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活 動 報 告report

 日本共産党の戦後秘史(その3)      平成29年3月19日 作成 五月女 菊夫


第1章日本共産党戦前史(その1)

1.歪んだ生い立ち

2.2つのテーゼ

3.大量転向

4.獄中18年

5.精神主義という刻印

6.地球上で最後のスターリン主義の党

 

第2章「唯我独尊」の原点(その2)

1.臨時再建本部「自立会」

2.宮本顕治の不満

3.野坂参三という異物

4.革命幻想

5.戦後も引き継がれた天皇制の認識

6.誰が日本の権力を握っていたか

7.代行された民主主義革命

8.支持者拡大のピークは「食糧メーデー」

9.革命前夜を思わせた「2.1ゼネスト」 

10.冷戦の巨浪が押し寄せる

11.9月「革命」説

12.先鋭化する徳田球一と宮本の対立

13.党史に記せない闇

 

第3章 武装蜂起の時代

1.「50年問題」

昭和23年9月9日、朝鮮半島北部のソ連占領地域で、いわゆる朝鮮民主主義人民共和国がソ連の傀儡政府として成立した。首相には、スターリンの面接試験に合格した金日成が任命された。翌昭和24年3月、38度線を挟んで武力衝突が頻発する。金日成はスターリンを訪ねて軍事援助を求める。同時に南進(武力統一)の許可を求めるが、アメリカとの衝突を恐れるスターリンは、このときは消極的な態度を示している。この間中国共産党の人民解放軍の進撃が続き、4月には南京を占領。そして10月1日、毛沢東が主席として北京で中華人民共和国の成立を宣言した。11月世界労連のアジア・太平洋労組会議(北京)で、中国の劉少奇が「人民戦争」方式をアジア・太平洋地域に広げると宣言した。昭和25年2月モスクワで、中ソ友好同盟相互援助条約が調印された。そして昭和25年3月、金日成が訪ソしてスターリンから南朝鮮への侵攻への同意を得た。

 他方アメリカは、早くも昭和24年の6月に、朝鮮半島の動きを察知して、北朝鮮専門のスパイ機関・KLO「韓国連絡事務所」を設置、北朝鮮の政府や軍から、膨大な情報を入手していたという(萩原遼著「朝鮮戦争」)。

つまり、ソ連も中国もアメリカも、朝鮮戦争の1年前に朝鮮戦争が始まることをつかんでいたのである。そして、双方とも、日本が韓国軍と米軍の後方基地となることを明確に認識していた。だから米占領軍は、団体等規制令で共産党員を登録させ、レッドパージに利用した。

  また、昭和25年6月には、米占領軍は、日本共産党中央委員24人全員の公職追放を指令、翌日「アカハタ」編集委員など17人を追放した。他方、ソ連も中国も朝鮮戦争の準備をしていたので、コミンフォルムの論評という形で、「占領下での平和革命」などと言っている能天気な日本共産党に警告を発したわけである。

 「50年問題」とは昭和25年1月から30年7月の約5年半の期間、党が分裂状態にあった時代に起きたことである。しかし、先にも述べたように、この時代を特徴づける統一された呼称さえない。宮本国際派は「50年問題」とか「極左冒険主義」という言い方をするが、徳田主流派は「軍事方針」とか「軍事闘争」という言い方をする。

『日本共産党の70年』は、「日本共産党の50年問題とは、第6回大会選出の中央委員会が、昭和25年6月6日のマッカーサーの弾圧を機に徳田球一、野坂参三を中心にした『政治局』の分派活動によって、解体・分裂させられ、全党が分裂と混乱に投げ込まれた深刻な事態をいう」と書いている。

また、共産主義研究家の来栖宗孝は「『50年問題』は、昭和25年1月以降、それまで伏流としてあった党内の意見の相違が次第に露呈され、それが昂進して公然たる分裂となり、各国共産党に例を見ない大分裂・大抗争となった事件のことである」と書いている。

 当時日本共産党の内部で、徳田主流派と志賀・宮本国際派がそれぞれ、どれほどの勢力を持っていたか正確にはわからない。しかし、徳田主流派が7対3くらいで多数派を占めていたことは間違いない。

 元来共産党には、少数派とか、少数意見などというものは存在しない。少数派は必ず抹殺される。共産党が権力を握っている場合には、どこの国であれ、少数派を殺してしまう。

 徳田は、昭和20年(1945)の出獄以来、粘り強く陰湿に自分の権力を狙っていた宮本を警戒し、嫌悪していた。

 宮本国際派は、奪権を狙って、徳田主流派に対し「右翼日和見主義」とか「民族主義」「チトー主義者」と執拗に攻撃した。2年前にユーゴスラビアの党が、コミンフォルムから除名されたばかりであり、「チトー主義者」という名の下に、東欧各国の共産党では、ソ連による粛清が行われていた。したがって、徳田球一らはこうした自分に対する批判を聞き捨てにできないと感じたことは容易に想像できる。

占領軍による弾圧が迫ってきたことを、伊藤らを通じて察知した徳田らは、いち早く自分たち主流派の幹部だけで地下に潜ってしまった。

宮本・志賀らは「おいてけぼり」を食らい「干されてしまった」わけである。

 しかし、これをもって党の分裂などと言うのは大げさな話で、徳田にしてみれば、執拗に自分のスキを窺う宮本に、地下に潜る際にお誘いするだけの気持ちにはなれなかったのであろう。こんなことは単なる感情の対立に過ぎない。

 宮本が党の指導権を握り、次第に党内での地歩を固めるに従い「50年問題」に関する評価は微妙に変化をはじめ、『日本共産党の70年』で頂点に達することになる。そこには、なんと徳田や野坂「分派」が党を分裂させたという記述が現れるのである。

 しかし、いくら徳田と志賀が憎いといっても、彼らを「分派」というのには少し無理がある。先に書いたように徳田主流派と宮本国際派の力関係は、一般党員レベルでは9対1、専従活動家レベルでは、せいぜい7対3くらいで、「分派」はむしろ宮本の方であった。

 日本共産党では、「50年問題」と当時の「極左冒険主義」に基づく軍事闘争を説明するのに窮して、「党が分裂していた当時、分裂していた一方の側がやったことで、現在の我々の預かり知らぬことである」といって責任を回避する。これは全く通用しない議論である。

 ある会社が罪や不法行為を侵す。そして社長が退任する。そこで次の社長になった者が、「あれは前の社長がやったことであり、しかも自分は前の社長とは仲が悪かった。だから、我が社は責任を取ることができない」と主張しても、世間では全く通用しないであろう。

 

2.朝鮮戦争の一部だった日共の軍事闘争

 昭和26(1951)年8月、またしても、晴天の霹靂が国際派の宮本らの頭上に降りかかってきた。コミンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義のために」は、第4回全国協議会(4全協、1951年2月)の「分派主義者に関する決議」を支持し、宮本らを「日米反動を利する」分派活動として非難した。

 当時は、ほとんどの党員が国際盲従分子で、国際的権威に弱かった。そこで5つほどあった分派組織が、自己批判書を持って党に復帰したのである。しかし、党、つまり主流派は自分たちに反抗した連中を容易に許そうとはせず、徹底的に痛めつけた。そのために、数万人の党員が党から去って行った。

このとき、宮本顕治も、志田重男の下に、「自己批判書」(経過報告書であるという説もある)を3回も書き直しを命じられながら提出して復党を認められたのである。

この後、火炎瓶闘争など、日本共産党の軍事闘争が始まるわけであるが、宮本顕治はこのときすでに党に復帰していたのである。従って、軍事闘争つまり「極左冒険主義」は、分裂していた一方が勝手にやったものだなどと主張することは、宮本の性格的な特徴である、ウソと欺瞞に満ちた責任回避以外の何ものでもないだろう。

このコミンフォルムの論評もスターリンの関与の下に作成されたものであり、『日本共産党の80年』によると、一連の会議は、昭和26(1951)年4月~5月に数回行われた。会議には、徳田、野坂、西沢の「北京機関」幹部が呼ばれ、中国共産党の代表も参加した。

そこで、日本共産党の党内問題について、スターリンは4全協を支持して、宮本らを「分派」とする裁定を下した。スターリンは自ら筆を入れた最終決定「51年綱領」を日本側に押しつけたのである。5全協の「軍事方針」もスターリンが朝鮮戦争の「勝利」の展望と結び付けて問題提起し、それに基づいて具体化された。

この会議には袴田里見も参加した。宮本らのグループが自分たちこそがスターリンに最も忠実な正統派であるとアピールするために派遣したのだが、スターリンの一喝に遭うと袴田はへなへなと腰が砕け、あっさりと徳田派に転向してしまった。この点については、後で詳しく触れる。

それにしても今にして思えば、袴田にしても、野坂にしても、宮本にしても、このあと出てくる志田にしても、よくもまあこれだけクズのような人間が寄り集まった政党があったものだと慨嘆せずにはいられない。

閑話休題。スターリンは「軍事方針」を朝鮮戦争の勝利の展望と結びつけて提起した、と書いた。そうなのである。日本共産党がその後展開する「軍事闘争」も結局、朝鮮戦争と表裏一体となった「軍事作戦」であった。

みじめでこっけいな結果に終わったので、「軍事作戦」などと書くと大げさに聞こえるけれども、やはり日本共産党という政党が、正面切って戦略と戦術を練り、打って出た武装闘争であり、武装蜂起であった

 私は人を笑わせるために「(日本版)人民戦争」とも言っている。

 これまで、「50年問題」(軍事闘争)について書かれたものを読むと、朝鮮戦争がこの問題が起こったときの「環境」として描かれている。しかし、朝鮮戦争が「環境」だったのではなく、「軍事闘争」が朝鮮戦争の一部分だったのであって、朝鮮戦争のためスターリンや毛沢東などによって後方撹乱として企画せられたものである。この点をしっかり押さえておかないとこの問題の核心をつかむことはできない。

  宮地健一は、朝鮮戦争をソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党という社会主義の国の党と日本共産党という資本主義国の党の4党による合作としてとらえている。これは、「50年問題」のこれまでの理解に一歩踏み込んだ解釈を持ち出したもので、傾聴に値する見解である。しかし、ここまで断定すると、日本共産党は何か積極的に、いわば主体的に朝鮮戦争に参加したような印象を与える。実は日本共産党は朝鮮戦争が計画されていることを事前に知らされていたわけではなく、昭和25年(1950)6月25日、戦争が勃発して初めて知ったのである。しかも、北朝鮮による南進(侵略)であることを知らず、1980年代までアメリカが戦争を仕掛けたと信じていた。

 日本共産党は、スターリンや毛沢東の支持を受けて、金日政が仕掛けた南北武力統一、革命戦争、朝鮮国内戦争に体よくのせられ、片棒を担がされたというのが正しいのだと思う。結果的には、一翼を担わされたわけだけれども、最初からそのつもりでやったわけではない。(ここまで前号)

 

3.軍事闘争を受け入れた素地

  この「50年問題」には、もちろん、戦略と戦術がある。

  「日本共産党の当面の要求51年綱領」と呼ばれるものである。これは、純然たるソ連製の綱領であり、スターリン自身が筆を入れて書いたものである。

  昭和26(1951)年8月上旬頃、モスクワに呼ばれていた、徳田、野坂、西沢そして、反主流派の宮本らから送られた袴田の4人は、モスクワ郊外のクンツェボの森にあるスターリンの別荘に呼びつけられた。一階の会議室には、既にスターリンはじめ党政治局員のマレンコフ、モロトフ、それに粛清で悪名高いベリアが顔をそろえていた。そのほか中国共産党の対外連絡部長で、ソ連駐在大使の王稼祥も同席。すでに5月頃から3回のクンツェボ協議を行い、草案は出来上がっていた。

  草案の骨子は「日本で新たな民族解放民主政府が妨害なく、平和的方法で自然に生まれると考えたり、反動的な吉田政府が新しい民主政府に自分の地位を譲るため、自ら抵抗なしに政権を投げ出すと考えたりするのは重大な誤りだ。逆に吉田政府は権力を死守し、日本国民を永遠に奴隷状態にとどめおくために全力で戦うだろう。そのために吉田政府は警察と軍隊をもち、占領当局の支援と地主、独占資本家、さらには天皇とその周辺の援助を受けているのだ」というものであった。

  かみくだいて言えば、「アメリカ軍が占領している条件の下で、革命が平和的に成功するなどというたわけたことを言うな」「日本共産党は、暴力革命に向けて先頭に立って決起せよ」というわけである。スターリンが日本共産党に対して、このような指示を行ったのは、このころ朝鮮半島で南北両軍が膠着状態に落ち込んでいたからである。このような指示について、現在の日本共産党は「干渉」と言っているが、「干渉」といったものではなく、「命令」または上級機関による「指導」というべきものであった。

  朝鮮戦争での膠着状態を打破するために、朝鮮戦争に参戦していたソ連と中国としては後方支援、兵站基地である日本で米軍の後方撹乱を望んでいた。

  事実、クンツェボでの2回目の会議でスターリンは日本側に次のように強調している。「米占領軍が日本の至るところで耐えがたいような状況を作ることが必要だが、このためには愛国勢力の統一戦線結成を考えなくてはならない」

 出席した袴田は、そのときの様子を書いている。

「8月のある夜、9時を過ぎた頃、ソ連共産党の国際部副部長がやってきて、硬い表情で一つの文書を示し、『これを読んでイエスかノーか答えたまえ』と言う。その文書は、武装闘争の考えに立脚していて、のちに日本共産党の『51年綱領』として発表されたものだ。ここで私が『ノー』といえば、スターリンに直接訴える機会が失われる(袴田は宮本グループから、自分たち少数の分派の方が同志スターリンに最も忠実な正統派なのであると訴えるために派遣されていたのである)」。

クンツェボでの2、3回の会議の間、スターリンは日本共産党側起草の綱領草案をズタズタにして自ら手を入れた。王稼祥も3回目の会議で日共草案にあった「改革」を「革命」に直すよう口をだし、スターリンは「王同志は正しい」と即座に同意した。

  袴田は「ソ連共産党の大国主義に腹立たしい思いもしたが」「当時のスターリンの偉大さは、我々共産主義者には絶対であり、逆らうことはできなかった」と述べている。

 この「51年綱領」には、もう一つ重要な点が含まれていた。

  中華人民共和国が成立した直後の1949(昭和24)年11月16日、世界労連アジア・太平洋労組会議が北京で開かれ、中国の劉少奇が「農村を根拠地とした武装闘争を発展させ、次第に都市へと浸透させ、蜂起をはかる」という、いわゆる「人民戦争」方式、つまり毛沢東型の「農村が都市を包囲する遊撃戦」をアジア・太平洋全域で展開し、アジアの「植民地・半植民地の人民」を解放せよと檄を飛ばした(「劉少奇路線」とよばれる)。

  そして日本共産党もこの対象にされてしまった。要するに、日本も植民地ないしは半植民地にされてしまったわけである。この会議での結論は翌1950(昭和25)年1月10日のソ連共産党機関紙「プラウダ」に掲載され、国際的な承認を得てしまった。これが「51年綱領」に取り込まれるのである。

  つまり、スターリンが直々に手を加えたソ連製の綱領に、中国革命の勝利に酔っていた中国共産党の革命方式が結びついて、1つになったのである。

 純然たる暴力革命の綱領であった。

  もともとマルクス・レーニン主義というのは、暴力革命の理論である。

  それは階級闘争を徹底的に突き詰めていって、最後には暴力で権力を取ること、そして一旦権力を奪取したら、暴力を無制限に行使して革命の敵を粉砕すること、肉体的にも抹殺すること(プロレタリアートの独裁)である。

  議会を通じて権力を獲得するという西欧のマルクス主義は、社会民主主義という別の流れの社会主義であって、日本共産党は党創立以来、これを敵視し、目の敵にし、主要な打撃をこれに加えよと言ってきた。

  驚いたことに、おかげで日本から社会民主主義の政党は消え失せてしまった(もちろん社会民主党を名乗る政党があるのは周知の事実であるが、これは、旧社会党のほんの残党に過ぎない)。

  スターリンや毛沢東から「1年綱領」を押しつけられ、唯々諾々としてそれを受け入れた日本共産党はだらしがない。しかし暴力を肯定する理論的措置がもともとあったからである。

 

4.ソ連、中国の批判に慌てるだけの指導者たち

  「50年問題」とは、1950(昭和25)年1月から、約5年半であると冒頭に書いた。さらに、この期間の中で、「軍事闘争」「武装蜂起」に励んでいたのは、第5回全国協議会(5全協・1951年10月16日)から、朝鮮戦争が休戦する1953(昭和28)年7月27日までの1年9か月間である。朝鮮戦争が終わると日本共産党の「軍事闘争」もピタリと終わってしまった。

  日本共産党の「軍事闘争」の目的は、朝鮮戦争の後方撹乱であるから、戦争が終わったらもはや必要がないからである。

  「軍事闘争」といい、「武装蜂起」といい、それが朝鮮戦争の後方撹乱であり、後方支援であったことをこれほど鮮やかに浮き彫りにするものはない。

  もう一度、この時代の流れを押さえた上で「各論」に入っていきたい。

  1950(昭和25)年1月、コミンフォルムの日本共産党批判があったが、徳田球一は、あんなものはデマだとうそぶいていた。しかし、香港の通信社から、中国共産党も同じ考えらしいという情報が入り出すと、さすがの徳田球一も慌てだし、志賀や宮本よりも積極的にコミンフォルムの批判を真摯に受け止めようと言いだした。

  日本共産党の指導者は、どうしてみなこれほど頼りないのか。

 日本共産党は、コミンテルンの日本支部として発足した。当初は、世界中の共産主義者が集まって力を合わせ世界革命を推進しよう、ということだった。ところが世界の雰囲気が重苦しくなり、スターリンが世界戦争について警戒を始めると、各国共産党の使命は、ロシア革命とソ連邦の擁護ということになった。

  いつの間にか、ソ連の利益擁護と外交政策の道具となってしまったのである。長い間に、こうした体質が日本共産党にはしみついていた。

  加えて、この党の指導者の政治的未熟さがある。徳田にしても、志賀にしても、「獄中18年」であることは既に書いた。党が創立された大正11(1922)年に徳田らは入党しているが、2年後の大正13(1924)年には、早くも「日本で共産主義は時期尚早である」などという解党主義が発生、さっさと解散してしまうのである。それから2年後の大正15(1926)年にまた再建されたが、徳田と志賀が逮捕された「3.15事件」(1928年)まで、彼らが共産党員として活動した期間というのは、ほんの3,4年なのである。

  戦後出獄して、「獅子奮迅の活躍」をするのであるが、これも4年、通算しても10年に満たない。宮本と袴田にいたっては戦前の活動歴には見るべきものは何もない。特高警察に追われて、逃げ回るだけで精いっぱいだった。戦後は東京都文京区駒込の宮本百合子の自宅で、寝そべって文芸評論を書いていただけで、宮本が労働運動をやったとか、大衆活動をしたとか、寡聞にして聞いたこともない。

  一国の革命運動の全局面を正しく把握して、指導できるような人物が日本にはいなかったのである。このことが、日本の革命運動に大きな悲劇を招いた。

  中国共産党までも日本共産党を批判していることがわかると、指導部は全員一致して、この批判を受け入れることにした。昭和22(1947)年の第6回党大会で、野坂参三の「占領期における平和革命論」には宮本や志賀も含めて誰一人反対者がいなかったにもかかわらず、である。

 

5.権力闘争に発展した徳田と宮本の対立

  昭和25(1950)年1月18日から、第18回拡大中央委員会が開かれ、コミンフォルム論評の積極的意義を認める決議をした。そして野坂は自己批判をし、志賀は意見書を撤回した。コミンフォルムの批判を受け入れることになって、それみたことか、俺の言った通りだろうと宮本は鼻高々だったと言う。

  それを見た徳田はますます警戒心を強め、統制委員会の議長をしていた宮本を九州地方の指導と称して、左遷してしまう。東大の学生をはじめとする宮本の支持者たちは、流刑であるとか、「宮本の太宰落ち」といって騒いだそうである。志賀の書いた異論書を党内で配布する者があり、分派活動ではないかといった極めて次元の低い党内論争があった。やがて、徳田と宮本らの指導権争いが感情的な対立にまで発展した。

  伊藤律がどこやらから仕入れてきた極秘情報により、近くGHQが弾圧を始めるらしいということが分かった。伊藤は学閥(東大)を利用して大手新聞社から何らかの情報を手にしていたようだ。そして、これは1ヶ月後にはその通りになる。

  浮き足立った徳田らは、地下へ潜ることにした。前述のように昭和25(1950)年6月6日、GHQは中央委員24名全員の公職追放を指令、あくる7日には「アカハタ」編集委員など17名を追放する。徳田らはこのGHQの弾圧を奇貨として、宮本ら7名の幹部を置いてきぼりにして、地下に潜ることにした。ここから、いわゆる分裂と言われる事態が始まる。

  そして椎野悦朗を議長とする「臨時中央指導部(臨中)」なるものを設置し、日本共産党のいわゆる地下活動が始まる。この間、徳田主流派は、宮本国際派を分派組織として、厳しく糾弾、いわゆる「査問」というのを全国的にやった。

  私も「査問」というのをやられたが、これはこの党の党創立以来の伝統で、戦前はリンチで殺してしまうこともよくあった。戦後はさすがに殺害するというケースは少なくなったようであるが、それでも、簀巻きにして、もう少しで橋の欄干から川へ投げ込まれるところであったという程度の話は「先輩」から何度も聞かされた。

  ごく普通の人間、小市民とかプチブルなどと言われる人は、この政党にだけは入ってはいけないと思う。明日は何が起こるかわからない。突然「査問」に呼びだされ、「お前は警察のスパイだ」と言われる。そして、抗弁しても「まず君が自白しなさい」とくる。「私が警察のスパイだという証拠があるのか」と質問すると、「そんなものあるわけないじゃないか」とくる。警察のスパイではないことを自分で証明しろと言う。自分が警察のスパイであれば証拠はあると思う。しかし、自分がスパイではないのにスパイではないという証拠を提出するというのは、苦しい。どこへ行って証拠を探してくればよいのか。こういうことは、共産主義の国家では、ソ連でも、中国でも、現に北朝鮮でも、何十万回、何千万回となく繰り返され、そして、何百、何千万という人たちが殺された。

  基本的に徳田主流派が、宮本国際派を査問・除名するケースが圧倒的に多かった。しかし、国際派が優勢なところでは、主流派がやられた。「異見」を述べる者に対し、「スパイ」「トロツキスト」というレッテルを張って「査問」を強行した。

  5全協(昭和26年 1951年10月16日)において軍事方針が決定して以来、暴力行為が「査問」「組織総点検」の名のもとに激甚凄惨に行われ、党組織を弱体化し、党内外の不信を増幅させた。

  昭和25(1950)年7月15日、徳田に対して逮捕状が発せられた。地下に潜っていた徳田は逮捕を免れたが、既に病いを患っており、医者から余命いくばくもないと宣言されていた。まわりから、中国へわたって治療に専念するよう勧められても、頑として拒否した。しかし、そのうち一旦中国へわたって、そこからソ連へ行き、スターリンにコミンフォルムの日本共産党批判を撤回させようと思いついて中国行きに同意した。

  徳田は当時、ある自民党議員の世話で神戸まで運ばれ、在日華僑に頼んで、中国へ脱出したと言われる。徳田の右腕と言われた伊藤律も、「人民艦隊」と言われた焼玉エンジンの小型漁船に乗り、船酔いで吐きながら日本海を渡った。袴田が中国へ渡った正確な時期はわからないが、英国の豪華客船クイーン・エリザベス号の3等船客に化け、中国人の事務長を50ドルで買収して密航していった。紺野与次郎、西沢隆二、野坂参三も「人民艦隊」で中国へわたっていった。

 

6.軍事部門の組織化進む

  昭和25(1950)年1月、コミンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義のために」の論評という形で、スターリンおよびソ連共産党から「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない」と平和革命論を厳しく批判された野坂参三は、直ちに「私の自己批判」を発表した。

  そしてこの野坂を中心に武力革命を目的とした「軍事方針」がつくられてゆく。国会で多数を占めて権力を奪取するという平和革命論を昨日まで掲げていた野坂に「軍事方針」をつくらせる。これが共産党のエゲツないところ、あざといところである。踏み絵を踏ませる、あるいは懲罰的な意味もあるのだと思う。

  ところが、地下活動に入った野坂は「軍事方針」をまとめずに中国へ渡って行った。以下、元日本共産党東京都委員長で、「50年問題」の渦中に東京都軍事ビューロー(軍事委員会の政治指導部のようなもの)キャップとなった増山太助の「事実に立って『軍事問題』再考」を参考にしながら、「軍事方針」が作成される経過を追ってみたい。増山は所感派(当時書記長の徳田球一を中心にした主流派)でありながら、反主流の国際派とも交流し、「軍事方針」には反対の意見を持ち続けた人物である。

  「軍事方針」はまず、昭和25(1950)年10月7日付「平和と独立」と同月12日付「内外評論」特別号に、「共産主義者と愛国者の新しい任務――力には力をもって戦え」と題して発表された。「平和と独立」「内外評論」は、地下に潜った所感派指導部発行の非合法機関誌で、伊藤律が責任者となっていた。

  増山は、この論文について、「野坂さんが書いたものを下敷きにしてまとめた」と志田重男(当時、中央委員)から聞かされたという。

  増山によれば、野坂から「方針」の執筆をバトンタッチされた紺野与次郎は、中国共産党方式の「農村から都市へ」という「ゲリラ闘争」をまとめたが、これは所感派全員の反対にあって不採用になった。そして、志田、伊藤、紺野に臨時中央指導部議長だった椎野悦朗を加えた4人が共同で執筆作業にあたり、翌昭和26年1月24日付「内外評論」には「何故武力革命が問題にならなかったか」を発表。続いて2月23日から5日間、秘密裏に開かれた第4回全国協議会(4全協)に、「軍事方針について」という文書を提出した。この文書は、抵抗・自衛闘争の発展と中核自衛隊、独立遊撃隊の組織問題を、不明瞭な要素を含みながらも大胆に提起し、「アメリカ軍の駆逐と暴力的抑圧機関を粉砕する人民の武力闘争が、革命にとって絶対に必要」と強調している。臨時中央指導部とは、徳田、野坂ら地下に潜行した所感派指導部の公然組織である。

  長谷川浩(当時、中央委員)によれば、「軍事方針について」という文書の性格は4全協の「正式決議」ではなく、「議論はされたが、採択されたものではない」というものであった。

  しかし、岩田英一(当時、中央委員候補)は、4全協で「決議への反対は絶対に許されない」という規定をつけて「極左冒険主義」の方針を採択したと言っている。また、代議員として出席した東京都委員会の委員長、市吉庸治は、「文書を持って帰って読み、討議する必要はないと言われた」と報告している。

  つまり、この文書の扱い、受け取り方には、出席者の間で微妙な違いがあり、やがてその差が拡大していった。

  4全協の直後、増山が志田に「文書」について質問すると、「これがないと、宮顕(宮本顕治)たちに右翼日和見主義と言われる」「わしは評議会方式による労働者の武装蜂起が正しい革命戦略だと思っているが、椎野たちは中国共産党方式の人民軍を主張している」と宮本ら国際派から突き上げられていることや椎野との対立をほのめかした。

  そして志田は4全協の「軍事方針」は、「平和革命の幻想に溺れてしまった党員を鍛え直す」のがねらいだから、「武力革命の思想・教育活動に重点を置いてくれ」と話したという。

  4全協を契機として非合法部門の組織化が一挙に進み、その過程で、都道府県や各地区委員会などに軍事部が設けられた。

  しかし、東京都委員会などでは、都委員の全員が「軍事方針について」に対して疑問を持っていたので、軍事部を設けなかった。

  増山は、東京都のビューローキャップだったが、社会の実情に即しない「武装闘争」には反対する腹を固めたという。

  「武装蜂起」が失敗に終わると、日本共産党自身が「党史上最大の誤りであり、悲劇であった」「極左冒険主義の時代」として総括した。しかし、「武装蜂起」の時代に「誤り」を犯し、本来責任を負うべき指導者が生き残り、歴史のまさにそのときに「武装蜂起」に反対した人たちはほとんど除名されてしまった。

 

7.軍事闘争・武装蜂起に号砲

  昭和26(1951)年8月12日、コミンフォルム機関誌「恒久平和…」が、4全協の「分派主義者に対する闘争に関する決議」の支持を報じた。スターリンが日本共産党の内部問題について徳田、野坂ら主流派を本体部分として認め、宮本国際派を分派とする裁定を下したのである。

  同年8月19日、20回中央委員会総会が開かれ、非合法中央ビューローを唯一の指導機関として承認する決議を行った。この段階で志田の独裁体制が固まった。

  スターリンが直接筆を入れた「51年綱領」をさらに具体化したのが、5全協の軍事方針「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」である。全党は、「51年綱領」と「軍事方針」の討議に沸いた。

  この年の9月4日から8日にかけ、サンフランシスコ対日講和条約会議が開催され、「平和」条約、日米安全保障条約調印、日米行政協定が締結された。そして、衆議院、参議院で批准案が承認されている。

  講和条約会議前日の3日には、臨時中央指導部議長の椎名をはじめ合法機関の幹部19名に逮捕状が発せられ、全員が公職追放となり、岩田英一ら8名が逮捕された。また、全国で300ヶ所以上の党機関が捜索された。

  10月16日、17日の両日、5全協が開かれ、「51年綱領」が無修正で採択された。そして、「軍事方針」が「軍事問題の論文を発表するにあたって」という前書きをつけて発表される。「新しく採択された綱領に基づく具体的な方針である」として、「全党が、この論文を新しい綱領や第5回全国協議会の一般報告と合わせて討議し、これを単なる論文として終わらせることなく、実践の武器とされんことを希望する」と書かれており、4全協の「文書」より一歩踏み込んだ対応を要求していた。

  「軍事闘争」「武装蜂起」がこれによって始まることになる。

  関東地方委員会ビューロー会議で、志田は増山に対して、「宮顕が新綱領と軍事方針を認めて復帰することになった」「これで統一が進むが、国際派の連中に我々が右翼日和見主義者ではないことを思い知らさなければならない」と意気込んで見せたという。

  ここでもう一度整理しておくと、宮本を中心にした国際派は後日「極左冒険主義」として総括される武装闘争路線を一度も批判したことがなかったどころか、主流派を「日和見主義」と批判することで心理的に「極左冒険主義」の方向へと追い込んで行ったのであった。

  「日本共産党の70年」にあるように、「極左冒険主義」は「徳田・野坂分派」が勝手に推し進めたのではない。宮本ら国際派は、暴力革命路線の押しつけであったコミンフォルムの日本共産党批判に乗じて所感派に揺さぶりをかけ、コミンフォルムの「干渉」に水門を開いた。

  したがって、「武装闘争」路線の採用については宮本らにも、徳田・野坂主流派と全く同等の責任があり、同罪である。考え方によればそれ以上かもしれない。その後のいわゆる6全協で、宮本は「51年綱領」の「正しさ」を完全に承認して、改めて党への復帰を果たすのである。

8.「平和のための武装」の笑止千万

  さて、「軍事方針」と言われるものの内容に、当時の文献をもとに少し詳しく立ち入って見てみよう。

◎「共産主義者と愛国者の新しい任務」(昭和25年10月12日)

  「国会というのは帝国主義の独裁を民主主義の偽装によって人民の目をゴマかすための金のかかった道具にすぎない。従って、このような国会を通じて、人民が政権を握り得るという主張は空想である」と議会主義的平和革命論を一蹴し、「これら一切の権力機構は、ただ外部から破壊することによってのみ、初めて人民を政権につかせ得る」「権力闘争とは、究極において、武装闘争であることを世界史は証明しているのである。さればこそ、われわれ共産主義者は、我が国の労働者階級とすべての愛国者に対して、大胆に、率直に、本当のことをはっきり言わねばならぬ時機がきたと確信する。すなわち、帝国主義の駆逐、日本反動政府の打倒、人民政府の樹立のためには、…決死的な人民武装勢力の闘争なしには実現できない」と述べて、暴力革命こそ共産主義者の選択すべき唯一の道だと説いた。

◎「日本共産党の当面の基本的方針」4全協(昭和26年2月23日)

  この基本方針の第3項目が、「軍事方針」文書である。「現在、日本人民を支配しているものは、米帝国主義とその手先たる日本の金融資本、地主、官僚反動勢力であって、人民の武装闘争が必要である」と断言し、「労働者階級は、米帝国主義者と売国奴に対して頑強不屈の地域闘争を行い、その中から遊撃隊を作り出し…根拠地を持たなければならない」と説いている。

◎「戦術と組織の問題」第20回中央委員会(昭和26年8月)

 第4項目で、「武力闘争と農民のパルチザン(非正規軍。別働隊。遊撃隊)闘争」と題して、農民のパルチザン闘争の重要性を強調した。

◎「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」5全協(昭和26年10月)

 これは、4全協の軍事方針、「51年綱領」をさらに具体化したもので、一般に「武装綱領」と呼ばれたものである。綱領では、当面目指すべき革命を、社会主義革命でも人民民主主義革命でもなく、民族の独立を第1義とし、反封建の課題を結びつけた「民族解放民主革命」であると規定した。

  戦後の農地改革でとっくの昔に消えてしまった地主階級の打倒を掲げたのである。「闘争」の形態も、議会で多数を得て権力の座を奪う平和的方法ではなく、国民の「真剣な革命的闘争」が必要であると主張している。

  当時すでにアメリカの軍事占領が終わり、特殊な従属状態に呼応する時期にあっただけに、植民地従属国特有の武装闘争方針を採用したことは革命の理論からしても大変な誤りであったのは明らかである。

  事態は次第に恐るべきものとなっていった。綱領は、中核自衛隊の組織、任務、指揮系統、行動要領、パルチザンの組織につき、次のように説いている。

第1項 問「我々はなぜ軍事組織が必要か」

答「武装した権力と戦っているからである。従って平和的な方法だけでは、戦争に反対し、平和と自由と生活を守る戦いを推し進めることはできないし、占領制度を除くために、吉田政府を倒して新しい国民の政府をつくることもできない。軍事組織はこの武装行動のための組織である」

第2項 問「労働者や農民の軍事組織をつくるには、どうすればよいか」

答「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なものは、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本共産党における民兵である。従って、中核自衛隊は、工場や農村で武装するための武器の製作や、獲得・保存や分配の責任を負い、また軍事技術を研究し、これを現在の条件に合わせ、闘争の発展のために運用する」

   日本共産党は、「戦争に反対し、平和と自由と生活を守る戦いのため」と称して軍事組織をつくり、労働者や武装蜂起を呼びかけているのである。戦争に反対するため軍事組織をつくって戦争を呼びかける。こういう発想は常識では分かりにくい。

   最近のイラク戦争でもわかりにくいことを言っていた。

「戦争反対、平和を守れ」と言う。それは、戦争が始まると、子供、女性、老人がまず犠牲になるからだと言う。そう言って、集会を開き、デモ行進をしている。

   しかし、日本共産党は、イラクのサダム・フセインが、イラクの子供、女性、老人を殺害し、数千人のクルド人を毒ガスで大量殺戮しているときに、一度でもデモや集会をしたことがあっただろうか。

   「アメリカは、早く戦争を終結せよ」と言う。どうして「フセインは早く降伏せよ」「フセインは早く国外へ逃亡せよ」と言わなかったのか。日本共産党が「平和を守れ」と言うとき、「サダム・フセインを守れ」と言っているように聞こえた。

 

9.武器や資金を狙って警察や米軍を襲撃

 「中核自衛隊の組織と戦術」の第3項目は「武器と資金」について次のように述べている。

   「中核自衛隊の主要な補給源は敵である。中核自衛隊はアメリカ占領軍をはじめ、敵の武装機関から武器を奪い取るべきである。」

   「武器は敵の使用しているような近代的なものだけでない。大衆の持っている刀や、工作道具、農具も武器となり得るし、また竹やりや簡単に作ることのできる武器も使用できる。特に、敵を襲撃するために必要な輸送車用のパンク針、手榴弾、爆破装置のような簡単なものは、ただちに製作することが必要である。」

   「武器についで資金を必要とする。この資金もアメリカ占領軍から奪い取ることが原則である。すでに横田や佐世保の基地などでは、労働者がいろんなかたちで、真鍮、砲金などの敵の軍需品を破壊して持ち出し、売り払っている」

   この点について、増山は、「武器は占領軍や警察官から奪い取るべきだ」という中国共産党の遊撃戦法をまねた指示が行われ、「武器だけでなく資金も占領軍から奪い取るのが原則だ」と、戦中の「銀行ギャング事件」そこのけの方針が示されたと証言する。

   そのため交番を襲って巡査のピストルを奪ったり、米軍基地から真鍮や砲金などを持ち出して売り払う「事件」が各地で頻発し、「レッドパージ」された新聞社の文選工(活版印刷で、原稿に合わせて必要な活字を拾う人)が自分のいた職場に潜り込んで大量の活字を持ち出し、これで「アカハタ」の後継紙を印刷したというような話が手柄話として流布されたりした。

   また、長崎県の佐世保では基地から大量の軍需品を運び出して処分する「トラック隊」が組織され、これがヒントになって「トラック部隊」、正式名称「特殊財政部」が創設された。この「トラック部隊」は、軍事闘争時代の党の裏財政を担っていたと言われており、後に詳しく述べる。

   この方針に基づいて起こされた事件は、派出所や警察官を襲って、拳銃を強奪6件、警察署など襲撃96件、米軍の基地・キャンプ、兵士、車両襲撃13件である。

   昭和27(1952)年2月に秘密裏に開かれた軍事委員会の全国会議の決定や結語が、偽装されたパンフとして配布された。続いて、いろんな偽装の表題をつけた技術的文書、例えば、有名な「球根栽培法」のほかに、「さくら貝」「栄養分析表」「新しいビタミン療法」「理化学辞典」などが発行された。それらには、火炎瓶、時限爆弾、タイヤパンク器、速燃紙(硝化紙のこと。秘密文書などを一瞬にして焼却するための用紙)など、武装行動に必要とされる武器の製造法と保管の仕方を解説したものが含まれている。

   このうち「栄養分析表」「新しいビタミン療法」は、1970年代に連続企業爆破事件を起こした極左暴力集団「東アジア反日武装戦線“狼”」が作った爆弾教本「腹腹時計」でも「参考にした」と紹介されている。これらの「軍事技術」文書の内容は、これまで公表されたことはないし、今後とも公表されることもないであろう。

 

10.警察・検察の極秘調査

  都内の機械メーカーが、ミサイルの製造に必要な機械を北朝鮮に不正輸出していた疑いで、家宅捜査を受け、社長らが逮捕される事件があった。のみならず、北朝鮮が新潟港から出入りする、例の万景号を使い、ミサイル製造の部品の9割を日本から密輸していた事実が分かった。日本国民の多くは、日本を攻撃するミサイルを日本の部品で作るとは何事かと憤慨している。

  実際、北朝鮮が製造しているハイテク武器の部品、とりわけ電子部品の8割以上が日本製で、しかも東京の秋葉原あたりで簡単に手に入るという。日本製の部品で作ったミサイルを日本に打ち込まれたのではたまったものではない、というのが普通の日本人の気持ちだと思う。

  しかし、先に書いたように、敵から手に入れた武器で敵を攻撃するというのが、万国共通の共産主義者の原則なのである。毛沢東は、武器や金は敵から奪えと指示している。「我々は無である。しかし、敵にはある。敵から武器を奪うのは、有無相通ずるという革命の弁証法である」とわけのわからないことを言っている。

  北朝鮮が、金を支払って日本から武器の部品を調達するのは、人間を有無を言わさず拉致する彼らの非人道性からすれば、むしろ「紳士的」なやり方だと言ってもよい。

  どうしてこんなことを書くかと言えば、日本共産党の「軍事闘争」の時代にも、敵から武器や資金を獲得することが行われたからである。しかも「紳士的」とはほど遠いやり方であった。

  前項で、武器の製造方法を記した軍事文書に触れた。それに基づいて、全国各地で、武器の試作が行われた。

  フランス共産党には、「共産主義運動に対する警察史観」という言葉がある。要するに、警察官の目で見た共産主義運動という意味である。

  以前、立花隆が「日本共産党の研究」という日本共産党の戦前史を書いたときに、日本共産党は、「特高史観」であると言って猛反発した。「犬が吠えても歴史は進む」というパンフレットまで発行して「反撃」している。

  それに対して、立花は(1)特高資料を抜きにしては日本共産党史は書けないこと、(2)転向者の話を資料としているのは、戦前の大物指導者が皆転向しているからだと反論した。

  本書の第3章~第4章は、ほとんど警察・検察資料と当時の大物活動家、例えば、元日本共産党東京都委員長・増山太助や軍事委員長・志田重男の右腕だったと言われる渡部富哉(本人は否定)の資料に依拠している。この時代については、日本共産党は一切資料を発表していない。それにこの時代の内容を知る幹部の多くを除名、追放しているため、彼らの話を抜きにしては叙述できないのだ、ということを言っておこう。

  ここに示される「軍事訓練」の資料も、検察庁の「部外秘」の資料の中に埋もれていたものがどうした拍子にか「部外」に流出して、日の目を見ることになったものである。

  こうした資料が公表されるのは、私が知る限りは初めてのことである。日本共産党という組織の実態を物語る非常に貴重な資料であるので、羅列的にはなるが主な部分だけでも紹介したい。

(1) 新型火炎瓶による爆破事件について(昭和28年1月・福岡地検報告)

《日共九州地方委員会では、民戦(在日朝鮮人によって組織された地下軍事組織、民族戦線のこと)の参加のもと、昭和28年1月11日、小倉市内の山中において当時製造された新型火炎瓶による爆破事件を行った。

 同実験に参加した長崎在住の在日朝鮮人某によれば、

 「11日午前10時ころ、小倉市魚町より定期自動車に、人目を避けるため、2班に分かれ約40分ほど走って下車し、相当高い山に登った。元陸軍小倉師団跡の裏山でその頂上と思われる地点で火炎瓶3本ほど実験したがその爆発力の大きさに驚いた。樫の木で直径4メートルの円形の柵を作り、その中に穴を掘って石煉瓦を並べ火炎瓶を投げつけた。爆音とともに石と瓶が柵に飛び散り、柵が倒れた。実験を見ていた同志たちは、これで我々も力強くなった。過去における火炎瓶は威力なく、田川事件も威力のない火炎瓶を使用したため、税務署襲撃に犠牲者を多く出したわりに、効果がなかったが、これからこの火炎瓶を使用すれば、犠牲少なく効果莫大であると欣喜雀躍していた。」

 地検のコメント

 この山は小倉市立山と推定される。使用した火炎瓶の性能は不明であるが、ラムネ弾および火薬類と火炎瓶を組み合わせたような爆発物ではないかと考えられる。》

(2) 祖国防衛隊(在日朝鮮人の共産党党内地下軍事組織)北九州地区隊長会議決定事項について(福岡地検報告)

(イ) 武器(主として拳銃)の早期収集について

田舎の巡査駐在所の巡査に接近して拳銃を奪取すること。方法としては、麻薬を使用して昏睡せしめその隙を狙う。殺傷すると問題が大きくなるので注意すること。

(ロ) ホテル経営者で我々の戦列に加わっている者を利用し、駐留軍兵士の拳銃を購入せしめること。購入資金はその都度カンパし、もしくは県本部より資金の援助を行う。購入地としては小倉市に重点をおき、山口・佐世保市にも手を伸ばす。

(ハ) 北九州祖国防衛隊の編成について(略)

 

11.軍事訓練

  戦闘を始めるには演習が必要である。これを軍事訓練という。日本共産党が戦闘を始めるに当たって行った軍事訓練についてもたくさんの報告があり、以下に各都道府県の地検や県警がまとめたものを紹介する。

  驚いたことに、どの報告書もみな地元住民が警察に通報し、これが端緒になって捜査が開始されているのである。奥深い山の中で軍事訓練をやる。それを山林労働者が目撃して不審に思い、警察に通報する。警察官が駆けつける。

かつて毛沢東は、八路軍は人民の海の中で人民に守られていると、語ったことがある。ところが日本共産党の武装部隊を人民が発見するや、たちまち警察に通報していた。人民に守られているどころか、人民に包囲されていたのである。日本共産党の軍事闘争、武装闘争は、最初から敗北していた。

  いくつかの軍事訓練の様子を見てみよう

(1) 祖国防衛隊の軍事訓練の実施について(京都地検報告)

《祖国防衛隊京都府委員会では、昭和28年1月15日京都府下の祖防隊及び一部日共党員を交えて以下のとおり猟銃による射撃などの軍事訓練を実施している。

1.日時 1月15日午前10時より午後4時まで

2.場所 京都府船井郡胡麻村字保野田アチラ山

3.参加人員 京都市内及び山城地区祖国防衛隊隊員男子40名、女子9名。

4.参集状況

 京都市内方面よりの参加者は1月15日午前7時京都駅発山陰911列車に乗り込み午前8時殿田駅にて下車し、案内役である元民愛青(民青の前進である民主愛国青年同盟)府委員長石桂栄の案内で五ヶ荘村朴方に集合、小憩の後、2隊に分かれ、胡麻村保野田巡査駐在所前を西へアチラ山に登った。

5.訓練の状況

 目撃者 木村字殿田、井尻奈良蔵の話によれば、2隊に分かれた隊員は指導者の号令により、解散・集合・登攀・射撃訓練を行った。号令はいずれも日本語で、「集まれ」「散れ」などの言葉を使用していた。アチラ山中腹にある松の木に北鮮旗をかざし、士気を鼓舞し、猟銃10発ぐらいを発射した。

6.訓練批評会

 午後3時より山麓曹源寺において地元朝鮮人も参加して訓練の批判会を開催した。

7.散会の模様

参加者などは、午後8時55分殿田発915列車で京都に出発の予定のところ、除雪のため約2時間遅れた。石桂栄は代理助役槙原勝蔵に対し、ガソリン・カーの特別運転を強要したが、結局容れられず、約2時間遅れて、殿田を発車し、京都に帰った。

8.現場検証の状況

アチラ山の一帯を検証するに、山麓より山頂までの間の雑草、山肌は相当踏みにじられ、タバコ「光」の空き箱、血液付着の紙片および12番薬莢3個が発見された》

(以下略)

以上紹介した軍事演習は氷山の一角であって、実際には全国でこの何十倍という数の「演習」が行われたに違いない。しかし今となっては闇の中だ。

 

12.軍事資金の強奪

  軍事闘争の展開のためには資金がいる。 

「武器も金も、敵から奪ってこい」というのが、「中核自衛隊の組織と戦術」の3項「武器と資金」で述べられた原則である。

  軍事資金を獲得するため暴力による直接行動に訴えたケース2件と、知能犯的に資金を略奪したケースについて述べる。

(1) 曙事件(甲府地検報告)

これは、昭和27年7月30日夜、山梨県南巨摩郡曙村で、日本共産党の10名の山村工作隊員が、山林地主佐野喜盛宅へ「佐野喜盛を人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と称して、竹やり、棍棒をもって押し入り、就寝中の佐野及び妻、女中、さらには小学生3人をも竹やりで突き刺し、棍棒で殴打し、あるいは荒縄で縛り上げ、頭から冷水を浴びせるなど、暴虐の限りをつくし、また、家財道具、ガラス戸、障子、タンス、金屏風、ふすま、ラジオ、仏壇などを片っ端から叩き壊したうえ、現金4860円と籾一俵を強奪した事件である。

 話はそれるが、中国革命では地主が革命党から襲撃され、当主はもちろん、妻や子供、老人まで家族全員が共産党に惨殺されるというケースが、推定で数十万あったとされている。中国には革命前500万から600万の地主がいたが、革命後ほとんど(肉体的に)絶滅させられてしまった。これが毛沢東の革命である。現在も、数百万の人たちが強制収容所に収容されている。

 

軍事闘争の内容

 日本共産党は、昭和26年に作成した「球根栽培法」で「軍事方針」を示し、「中核自衛隊の組織と戦術」を明らかにした。そして中央の軍事委員会から、各地区に政治委員を派遣して武装逃走の指導にあたらせた。

 おどろおどろしい「武器蜂起の時代」の幕開けである。私のいう「武装蜂起の時代」とは、日本共産党が「軍事方針」に基づいて「軍事闘争」を行った時期のことであるが、最初にその全体像を示しておいた方が理解しやすいと思う。

 

13、血のメーデー事件(昭和27年5月1日)

  昭和26年、日本列島は、「全面講和」「単独講和」で2分され、激しく揺れ動いていた。結局、アメリカとの「単独講和」(実際には48ヶ国と講和条約を締結したが、左翼陣営が反対のために施したネーミング)論が、「全面講和」論を押し切って、9月にはサンフランシスコで講和条約と日米安全保障条約が締結された。

  講和条約が発効し、昭和27年4月には日本は何はともあれ独立することとなった。米国政府占領軍と政府は、朝鮮戦争勃発後に皇居前広場をメーデー会場として使用するのを禁止していたが、昭和27年4月1日、総評がそれまでの占領軍による法令は無効となったとして、皇居前広場の使用許可を求める訴えを起こした。

  東京地裁は4月28日、総評の訴えを認め、不許可処分を取り消すよう命じる判決を下した。メーデー3日前である。

  しかし、政府が直ちに控訴したため、上級審での判決が出ないうちに、メーデーを迎えることになった。メーデーの主催者であった総評などは、無理やり広場に入ろうとすると待機した武装警官との衝突は必至であるから、メーデーを祝うデモ隊は、広場には入らないという申し合わせをしていた。

  ところが、講和条約によって日本は独立し、この独立によって気分の盛り上がったデモ隊の一部が興奮し、広場に突入したために、警官隊と衝突し、流血の惨事を招いた、というのがこれまで流布されていた解釈であった。

  しかし、これは事実ではない。

  実は、この「血のメーデー事件」とは、日本共産党の「軍事方針」に基づいて事前に綿密に計画された「軍事闘争」であった。

  もちろん、警察当局は事件当時から、日本共産党による計画的犯行だと指摘していた。しかしその頃は、左翼的な世論が圧倒的で、警察の一方的な見方であるとして一蹴されていた。事件以後、様々な事実が明らかになり、資料が発掘されて、ようやく真相が判然としてきた。この事件は、ソ連や中国と一体となって北朝鮮が始めた朝鮮戦争を支援するため、日本共産党が企画した朝鮮戦争の後方撹乱戦術である「軍事闘争」の一環であったのである。

  昭和27年5月1日のメーデーを、党の軍事方針に基づく「軍事闘争」を展開する絶好の機会ととらえた日本共産党は、東京都の軍事委員会を中心に、綿密かつ周到な作戦計画を練り上げ、実行に移すことにした。と書くと事態は簡単明瞭だが、実際はもっと複雑であった。

メーデー前日に、東京都の政治ビューローで終日討論した結果、当時の政治情勢、労働運動の状況、国民の意識実態からみて、武装闘争を遂行することは誤りであると、全員の意見が一致した。

  「人民広場には入らないこと」「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示を行うこと」にとどめることにした。ところが、会議の終了後、メンバーの一人であった浜武司が、中央軍事委員会の委員長だった志田重男に直接呼びつけられ、「軍事方針」に基づいて広場に突入せよと指示された。

  党の「軍事方針」がどのように具体化され、実行に移されたかについては必ずしも明らかではない。

  日本共産党内部に潜入させていたスパイ情報によるのであろう、警察、検察は事前に、デモ隊が「軍事闘争」の一環としてメーデーに臨むこと、警察の言葉で言えば「暴徒化」することを掴んでいて、警察側もまた戦闘配置についていた。

  警視庁の事前情報によると、その年の3月29日、東工大の地下食堂に、全学連、祖国防衛隊、民青など日共系先鋭分子44団体75人が青年祖国戦線なる団体の主催で秘密裏に集められ、「反戦権利擁護労働青年全国会議」というものを開いた。

  そして、「人民広場を労働者の実力をもって奪還しよう」と決議し、この決議は全国の日共系先鋭労働組合と各種大衆団体に指令、伝達された。

 

14.戦闘開始

 昭和27年5月1日、皇居前広場の使用を禁止された総評など労働組合は、メーデーの会場を明治神宮外苑に定め、主催者発表で50万人、警察庁発表で15万人が参加して行われた。

  神宮外苑での集会は午前10時30分に始まり、午後0時10分に閉会した。閉会の直前、約200人の共産党党員や学生、日雇い労働者などが中央ステージに殺到して、「人民広場へ行こう」と騒ぎ始めた。議長が説得に努めたが聞き入れず、日共幹部の岩田英一が取りなしてこの場は収まった。

  午後0時20分頃、デモ隊は5つのコースに分かれて行進を始めた。渋谷コースの西部デモ隊、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊、虎の門コースを進んでいた南部デモ隊などがあった。そして中部・南部のデモ隊は日比谷公園で解散することになっていた。デモ隊が行進を始めるや、全学連や朝鮮系の団体が、「人民広場へ行こう」とアジり始めた。これに呼応するように渋谷方面に向かうはずの西部デモ隊のうち学生を主力とする約200人が青山4丁目付近で隊列を離れ、日比谷方面に転進した。日比谷方面に向かうはずの中部デモ隊も、赤坂に差しかかったところで、約5000人の全学連学生たちがデモ隊の先頭を追い越して、口々に「人民広場へ行こう」と叫び始めたので、デモ隊の足並みが乱れた。本来新宿へ向かうはずの北部デモ隊も、新宿へ向かう者と人民広場へ向かう者とに分かれた。

  警察の側も、このような動きをある程度察知しており、周到な計画を立てていた。日比谷交差点、GHQ前、丸ノ内署前に200~300人の警官を配置して、デモ隊を誘導しようとしたが、衆寡敵せず、デモ隊に押されるような形で、デモ隊を皇居前広場へと誘導していった。

  行進のイニシアチブを握っていた都学連や朝鮮人、日雇い労働者の一群は、いったん日比谷野外音楽堂の周辺に集まった。この中にいた民青の一隊が、「人民広場へ行こう」と叫び声を上げたのを合図に、デモ隊はドッと公園の外に溢れ出した。人の流れは馬場先門方面へと殺到し、これが時間とともに膨れ上がっていく。

  馬場先門では約450人の警察官が警備していたが、二重橋へ向かおうとするデモ隊を阻止しようとはせず、なぜか左右に道を開いた。デモ隊の前には、人民広場つまり皇居前広場が広がっていた。車道いっぱいに広がりスクラムを組んで広場に入ったデモ隊は、やがて駆け足に変わっていった。広場への突入に成功したデモ隊は、万歳を三唱し、赤旗を立てた。笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。

  午後2時40分、事態は急変することになる。突如として、警官隊がデモ隊に襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊がデモ隊の先頭に回り込むや否や、全体を二重橋のお堀際に押しつけるように、警棒をふるって殴りかかった。警棒で頭を割られ倒れる者、警官のものすごい形相におびえてたじろぎながら、警棒で滅多打ちにされる者、一瞬にして修羅場と化してしまった。こうして、死者を出す流血騒乱事件が幕を開けた。

 

15.激戦

  当時、日本共産党が発行していた地下の非合法出版物「国民評論」40号、大橋茂「メーデー事件の軍事的教訓」(昭和27年7月1日)は、「戦闘」の模様を次のように描いている(このような文章には当然共産主義者一流の誇張と偏向メガネを通した事実の観察と歪曲が含まれる)。

  「デモ隊はこれを二重橋まで押し返した。『敵と味方』つまりデモ隊と警官隊の間隔は、数メートルしかない状態であった。この対峙した中で、デモ隊から「下がれ」という号令を叫ぶ者があった。デモ隊はうねるようにして下がった。警官隊は前進してきた。するとデモ隊はこれを引きずり込み、プラカードなどで攻撃を加えた。あわてた敵(警官隊)の指揮官は、『警官隊下がれ』と叫ぶ、警官隊が後退する。デモ隊は再び包囲網を狭めた。このような前進と後退が数回繰り返された。そのたびに敵(警官隊)は打撃を受けた。これは全く創意的な戦術であった。

  しかしこの時期は、戦術的には最も重要な時期であった。敵(警官隊)の兵力は約900、味方(デモ隊)の兵力は約5000とみられる。しかも敵は動揺し、味方の士気は高かった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところがこの有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中に対して、味方の体制も密集隊形から変化させることができなかった。

  今一つの味方の弱点は、全体がデモ隊の中に解消し、予備行動のための強固な遊撃隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊に対して備えることができなかった。

  包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害を与えたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この戦闘において味方の弱点は、味方を大きく動員して敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。

  この対峙した中で、デモ隊は敵に対して『お前たちは何しに来たか』『泥棒を捕まえろ』『アメ公の番犬』『どちらが悪いか考えてみろ』『税金つぶし』などと叫んで攻撃し、敵に対する憎しみを爆発させていた。敵が棍棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵の中からも『片っぱしからつかまえろ』『あいつをやれ』などと号令をかけてきた。特に、40歳くらいの頭髪の薄い指揮官が六尺棒をふって大衆をなぐりながら指揮していた。見物の大衆の中から官憲に対して罵声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこのときまで約一時間にわたって、勇敢に戦い抜いたのである。

  このことは、国民武装の可能性を事実によって示した。先遣デモ隊がガス弾、ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつあるとき、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊で『人民広場へ』『仲間を孤立させるな』が大衆の声となった。熱狂した大衆は続々と祝田橋を渡り人民広場に入った。このとき、敵もまた増強しつつあった。まず第6・第7・第3各方面予備隊が桜田門より入り、第1方面予備隊と合流した。

  大衆は再び体制を整え、風上へ風上へと向かいながら2つが1つになり二重橋前に殺到した。これによってデモ隊は第2の勝利を勝ち取った。このとき最も重要な勝機をつかんだ。しかし、誰も大衆に対して何をなすべきか指示することができなかった。

  その結果大きな戦術的な行動を組織する機会を逸したのである。ここで革命的な大会を持ち解散することもできたし、敵を分断して攻撃することもできたのに、逆に味方は守勢に立たされてしまった。

  敵は再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿などを武器にして、敵を引き込んではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を払った。敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回繰り返されたが、いずれも成功しなかった。この包囲を許さなかったのは、デモ隊の勇敢な行動力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。このようにして、敵と味方は押しつ戻りつを繰り返した。

 4時15分頃デモ隊から流れ出た一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い火をつけた。これは人民広場事件の政治的な性格を最も鮮やかに示したものであり、大きな意義のあることであった。乗用車を焼き払った経験はすぐ一般化した。大衆は15名くらいが1組になり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車13両、警察の白バイ1台が焼き払われた。この事件の全体で83両の車両を襲撃している。燃え上がる車両を消化するために、丸ノ内、有楽町、永田町など各消防署から20台の消防車と米国消防隊3台が出動した。しかし、大衆はこれを妨害しほとんど到着させなかった。デモ隊は消防車を破壊し、中崎署長ら10名を叩きのめした。ホースを堀に投げ込み、切断した。

アメリカ帝国主義と吉田茂の一味は、この事件によって新しい敗北をなめた。

これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信をかため、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある」

  日本共産党の地下出版物「組織者」11号(昭和27年6月1日)「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」は、このときの死傷者などについて、こうまとめている。

「警官死亡3名(うち1名は丸の内久保次席)、重症28名、負傷53名、堀へ投げ込まれた者6名、カメラマン1名叩きのめされる。アメリカ兵、水兵2名、GI1名、堀へ投げ込まれる。高級車炎上10台、日比谷…馬場先門…都庁前の建物、軒並みガラス破壊。アメ公大型バス・ガラス破壊(3台)・自由党本部・明治ビル・ガラス破壊。

 デモ隊側 死亡…都庁職員高橋正雄氏、東大1、法大1、を含む5名。負傷者300名」

  なお、警察側の資料によると、メーデー事件の逮捕者は693人、警察官側も832人が負傷(生命危篤8人、重症71人、軽傷753人)した。

  このように、「血のメーデー事件」というのは、日本共産党の「軍事方針」に基づき、事前によく計画された「軍事闘争」なのであった。

  ちなみに、この事件の後始末について、少し書いておきたい

  「この事件のあと、デモ隊員のうち、警察に検挙された者は1232人、そのうち起訴された者は、261人。その内訳は、中核自衛隊員、独立遊撃隊員、山村工作員、当時日本共産党員だった在日朝鮮人の祖国防衛隊員などと、その傘下にあった非党員などによって構成されているが、実際の人数・比率などはわからない。それどころか、日本共産党は、この事件への関与を徹頭徹尾否定している。もちろん、広場への突入軍事作戦も、その存在そのものを否定している。

  裁判は20年7ヶ月争われ、昭和45年1月4日、結審した。第一審での判決では、無罪271人。有罪117人。そして、全員が控訴して、第2審では、騒擾罪の成立が全面的に否定され、16人が公務執行妨害罪などで有罪とされた」

どうしてこのような大事件に騒擾罪が適用されなかったのかは後に触れる。(以下次号)