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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 日米交渉顛末記(その1)


米国に使して―日米交渉の回顧―

野村吉三郎著 岩波書店

H28//16

 

 日本は満州事変以来、満州を独立国となし、引き続き支那事変の発生となり、ここにいわゆる大東亜共栄圏、東亜新秩序をもってその国策としてきたのである。これに対して米国は東亜における門戸開放政策を多年に渡り堅持し、かつ支那に対してはワシントンにおいてなされたる諸条約によりその主権を尊重し、内政不干渉を飽くまでも標榜し来り、日本の東亜共栄圏ないしは新秩序に対して反対をなし、ひいては日本の支那出兵にも同じく反対を表明、最初の内は、主として自己の権益を擁護するという見地から反対したのであるが、日本の支那における駐兵ということは彼らの主義上同意せざるところであった。

 かかる次第で支那問題を中心として日米の関係はだんだん悪化してきた。満州事変に対しては当時のフーヴァー政権は非承認主義を表明、ルーズヴェルト政権になってもその政策を踏襲して居った。支那事変になってからますます日米の関係が悪化してきた。そうしてついには日本の政策をもってヒトラー一流の侵略主義と認定、その頃よりますます蒋政権を援助し出した。しかも国交断絶の前頃になって支那を援助するということは、あたかも英国を援助してナチに当たると同じことであるということを公言するに至った。我々海軍出身の者の間にあっては日米間の問題は支那問題を中心として改善も悪化もされ、最悪の場合には戦争にまで行くということが常識であった。

 昭和159月締結された3国同盟、日本政府当局はこれによって日本の立場を強化し、外交的環境をよくし、戦争を防止し、日米国交調整を有利ならしめ得ると認めたのであったが、米国はむしろこれに対し非常な悪感を抱くに至ったということは、種々な方面から見て覆うべからざる事実であって、日米関係の調整を困難ならしめる一つの大きな動機であり、全米の新聞は大体これで日本の政策は骸子が投ぜられたと看做したのである。余がワシントンにおいてご信任状を奉呈したとき、ルーズヴェルト大統領は「米国の英国援助は自由意思でやっているが、貴国は3国同盟によってその行動を制約されている。条約そのものの文言は簡単ではあるが、これはいかようにも解釈を広めることができるではないか」ということを語ったし、また余の多年の友人たる某提督は「3国同盟は我々を非常に激憤せしめた」ということを語り、余もまた米国の空気は大体そういう風に見て間違いないと思った。

 日本には南進という世論があり、米国は日本が事実南進政策を取り、仏印、タイ、マレー、蘭印というようにだんだん進んでいくものと認めて相当これを神経過敏に注視していった。そうして日本に対し経済的圧迫を加える場合においても、これによって直ちに日本をして南進せしめないように非常に注意を払っていった。例えば種々の飛行機原料、屑鉄、ハイオクタンガソリンなどの輸出禁止があったにもかかわらず、油の輸出を止めなかったのは、それらの点を大いに考慮していったものと余は考えた。しかし日本の態度については平和50、武力50と見ており、いつ好機をとらえて南へ出るかわからぬという風に米国の朝野は見ておった。しかしてこの趨勢に対して米国政府は極めてはっきりした態度を取り、昭和16年の817日、日本が仏印南部へ進駐を了したとき、大統領は余に向かって、現在以上日本が侵略的に出るならば、自国および自国民の権益を擁護するためにあらゆる必要な手段をとるということを明言し、この態度を明らかにすることが却って平和を維持する所以であるとも語った。

 余が米国当局と交渉をしておった間に、4月、5月、6月頃には相当の希望なきにしも非ずであったが、7月末仏印の南部進駐、これに対して米国が輸出許可制および資産凍結をやるに至って談判も中絶した。8月に入りルーズヴェルト・近衛会談の話が持ち上がって多少息を吹き返した。ルーズヴェルト大統領はこの申し出に対し最初は好意的に取り扱ったが、先方の言い分は要するに会談の前に大体の予備会談をまとめ、両首脳の会見においてはこれに調印するという風にしたいということを主張、しかもその頼みの綱ともいうべき予備会談は結局両者が受け入れ得る程度に到達しなかった。従ってこの計画された首脳会見は実現不可能となった。

 遡って余が大使として出発するに当たっては、政府の意思を十分に承知し、日米国交調整に対する熱意もまた十分飲み込んでいた。そうして当時日本朝野の種々の指導者たちをも訪ねてみたが、これらの人々は皆等しく日米戦争を避けることを欲しているものと思った。しかし赴任後、向こうにいる間に近衛内閣が第2次よりさらに第3次となり、続いて東條内閣と変わり、東京の状況は余自身としては十分これを知るに由なく、かえって米国の新聞を介してこれを承知する位であって、何となく灯台元暗しの感なきを得なかった。加えて刻々調整がだんだん難しくなってきたことを痛感するに及んで、豊田外務大臣に対して、外交上の先輩、例えば来栖大使の如き仁をワシントンに派遣してくれということを電報した。これは別に余が責任を回避するというのではなくて、両国の真相を一層明らかにして外国当局においても平和維持のために最善の努力を尽くすの必要を感じ、また余のごとき真の外交官ならざる者が一人でこの衝に当たったのでは、日本国民に対してもすまないという感じから出たものであった。ところが来栖大使の来られるのが、余の希望したときよりはだんだん遅れて東條内閣になってから来られた。それでも余は同大使の来られたことを非常に多とした次第であった。

 余はまた最後の最後まで直ちに日米戦争となるという風には予想もせず、予感もしていなかった。あるいは日本の南方進出の結果まずもって日米国交断絶という事態になりはせぬかと密かに思っていた。

 余は主として大統領および国務長官と話をした。大統領とは10回くらい、ハル長官とは60回ばかり会談したが、先方は米国の根本政策を固く取って動かなかったけれども、いずれの場合においても会見は極めて打ち解けた態度の間に行われた。

 海軍の出身である余は、少尉・中尉のとき軍艦三笠同航員として渡英し、大尉・少佐のとき独墺に駐在すること3年、帰途米国を見学し、中佐・大佐のとき米国に3年8か月勤務し、大佐のときパリ講和会議およびワシントン軍縮会議の全権随員となり、その間諸国を旅行しその戦力を研究した。かつ3回、海軍のいわゆる遠洋航海で各地を巡航し、支那においても前後を通じ3年余艦上勤務をなした。特に米国に関しては1899年すなわち米西戦争翌年の遠洋航海に始まり、最初の米国在勤は第1次世界戦争のときであり、かつ味方同士であったので各方面視察の便を得、十分にその生産力と戦力を知るを得た。しかし外交の技術については全く門外漢である。のみならず通信機能の発達した今日、大使の職は過去と異なり畢竟本国政府よりの伝声管たる役目に過ぎない。着任以来日夜心力を傾倒大いに努力はしたが、内外の大勢上如何ともなし難く、国交調節は不成功に終わった。それについてはもちろん余も責任を痛感して居る。

 近頃当時のすっぱ抜きがところどころに現わるるにいたり、余は彼の地における顛末を発表するがよいと考え、諸友もこれを勧めるので、杜撰と知りつつも急に公刊することとした。ただし排他的または憎悪の感情なく真実を語るに努めた。

昭和213

前編

1.ルーズヴェルト大統領およびハル国務長官のこと

  余が大正4(1915)年1月在米帝国大使館付海軍武官としてワシントンに着任した当時、大統領ルーズヴェルトは海軍次官であった。爾来余は彼を知ってしばしば話をかわすようになったが、その頃の海軍卿は開戦前までメキシコ大使であったダニエルで、ルーズヴェルトはその下にあって才腕を振い有為な海軍次官として全海軍士官の間に好評を博して居った。余はメトロポリタンクラブで会ったり、あるいはまたニューヨーク街にある彼の質素な宅をも訪問してしばしば会談して彼の人となりを承知して居ったが、実に天空海闊(=かつ)、言語頗る明晰、融通無礙の性格のように見受けられ、また事実そうであった。

  昭和4(1929)年、余が練習艦隊を率い渡米したとき、彼はニューヨークの知事であったが、折悪しくサウスカロライナに転地療養をしていたために会うことができなかった。そこで余から挨拶を述べたところ、彼は丁寧な手紙をよこし、それにはいずれ知事の任期も終わるであろうから、その際はミセス・ルーズヴェルトを伴って東洋漫遊をしたいというようなことも記し、余に会えないことを遺憾とする旨を述べてあった。

  昭和7(1932)年、彼が大統領に当選したとき、余はハンド・ライティング(手書き)の祝辞を送ったところ、その返書に、余の率いる練習艦隊がニューヨーク訪問のとき再開の機会を逸したことを遺憾とし、もし次の数年のうちに米国に来るならばホワイト・ハウスで歓迎したいというようなことが記してあった。

  昭和11(1936)年の総選挙で彼は46州を獲得して選挙の成績が非常に見事であった。余はその時にもまた祝辞を送ったところ、彼はそののち米国大使館を経由して返事をよこして「久しぶりのお手紙ありがとう、自分はブエノス・アイレスの会議に出席したり、臨時議会があったりしたために手紙を書くのが遅れて申し訳がない、自分は、かつてしばしば君に話をした通り、ある時期には必ず東洋を訪問して日本のグレート・アコムプリッシュメント(偉大なる発展)を見たい」というようなことを言ってきた。

  彼は民主党に対する顕著な功績により32歳にして海軍次官となり、8年も勤続し海軍を特に好んだので海軍の事情には極めて精通し、海洋の大戦略にも通暁して居った。彼はライン川においてドイツの西漸勢力を食い止めんと欲して居った。ダンケルクの惨敗後、米国は兵器庫を開いて大胆にも小銃50万挺その他大砲弾薬などを英国に送ったが、大体フランスがマジノ線に頑張っている間は、米国の知識層は英国の海軍、仏国の陸軍、米国の工業力の三位一体をもってドイツを食い止め得るように考えておったようであるから、マジノ線が脆くも突破せられ、ドイツ軍が英仏海峡に殺到し、英国を指呼の間に睨み、パリの命旦夕に迫るに至って米国は大いに心配した。が、フランス政府の降伏はいよいよ英国の戦争がすなわち米国の戦争であることだと認めて一段とその真剣味を加えてきた。1940年6月22日フランスは休戦規約に調印降伏したが、8月老齢駆逐艦50隻を英国に譲与し、大西洋西部およびカリビアン海にある英国の根拠地を租借し、もって米国の国防戦を大西洋の中央まで推し進めた。その後、グリーンランド、アイスランドに基地を租借したが、皆同じ海洋戦略に基づき制海の実を挙げ、交通線をも擁護するためであった。

 ルーズヴェルトの対英援助の最も重要なるものの一つは、1941年3月に議会を通過した貸与法である。これについてルーズヴェルトは余にその大規模なるを語り、全額は前代未聞の70億ドルであると繰り返し語ったが、その後さらに全額はどしどし追加せられた。実際上これにより英国は財政上の心配なく米国より軍需物資などを入手することを得ることになり、米国は実際上連合国の一つとなり、ただまだ交戦国でなかったのである。ルーズヴェルトは汎米政策を行うにもいわゆる善隣政策をやり、武力使用をやめ、カナダとは別に共同防衛を協定したが、開戦前にはすでに西半球諸国間に共同防衛の約が成立していて、これは今次戦争に極めて有力な基礎をなした。その汎米政策に対する彼およびハル国務長官の多年にわたる熱心さは非常なものであって、特筆に値する。

  独ソ戦争は1941年6月22日に始まった。米国の専門家あるいは知識階級の中にはソ連を悲観視する者もあり、その援助を不利とする者すらあったが、ルーズヴェルトは前の駐ソ大使デヴィスおよびその懐刀たるホプキンスと強引に押し切り、対ソ援助を積極的にやった。

 彼の改選前の諸準備といい、陸海軍の大充実といい、国際関係の判断といい、皆的中した。しかるにその結果を見るに至らずドイツの降伏直前に急逝したが、大勢を洞察達観し、あれだけの活動を続けたことは全く偉とせざるを得ない。ルーズヴェルトは思想的にはやはりウィルソンの流れを汲んでいるものと思う。つまり孤立主義者ではない。現に余に対しても、ヨーロッパの新秩序と東洋の新秩序の間に米国が介在しているということは忍ばれないという意味のことを言ったこともある。ただしウィルソンのように独断的ではなく、非常に世論を考慮して居った。例えば毎週新聞人と会見して居ったのもそれである。しばしば余に対しても世論を指摘して、これを最も重視するような風を示したことは一再ならずであった。

  今度の戦争において、戦争に勝つと同時に平和に勝つと言い、ベルサイユの失敗を繰り返さざるよう用心を怠らなかった。彼がようやく爛熟期に入らんとする物質文明を精神文明の方向に導入し、互恵を原則とした以暴易暴の外交を改善し、もってわずかたりともこの世界に精神の巧妙を与えるに努力したならば、彼はワシントン、リンカーンと共にあるいはそれ以上に大功業を残し得たであろう。最も国際連合案は彼の力に負うところが多いようである。しかるに戦争の末期になって他界してしまった。彼は一貫した外交政策を持ち、逆境にあってなお屈せず、剛胆に押し通し、その間に国民の支持を得、第3期もなお第4期も当選したことは米国歴史上未曽有のことである。

 

  ハル国務長官は余がワシントンに来て初めて知った人である。米国の朝野両方とも彼に対しては誠実な政治家であると見ていたように思われる。米国では任命された人よりは国民に依って選出された人を尊重する傾向がある。彼はもちろん専門的外交官ではないが、政治家の間では専門的外交官よりはずっと重視されているように思う。ことに議会生活、下院および上院の生活が長く、議会方面においては勢力を持っていたようである。米国の歴史の教科書を見ても、ルーズヴェルトがハルを国務長官に捉え来ったことは、ルーズヴェルト政権の一大成功のごとくに書いている。余もまた彼は誠実な人物であるが、地味な質であると思う。かつてみたヒュース国務長官のような生気溌剌たるところを表さない。しかしながら一般に非常に頑強で、米国の主義主張をあくまで堅持する人であったと思う。彼もまた世論というものを非常に重視して、日米国交調整の進行中にも東京において世論をその方向に誘導するならば我々の交渉はそれだけなし易くなるとたびたび言い、多少なりとも調整の好調を認めた時分には、彼は米国の世論をもその方に向けるのに努力を払う旨、余にもたびたび言ったことがある。思想もやはりウィルソン流で、干渉論者であり、余に対して米国が南北両米に蟄居しているのでは狭すぎると言ったこともある。

  なおウェルズ国務次官はルーズヴェルトと同じくハーバード出身、生え抜きの外交官で几帳面な官僚型の感を与える人である。先に欧州を巡りヒットラーやムッソリーニの肚裏を探り、大西洋憲章創作のときはこれに参与し、開戦直後はリオの全米会議に活躍した。

 

  このついでに余は米国人気質、その優秀なる能率について一言しておきたい。米国民は勤勉であるが、ルーズヴェルト大統領もハル長官も勤勉力行の人である。ルーズヴェルトは16時間働くとさえ言われたが、ハルも日曜日も絶えず出勤し、社交界には一向顔を出さないそうである。余に対しても会見を申し込めば即日即夜引見するのが常であった。6月に入り病床に就き声が出ないのに、3回も病床に余を引見したほどに勤勉であった。ルーズヴェルトの懐刀ホプキンスなども週末英国行きを命ぜられたところ、すぐ月曜日に出発渡英し、その上モスコーにスターリンを訪問して居った。東京にあるマッカーサー元帥も精力家で、開戦以来ずっと休日というものはないそうである。

  電話のごとき相当遠距離でもホールドライン(お待ちください)と答える。これに比較して我らの電話は果たして電話の名に値するであろうか。一事が万事彼らは皆能率的である。故に彼らの一人は我ら数人分働く。従って8千万の我らは彼らの2千万人以下の仕事しかなし得ないことになる。あの絶大なる工業力を有し、優秀なる能率の大敵に対し、貧弱なる資源をもって3年8か月もよく敢闘し得たことは、敗れたりといえども自ら慰むるに足るように思う。

  しかるに支那事変を収拾することなく、なぜかかる不利なる戦争を敢えてしたか。蓋し政治の貧弱に依るはもちろんであるが、それはまた我々国民が余りに政治に無関心なるが故でもあった。国際知識に乏しいが故に徒にうぬぼれ、結局彼を知らず己を知らなかったのである。ここにおいてか今日においても教育の振興は急務であると言わなければならぬ。

  世界は今や原子力時代となり、地球は交通自在、天涯比隣となりつつある。米軍の当方面空軍総司令官は過日最初の日本ワシントン間無着陸飛行に自ら試乗している。米国と我が国との往来はあたかも我々が近県に出かけると同様に簡単になってきた。

  終戦に当たり、茫然自失したる我々は、爾来半年の間交通通信機関の回復は遅々たり、生産は挙らず、闇のみ横行し、インフレーションはいよいよ激しく、このままにては憂慮に堪えない。我々はこの際徒に過去を語るよりはむしろ現在および将来を達観し、心機一転、相共に破壊的言動を戒め、大和一致、我々の病根に対し果敢に大胆に徹底的メスを加え、もってあらゆる業務の時間的能率を大いに高めねばならぬ。これはおそらく今後我々を救う唯一の途であろう。

 

2.開戦前後における米国政治の傾向

開戦前の米国は、ウィルソン末期の孤立論全盛時代とは非常に趣が変わっていたように思う。国力の向上に伴って世界政策に明らかに乗り出している。その最も著しい例は、両洋海軍主義であった。この両洋海軍主義は昔の海軍本位に加うるに海空軍主義ということになっている。英国はブリタニアは世界の海洋を支配するという主義をもって多年やってきたが、周囲にだんだん新進の国ができ、英国の実力をもって世界の大半を支配することが不可能になりつつあるとき、新しい米国は両洋海軍主義をとって、つまり大西洋にも太平洋にも優位を制するの政策に乗り出しつつあったのである。そしてその政策要点はモンロー主義ないし全米主義によって南北両米を制し、門戸開放主義によって至るところ、就中アジアに勢力を扶植し、海洋の自由を唱えて世界中いたるところに門戸開放、機会均等の主義を張り、その勢力を樹立せんとするにあったのである。前述のルーズヴェルト大統領やハル長官の言もこれを裏書きしており、また彼の両洋海軍主義は明らかにその主義を実行せんがためであって、ここにおいて世界の平和を維持するために米国はその責任を回避することはできないという風に感じていたのである。フィリピンを全部放棄するというような議論は今次の世界戦争始まって以来漸次勢力を失い、その政策のためにフィリピンのある地点を海軍根拠地、空軍根拠地として保存する必要は海軍においても強く主張されつつあったように思われる。開戦のときは、米国の海軍は所期の大きさに達することなお数年を残すという場合に戦争になったのであった。緒戦には敗退し、一時は多少失望もしたが、それでも民主主義国は通例戦争の準備がなく、緒戦期は負けてもやがて取り返し、最後の勝利は我にありと確信するもの、国民を挙げて皆然りと言ってよいほどに思われた。

 

3.余の駐米大使就任について

  1940(昭和15)年の8月24日、余が暑を避けて嶽麗山中湖畔に滞在中、時の外相松岡洋右君から帰京ありたき旨の電報があった。そこで余が上京すると、26日は同君が拙宅を訪れて種々外交上の話をされた後、余に駐米大使就任を慫慂(=しょうよう)された。そしてこれについては吉田海相も全然同意であると告げられたので、その日の午後、余は吉田海相を訪問、「覚書」を示して意見をも述べたが、要するに政府の枢軸強化政策と日米親善とは二兎を追うものであって、極めて難しいことを述べた後、海相と協議の上その日速達便を持って鄭重に就任をお断りしたのである。その「覚書」の内容というのは次のとおりである。 

 

我が国が今日最も用心すべきことは我が国力が無限なりと信じ四方に軽挙妄動しついに一兎をも獲る能わざるに至ることなり。我が国は終始一貫王道を履(=ふ)み、小乗的覇道を避くるの大方針をもって進むべし。

  米国は英仏の勝利を信じたりしがごとく今日の戦況にて彼も心甚だ安からず、これにおいてか軍備の大拡張を企て海軍もかつての英国の2ヵ国標準主義のごとく大西、太平洋両洋主義を標準とし、大拡張に着手せり。その実現には数年を要するならんも我またこれに対し、わが国力を挙げて海上武力の充実を計らざるべからず。英米の関係は大体不可分と認めらるるが、すでに米国とカナダとは共同防衛の途を探り米豪のごときも事態切迫すれば同じ進路を採るならん。シンガポール共同使用の如きもあるいは実現すべく思わる。

  独伊(ただし伊は東洋にあまり利害関係なくしたがって大なる発言権を行使するものとは思われず)との親善は望むところなるも、元来日本は独伊との関係を強化するためドイツに何物を与え、その代わりに仏印および蘭印における自由手腕を得んとする次第なりや、ドイツを満足せしめんがために日本海軍がこの際米国海軍と戦うがごときは禁物なり。

  支那事変はすでに3年を過ごし国力は相当消耗したるも、支那の現状は当分容易にきれいさっぱりと解決しがたく、またソ連に対しては寸時も油断を許さざるものあり。この際米国と干戈(=かんか)相交うるに至るとすれば、この戦争は長期戦となるに相違なく、その間に支那およびソ連の乗ずるところとなり我が国は頗る不利の境遇となるべし。故に我の対米強硬には自ずから限度あり。両国関係を破綻に導くことなく一歩一歩改善相共に協力して太平洋の平和を維持するごとく外交を進むること肝要なり。私見をもってすればこれ実に政略および戦略上より見て根本的の事実なり。

  元来ドイツは速戦速決主義にして米国の参戦を最も喜ばず。故に今となりては日米戦争により欧州戦を拡大せしむるは反対なるかと思わるる故に、ドイツも日本の言うがままにならざるべし。かつまた日独相携えて米国と強調し得る算はなかるべきよう思わる。

  右の考察は果たして現政府の新政治態勢及び外交の新転換(独伊枢軸強化)といかに調節するを得べきや。

 

(付記)

  この覚書は826日(月曜日)松岡外相と長時間会談の後、同日吉田海相と会見の際内示したるものであるが、その後の新聞情報を見るに、米国は英国に派遣の軍事専門家の報告により英国の抗戦力を見直し相当長期堪え得るものと認め、英国への支援を強化しつつあり、従って大統領改選後参戦のチャンス多くなり、長期戦となり得るチャンス大である。この点最も慎重なる考慮を払うべきである。ドイツもまた長期戦となる場合、日本抱き込みに全力を注ぐべく、しかしてドイツの目標はおそらく日本海軍を利用せんとするにある。

  ところが、その後外務省にある友人たちの間にも種々勤誘する者もあったりして、この話は余の意思に関係なくいわゆる余燼がくすぶるという状態で続いていた。

  10月2日になって豊田海軍次官が来て、及川海相の意を伝えて米国行きの勤誘をされたのである。余としてはまことに当惑した。考えてみれば、この国家の非常時に前途十分の見通しもつかずしてこの大任を引き受けるということは、なんとしても疾(やま)しいし、また良心が許さないという風に感じていた。たまたま部内の友人などで臣節を云々する人もあったので、なお一層よく考えてみたが、依然自分はその任に非ずしてその職に就くことを潔しと思わなかったのである。

  ところが1024日、余が松岡君に会ってますます引き受けることの難しい理由を述べると、松岡君は「もはや湊川に行ってもよいのじゃないか」と言われたが、その時の余の所信はやはり同じことであった。余としてははっきりお断りしておったのであるが、そういうような状態で海軍の先輩や松岡君などはやはり余の出馬を望んでいるような風に見えた。

  次いで117日午前9時、余は近衛総理を往訪し、次のような「覚書」により敷衍しつつ話をした。

 

3国同盟の結果、欧州戦争と支那事変は連繋を生じ日本は欧州戦にもあるいは介入せざるを得ざることあるべし。

(1)米国参戦したる場合。

(2)日本の南方進出の程度方法により日米戦争となるべくまず五分五分のものと認む。

またドイツよりある時期に援助要求も来るべし。

②支那事変のみなるにおいては日米戦を避け得べきも、前項のごとく事態複雑となり、米国は英国の頑強なる抵抗力、日本国力の消耗程度を見合わせたる上、参戦すること大いにあり得べし。前大戦の例これを証す。

  また日本が南方に進出する場合、米国には比島防御の困難という弱点あるも、豪州・ニュージーランドと共同防御の姿勢を採り、あるいはシンガポールを共同使用することによりここに日対英米戦となり得べし。

③大体日米戦となるにしても直ちに対馬海峡の如き決戦とはならず、米国はまず経済圧迫、経済断交、外交断絶の後開戦となり、飛行機・潜水艦などによるいたるところのゲリラ戦を演じ、長期戦となるごとく思わる。

④米国はもとより日本の弱点とするところを選んで突き来るに相違なく、吾の長所とする艦隊戦を最初に試むるものとは思われず。支那事変3年有半の後、さらに米国と長期戦をなすにおいては、今日の現状に顧み到底有終の美を挙げ得べしとは思われず、我が国として須らく三省を要す。

⑤支那事変進行中もし日米戦とならば、我が国は事変を中途半端に置き海軍の如きはほとんど挙げて支那より引きあげるの他なかるべく、支那事変の収拾は見込みなかるべし。すなわち日米戦とならば今までの支那事変はほとんど水泡に帰す。

⑥米国もし参戦せざる場合、日米戦は日本の自制自粛によりあるいは避け得るのチャンスあり。従って

(1)支那事変を今日以上悪化せしむることなく曲がりなりにも速やかに収拾すること。

(2)南方進出の方法に注意し米国に口実を与えざるよう努むること。

(3)日本の経済弱体化を暴露せざること。

⑦米国が油の禁輸を断行するにおいては、日本は蘭印に進出を余儀なくせられ、日米戦は欧州戦と別個に成立するのチャンス多し。

⑧英独講和のチャンスは今のところ絶無なりと言わるるも、両者勝利の見込みなきにおいてはあながち然りと思われず。持久力において英独伊3国中伊最も弱しと思わる。

我が国は米国と結び早期平和回復のチャンスを作出する機会なきや、絶えず深甚の注視を要す。要は日本として第3国との戦争を避くるを利とするも、今のところ日米戦もしくは日対英米戦のチャンスは55分と読む。この際漁夫の利を求めつつあるソ連の態度及び蒋介石政権の回復に対しては注視を怠るを許さず。訓令すなわち対米方針(対支、対ソ、対南洋策)の大要を承知し置くこと絶対に必要なり。過去の大使にして米国務長官より嘘つきと言われたる者ありと聞く。国交には武士に二言なしとまでは行き難かるべきも、なお言に信頼をつなぎ得るものなるを要す。阿部特使のごとき苦心せられたる例もあり、余としては赴任するには政府の方針を知り前途の見通しをつけおくべき必要を感ず。

 

かくてついに118日松岡君から内奏されるという段取りにまで立ち至った。119日伏見軍令部総長宮に拝謁、その節野村と同意見なる旨のお言葉を拝した。しかしこの就任に当たっては、よく政府の意向を知らなければ任地に赴いてから困るということは明らかであり、かつ政府の消息に通じている人たちの中にもその点ははっきりしておかなければならぬということを言う人もあり、またその点を十分注意して下さった高位の先輩もあった。したがって余としてもそれらの点については十分打ち合わせをし、そうして松岡君も同意の上で余に政府の訓令を与えることとして、米国に出向くことになった。

     大体その当時の政府の意向はでき得べくんば日米の国交を調整し、太平洋の平和を維持するというにあり、またそれは東京における有力な人々の気持ちでもあった。しかしその目的を達し得るや否やは非常に難しい問題であった。余の同郷の先輩本多大使の如きは余の出発間際に、余に対し、非常なる難職に当たると言って涙を催して見送ってくれた。もちろん余自身このことが外交上非常に困難な問題なので、到底その任に非ざることは百も承知しつつも、同時にまた余はただ軍人として軍事上の形勢を見て米国もこの際日本と容易に事を構える状況に非ず、これはあたかも余が最初に米国に勤務した1915年の初頭に彷彿たるものがあると思った。その頃は日本の対支要求21か条問題で、日米関係が非常に悪化し、在米帝国大使の辞職問題も起こったが、第1次世界大戦の形勢上米国もそう四方に敵を作ることの不利なるを感知して、日本に対してはだんだんその態度を緩和して、21か条問題は一時棚の上に挙げてしまった。そうして参戦後には「石井ランシング協定」もできたということなどをも想起し、米国としても今日の軍備をもって直ちに日本に挑戦する立場にはない。果たしてしからば何かその辺に妥協点があるのではあるまいかという風にも考えて、一方に一縷の望みを託し、あるいは政府の訓令に沿うてやったならば太平洋の戦禍を免れしめることができるかもしれないというような希望をも抱いて、昭和16123日東京を出発したのである。

   これよりさき、余は出発前に飛脚旅行で京城に南総督を、新京に梅津軍司令官をそれぞれ歴訪し、北京を経て南京に至り、西尾軍司令官、板垣参謀長、本多駐支大使などを訪問、種々現地の状況を聞き、また汪精鋭とも話をしてきたのである。汪は日米戦を心配して居ったが、余は米国も容易に両面戦の危険を敢えてしないであろうと古今の先例を引用の上話したところ、汪は「閣下の慧眼に敬服した」とお世辞を言った。

 

4.出発前における日米関係に対する私見

  余が出発前、諸情勢に対しいかなる見解を持っていたか、日米交渉に対しいかなる腹案を持っていたか。それについては、昭和151216日に書いた「覚書」および昭和16113日に起草した「対米試案」があるので、それを次に掲げて参考に供したい。

 

「覚書」(昭和151216日)

   米国は今や欧州戦争において英国と共同戦線をはり国内軍需生産の5割を挙げて英国を援助しつつあり、財政・船舶などの援助も大規模に行わるに至るべく、したがって英国の戦争は明らかに米国の戦争にして、英にして敗れんか米は唇敗れて歯寒いの感なきを得ざるべく今日はただ名目上の参戦のみ残されたる問題なり。

   なお進んで想像を逞しうするにおいては、戦勢の如何により英米共同体となり大西洋を挟んで独伊に対する長期戦争となることも絶無にあらざるべし。

   太平洋においては日米両国の政策は満州事変以来ことごとに背馳し、米国は9ヵ国条約に準拠し、満州国に対しては非承認主義を堅持し、支那事変以来は両国政策の衝突ますます甚だしく、日本の政策をもって満州においてもまた支那においても門戸を閉鎖するものとなし、汪政府を承認するがごとき気配さらになく、ことに3国同盟の成立後は日本を準敵国視し自らは蒋介石政権との結合を強固ならしめ、蒋介石をしてあくまでも日本を牽制せしめ、なおソ連に接近を試みソ連をして同じく日本を牽制せしむるの策を採りつつあり。その意図は明らかに日本をして支那において失敗せしむると同時に最近日本の喧伝する南進を困難ならしむるにあり。しかし米国は日本の仏印および蘭印進出をもって比島を脅威し豪州その他の英領を脅威するものとなし、英国および蘭印と協力の上逐次わが南進に対し対抗策を立てつつある現状なるをもって、日本をして支那において膠着せしむるためにはあらゆる手段をとるべしと思わる。

   両国の関係かくのごとしとせば、米国は今や戦争の一歩手前に至るまで我に対し通商停止を断行するに相違なく、今や残すところただ油に過ぎざるがごとし。この油も日本が南進力を有する間はあえて禁輸せざるべきも、日本にその力なしと認むるにおいてはこれを断行するに躊躇せざるべし。米国の底意はおそらく日本海軍に対し現在は交戦状態となるを望まざるべきもあるいは日本の国力を下算し、日本に対し武力行使の無用を感じつつあるやも知れず。

   米国が参戦することは大いにあり得べし。その際日本が3国同盟条約上いかにすべきや、その態度の決定はそのときの国情にも依るべきも日本としては最も慎重なる考慮を必要とするところなり。然れどもわが盟邦は我が国の参戦を熱望しつつある次第なるをもって軽率なる発言は危険なりと思わる。

   日米関係の最悪状態を避けるには先の如き件々は最も考慮を要す。もちろん利益交換の方針を採るべきなりと認めるも、吾は我が国内を微動せしむることなく死活の場合には南方に武力進出をも辞せざるの態度を採らざるべからず。概して英米の対独伊戦が好調となるに従い米国の対日態度は硬化し来るべく、これに反する場合その対日態度は軟化するものと認めらる。

1.満州および支那において第3国の商業に対し公平なる取り扱いをなすこと並びに現に有する権益を尊重すること。しかし汪政府が健全なる発達を遂げるには、日本はその独立を尊重しなるべく干渉の手を緩めるを要するとともに、汪政府をしてその権力下の地区において貿易を進展せしめかつ企業にも大いに自由手腕を発揮せしむるの必要あるべしと思わる。

2.南方進出の目的を明らかにし我が国の企画するところは単に必要なる物資原料を獲得するに留まることを明らかにすること。

慎重なる考慮を加えたる上、時宜により比島の中立を提案し蘭印に対し必要なる物資の獲得、企業および入国の緩和以外領土的保全を約すること、しかし現状において一面支那事変に従事し他面米国およびソ連に備えつつ南方に進出するは我が国としても容易のことに非ず。思うに至難事なり。

     支那事変一段落を見たる上と言えども、南方進出には一面米国海軍に対し十分なる備えを要し、かつまた英国海軍の健在なる限り英米両海軍に対し十分なる備えなかるべからず。

3.支那事変において第3国の蒙りたる損害については合理的処分をなすを要す。

4.在支宗教家に対する迫害を中止するを要す。

 

「対米試案」(未定稿―昭和16年1月13日 米国へ出発前)

   日米関係は裏に3国同盟の締結あり、ルーズヴェルトの3選および米国国防の充実に伴い漸次緊迫の度を加うるの徴ありと言えども、これ以上悪化せしめざるよう努力し国交断絶もしくは交戦状態となるを極力回避すべきなり。これがためには仮に少しにても関係緩和に益すべきことはこれを試み、もって両国人心の緩和に努むるを要す。

1.「パネー号事件」の際ルーズヴェルト大統領はこれを甚だしく遺憾とし、ルーズヴェルト大統領の真意を日本天皇に伝えられたしと我が使節に申し出ありしも、当方より適当の応酬なく大統領はこれに対し平ならざる趣の話あり。またハル国務長官は1938年12月30日の通牒に対し、日本より正式の回答なきことをその後しばしば言及せしことあり。

この2項はいずれにしても適当の処理を要するものと認む。

2.日米間紛争の中心となるものは、(1)大陸就中支那問題、(2)最近の南進論、(3)同盟条約による米国参戦の場合における我が国の義務なり。以下各項において少しく説明を試みん。

(1)大陸就中支那問題

   満州事変以来日本の大陸政策はことごとく米国の反感を買い米国は満州国非承認政策を採りまた支那においては事々に我と抗争しつつあり。これを政治的および経済的の2面に分かって観察すれば、米国は最近に至りますます日本の政治意図は侵略主義なりと断定し、蒋介石を援けて日本に抗争せしめ日本の勢力を消耗せしむるは、自国およびデモクラシーの安全のため必要なるを強く意識するに至りしものと認めらる。なお蒋介石政権の力のみをもっては不足とし、最近に至り頻繁にソ連に接近しソ連をも対日牽制に利用せんとしつつあるをもって、米ソの関係は我れの注意を要するところなり。経済的方面においてはいわゆる機会均等主義によって通商上の公平なる取り扱いを享けんことを欲す。

現に上海において米人関係より招待されし席上、下の如き覚書の提出を受けたり。

(イ)揚子江開放。

(ロ)卵買い入れに対する不自由。

(ハ)ペトロリウムおよび油の商売停頓。

(ニ)プレジデント航路の船が上海の自家用埠頭使用を許されざるためジャンクの使

用による経費の向上。

(ホ)葉煙草購入およびシガレット商売の障害。

(ヘ)砂糖商売のほとんど禁止。

(ト)上海より香港への再輸出のほとんど禁止。

蓋し第3国権益の尊重は累次わが政府の声明したるところにして、支那の発達のためにも支那より第3国の権益を一概に駆逐するの理由なきがごとく、事情の許す限り政府声明通り実行するを可とす。ただ私見をもって現状を釈明すれば、我国は今や死活の戦争をなし蒋介石に対し封鎖戦強行中なり。また軍としては大軍を常駐せるため物資の調達に意を用い高物価ならしめざるよう留意を要す。且つ軍票の価値維持の必要もあり。要するに占領地の物価の適正価格と貨幣の価値下落防止とは交戦上採らざるべからざる必要処置なり。然れどもこれ畢竟戦時非常の手段にして平和回復後もなおこのごとき方策を継続するにおいては、経済はますます割拠的封建的となり彼此融通の途を失い、生産は減少し、国運は衰亡の一途を辿る他なかるべし。従って新政権の成長のためにも経済の自由を復活し、外国との貿易を作興し、物資を豊富ならしめ財源を豊かならしむる他復興の途なし。その時期とならば米国の経済上の不平の大部は自然解消するに至るものと考えられる。

    なお一言ここに付け加えたきは、汪政権生まれわが聖上これを承認したまう、よろしくこれを遇するに、道を以てし、真に大国の襟度を示すべきなり。余南京において汪氏の私宅を訪ねしに、その謙虚なる態度は喜ぶべきも何となく不安を感じたり。外交府に招待されたるも、片田舎の旧建築にして国民政府いずれにありやを疑わしむ。これに加うるに財政極めて貧弱にして果たして発展の基礎強固なるやを疑わしむるものあり。

(2)南進論

近時米国における禁輸の度加うるに従い、南進論の声大となりつつあるが、その目標は主として蘭印の油田にあり、故に見方によりては米国が石油を禁輸せんか直ちに日本の南進を促進するの状勢なりと認めらる。故に米国としても石油の禁輸には慎重なる態度に出でん。しかし支那事変さらに長引き、我が国力一層消耗し、その他国際環境などにより日本の南進が到底実現困難と看破するがごときことあらば、強行策として石油の禁輸を断行するやも知れず。日本としては平和的に油を得るが最上策にして、武力を用うる際は仮に成功しても1,2年の間は実際上これを獲得し難しと覚悟せざるべからず。これに加えてスマトラ進出は比島およびシンガポールを抑えたる後なるを要す。すなわち直ちに対英米戦の覚悟を要す。故に常に日本が積極的に南進の力を準備し置くは外交上必要と認むるも、英米との衝突を避くるためには日本の蘭印に望むところは油、ゴムなどの必要物資、企業のより一層の自由、入国制限の緩和など、主として経済的問題に止まる点を明らかにし(フィリピンについては帝国は比島の中立を保障する用意ありと信ず)、もって英米との妥協の途を発見するに努力すべきなり。

(3)米国は目下のところ法律上の参戦を避け物質的に全力を挙げて英国を助けつつあり。然れどもドイツ爆撃の効果および潜水艦戦の効果発揮に伴い、海上護送のこと起こり得べく、したがって海上衝突の危険存在す。なお米国の港湾を英国に提供するはこれ純然たる同盟なり。米国参戦したる際は、日独伊3国同盟協約によりその第3条の義務発動するものなりといえども、事実帝国の参戦はそのときに及んでわが国家の主観より慎重廟義を尽くしたる上決定せらるべきものにして、決して自動的に米国の参戦と同時にわが参戦の義務を負うものにあらざるは勿論なり。

    ただし本件は独伊に対する機微なる関係もあり、憶測を生ぜしむるは望ましきことにあらず。

付言

イ.在支第3国宗教家の活動に対しては、安寧秩序に害を及ぼすことなくかつ害我利敵の挙動なき限り、彼らの純粋なる宗教的活動に対しては寛大なる取り扱いをなし差し支えなかるべし。

ロ.事変において第3国の被りたる損害に対しては、合理的態度に出て然るべしと認む。

ハ.この際ますます挙国一致の実を発揮し、国内もっぱらに相克摩擦を惹起し国外より国家の実力を見誤るるがごときことなきよう、官民一層の警戒心を要すと認む。

ニ.在米の日系は30万に達し、これが引き上げはいかなる場合にも不可能なりと認む。

 

5.本邦出発、ワシントン到着前後のこと

  さて、余は1941年すなわち昭和16年1月23日東京を出発、赴任の途についた。そして2月11日にワシントンに就いたが、その前後の模様を日誌に従って記す。

 

  1月30日、ホノルルに着。入港前には余の乗船鎌倉丸に対し駆逐艦2隻が出迎え、またむかし東京で語学将校で会ったレートン海軍少佐が、ホノルル滞在中余の副官として遣わされた。ホノルルに入港したときには、太平洋艦隊司令長官リチャードソン大将、ハワイ軍司令官へ―ロン中将、知事代理、商業会議所代表などが来訪した。次いで余が旗艦「ペンシルヴァニア」に答礼に赴いたときは、リチャードソン大将の他に、鎮守府司令官ブロック提督も来会し、ホテルにて午餐のときには新任司令長官のキンメル大将も同席した。キンメル大将は年齢いまだ若く、体躯強壮、英気溌剌の人のように見えた。儀礼は至れり尽せりと言うべく、リチャードソン司令長官の厚意は謝するに余りあったが、これは中央からの指令もあったことと思われた。

  2月6日、サンフランシスコに着。サンフランシスコにおいては、駆逐艦2隻が出迎え、着港のとき正規の19発の礼砲を受け、軍司令官のデビッド中将、鎮守府長官ヘップバーン提督などが来訪した。後刻答訪したが、余が金門湾のプレシディオの兵営に同訪したときは、大佐の指揮する儀仗隊を出し、19発の礼砲を射ち、将官以上が参集し、その歓迎ぶりは慇懃を尽くした。

 

  サンフランシスコに滞在中、2月8日米国の某海軍大佐(当時重巡の艦長)が約束により午前10時来訪、約1時間半にわたり会談した。彼は「日本の人口増加、物資不足を顧慮して、満州は大体現状のまま、支那は各国に対して商業の均等を旨とし、なおまた日本が仏印およびタイ国に対してあまり積極的に出でず、概ね現状を根本として日米両国の了解ができざるものなりや。貴大使はホノルルおよびサンフランシスコにおいて米陸海軍より儀礼的歓迎を受けられたが、ワシントンにおける仕事は非常に困難なものがあろう。プラット提督あたりはあるいは率直に語られることもあろうが、その他は恐らく何人も自分の今日申し上ぐるような話をする人はないと思う。自分は貴大使のご依頼でもあらば協力を惜しむものではない」と言い、ワシントンに転任しても差し支えなしと思われるほどの口吻であった。彼は余が海軍省の先任副官時代に語学将校で会って、爾来知り合いの中であり、彼のかかる好意は感謝に余りあることであった。

  またサンフランシスコのフェアモントホテルにおいて日米協会会長アレキサンダー夫人主催のレセプションがあり、多数の出席者があった。故アレキサンダーはハワイの財産家であって、故渋沢栄一子爵の人格徳識に敬服し、日米両国のために尽力するようになったのだそうであるが、夫人はその遺志を継ぎ、できるだけやるつもりと言っていた。

 

在米同胞は日米関係の緊迫を心配し、多数は余に期待をかけ、ことにサンフランシスコよりワシントンに到る道中停車駅にて数分間余を見んと欲して数百マイルの遠方より集まり、夜中においてすら花束や寿司や果物などを贈ってくれた。余はその熱誠に非常な感激をした。そして余はそれらの人々に対し「自分は全力を尽くすが、諸君はこの際特に国法を守り落ち着いて各自の生業に励んでもらいたい。米国は文明国であるから、いかなることがあっても、諸君を迫害するようなことはない。自重自愛せられたい。皆さんによろしく伝えてほしい」旨を述べ慰めておいた。

 

  2月11日、ワシントンに到着。当日ルーズヴェルト大統領は新聞記者との会見において、アドミラル野村の信任状受領のため明日か明後日引見すべき旨を語り、なおアドミラルは余の旧友といった旨報ぜられている。また新聞記者が「アメリカが極東の戦争に巻き込まれた場合、そのために対英援助に累を及ぼすことなきや」と問うたとき、大統領は平常の態度と異なり明瞭に「ノー」と答え、さらにまた「極東戦争に米国が巻き込まることありと考えるや」との問いに対しては、これまた「ノー」と答えたと報ぜられている。

  2月19日午後4時、余は婦人記者をも含めた約40人の新聞記者に対して会見した。彼らのなした種々の質問に対して率直に答えたが、各新聞は翌日それを伝えるとともに批評をも加えていた。その批評の2,3を以下に摘記する。

 

New York Times----- affable and cordial.気さくで友好的)

  Washington Post----- Took great delight in his rejoinders to questions fired by a group of 40 reporters.

 (40人のレポーターからの集中砲火的な質問に対し積極的に返答)

  Baltimore Sun----- Japan is not apologetic, nor is it truculent or defiant as reflected in the Ambassador’s words.

 (大使の言葉に表れているように、日本は弁明もせず喧嘩腰でもなく。)

  Baltimore Evening Sun----- The Ambassador is a man of keen intelligence and of decided amiability.  He met a veritable barrage of questions, without flinching and certainly without dodging or manifest evasion.

   (知性鋭くかつ社交性に富む人物。質問の集中砲火を浴びるも、怯むことも逃げることもなし。)

Washington Times and Herald----- On the whole he showed little inclination to dodge. For Great Britain and Netherlands as well as for America he had only fair words.

概して逃げる素振りなし。米国のみならず英蘭に対しても、適切な対応。)

 

  アメリカの新聞記者はどちらかと言えば応接は直情である。余はあまり国務省では会談しなかったが、たまたま会談のあった際に自分の秘書に対し「大使は非常に日米国交の調整に熱心ではあるが、日米の政策が正面反対をしている今日、これをいかにして橋渡ししようと考えているのであろうか」と尋ねた者があったが、自分にはそういう質問はしなかった。またあるとき、長時間国務長官室にいて出てきたところ、「一体そんなに長いこと話をするのはどんな用談があるのか」と尋ねた者があったので、余は「自分は英語が下手だし自分の言うことを長官によくわかってもらうために、2度、3度繰り返すこともあり、また長官の言うことを2度、3度繰り返し聞くことなどがあるので、内容は大したことはないがこう長くなるのだ」と言ったら、皆で哄笑していた。さらにあるとき、ある記者に「君は非常に硬派だね」と言って話をしかけると、他の者が皆大笑いしたこともある。ある婦人記者のごときは「ときには、他所で会談せずに国務省にいらっしゃい、空気も緩和しますから」と言って忠告してくれた者もあった。

                

6.着任当時ワシントンにおける外国代表の空気

  日米関係の緊張およびわが南進論に対する米国新聞の論評が賑わしいときであったから、各国代表と訪問交換の節、質問応酬は自ずからそれらの問題に集中した。その中の2,3を抄録する。

  1941年2月25日、英国大使ロード・ハリファックスを訪問したが、同大使は英国紳士にふさわしい落ち着いた態度と静かな語調で、「英国は日本が独伊と同盟した今日といえども、日本と争う意なし」と言って、我が国の南進傾向に言及したが、余の説明に一応納得の意を表した上、なお「英国民の戦意は強く、米国の援助により勝利を確信する。イタリーのエジプト脅威のごときも今日にしては過去のこととなった。日本は形勢を誤断せざることを望む」と語った。余が「海上権と大陸権の戦争は自ずから長期となろう。米国は長期戦の準備をなしつつあるごとし」と言ったのに対し、「今日空軍は勝敗のカギを握ると見られるが、英国は漸次空軍力を増加した。英国は戦争3年と言ったことがあるが、ちょうどその半ばである」と言った。

  同じく3月10日、ハリファックス英国大使が来訪のとき、種々雑談の間に「自分は米国の立場を語る位置にはいないが、英国も米国も極東において紛争を望まないことは同一である。ただ万一の場合に備えつつあるに過ぎない。しかしもし事態が生じた際は、英国は米国の十分なる協力を期待し得るものと認めている。云々」と語った。その当時の新聞報道によれば、英国大使は豪州公使ケーシーと同道、国務長官を往訪後「極東の形勢は幾分緩和した観あるも、依然険悪である。一般形勢の観測は国務長官と一致した」と語った趣である。イタリー大使は、独伊は長期戦を喜ばないが、米国は長期の戦を利とし、何年の戦争にも耐え得る力がある、漸次参戦の方向に進みつつあるように語った。

  ソ連代表は、ソ連が賢明なる態度を採りつつある旨を余が語ったのに対し、日ソの関係は改善しつつありと言い、ソ連は戦争に対しては無期限に中立態度を守ると語った。