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 次代を担う大切な子ども達のために

活 動 報 告report

 日本共産党の戦後秘史(その4)      平成29年7月16日 作成 五月女 菊夫


第1章 日本共産党戦前史(その1)

1.歪んだ生い立ち

2.2つのテーゼ

3.大量転向

4.獄中18年

5.精神主義という刻印

6.地球上で最後のスターリン主義の党

第2章「唯我独尊」の原点(その2)

1.臨時再建本部「自立会」

2.宮本顕治の不満

3.野坂参三という異物

4.革命幻想

5.戦後も引き継がれた天皇制の認識

6.誰が日本の権力を握っていたか

7.代行された民主主義革命

8.支持者拡大のピークは「食糧メーデー」

9.革命前夜を思わせた「2.1ゼネスト」 

10.冷戦の巨浪が押し寄せる

11.9月「革命」説

12.先鋭化する徳田球一と宮本の対立

13.党史に記せない闇

第3章 武装蜂起の時代(その3)

1.「50年問題」

2.朝鮮戦争の一部だった日共の軍事闘争

3.軍事闘争を受け入れた素地

4.ソ連、中国の批判に慌てるだけの指導者たち

5.権力闘争に発展した徳田と宮本の対立

6.軍事部門の組織化進む

7.軍事闘争・武装蜂起に号砲

8.「平和のための武装」の笑止千万

9.武器や資金を狙って警察や米軍を襲撃

10.警察・検察の極秘調査

11.軍事訓練

12.軍事資金の強奪

13.血のメーデー事件(昭和27年5月1日)

14.戦闘開始

15.激戦

日本共産党の地下出版物「組織者」11号(昭和27年6月1日)「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」は、このときの死傷者などについて、こうまとめている。

「警官死亡3名、重症28名、負傷53名、堀へ投げ込まれた者6名、カメラマン1名叩きのめされる。アメリカ兵水兵2名、堀へ投げ込まれる。高級車炎上10台、日比谷…馬場先門…都庁前の建物、軒並みガラス破壊。アメ公大型バス・ガラス破壊(3台)・自由党本部・明治ビル・ガラス破壊。

 デモ隊側 死亡…都庁職員高橋正雄氏、東大1、法大1、を含む5名。負傷者300名」

  なお、警察側の資料によると、メーデー事件の逮捕者は693人、警察官側も832人が負傷(生命危篤8人、重症71人、軽傷753人)した。

また当時、日本共産党が発行していた地下の非合法出版物「国民評論」40号、大橋茂「メーデー事件の軍事的教訓」(昭和27年7月1日)は、「戦闘」の模様を次のように描いている(このような文章には当然共産主義者一流の誇張と偏向メガネを通した事実の観察と歪曲が含まれる)。

  「デモ隊はこれを二重橋まで押し返した。『敵と味方』つまりデモ隊と警官隊の間隔は、数メートルしかない状態であった。この対峙した中で、デモ隊から「下がれ」という号令を叫ぶ者があった。デモ隊はうねるようにして下がった。警官隊は前進してきた。するとデモ隊はこれを引きずり込み、プラカードなどで攻撃を加えた。あわてた敵(警官隊)の指揮官は、『警官隊下がれ』と叫ぶ、警官隊が後退する。デモ隊は再び包囲網を狭めた。このような前進と後退が数回繰り返された。そのたびに敵(警官隊)は打撃を受けた。これは全く創意的な戦術であった。

  しかしこの時期は、戦術的には最も重要な時期であった。敵(警官隊)の兵力は約900、味方(デモ隊)の兵力は約5000とみられる。しかも敵は動揺し、味方の士気は高かった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところがこの有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中に対して、味方の体制も密集隊形から変化させることができなかった。

  今一つの味方の弱点は、全体がデモ隊の中に解消し、予備行動のための強固な遊撃隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊に対して備えることができなかった。

  包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害を与えたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この戦闘において味方の弱点は、味方を大きく動員して敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。

  この対峙した中で、デモ隊は敵に対して『お前たちは何しに来たか』『泥棒を捕まえろ』『アメ公の番犬』『どちらが悪いか考えてみろ』『税金つぶし』などと叫んで攻撃し、敵に対する憎しみを爆発させていた。敵が棍棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵の中からも『片っぱしからつかまえろ』『あいつをやれ』などと号令をかけてきた。特に、40歳くらいの頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆を殴りながら指揮していた。見物の大衆の中から官憲に対して罵声や石つぶてが飛んできた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこのときまで約1時間にわたって、勇敢に戦い抜いたのである。

  このことは、国民武装の可能性を事実によって示した。先遣デモ隊がガス弾、ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつあるとき、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊で『人民広場へ』『仲間を孤立させるな』が大衆の声となった。熱狂した大衆は続々と祝田橋を渡り人民広場に入った。このとき、敵もまた増強しつつあった。まず第6・第7・第3各方面予備隊が桜田門より入り、第1方面予備隊と合流した。

  大衆は再び体制を整え、風上へ風上へと向かいながら2つが1つになり二重橋前に殺到した。これによってデモ隊は第2の勝利を勝ち取った。このとき最も重要な勝機をつかんだ。しかし、誰も大衆に対して何をなすべきか指示することができなかった。

  その結果大きな戦術的な行動を組織する機会を逸したのである。ここで革命的な大会を持ち解散することもできたし、敵を分断して攻撃することもできたのに、逆に味方は守勢に立たされてしまった。

  敵は再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿などを武器にして、敵を引き込んではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を払った。敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回繰り返されたが、いずれも成功しなかった。この包囲を許さなかったのは、デモ隊の勇敢な行動力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。このようにして、敵と味方は押しつ戻りつを繰り返した。

 16時15分頃デモ隊から流れ出た一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い火をつけた。これは人民広場事件の政治的な性格を最も鮮やかに示したものであり、大きな意義のあることであった。乗用車を焼き払った経験はすぐ一般化した。大衆は15名くらいが1組になり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車13両、警察の白バイ1台が焼き払われた。この事件の全体で83両の車両を襲撃している。燃え上がる車両を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町など各消防署から20台の消防車と米国消防隊3台が出動した。しかし、大衆はこれを妨害しほとんど到着させなかった。デモ隊は消防車を破壊し、中崎署長ら10名を叩きのめした。ホースを堀に投げ込み、切断した。

アメリカ帝国主義と吉田茂の一味は、この事件によって新しい敗北をなめた。

これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信をかため、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある」

 

このように、「血のメーデー事件」というのは、日本共産党の「軍事方針」に基づき、事前によく計画された「軍事闘争」なのであった。ちなみに、この事件の後始末について、少し書いておきたい

  「この事件のあと、デモ隊員のうち、警察に検挙された者は1232人、そのうち起訴された者は、261人。その内訳は、中核自衛隊員、独立遊撃隊員、山村工作員、当時日本共産党員だった在日朝鮮人の祖国防衛隊員などと、その傘下にあった非党員などによって構成されているが、実際の人数・比率などはわからない。それどころか、日本共産党は、この事件への関与を徹頭徹尾否定している。もちろん、広場への突入軍事作戦も、その存在そのものを否定している。

  裁判は20年7ヶ月争われ、昭和45年1月4日、結審した。第一審での判決では、無罪271人。有罪117人。そして、全員が控訴して、第2審では、騒擾罪の成立が全面的に否定され、16人が公務執行妨害罪などで有罪とされた」

どうしてこのような大事件に騒擾罪が適用されなかったのかはのちに触れる。(前回ここまで)

 

16.吹田・枚方(ひらかた)事件

  この「血のメーデー事件」(昭和27年5月1日)直後の6月24日、大阪で起こったのが「吹田・枚方事件」である。

  吹田市には、戦前から吹田操車場と言われる東洋一の国鉄の操車場があった。これは、日露戦争以来、相次ぐ軍備増強の中で発達した兵器や軍需物資の輸送、物流の基地であり、全国から兵器や軍需物資を集めては送り出す中心となっていた。また、大阪城の近くに陸軍の兵器工場である大阪造兵工廠があり、その支部が枚方市にあって砲弾と火薬を作っていた。もちろん、敗戦によって閉鎖されていたが、朝鮮戦争で息を吹き返し、軍の工場として復活しつつあった。

  この吹田操車場と枚方の軍需施設を襲撃して、米軍をその後方基地である日本で撹乱し、朝鮮戦争における共産軍を支援しようというのがこの闘争のねらいであった。

  「吹田・枚方事件」について、大阪に脇田憲一という熱心な研究者がいる。脇田は、17歳(高校2年生))のとき、日本共産党の「軍事闘争」である枚方事件に参加した早熟の「革命家」であり、現在もこの闘争は「正しかった」と主張する猛者である。脇田は既に「吹田・枚方事件」に関する研究書を執筆し、上梓している。

  この自伝的回想録を兼ねた「朝鮮戦争と吹田・枚方事件――戦後史の空白を埋める」は、「吹田・枚方事件」の最も詳しく、かつ信頼のおける研究書である。

  脇田からもらった資料や、実際に会って聞いた話を元にこの原稿を書いているが、ここで述べる事件に対する判断は、もちろん筆者自身のものである。

  まず、事件の概要を述べておこう。

  これは脇田が入手した、検察研究特別資料第14号「吹田・枚方事件について」による。脇田は、自分が事件を要約するよりも、「権力側がこの事件をどうとらえたかを読者に紹介する方が、最もリアルにこの事件を伝えることになる」と述べている。以下は、この検察資料による。

「講和条約発効後、治安関係諸法規の空白を利して、日共が5全共で打ち出した軍事方針にのっとり、5・1メーデー事件以来急激に集団的・組織的実力闘争が展開された。

昭和27年5月30日には、大阪市北区扇町公園における5・30記念日行事総決起大会後、朝鮮人が場内デモを行い、出動した警備警察官に対して投石暴行し、38名が公務執行妨害罪で検挙される事件が発生し、さらに6月18日大阪に北区中之島中央公会堂における国民総決起大会後、朝鮮人・学生約500名が大阪駅に向けて無届デモを敢行し、大阪駅前において、出動した警備警察官に対して投石するなどの暴行に出で、7名が公務執行妨害罪などで検挙される事件が発生した。

かような情勢下において、朝鮮動乱勃発2周年記念日を迎えるに至り、ついに、日共軍事闘争の最頂点を示した6.25吹田騒擾事件の発生を見るに至ったのである。

 昭和27年6月24日夜、豊中市待兼山阪大北校グランドにおいて行われた6.25記念日前夜祭終了後、約800名の参加者は、いわゆる山越え部隊と電車部隊とに分かれて行動を起こし、翌25日早暁、吹田操車場を望む大阪府三島郡山田村下で合流して、警備警察官の警備線を突破し、吹田操車場に突入して場内デモを行い、同所より脱出後、吹田市内をデモ行進し、その間、駐留軍将校乗用車、警察官満載の輸送車、吹田市警察派出所3か所を襲撃し、吹田駅構内においても検挙警察官に反撃を加え、吹田市内を恐怖のルツボに落とし込んだ」

 

日本共産党の「軍事闘争」は、何度も述べてきたように、朝鮮戦争の米軍後方基地となっていた日本での撹乱作戦として実施されたものであるが、とりわけ、この「吹田・枚方事件」は、参加人員約3000名のうち約半数が、朝鮮戦争を共産側に立って最も積極的に支援した在日朝鮮人であり、いわゆる「祖国防衛隊員」によって構成されていた。その政治的な目的意識が明確であっただけに、極めて戦闘的であり「過激」であった。

 この事件では、約250人が逮捕され、111人が騒擾罪、威力業務妨害罪で起訴された。そして、20年の長きにわたる裁判の結果、騒擾罪は無罪、威力業務妨害罪は有罪となった。

 この「吹田・枚方事件」についての歴史的評価を、警察や裁判所にゆだねる必要はない。この闘争に参加した脇田憲一の意見を批判する形を借りて、筆者自身の意見を述べてみよう。

脇田は、この闘争を軍事基地反対、占領軍駐留反対、軍需品製造反対、軍需輸送反対の基本方針を前面に押し出しての反戦、反米の実力闘争であったと特徴づけている。

  一方で、これらの武力闘争について、警察庁作成にかかる資料を見ても、「その計画性において、規模において、武装において、意識において(他の事件とは)格段の相違があり、武力闘争の新時期を画したものである」となかば称賛しているかのように書いている。しかし、脇田が手放しで絶賛しているかというとそうではなく、「私は反戦平和運動における武装闘争を全面的に肯定しているわけではありません。戦争に反対すること、平和を願う立場から民衆が自分たちの身を守る武装闘争は、やむにやまれぬ抵抗手段として、その正当性を歴史は審判しています。吹田・枚方事件の武装闘争はやむにやまれぬ抵抗闘争であり、正当な権利行使であったと私は確信します」と述べている。

 この脇田の立場は、筆者には誤った歴史認識を前提にしているように思われる。

  1つは、朝鮮戦争は北朝鮮の金日成がスターリンや毛沢東の同意と支持を受けて始めた朝鮮半島の武力統一、赤化統一の方針に基づく侵略であり、内戦であったことを理解していないこと。これは、今日ソ連の崩壊によって公開された秘密公文書によって、ほとんど完璧に証明されている。もう1つ引っかかるのは、朝鮮半島で、共産主義が勝利したならば、朝鮮人民は解放され、平和と民主主義、社会進歩が保証され、豊かで幸福な生活を送ることになったであろうという途方もない前提にいまだに立っていることである。

逆なのである。もし、毛沢東が送った100万人の中国義勇兵とソ連の空軍が朝鮮半島を制圧したならば、すべての朝鮮人は、現在の北朝鮮人と同様、飢餓にさらされ、国全体が強制収容所となり、奈落の底であえいでいたことだろう。

  こういうことは、結果論であり、後知恵にすぎない。だが、後になって事の真相がわかるのが歴史というものだ。

 

 

17.大須事件

中華人民共和国北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党帆足計改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、昭和27(1952)年7月6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。

昭和27(1952)年7月7日当日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の大須球場名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。

午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたと認定した。

18.中国では軍事訓練も

中国の北京に日本共産党の「国外指導部」である「徳田球一機関」が設立されて日本共産党の事実上の指導部となり、ここから日本の「臨時中央委員会」へ指令が伝えられることになる。

  北京にはこのほか、「北京機関」とか「軍事学院」と呼ばれる秘密の組織もあった。北京の「徳田球一機関」は、天安門を東西に走る長安街の西の北側にあった。「徳田球一機関」は、徳田球一、野坂参三、西沢隆二らが中心になって動かしており、昭和26(1951)年の秋、伊藤律が加わると、非公然組織の地下放送「自由日本放送」を通じて、日本共産党国内に対する政治的煽動が始まった。レッドパージでNHKを追放された藤井完次が、伊藤の指導の下に放送業務にあたった。

  「自由日本放送」が日本向けに最初に電波を流したのは、昭和27(1952)年の「血のメーデー事件」の夜で、日本共産党のメーデースローガンや世界労連のメッセージなどを放送した。

  昭和27(1952)年5月2日の「朝日新聞」には、「5月1日夜から、『自由日本共産党放送』という共産系の日本語放送が開始された。放送局の所在は不明」という記事が出ている。

  「北京機関」の構成員は、1500人から2000人と言われるが、その多くは当時まだ中国の東北地区(満洲)に残留していた旧日本軍の兵士の中から選抜された。彼らは、中国共産党の幹部から、「日本革命と中国革命は一体のものである」と説得された。「北京機関」は、有名な盧溝橋を渡って数キロ行ったところにあった。これは学校であって校長は高倉輝であり、「マルクス・レーニン学院」とか「人民大学」とか呼ぶ人もいた。この学校には、後に参議院議員になった立木洋とか、講師に招かれた榊利夫がいた。

  最初は、中国に残留していた若い日本兵から選抜されたが、後には、日本共産党からそれに適した若者が招かれて軍事教練を受けた。

  筆者が中国製「人民軍」に参加した人物に直接聞いた話では、軍事教練の内容はピストルやライフル銃が中心であり、せいぜいは軽機関銃までで、重火器の操作については習わなかったという。

  増山によると、日本共産党東京都委員会の財政部にいた小松豊吉は、「軍事闘争」の責任を問われ、中国へ人質として送られていたが、「日本から中国へ密航してきた青年たちを『日本人民軍』に編成して海岸で上陸作戦の訓練をしていた」その現場を目撃したと語ったという。

  増山は、「このことは、内地での『独立遊撃隊から人民軍への発展』を目指した『軍事方針』とは別に、中国の地で何者かが「日本人民軍」を作ろうとしていたことを実証するものであり、重大な証言と言わなければならない」と書いている。

  日本共産党は、当時北京に日本革命の戦闘司令部を設置し、青年たちに革命教育と軍事教練を施し、北京から革命放送を行なって、日本の労働者に革命を宣伝、煽動し、あわよくば日本への上陸も考えていたのである。

 

19.武装闘争の終焉

   しかし、日本における「武装闘争」は、国民の厳しい非難を巻き起こしただけで、何ら見るべき成果はなかった。

   昭和28(1953)年7月、朝鮮休戦協定が板門店で調印され、戦火は止んだ。そして同年10月、病を患っていた徳田球一が亡くなった(59才)。

   このようにして、日本共産党の「武装蜂起」は、日本国民の支持を得られなかったどころか、猛反発を食らい、昭和27年の第25回総選挙での共産党の当選者は前回の35人からゼロへと転落した。後に宮本顕治が、「反共風土」と呼んで嘆いた日本の政治的土壌は他でもない、自らの革命的、いや犯罪的愚行がもたらしたものであった。

   これらの人たちが日本へ帰国するのは、中国からの最後の引き上げ船白山丸が、昭和33年4月から7月にかけて天津―舞鶴の間を往復したときである。その引揚者数2153人、その7割が「学校」関係者であったという。

「共産主義に対する警察史観」に基づいて「武装蜂起」を検討してみることにする。

   「血のメーデー事件」「大須事件」「吹田・枚方事件」のいわゆる「3大騒乱事件」は既に述べたように、党の「軍事方針」に基づいた歴とした「軍事闘争」であった。

   これは、騒擾罪に問われて当然の事件であったが、騒擾罪に問われたのは、名古屋の「大須事件」のみであった。日本共産党は、党員弁護士を総動員して、軍事方針の隠蔽に成功した。そして、その罪はすべて下部の党員に押しつけた。

   「51年綱領」で暴力革命の軍事方針を定め、米日「反動政府」の転覆をはかったことは、「内乱罪」に問われてしかるべき事態であったが、司法当局はそのような問題意識さえ示さなかった。

   昭和21年1月、内務省とりわけ特高警察の役人たちの公職追放が行われた。昭和25年10月になって追放解除があったが、警察は意気阻喪していた。警察官は慣れない「民主警察」にとまどい、日本共産党を「弾圧」するどころではなかったのである。

20.成功するはずもなかった「武装蜂起」

  野坂参三が戦後唱えた「愛される共産党」いわゆる平和革命論は、コミンフォルムの批判とこれに飛びついた志賀義雄、宮本顕治らの指導部揺さぶりによってあっけなく撤回され、日本共産党は「武装蜂起の時代」へと突き進んだ。

  マルクス・レーニン主義という理論は、もともと暴力革命と暴力的独裁の学説であり、それに沿って全世界で数々の革命を成功させ、世界を震撼させたのである。

  宮本は昭和25年に雑誌「前衛」で発表した「コミンフォルム『論評』の積極的意義」の中で、レーニンが革命の平和的発展について、「歴史上極めて稀な、極めて価値ある可能性、例外的に稀な可能性」に触れたことに言及しながら、しかし、「ロシア革命を歴史的に類推して、日本革命の『平和的発展』を類推することは、根本的な誤りとなる」と野坂理論つまり平和革命論を一刀両断に切って捨てている。

  「資本主義社会を、平和的かつ民主的に『根底から転覆させる』ことなどできるわけがない。だから、宮本の主張は、彼の好きな言葉で言うと『原則的に正しい』」。

  レーニンは革命戦術については、極めて慎重な人物であり、この問題に思考を集中させた。彼は「革命的情勢に関する学説」を注意深く練り上げた。

  レーニンは、「人民革命は、ある政党が勝手に行える事業ではない。人民大衆は、彼らの生活の客観的条件によって生まれる根深い原因に影響されて、闘争に立ち上がるものであり、資本主義の歩みそのものが人民を革命に向かって駆り立てる」と説いた。

  革命を「つくり出す」ことはできない。革命は、客観的に成熟した、革命的情勢と呼ばれる危機から成長してくるものである。革命的情勢なしには革命は不可能であり、どんな革命的情勢でも革命をもたらすとは限らない。では「一般的に言って、革命的情勢とはどんなものであろうか」と問い、つぎの3つの指標を挙げている。

(1)  支配階級にとっては、今まで通りの形で、その支配を維持することが不可能なこと。「上層」のあれこれの危機、支配階級の政策の危機が割れ目を作り出し、そこから、被抑圧階級の不満と憤激がほとばしり出ること。革命が到来するためには、普通「下層」がこれまで通りに生活することを「望まない」だけではなく、さらに「上層」がこれまで通り生活していくことが「できない」ことが必要である。

(2)  被抑圧階級の欠乏と困窮が普通以上に激化すること。

(3)  これらの原因によって、大衆の活動性が著しく高まること。大衆は、嵐の時代には、危機の情勢によっても、また「上層」そのものによっても、自主的な歴史的行動に引き入れられる。

個々のグループや党の意思ばかりでなく、個々の階級の意思から独立した、これらの客観的な変化がなければ、革命は、原則として、不可能である。

 

  このようなレーニンの指標に照らせば、日本共産党の「武装蜂起」は、最初から失敗が運命づけられていたと言わなければならない。

  戦争に敗れて国は疲弊し、国民生活は困窮、混乱の極にあったし、東西冷戦は、朝鮮半島で発火しつつあった。しかし、国民は戦争に倦みつかれ、国中に厭戦気分が充満していた。戦争はもちろん、ましてや革命的国内戦を受け入れる余地は、まったくなかった。

  外国の共産党指導者(スターリンや毛沢東)にそそのかされたからといって、日本「人民」が、革命に立ち上がる情勢ではなかった。

  かくして「武装蜂起」は、失敗に終わった。全国いたるところに、労働者、青年学生の累々たる屍が横たわり、敗北した「革命家」たちが次々と刑務所へ送られていった。増山によれば、この「革命家」たちの刑期を累計すると、1千年とも1万年とも言われる。

 

21.無責任な指導者たち

  宮本顕治一派の「50年問題」、徳田・野坂主流派の言う「軍事闘争」、この分裂した2つのネーミングをまとめて、私は「武装蜂起の時代」と特徴づけているのだが、この時代を通覧して一番驚くのは、日本共産党という政党の指導者の無責任さである。スターリンの指揮棒に踊らされて、日本国民は言うに及ばず、下部の党員を奈落の底に突き落としながら、誰一人として責任を取ったものがいない。日本共産党こそ、丸山真男言うところの『無責任の体系』そのものであった。

  責任を取らなかったばかりでない。日本共産党自身が、党史に「党史上最大の誤りであり、悲劇であった」と書かねばならなかったような事態について、党規約前文に謳った「党は、その実践を『総括』して、党の政策と方針を検証し、発展させる」という態度で本格的な「総括」をしたことが一度もない。

  筆者は、武装蜂起に最も責任を負うべき人間の一人は、宮本だと考えている。コミンフォルムの日本共産党批判に飛びつき、徳田指導部を揺さぶり党を分裂させたうえ、暴力革命路線に水門を開き日本共産党を「武装蜂起の道」に引きずり込んだ張本人は、志賀義雄と並んで宮本であった。

 

22.スターリンの死と朝鮮戦争の終結

  昭和26年6月、朝鮮戦争は38度線近くで膠着状態に陥った。「スターリン秘録」によれば、アメリカの外交官ジョージ・ケナンとソ連国連代表ヤコフ・マリクとの間で非公式接触があって、にわかに和平機運が広がり始め、7月には休戦交渉が始まった。

アメリカとの第3次世界大戦が不可避だと考えていたスターリンにとっては、時間稼ぎのために膠着状態が長引いた方が好都合であった。そもそも、アメリカをこの戦争で消耗させる目的もあった。米、中を戦わせることで中国をソ連に深く依存させるため、朝鮮と中国が休戦を懇請したにもかかわらず、容易に休戦協定に応じようとはしなかった。

しかし、昭和28年3月にスターリンが死去すると、急速に戦争は終結に向かった。この年の7月27日、板門店で休戦協定が調印された。それにタイミングを合わすかのように、日本共産党書記長の徳田球一が約2カ月半後の10月14日、北京で客死した。

  近年になって、不破哲三は、「日本共産党に対する干渉と内通の記録」という著作において、終戦直後から、この朝鮮戦争の時期に至るまでの期間に、宮本顕治を除く日本共産党のほとんどの大幹部、野坂参三、志賀義雄、袴田里見らがソ連共産党の手先となり、活動資金を支給され、ソ連共産党の指示に従って活動していた経緯を詳しく暴露している。

  筆者は寡聞にして、これほど破廉恥な政治的文書を知らない。党派を問わずである。

  日本共産党は、戦前から「ソ連の手先」「売国奴」「民族の裏切り者」として、政府のみならず国民からも厳しく糾弾されてきた。

  不破のこの著作は、戦前だけでなく戦後も最近に至るまで、日本共産党の指導部がソ連に買収され、その手先として活動してきた事実を自ら実証する極めて重大な証言と言わなくてはならない。

  野坂、志賀、袴田らが、ソ連共産党から得た巨額の資金を個人的に着服し、私腹を肥やしていたという事実はないはずである。それらの資金は日本共産党の財政に繰り込まれ、党の活動資金として使われていたことは明白で、そうだとすれば、これは、日本共産党が党として受け取ったと考えるべき性質のものであろう。

  不破の著作が、野坂参三らが後に除名されているから現在の党とはかかわりがないという趣旨だとして、党として恥ずべき歴史であることには変わりなく、喜々として暴露する不破の政治的感覚もまた異常と言うべきだろう。

  これが事実だとすれば日本共産党は、このような人物を長年にわたって党の幹部にいただいて指導を受けてきたことの不明を国民の前に深く謝罪すべきであろう。

  不破はこの著作の中で、「50年問題」、私の言う「武装蜂起の時代」について、スターリンや毛沢東らによる大国主義的な「干渉」だと描いている。

しかし、これは違う。

  スターリンが、武装蜂起の指令である「51年綱領」を日本共産党に与え、決起を促したことは、「干渉」などという言葉で表現される事態ではない。

  自国の政府を武力で転覆せよという指示に従い、外国(中国)に基地を設け、放送局までつくって宣伝・煽動放送を行い、青年たちに軍事教練を施し、山岳地帯に軍事拠点をつくらせ、警察や税務署を襲撃し、皇居前の広場を血で染め、交通期間を襲撃し、列車の運行を妨害したのである。外国からの指令、指示に盲従、屈従して、ここまで破壊活動をしておいて、「干渉」を受けたでは済まされない。

  我が国の長い歴史の中で、外国の指導者(スターリン)の指揮棒に振り回され、彼らの政策遂行の道具として、自国政府の転覆を図った政党は日本共産党以外にはない。

  朝鮮戦争は、終結し、戦火が止んだ。

  もはや、後方撹乱の必要もなくなった。このようにして、「武装蜂起」も終結に向かうのである。

 

23.検証「内ゲバ」

  来栖宗孝の論文、「日本共産党の『50年問題』と党内抗争」によると、総点検運動は大きく2次に分かれて行われ、第1次は、昭和28年1月~6月の間、スパイ、規律違反、金銭不正の摘発の名目で、『反対者』を追及し、党員269人を処分した。さらに、昭和28年12月~29年5月の間には、第2次総点検運動が過酷非情に強行され、1200人の党員が処分された。

  この総点検運動において、「スパイ査問」の名を借りたリンチやテロが仮借なく行われ、軍事闘争への参加を命じられた党員の悲惨な境遇、除名、脱党はまだしも、堕落生活への沈淪、自殺者、発狂者が多数出て、癒すことのできないような深いトラウマを党員と党組織に残した。

  来栖は、その具体的な事例として昭和26年2月、東大細胞のキャップである戸塚秀雄、都学連委員長の高沢寅雄、不破哲三らに対して、武井輝夫、力石定一、安藤仁兵衛らが主役となって行われた「査問」についてこう書いている。

  「査問は、まず、何人かの細胞員学生が殴りつけ両手を縛り、ついには焼け火箸を持ち出してくるという凄惨な状況が展開された。この査問は、証拠を挙げて追及するという事実に基づくものではなく、暴力を加えて「スパイ」であることを自供させようとするもので、戦前特高がやったのと同じやり方で自分たちがやったのである」

  この「査問」は、後で不破ら3人のアリバイが立証されて放免されているが、昭和27年6月に京都で開かれた全学連第5回大会では、国際派学生が、京都府委員会の指導する「軍団組織」から「査問」を受け、立命館大学の地下室に一括して監禁される事件があった。

  「それは『査問』などというものではなく、殴る蹴るのリンチによる、「自己批判」と「帝国主義のスパイ」であるとの自白の強要であった。多数の者が、交代で革バンドで殴る、焼きゴテを胸に押しつける、それでもだめなら鉄棒で殴るなどという残虐なリンチを加えた。」

  筆者が学生だった頃、京都大学の大学院は、「50年問題」で満身創痍となり、方法の体で逃げ帰ってきた学生でいっぱいだった。「京都大学新聞」には表面も裏面も共産党の悪口を書いた記事が満載されていた。

  「50年問題」の後、党から除名され、離党した党員が集まり、全国の同志を糾合し、共産主義労働党が結成された。これがまた、離合集散して分解していって各派の「過激派」グループが結成された。

  後に「新左翼」と言われた「過激派」が繰り返した陰惨な「内ゲバ」も、大きな目で見れば、日本共産党の戦前、戦後のリンチとテロの歴史的系譜につながるものであり、党内テロリズムの延長線上にある。日本共産党の外で行われたという点から見れば、「場外乱闘」のようなものであろう。

  日本共産党の歴史を研究するとき、諸文献において、「査問」とかそれに伴うリンチとテロが、共産主義運動における一種の逸脱行為、脱線として描かれているのをよく見かける。

  しかし、査問やリンチは、共産主義とは、双子の兄弟もっと言えば生まれながらに2人の体が合体しているシャム双生児のように、分かちがたい関係にある。世界の共産主義運動を研究すれば、査問やリンチの歴史のない共産党というものはどこにもない。

  共産主義運動の創始者であるレーニンは、1920年に定めた「コミンテルン加入の21ヶ条」の14項で、「すべての国の共産党は、不可避的に党に入り込んでくる小ブルジョア分子を党から系統的に清掃するため、党組織の人的構成の定期的粛清を行わなければならない」と定めた。

 これである。

  つまり、いやしくも共産党を名乗る政党は、不断に入ってくる階級的異分子を党から排除するために、絶えず党を粛清することによって党を清めなくてはならないのである。

  これが、共産党において査問が常態化する理由である。

  現代の刑事訴訟法には「事実の認定は証拠による」とあるが、共産党の「査問」においては、中世の糾問手続きと同様に「自白は、証拠の王」である。

  「査問」では、最初から結論が決まっているのであるから自白しなければ拷問して自白を引き出すよりほかはない。

  スターリンは1930年代、大粛清を行い、推定1000万~2000万人の労働者や農民を強制収容所に送り込み、そこで殺した。毛沢東も、「文化大革命」を発動して、約1000万の中国人を殺害した。これは、スケールの大きな国家規模での「査問」とリンチだった。この点を理解しなければ、これらの大悲劇を理解できない。

 

ここで普段よく使われる用語についての歴史的な定義を整理しておきたい。

1.保守主義はフランス革命によって誕生

  共産主義を知ろうとするなら、共産主義は社会主義を源流として誕生しているので、社会主義や保守主義の歴史を知らなければならない。

社会主義とは、資本主義体制批判の思想であり、特に生産手段の社会的共有・管理などによって平等な社会を実現しようとする思想・運動の総称である。

保守主義とは何か。その原型は、イギリスに見ることができる。

英政治家ヒュー・セシル(1869~1956)は「保守主義を産み落としたのはフランス革命だった」と、保守主義はフランス革命によって覚醒し、再確認された考え方であると述べる。

  フランス革命(1789年)が勃発した翌年、イギリス下院議員のエドマンド・バークは、フランス革命批判の演説を行う。この日が一般に「近代保守主義の誕生した日」と言われる。バークは「保守主義の父」とも言われ、

「たとえ変更を加えるとしても、それは保守するためでなければなりません」と、イギリスの歴史をもとに保守主義の理論を打ち出した。社会は革命でなく改革または進化によって変えるべきと説く。

イギリスでは国家誕生と同時に保守主義が現れ、保守主義は英国の歴史において絶えることなく存在し続けたという。例えば、ジョン王の権限を制限した1215年のマグナ・カルタは、新たな法を制定したのでなく、古来より継承されてきた慣習を文書で確認したものであるとみる。

「我々の自由は、祖先から発して我々に至り、子孫にまで伝えられるべき相続財産」」ととらえている。これがイギリスの保守主義であり、法の支配の原型である。

  保守主義は、フランス革命のアンチテーゼとして誕生し、その後、政党政治の一翼を担っていくことになる。セシルは「保守主義はジャコバン主義(フランス革命当時の左派の政治団体による恐怖政治)を阻止するために立ち上がったのであって、社会主義者の諸提案を一つ一つそれぞれの価値において考察することを妨げるものは何もない」と述べているように、保守主義は社会主義のすべてに反対しているのでない。社会の改良にジャコバン主義や革命という手段を用いることに反対しているのであって、改良自体については社会主義者の考え方と共通点があるという視点である。保守主義を理解するには、フランス革命や、社会主義、共産主義など対立する思想を知る必要がある。

 

2.社会主義の起源はフランス革命

「社会主義的な思想の起源は、フランス革命にある」

と一般に言われるように、社会主義もまたフランス革命によって誕生する一方、保守主義はフランス革命のアンチテーゼとして誕生したが、社会主義誕生と保守主義誕生の意味は全く違う。

ここでは、社会主義の歴史を駆け足で辿ってみる。

17世紀後半から18世紀のヨーロッパでは、王権は神から賦与されたという王権神授説に代わり、人間の権利を守る自然法の考え方や君主の支配権は国民との契約によって認められたものとする社会契約説が台頭する。啓蒙思想の幕開けであり、ヨーロッパにおける近代の始まりである。

 フランス革命により絶対王政から共和制へと移行し、ルイ16世やマリーアントワネットは断頭台の露と消える。ジャコバン派を先導したロベスピエールは、ルソーの社会契約論に親しみ、貧しい人民こそ無私の徳性の体現者であり、徳性の支配する共和国を生み出すのは革命である、そのために対立する相手を粛正することは徳性の発露であり、それは肯定されると考え、実行した。ジャコバン派内のバブーフは、友愛の精神で結ばれた平等社会を提唱し、その実現のためにロベスピエールの独裁は、人民の意思を先取りした指導者の独裁であると支持した。このバブーフの思想は、全体主義的社会主義の先駆けと言われる、革命思想の原型でもある。

 フランス革命は、近代立憲主義の幕開けという人類の歴史にとって輝かしい側面と、その実現の手段の革命や粛清、独裁政治が行われたといった負の側面の両面を持っている。

 他方、1900年イギリス労働党の結成にフェビアン協会員(=革命でなく当初から民主主義的に社会主義を実現しようと提唱する派)が参加する。1945年の労働党政権では、労働党下院議員394人のうち230人がフェビアン協会員だった。革命によらず民主主義によって社会主義に到達しようというイギリスの社会主義は、「民主社会主義」「西欧型社会主義」と呼ばれ共産主義を拒否した。

 フランスやドイツでは、合法的に社会主義を実現しようという思想もあったが、マルクスの「共産党宣言」に基づいて革命により共産主義社会を実現しようという流れが生まれる。しかもロシア革命が成功し、ドイツやフランスに多大な影響を与え、共産主義を容認したドイツ社会民主党、フランス共産党が誕生する。つまり、イギリス労働党は共産主義を否定し、ドイツ社民党は共産主義を容認しているように、社会主義政党は誕生当初から、共産主義を否定した党とそれを容認した党に別れるのである。なお、ドイツ社民党は第2次大戦後の1959(昭和34)年、共産主義と決別する。

日本では明治34(1901)年5月18日、日本初の社会主義政党「社会民主党」が誕生した。またコミンテルン指導のもと、大正11(1922)年7月15日、「日本共産党」は誕生し、コミンテルン日本支部として認められる。共産主義関連の書籍が読まれ、国民や若者の間に共産主義が徐々に浸透していく。そんな中、東大教授河合栄次郎はマルキシズムの危険性を指摘し、警鐘を鳴らすのである。彼は、共産主義について

「国家を階級国家とみるのは、誤謬である」

と、マルクスの国家観の誤りを指摘している。また河合の門下である関嘉彦は

「プロレタリアート独裁国家は、一党独裁が当然の帰結である」

と、共産主義は独裁国家になると指摘している。しかし、近年の共産党批判に関する文献は、「破防法の調査対象団体である」「破壊活動を行った」など外形的な批判にとどまり、河合や関のようにマルクス・レーニン主義、共産主義思想そのものに踏み込んで、思想の誤りを批判しているものはほとんど見かけない。

 

3.「労働者階級」の「階級」とは何か

 なぜ「労働者階級」に「階級」がつくのか。

日本共産党規約(2000年)は、

第1条… 

第2条 日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党であり、…

と、「労働者階級」の政党であることを真っ先に宣言している。自民党は結党時に「わが党は国民政党である」とし、「国内分裂を招く階級政党ではない」と宣言している。共産党は階級政党と呼ばれる。「階級」の由来は何によるのであろうか。それは、マルクス・エンゲルス共著の「共産党宣言(1848年)である。

 「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である。自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、同職組合の親方と職人、要するに、抑圧するものと抑圧されるもの(中略)、けれども現代つまりブルジョアジーの時代は、階級対立を単純にしたという特徴を持っている。社会全体は、敵対する2大陣営に、直接に相対立する2大階級に、すなわちブルジョアジーとプロレタリアートとに、ますます分裂してゆく。」(「共産党宣言」)

 マルクスは、人類の歴史は「階級闘争の歴史」ととらえている。人類の歴史は、2つの「階級」、つまり自由民と奴隷、貴族と平民など「階級闘争の歴史」であるという。そして、現代はブルジョア社会(資本主義社会)であり、ブルジョア(資本家)階級(=ブルジョアジー)とプロレタリア(労働者)階級(=プロレタリアート)の2つの階級が敵対する時代であるという。つまり共産党は、マルクスの「階級闘争史観」に基づき「労働者階級」など階級という言葉を使用しているのである。

 レーニンも「国家と革命」において、

 「階級対立と階級闘争があるところでなければ、国家は存在しない」

 「国家とは、階級対立が解消できない状態にあることの帰結でもあり、反映でもある」

と言うように、マルクスと同じ国家観である。

 現代社会をブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争と見るマルクスの階級史観について、河合栄次郎は、

 「国家を階級国家とするは、特殊の部分を普遍化した誤謬である。国家は全民衆の利益を擁護する機関であり、それが国家の理想であるのみならず、またその理念を現在においても一部実現しつつある。」

と、マルクスの階級史観を「誤謬である」ときっぱり否定している。国家は階級間の闘争ではなく、「国家は全民衆の利益を擁護する機関」であり、それが「国家の理想」であり一部は実現していると述べている。事実、先進国の多くが「福祉国家」を掲げ、年金や医療、介護などの福祉を充実させている。

 共産主義、民主社会主義、社会民主主義の違いについて述べておきたい。

 イギリスの社会主義は、ファシズムと共産主義を排除し民主的に社会主義を実現しようとした「民主社会主義」であった。イギリスの例に習い日本の民社党は、共産主義を排除した社会主義ということから「民主社会党」と名付け、その後「民社党」とした。

 他方、戦前のドイツの社会民主党は、共産主義を取り入れていた。

そのため、前述したように、社会主義は、共産主義を拒否したイギリス型の民主社会主義、共産主義を受け入れたドイツ型の社会民主主義に区分する方法もあったが、戦後、西ドイツ社民党は共産主義を排除した。

 

4.国家死滅論

時折、「地球市民」などという人類愛にあふれたような、それとも国家を否定したような言葉を聞く。そのルーツの1つである「国家死滅論」という独特の考え方をここでは紹介する。

 マルクスは、革命の第1歩は、プロレタリアートが支配階級になる国家つまりプロレタリアート独裁国家を樹立することであるという。それでは、プロレタリア独裁の後、国家はどうなるのか。「共産党宣言」は、次のように記している。

 「本来の意味の政治権力は、他の階級を抑圧するために、1つの階級が組織された強力(ごうりき)である。プロレタリアートは、ブルジョアジーに対する闘争のなかで必然的に階級に結合し、革命によって自ら支配階級となり、支配階級として強力を用いて古い生産関係を廃止するが、彼らはこの古い生産関係とともに、階級対立の、階級一般の存立条件を廃止し、それによってまた階級としての自分自身の支配を廃止する。」

 

 この文章の「強力」は、ドイツ語のGewaltを翻訳したものであり、本来「暴力」と訳されるべきであろう。「組織された強力」は、「組織された暴力」と翻訳すべきである。

 ここでマルクス、エンゲルスの「共産党宣言」は、共産主義社会が2段階になっていることを述べている。第1段階は、一緒に戦った一部ブルジョアも含めすべてのブルジョアを駆逐し、古い生産関係を廃止し、生産財を国有化・共有化したプロレタリア独裁の社会である。第2段階は、プロレタリア独裁も消滅し、階級による支配のない社会である。

 この2段階をレーニンは、「国家と革命」で次のように説明している。

「社会主義と共産主義の科学的な違いは明白である。通常社会主義と呼ばれているものをマルクスは、共産主義社会の「第1」段階または低段階と呼んだ」

 

 レーニンは、共産主義社会には第1段階または低段階の共産主義社会つまり社会主義社会と、高度の共産主義社会があると分類している。さらに、

 「ブルジョア国家からプロレタリア国家への展開は暴力革命抜きでは不可能である(中略)。そしてあらゆるプロレタリア国家の廃絶は、「死滅」という道をたどらない限り不可能である」

と、暴力革命によりプロレタリア独裁国家を築きそして国家死滅という道を目指すべきと説いている。このマルクス・エンゲルスの国家死滅論にならって、2004年の日本共産党綱領は、

「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展を遂げ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則として一切の強制のない、国家権力そのものが不要になる社会、…共同社会への本格的展望が開かれる」

と、共産主義社会が高度な発展を遂げれば、ある階級がある階級を抑圧する必要がないので「国家権力が不必要になる社会」が訪れるという、「国家死滅論」を展開しているのである。

 河合栄次郎は「国家死滅論」に対し、

 「マルクス・エンゲルスの国家論は、国家が何であるかの認識において誤り、さらに強制権力の必要性が社会の実現とともに消滅すると解する点において誤る。」

のように、「国家死滅論」は「誤り」であると断じているが、正鵠を射た指摘である。

 

5.能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受け取る社会

ここでは共産主義社会とはどのような社会かを見てみよう。マルクスの説明をわかりやすく言い直せば、「生まれたばかりの共産主義社会では『労働に応じて報酬を受け取る』ので、労働力という能力の差がつまり個々人の能力差が報酬の差に反映されて不平等になってしまう、しかし高度な共産主義社会では、生産力は飛躍的に高まり社会に富は溢れているので、各人は『必要に応じて報酬を受け取る』ことができる、能力による報酬の差はなく完全な平等社会、結果平等の社会になる」という。つまり小学校の運動会の100メートル走で全員が手をつないで同時にゴールするような社会である。

 レーニンは、マルクスのこの論を「国家と革命」の中で同じ主張を展開している。

「共産主義の第1段階は、『労働に応じて富を分配する』ため不公平が生じるが、高度化した共産主義社会では、国家は死滅し、社会の生産量は豊かになり、人々は『能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受け取る』ことができる完全な平等社会が実現する。『労働に応じて受け取る』から『必要に応じて受け取る』に発展する」

 そして日本共産党綱領(1994)は、

「社会主義社会は共産主義社会の第1段階である。この段階においては、人による人に対する一切の搾取が根絶され、階級による社会の分裂は終わる。社会主義日本では『能力に応じて働き、労働に応じて報酬を受け取る』の原則が実現され、これまでになく高い物質的繁栄と精神的開花、広い人民のための民主主義が保証される。

 共産主義社会の高い段階では、生産力の素晴らしい発展と社会生活の新しい内容が打ち立てられ、社会は、『能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受け取る』状態に到達する。」

 

 このように、共産党の綱領は、マルクス・レーニン主義そのものなのである。

 しかし実際は、世界のどこの国でも高度な共産主義社会は実現されていない。それどころか、ソ連は既に消滅している。

 ちなみにエドマンド・バークは

「国家は、現に生存している者の間の組合たるにとどまらず、現存する者、既に逝った者、はたまた将来性を享受するものの間の組合となる。」

と国家の永続を前提として論を展開している。

 

6.民主集中制

 レーニンは、マルクスの提唱した共産主義という理想を掲げロシア革命を成功に導くが、プロレタリア独裁ではなく、結果として共産党独裁という悲劇に到達してしまう。このように「民主集中制(民主主義的中央集権制)」は共産党独裁になってしまう。これは、民主主義の考え方の相違によるものであると関は説明する。

 関によれば、民主主義の流れには2つあり、イギリス型の多様な意見を認める議会制民主主義と、個人の意思と全体の意思の一致を目ざした全体主義的民主主義である。全体主義的民主主義について関は、以下のように説明するが、マルクス・レーニン主義の民主主義観の誤りを的確に指摘している。

 「社会主義が共産主義になるのに従い、個人の利益は集団の利益と一致し、人民の集団的自治が完成されるから、統治機構としての民主主義=国家そのものも必要でなくなる、と。レーニンはプロレタリア民主主義時代の政党のことを何ら述べていないが、おそらく不必要になると考えたからであろう。

 このような民主主義観は、人民が個別意思を捨てて一般意思すなわち真実の意思を自覚的に体現するようになれば、個と全体との対立が解消し、完全な人民の集団的自治であるデモクラシーが実現する、部分意思の代表である政党も消滅する、他律の必要がないから強制機関の必要もなくなるという、ルソー的なデモクラシー観を引き継いだロベスピエールやバブーフ以来の社会主義者の思想であるが、それがマルクスおよびレーニンの国家死滅説を裏付ける民主主義観の中心をなしている。しかしそれは、複数の意思の存在を前提として、多数の意思の支配とその代償としての少数者の権利尊重という、ジョン・ロック流の自由民主主義観と異質なものであることは言うまでもない。」

 

 つまり、一般的に民主主義は、英国の議会制民主主義のように多様な意見を容認した民主主義である。ところが共産主義における民主主義は、個人と国家全体の意思が一致するような意思、すなわちルソーの唱える「一般意思」を引き継いでいるので、部分意思の代表である政党は不要となる。つまり全体主義国家となってしまう。この関のマルクス主義批判は、マルクス主義における民主主義の誤謬の核心をついている。

 ユン・チアンの「マオ」によれば、中国共産党の毛沢東は7000万人の国民、ソ連共産党のスターリンは2000万人もの国民を虐殺・粛清したという。フランスの革命家バブーフは、ロベスピエールが「恐怖なき徳は無力である」と述べ、反対派の粛清を行っていることに対し、

 「『ロベスピエールらの独裁政治は非常によく考え抜かれたものであり』、エーベルトらが仮に無実の罪で殺されたとしても、彼らを粛清したことは正しい。『ロベスピエール主義こそデモクラシーであり(後略)』」

 と、ロベスピエールの粛清は民主主義であると言っている。このロベスピエールの独裁政治の理論的拠りどころとなったのが、ジャン=ジャック・ルソーの「一般意思」である。そのためロべスピエールは「ルソーの血塗られた手」とも呼ばれる。

 

7.日本共産党綱領の歴史的変遷――コミンテルン日本支部としてつくられた日本共産党

党の基本的考え方を的確に表している文書が綱領である。綱領を見れば、その党がどのような党であるかが分かる。自民党は、「綱領はいわば政党の憲法」と記している。共産党前中央委員会議長の不破哲三は、「第一に、綱領は、私たちの党及び党員が活動する場合、その方針の根本をなすものです。第二の、もう一つの側面というのは、国民の前に公然と掲げている「党の旗」だということです。」と述べている。

  日本共産党は、大正6(1917)年のロシア革命から5年後の大正11(1922)年7月15日、創立された。「日本共産党の60年」によれば、

  「党の創立大会は東京・渋谷の一民家で開かれ、暫定規約を採択し、党の中央執行委員会を選出し、全員一致でコミンテルンへの加盟を決議した」と記している。

  その年の11月、コミンテルン第4回大会において日本は、正式にコミンテルンの日本支部として認められる。前にも触れたが、コミンテルンはロシア革命の後、1919年3月、レーニンの指導の下に科学的社会主義を指導理論とし、民主主義的中央集権制にもとづく国際組織としてつくられた。1943年にスターリンが独ソ戦の激戦に対応するためコミンテルンを解散するまで、各国の共産党はコミンテルンの支部として活動する。

  日本共産党綱領草案は、コミンテルンに片山潜が参加し、大正11(1922)年6月に起草された。この年にコミンテルンの呼びかけで開かれた極東諸民族大会には徳田球一、高瀬清らが参加し、病床のレーニンと会見している。

「日本共産党の80年」によれば、

「昭和2(1927)年7月、日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して、『日本問題に関する決議(27年テーゼ)』をつくりました」

 とあるように「27年テーゼ」もコミンテルンのもとで作られている。

  独立した国なら主権はその国にあり、政党は当然その国の国民によってつくられるが、共産党の特異な点は、科学的社会主義を掲げていることだけでなく、コミンテルンの日本支部としてつくられたこと、党の綱領もコミンテルンで承認された内容になっていること、などである。

  共産党綱領は、大正11(1922)年の結党から昭和26(1951)年綱領までソ連の影響を強く受け、1961(昭和36)年綱領もモスクワ声明の影響を受けている。

  1951(昭和26)年綱領は、徳田球一、野坂参三たちがモスクワに呼ばれ、つくられる。その時の綱領は、スターリン自ら手を入れ、

「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」

 と、平和的に革命を達成しようというのは誤りであると、いわゆる暴力革命を掲げている。この51年綱領は、昭和33(1958)年の第7回党大会で共産党が正式に採択した綱領でないとして、「廃止」を決定する。廃止の理由として、徳田球一たちの分派的な組織と術策で作られた綱領であること、極左冒険主義であること、スターリンの不当な干渉があったことなどが挙げられている。

宮本顕治は「日本革命の展望」において、

  「6.6弾圧をきっかけに党中央委員会の解体、党の分裂という事態が表面化、そのような事態によって綱領問題の全党的な正しい検討と討議は妨げられた。いわゆる『1951年綱領』は、このような党の分裂状態が正しく解決されない時期に作られた」

と述べている。6.6弾圧とは、朝鮮戦争の始まった年の昭和25(1950)年5月3日、マッカーサーが共産党の非合法化を示唆し、6月6日には徳田球一ほか共産党中央委員24名、加えて機関誌「アカハタ」の幹部を公職追放した事件である。同時に宮本は、51年綱領が「日本の解放の民主的変革を、平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違い」と記していることに対し、「どういう手段で革命が達成できるかは最後的には敵の出方によって決まることである」と、暴力革命不可避論を否定し、有名な「敵の出方論」を展開している。

  平成28年3月14日衆議院議員の鈴木貴子は、日本共産党と破壊活動防止法に関する質問主意書を政府に提出し、共産党は破防法の調査団体かどうか確認を求めた。これに対し政府は、

「日本共産党は、現在においても、破壊活動防止法に基づく調査団体である」

「いわゆる敵の出方論に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」

「日本共産党が、昭和20年8月15日以降、日本国内において暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識している」

という答弁書を3月22日、閣議決定した。政府は、共産党は破防法の調査対象団体である、「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はない、暴力主義的破壊活動を行った疑いがある、と断じている。この答弁書に対し、当時共産党書記局長の山下芳生は、

「公安調査庁は36年間調査したが、破防法の適用申請を一回も出していない」

「憲法上の結社の自由に対する不当な侵害だ。改めて厳重に抗議し、答弁書の撤回を求めたい」

と政府答弁書の撤回を要求している。しかし例えば1945年綱領は、

「日本共産党は、天皇制権力の犯罪的帝国主義戦争に対して過去24年間にわたり全面的に抗争」

と、共産党は1922年の結党以来、天皇制の日本と抗争してきたと記している。

立花隆も「日本共産党の研究」で、「日ソ戦が起きたら、日本が敗北しソ連が勝つように全力をつくし」、そのため「赤軍に協力し、国内で赤軍の攻勢に呼応して内乱を起こし」と述べる。マッカーサーは、「公然と侵略の手先」となって活動していると共産党を厳しく糾弾している。事実、当時の新聞を見ると、朝鮮戦争が勃発する中、共産党の武装闘争の記事が多数掲載されている。

 

8.天皇制の打倒、民主共和制の実現

ここでは、皇室いわゆる天皇制についてみていく。

まず2004年綱領を紹介し、その後、1922年綱領草案から皇室に関する記述がどのように変化したか綱領の歴史的変遷を辿る。

 「当時の日本は、独占資本主義になってはいたが、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)が敷かれ、反封建的地主制度が支配していた。…党は、日本国民を無権利状態においてきた天皇制の専制支配を倒し、主権在民、個人の自由と人権を勝ち取るために戦った。」

(2004年綱領)

 戦前の日本は「絶対主義的天皇制」のもとで半封建的地主制度が支配し、日本国民は無権利状態にあり、そのため共産党は天皇制打倒のため闘った、という。マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」では、

「ブルジョアジーは、支配権を握ったところではどこでも、封建的、家父長的、牧歌的な諸関係を、すべて破壊した」

と述べるように、ブルジョア社会、資本主義社会以前の社会は封建制社会と見る。そのため共産党は、天皇制を「封建制」ととらえ、天皇制を倒すと記している。

 続いて2004年綱領は、天皇制について以下のように記述している。

 「天皇制条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用を始め、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。

 党は、一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現を図るべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」(2004年綱領)

 

 2004年綱領は、天皇制はまず「憲法の精神から逸脱した」状態を是正すべきと述べている。天皇制は、民主主義、人間平等の原則と両立しないので、「民主共和制」を実現すべきと主張する。天皇制の存廃は、情勢が熟したら国民の総意で決めると述べているが、共和制と立憲君主制は両立しないので、天皇制は廃止の方向と言える。

 ここで共産党綱領の天皇制に関する記述を年代順に列記する。天皇制については、一貫して廃止を主張しているのでわかりやすい。

 

「天皇の政府の転覆と君主制の廃止というスローガンを採用し、また普通選挙権の実施を要求して戦わなければならない。」(22年綱領草案)

「プロレタリア独裁へは、ただブルジョア民主主義革命の道によってのみ、すなわち天皇制の転覆、地主の収奪、プロレタリア―トと農民の独裁の樹立の道のみによって、到達し得るということを明瞭に理解せねばならぬ。」(32年テーゼ)

「天皇制の打倒、人民共和政府の樹立。」(45年行動綱領)

「天皇制の廃止と民主共和国の樹立。(中略)国家の首長は、国民によって自由に選挙され、4年おきに改選される大統領でなければならない。寄生地主、皇室、および、他の大きな土地の所有者これらすべての土地を没収して、農民にただで分け与える。」(51年文書)

「ポツダム宣言の完全実施と民主主義的変革を徹底的に成し遂げることを主張し、天皇制の廃止、軍国主義の一層、国の人民的復興のために、労働者階級を中心とする民主勢力の先頭に立って戦ってきた。君主制を廃し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国を作り、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」(61年綱領)

「日本共産党は、ポツダム宣言の完全実施と民主主義的変革を徹底して成し遂げることを主張し、天皇制の廃止、軍国主義の一掃、国民の立場にたった国の復興のために、民主勢力の先頭に立ってたたかった。君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革し、民主共和国をつくる」

(94年綱領)

 

以上のように、戦前戦後共に共産党はマルクスの「共産党宣言」にならい天皇制は人民を搾取する封建制と見なしている。そのため一貫して天皇制の打倒、天皇制の廃止を掲げ、天皇制に変わり共和国を作ることを主張している。なお、51年文書は、「大統領制」の導入を提案している。

 不破哲三の「日本共産党綱領を読む」によれば、

「民主主義の徹底のためには天皇制はない方がいいし、それがあることが、戦前型の反動政治への揺り戻しを狙うさまざまな動きを引き起こすものにもなります(君が代・日の丸の国家・国旗化も、そういう流れに属する企ての1つでした)。そして、私たちは、将来の日本では、国民の選択が必ずこの方向に向かうだろうということを、確信しています」

 と、あくまで天皇制を否定し、国民も天皇制廃止に向かうと確信していると述べている。同様に志位委員長も天皇制について、2012年1月10日、共産党本部で開催された「綱領教室」で、

「日本の将来の発展の方向としては、天皇の制度のない、民主共和制を目標とする」

と、天皇制をなくし「民主共和制」を目標にすると述べている。

 2004年綱領では天皇制について国民に問うと述べているが、これらの発言から天皇制の存続ではなく、廃止に受けて国民に問う方向性と言えよう。

 前章でも触れたが、マルクス・エンゲルスは「共産党宣言」で、

 「法律、道徳、宗教は、ブルジョア的な偏見に他ならない」

と道徳、宗教など人間の品位、高貴な振る舞いなどをブルジョアジーの「偏見」と切って捨てている。同様にエンゲルスは、『すべてのこれまでの道徳理論は結局はそのときどきの社会の経済状態の所産である』とも述べている。

 共産主義がその国の道徳や宗教などをブルジョアジーの偏見と見なし、破壊してしまうことに対して小泉信三は、以下のように批判する。

 「西ヨオロッパが幾100年の間に築き上げた、個人の品位と信義の尊重が、いかにカアテンの彼方で無視せられているかを察せしめるのである。単にこれをブルジョワ文化などと評して軽視するごときは思わざるもはなはだしい。それは実に文明の精髄そのものと称してもよい。」

 

 小泉は、その国の個人の品位や信義はブルジョア的な偏見ではなく、幾100年にもわたって築き上げた「文明の精髄」であると賛美し、逆に共産主義はそれを破壊していると批判する。

 エドマンド・バークは「フランス革命の省察」の中で、

   「あたかも列聖された先祖の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、我々の自由は一種高貴な自由となります」

と記している。バークの「高貴な自由」と小泉の「文明の精髄」は同趣旨であろう。自民党は昭和35(1960)年1月の党大会において「保守主義の政治哲学要綱」を決定し、その中で、

 「保守主義の精神は、良き伝統と秩序は、これを保持し、悪を除去するに積極的であり、かつ、伝統の上に創造を、秩序の中に進歩を達成するにある」

と、良き伝統と秩序は継承すべきと述べている。皇室を廃止し伝統や歴史を断ち切ってしまったら、その時の自由は高貴な自由でなく、放縦の自由、行き過ぎた個人主義に堕する危険があろう。

 

参考文献・資料

「日本共産党の戦後秘史」 兵本達吉著 新潮社

「共産主義の誤謬 保守政党人からの警鐘」 福富健一著 中央公論新社

「大須事件」ウィキペディアより