ強大な軍事力を持つ事になった。
 一方アメリカでは、共産党側の宣伝工作によって、中国安定化のためには国民党政府の中に共産党を合流させるべきだとする主張が強まり、その事を国民党政府に認めさせるために、一時は同政府に対する支援打ち切りまでなされた。
ケネディ大統領は下院議員時代の1949(昭和24)年1月「1941(昭和16)年11月、米国は極東政策の目標が中国の統一を実現し、国民党正否と強固な関係を維持する事にある事を明確にしていた。ところが、戦後、国民党政府を支持すべきか、それとも対中援助を代償に国民党政府に共産党を受け入れさせるかで、国論は2つに分かれた。その結果、米国の対中政策は自ら悪い報いを招いた。もし米国が連合政府に固執しなかったならば、国民党政府がこのような悲惨な打撃を受ける事はなかったであろう。中国の赤化を防げなかった事は米国の利害に重大な影響を与えた。
我々は自由中国を維持するために一戦を惜しんではいけない。米国の外交官と大統領が全てを『無』にしたのである」と指摘して、共産党中国誕生への道をアメリカ自身が作ってしまった事を悔いた。戦後の共産党中国の誕生は、アメリカにとっては予想外の悪夢であった。蒋介石自身も「この『ヤルタ密約』によって、中国は共産主義者の手に売り渡されたのである」と指摘している。米ソの提携と中国分割支配構想、すなわちアジアのヤルタ体制を推進した結果、その果実はソ連、中国共産党に奪い取られたのである。
 ちなみにブッシュ大統領は、2005(平成17)年5月のリガ演説において、「ヤルタ協定は、安定のために自由とデモクラシーを犠牲にした協定であり、その点において独ソ不可侵条約やミュンヘン融和政策などの、不正の伝統に連なるものである。しかし、この安定と言う目的のために自由を犠牲にしようという企ては、結局、ヨーロッパ大陸を分裂させ、不安定なものにしただけであった」と述べている。かつて東ヨーロッパに共産主義国家が誕生した事を反省した内容であるが、この歴史認識は東アジアにも当てはまる。すなわち東アジアに共産党中国、北朝鮮、ベトナム、カンボジアと言う戦後アジアの共産主義体制が構築されたのである。

参考文献 「山本五十六の大罪」 中川八洋 弓立社
     「大東亜戦争の秘密」 森嶋雄仁 元就出版社
     「共産党宣言」 マルクス・エンゲルス 大内兵衛・向坂逸郎訳 岩波文庫
     「昭和大戦への道」 渡部昇一 WAC
     「米ソのアジア戦略と大東亜戦争」 椛島有三 明成社
     「昭和の精神史」 竹山道雄 講談社学術文庫
     「大東亜戦争とスターリンの謀略」 三田村武夫 自由社










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