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活 動 報 告report

 昭和20年夏・ソ連軍不法侵略(前編)      平成27年1月18日 作成 五月女 菊夫


―北方領土問題の視点から―

Ⅰ はじめに

Ⅱ 北方領土の地理と歴史

 1 北方領土とは?

 2  樺太

 3 千島島嶼群(千島列島)

Ⅲ ソ連軍の南樺太侵攻

 1 ソ連参戦の背景

 2 我が国の戦争終結工作とスターリンの開戦命令

 3 樺太防衛軍(第88師団)の対ソ作戦の概要

Ⅳ ソ連軍の千島島嶼群侵攻

 1 占守島の戦い 

 2 ソ連軍の南下作戦

 3 北方領土の不法占拠

Ⅴ まとめ

 

Ⅰ はじめに  

昭和20年夏、支那事変から8年、日米開戦から4年続く戦争で息も絶え絶えの我が国が、懸命に“友好国”ソ連の仲介による対米英講和を模索しつつあるとき、米国による原爆投下でとどめを刺された日本に対して不法かつ火事場泥棒の如く参戦してきたのがソ連であった。

 ソ連はヤルタ秘密協定によって、南樺太と千島列島をソ連領土とすることについて米英の合意を得ていたが、千島列島の範囲をどこまでとするかは明確にされていなかった。ソ連は米軍の進出がないことを幸いに、北海道の付属諸島であり日本固有の領土である択捉、国後、色丹、歯舞諸島まで占領した。歯舞諸島への軍事占領は日本がミズリー号上で正式降伏調印した後の9月3日に行われたものであった。

 スターリンは8月17日、北海道北半部の占領も要求し、トルーマンが拒否したにも拘わらず、8月22日まで北海道本土上陸作戦準備を続けた末に断念した。

 その頃日本は国家としての組織的戦争遂行能力を殆ど喪失していたうえに、日本国家首脳部は、ポツダム宣言受諾を巡る戦争終結問題に忙殺されていた。日ソ中立条約を裏切って新たな敵国となり満洲と北方領土への侵攻を開始したソ連軍に対して、それぞれ満洲では関東軍、樺太・千島方面では第5方面軍(第88師団、第91師団)の現地軍が、政府・軍中央の指導や支援が殆どない中で、各個戦闘的に必死に対応しなければならなかった。

 樺太・千島正面での樺太国境(北緯50度線)からの攻撃開始は8月11日即ち「ポツダム宣言受諾通告後」であり、樺太西岸及び千島北端の占守島(シュムシュトウ)への上陸攻撃は8月16日及び20日即ち正式なポツダム宣言受諾後であった。連合国最高司令官マッカーサー元帥が、太平洋方面の全米軍に対して戦闘停止を命令し、一切の戦闘行動が停止されたのは8月15日正午即ち玉音放送開始時であった。

 それから70余年後の昨年(平成28年)末、プーチン大統領が訪日、我が方としては北方領土での「共同経済活動」や対ロ経済協力を通じ、北方領土返還交渉前進の足掛かりを得たい考えのようだが、領土交渉に関する具体的な進展はなく、現時点ではその糸口が掴めるか掴めないかさえ微妙な状況にある。

 日本人としてこの問題にどのような姿勢で臨めばいいのか?その態度を決するには、北方領土(千島列島と北方四島及び樺太)の地理と歴史に関する基本的理解が不可欠である。

 12月28日、安倍首相が真珠湾を慰霊、寛容の心と和解の力を強調して日米首脳が同盟の信頼強化を謳い、マスメディアと国民はこれで本当に戦後は終わったかの印象を強くした。しかし、やはり戦後は終わっていない。戦後が終わるためには、わが国が寛容の心を以て受け入れ可能な「最低の原状復帰」がなされていないからである。「最低の原状復帰」とは言うまでもない、択捉・国後を含む北方4島が北海道に付属する島として日本の領土となることである。

Ⅱ 北方領土の地理と歴史

  1 北方領土とは?

北方領土とは何処ですか?」街頭でこんな質問をされれば、わからないと答える人を除き、日本人の百%誰もが「国後・択捉・歯舞・色丹の北方4島」と答えるであろう。それは勿論正しいが、実は北方領土がどこを指すかは意外と幅があるのである。

北方4島に加え、千島列島全域であるとも言える。更に、千島列島に加え南樺太を加えるというのも正しい。更に北樺太を加え、千島列島と樺太の全域と言っても問題はない。更に、カムチャツカ半島も日本にとっては北方領土の一部であると主張する説が成り立たなくはないのである。その理由は、これらの地域と日本人との関係が生じた歴史を振り返れば理解できるのであるが、その前にこれらの地域の地理・歴史を整理しておく。

  2 樺太

 【地理】

樺太は、地理的には日本列島の一部であり、本州、北海道に次ぐ大きな島である。南北に細長く、東西の幅が最大で約160㎞(最狭部は約26㎞)であるのに対し、南北は約948㎞にも及ぶ。島の面積は北海道より僅かに小さく76,400?である(北海道の面積は約780,000?)。
樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。2万年ほど前の地球寒冷期には、ユーラシア大陸・樺太・北海道は地続きであったことは疑い得ない。
南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬で、宗谷岬を挟んで宗谷岬、ノシャップ岬と向かい合っており、天候が良ければお互いに見える距離(約43㎞)にある(岬にはロシアと日本のレーダーサイトが所在するが、望遠鏡で覗けば勤務交代する軍の車両が見えることもある)。

西能登呂岬亜庭湾中知床岬樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は僅か約7.3㎞である。

樺太の気候は、夏季は湿度が高く、夏と冬の寒暖の差が大きい。南西部は対馬海流の影響を受け比較的温暖であり、冬季も海は結氷しない。

【資源】

エゾ松などの森林資源の他、石油や天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。原油及びLNGについては、石油換算で450億バレルの埋蔵量があり、これは全ロシアの原油埋蔵量の約1/2、日本の石油消費量の33年間分に相当する。

【先住民】

樺太の先住民には、アイヌ、ウィルタ(ツングース系)、ニヴフ(モンゴル系)といった北方少数民族がいる。終戦時、南樺太に居住し日本国籍を与えられていた彼ら先住民のうち、日本人であることを希望する者は北海道に送還され移住し、現在ではその子孫は完全に日本人化し識別することは困難である(特にウィルタ、ニブフの人々)。

【歴史】

樺太が支那の古代文献に表れるのは、戦国春秋から秦、漢、唐の頃まで徐々に作成・加筆された『山海経』という最古の地理書であり、そこには「倭は黒龍江口に起る」と記されている。それは樺太が「倭」の一部であるという認識を示したものである。『山海経』の内容についてはその信憑性に関する議論があるものの、古代支那の人々には、大陸の東に長く連なる列島を全て「倭」即ち日本であると見ていたとしても不思議ではなく自然な地理観であったといえよう。

第9代李氏朝鮮王成宗の時代(15世紀末)に編纂された歴史書『海東諸国紀』には「日本は最も久しく、かつ大なり。その地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接し、その勢甚だ長い」と記されており、『山海経』の記述とほぼ一致している。

日本人として最初に樺太の地を踏んだのは、鎌倉時代の永仁3(1295)年、布教を志して、新潟から青森、函館、江差を経て樺太へ渡った日蓮宗日持上人といわれる。本斗に上陸した後、北樺太を経て満洲に渡ったとも、樺太で没したとも伝えられる。

その2年後の永仁5年、蝦夷代官安東氏が樺太アイヌを率いて黒龍江流域へと侵攻し、元軍と交戦した。その侵攻軍の中には当然鎌倉武士が含まれていたはずである。我が南北朝時代の具足が樺太で出土しており、それが安東家の武士のものであった可能性がある。

享徳3(1454)年、若狭国守護大名であった武田信賢の子信広は、家督相続争いを避けて北海道へ渡り、北海道南部を統一した蠣崎氏を継ぎ、蝦夷管領・安東氏の代官となった。文明7(1475)年、樺太アイヌの首長が、蠣崎信広(松前氏の祖)に銅雀台(魏の曹操が造営したと言われる銅雀台の屋根瓦で作った硯で、松前氏が所蔵していた)を献じ、蠣崎氏の支配下に入った。

秀吉によって全国統一がなされると、信広から5代後の蠣崎慶広は文禄2(1593)年、兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見、蝦夷での徴税を認める朱印状を与えられ、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配権を公式に確立した。慶長4(1599)年、蠣崎氏から松前氏へ改姓し、慶長9年家康からも蝦夷交易独占の黒印状を与えられた。

日本人が樺太に渡ったことが確かな文献で把握できるのは 近代以降で、寛永12年(1635年)松前公廣が 家臣を樺太へ派遣している。翌寛永13年には西能登呂岬に上陸し越冬、敷香(シキカ)を検分し、将軍家光に対し樺太が松前藩の藩領であると報告している。

延宝7(1679)年、松前藩の陣屋が久春古丹(クションコタン:大泊)に置かれ、樺太周辺の漁場開拓が始まり、貞享2(1685)年には樺太を知行地に代わる商場(アキナイバ)として家臣に与えた。元禄13(1700)年、松前藩は樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成、これを幕府へ提出し、正徳5(1715)年には、「北海道、樺太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩の領地であると幕府に報告している。

19世紀に入るとロシア人の進出が顕著になる。文化3(1806)年、幕府は「薪水給与令」を出して頻繁に来航するようになった外国船を穏便に出国させる政策を示すが、日本との通商を拒否されたロシア海軍士官らが報復のため大泊を焼き討ちにする事件(文化露寇)が発生し、「薪水給与令」は半年余で廃止された。

翌文化4年、ロシア海軍によって択捉島、礼文島及び樺太の留多加が襲撃され、幕府は、警備のため東北諸藩などに蝦夷地への出兵を命じるとともに、樺太を幕府直轄地とし、以降樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成されるようになった。

2年後、これらの事件を知ったロシア皇帝アレクサンドルⅠ世はロシア軍の全面撤退を命じ、事件を首謀した指揮官を処罰した。

翌文化5年、幕府は樺太に詳しい最上徳内、松田伝十郎(間宮林蔵が従者)を相次いで派遣、松田伝十郎と間宮林蔵は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」と刻んだ国境標を建てた。

間宮林蔵は、翌文化6年、再度樺太西岸を北上、黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸に到達、樺太が半島ではなく島であることを確認した。更に林蔵は、海外渡航が死罪に相当することを知りながらも、先住民のニブフの人たちを道案内に、海峡を渡ってアムール川下流を調査し、その記録は『東韃地方紀行』として残されている。林蔵は、樺太を北蝦夷地と名付け、正式な呼称とされた。

松田伝十郎は樺太アイヌ住民の生活問題解決に尽力し、彼ら先住民の行う沿海州との交易を幕府公認とし、アイヌを日本人と同等に扱った。

ペリーの黒船が来航した嘉永6(1853)年、ロシアが北樺太に侵入、同島北端の岬に露国旗を掲げ領有を宣言、更に南樺太へ侵入して大泊にあった日本の倉庫を勝手に接収、哨所を築き、国旗を掲揚して樺太全島の領有を宣言するという暴挙に出た。ロシアは併行してロシア使節プチャーチンを来日させ、樺太・千島の国境交渉と交易を求めたが、幕府は「ほぼ北緯50度以南のアイヌの居住する地域は明確に日本領であり、それ以北の北樺太もロシア領ではなく無主の地である」という正論を主張、交渉は決裂した。

翌嘉永7(1854)年、昨年末にクリミア戦争が勃発したため、ロシアは樺太どころではなくなり、駐留していたロシア兵は全面撤退した。

日米和親条約(嘉永7年3月3日)が結ばれると、翌安政元(1855)年、日露和親条約が結ばれ、樺太については両国混住の地として国境線を定めず、千島列島については択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境線を定めることで合意した。

安政2(1856)年、幕府は樺太を含む蝦夷地を幕府直轄領とし、秋田藩に命じて陣屋を置き警備を行った。この頃、北緯48度の地峡の両端にあたる西岸の久春内(クシュンナイ)と東岸の真縫(マーヌイ)に少数のロシア人が定住し、部分的な日露の雑居状態となっていた。これを除くと、樺太にいたロシア人は北樺太西岸に12人のロシア人がいただけであった。

日露和親条約締結以降、幕府は越前大野藩に樺太の開拓と警備を、安房勝山藩に敷香(シキカ)の漁場開拓を、命じるなど実効支配の実を挙げようとした。

安政5年、ロシア東シベリア総督ムラヴィヨフが、軍艦7隻を率いて品川に来航、「樺太全土はロシア領である」と主張・威嚇したが、幕府はこれを完全に退けた。

幕府は箱館奉行の配下を亜庭湾に派遣して積極的な樺太開拓策をとった。しかし、日本人移民はこれに伴わず、多くは季節出稼ぎ人の域を出なかった。一方、ロシアは、樺太に流刑人を送り、軍隊を置くなどして、着実に実効支配の実績を上げていた。

文久2(1862)年~慶応3(1867)年、幕府は勘定奉行など幕閣の上級官僚を二度もロシアの首都サンクトベルグへ派遣して樺太の国境画定交渉を行った。この中で、日本側は北緯50度を日露の国境とすることを主張したものの、ロシア側は樺太全土がロシア領であるという主張を一歩も譲らず、交渉は暗礁に乗り上げたままになった。この交渉中において日本側は、北緯48度線までの後退や千島列島との交換案などを提示したが、ロシアはあくまでも樺太全土という主張を変えず、結局、日露和親条約締結時の「国境未画定、両国混住」ということで、慶応3年「日露樺太雑居条約」が仮調印された。

これ以降、ロシアは囚人の送り込みを増加させ、軍隊を増派して、日本の本拠地であった樺太南部、亜庭湾岸域までの軍事的制圧に着手した。

明治3(1870)年、新政府は北蝦夷地を樺太と改称、大泊に樺太開拓使庁を設置した。

明治元年~2年に内地から移住した日本人入植者は500人ほどあり、開拓使は、樺太移住者に無税の条件と当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。

この間ロシア側の移住と開発の速度は日本側を上回り、政府は危機感を抱き予算的措置もとったが、北海道の開発が優先され、樺太の状況は基本的に変わらないまま、樺太開拓使は明治4年に廃止された。

日露混住しかもロシア人は囚人が大半という状況で、樺太での日露両国の紛争は当然ながら頻発した。こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の2つの意見が存在していた。その後、副島が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。

明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取り、漁業権承認などを取極めた樺太・千島交換条約が締結され、樺太全島がロシアの領土となった。

明治38(1905)年7月、日露戦争末期、日本陸海軍が樺太に進攻、駐留していたロシア軍を駆逐しては全域を占領した。全島で6,200人ほどいたロシア軍は僅かに抵抗したが、ロシア軍長官リャプノフ中将は降伏勧告を受けて、7月31日に下った。そして、ポーツマス条約に基づき、北緯50度以南の樺太は再び日本の領土となったのである。

樺太庁が設置され、昭和20年8月9日のソ連の対日参戦まで樺太は順調に発展、明治41(1908)年、2万6,000余人だった人口は昭和15(1940)年には41万4,891人まで急増したのであった。

 3 千島島嶼群(千島列島)

   【地理】

  千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。成層火山の頂上が北海道本島にぶつかったものが現在の知床半島である。

現在の樺太・千島 千島列島の範囲についても議論があり、我が政府の公式的な見解は、「択捉以南の北方4島は千島列島には含まず、北海道に付属する島々即ち北海道の一部」だという立場に立っている。以下、上記見解に沿って記述するが、阿頼度島から歯舞諸島までの全島々を総称する場合には、本稿に限り便宜上千島島嶼群と呼称する。なお、サンフランシスコ平和会議の際、吉田首相はその受諾演説において、「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」と発言しており、戦前や終戦期の日本政府は色丹、歯舞を除く部分を千島列島と認識していたことを付記しておく。

 千島列島は、北千島に分類される4島及び中千島に分類される16島の20島の他10個余りの小島からなり、それぞれの名称及び面積は下表のとおりである。その総面積は5,665.61?になり都道府県では26番目の広さの愛媛県(5,676.10?)に匹敵する。

 また、千島島嶼群の中では、択捉(3,166.64?)は最大、国後(1,489.27?)は幌莚島に次ぎ大きく、この両島でほかの島々の面積合計の82%を占める。阿頼度島から歯舞諸島までの千島島嶼群の総面積は、10,418.5225?であり、都道府県では7番目に大きい岐阜県(10,621.29?)より小さく、8番目の青森県(9,645.40?)より大きい。

日本列島では、本州(227,942.41?)、北海道(77,984.41?)、樺太(76,400?)、九州(36,782.35?)、四国(18,297.59?)に次ぎ、択捉、幌莚、国後、沖縄本島(1,206.96?)、佐渡島(854.76?)…の面積順となっている。色丹島は、徳之島より僅かに小さく19番目の247.65?である。

千島島嶼群の最高峰は阿頼度島の阿頼度富士(2,339m)である(右写真)。



北海道属島(北方領土)は、次の通り。

島名は、17の武魯頓島(島を発見したイギリス人の名前)を除き、全てアイヌ語に由来する。

なお、色丹島及び歯舞諸島は、地質学的には根室半島の連続した部分が陥没したものであると考えられており、地質や植生が類似している。

北海道属島(北方領土)の総面積は、5,037?であり、都道府県では28番目の千葉県(5,157.64?)よりやや小さく、29番目の福岡県(4,986.40?)より少し大きい。

 【資源】

戦前、千島島嶼群は日本の統治下にあり、定住日本人は約12,000人、そのうち11,600人が択捉、国後、色丹の3島に住んでいた。中千島以北は殆ど無人に近かった。この列島は、西は北上する対馬暖流、東は南下する千島寒流(親潮)によって囲まれているため、水産資源が豊富で、産業の3/4以上を水産業が占め、鉱工業が20%、林業が14%、農畜産が僅かといった産業構造であった。日本海の4倍以上の広さをもつ漁場は、暖流と寒流が交差することから、世界の三大漁場の一つとなっている。特に、鮭、鱒、鱈、蟹は無尽蔵と言えるほど恵まれており、昭和14年の統計によれば、北海道本島の1/3の生産高をあげていた。

 千島列島の鉱物資源は、戦前は日本政府によって、戦後はソビエト(ロシア)政府によって調査され、チタン砂鉄鉱、褐鉄鉱、銅・鉛・亜鉛鉱、モリブデン鉱、水銀鉱、金・銀鉱などが見つかっているが、大きく取り上げるほどのものはない。

 平成25年、ロシアの有力経済紙が千島島嶼群近海に大量の次世代エネルギー資源「メタンハイドレート」が埋蔵されている可能性が高いと伝えた。

 同紙によると、露科学アカデミー極東地質学研究所は、千島島嶼群の大陸棚に眠るメタンハイドレートが最大でガス87兆?相当と推定、幌莚島付近の海底下200mから調査を始めるよう提言した。

 最大推定埋蔵量は、日本の平成24年の天然ガス消費量1,167億?の745年分に相当する。この周辺の調査は日本近海よりも容易で、「アジア諸国の企業が共同事業に関心を寄せるだろう」とする専門家の見方も伝えた。

 【先住民】

先史時代から千島島嶼群にはアイヌ民族が住んでいたことがわかっているが、詳細は不明である。占守島や幌莚島の北千島でも漁労を営んでいたことがわかっている。彼らは樺太アイヌに対し千島アイヌと呼ばれ、ソ連の千島侵略により、択捉島等北方領土に居住していた者も含め千島アイヌの殆どは、強制的に北海道へ移住させられ各地に離散した。1970年代に千島アイヌを継承する人が死亡したため、千島アイヌは絶滅したとも考えられている。

 【歴史】

江戸時代以前から千島島嶼群にアイヌが住んでいたのは確実であろう。また、アイヌの以前にも北方系の民族が住んでいたともいわれる。宇志知島(ウシシル)、松輪島 、捨子古丹島(シャスコタン) 、春牟古丹島(ハリムコタン) 、温禰古丹島(オンネコタン) 、幌筵島(パラムシル) 、占守島に当時のアイヌの痕跡が残っている。


 寛永12(1635)年、松前藩が蝦夷地の調査を行ったのが、日本人が千島島嶼群に公式に足を踏み入れた第一歩であった。

正保元(1644)年、幕府が全国地図を作るため各藩に藩領の絵図の提出を命じた。松前藩は、アイヌなどからの聞き取りを行い、不正確ではあったが樺太と千島島嶼群を描いた地図を提出し、幕府はそれを基にして「正保御国絵図」を作成、それが今日も残っており、「くなしり(国後)、えとほろ(択捉)、うるふ(得撫)」などの島名がはっきり記載されている。

元禄10(1697)年、カムチャツカ遠征隊のコサックが120人の勢力でカムチャツカ半島の西岸を南下、カムチャダールやアイヌなど先住民と戦闘、先住民は武器に優るロシア人の攻撃になす術なく次々と敗れ、宝永3(1706)年、カムチャツカ半島はロシアの勢力圏に入った。このときロシアは初めて占守島の存在を知ったのである。先住民(カムチャダール)の住む部落には、漂着した伝兵衛という日本人が住んでいたが、ペテルブルグへ連行され、日本語学校の校長としてその生涯を終えた(1700年)。

元禄13(1700)年、前述の如く松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出した。この郷帳には北海道本島からカムチャツカ半島までが藩領として記載されている。

18世紀に入るとアイヌの主産物であるアザラシやラッコなどの毛皮を求めてロシア人の千島侵攻は活発化し、宝永8(1711)年、遂にロシアの囚人兵らが占守島に上陸、アイヌと交戦してこれを征服した。

正徳3(1713)年、ロシア人はさらに南下、幌筵島に上陸、幌筵島と占守島住民から毛皮税を取り立てた。

正徳5(1715)年、松前藩は幕府に対し、「北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ」は松前藩領であると報告している。

享保16(1731)年には、国後、択捉のアイヌの首長らが松前6代松前邦広に謁見を乞い、献上品を贈った。

 宝暦4(1754)年、松前藩は国後・択捉・得撫の三島を版図とする国後場所を開き、アイヌとの交易を行う商場として管理した。

 明和3(1766)年、ロシア人イワン・チョールヌイがカムチャツカ半島からラッコなどの毛皮をとりながら南下し、得撫島に到達、長期滞在して越年したが、アイヌから毛皮税を取り立てたため、住民の反抗にあって翌年帰国した。その後、ロシア人は再々この方面に進出し、アイヌ住民との間に衝突が絶えない状況であった。

明和8(1771)年 アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す事件が起きた。同年にはハンガリー人のモーリツ・ベニョヴスキーが幕府に対しロシア帝国による千島列島南下政策があることを警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる。

1770年代 になるとロシア人が頻繁に得撫島や択捉島、国後島などに現れるようになり、

安永7(1778)年、釧路の根室の中間辺りの霧多布(厚岸郡浜中町)にまで現れ交易を求めてきた。その際、ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシア領の色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議した。

 天明5(1785)年、幕府は国後、択捉、得撫に最上徳内、山口鉄五郎らの調査隊を派遣し、ロシアの南下状況を克明に調査した。択捉島を調査した際、3名のロシア人が居住し、アイヌの中にはギリシャ正教を信仰する者もあったことが確認された。

寛政10(1798)年、幕府は、国防上、千島・樺太を含む蝦夷地を直轄地として統治することとし、大規模な巡察隊を同地方に派遣した。このとき、幕臣・近藤重蔵は択捉島にアイヌの首長の了承の下「大日本恵登呂府」と記した標柱を建てた。

翌寛政11年、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らと共に、再び国後島、択捉島に渡り、択捉島に本土の行政を移入、郷村制を施き、17か所の漁場を開くと共に幕吏を常駐させた。また、航路や港を整備するなど、色丹島、国後島、択捉島の本格的開発を始めた。

翌寛政12年、国後場所から新たに択捉場所を独立させ、ほとんどがアイヌである当時の同島住民1,118人の人別帳を作成した。更に高田屋嘉兵衛は老門(択捉島の中心付近の村)に番屋を建て、漁場10か所を開き日本人による漁業を営み、越年を始めるなど、統治の礎が築かれていった。

享和元(1801)年、幕府は幕吏を得撫島に派遣し、ここが日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱を建てるとともに、既に居住していたロシア人17名に退去を求めた。

1804年ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世は、ニコライ・レザノフに親書を持たせ、公式使節として日本へ派遣、日本との通商交渉を求めてきた。幕府の与えた処遇は、公式使節に対するものとしては冷淡極まるものであり、玄関払いの如く開国を拒否し続けた。

文化3年(1806)4月~9月頃、その非礼に憤慨したレザノフは武力を以て要求するしかないと考えるに至り、皇帝の裁可を得ることなく随行して来たロシア軍人に樺太や択捉島の日本人への攻撃を命じた。ロシア部隊は択捉の番屋と集落を襲撃、略奪、放火し、更に箱館を砲撃、利尻島で日本船を襲い、利尻の番屋へも放火した(文化露寇)。

この事件は日本人に衝撃を与え、対露警戒心を一挙に高めさせた。幕府は、北海道、千島、樺太の全部を幕府直轄地とし、津軽・南部など北方の各藩に命じて、北海道北部沿岸の防衛を固めた。

その翌年、択捉島の村・紗那(右図10)と留別(右図9)の村落が、ロシア海軍大尉の率いる武装集団によって襲撃される事件が発生した(紗那事件)。紗那は、弘前藩と盛岡藩が警備していたが、圧倒的な火力の差に圧されて奥地へ退避した。なお、択捉会所に赴任中だった間宮林蔵も応戦し、徹底抗戦を主張した。

文化3年1月、幕府はロシアの漂着船には食糧等を支給して速やかに帰国させる「ロシア船撫恤令」を出していたが、この事件を契機に文化4年12月に、ロシア船は厳重に打払い、日本領へ近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。この幕命に基づき発生したのがゴローニン事件である。

文化8(1811)年、ロシア海軍大尉ゴローニンが測量のため国後島に上陸すると、駐在していた松前奉行配下の役人はロシア艦を拿捕、ゴローニンを捕縛し箱館へ連行して拘留した。

ゴローニンは2年3カ月の交流生活を経て、ロシア側に拿捕されカムチャツカに連行された廻船商人・高田屋嘉兵衛らとの交換及びロシア側が文化の露寇が皇帝の命令によるものではないことを釈明することをもってゴローニンを釈放した。

1821(文政4)年、アレクサンドルⅠ世は勅令を出し、千島方面を含むロシアの領土の範囲を明示し、外国船の立ち入り禁止を宣言した。千島方面については、ベーリング海峡から始まって、得撫島南端北緯45度50分に至るまでと明示した。当時のロシア皇帝も、択捉島以南は日本の領土だと明瞭に認めていたということである。

安政元(1855)年、日露和親条約が締結され、択捉島以南は正式に日本の領土となった。

明治7年(1874年)3月、記述の如く千島・樺太交換条約が締結され、阿頼度島から歯舞・色丹までの全ての千島島嶼群は、平和裡に日本の領土となった。

Ⅲ ソ連軍の南樺太侵攻

1 ソ連参戦の背景

昭和15年10月30日、日本側からソ連に対し不可侵条約の締結を提議したのに対し、モロトフ外相は「ソ連世論は失地回復を伴わない不可侵条約を想像することはできない。我が方が南樺太・千島等を問題にすることを、日本側は快く思わないであろうから、この際は(不可侵条約ではなく)中立条約について交渉することが妥当である」と回答した。勿論ソ連世論とはスターリンの意向であって、この頃からスターリンの頭の中には南樺太と千島の奪取という絵図が描かれていたことはほぼ間違いない。

 昭和17(1942)年8月中旬、訪ソした米国のハリマン特使に対し、スターリンは「日本はロシアの歴史的敵国であり、…ソ連はいずれ(対日)参戦するであろう」と伝えた。この頃我が国は6月5日のミッドウェー海戦に大敗を喫し、米軍は8月7日ガダルカナル島に反攻を開始した。早くも昭和17年9月には対ソ兵力たる関東軍からの航空部隊と地上部隊の抽出・転用が開始され、北方防備の弱体化が始まっていた。

 昭和18(1943)年5月12日、米軍は太平洋北東方面でも反攻に転じ、戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻などからなる11,000余の攻略部隊がアリューシャン列島西端に近いアッツ島に上陸、日本軍山崎大佐以下2,600余の守備隊は17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。

 その9日後の21日、スターリンは米軍の反攻に連動する如く、コムソムリスクと南樺太対岸に面する沿海州の軍港・ソヴィエツスカヤ・ガヴァニを結ぶ鉄道の敷設を1945年8月1日までに完成するように命じており、対日侵攻の具体的な準備に着手したのであった。

2 我が国の戦争終結工作とスターリンの開戦命令

 「最後の一兵まで」、「一億総玉砕」を叫び続けてきた日本が、敗戦を覚悟して終戦工作を始めたのは、昭和19年夏頃であった。参謀本部戦争指導課が、ソ連の仲介をあてにしてモスクワへ特使を派遣することを検討し、外務省も同年9月12日、重光葵外相が終戦に間接的に関わる日ソ関係を議題とする秘密会議を開き、陸軍同様に特使をソ連へ派遣することを議論していた。その内容はソ連との外交関係をより友好的かつ緊密なものとし、ソ連の仲介を得て情勢の好転を図る、さすが同時の国内空気に配慮して明記はしていないが、要するに終戦工作をさぐるというものだった。

 参謀本部戦争指導課松谷誠大佐は、今次戦争に勝利はないと確信し、参謀総長を兼務していた東条首相にソ連仲介論を上申するも容れるところとはならず、支那派遣軍参謀へ左遷された。しかし、松谷案はその後近衛文麿、木戸内大臣、海軍長老岡田啓介、米内光政らへ伝えられ、この案を絶対拒否する東条英機を失脚させんとする政局を導き、昭和19年7月18日、東条内閣が倒れ小磯内閣となった。

 アメリカは、1945年4月12日ルーズベルトの病死によって、副大統領のトルーマンが大統領に昇格した。トルーマンはルーズベルトほどではないにしても、白人至上主義を唱え、プロテスタントのアングロサクソンのみがアダムの子孫と主張する秘密結社団体(KKK)の元構成員であり、日本への理解はほとんどない大統領だったと思われる。ルーズベルトとの違いは、日本人だけではなく有色人種全部が嫌いであり、蒋介石への支援も打ち切った。

 「ソ連仲介案」はその後、日本が独ソ和平の仲立ちをするという不思議なほど非現実的な方向へ変化し、事実それを独ソ両国へ伝えたが、当然とはいえ両国から実にすげない返事を返された。最高戦争指導会議は、意気消沈しながらも9月19日「断念することなく機を見て対ソ交渉を継続する」と余り意味のない官僚的な決定を行った。

 具体的な方策を見つけられないままに時日を浪費しているうちに、昭和19年11月6日のソ連革命記念日にスターリンは祝賀演説の中で「日本は侵略国だ」という声明を発した。共産党の用語例では、「侵略国」は「敵国」を意味し、当時の日本政府もそれを知っていた。

11月9日付の日本の新聞各紙は、この長いスターリン演説をほぼ全文掲載、世間心理というか、大衆心理というか、国全体が冷静さを失っている時はこういうものかもしれない。この演説を聞いて、「日ソ中立条約」はもはやあてにしてはならないと考えるのが普通だが、戦争指導会議のメンバーや参謀本部の大勢は、逆にソ連への仲介工作を推進する、つまりより一層ソ連への傾斜度を高めたのであった。男に袖にされた女が、逆に恋慕の情を深めるような感じであろうか。

 木戸内大臣は、「ロシアの共産主義と手を握って英米と戦うべし」とか「共産主義者を入閣させてもいい」と話し、梅津参謀総長は昭和20年2月9日「アメリカの戦争に対する方針が、日本の国体を破壊し、日本を焦土にしなければ飽き足らぬものであるから、絶対にアメリカとの講和は考えられない。それに反してソビエトは日本に好意を有しているから、日本本土を焦土にしても、ソビエトの後援の下に徹底して対米抗戦を続けなければならぬ」と天皇へ上奏したのである。

 5月8日ドイツが無条件降伏し、沖縄戦の敗北が決定的となっても、「連合国との一般的な講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼む」という国策方針は変わることはなかった。それだけではなく、海軍は独自にソ連大使館と交渉し、残存している空母、戦艦、重巡、駆逐艦全部と、ソ連の飛行機を燃料つきで交換しようと申し込んでいた。

但し一人東郷外相だけは「ソ連という国を知らないにも程がある」「ソ連への仲介等の交渉は無理・無益」と主張した。しかし、首相、陸海大臣、参謀総長、軍令部長の5人の賛成でソ連への仲介依頼を決定し、そのための代償として、日露戦争以後の対外権益をソ連へ譲渡するもやむを得ないということを決めたのであった。

 すなわち①南樺太の返還、②北洋漁業権の解消、③津軽海峡の解放、④北満における諸鉄道の譲渡、⑤内蒙におけるソ連の勢力圏の認定、⑥旅順・大連の租借権譲渡、⑦場合によっては千島列島北半分の譲渡、⑧南満の中立地帯化といった条件の下に、広田弘毅を交渉人としてソ連大使マリクとの会談を開始するも、当然ながらソ連が受け入れることはなかった。それでも当時の戦争指導会議のメンバーは諦めないから不思議である。

 20年7月に入って、広田とマリク駐日大使との会談に見切りをつけた最高戦争指導会議は、直接モスクワへ天皇の親書を持った特派使節団を派遣することを決め、その全権に近衛文麿を選んだ。7月13日朝、モスクワへ特派使節団派遣を伝える電報が駐ソ佐藤大使に届き、佐藤大使は早速モロトフ外相への会見を申し込んだが、ポツダムへの出発準備があり会う暇がないと断られるという有様であった。仕方なく佐藤大使は外務次官に面談、日本国天皇の和平内意による近衛全権の派遣であることをはっきりと伝えた。

 その頃日本では、モスクワ日本大使館からの返報があり次第直ちに出発できるよう準備が整えられ、交渉案も出来上がっていた。

 その「要綱」の条件として特筆されるのは、国体の護持は絶対であり、一歩も譲ることはしないとし、国土については、「やむを得ざれば固有本土を以て満足」とした。問題は「固有本土」の解釈だが、「日本列島本土、朝鮮半島、台湾、千島列島南半部」を固有とし、「沖縄、小笠原、樺太」は含まれていなかったということである。朝鮮・台湾は固有だが、沖縄・小笠原が固有ではないと当時の日本の指導者たちが考えていたことは、現在の日本人から見れば意外かつ注目に値する。

 その3日後7月16日、アメリカの原爆実験が成功、7月17日から8月2日にかけてベルリン郊外ポツダムにおいて、大戦後の処理を話し合う米・英・ソ首脳会談が開かれ、その会談の後半半ばの7月26日に、「ポツダム宣言」が発せられた。

 アメリカは、日本への降伏条件を示したこの宣言を5月下旬には仕上げていたが、その時点では原爆の成否は不明であり、米軍の大きな犠牲なく日本を降伏に追い込む確信が持てない状況だった。

 ここで注意すべき点がある。「ポツダム宣言」は、米・英・支の名の下に日本に対して発せられたものであり、ソ連はそれに加わっていないということだ。加わっていないどころか、トルーマンは日本へ降伏を迫る宣言を出すことすらポツダムに同居するスターリンに知らせかった。ソ連にとっては寝耳に水、当然ソ連外相モロトフは抗議したが、バーンズ国務長官は「ソ連は日本の交戦国ではないから」と軽くいなした。

 ポツダム首脳会談の席では、スターリンは「ポツダム宣言」には触れず、対日参戦を15日ではなく11日以前であることを決めていたにも拘らず「ヤルタで合意したようにソ連は8月15日を以て対日戦に突入する」と告げた。

 ドイツが降伏した5月上旬頃から、原爆完成の目途はついており、アメリカはソ連の対日参戦を不要と考え、ポツダム会談開始の時には、むしろ歓迎しないとしていたが、面と向かってそれを口にすることはしなかった。戦後処理での米ソ対決を回避したかったからだと考えられる。スターリンも、アメリカの心変わりに気付いていた、対日戦の終結にソ連は不要なのだとアメリカは考えていると。

 さて連合国の首脳がポツダムに集まって戦後処理を話し合っていた約半月もの間、特に7月26日ポツダム宣言が発せられて以降、広島に原爆が投下されるまでの約2週間弱、日本政府は何を考えていたのだろうか。

 その後の経緯を知る私たちにとっては驚きだが、日本政府はポツダム宣言文にスターリンの名のないことに注目し、未だ交渉の余地はあると「ソ連の仲介」に最後の望みを託したのである。ポツダム宣言への対応について戦争指導会議は「黙っているのが賢明で、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府はその内容について公式な言及をしない」との決定を行い、7月27日、ポツダム宣言が発せられたことを論評なしに公表しただけであった。

 一方、翌7月28日の新聞報道では、読売新聞「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢錯覚を露呈」などという論評が加えられていた。

 最高戦争指導会議と閣議においては、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」という東郷外相の意見が通ったので、政府が正常に機能しておれば、直ちに受諾ということもあり得たはずだ。

 ところが結局は拒否もしないが受諾もしないという玉虫色の対応となってしまった。更に陸軍からは、政府が宣言を無視することを公式に表明すべきであるとの強硬な申し入れがあり、鈴木首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し、断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞昭和20年7月29日)と発表する。この「黙殺」という用語は、日本の同盟通信社では「「ignore it entirely(全面的無視)」、ロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。

 トルーマンは思った通りのシナリオになったと考え、ポツダム宣言2日前の7月24日に下した原爆投下命令が勇み足ではなかったことにほっとしたのではなかろうか。

 対日参戦にあくなき執念を持つスターリンは、日本政府の沈黙という時間的猶予を巧みに活かした。ポツダム会談は8月2日をもって閉じ、一日も早い対日参戦の決意を胸にスターリンは5日の夜モスクワに帰還する。そのモスクワでは7月13日以来、日本の佐藤大使が近衛特使派遣に対する回答を地団太踏みながら待ちに待っていた。極めて緊要な時期に、実に、1カ月弱も日本は無駄な日々を過ごしてしまったことになる。

スターリンは日本特使の件を意に介する必要は全くなく、知らないふりをしていた。ところがその夜、スターリンの無視できない重要事態が起った。モスクワ時間の8月6日午前2時、アメリカはついに広島への原爆投下を実行したのである。

スターリンは焦りに焦った。翌8月7日午後4時30分、極東ソ連軍に対して前進開始を命じたのである。そして翌8日午後5時、モロトフ外相は佐藤大使を外務省へ呼んだ。佐藤大使は、近衛特使の訪ソに対する回答があるものと期待しながらモロトフを往訪、その佐藤に冷や水を浴びせる如く宣戦を布告したのである。

モスクワ時間5時は、現地(日本・満洲)時間午後11時、ソ連軍の開戦時間1時間前であった。その深夜12時、ソ連軍は一斉に国境を越えて侵攻を開始、兵力157万余、戦車・自走砲5,500輌、航空機4,650機という途方もない大軍の侵略が始まった。正に完全無警告の奇襲攻撃であった。佐藤大使の本国への公電は、ソ連政府によって妨害され東京へは届かず、マリク駐日ソ連大使が正式に東郷外相へ開戦の宣言を伝達したのは、それから1日半経過した8月10日午前11時過ぎであったからだ。


   3 樺太防衛軍(第88師団)の対ソ作戦の概要

  (1) ソ連軍侵攻前の樺太防衛の状況

    第二次世界大戦が始まる前までの樺太防衛は、少数の国境警備警察によるものだけだったが、昭和14(1939)年5月に上敷香に樺太混成旅団が新設され、国境警備態勢は格段に強化された。

昭和18年5月、アッツ島が米軍の反攻を受け玉砕すると増強が図られ編制定員約15,700名の旅団となり、対米防衛の任務が付加された。

昭和20年2月、本土決戦に備えて樺太混成旅団を基幹に歩兵連隊と迫撃砲大隊を加えて、第88師団が編成された。編制定員は20,388名であった。そして作戦の主方向は南東方面即ち対米防衛とされ、豊原周辺地区へ師団主力を移動させた。その態勢は昭和20年8月9日のソ連の対日参戦の朝まで維持されており、東から来航するだろう米軍に対する防御陣地の構築中であった。但し一部は国境付近での対ソ防御陣地も築城していた。

その他直轄部隊北方防衛を担当していたのは大本営直轄の第5方面軍で司令部を札幌に置き、北海道・樺太・千島を担任区域としていた。その大まかな編成は右図のとおりである。


  (2) ソ連軍の侵攻計画

ソ連軍の侵攻計画は大きく第一次作戦と第二次作戦に分けられていた。第一次作戦は、満洲にある関東軍の撃滅であり、このため圧倒的戦力を擁する3個方面軍を満洲国境に集中した。一方、樺太正面及びカムチャツカ地区の部隊及び艦隊には防勢任務が与えられ、併せて南樺太に対する攻撃準備と千島に対する上陸部隊の揚陸準備の任務が与えられていた。即ち、樺太・千島方面の作戦は、満洲方面の作戦の進捗状況によって行う第二次作戦であった。ということは、満洲方面で関東軍がソ連軍の侵攻を食い止め或いは大幅に遅滞させることができたならばその分樺太・千島への侵攻を遅らせることができたということである。

既述の如く、ソ連軍の侵攻は8月9日午前零時をもって満洲各正面で一斉に開始され、関東軍は国境付近での抵抗を概ね回避したため、ソ連軍の進撃は順調に進展した。

8月10日早朝、日本政府は1回目の御聖断を受け、天皇の国家統治の大権に関する留保付きのポツダム宣言受諾を発電した。これに対して米国は直ちに日本が受け入れる可能性の高いバーンズ回答を用意し、英・支・ソの同意を求めた。バーンズ回答とは、ジェイムス・バーンズ国務長官が8月11日付で出した次の如き回答文であった。


① 降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。

② 天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。

③ 日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。

④ 日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。

⑤ 連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。



米の提案に英・支については難なく同意したが、ソ連のモロトフ外相は連合国最高司令官の制限の下に置かれるとはいえ「天皇の国家統治の大権存続」に反対、8月10日深夜から11日早朝まで激しいやりとりが行われた。更にモロトフは、占領軍最高司令官にマッカーサーと並んでワシレフスキー元帥を推すという厚かまし要求をバーンズ国務長官に突き付けた。バーンズはこれらソ連の要求を断固拒否、物別れに終わった。

ところがその直後急にソ連は要求を撤回し、バーンズ回答にも同意した。スターリンは、これ以上要求すると米国が臍を曲げ、スターリンの最終的狙いである北海道の占領が拒否される、更に下手するとソ連の満洲・樺太・千島作戦に横やりを入れられる恐れがあるかも知れないと判断したに違いない。この時点での米ソの軍事力には圧倒的な差があり、しかも米国は唯一の核保有国であり、余り米国を怒らせることは得策ではないことは明らかだった。 

8月10日夜、極東ソ連軍総司令部は、南樺太攻撃部隊(第16軍)に対し、「11日10時樺太国境を越え、北太平洋艦隊と協同して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を発した。第16軍の主兵力は、狙撃(歩兵)師団1、狙撃旅団2、戦車旅団1、独立機関銃連隊1、独立戦車大隊2、砲兵連隊2であり、その他防御部隊が配されていた。協同する海空戦力としては北太平洋艦隊(海軍航空隊80機を含む)と1飛行師団(106機)が配されていた。日ソの戦力比は、歩兵3.7倍、砲10倍、重機関銃4.3倍、軽機関銃4.8倍、戦車は日本が0に対し95台、飛行機も日本が0に対し106機と、殆ど全ての戦力でソ連軍が圧倒していた。

   (3) 樺太防衛戦の経緯概要

   第5方面軍は、8月9日早朝にソ連参戦の一報を受けたが、隷下部隊に対し積極的戦闘行動は慎むよう指示を発した。この自重命令は翌日に解除されたが、解除連絡を師団は受け取ったものの、通信遅延のため最前線(第125連隊)には届かないままに終わり、日本側前線部隊が過度に消極的な戦術行動をとる不利につながった。

第88師団は、8月9日に在郷軍人、中学校及び青年学校の生徒等3,628名に防衛召集をかけ、沿岸警備・対空監視・陣地構築・軍需品の輸送及び避難者の援護等主として後方任務に就かせた。

8月12日、非戦闘員(老人、子供、女性)の緊急避難について、樺太庁長官が陸海軍と協議のうえ輸送計画を策定し全市町村に通達、15日までに輸送を完了する手はずとした。

幸いにして樺太正面においては、ソ連軍は開戦と同時に国境を突破して進撃しなかったので、対米配置から対ソ配置への返還の余裕を得ることができた。

第5方面軍は、13日には北海道の第77師団から3個大隊の増援を決めるとともに、手薄と見られた北樺太への1個連隊逆上陸(16日予定)まで計画したが、15日のポツダム宣言受諾発表と大本営からの積極進攻停止命令に従い中止となった。

10日には南樺太防衛上の緊要地点である上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、狙いは住民を兵士にして戦わせることではなく、兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった。

13日から14日にかけて日本軍は大きな損害を受けながら、ソ連軍の南下を阻止するため古屯(樺太鉄道最北端駅)から上敷香の付近で頑強に抵抗し、ソ連軍の企図を挫折させた。

師団は、15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、防衛召集解除・一部兵員の現地除隊・軍旗処分など停戦準備に移ったが、ソ連軍は攻撃を止めるどころか拡大したのである。

ソ連は参謀総長が談話を発し、「日本のポツダム宣言受諾は単なる一般宣言に過ぎず、停戦命令は出ておらず、日本軍がまだ抵抗を続けている」との理由で攻撃を続行することを声明した。8月15日時点では、ソ連には戦争を継続しなければならない理由があった。満洲方面ではかなり作戦が進展したとはいえ、それは北満に限定されており、樺太では国境を越えたばかりのところで阻止されていたし、千島には全く手つかずのままであったからである。

15日、マッカーサーがソ連軍統帥部に戦闘停止を申し入れたが、アントノフ参謀総長は「ソ連軍がその作戦地域において攻撃作戦を中止するか否かは現地の最高司令官の判断に委ねている」としてとりあわず、逆に樺太西岸(真岡)への上陸と千島列島北部占領を命じたのである。

同日、トルーマンはスターリンに対して、日本軍の降伏受入れに関する各国の担任地域を通告し、「ソ連の担任地域は満洲、38度線以北の朝鮮半島および南樺太とする」と明示した。これに対しスターリンは直ちに反論、16日、「ヤルタ密約に基づき千島列島を加えること、更には釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道半分を担任区域に加えること」を要求する書簡を送った。

16日にソ連軍は上敷香の西方の塔路に上陸作戦を開始したが、恵須取(エストル)に向かった上陸部隊は、日本軍の激しい抵抗にあって進撃は低調だった。恵須取方面の戦闘もまた24日朝、ソ連軍将校とともに派遣された88師団参謀の命令書を受けて武装解除した。

塔路に上陸作戦が実行されたことに伴い第88師団は第5方面軍から自衛戦闘と南樺太死守を命じられた。第88師団としては、一度停戦へ向かいかけたところに、翻って再び戦え、南樺太を死守せよとの命令を受け困惑した。急ぎ各部隊に再武装を命じ、防御陣地を確保するよう命令したが、海空軍力の支援がない上に乏しい武器・弾薬のため、積極的な作戦はできず、持久するだけを目標とした専守防衛に徹するほかなかった。

8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。16日、ソ連軍は古屯付近において総攻撃に転じたが、日本側が即時停戦命令を受けて19日に武装解除するまで、日本側の主陣地を制圧できなかった。

交通路は避難民で混雑し、日本軍は橋の破壊などによる敵軍阻止を断念することが多かった。この間、日本側は現在位置で停止しての停戦を各地で交渉し、第88師団長自身も北地区へ交渉に向かっていたが、進撃停止は全てソ連側に拒否され、しばしば軍使が処刑される事件も起きた。

18~19日には、極東ソ連軍総司令官が、25日までの樺太と千島の占領、9月1日までの北海道北部の占領を命令した。

8月19日、大本営は第5方面軍に対して、停戦のための武器引き渡しを許可した(大陸指2546号)。満洲方面よりも3日遅れの発令であった。21日から22日にかけて第88師団に武器引き渡し許可が届き、知取でソ連軍との停戦合意に達した。

この間にも、20日には真岡にソ連軍が上陸して多数の民間人が犠牲となり、やむなく応戦したわずか2個大隊の日本軍と激戦となった。日本軍は圧倒的な兵力と火力をもつ上陸軍に次第に押され内陸へと後退せざるを得なかった。真岡市街を守る日本軍はいなくなったのであるが、守備隊長は降伏のための軍使を派遣し、真岡市街がソ連軍に蹂躙されるのを防ごうとした。しかし17名の軍使一行は武装解除されたのちに自動小銃でなぎ倒されてしまった。

ソ連側は、日本人と財産の本土引き揚げ阻止を図り、23日には島外移動禁止を通達した。24日に樺太庁所在地の豊原市はソ連軍占領下となり、25日の大泊上陸をもって南樺太占領は終わり、樺太戦は終結した。

日本軍は多くの陣地においてソ連軍の進撃を阻止又は撃退した。国境近くの武意加陣地においてさえ、僅か1個小隊ながら19日までこれを守備しソ連軍と対峙していた。その後終戦を知って、自ら部隊の編成を解いたのであって、敗退したわけではなかったのである。

厚生省資料によれば、樺太における日ソ戦闘による軍人の戦死及び不明は約2,000人、同じく島民の犠牲者は主なところ真岡が約1,000人と最大の犠牲者を出し、その他の約1,000人と合わせて約2,000人、軍民合わせて約4,000人とされる。

民間人の北海道への緊急避難については、13日夕刻の第1宗谷丸(680人)を第1便とし、23日夜出港した春日丸まで合計約10万人が脱出した。それは島民の1/4であった。24日以降、避難は不可能となった。樺太脱出に成功した10万人のうち、留萌沖でソ連潜水艦に、宗谷海峡で航空機による攻撃を受け、避難民輸送船4隻が沈没又は大破、約1,700人が犠牲となった。

さて、16日スターリンが北海道北半分をソ連軍占領地域に入れるようトルーマンへ書簡を送ったことは述べた。スターリンはこの要望は受け入れられると考えていたようである。なぜならこの時期には、ポツダム宣言の中の日本国軍隊に関する第9項「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる」を守ろうとしていた節があるからだ。16日、ワレシスキー総司令官に対し「日本軍捕虜のソ連領への移送は行わず、収容所は出来る限り日本軍の武装解除の場所に設けよ」との指示を出していることがそれを示唆している。そして翌17日には、スターリンは連合軍最高司令部へ派遣しているソ連代表デレヴィヤンコ中将に対して、「北海道北部占領」と「東京にもソ連軍占領地域を設ける」即ちベルリン占領方式をとることについてマッカーサー元帥と協議するよう指令した。

8月18日、スターリンは17日付のトルーマンの書簡を受領した。その中で、トルーマンは、千島列島全部をソ連軍に降伏すべき地域に含めることには同意するが、北海道北部を含めることを拒否し、さらに中千島の一つに米軍航空基地を設けることを要求した。スターリンは怒りと落胆ですぐには決断できかねたのであろう。しばらく返事も必要な指令も出していない。そのため現地の最高司令官ワシレフスキー元帥は、既定方針に沿って19日早朝、第1極東方面軍と太平洋艦隊に対し、9月1日までに釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道及び新知島までの千島南部諸島の占領を命じた(前述)。

真岡にソ連軍の上陸が成功したのを見て、ワシレフスキー元帥は、隷下の陸・海・空軍部隊に対し、23日までに北海道を占領するための基地基盤を樺太南部に確立し、上陸準備を整えるよう命令し、北海道上陸作戦発動時期は別名すると通達した。

スターリンは22日なって18日のトルーマンの書簡に対する回答を送り、北海道占領を断念する旨伝え、中千島に米軍基地を置くことを断った。

翌23日、スターリンは、「日本軍捕虜50万人の受入れ、配置、労働利用について」という極秘指令を出した。これは極めて詳細な計画であり、対日参戦以前から準備していたものと見るのが妥当であろう。

樺太の占領が終わった8月25日、スターリンはマッカーサー司令部にいるデレヴィヤンコソ連代表に対し、北海道占領要求及び東京占領地域要求を撤回する旨の指令書を発した。スターリンの目標は簡明となり、予定地域の確実な占領と、捕虜・資産等の確保に集中する方針を固めたものと考えられる。こうして、次は満洲方面の全面的占領と同時に、千島をいかに素早くどこまで占領するかがスターリンの重要な課題となるのである。(前編終)

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*参考文献等

①『1945夏 最後の日ソ戦』中山隆志 2001年7月25日 中央公論新社

②『再びソ連を訪れて』ルイズ・フィッシャー 時事通信社 昭和33年5月15日

③『ソ連が満洲に侵攻した夏』半藤一利 文藝春秋 2002年8月10日

④『大東亜戦争への道』中村粲 平成2年12月8日 展転社

⑤『8月17日、ソ連軍上陸す』大野芳 平成22年8月1日 新潮文庫

⑥『ソ連史』松戸清裕 2011年12月10日 筑摩書房

⑦『検証シベリア抑留』白井哲也 2010年3月15日 平凡社

⑧『スターリン』 横手慎二 2014年7月25日 中央公論新社

⑨その他Web.ウィキペディア等